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コジキジゲン

御息所→音即字与

2013-07-30 22:38:07 | 古事記字源
 TVの電源そのものが点かない・・・「東芝製品」・・・2003年の大型液晶デジタル・約30キログラムの重量、2010年頃、名古屋の中古販売店買ったものだけれど、寿命か・・・去年はDELのデスクトップ・コンピュータが電源が点けども起動しなくなった。これも中古で友人に頼んで買ってもらったモノ・・・夜中からTVの中を覗いてみようと裏のネジで留められているプラスチック版を外してみることにした・・・ネジが何本あるんだか・・・ガッチリ〆られていた
 ・・・多分、「ヒューズ」が切れたと思うのだが・・・白い色の「ヒューズ」らしきものが左の基盤の下あるのだが・・・切れて機能不能なんだか、どうかはわからない・・・兎に角、その「ヒューズ」が手に入るのか、どうか・・・TVを新たに購入するか、それとも新品のTVも見れるコンピュータを買うか・・・資金切れ・・・名古屋の大洲商店街には中古屋さんが沢山あって貧乏人のボクにとってはそのレベルの購買力で生活できたが、ここは「新品」を揃えるしかない・・・大洲の「サノヤ」の「250円弁当」、まだあるのかな・・・

ーーーーー

 枕草子

 (九四段)・・・九十四段・九拾四・玖足肆

         9+4=13=十三=壱拾参=足参

         9×4=36=三十六=参拾六=参足陸



 宮の・・・視や之→旧・球・九・級・笈・灸・窮

 五節・・・語節・五説・誤説・呉説

 出させ

 給ふ

 に、・・・似・爾・邇・丹・尼・荷

 かし・・・可視・歌詞・化詞・掛史

 づき・・・事記

 十二人、・壱拾弐訊→位置を拾う爾、訊ねよ

 他所・・・太所・多所・多ドコロ・多度拠賂

 には・・・似葉

 御息所・・音即初(諸・書)

      御・み・オン・音

      息所・やすどころ

         いきところ・

         行処・意気処呼賂

 の・・・・之・埜

 人・・・・比賭・訊

 出す

 をば・・・嗚場・緒葉・尾葉

 わろき・・話賂記

 事・・・・字

 に・・・・爾

 ぞ・・・・素・曾・措・蘇

 すると

 聞く

 に、

 いかに・・異化爾

 おぼすか、

 宮の

 女房を・・序望・助旁

 十人・・・足訊

 出させ

 給ふ。

 今・・・・意真

 二人は・・爾訊葉

 女院、・・音名因

 淑景舎の・詞喩句形写

 人、・・・訊

 やがて

 姉妹・・・終い・仕舞・詞毎

 なり・・・名理

 けり。・・化理

 辰の・・・たつ・断つ・絶つ・立つ・経つ・建つ

      龍・リュウ・劉・流・瑠・笠・柳・隆

      理由 

 日の・・・比之(廼・埜・乃・能)

 青摺の・・「青刷り」之→版画本

      「セイショウ→清書有」之

      「ショウロウ→鐘楼」之

 唐衣、・・当為・当意・等位・東夷

 汗袗を・・汗衫(かざみ・カンセン・カンサン)は

         風見 ・官撰  ・巻纂・換算

      汗(カン)とりの肌着(キチャク)

      あせ=亜施   はだぎ=葉拿義    

      後、下級者の表衣

      更に公家の童女の正装

      本来の汗衫と、公家童女の汗衫とは、

      形状が異るが

      単(ひとえ・一重)モノ

 著せ・・・著(いちじるしい・あらわす・チョ)施

 給

 へり。

 女房に

 だに

 かねて

 さしも

 知らせず、

 殿上

 人

 には

 まして

 いみじう・・・意味字得

 隱して、

 みな

 裝束・・・・・消息・証続・小賊

 したちて、

 暗う

 なり

 たる

 ほどに

 持て

 來て

 著す。

 赤紐・・・あかひも・セキチュウ→籍中

      亜掛比摸(母・喪)

 いみじう・意味字有

 結び

 下げて、

 いみじく・意味字句

 やう

 した

 る

 白き

 衣に、

 樫木の

 かた

 繪に

 かき

 たる、

 織物の

 唐衣の

 うへに

 著

 たるは、

 誠に

 めづら

 しき

 中に、

 童は

 今

 少し

 なまめき

 たり。

 下づかへ

 まで

 つづき

 立ち

 いで

 ぬるに、

 上達部、・・・巻立部・官建部・官断部

 殿上人

 驚き

 興じて、

 小忌の・・・小忌衣(おみごろも)

       神事に使用される上衣

       新嘗祭、大嘗祭と、

       六月十二月の神今食に着用

       神今食

       「じんこんじき」→訊今字記

       「じんこじき」→訊古事記

       「かむいまけ」→掛務意真化

         ↓

       「シンコジキ」→新古事記?

       「シンコンジキ」→新婚時期→蜜月?

        新込(混)字記(時期)

        新 金 色(夜叉)?

       神今食は

       月次祭の夜に天皇が

       中和院内の神嘉殿(しんかでん)に

       神を迎えて酒饌をともに食する神事

 女房と

 つけたり。

 小忌の

 公達は、

 外に

 居て

 物いひ

 などす。

 五節の

 局を

 皆

 こぼち

 すかして、

 いと

 怪しくて

 あら

 する、

 いと

 異樣

 なり。

 「その

  夜までは

  猶

  うるはしく

  こそ

  あらめ」

 と

 の給はせて、

 さも

 惑はさず、

 几帳どもの

 ほころび

 ゆひつつ、

 こぼれ

 出で

 たり。

 小兵衞と

 いふが

 赤紐の

 解けたるを、

 「これを

  結ば

  ばや」

 と

 い

 へば、

 實方の

 中將、

 より

 つくろふに、

 ただ

 ならず。

 あしびきの

 山井の水は

 こほれるを

 いかなる

 紐の

 とく

 る

 な

 らん

 と

 いひかく。

 年

 わかき

 人の、

 さる

 顯證の

 程

 なれば、

 いひにく

 き

 にや

 あらん、

 返し

 もせず。

 その

 かたはら

 なる

 おとな

 人達も、

 打ち

 捨てつつ、

 とも

 かくも

 いはぬを、

 宮司

 などは

 耳

 とどめて

 聽き

 ける

 に、

 久しく

 なりに

 けるかた

 はら

 いたさに、

 こと

 かたより

 入りて、

 女房の

 許に

 よりて、

 「など

  かうは

  おはする」

 など

 ぞ

 ささめく

 なるに、

 四人

 ばかりを

 隔てて

 居たれば、

 よく

 思ひ

 得た

 らんに

 も

 いひにくし。

 まして

 歌よむと

 知り

 たらん

 人の、

 おぼろげ

 ならざらんは、

 いかでかと、

 つつましき

 こそは

 わろけれ。

 「よむ

  人は

  さや

  は

  ある。

  いと

  めでた

  からねど、

  ねたう

  こそ

  は

  いへ」

 と

 爪はじきを

 して

 ありく

 も、

 いと

 をかし

 けれ

 ば、

 うす氷

 あはにむすべる紐なれば

 かざす日

 かげに

 ゆるぶ

 ばかりぞ

 と

 辨の

 おもとと

 いふに

 傳へさすれば、

 きえいり

 つつ

 えも

 いひやらず。

 「など

  かな

  どか」

 と

 耳を

 傾けて

 問ふに、

 少し

 こと

 どもり

 する人の、

 いみじう

 つくろひ、

 めでたしと

 聞か

 せんと

 思ひ

 ければ、

 えも

 言ひ

 つづけず

 なり

 ぬる

 こそ、

 なかなか

 恥かく

 す

心地して



かり

しか。

 おり

のぼる

おくり

など

に、

なやましと

いひ

入れ

ぬる

人をも、

の給はせ

しか

ば、

ある

かぎり

群れ

立ちて、

こと

にも

似ず、

あまり

こそ

うる

さげ

なめれ。

舞姫は、

すけまさの

馬頭の

女、

染殿の

式部卿の

宮の

御弟の

四の君の

御はら、

十二

にて

いと

をかしげ

なり。

 はての

 夜も、

 おひ

 かづき

 いくも

 さわがず。

 やがて

 仁壽殿より

 とほりて、

 清涼殿の

 前の

 東の

 すのこ

 より

 舞姫を

 さきにて、

 うへの

 御局へ

 參り

 し

 ほど、

 をかし

 かり

 き。

ーーーーー

 ・・・

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なまめかしきもの→キクイモもどき・オヤマ

2013-07-30 06:25:25 | 古事記字源
 今現在、庭で咲き誇っているのは「菊芋擬(きくいももどき)と云う「花」であるらしい。兎に角、背丈が2メートル以上のモノもある。茎も太い。ブログ記事「季節の花300」を調べたら「菊芋(Jerusalem artichoke)」そのものは「Helianthus(ヘリアンサス)」と言う名前が学名らしいのだが、ギリシャ語の「helios(太陽)+anthos(花)」が語源で「太陽の花」の意味であるらしい・・・別名は「犬菊芋(いぬきくいも)」、「唐薯(からいも)」、「八升芋(はっしょういも)」であるらしく、その「菊芋」の「もどき(擬)」である。「菊芋もどき」の「花弁」自体は「12枚」で「向日葵(ひまわり)」のような「濃密・重厚」さはない。むしろ可憐だが、ケラけら笑う中高生のような乙女・・・だが、記事の説明に「ヒマワリ属・tuberosus(塊茎のある、塊茎状の)・strumosus(はれたような、ふくらみのある」、と、あった・・・これって「なまめかしき部分」・・・
 「菊芋もどき」・・・なまめかしきもの?・・・艶かしい・艶めかしい・・・ナマメかしイ・・・艶(つや)っぽい・・・濃艶(ノウエン)である・・・色(いろ)っぽい・・・エロっぽい・・・歌舞伎役者の「女形(おやま)」の「演技」、「旦=女形」の「仕草・仕種」・・・

 元旦の「旦」がナゼ「女形(おやま)」なのか?・・・以前にも書き込んだが、元旦の「元」は「はじめ」の意味。「旦」は「日」が「太陽」、その下の横棒が「地平線」で、 地平線から太陽が現れることを示し、「日の出」や「朝」の意味をもつ・・・女性には経験がない「朝起ち」のコトだろう。「元旦」、一年の最初の朝、元日の朝を意味する。「元日(一月一日)」の意味で「元旦」を使うのは 誤り・・・「旦」は「朝・夜明け」の意・・・「檀」の略字・・・「震旦」・・・

ーー↓旦

 ・・・「しんたん(震旦・振旦・真旦)

 古くは「しんだん」、古代中国の異称

 古代インド人が、

 中国を

 チーナ‐スターナ(梵Cīnasthāna、秦の土地の意)と呼んだのに由来

 インドから仏教が

 隋に伝来した当時、

 経典の中にある

 梵語「チーナ・スターナ"China staana"」を

 当時の

 訳経僧が

 「支那」と漢字で音写したことによる

 「支那」のほか、「震旦」・「真丹」・「振丹」・「至那」・「脂那」・「支英」等がある・・・「心胆」を寒からしめる、サムかさしめる・・・って、熟語もある・・・「心から恐れおののかせる事件」、「身の毛もよだつ事件」・・・多いね、「内外」ともに・・・だが、日常茶番である・・・

ーー↓旦

 ギリシアでは紀元前後から

 中国をシナ(Θηνα)とよぶ

 これは秦(シン)に由来

 ポルトガルでは大航海時代から

 「China」とよぶ

 発音は「シーナ」である

 ギリシャ、ラテン圏では

 国名、地域名は

 女性形になることが多く、

 秦の国名はシーナとなる・・・椎名?・・・

ーー↓旦

 日本は

 1876年(明治九年)以降、

 清国内に

 日本の

 郵便網を整備し郵便局(在中国郵便局)を設置

 欧米列強と

 同様に・・・・コレって「日本」に懸かるの?

        それとも「欧米列強=清国」?

 清国内で

 近代的郵便制度が

 未整備で

 十九世紀末に

 清国政府による

 大清郵政が創業してからも存続

 当初は日本国内と同様に日本切手を現地通貨で販売

 価値の低い

 清国通貨で購入した切手を

 日本本土に送る

 投機が行われるようになった

 1900年(明治三十三年)以降は

 日本国内で使えなくするため

 加刷切手に切り替えた

 この時の

 加刷切手に地域名として

 「支那」を用いていた

 欧米列強が中国で発行した切手が

 国号の

 「Ch'ing」ではなく

 「China(英米)」を

 用いたのと同様であった

 日本では

 「支那」は

 「国家名」ではなく

 「地域名」として用いられていた

 ・・・それにしても「儲け」を考える人間は「商人」の宿命である・・・「差額=交換価値=使用価値」・・・「証券会社」は「カミの上の数字」で儲けているんだから・・・「ナニが新資本主義」なんだか・・・バカモノぞろい、勉強不足の「新資本主義論客」・・・「えんゲル係数」が出てこない「ワカモノ」達でした・・・ゴメン・・・

ーー↓旦

 「はたんきょう(巴旦杏)」

 スモモの一品種

 果実は大きい

 熟すと

 赤い表皮に白粉を帯びて,甘い

 食用

ーー↓

 アーモンド(扁桃)の別名

ーー↓旦

 「ぼん‐たん(文旦)」

 「ぶんたん」の音変化

 「ザボン」の別名

 「ぶん‐たん(文旦)」

 文芸雑誌。

 明治四十四年(1911)十一月

   ~

 大正二年(1913)五月まで

 十九冊刊

 北原白秋編集

 後期浪漫派の活躍の場

 大正七年一月発刊の

 改題誌「ザムボア」は同年九月廃刊

ーー↓旦

 ザンボア

 (ポルトガル、葡萄牙語のzamboa)

 ザボン

 「朱欒」と書く

 ミカン(蜜柑・橘=キツ)科の

 常緑小高木

 初夏、大形の白花をつけ、

 冬に大きな実が黄色に熟す

 果皮は厚く、

 生食や砂糖漬けにする

 インドシナ地方の原産

 文旦(ぶんたん)=ザンボア

ーーーーー

 枕草子

 (九三段)・・・九十三段・九拾参段・玖足参段

         9+3=12=十二=壱拾弐=足仁

         9×3=27=二十七=弐足漆=念漆

 なま

 めか

 しき

 もの

 ほそやかに

 清げなる

 公達の

 直衣すがた。

 をかしげなる

 童女の、

 うへの

 袴など、

 わざとには

 あらで、

 ほころび

 がち

 なる

 汗袗

 ばかり

 著て、

 藥玉

 など

 長く

 つけて、

 高欄の

 もとに、

 扇さし

 かくして

 居たる。

 若き人の

 をかしげなる、

 夏の

 几帳の

 したうち

 懸けて、

 しろき綾、

 二藍

 ひき重ねて、

 手ならひ

 し

 たる。

 薄樣の

 草紙、

 村濃の

 糸して

 をかしく

 とぢたる。

 柳の

 萌えたるに

 青き

 薄樣に

 書きたる

 文つけたる。

 鬚籠の

 をかしう

 染めたる、

 五葉の

 枝に

 つけたる。

 三重がさねの

 扇。

 五重は

 あまり

 厚くなりて、

 もとなど

 にくげ

 なり。

 能くしたる

 檜破子。

 白き

 組の

 ほそき。

 新し

 くも

 なくて、

 いたく

 ふりても

 なき

 檜皮屋に、

 菖蒲

 うるはしく

 葺き

 わたし

 たる。

 青やかなる

 御簾の

 下より、

 朽木形の

 あざやかに、

 紐

 いと

 つややか

 にて、

 かかりたる

 紐の

 吹き

 なびかされ

 たる

 も

 をかし。

 夏の

 帽額の

 あざやか

 なる、

 簾の

 外の

 高欄の

 わたりに、

 いと

 をかしげなる

 猫の、

 赤き

 首綱に

 白き札

 つきて、

 碇の

 緒

 くひ

 つきて

 引き

 ありく

 も

 なま

 めい

 たり。

 五月の

 節の

 あやめの

 藏人、

 菖蒲の

 かづらの、

 赤紐の

 色には

 あらぬを、

 領巾裙帶

 などして、

 藥玉を

 皇子たち

 上達部

 などの

 立ち

 竝み

 給へるに

 奉るも、

 いみじう

 なま

 めかし。

 取りて

 腰に

 ひきつけて、

 舞踏し

 拜し

 給ふも

 いとをかし。

 火取の童。

 小忌の

 公達も

 いとなまめかし。

 六位の

 青色の

 とのゐ

 すがた。

 臨時の

 祭の

 舞人。

 五節の

 童

 なま

 め

 かし。

ーーーーー

 ・・・

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なまこ(海鼠・海参)・くらげ(水母・海月)

2013-07-29 11:41:37 | 古事記字源
 陰暦の「七月」とは「文月」で、「文暴月」で、「夷則」・・・
 本日は28日・日曜日・・・ミニトマト3個・・・出不精の1日だけれど、心臓に悪い日だったッナ・・・
 過去は渡来した同属、同胞なのに・・・「未来は名遺」である・・・「柿谷 曜一朗(1990年1月3日)君の2発」、兎に角、激戦の韓国戦での「蹴球」は勝った・・・
 「めでたきもの(Ave・アベ←ラテン語)」って、
 「発芽(germinater・sproute)」、
 「出来ちゃった(baby bump・Shotgun Marriage・blew)子」、
 「出目金(popeyed goldfish )=金魚の種」、
 「デガメロン(Decameron・deka hemerai)=ペスト(黒死病)罹患者の十日の物語」、
 「デルタ( Delta・Δ・δ)=出流汰」、
 「出戻り(divorcing)=帰の漢字の意味」、
 「出鱈目(utterance・nonsense・bullshit・codswallop・random )=出多等目」、
 「木偶(puppet)=でく・くぐつ・あやつり・カイライ→傀儡・界雷」、
 「デマゴキー(demagogy・Demagogie)風評・風説・煽動・扇動・羨道→仙道・船頭・先導→撰等・先頭・潜等・尖塔・尖島」・・・
 「顫動(センドウ)→わななく(戦慄く)・小刻みに振るえ動くこと・巻き舌で発音するラ行の子音・微細な振動音」・・・
 「宣等」、
 「出産(birth delivery・be born・existence・produce; yield)」は「愛でたい(アイ・ゥオンナ・ラブ・ユウ)・(too good‐ natured [simple]・happily in the dark・silly・stupid)」・・・
 「マナコ・眼(eyeball)」・・・?
 オメデタイヤツ・・・
 「蝦(海老・エビ)で鯛を釣る」・・・

 重(エ)、

 備(ビ・備後→紊語・備中→紊註・備前→紊膳=吉備→黍→機尾→紀毘→記毘)、

 出(で)、

 他意(タイ・替・対・太・待・侍・多異)、

 尾(を・尾張)、

 通留(つる)、

 八(やつ・捌)

 ・・・まなこ≠なまこ・・・

 「なまこ(海鼠・海参(ハイシェン)・a trepanga sea cucumber・ slug=ナメクジ・怠け者・のろのろした動物・重い小型の粗金・鉛玉の弾丸・代用の偽硬貨(専用コイン・偽のダイム=dime=10 セント硬貨・白銅貨・a dime→びた一文も稼げなかった→I didn't earn a dime)」・・・
 「水母(海月・クラゲ)」の「公→功・項・考・請・光(ひかり)定子)」にして「補職(ホショク・捕食・補色)」する「大王烏賊(だいおういか・対応異化・滞欧医家)」・・・
 ・・・「清改行(深海魚)」・・・何でそんな「クラいトコロ」に棲んでいるのか・・・色々な「事情(自浄・自乗・二乗・字定・治定)作用」があるんだろう・・・「乞字記」・・・清書・・・
ーーーーー

 枕草子

 (九二段)・・・九十二段・九拾弐段・玖足仁段

         9+2=11=十一=壱拾壱=足拾

         9×2=18=十八=壱拾捌=足捌

 めで

 たき

 もの

 唐錦。

 錺太刀。

 作佛の

 もく。

 色あひ

 よく

 花房

 長く

 さきたる

 藤の、

 松に

 かかり

 たる。

 六位の

 藏人

 こそ

 なほ

 めで

 たけれ。

 いみじき

 公達

 なれ

 ども、

 えしも

 著

 給はぬ

 綾織物を、

 心に

 まかせて

 著たる

 青色

 すがたなど、

 いと

 めで

 たき

 なり。

 所衆

 雜色、

 ただの

 人の

 子ども

 など

 にて、

 殿原の

 四位

 五位

 六位

 も、

 官位

 あるが

 下に

 うち居て、

 何と

 見えざりしも、

 藏人に

 なりぬれば、

 えも

 いはず

 ぞ

 あさましく

 めでたきや。

 宣旨

 など

 もて

 まゐり、

 大饗の

 甘栗

 使

 などに

 參り

 たるを、

 もてなし

 饗應し

 給ふ

 さまは、

 いづこ

 なり

 し

 天降

 人

 ならん

 と

 こそ

 覺ゆれ。

 御むすめの女御后におはします。まだ姫君など聞ゆるも、御使にてまゐりたるに、御文とり入るるよりうちはじめ、しとねさし出づる袖口など、明暮見しものともおぼえず。下襲の裾ひきちらして、衞府なるは今すこしをかしう見ゆ。みづから盃さしなどしたまふを、わが心にも覺ゆらん。いみじうかしこまり、べちに居し家の公達をも、けしきばかりこそかしこまりたれ、同じやうにうちつれありく。

 うへの

 近く

 つかはせ

 給ふ樣

 など

 見るは、

 ね

 たく

 さへ

 こそ

 覺ゆれ。

 御文かかせ給へば、御硯の墨すり、御團扇などまゐり給へば、われつかふまつるに、三年四年ばかりのほどを、

 なりあしく

 物の色

 よろしうて

 まじろはん

 は、

 いふかひなきものなり。かうぶり得ておりんこと近くならんだに、

 命よりは

 まさりて

 惜しかるべき

 事を、

 その

 御

 たまはり

 など

 申して

 惑ひける

 こそ、

 いと

 口をしけれ。

 昔の

 藏人は、

 今年の春より

 こそ

 泣き

 たち

 けれ。

 今の世には、はしりくらべをなんする。

 博士の

 ざえあるは、

 いとめでたしといふも愚なり。顏もいとにくげに、下臈なれども、世にやんごとなき者に思はれ、かしこき御前に近づきまゐり、さるべき事など問はせ給ふ御文の師にて侍ふは、めでたくこそおぼゆれ。願文も、さるべきものの序作り出して譽めらるる、いとめでたし。

 法師の

 ざえある、

 すべていふべきにあらず持經者の一人して讀むよりも、數多が中にて、時など定りたる御讀經などぞ、なほいとめでたきや。くらうなりて

 「いづら

  御

  讀經

  あぶら

  おそし」

 などいひて、

 讀みやみたる程、忍びやかにつづけ居たるよ。后の晝の行啓。御うぶや。みやはじめの作法。獅子、狛犬、大床子などもてまゐりて、御帳の前にしつらひすゑ、内膳、御竃わたしたてまつりなどしたる。姫君など聞えしただ人とこそつゆ見えさせ給はね。一の人の御ありき。春日まうで。

 葡萄染の

 織物。

 すべて紫なるは、なにもなにもめでたくこそあれ、花も、糸も、紙も。紫の花の中には杜若ぞ少しにくき。色はめでたし。

 六位の

 宿直

 すがたの

 をかしきにも、

 紫のゆゑなめり。

 ひろき庭に雪のふりしきたる。

 今上

 一の宮、

 まだ

 童にて

 おはしますが、御叔父の上達部などの、わかやかに清げなるに抱かれさせ給ひて、殿上人など召しつかひ、御馬引かせて御覽じ遊ばせ給へる、

 思ふ

 事

 おはせじと

 おぼゆる。

ーーーーー

 ・・・

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壱拾壱解通足伍比→日蒲鉾之比

2013-07-28 14:52:47 | 古事記字源

 「七人の会議」・・・「折れたネジクギ」・・・「ねじ=螺旋(ラセン)・螺子(ラシ)・捩子(レイシ・レツシ)・捻子(ジュウシ・ニョウシ)」・・・「螺旋(になめぐり)・螺子(になこ・になね)・捩子(ねじるこ・ねじりこ)・捻子(ジュウシ・ニョウシ・よじるこ・よじこ)」・・・「夢中になっている時が一番、危ない」・・・「一生懸-命」、「一所-懸命」とは「夢中・集中」なのか?・・・「だましゑ歌麿」・・・「漆(七・うるし)認(忍・ジン=訊・壬・仁・ひと=比渡)」の「快技・懐疑・掛意義・改義・甲斐疑・魁戯(華魁・花魁の伎)・蝦夷(毛人)戯・貝戯・歌意疑」・・・
ーー
 「喜多川 歌麿」
 宝暦三年〈1753年頃?
   ~
 文化三年九月二十日〈1806年10月31日)
 浮世絵師
 姓は北川、後に喜多川
 幼名は「市太郎」、のちに勇助(または勇記)
 名は信美
 初めの号は
 「豊章」といい、
 歌麻呂、
 哥麿とも号す
 通常は
 「うたまろ」と読むが、
 秘画本には
 「うたまる」としているものもある
 俳諧では
 「石要」、「木燕」、燕岱斎
 狂歌名は
 筆の
 「綾丸」、
 「紫屋」と号
 蔦屋重三郎とともに
 吉原連に属した
 法名は
 秋円了教信士・・・
ーーー
 ・・・「コジキ」、モゥ、これは「江戸時代のモノ」・・・「だまし文字・安萬麿(麻呂)」・・・念入りに「青銅の墓標」まで造った・・・?・・・和銅五年・・・
 歌麿の作品に
ーー↓
 「かくれんぼ図」
 「万才図額」
 「婦人相学十躰」
 「風流七小町」
 「当時全盛美人揃」
 「歌枕」
 「針仕事」
 「山東京伝遊宴」
 「音曲比翼の番組」
 「小むら咲権六」
 「橋下の釣」、
 絵本に
 「画本虫撰」
 「潮干のつと」・・・がある・・・絵を視ると「巻貝・鮑(鰒・あわび)・蛤(はまぐり)」が描かれてある・・・
ーー↓潮干のつと
 ・・・潮干(しほひ・しほひる・しほほし・チョウカン)=潮干狩・・・鳥瞰(チョウカン)・・・
 「つと」は「エソ・グチ・トラハゼ・スケトウダラなどの生すり、生ねりの「蒲鉾(かまぼこ)」、あるいは、その原料に地魚の生すり身を使用した「かまぼこ」である。
 ブログで調べてみると「潮干のつと(しおひのつと)」は「喜多川歌麿画・朱楽菅江編・江戸・蔦屋重三郎〔寛政初頃〕刊」とあった。
ーー↓
 彩色摺狂歌絵本
 「潮干のつと」とは「潮干狩りのみやげ」という意味。36種の貝と、初めと終わりに付した関連美人風俗図を、朱楽菅江(1738-98)と彼の率いる朱楽連の狂歌師たち38名が1名1首ずつ詠む。
 画工は喜多川歌麿(?-1806)
 本書には
 波模様や
 「貝合せ図」の
 障子に映る
 手拭いの影の有無等、
 摺りが異なるものが数種存在
 本書は
 安永から寛政にかけて
 蔦屋重三郎が刊行した
 狂歌絵本の代表的なもので、
 空摺りや
 雲母などが施され、
 華美で贅沢な作品
ーーー↓
 「つと」
 ある動作をすばやく、または、いきなりするさま。さっと。急に。不意に
 動かないである状態を続けるさま。じっと
 「つと」の意味
 そのまま。ずっと。じっと。
ーー↓
 昔(むかし)は、卵(たまご)を持(も)ち歩(ある)くため、わらでつくった「つと」と呼(よ) ばれるわら細工(ざいく)に入(い)れていた
ーー↓つと=簀巻き
 簀巻き(すまき)かまぼこ
 原料魚・白身魚
 エソ・グチ・トラハゼ・スケトウダラほかエソ、トラハゼなどの地魚の生すり身やスケトウダラ等の冷凍すり身を筒状に成形し、
 その周りに
 定寸の麦藁(ストロー)を
 均一につけて蒸した製品
 表面には
 波形が付き、
 独特の弾力と
 魚の旨味を生かすために
 やや
 塩味がかかっているのが特徴
 四国の今治市や中国地方で生産
 地域によっては
 「つと巻き」と呼ばれている
ーー↓
 平安時代の「類聚雑要抄」に
 藤原忠実が永久三年(1115年)に
 転居祝いに
 宴会を開いた時の
 串を刺したかまぼこが載っている
ーー↓
 「つとかまぼこ」
 「苞(つと)」は
 「麦わら」のことではないかと解釈
 最近「ストかまぼこ」(島根県ではこう呼ばれています)と呼ばれているのは、
 この
 「苞(つと」が
 「すと」と訛ったものかも
 あるいは
 「ストロー(麦わら)」からきているものなのかも・・・
ーー↓
 「簀巻き(すまき)蒲鉾(かまぼこ)」=「つと」・・・通渡・通渡・通賭・・・だろう・・・
 調べると・・・「かまとと(カマトト)」、「かまとと振り」とは「かまぼこのことを『これは魚(とと)か?』と訊く」ということから、「無知・世間知らずを装ってかわいらしく見せる人(特に女性)を指す」。
 江戸時代に遊女が世間知らずを装うため、蒲鉾を指してこれが「魚(とと)」なのかと問うたことに由来・・・とあった。「魚」が「とと」との訓読みは初耳・・・
 また、「かまぼこ」とは相撲の隠語で、稽古を「さぼること」を意味する。土俵に上がらずに稽古場の板塀に背中をくっつけたまま稽古をしない様子が、蒲鉾を連想して「板についている」とのシャレ言葉に由来している・・・?
 「板につく」
 「板」は板張りの舞台
 「つく」は見事に合うこと
 経験を積んだ役者の芸は、
 舞台にしっくりと調和されていることから
 役者が経験を積んで、演技が舞台によく調和する
 経験を積んで、動作や態度が
 地位・職業などにしっくり合う
 板についている
 板につくの言い換えは、
 手慣れる・ぴったり・ちょうどよい・さまにあう・堂にいる・熟達する・手際よい・馴染む・慣れる・習熟する・しっくり・落ち着く・・・
ーーーーー
 枕草子
 (九一段)・・・九十一段・九拾壱段・玖足壱段
         9+1=10=十=壱拾
         9×1=9=九=玖
 職の
 御曹司に
 おはします
 ころ、
 西の
 廂に
 不斷の
 御讀經
 あるに、
 佛
 など
 かけ
 奉り、
 法師の
 ゐたる
 こそ
 更なる
 事
 なれ。
 二日
 ばかり
 ありて、
 縁のもとに
 あやしき
 者
 の
 聲
 にて、
 「なほ
  その
  佛具の
  おろし
  侍り
  なん」といへば、
 「いかで
  まだ
  き
  に
  は」と答ふるを、何のいふにかあらんと立ち出でて見れば、老いたる女の法師の、いみじく煤けたる狩袴の、筒とかやのやうに細く短きを、帶より下五寸ばかりなる、衣とかやいふべからん、同じやうに煤けたるを著て、
 猿のさま
 にて
 いふなりけり。「あれは何事いふぞ」といへば、聲ひきつくろひて、「佛の御弟子にさぶらへば、佛のおろし賜べと申すを、この御坊達の惜みたまふ」といふ、はなやかにみやびかなり。
 「かかる
  もの
  は、
  うち
  くんじ
  たる
  こそ
  哀なれ、うたても花やかなるかな」とて、「他物は食はで、佛の御おろしをのみ食ふが、いとたふとき事かな」といふけしきを見て、「などか他物もたべざらん。それがさふらはねばこそ取り申し侍れ」といへば、菓子、ひろきもちひなどを、物に取り入れて取らせたるに、無下に中よくなりで、
 萬
 の
 事を
 かたる。
 若き人々いできて、「男やある、いづこにか住む」など口々に問ふに、をかしきこと、そへごとなどすれば、「歌はうたふや、舞などするか」と問ひもはてぬに、「よるはたれと寐ん、常陸介と寐ん、ねたる膚もよし」これが末いと多かり。また
 「男山
  の
  峯
  の
  もみぢ
  葉、
  さぞ
  名は
  たつたつ」と
 頭をまろがしふる。いみじくにくければ笑ひにくみて
 「いね
  いね」
 と
 いふもいとをかし。「これに何取らせん」といふを聞かせ給ひて、「いみじう、などかくかたはらいたき事はせさせつる。えこそ聞かで、耳をふたぎてありつれその衣一つとらせて、疾くやりてよ」と仰事あれば、とりて「それ賜はらするぞ、きぬすすけたり、白くて著よ」とて投げとらせたれば、伏し拜みて、肩にぞうちかけて舞ふものか。誠ににくくて皆入りにし。
 後
 に
 は
 ならひたる
 にや、
 常に見え
 しら
 がひて
 ありく。
 やがて常陸介とつけたり。衣もしろめず、同じすすけにてあれば、いづち遣りにけんなどにくむに、
 右近の内侍の參りたるに、「かかるものなんかたらひつけて置きためる。かうして常にくること」と、ありしやうなど、小兵衞といふ人してまねばせて聞かせ給へば、
 「あれいかで見侍らん、
  かならず見せさせ給へ、
  御得意ななり。
  更に
  よも
  かたらひ
  とら
  じ」
 など笑ふ。
 その後また、尼なるかたはのいとあてやかなるが出できたるを、又呼びいでて物など問ふに、これははづかしげに思ひてあはれなれば、衣ひとつたまはせたるを、伏し拜むはされどよし。さてうち泣き悦びて出でぬるを、はやこの常陸介いきあひて見てけり。その後いと久しく見えねど、誰かは思ひ出でん。
 さて
 十二月
 の
 十
 餘
 日
 のほどに、雪いと高うふりたるを、女房どもなどして、物の蓋に入れつついと多くおくを、おなじくば庭にまことの山をつくらせ侍らんとて、侍召して仰事にていへば、集りてつくるに、主殿司の人にて御きよめに參りたるなども皆よりて、いと高くつくりなす。宮づかさなど參り集りて、こと加へことにつくれば、所の衆三四人まゐりたる。主殿司の人も二十人ばかりになりにけり。里なる侍召しに遣しなどす。
 「今日
  この山
  つくる
  人
  には禄
  賜
  はすべし。
  雪山に
  參らざらん
  人には、
  同じ
  から
  ず
  とどめん」
 などいへば、聞きつけたるは惑ひまゐるもあり。里遠きはえ告げやらず。作りはてつれば、宮づかさ召して、衣二ゆひとらせて、縁に投げ出づるを、一つづつとりに寄りて、をがみつつ腰にさして皆まかでぬ。袍など著たるは、かたへさらで狩衣にてぞある。
 「これいつまでありなん」と人々のたまはするに、「十餘日はありなん」ただこの頃のほどをあるかぎり申せば、「いかに」と問はせ給へば、「正月の十五日まで候ひなん」と申すを、御前にも、えさはあらじと思すめり。女房などは、すべて年の内、晦日までもあらじとのみ申すに、あまり遠くも申してけるかな。實にえしもさはあらざらん。朔日などぞ申すべかりけると下にはおもへど、さばれさまでなくと、言ひそめてんことはとて、かたうあらがひつ。
 二十日
 の
 ほどに
 雨など
 降れど、
 消ゆべくもなし。
 長ぞ
 少し
 おとりもてゆく。
 白山の
 觀音、
 これ
 消させ
 給ふな
 と
 祈る
 も
 物狂ほし。
 さてその山つくりたる日、式部丞忠隆御使にてまゐりたれば、褥さし出し物などいふに、「今日の雪山つくらせ給はぬ所なんなき。御前のつぼにも作らせ給へり。春宮弘徽殿にもつくらせ給へり。京極殿にもつくらせ給へり」などいへば、
 ここにのみめづらしと見る雪の山ところどころにふりにけるかな
 と傍なる人していはすれば、たびたび傾きて、「返しはえ仕うまつりけがさじ、あざれたり。御簾の前に人にをかたり侍らん」とてたちにき。歌はいみじく好むと聞きしに、あやし。御前にきこしめして、「いみじくよくとぞ思ひつらん」とぞの給はする。
 晦日がたに、少しちひさくなるやうなれど、なほいと高くてあるに、晝つかた縁に人々出居などしたるに、常陸介いできたり。「などいと久しく見えざりつる」といへば、「なにか、いと心憂き事の侍りしかば」といふに、「いかに、何事ぞ」と問ふに、「なほかく思ひ侍りしなり」とてながやかによみ出づ。
 うらやまし足もひかれずわたつ海のいかなるあまに物たまふらん
 となん思ひ侍りしといふをにくみ笑ひて、人の目もみいれねば、雪の山にのぼり、かかづらひありきていぬる後に、右近の内侍にかくなんといひやりたれば、「などか人そへてここには給はせざりし。かれがはしたなくて、雪の山までかかりつたひけんこそ、いと悲しけれ」とあるを又わらふ。
 さて雪山はつれなくて年もかへりぬ。ついたちの日また雪多くふりたるを、うれしくも降り積みたるかなと思ふに、
 「これは
  あい
  なし。
  初
  の
  をば
  おきて、
  今
  の
  をば
  かき棄てよ」
 と仰せらる。
 うへにて局へいと疾うおるれば、侍の長なるもの、柚葉の如くなる宿直衣の袖の上に、青き紙の松につけたるをおきて、わななき出でたり。「そはいづこのぞ」と問へば、「齋院より」といふに、ふとめでたく覺えて、取りて參りぬ。まだ大殿ごもりたれば、母屋にあたりたる御格子おこなはんなど、かきよせて、
 一人
 ねんじて
 あぐる、
 いと
 重し。
 片つ方
 なれば
 ひしめくに、
 おどろかせ給ひて、「などさはする」との給はすれば、「齋院より御文の候はんには、いかでか急ぎあけ侍らざらん」と申すに、「實にいと疾かりけり」とて起きさせ給へり。御文あけさせ給へれば、五寸ばかりなる
 卯槌
 二つを、
 卯杖の
 さまに頭つつみなどして、
 山たちばな、
 ひかげ、
 やますげ
 など美しげに飾りて、
 御文
 は
 なし。
 ただなるやう有らんやはとて御覽ずれば、卯槌の頭つつみたるちひさき紙に、
 山と
 よむ
 斧の
 ひびきを
 たづぬれば
 いはひの
 杖の
 音に
 ぞ
 ありける
 御返しかかせ給ふほどもいとめでたし。齋院にはこれより聞えさせ給ふ。御返しも猶心ことにかきけがし、多く御用意見えたる。御使に、白き織物の單衣、蘇枋なるは梅なめりかし。雪の降りしきたるに、かづきて參るもをかしう見ゆ。このたびの御返事を知らずなりにしこそ口惜しかりしか。
 雪の山は、誠に越のにやあらんと見えて、消えげもなし。くろくなりて、見るかひもなきさまぞしたる。勝ちぬる心地して、いかで十五日まちつけさせんと念ずれど、 
 「七日
  を
  だに
  え
  過
  さじ」
 と猶いへば、いかでこれ見はてんと皆人おもふほどに、
 俄に
 三日
 内裏へ
 入らせ給ふべし。いみじうくちをしく、この山のはてを知らずなりなん事と、まめやかに思ふほどに、人も「實にゆかしかりつるものを」などいふ。御前にも仰せらる。同じくはいひあてて御覽ぜさせんと思へるかひなければ、御物の具はこび、いみじうさわがしきにあはせて、
 木守といふ者の、
 築地のほどに
 廂さしてゐたるを、
 縁のもと近く呼びよせて、
 「この
  雪の
  山
  いみじく
  守りて、
  童などに
  踏み
  ちらさせ
  毀たせで、
  十五日
  まで
  さふら
  はせ。
 よくよく守りて、その日にあたらば、めでたき禄たまはせんとす。わたくしにも、いみじき悦いはん」など語らひて、常に臺盤所の人、下司などに乞ひて、くるる菓子や何やと、いと多くとらせたれば、うち笑みて、「いと易きこと、たしかに守り侍らん。童などぞのぼり侍らん」といへば、「それを制して聞かざらん者は、事のよしを申せ」などいひ聞かせて、入らせ給ひぬれば、七日まで侍ひて出でぬ。其程も、これが後めたきままに、おほやけ人、すまし、をさめなどして、絶えずいましめにやり、七日の御節供のおろしなどをやりたれば、拜みつる事など、かへりては笑ひあへり。
 里にても、明くるすなはちこれを大事にして見せにやる。
 十日の
 ほどには五六尺ばかりありといへば、うれしく思ふに、
 十三日の
 夜雨
 いみじく降れば、これにぞ消えぬらんと、いみじく口惜し。今一日もまちつけでと、夜も起き居て歎けば、聞く人も物狂ほしと笑ふ。人の起きて行くにやがて起きいで、下司おこさするに、更に起きねば、にくみ腹だたれて、起きいでたるを遣りて見すれば、「圓座ばかりになりて侍る。木守いとかしこう童も寄せで守りて、明日明後日までもさふらひぬべし。禄たまらんと申す」といへば、いみじくうれしく、いつしか明日にならば、いと疾う歌よみて、物に入れてまゐらせんと思ふも、いと心もとなうわびしう、
 まだくらきに、大なる折櫃などもたせて、「これにしろからん所、ひたもの入れてもてこ。きたなげならんはかき捨てて」などいひくくめて遣りたれば、いと疾くもたせてやりつる物ひきさげて、「はやう失せ侍りにけり」といふに、いとあさまし。をかしうよみ出でて、人にもかたり傳へさせんとうめき誦じつる歌も、いとあさましくかひなく、「いかにしつるならん。昨日さばかりありけんものを、夜のほどに消えぬらんこと」といひ屈ずれば、「木守が申しつるは、昨日いと暗うなるまで侍りき。禄をたまはらんと思ひつるものを、たまはらずなりぬる事と、手をうちて申し侍りつる」といひさわぐに、内裏より仰事ありて、「さて雪は今日までありつや」との給はせたれば、いとねたくくちをしけれど、
 「年のうち
  朔日まで
  だに
  あらじと
  人々啓し給ひし。昨日の夕暮まで侍りしを、いとかしこしとなん思ひ給ふる。今日まではあまりの事になん。夜の程に、人のにくがりて取りすて侍るにやとなん推しはかり侍ると啓せさせ給へ」と聞えさせつ。
 さて
 二十日に
 參り
 たる
 にも、
 まづ
 この
 事を
 御前にてもいふ。
 「みな消えつ」
 とて
 蓋の
 かぎり
 ひ
 き
 さげて持てきたりつる。帽子のやうにて、すなはちまうで來りつるが、あさましかりし事、物のふたに小山うつくしうつくりて、白き紙に歌いみじく書きて參らせんとせし事など啓すれば、いみじく笑はせ給ふ。御前なる人々も笑ふに、「かう心に入れて思ひける事を違へたれば罪得らん。まことには、四日の夕さり、侍どもやりて取りすてさせしぞ。かへりごとに、いひあてたりしこそをかしかりしか。その翁出できて、いみじう手をすりていひけれど、おほせごとぞ、かのより來らん人にかうきかすな。さらば屋うち毀たせんといひて、左近のつかさ、南の築地の外にみな取りすてし。いと高くて多くなんありつといふなりしかば、實に二十日までも待ちつけて、ようせずば今年の初雪にも降りそひなまし。
 うへにも聞し召して、いと思ひよりがたくあらがひたりと、殿上人などにも仰せられけり。さてもかの歌をかたれ、今はかくいひ顯しつれば、同じこと勝ちたり。かたれ」など御前にもの給はせ、人々もの給へど、「なにせんにか、さばかりの事を承りながら啓し侍らん」などまめやかに憂く心うがれば、うへも渡らせ給ひて、
 「まことに
  年ごろは
  多くの人
  な
  めり
  と見つるを、
  これ
  に
  ぞ
  怪しく思ひし」
 など仰せらるるに、いとどつらく、うちも泣きぬべき心地ぞする。
 「いで
  あはれ、
  いみじき
  世の中
  ぞ
  かし。
 後に降り積みたりし雪を
 うれしと思ひしを、
 それは
 あいなし
 とて、
 かき捨てよ
 と
 仰事
 はべり
 し
 か」と申せば、
 「實に
  かた
  せ
  じ
  と
  おぼし
  ける
  らん」
 とうへも笑はせおはします。
ーーーーー
 ・・・
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キュウリ三本

2013-07-26 20:12:06 | 古事記字源
 今日の収穫はキュウリが三本・・・スゴイ、ッ、成長力・・・雨がショボショボ・・・「社会民主党」の組織がガタガタになったのは、かって、「自民党」と臆面も無く、その「信条」を曲げて「土井」と「村山」が「結託」した問題だろう・・・その後の「神戸地震」、5000人の犠牲者・・・アレが彼らの「行政力」だった・・・今回の、地震、津波、「原発事故」での「民主党政権下」での「行政指導力・外交指導力」の貧弱、貧困・・・汚染地域への現地住民の誘導、「村山・土井」以下・・・「民主党政権」との「連立」をキッパリと拒否し、その尻拭いをしてきた「瑞穂」のせいではないだろう。
 だが「信念・思想」をカタッても、現実的な「人間関係(義理と人情・脅しと懐柔)」が薄い「人間」が「他人」を動かせるか、ドウかは別問題である・・・そもそも「一般労働者」が「労働組合員」から「組合職」、そして会社側から引き抜かれて「管理職」になった途端に「プチブル根性丸出し」にして、その「職務」に励むようになる・・・「大陸中国の指導部には賄賂、収賄、特権」、「亜米利加合衆国の指導者には献金、見返り、ドリ-ム」、「自民党に利権配分と水戸黄門」・・・何時の時代でも、「給料の多寡」と「身分保障維持と昇進」に励むのが現実だ・・・「生活の安堵」は自分自身の「権利の枠外」から「与えられるモノ」であったし、「奪われるモノ」であった。今現在も「意識」は同じであろう・・・そして、職種は問わず、職種に「貴賤は無い」である。「自由選択」だからね・・・洗濯するにも着替えが無い、洗濯機が無い・・・それ以前に水が無い、電気が無い・・・ネコのエサが無い、食い物が無いって・・・ワケではないから、今現在のボクは・・・

 「労働」は「美徳」って、ダレのタメの「美徳」だったのか・・・昨夜の「クローズアップ現代」は「共感」、アンタの気持ちは「ヨォ~クわかる」、ってか・・・ワカッテも「立場」を忘れるなョなッ・・・他人に「ヨイしょ」されれば何時でもガンバル人々・・・いつの間にやら「労働者」の概念が「サラリーマン」に呑み込まれていった時代、名目の店長、次長、主任、係長、係長代理がワンサカ・・・「帝国日本軍隊組織」では「一兵卒」が「伍長」、「軍曹」になった時の「心情」である・・・「戦争」がなけれ「二等兵」でも喰いっぱグレはない。ボクの既に亡くなった伯父さんは北海道開拓入植者、貧農の次男、「軍隊生活が一番よかった」って云っていた。ビルマ戦線で終戦を迎えた最高階級は「軍曹」・・・

 一般労働者がガンバル時、「労働組合幹部」に引き抜かれたり、「会社管理職」になった時である・・・その「裏切り」の見返りは「一般労働者」への「懐柔工作員」、「オレもソウだった」・・・「アンタの気持ちはヨォ~クわかる」・・・

 今現在、それ以前に「働く場所が無い」・・・あっても、殆んどがテイのいい「ルンペン労働者」である・・・

 交通整理の「JDポリス」には賛成だけれどネッ・・・「職場内」での「理不尽」はどうなんだろう・・・

ーー↓土井

 ・・・以前にも書き込んだけれど参照全文は「ウイッキペデア」から・・・

 土井晩翠

 進学を阻まれたが、のち許されて

 第二高等中学校(東北大学の前身校の一つ)に入学

 吉野作造と交友

 1894年(明治二十七年)

 帝国大学英文科

 「帝国文学」編集、詩を発表

 卒業後、

 1898年(明治三十一年)

 カーライルの

 「英雄論」を翻訳出版

 1899年(明治32年)

 第一詩集

 「天地有情」刊行

 東京音楽学校(東京芸術大学)から

 中学唱歌用の歌詞を委嘱

 「荒城月」作詩

 楽曲に

 滝廉太郎の曲が採用

 1901年(明治三十四年)

 「荒城の月」として発表

ーー↓

 1902年(明治三十五年)八月

 晩翠が欧州遊学

 前年四月にライプツィヒ音楽院に留学した

 滝廉太郎が肺結核で

 帰国するため、

 ベルギーの

 アントワープから日本郵船の客船

 「若狭丸」に乗り

 イギリス・ロンドン郊外の

 ティルベリー(テムズ川河口港)に寄港した際、

 晩翠は

 姉崎正治と共に

 滝と最初で最後の対面

 1924年(大正十三年)

 バイロン没後、百周年を期して

 「チャイルド・ハロウドの巡礼」翻訳刊行

 1934年(昭和九年)

 二高を定年退職

 名誉教授

 1941年(昭和十六年)

 戦陣訓の文体作成について

 島崎藤村

 佐藤惣之助とともに参画

 1952年(昭和二十七年)

 急性肺炎で死去

ーー↓ー

 妻子に次々と先立たれたことで

 心霊学に関心

 1946年(昭和二十一年)

 財団法人

 日本

 心霊科学協会設立、顧問

ーー↓

 1903年(明治三十六年)一月~四月

 フランス(フランス第三共和政)の

 ソルボンヌ大学で仏文学研究

 1904年(明治三十七年)十一月

 帰国

 1934年(昭和九年)

 三月

 第二高等学校を定年退官

 九月

 随筆集

 「雨の降る日は天気が悪い」刊行

 同本の序文に

 「つちいの姓をどいと改称する」と記録

 1937(昭和十二年)六月

 第七詩集

 「神風」刊行

 1945年(昭和二十年)七月十日

 仙台空襲で住居と蔵書約三万冊を失う

ーー

 ・・・彼の「ウタ」に煽られた?学生たちは「靖国」に定住した・・・

ーーーーー

 枕草子

 (九〇段)・・・九十段・九拾段・玖足段

         9+0=9=九=玖

         9×0=0=零

 さてその

 左衞門の

 陣に

 いきて後、

 里に

 出でて

 暫し

 あるに、

 「疾く

  參れ」

 など

 仰事の

 はしに、

 「左衞門の

  陣へ

  いきし

  朝

  ぼらけ

  なん、

  常に

  おぼし

  出でらるる。

  いかで

  さ

  つれなく

  うち

  ふりて

  あり

  し

  ならん。

  いみじく

  めでた

  からんと

  こそ

  思ひ

  たり

  しか」

 など

 仰せられたる

 御

 返事に、

 かしこまり

 の

 よし

 申して、

 「私には

  いかでか

  めでたし

  と

  思ひ

  侍ら

  ざらん。

  御前にも、

  さり

  とも、

  中なる

  をとめ

  とは

  おぼし

  めし

  御覽じ

  けん

  と

  なん

  思ひ

  給へし」と

 聞えさせたれば、

 たち

 歸り

 「いみじく

  思ふべ

  かめる

  なり。

  誰が

  おもて

  ぶせ

  なる

  事

  をば、

  いかでか

  啓し

  たる

  ぞ。

  ただ

  今

  宵の

  うちに

  萬の

  事を

  すてて

  參られよ。

  さらず

  ば

  いみじく

  にく

  ませ

  給はん

  と

  なん

  仰事

  ある」と

 あれば、

 よろし

 か

 らん

 にて

 だに

 ゆゆし。

 まして

 いみじく

 と

 ある

 文字には、

 命

 も

 さながら

 捨てて

 なん

 とて

 參り

 にき。

ーーーーー

 ・・・

コメント
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