・・・此処、最近、ボクに取っては、ヤケに「千葉」に関する地名や人名、事件が頻発している・・・で、「チバ」、以前にも書き込んだハズだが、ボク的には実体験したモノは結構記憶され、調べた事実、書き込んだ事実の記憶は残っているが、調べた、書いた、の、文字と文章の内容の詳細記憶は消失してしまう・・・このボクの傾向は「ボケ以前的」なモノであるらしいカナ。「歴史年代の年月日の数字」に至ってはどうしょうもない・・・で、一体全体「千葉(ちば・センバ)の地名由来」はナンなんだか?・・・「千の言葉の文字」なら、「王仁=和邇吉師(わにのきし)=百済王臣下の阿直岐の同輩か先輩=菟道稚郎子の師」の「千字文」だが・・・ブログで調べてみると、「漢字(万葉仮名?)」の、「千(ち・ぢ)」・「葉(は・ば)」そのものの「漢字」の意味から「素直に追求」するモノは少ない・・・古代に於いても、現代に於いても、「同音」のコトバの意味は、「記録された漢字文字の意味」でのみ理解できる・・・単音音声の「あ→か→さ→た→な→は→ま→や→ら→わ→ん(む)」の五行列の「各一音」に、意味があるならば、当て字の漢字理解でしかない・・・「ア・レ、あ・れ」の意味は、「阿」と「禮(礼)」の漢字の意味でしかない・・・のデ、ア・ル・・・ハズだが・・・古代教養帰化人、渡来人には、時間的経過の「始原」として「ニホン(日本)」に上陸する前に「原生、原住した本国の言語と漢字文字」が、先ずアッタ。そして、「ニホン」に上陸移動して「ニホンゴ」に出遭ったのである・・・彼らに取っては「初めに文字(漢字)ありき」であった・・・
ーーーーー
「千葉」懸
明治六年六月十五日
木更津(きさらづ)県
と
印旗(印旛・いんば・いぬば?)県
を廃止して
千葉県となる
↓
「万葉集」に
「知波能奴(ちばのの)」・・・「能」と「奴」の区別はナニ?
「アイヌ語」の
「チプ・パ(船の数が多い)」
「ツバ(端・台地の端)」
「茅生(ちぶ・茅(ちがや)が茂った」
・・・からの説など・・・ 「千葉=茅生」なら、その漢字の関連性には納得するだろう・・・?
↓↑
千葉県という県名は、
1873年(明治六年)
木更津県と印旛県が合併して
当県が設置され、
千葉郡
千葉町に県庁が置かれたことに由来
↓↑
この地名は、
「茅(ちがや)」が生い茂る土地で
「茅生 (ちぶ)」と呼ばれ、
転じて
「ちば」になったとする説や、
葉が多く重なる意味で
「千葉」に なったとする説
侵食しやすい地や
侵食の激しい地に見られる地名
「ちば」で、「潰れる」の意味
↓↑
「和名抄」に
「下総国
千葉郡
千葉郷」
と見えるのが古い
都市としての歴史は、
1126年(大治一年)
千葉常重が
「猪鼻」の地に
居館を築いたことから始まる
が、それよりも
はるか昔からこの地名はあり、
千葉常重の姓が由来ではない
平常重が
上総国
大椎から
下総国
千葉郡
千葉郷に移り住んで
千葉氏を名乗った・・・・「平」常重が、「千葉」常重
↓↑
今日のニュースでは「アイヌ語の継承と保存」が「報じ」られていたが・・・「アイヌ」には記録文字を有しなかった・・・とするならば、「邦字」は「蝦夷地」に渡海した「ニホン人(外来人・本土人)」のモノであった・・・
・・・以下は、以上に関連した検索頭出しのブログ記事を見つけたので、「仮説」とはこんなモノなんだと、面白かったので、断りもなく参考、参照させてもらい、少々改作して添付したモノ・・・
↓↑
「網走(あばしり)」は、
アイヌ語由来で、
「チパシリ chipasir」と呼ばれていた
その語義は
「chi 吾・pa 見つける・sir 島(国)」
である・・・
「チ=chi(ciとも)、
意味は
「吾」は「a(吾)」と
交代可能なので
「a pa sir」に変化した・・・
↓↑
・・・「チ」と「ア」の交代は、その「吾=ア」の漢字を前提的に知っていなければ無理だろう・・・
↓↑
知里真志保氏(アイヌ語権威の言語学者)
は
「chipa」という語が、
「inaw-san(幣・棚)」
の古語であり
「sir シリ=島」であるから
「イナウを祀った島」・・・・「伊能(イノウ)」忠敬?
ほどの意味・・・?
↓↑
田村鈴子氏の辞典に
「inaw-cipa」に
「幣(ぬさ)場」という意味を与えているので
「チパ」=「イナウ」=「幣」
を祀る場所ないし
「棚」の類である・・・?
↓↑
つまり本来
「チパ・シリ」で
「イナウの・島」だったものが、
「チ・パ・シリ」と誤分析され
「吾・見つける・島」と誤解し、
「チ」と「ア」を交換したものだ・・・
誤解のもとに
「ア・パ・シリ」という地名が慣行され
和人には
「あばしり」と把握され
「網走」と宛字されたものだ・・・
↓↑
網走で撮影した
「チパシリ」
別名
「カムイ・ワタラ(神の岩)」
現在日本語では
「帽子岩」と呼ばれている・・・
「千葉」は
アイヌ語
「chipa」(幣棚、幣)に因るものか・・・語呂合わせだろう
アイヌ語
「ふさ(房・総)」は
「pusa(房)」がある・・・
萱野茂の
『アイヌ語辞典』では
「pusa 総(ふさ)=束ねた何本かの糸などの先を
ばらばらにして飾りにした物.
田村すず子の
『アイヌ語沙流方言辞典』では
「プサ pusa=日本語ふさ(房)=房かざり(刀のさやの)
三角や四角の布のかざりが下げて(つけて)あるもの
刀の房かざりは、
四角い布に刺繍(シシュウ)し、
つり紐の両すそにつけてある
ukopusakur=suypa kane
ウコプサクル=スイパ カネ
宝刀のつり紐のすそから下がっている
房かざりがいっせいにゆれている
「Sユーカラ」
「糸、紐や鎖(くさり)で下げられた
小さな玉や
サイコロの形などの飾りは
tumsi=トゥムシ(a tassel on a sword etc)
↓↑
アイヌ語のpusaは
日本語からの借用語・・・
「イナウのふさ」
「千葉」も「房総」も「イナウ」
に関わっている地名である、と・・・
↓↑
「伊能忠敬」が関わった地名だろ・・・?
↓↑
「千葉」地名が行われた地は
中世の
下総国千葉郡(千葉県千葉市中央区及び周辺)
近隣の
「稲毛」も
「inau-ke=イナウを削る」
と解することができて、
相互に
アイヌ語起源を傍証しているようだ・・・
ーーーーー
以下は「ウイッキペデア」などから・・・
↓↑
『日本後紀』
大同元年正月癸巳(1月28日)条
「千葉国造(ちはのくにのみやつこ)
大私部直
(おおきさいべのあたい、直=カバネ)善人」
人物が記録
大化改新以前より
千葉に
国造が置かれていた可能性が高く、
律令制成立後も
下総国
千葉郡
と呼ばれる郡が成立
『倭名類聚鈔』には
千葉郡にあった
七つの郷の1つに
「千葉郷」と呼ばれる郷があったと記録
同郷は現在の
稲毛区
穴川・黒砂
付近を指していたと考えられている・・・
↓↑
千葉氏の本拠地
平安時代に
千葉氏の祖、
平常重が
千葉郡
千葉郷・池田郷一帯に
千葉荘を開き、
池田郷
「亥鼻」に拠点を築いて
「千葉介」を名乗る
以後子孫が
室町時代まで
下総国守護職として周辺を支配
↓↑
享徳の乱
に乗じた
原胤房
と
馬加康胤
によって
千葉胤宣が討たれ、
千葉氏宗家が滅びた後は、
千葉妙見宮の
小さな
門前町となった
↓↑
徳川藩政時代
江戸時代
現在の
千葉市域の大半が
佐倉藩の領土
(市域は生実藩・曽我野の2小藩の本拠地)
となった
↓↑
戊辰戦争終結~第二次大戦終結まで
戊辰戦争後の
1871年8月29日
廃藩置県では、
現千葉市は
印旛県の領内に入れられた
1873年
印旛県
と
木更津県
が合併されて
千葉県が設置
旧両県の境で
千葉氏の本拠地でもあった
現千葉市(亥鼻地区)に県庁が設置
↓↑
千葉市が誕生
1921年(大正十年)1月1日
市域は、
現在の中央区の北半分から
稲毛区の南東部にわたり、
これは
1889年(明治二十二年)に設定された
千葉町の町域をそのまま引き継いだもの
戦前、現在の
川崎町の埋立地に
日立航空機製作所と
日立製作所などの
軍施設が集中する軍都として発展
1945年(昭和20年)
6月10日
と
7月7日
に
連合国軍による
大規模な空襲(千葉空襲・七夕空襲)に見舞われ、
市域の7割が壊滅
↓↑
1126年(大治元年)
千葉常重が
「猪鼻」の地に居館を築く。
1455年(享徳四年)原胤房に千葉城を急襲され、
千田庄(香取郡多古町)に逃れた
千葉胤宣が
康正元年八月十二日
原胤房に加担した
馬加康胤に討たれ
千葉氏宗家が滅亡した。
1871年(明治四年)
十一月十三日
廃藩置県
木更津県、印旛県、新治県が設置
1873年(明治六年)
六月十五日
木更津県と印旛県が合併
千葉県が設置
県庁を
両県の境となる
千葉郡千葉町(千葉市中央区本千葉町)に設置
1875年(明治八年)
五月七日
新治県が分割
利根川以南が千葉県に編入
現在の千葉県域が形成
1889年(明治二十二年)
四月一日
町村制施行
千葉町、寒川村、登戸村、
千葉寺村、黒砂村
が合併し、
千葉郡千葉町が発足
1921年(大正十年)一月一日
千葉町が市制を施行し千葉市
全国で
六十六(66)番目
県内初の市制施行
1931年(昭和六年)
千葉市歌を制定
1937年(昭和十二年)
二月十一日
千葉郡
蘇我町、・・・・・ナゼか、「蘇我」・・・
検見川町、・・・・ナゼか、「検見のカワ・セン」・・・
都賀村、・・・・・ナゼか、「都の賀・トガ→訳臥」?
都村を編入
1944年(昭和十九年)
二月十一日
千葉郡
千城村を編入
1954年(昭和二十九年)
七月一日
千葉郡
犢橋村
を編入
このとき
犢橋村が
村内の軍施設を
千葉市に報告しなかったため、
1979年(昭和54年)に
信管付き
不発弾が見つかり、大騒ぎ・・・
ーーーーー
・・・???・・・何層サトミ発見伝・・・伏せ秘め・葉知の附差・・・千葉のカイ・・・「南総里見八犬伝・伏姫・八房(曲亭馬琴・瀧澤馬琴)」・・・
・・・「カステラ」は「文明導」で、「文化同」ではない・・・「文明=文を明らかにする・文の意味を明確にする・文の範疇、本質、内容、カテゴリー(category)をハッキリさせる」、「文化=文を変化させる・原文の文字を異文字、異文章の同意で翻訳する」・・・「原文の文字の音附を同音異字、同音異文字のコトバに変化させる」・・・以前にも書き込んでいた「カステラ」だったが・・・3時の「オヤツ」は様々ではあるが・・・昨日は「カストロ」だったが・・・本日は「三月三〇日=サンジクサンジュウニチ→纂肉纂拾似知」なので「カステラ」を再調査してみた・・・
ーーーーー
間食(カンショク)=「おやつ」・「おさんじ」
中食(ちゅうじき)、間食(かんじき)
昼食と朝・夕食の間にとる
「軽い食事=軽食(ケイショク)」を
「小昼=こひる、こびる」・・・媚びる?
ショウチュウ=焼酎・掌中?
章中・省中?
という
↓↑
おやつ=「御八つ(どき)」の時間帯
江戸時代の
「八つ時(午後3時頃)」・・・八つ時(午後2時~4時まで)
江戸の刻(とき)
↓↑
明け六ッ(日の出・夜明)、
暮れ六ッ(日の入・日没)
が基準
一日の時間帯
(24時間=十二刻=十二干支の時計円盤)
それぞれを
午前と午後に分け
更に
六等分したのが
一刻
一刻≒2時間
半刻(はんとき)≒1時間
四半刻(小半刻)≒30分
数の場合(時刻を言う)
夜九つは 24:00
夜九つ半は 1:00
↓↑
干支の場合での時間区分では
子の刻は
午後11時~午前1時の「二時間」
↓↑
午前零(〇)時・子(ね・シ) 之刻・九つ(玖・ク)
午前二(弐)時・丑(うし・チュウ)之刻・八つ(捌・ベツ)
午前四(肆)時・寅(とら・イン) 之刻・七つ(漆・シツ)
午前六(陸)時・卯(う・ボウ) 之刻・六つ(陸・リク)
午前八(捌)時・辰(たつ・シン) 之刻・五つ(伍・ゴ)
午前十(足)時・巳(へび・ミ) 之刻・四つ(肆・シ)
↓↑
午後零(○)時・午(うま・ゴ) 之刻・九つ(玖・ク・キョウ)
午後二(貳)時・未(ひつじ・ミ) 之刻・八つ(捌・さばく)
午後四(肆)時・申(さる・シン) 之刻・七つ(漆・うるし)
午後六(陸)時・酉(とり・ユウ) 之刻・六つ(陸・おか)
午後八(捌)時・戌(いぬ・ジュウ)之刻・五つ(伍・い)
午後拾(足)時・亥(いの・イ) 之刻・四つ(肆・つらなる)
↓↑
子→丑→寅→卯→辰→巳→
↓
沖(冲)の関係(対中)
↑
午→未→申→酉→戌→亥→子
↓↑
鼠→牛→虎→菟→龍→蛇
馬→羊→猿→鳥→犬(狗)→猪→鼠
↓ ↑
八つ刻は
未支~申支の時間帯で
未支(午後一時~三時の時間帯)で、
その半ばの「二時」に
鐘を
八回衝き鳴らす
↓↑
八つ刻(午後2時~4時まで)の
「八」はカネの衝く音の回数
「午(正午)の刻」を起点とする
午前、午後の
「丑→対中←未」関係での
「鐘の音は同数」で
「三回」+「八回」=十一回
「三回」は余分だが、
スベテの刻鐘の回数に
「前鐘」として「三回」鳴らし加える
時刻の鐘音打で「3つ」は無い
・・・この「3=参」の意味はナニか?・・・「惨」?
大晦日の除夜の「子の刻」の「鐘の音」は
「百八回(108回)」・・・108は「煩悩」・・・宿曜経の「目盛の数(促・足・亦)は108」・・・
・・・「3+108」=「111」?→壱百壱拾(足)壱
・・・「3+1+8」=「12」?→壱拾(足)弐
・・・「1+1+1」=「3」?→参
・・・「3×4」=「12」?→壱拾(足)弐
・・・「3×12」=「36」?→参拾(足)六
・・・「360÷12」=「5」?→伍(悟・吾・午)
・・・「参=サン=惨=纂=讃=算=産」・・・?
↓↑
二代将軍
徳川秀忠の時代に、
鐘
が
本石・・・本は石(岩・磐・嵒・巖・巌・意和・違和・伊輪)
三丁目・・・纂帖の目・山頂の目
(日本橋
室町四丁目)に
江戸時代最初に設置
宝永八年(1711)に改鋳され
明治初期まで使用
現在は
日本橋
小伝馬町・・・・小さい伝、馬(Marco)帖(調重)
馬太福音(新約聖書)
馬可福音(新約聖書)
司馬遷(史記)
十思・・・・・・「十思九徳(貞観政要で
↓ 唐の
太宗の側近、
魏徴(ギチョウ)が挙げた
十戎(心構)」
一前後の見境もなく、闇雲に欲しがるな、
自戒せよ
二夢中にならず、止まって反省せよ
三自分の立場を謙虚に自制せよ
四自分の目線を低い位置に置け
五限度、限界をわきまえよ
六終始の行動には慎重に、慎め
七虚心に部下の言葉を聴け
八誹謗中傷を嫌い、
自らそれらを禁じ、一掃せよ
九過大な恩恵は避けよ
十罰するには、過大な罰とするな
公園内に設置保存・・・「十思公園」
公園・・・・・・「吉田松陰」が処刑された
「伝馬町牢屋敷」跡
浅草寺
寛永寺
本所
横川町
芝切通し
市ヶ谷八幡
目白不動
赤坂田町
成満寺(円通寺)
四谷
天竜寺
↓↑
鐘の音は捨て鐘と云って
三つ打ってから
それぞれの
刻限の数を鳴らした・・・三+χ(刻)
↓↑
夜明け、
夕暮れどきの
薄暗い時分
夕方を「たそかれどき」・・・・誰そ彼、時→曖昧でハッキリ
明け方を「かはたれどき」・・・彼は誰、時→判別できない
木戸=町民が管理し
夜四つ(午後十時)には閉め
江戸の治安を守った・・・・・・木戸孝允
↓↑
おヤツは
八つ刻(午後2時~4時まで)の間に
間食を
食べる習慣があった・・・子供の
「おやつ」などには
魚(まな・うお)の形の
砂糖菓子=金花糖(きんかとう)
団子・煎餅・饅頭など
↓↑
3時の「オヤツ」は「文明堂」の
「カステラ」・・・TVコマーシャルの熊のカンカン踊り
↓↑
「家主貞良」・・・哉主、歌手はサダヨシ、定量
「加須底羅」・・・句和得留、綴等
須=すべからく・ひげ・シュ
須要・必須
わずかの間・しばらく
パオ・・・・・葉緒・馬尾(嗚・緒)
デ・・・・・・出(乙・弟→嗚訳得徒)
カスティーリャ
(ポルトガル語)
↓↑
鶏卵(ケイラン)を・・・刑覧・掲乱(蘭)・形濫
泡立てて・・・・・・・・沫・粟・阿波・安房・安和
小麦粉、・・・・・・・・背負う幕憤
砂糖(水飴)を
混ぜ合わせた
生地を・・・・・・・・・記事・木地(和歌山)・基地・危地
オーブンで・・・・王(オウ=旺・姶・鷗・横・皇・枉)文出
枉=曲がった木
焼いた菓子・・・・哉意他、仮詞(カシ=掛史・可視)
↓
ポルトガル(葡萄牙)から伝わった
南蛮菓子を元に
日本で独自に発展した和菓子
ポルトガル(葡萄牙)には
「カステラ」
という名の菓子はない
↓↑
カステラは長崎が本場
長崎市の
福砂屋が元祖
製法が同じものの総称
正方形または長方形
オーブンで焼いた後に
棹型に切る
水飴を用いて、しっとりとした食感
牛乳・抹茶・黒糖・チョコレート・チーズ
などを加えて味付けをする変種も多
↓
釜カステラ(東京式釜カステラ・東京カステラ)
蒸しカステラ、カステラ饅頭、
ロールカステラ、人形焼
など
釜カステラは、
「六面焼き」と呼ばれるものもある
一つ一つの型に入れて
オーブンで焼いたタイプで、
水飴を用いない
↓
カステラを応用した菓子
福島県
会津若松市―会津葵
愛媛県―タルト
島根県―八雲小倉
長崎県
平戸市―カスドース
長崎市―桃カステラ
長崎カステラを洋菓子化―銀装のカステラ
料理として
岡山県(主に倉敷市)―鮮魚カステラ
伊達巻―カステラの調理方法を応用したもの
宮城県、沖縄県―カステラかまぼこ(焼きかまぼこ)
↓
カステラを棹型に切り揃える際に、
切り落とし(耳)が発生し
本来の製品よりも割安で販売
↓
名前の由来
スペインの地方名
カスティーリャ(Castilla)
ポルトガル語発音である
カステーラ(Castela)
カステラ製造過程での
メレンゲを作る際、
高く高く盛り上げる時
「城(castelo)のように高くなれ!」
と
カステロ=カステラとなった・・・という説
パン・デ・カスティーリャ
(pão de Castela、カスティーリャ地方のパン)
や、
ビスコチョ(元は乾パン状の船乗りの保存食
16世紀末頃、
柔らかく焼き上げるレシピが生まれた)
が由来・・・
ポルトガルの焼菓子である
パン・デ・ロー(pão de ló)
が製法的に似ていることから、こちらを始祖とする説が有力
原型は、
中国の点心の一つであり、
マレーの地名を冠する
「馬拉糕」や、
沖縄の
「鶏卵糕(ちいるんこう)」
と
呉(ゴ)方言のような読みをする・・・呉=くれ
蒸しカステラ類と
共通する可能性もあるらしい・・・
↓
16世紀の室町時代末期
ポルトガルの宣教師によって
平戸や長崎に伝えられた
当初のカステラ
鶏卵、小麦粉、砂糖で作った
乳製品を用いないことから、
乳製品を生産、常用しない
当時の日本にも残った
カステラの製造に重要な
オーブンは当時の日本には存在せず、
オーブンに代替する天火として、
引き釜という
炭火を用いる
日本独自の装置が考案された
↓
江戸時代
江戸・大坂を中心に
カステラの日本化と、
カステラを焼くための
炭釜の改良が進められ、
江戸時代中期には
現在の長崎カステラの原型に近いものが作られた
長崎カステラの特徴である
水飴の使用は、
明治時代以降の
西日本で始められた・・・
伝来当時、
平戸藩
松浦家において、
南蛮菓子としてカステラが宴会に出された時、
その味に馴染めず、
包丁方(料理人)が
カステラを
砂糖蜜で煮た・・・
これが
平戸名産「カスドース」の原型・・・
↓
カステラの製法
江戸時代の製菓書・料理書に数多掲載
茶会でも多く用いられた
カステラは鶏卵・小麦粉・砂糖といった
栄養価の高い材料の使用から、
江戸時代から戦前にかけて
結核などの消耗性疾患に対する
一種の栄養剤としても用いられていた・・・
第二次世界大戦後の
大量生産によって一般に普及・・・
↓
夏目漱石が
1907年に発表した
『虞美人草』で、
「チョコレートを塗った
卵糖(カステラ)を口いっぱいに頬張る」
と記して、
「卵糖」という当て字をした
実際にはチョコレートケーキに使われている
スポンジケーキを指していた・・・
↓
1624年(寛永元年)創業:福砂屋(長崎県長崎市)
「カステラ本家」を商標登録
1681年(天和元年)創業:松翁軒(長崎県長崎市)
1747年(延享4年)創業:上野風月堂(東京都台東区)
東京式「釜カステラ」を製造販売
1900年(明治33年)創業:文明堂(長崎県長崎市
東京都新宿区など)
1952年(昭和27年)創業:銀装(大阪市中央区)
「紙の缶詰」という
熱殺菌技術を開発
カステラの
賞味期限を延ばす事に成功
↓
元亀二年(1571年)
室町時代
ポルトガル人が上陸
カステラは
スペインに栄えた
カスティラ王国の
パン(麺麭・麵麭)として
長崎の人々に紹介
幕末の志士
「坂本龍馬」が
慶応三年(1867)に長崎で組織した
「海援隊」の日誌に
「カステラ仕様の項目」があり
「正味、玉子百目、うとん七十目、
さとふ百目。此ヲ合テ、ヤク也、和蘭実方・・・」
↓
松翁軒
天和元年(1681)
長崎市
本大工町・・・本の大(太)句の帖
に
初代
山口屋
貞助
が店を構え、
砂糖漬けや
カステラを作り始めた
文久年間(1861)
七代目
熊吉の時、
国学者
中島広足
により
「松翁軒」の命名を受け、
能面の翁を店印とした
綿のようにやわらかにして、
風味はしっとり、口に含むと、円やかなり・・・
↓
八代目
貞次郎は
カステラにチョコレートの味を加えた
↓
カステラ
加須底羅
家主貞良
パオ・デ・カスティーリャ(ポルトガル語)
ーーーーー
・・・「かすてら」・・・再考=サイコウ=催行・・・「団体旅行などを計画どおり実施するコト」・・・「催(もよお)す、行」って「催眠術の行」?・・・
「催」=もよおす・うながす・せきたてる・サイ
催告・催促
そのような気分に誘う
催眠・催涙
会を設ける
開催・共催・主催
とき
雨催(あめもよい)=雨模様
催馬楽(さいばら)=歌謡の一
上代の民謡などを
外来の唐楽の曲調にのせたもの
笏拍子 (しゃくびょうし)
笙 (しょう)
篳篥 (ひちりき)
竜笛 (りゅうてき)
琵琶
箏 (そう) を伴奏
歌詞は
律25首、
呂 (りょ) 36首が残る
曲は室町時代に廃絶・・・?
催合(おもやい・もやい・もやひ
催合い=最合い
共同で一つの事をしたり
一つの物を所有したりすること
あいあい・おもやい
・・・ナニかを、「もよおす」って・・・トイレ・・・
・・・「甘い言葉で幻想を描いた・米帝国からナニも貰うモノはない」・・・「キューバ(カストロ=Full Beard(完全な髭)=科素訳賂?・1926年8月13日~)・(人民?)独裁政治の玖馬・玖瑪・黒翡翠・瑪瑙・紅玉髄・久場」と「大陸(民?)中国(習近平・小平・毛沢東)」との、その相異は歴然としているが・・・ブログなどで調べたら、「カストロ」は、「ローマ軍の軍隊駐屯地」のラテン語が語源らしい・・・「城郭(カースル・Castle)の語源・castrum(カストルム)・castellum(カステッルム・culter(クルテル)」・・・「語根の cultr-」は「小刀」で「cultellus(クルテッルス)」であるらしい・・・コレって「狂って吊るす」?かも・・・「城(castle)をマモル・領地(Dominion・territory)をマモル・人びと(each person・people)をマモル」と云いながらの「戦争」だが、ヨーロッパの歴史での「正義(justice)である大義名分」は「宗教によるカミ」への信仰であった。だが、「宗教戦争」の本質は「ダレの城・ダレの領地・ダレの人びと」をマモルコトだったのか・・・兎に角、「人びと」は「everybody」ではない・・・「one's duty to one's country」、「one's duty to one's lord」の「one's」と「lord」とはダレか?・・・どうやら「天上界のgod=神」ではないらしく、「主人、支配者、首長、封建領主、君主、神、わが主、キリスト、卿(き よう)、(Lord の敬称を持つ)貴族」の「人間」らしい・・・
「戦争」が勃発すれば、「戦況悪化」、「調略での裏切り」、「軍隊からの脱走」、「敵前からの逃亡」、「政治家の亡命」、「一般住民の難民」は必至で「命を確保しよう」とするのも当然である・・・そして、「工人、職人、技術者の捕虜」としての「移動・移民」である・・・古代では「帰化人 or 渡来人」、「1592年(文禄の役)と1597年(慶長の役)」では、「加藤清正」らは「朝鮮の陶工」を日本に移民、移住させた・・・
独立戦争後のアメリカは奴隷売買を含めた「移民」である。
日本は明治維新後は「西欧、米国の外国人」の「知識、技術者」を高給で政府公人として雇った。
「戦争」は結果として「殺傷、破壊」と同時に「文明文化」の担い手である人びとを移動、移住させたのである。
現代的には失業した日本人技術者が高給を保障され大量に海外へ、海外企業の技術者として移住したし、移住している・・・
・・・テーマは「カストロ」の「国家政策」と、その「カストロ」の語源探索であった・・・イタリアの南東部にも地名として「カストロ」が存在する・・・
ーーーーー
「カストラカストラ(ラテン語 castra、複数形)、およびカストルム(ラテン語 castrum、単数形)とは、古代ローマにおいて軍事防衛拠点または野営地 として使用された場所または建設された建物群」とあった・・・「カステラ」は確かに「砂糖・蜂蜜・パン粉」が主要なスポンジ状の蒸して、焼いた「お菓子」ではアルな・・・ドラヤキ(鐃焼き)もこの系統だろう・・・
カステラ王国=レオン王国(イサベラ女王・1451年生まれ・1479年カステーラ(Castela)王国女王、カステリ(地名)・ Castelli(カスティーリャ・カスティリャ・カスティリア・カスティーヤ・カスチラと日本語で音写)・・・美味しいけれど、年寄のボクには咽喉に詰まって咽(噎)んでしまう・・・
「グァリネリオ・カステリヨーネ」と云う人物は「職人」であったらしい・・・以下は「ロカルノの信仰の亡命者について:再考(神奈川大学・吉田隆)」のブログ記事を参考、参照にしたもの・・・
↓↑
http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/12768/1/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%A0No25-08.pdf
↓↑
ーーーーー
当時のヨーロッパで
諸工業で
その知識と技術の技術者の
市場ネットワークがあったらしい・・・
スイスに於ける
「ロカルノ人亡命者の到来は
チューリヒの
織物工業の復興
諸工業の発展を育成する契機となった
1555年3月18日
に
亡命者の第一陣が、
5月12日
に第二陣がアルプスを超え
ロカルノから到来」
亡命者の総計は147名
金利生活者と大商人13名
教師1名
法律家1名
医者2名
袋物師2名
製本工1名
毛皮職人1名
製革工3名
仕立屋1名
古物商人1名
ビロード織工1名
漁師1名
総計147名
1558年の公文書の亡命者の記録
136名
成人男性26名
婦人26名
青年8名
男児39名
女児36名
下女1名
全員ロカルノ生まれ
であった
これらのなかに・・・
↓↑
「グァリネリオ・
カステリヨーネ」
が存在したらしい・・・
↓↑
「チューリヒは、
ツンフト・・・・・・ギルドの形態の一
ドイツで、12、3世紀ごろから
結成されはじめた
独占的、排他的な
手工業者の同職組合
手工業ギルド
の利権が強かったので
チューリヒの手工業者は
ロカルノ人との競争を恐れ
締め出そうとしたため、
ロカルノの亡命者の一部は
バーゼルなどに移住し、
そこでの諸工業の発展に寄与
チューリヒにとどまった
亡命者は、
チューリヒに
新しい経営システム
問屋制、工場制
マニュフアクチャーを導入
市参事会が禁止していた
ヴェネツィア
ミラノ
からの穀物の輸入のほかに、
織物と香料・石鹸の輸入、
鉄、食料品、鋼鉄、バター、
獣脂、革、金
と金製品の取引など他
北部ドイツの
麻布の輸出を行った
1558年3月2日
の参事会の決議には、
亡命者たちには
店舗の購入の禁止
市民権授与の禁止
経済活動の制限
生業は一業に限ること
市参事会の承認なしに
新種の商工業に従事することを禁止
を定めていた
亡命者たちは
地元の
手工業者と対立しながら、
チューリヒでの経済活動を推進・・・」
↓↑
・・・以下は「ウイッキペデア」を参照、参考・・・
↓↑
「ロカルノ(Locarno)」
スイス南部
ティチーノ州の
マッジョーレ湖の
北に位置する
基礎自治体(コムーニ)
イタリア語圏のティチーノ州は、
南部でイタリアと境を接する
↓↑
「ロカルノ条約(1925年)10月
(Locarno Treaties)」
ロカルノで行われた協議を受けて、
同年12月1日に
ロンドンで正式調印された
7つの協定の総称
↓↑
「フランス・ベルギーの国境現状維持
ラインラント非武装の確認(ラインラント条約)
などが含まれ、
基本的には
ヴェルサイユ条約を踏襲したもの
国際紛争を
軍事によらず
仲裁裁判で解決すること
ロカルノ条約の締結により
ドイツは
1926年に国際連盟に加盟
独仏の関係の緩和により、
ヨーロッパ全土は
相対的安定期だった」・・・らしい・・・
ーーーーー
Castro(カストロ
Fidel Alejandro Castro)だった・・・
↓↑
丙寅(己・丙・甲)-食神(正財・食神・比肩)
沖(己)(正財)
丙申(己・壬・庚)-食神(正財・偏印・偏官)
甲戌(辛・丁・戊)-比肩(正官・印綬・偏財)
申酉=空亡
氐宿
金曜日
↓↑
大運
乙巳(戊・庚・丙)-劫財98歳迄
年(刑害)・月(支合辛・刑破)
↓↑
90歳
年運
丙申(己・壬・庚)-食神(正財・偏印・偏官)
月運
辛卯(甲・ ・乙)-正官
日運
庚戌(辛・丁・戊)-偏官
ーーーーー
アレッ・・・日本ハムも、日本代表サッカーも見なくちゃぁ~・・・
ハムが(13-0)、
日本が(5-0)でシリアに勝ったけれど、この時期に「シリア」はサッカーどころじゃないと思うけれど・・・
で、蝦夷地の片田舎で「TV観戦」している自分の存在って何なんだ・・・
全国各地では「安全保障関連法の施行日」に反対抗議行動が展開されているのに・・・「日本国憲法」はミンナのイノチである・・・
・・・「風雲真田(上田)城」の「真田昌幸(天正七年・1580年~ )従五位下」はナゼ「安房国(アワのクニ・日本律令制度の地方行政区分)の守」の「官位(官職と位階)」だったのか?・・・現在の千葉県南部、別称は「房州(ぼうしゅう)・安州(あんしゅう)・南総(なんそう)」・・・「安房」の源流は「阿波(四国徳島)」であった・・・「古代、徳島県の北の地域は粟の生産地・粟国。南の地域は長国。『古語拾遺』によれば、神武東征において忌部氏を率いて、木国の材木を採取し畝傍山の麓に橿原宮を造営した天富命が、肥沃な土地を求め当地の開拓をし、穀・麻種を植えた。律令制において長国造の領域を含め令制国としての粟国が成立した。和銅六年(713年)、元明天皇による好字令で、地名を二字で表記するため「粟」は「阿波」に変更・・・「淡路島」は国造りの最初の「島」であった・・・コレは「日本地図作成の最初の場所」・・・だった?・・・
↓↑
天正九年(1581年)
武田勝頼の命で真田昌幸は
新たに
韮崎へ築城された新府城の人夫動員を通達
新府城築城に関しては
昌幸は作事奉行の説も・・・
が、昌幸は麾下の諸将に
人夫動員を通達しているに過ぎず、
作事奉行であったとする見方を慎重視する説も・・・
同年、
元沼田城主・沼田景義が旧領奪回を図ったが、
昌幸は家臣の
金子泰清に命じて景義を討ち取った。
↓↑
「安房守(天正七年・1580年~)従五位下」
↓↑
「官位は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称。古代朝鮮史(高句麗・百済・新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のこと。中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当。各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という」・・・らしい・・・「武家官位とは、主として戦国期から江戸期にかけて、武士が任官または自称した官位(官職と位階)」・・・
ーーーーー
真田昌幸
生誕 天文十六年(1547年)
死没 慶長十六年六月四日(1611年7月13日)
改名 武藤喜兵衛→真田昌幸
別名 幼名:源五郎、通称:喜兵衛
戒名 長谷寺殿・一翁千雪大居士・一翁閑雪大居士
武家官位 安房守(天正七年・1580年~)従五位下
↓
勝海舟 安房守(文久三年・1864年・二月五日~)従五位下
・・・ナゼか「勝海舟」が「安房守(文久三年」」である・・・?
ーーーーー
「安房」の名称と由来
『古語拾遺』によれば、
阿波国において穀物や麻を栽培していた
天富命は、
東国により良い土地を求め
阿波の
忌部氏らを率いて黒潮に乗り、
房総半島南端の
布良の浜に上陸し開拓を進めた。
そして
阿波の
忌部氏の住んだ所は、
「阿波」の名をとって
「安房」と呼ばれたという。
上総国阿幡郡、
上総国阿波郡、
上総国安房郡
という表記の
木簡があり、
古くは
「阿幡」、
「阿波」
とも表記された。
↓↑
国府は現在の
南房総市府中付近に置かれ、
古代末期から中世にかけて
丸氏、長狭氏、安西氏、神余氏
などの武士団が活動し、
平安時代末期には
源頼朝の再起の地
鎌倉時代の守護は不明
室町時代の守護には
結城氏、
上杉氏
が就いた
15世紀半ば頃より
里見氏が台頭し、
戦国期には
安房統一を果たして
上総から下総の一部に至るまで勢力を張った
↓↑
豊臣秀吉による小田原城攻め以後
安房一国が里見氏の領地
関ヶ原の戦いでは、
里見氏は徳川家康を支援、加封
慶長十九年(1614年)
里見忠義
が
大久保忠隣・・・・オオクボ・おおくぼ?
改易に連座し
伯耆国
倉吉に転封・・・・倉吉?・・・蒼頡(ソウケツ・倉頡)
漢字の発明者の名前
「蒼鴂」?
その後は、
東条藩、
勝山藩、
上総
百首藩、・・・・・百首・・・「小倉百人一首」
北条藩、
館山藩
などの諸藩と、
幕府領・旗本領が置かれた
村数は
280ヵ村(天保期)
明治二年(1869年)
安房では
勝山、館山、北条
の三藩に、
新たに
長尾藩、
花房藩
の二藩が置かれた
この地の幕府領・旗本領は
安房上総知県事
柴山典・・・・・・・・・柴の山の典
の管轄となり、
翌年に
宮谷県が置かれて
柴山典が権知事となり、
安房四郡の
約5万6千石を管理
明治四年(1872年)
廃藩置県
木更津県に編入・・・・・記作等通懸に編入
明治六年(1874年)
木更津県と
印旛県・・・・・・・・・印版の懸
の合併により
千葉県に編入・・・・・・千(知)の葉(場)
明治三十年(1897年)
安房国四郡が統合
千葉県
安房郡に再編
↓↑
明治六年(1873年)六月十五日
木更津県が
印旛県に統合して
千葉県が発足
↓↑
安房坐神社は
名神大社
名神大社(みょうじんたいしゃ)
日本の律令制下において、
名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社
古代における社格の1つとされ、
その全てが
大社(官幣大社・国幣大社)に
列していることから
「名神大社」と呼ばれる。
↓↑
『続日本紀』
天平二年(730年)十月庚戌(二十九日)条
「渤海」からの貢物を・・・渤海?
・・・略称は魯
太行山脈の東方
山東省
北は渤海
東は黄海に面し
黄河の下流に位置
泰山
主要都市は
青島、泰安、威海等
諸国の
「名神社」に奉った
弘仁十二年(821年)正月四日付
太政官符に
名神は
「或は農の為に歳を祷り、
或は旱の為に雨を祈る。
災害を排すに至り荐(しきり)に徴応有り」
とある
『日本後紀』以後
次第に仏教用語の意味合いを含んだ
「明神」と混用記載
律令制の弛緩に伴って、
名神社は
二十二社へと
収縮固定されて
名神祭も廃絶した
中世以後は
社格の意味を持たない
「明神」にとって代わられた
↓↑
真田昌幸
↓↑
武田信玄の時代
天文二十二年(1553年)八月
甲斐武田家への人質として
七歳で甲斐国へ下り、
武田晴信(武田信玄)の
奥近習衆に加わった
『甲陽軍鑑』
信玄は
昌幸の父
幸隆にも劣らぬ才能を認め、寵愛
父と兄の
信綱、
昌輝と並び、
武田二十四将
父と兄弟3人が
武田二十四将に数えらた
「奥近習衆」は
『軍鑑』によれば
昌幸の他に
金丸平八郎、
曽根与一、
三枝勘解由、
三枝新十郎、
曽根総次郎
が挙げられている
↓↑
昌幸は
永禄年間に
信玄の母系
大井氏の支族である
武藤家の養子となり、
「武藤喜兵衛」を称し
足軽大将に任じられ、
その軍役は
騎馬十五騎、
足軽三十人
武藤家は
武藤三郎左衛門尉の時に
実子の
武藤与次
が早世したため、
昌幸を
養子(鳥子・擒・虜→訳理拠)にとった
↓↑
永禄七年(1564年)頃
山手殿(山之手殿、信幸、信繁らの母)を
妻に迎えた
山手殿は公家
「菊亭晴季」の娘(女)・・・規矩綴葉留記の音名(納)?
↓↑
初陣は『甲陽軍鑑』
永禄四年(1561年)九月
第四次
川中島の戦い
足軽大将として武田家奉行人にも加わった
昌幸は十五歳
↓↑
永禄九年(1566年)春、
甲府一蓮寺での歌会で
奥近習衆として
信玄の配膳役を勤めた
永禄十年(1567年)十一月
武田勝頼の嫡男・信勝が生まれた際には
山県昌景・馬場信春・内藤昌豊(昌豊)・土屋昌続(昌次)
と共に信玄の使者として
高遠城の勝頼の下に出向いた
↓↑
永禄十二年(1569年)十月六日
北条氏康・氏政・氏照
親子との
三増峠の戦いでは
先陣の
馬場信春・・・・葉場埜部葉留?
への使番を務めた
『軍鑑』によれば
北条軍との戦いで
一番槍の高名を挙げた
↓↑
元亀三年(1572年)十月
信玄の
西上作戦に参陣・・・・似史上作撰に纂字務
十二月
三方ヶ原の戦いにも参加
この際に
昌幸は浜松城に敗走した
徳川家康らを
追撃・総攻撃すべきという意見に反対
『軍鑑』によれば、
昌幸は
「武藤喜兵衛尉、
騎馬十五騎、
足軽三十人」
を率いて出陣
信玄の晩年には武田家の奉行人に列
元亀三年(1572年)二月四日
佐久郡
岩村田の
竜雲寺宛の
竜朱印状の
奉者として確認
↓↑
武田勝頼の時代
元亀四年(1573年)四月
信玄が病死すると家督を継いだ
武田勝頼に仕えた
↓↑
天正二年(1574年)
父・幸隆が死去
真田氏の家督は
長兄
真田信綱が継いでいた
天正三年(1575年)五月二十一日
長篠の戦い
信綱と次兄・昌輝が討死
昌幸は真田氏に復して家督を相続
武藤家の家督は
武藤一族の武藤常昭が継承
所領に関しては真田領のみの相続
家督相続後、昌幸は
真田領の仕置のために在国し、
勝頼への
甲府出仕も多かった
↓↑
天正六年(1578年)三月
越後の
上杉謙信死後に
御館の乱を経て甲越同盟が成立
天正七年(1579年)九月
昌幸は勝頼の命令で
北条氏政の所領であった
東上野の沼田領へ侵攻
天正八年(1580年)閏三月
沼田城攻撃を再開し、
金子泰清や藤田信吉らを投降させて
五月に沼田城を開城させた
同時に利根郡みなかみ町にあった
猿ヶ京城も攻め落とした
同年に喜兵衛尉を改め
↓↑、
従五位下
安房守
に叙任する・・・・
↓↑
天正九年(1581年)
勝頼の命で新たに
韮崎へ築城された
新府城の
人夫動員を通達
新府城築城に関しては
昌幸は作事奉行であったとする説
昌幸は麾下の諸将に
人夫動員を通達しているに過ぎず、作
事奉行であったとする見方を
慎重視する説も・・・
同年、
元沼田城主・沼田景義が
旧領奪回を図ったが、
昌幸は家臣の
金子泰清に命じて景義を討ち取った。
↓↑
天正十年(1582年)三月
織田信長・徳川家康連合軍による
甲州征伐が開始
昌幸は
武田勝頼に
甲斐国を捨てて
上野国吾妻地方に逃亡するように進言し
岩櫃城へ迎える準備をしていたが
勝頼は郡内領主
小山田信茂の居城である
岩殿城を目指して落ち、
途中で
信茂の裏切りに遭って最期を遂げた
↓↑
武田氏滅亡後、
昌幸は織田信長の家臣となって本領を安堵
織田氏の重臣
滝川一益の与力武将となった
沼田城には滝川益重が入った
昌幸は次男の
信繁を人質として
滝川一益に差し出した
↓↑
天正壬午の乱
織田氏に従属してから
僅か3ヶ月後の
天正十年(1582年)六月二日
本能寺の変で信長が横死
甲斐・信濃の旧武田領はこの事変で
森長可、毛利秀頼、道家正栄
ら
信長から
旧武田領の統治を任されていた
織田家臣らは相次いで
美濃方面に逃走し、
甲斐・信濃諏訪郡支配を担っていた
河尻秀隆
は殺害された
無主の旧武田領を巡り、
徳川家康・上杉景勝・北条氏直
らが争奪戦を繰り広げた(天正壬午の乱)
ーーーーー
・・・
・・・「千葉大学卒・現在23歳・パイロット志望・実家(大阪府池田市)はe防犯.comという防犯グッズの販売会社経営」・・・?・・・「少女誘拐監禁犯の目的」は何だったのか・・・日常生活の中に潜む「卑劣なIS予備軍の誘拐、拉致、奴隷売買」・・・「ム(私の源字・よこしま=邪・シ)」・・・「ム」の部首構成漢字は「肱(ひじ・コウ)=肉+ナ+ム」で、「腕(うで・ワン)」の形であり、「腕」の訓読みに「かいな(肩から肘までの部分・肩から手首の部分)」。「弯=亦+弓」を部首とする漢字は「わん=捥・椀・碗」の「器(うつわ・キ)」である。丸い窪(くぼみ)のある形のモノである。膝(ひざ)、肱(ひじ)の関節の窪み、指の関節の窪み部分と同時に、手首、足首、腕(捥)と足(脚・肢)、身体の骨全体の曲げるコトが出来る接合関節の部分である。「臼(うす)と杵(きね)」の「臼(うす・キュウ)の窪(くぼ)み」である・・・「踝(くるぶし・カ・ankle)」は「足首の関節の内外両側にある突起した骨・内側は脛骨(ケイコツ)の末端、外側は腓骨(ヒコツ)の末端にあたる・くろぶし・つぶぶし」の出っ張りだが・・・前回、書き込んだ「ワ・ム・ク・マ」の片仮名と、「7」の数字、それらの「左右上下斜め、反転」にした「字の形」にサラにコダワルと・・・
ーーーーー
「あぐら」を「カク」は、「胡坐」を「跨(カ)く」である。
「跨」=「足+大+一+丂(コウ)」=「またぐ・またがる・ク・ケ(クヱ)・カ(クヮ)・コ」
「丂=まがる・曲げる・枉げる・さまたげられる・コウ」
「蛙具等(あぐら)」を「斈(カク=文+子)=学・學(まなぶ・ガク)」・・・?
以下の絵の人物は
「アグラ(インドの都市)」出身の
詩人の
「ミール・タキー・ミール」が
「胡坐を跨(カ)」いている図と
「ワ・ム・ク・マ・7」の片仮名を
人体図として合成したモノ
↓↑
・・・「幻覚」を視て「恋愛の詩」をカク・・・ナゼ、「幻覚」が視えたんだか・・・「暗殺者(アサシン・(Assassin)」の常用する「ハシシ(大麻樹脂・麻薬・アサの花穂の樹脂を固めたもの・ハシシュ。ハッシッシ)常用」で狂ったのカモ・・・人間は「マンガ・動画・文字の羅列・阿字」を視ても、「ユーガのポーズ」をとっても、狂ってしまう「存在」なのかも・・・「胡座」をカイて、「ム」になっている奴らには要注意である・・・
↓↑
胡坐=あぐら=胡座・・・「粟国・安倉」・・・趺・踑
↓↑
アーグラ
(ヒンディー語=ウルドゥー語=アーグラー
英語=Agra=アーグラ)
↓↑
インドの
ウッタル・プラデーシュ州に属する都市の名
アーグラー、アグラとも表記
タージ・マハル廟
アーグラ城塞
がある
ガンジス川最大の支流の
ヤムナー川沿いに位置する都市
↓
古代叙事詩の
『マハーバーラタ』
において、
アグラヴァナ(अग्रवन:「前方の森」の意)
3世紀の
プトレマイオスの制作した
世界地図にも、
その位置が記録されている
1475年頃
ラージャ・バダル・シング
によって現代の
アーグラとなる都市が設立
↓
16世紀初頭
最後の
デリー・スルターン朝の
ローディー朝の都
↓
1526年
ローディー朝を倒して
ムガル帝国が建国され
3代皇帝の
アクバルの時代に都となり
赤砂岩で囲まれた
アーグラ城塞
首都宮城の
ファテープル・シークリー
1613年
シカンドラー霊廟が建立
↓
5代皇帝の
シャー・ジャハーン
は、愛妃
ムムターズ・マハル
の死を嘆き、
この街に
1622年
白亜の霊廟
タージ・マハル(国家の拠り所の意)廟を建てた
囚われの塔(ムサンマン・ブルジ)には
王が
7年間幽閉された
↓
19世紀
イギリスの支配下の植民地
1927年
アーグラ大学が建てられた
↓
アーグラ出身の
ウルドゥー文学の抒情詩の巨匠
ミール・タキー・ミール・・・?
↓ ・・・見入る・太記意・魅入る(観意留)
meal=食事→食字→殖字?
mill=粉挽き
mill=工場
カミ(製紙工場)=paper mill
加味・加美
咬・噛・嚙
髪香状?
「神・守・上」の口上
↓ ミール=ロシア語で
↓ 「平和・世界」を意味?
(1723年~1810年)
インドの詩人
本名は、
ムハンマド・タキー
抒情詩(ガザル)の巨匠
先祖はアラビア半島から移住
曽祖父の時代にアーグラに定住
ミールは幻覚で現れた人物に恋をし、
この体験がもとで詩作を始めた
文人となった後は
ムガル帝国の高官の庇護を受け、
戦闘にも参加
アワド太守の誘いを受けて
ラックナウへ移住
晩年をすごした。
↓↑
作品
ウルドゥー語の
ガザル(抒情詩)で、
恋愛詩
ミールのガザル詩集は6巻
マスナヴィー形式による
恋愛物語も有名
他の著作
ウルドゥー詩人の列伝
『ニカートゥッシュアラー』
(Nukat-us-Shura=詩人たちの注目すべき諸点の意)
自伝
『ズィクレ・ミール』
(Zikr-e-Mir、ミールの物語)が
ペルシア語で書かれている
↓↑
ガザル
アラビア語の
古典の定型詩に由来
他の言語に伝わり、各地に広まった
短い定型詩
5詩句~10詩句が一般的
アラビア語で
「紡ぐ」を意味する
語根「ghazala」に由来
インドやパキスタンでは、
現在も恋愛詩として鑑賞
特に
ウルドゥー語の
ガザルは
カッワーリー
などの歌曲に用いられ、
映画で使われることも多・・・
ーーーーーー
「ミル」の音元と語源・・・付録
↓↑
「紙・鉄鋼・織物」などの製品を作る
工場,製作所,製造所
a steel (a paper) mill
製鋼[製紙]工場.
製粉機を備えた
粉ひき場・製粉所・精米(麦)所
水車場・風車場
「水車、風車」小屋
a water (a wind)mill
「ひき(挽)臼うす・臼」
粉砕機・製粉機
籾(もみ)すり機・精米(麦)機
「コーヒー(珈琲・coffee)
胡椒・肉」などの
「ヒキ(挽き)器」
a coffee (a pepper)mill
「手回し臼(うす)→碓(うす・タイ)」
a hand mill
↓↑
No mill, no meal.
「ひき臼がなければ粉はない=まかぬ種は生えぬ」
↓↑
回転運動を利用した工作機械
a rolling mill
圧延機
断裁機
研磨機
圧搾機
a lapidary mill
機械的に大量事務処理を行う
役所、事業所、事務所
機械的業務
a DIPLOMA MILL
a DIVORCE MILL.
機械、
ライス盤の回転刃
サラサ捺染筒や
紙幣印刷板などに
模様・図柄を転写する
型押し鋼鉄ローラー.
ボクシングの試合
殴り合い.
treadmill.
機関車
航空機・自動車・オートバイ・ボート
などの
エンジン.
タイプライター
留置場
ぶた箱=軍刑務所・・・豚箱→猪子のハコ
牛の群れの旋回
ダンス(舞踏)・・・・部等・分等・武等→天武天皇?
ミル=フォークダンスで
男女2組が片手を
中央で合わせて
水車のように回ること
draw water to one's (own) mill
我田引水する
↓
ひき臼でひく
物を製粉機、粉砕機にかける
穀物をつく・殻をとる・籾すりをする
木材をひく・こびきする・ひき割る
圧延機・縮絨機・断裁機
研磨機・打出機・圧搾機
などにかける
mill grain
穀物をひいて粉(こな・フン)にする
mill paper
製紙にする
貨幣鋳造
硬貨などに
耳(へり・縁)をつける・・・耳=みみ・のみ・ジ・ニ
耳朶 (ジダ)
耳鼻科
外耳・心耳・俗耳
内耳・馬耳
耳順
耳元・空耳・早耳・福耳
硬貨に
「ギザギザ」をつける・・・ギザギザの歯・波・葉
チョコレート(chocolate・貯古齢糖・猪口令糖)
などをカキ混ぜる
かき混ぜて泡立たせる
人に拳骨(げんこつ)を食らわす
ぶん殴る
殴り合いをする
格闘する
打ち勝つ
投獄する.
物事をあれやこれやと
考えを巡(めぐ)らす
熟考する(over)
自動詞で
ひき(挽)臼
製粉機、粉砕機にかける
粉になる
家畜・人の群れが
当てもなく動き回る・・・放浪・彷徨(さまよう)
ぐるぐる回る
うろつく
思いが駆け巡る(about,around)
crowd milling in the theater lobby
劇場のロビーをウロウロしている人の群れ
殴り合う
鯨(くじら・ゲイ)が
急に向きを変えて泳ぐ.
mill around
戦車がもうもうと土煙をあげて走り回る
Mill on the Floss
『フロス川の水車小屋(G.Eliotの小説・1860)』
・・・「エリオット(重理於通訳)の背負う節」?・・・
ーーーーー
・・・みいる・ミイル・・・みる・ミル・・・・「ニンゲン」は個々に於いても、社会全体に於いても「クル」ってしまう「存在」であることを「自覚」すべきである・・・肝(きも)に銘(メイ)ジても、尚且つデある・・・