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コジキジゲン

シーボルト=置維波斯徳利=施福多=失乙勃児篤=勃児杜

2018-10-30 20:44:21 | 古事記字源

 ・・・「寅十一月十一日」・「其扇(お瀧)→お稲(失本イネ・楠本伊篤)→唯(高子)→」・・・「お稲」は「伊達宗城」から厚遇され「失本イネ」という名を「楠本伊篤(くすもと いとく)」と改名・・・「唯(高子)」・・・シーボルト・・・
 Siebold=シーボルト
      施福多
      施勃児篤
       勃児杜
     矢以勃児杜
      失勃児篤
     失乙勃児篤
     我爾徳児


ーーーーー
 お稲(いね)の父

 シーボルト
 1796年2月17日  ~1866年10月18日 ~1903年8月26日

 丙辰(乙・癸・戊)⇔丙寅(己・丙・甲)⇔ 癸卯(甲・ ・乙)
 庚寅(己・丙・甲)⇔戊戌(辛・丁・戊)⇔ 庚申(己・壬・庚)
  害
 丁巳(戊・庚・丙)⇔丙寅(己・丙・甲)⇔ 丙戌(辛・丁・戊)
  子丑=空亡
 ↓↑
「寅(とら)十一月十一日(1830年12月25日)」
 庚寅(己・丙・甲)
 戊子(壬・ ・癸)
 乙丑(癸・辛・己)
 ↓↑
 1829年12月
 長崎オランダ商館の
 外科医シーボルトは
 国禁を犯した咎により国外迫放
 妻、滝(其扇)は22歳
 娘、いねは2歳
 翌年夏
 オランダからの
 母娘宛の
 シーボルトの手紙は
 片仮名毛筆であった
 ↓↑
 文政七年(1824)十一月二十四日付
 東インド総督
 ファン・デル・カペレンに宛てシーボルトの手紙報告
 「昨年すでに私自身の勘案で
  出島に植物園を作り
  珍しい、注目すべき植物を栽培
  収集のため、私の
  長崎の外二〜三マイルの所への
  散歩は非常に役立っている
  五月に私は弟子二人を
  肥後と筑前に派遣し、
  彼等から珍しい博物を得た
  日本各地の数百種の乾燥した植物を得
  長崎の植物を大部分集め、乾燥し
  珍しいものの一部は植物園で栽培し
  他のものは、写生させた
  来年私の植物学の研究を
  バタビアに提出できると思う」・・・
 ↓↑
 シーボルトの出島の植物園
 オランダが植民地経営のため
 世界に張り巡らせた植物園組織の一角で
 ジャワからオランダへの便船を待つ間の
 植物の育成と移植のためのもの
 採集した植物は
 長崎出島→バイテンゾルフ(ジャワ)
 →ケープタウン(南アフリカ)→ライデン (オランダ)
 とつながる植物園の組織によって移送
 出島の植物園には
 シーボルトが帰国する
 文政十三年(1830)までに
 日本と日本に定着した
 中国の有用植物と鑑賞用植物
 1400種類以上の苗木が植えられた
 ↓↑
 ケンペル
 ツュンベリー
 が手掛けた出島の植物園を復興、再建
 シーボルトは、彼らの功績をたたえた記念碑を建立
 ↓↑
 1835年初版『日本植物誌』で
 シーボルトが
 「冬のバラ」
 と紹介したのは
 ツバキ「Camellia japonica」=椿
 発表後
 ツバキは花木の貴族とたたえられ、
 ヨーロッパで
 ツバキブーム
 パリで
 紅白のツバキの
 コサージュや花束が
 夜会のアクセサリーとして人気を集め
 オペラ
 『椿姫』が誕生・・・つばき
 シャネルの
 カメリア・シリーズ
 ココ・シャネルは
 ツバキの花から生まれた
ーーーーー
 1831年10月
 「お滝(瀧)」は近況を記した返事に
 「おいねに更紗二~三反
  また他に医書を
  又の便りに送り下され候」
 と伝え、翌年
 1832年11月
 贈物の礼状に
 「おいね(稲)は
  お送り下され候語学書で毎日勉学いたしており
  明年は
  正しき言語にて
  お返事差し上げ得ることと存じ候」
 と記録
 「いね(稲)」は
 父から贈られた
 オランダの図書
      皿や時計
      人形
 などに囲まれた環境で育った
 「滝(瀧)」の再婚先は船問屋
 ↓↑

 「いね」は
 13歳で・・・十三歳・・・拾参(サン・纂・簒・讃)差異
 医学を学ぶため家を出る決意
 二宮敬作
 に紹介された
 シーボルトの有能な弟子
 岡山の
 石井宗謙
 に強姦され、妊娠
 ひとりで娘を出産
 その娘に
 唯(山脇泰輔夫人、高子)・・・唯(ゆい・ただ)=高の子?
 と名付けた
 185l年
 「いね(稲)」と娘「唯」は「滝(瀧)」のもとに帰り
 産院を開業
 外科を
 阿部魯庵
 に師事
 ↓↑
 1854年11月
 二宮敬作は「いね」と再会
 石井宗謙との事情を知って
 再び「いね」を
 宇和島に伴い・・・宇和島=ウワジマ
 寄寓していた
 村田蔵六に語学を学ぱせた
 その間
 「滝」は孫娘の「唯」を預かり養育し
 「いね」は敬作の指導を受け
 患者の代診もした
 ↓↑
 1859年8月
 シーボルトの再来日
 1862年の離日までの3年間
 父娘の関係は師弟
 「いね」は父に頼み
 1859年から
 オランダ商館
 外科医ポンペらに師事
 10年間最新の西洋医学を修めた
 1870年
 東京築地で開業
 1873年7月
 宮内省御用掛
 権典侍
 葉室光子の
 若宮誕生の侍医
 1903年8月26日死没
ーーーーー
 シーボルト
 1823年8月
 長崎出島へ
 オランダ商館の医師として来日
 「其扇(そのぎ)=お滝」に出会う
 11月に故郷の両親に宛て
 「素晴らしく可愛い日本の女性と結婚しました」
 「お滝さん以外の女性を妻に迎えることは絶対にありません」
 「お滝さん」とは「其扇」の本名で
  楠本タキ(滝・おたき)
 そして
 「お稲(いね)」が誕生
 1829年
 シーボルトは国外追放
 「ソノキサマ マタオイネ カアイノコトモノ シボルト」
 「ニチニチ ワタクシカ
  ホマエ マタ ホイネ ノ ナヲ
  シバイ シバイ イフ」
 (日々、私は、お前、また、お稲の名をしばしば言う)
 「ナントキワ オマエヲ マタ オイネ
  モット アイスルモノ ヲ ミルカ」
 (いつか、お前を、またお稲を、もっと愛する者を見るのか)
 「お滝」
 「余儀なく義理にて他へ嫁し申候」と
 再婚
 自分と娘の肖像を
 蓋(ふた・亠)に描かせた煙草入れ

 ↓↑
 「Hydrangea otaksa」
 1832年
 『日本』刊行
 侍、町人、僧侶など日本人の絵姿を紹介
 「お滝さん(otaksa=おたくさ=紫陽花)」の肖像画
 『日本植物誌』刊行
 長崎の中国寺で採取した
 「空色の紫陽花=Hydrangea otaksa
        =ハイドランゼア オタクサ)」
 と名づけて紹介
 「オタクサ」は
 別の学者により既に名がつけられていた品種で
 無効
 長崎市の花は
 「紫陽花(あじさい・阿字斉)=おたくさ=お滝さん花」
 「長崎紫陽花まつり」=「ながさき おたくさ まつり」
ーーーーー 
 19世紀の長崎で活躍した
 ドイツ人医師シーボルト(1796~1866)
 に宛てた妻たきの手紙が、オランダで見つかった。
 シーボルトが
 国外追放された直後に書かれたとみられ、
 愛する人と引き裂かれた悲しみを切々とつづっている。
 「鎖国」期の日本で様々な資料を収集していたシーボルトは
 1828年、日本地図を持ち出そうとして露見し、
 国外追放となる。
 今回見つかったのは、帰国途中の
 インドネシア・バタビア(ジャカルタ)から
 日本に残した妻
 其扇(そのぎ、たき、滝)に出した手紙に対する返事
 「寅(とら)十一月十一日(1830年12月25日)」
 の日付があり
 帰国したシーボルトに
 たきが送った最初の手紙とみられる
 ↓↑
 ライデン大学図書館が所蔵していたもので、
 西南学院大の宮崎克則教授(日本近世史)が現地で確認した。
 手紙は女性のくずし字で記され、約3・4メートルに及ぶ。
 「涙が出ない日はない」
 「おいね(シーボルトとの娘、イネ)は
  なんでもわかるようになり、
  毎日あなたのことばかり尋ねます。
  私もあなたへの思いを焦がしています」
 などと、切ない思いがしたためられている。
 ↓↑
 出島に出入りしていた「たき」は、
 シーボルトとの間に「イネ」をもうけた。
 追放された夫の帰りを待ったが、その後再婚した。
 宮崎さんは
 「シーボルトの私生活がわかる一級資料だ。
  行間からは彼女のしっかりした性格、
  夫への思いがよく伝わってくる」
 と話している。(編集委員・中村俊介)
 ↓↑
 「たき」からシーボルトへの手紙(部分)
 ↓↑ 
 「3通の手紙は届きました。ありがたく思っています。
  お元気でいらっしゃると聞いて、
  とてもめでたく思っています。
  私とおいねも無事に暮らしています。
  船の旅を心配していましたが、
  滞りなくバタビアにお着きになって安心しました」
 ↓↑ 
 「不思議なご縁で数年間
  おなじみになっていたところ、・・・・おなじみ?
  日本でいろいろと心配事が起こり、
  あなたは去年帰られました。
  涙が出ない日はありません」
 ↓↑
 「お手紙をもらい、
  あなたのお顔を見た気持ちになり、
  とてもゆかしく思います。
  この手紙をあなたと思って、
  毎日忘れることはありません。
  おいねはなんでもわかるようになりました。
  毎日あなたのことばかり尋ねます。
  私もあなたへの思いを
  焦がしています(中略)」・・・焦(こ)がす?
 ↓↑
 「私とおいねのことは心配しないでください。
  おじさんのところにいますからご安心ください。
  病気にならないよう祈っています。
  どうした縁でこうなったのでしょう。
  そのことばかり考えて暮らしています(中略)」
 ↓↑
 「来年のお手紙を、首を長くして待っています。
  私は朝と夕に
  あなたの息災と延命を祈るよりほかはありません。
  来年はちょっとでもいいから
  お手紙をください。
  ひとえに・・・・・・ひとえ?
  待っています。
  申し上げたいことはたくさんありますが、
  次の手紙にします。
  名残惜しい筆を止めます。
  めでたくかしく。
  寅十一月十一日
  其扇
  シーボルト様」
 ↓↑
 江戸時代に来日し、
 その後国外追放になった
 ドイツ人医師シーボルトに、
 日本人妻
 お滝が送った最も古い手紙が
 オランダ・ライデン大で見つかった。
 シーボルトへの深い愛が伝わる内容で、
 調査した西南学院大の宮崎克則教授は
 「欧州に送られた最も古い日本語のラブレター」
 としている。
 ↓↑
 オランダ語訳の存在は知られていたが、
 日本語原本の所在は不明だった。
 ライデン大大学院生が
 同大の日本関係資料の中で発見し、
 宮崎教授が確認した。
 ↓↑
 シーボルトは
 長崎・出島のオランダ商館の医師として
 1823年に来日。
 遊女だった
 お滝と知り合い、
 後に初の日本人女医となる娘
 イネを授かる。
 だが、持ち出しが禁止された
 日本地図を国外に運ぼうとしていたことが発覚し、
 29年末に国外追放となった。
 ↓↑
 手紙は
 30年12月(1830年12月25日付)に書かれた。
 シーボルトが
 オランダに戻る途中の
 インドネシアから同年3月に書き送り、
 8月に長崎に届いた
 3通の便りへの返事。
 オランダのシーボルトの元には
 31年夏ごろ、届けられたとみられる。
 ↓↑
 手紙は全長3・4メートルもあり、
 「この(3通の)手紙をあなたと思って、
  毎日、忘れることはありません」
 「くれぐれも病気にならず元気に暮らしてください」
 などと記し、娘の様子にも触れている。
 宮崎教授は筆跡などから
 お滝が語った内容を
 第三者が代筆したと分析している。
 ↓↑
 お滝が
 手紙と一緒に送ったとみられる
 自身と娘の姿が描かれた
 嗅ぎたばこ入れは現在日本にあり、
 シーボルトが
 お滝に送った手紙はドイツにある。
 シーボルトが59年に再来日した際に、
 お互いの品を交換したらしい。
 共に保存状態も良く、宮崎教授は
 「お互いのことを
  本当に大事に思っていたのでしょう」
 と話している。
 (2018/10/12付 西日本新聞朝刊)
 ↓↑
 2018年10月27日 03時34分
 江戸時代後期に来日し
 長崎を拠点に近代医学を広めたが
 国外退去処分となった
 ドイツ人医師シーボルト(1796~1866年)に、
 日本での妻の滝が送った手紙が、
 オランダのライデン大学で見つかった。
 遠く離れた夫への愛情がつづられている。
 ↓↑
 シーボルトは
 1823年、長崎・出島のオランダ商館に赴任。
 滝との間に娘
 いねを授かった。
 28年、帰国の際に
 禁制品の日本地図などを持ち出そうとする
 「シーボルト事件」を起こし、
 退去処分を受けて欧州へ戻った。
 ↓↑
 帰国の途中でシーボルトは
 妻子へ書簡を3通送っており、
 手紙は最初の返信。
 長さ約3・4メートルの巻紙につづられ、
 1830年12月25日付。
 (共同)
 ↓↑
 「其扇(そのぎ)」の母、
 「きよ(イネの祖母)」の
 皓台寺の・・・皓台寺(コウダイジ)
       =皓(白告)台(ム口)寺(十一寸)
 標文の戒名は
 「一鑑古明信女」
 (佐平妻
  きよ
  弘化二年(1845)四月二十四日没 得年六十三歳)
 ↓↑
 1845年2月
 イネが
 伊予(伊豫)国の・・・「壱与・壹與・台与・臺與」の国
                鯛の国・・・他意の句爾
                碓の国・・・小碓命
 二宮敬作を頼って・・・二の宮(寓)、敬の作
 卯之町に来た・・・ウサギのマチ=「菟・兎・兔・宇佐義」
 其扇(滝)は 38 歳
 おイネ  は 18 歳
 敬作   は 41 歳
 ↓↑
 おイネが初めて
 伊予国
 卯之町を訪れた時期
 最初の手紙の日付は
 「出島にて、1845年11月1日」
 最後に「Sono ook」・・・其の扇?
 通詞の
 名村貞四郎が書いた
 手紙の中ほどに
 「この 1845年2月に
  おイネは
  伊予(伊豫)国へ一人で旅たちました」とあり、
 「その国は
  あなた様の門人
  二宮敬作がおりますので、
  あなた様の学問的講義・・・」
 ↓↑
 以上も以下もスベテの原文は以下
https://search.・・・から
ーーーーー
 ・・・???・・・以下は繰り返し何度もダブル・・・
 1)シーボルト
 Siebold, Carl Theodor Ernst von
 1804.2.16. ウュルツブルク
 ~
 1885.4.7. ミュンヘン
 ドイツの動物学者
 ↓↑
 3)P.F.von シーボルト
 の伯父
 生物学者の家庭に生れ
 ベルリン,ゲッティンゲン両大学に学び
 開業医を営んだのち
 エルランゲン・フライブルク
 ブレスラウ・ミュンヘン
 各大学教授
 無脊椎動物を
 F.スタニウスが脊椎動物を担当し
 共著『比較解剖学教科書』
  Lehrbuch der vergleichenden Anatomie (1846)
 観察事実に基礎をおいた
 比較解剖学書として最初のもの
 1852年
 『動物学雑誌』
  Zeitschrift für wissenschaftliche Zoologie発刊
 生物学の専門誌として最も重要なものの一
 彼は
 寄生虫学者・・・寄生の虫(中ム)の学者
      ・・・既成(キセイ)の同音異字のスベテ・・・
 としても著名
 寄生虫が
 その
 生活史の
 各段階に応じて
 異なる種類の動物に
 寄生する場合のあることを・・・プチブル意識の発展プロセス?
 実例をあげて示した
ーーーーー
 楠本 お稲
 宇和島藩主
 伊達宗城から厚遇され
 宗城から
 「失本イネ」・・失(𠂉一人)われた本?
 という名の改名を指示され
 「楠本伊篤(くすもと いとく)」・・・楠の本の伊の篤
 と改名
 1871年(明治四年)
 異母弟
 シーボルト兄弟
 2)兄アレクサンダー
 4)弟ハインリヒ
 の支援で東京は築地に開業し
 福澤諭吉の口添えにより
 宮内省御用掛となり
 金100円を下賜され
 明治天皇の女官
 葉室光子の出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)
 医学技術は評価され
 異母弟
 ハインリヒ
 とその妻
 岩本はな・・・「岩本=がんぽん=元本」のハナ?
 の
 第一子の助産も彼女が担当(子は夭折)
 1875年(明治八年)
 医術開業試験制度始まる
 女性であったイネには
 受験資格がなかった
 晧台寺墓所を守るため
 東京の医院を閉鎖し
 長崎に帰郷
 1884年(明治十七年)
 医術開業試験の門戸が女性にも解放
 57歳になっていたため産婆として開業
 62歳の時、娘
 高子(唯・ただ)一家と同居のために
 長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業
 後は
 異母弟
 ハインリヒの世話となり余生
 1903年(明治三十六年)
 鰻と西瓜の食べ合わせで・・・ウナギとスイカ?
 食中毒(医学的根拠はない)で死去
 享年77・・・七十七・七拾七・七足七

       漆拾漆・ウルシを拾うウルシ・七七(かぞえ)

 イネは生涯独身だが
 石井宗謙との間に儲けた娘
 「唯(ただ・ユイ)」がいた・・・・ユイ=結い・由比

 楠本 高子(くすもと たかこ=唯(ただ・ユイ))
 嘉永五年二月七日 ~昭和十三年 
 (1852年2月26日) ~(1938年)7月18日)
 乙酉(庚・ ・辛)⇔戊寅(己・丙・甲)
 戊寅(己・丙・甲)⇔己未(丁・乙・己)
 丁酉(庚・ ・辛)⇔辛亥(戊・甲・壬)
  辰巳=空亡

ーーーーー

 3)Siebold=シーボルト
      施福多
      施勃児篤
       勃児杜
     矢以勃児杜
      失勃児篤
     失乙勃児篤
     我爾徳児
 ↓↑   
 おたき・おたくさ
 紫陽花=あじさい=阿字斉
 烏頭紫陽花
  渦紫陽花
  「紫陽花」 という漢字を
 「あじさい」の漢字として引用し始めたのは
 源順(みなもとしたごう)・・・源(水原)の順(川の頁)
 ↓↑
 2)シーボルト=ズィーボルト=ジーボルト
 Siebold, Alexander Georg Gustav von
 1846.8.16. ライデン
 ~
 1911.1.23. テグリー
 ドイツの外交官
 3)P.シーボルトの長子
 安政六 (1859) 年
 父の再訪日に同伴して来日
 三瀬周三
 らについて日本語を修得し
 のち
 駐日イギリス公使館員 (通訳官)
 明治三 (1870) 年以後
 日本政府の外務省
 ローマ
 ベルリンの日本公使館に奉職
 明治初期から中期にかけ
 日本の外交交渉に貢献
 1910年在職
 40年にあたり
 勲二等瑞宝章を受けた
 ↓↑ ↓
 明治期のお雇い外国人
 3)フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
  の長男
 オランダ・ライデンに生まれる
 安政六(1859)年
 父に連れられて来日
 日本語を習い
 文久二(1862)年~明治三(1870)年まで
 在日イギリス公使館勤務
 1866年
 パリ万国博覧会参加の
 徳川昭武一行に付いて訪欧
 一行の動静をイギリス外務省へ逐一内報
 3年民部省雇
   外債切り替え交渉のため
   特例弁務使
   上野景範に従ってロンドンへ出張
 6年太政官正院翻訳局に配属
   ウィーン万国博覧会副総裁
   佐野常民に随行
 8年大蔵省雇
 11年外務省雇
   パリ万国博覧会副総裁
   松方正義に随行
   万博後、在独公使館付
 15年条約改正予議会
 19,20年条約改正会議で東京へ呼ばれ
     通訳官を務め
     会議無期延期直後
     了解工作のため内命を受け
     ヨーロッパ各国を歴訪
     後は終生ヨーロッパにあって
     新聞論調の本省への報告などに従事
     1894年
     日英条約改正交渉のため
     特命全権公使
     青木周蔵に付いてロンドンへ出張
     日清戦争,日露戦争の際は
     世論工作に従事
     1910年勲1等瑞宝章受章
 ↓↑  ↓↑
 シーボルトを便宜的に分類するため
 1)シーボルトの伯父
 2)シーボルトの長男
 3)シーボルト本人自身
 4)シーボルトの次男
 と頭に番号を振った
 ↓↑  ↓↑
 1)シーボルト
 Siebold, Carl Theodor Ernst von
 1804.2.16. ウュルツブルク
 ~
 1885.4.7. ミュンヘン
 ↓↑
 ドイツの動物学者
 3)P.F.vonシーボルトの伯父
 ↓↑
 3)シーボルト
 Siebold, Philipp Franz von
 1796.2.17. ウュルツブルク
 1866.10.18. ミュンヘン
 ドイツの医者
 文政六 (1823) 年
 長崎オランダ商館の医師として来日
 翌年長崎郊外鳴滝に診療所を兼ねた学塾を開く
 伊東玄朴・高野長英・黒川良安
 ら数十名の門人に
 西洋医学
 一般科学を教授
 商館長の江戸参府に随行 (26)
 日本に関する研究資料を集めた
 シーボルト事件
 文政十二 (1829) 年
 日本追放
 安政六 (1859) 年
 オランダ商事会社員として再来日
 幕府の外交にも参与
 文久二 (62) 年帰国
 『ニッポン』 Nippon (32~54)
 『日本植物誌』 Flora Japonica (35~70)
 『日本動物誌』 Fauna Japonica (33~50)
 など刊行
 ↓↑
 3)フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
 1796年
 ドイツ生まれ
 1823年
 長崎・出島のオランダ商館付の
 医師兼自然科学調査官として来日
 私塾を開設し西洋医学を伝え
 オランダ政府の命で
 動植物や鉱物、民族資料を集めた
 1828年
 積み荷に幕府禁制の地図が発見され
 国外追放処分となった(シーボルト事件)
 1859年
 2度目の来日
 外交顧問などを務め3年滞在
 再び資料収集をして帰国
 1866年、70歳で病死
 (2016-10-11 朝日新聞 夕刊 文化芸能)
 ↓↑
 3)ジーボルトとも・・・
 1823年長崎出島に着任
 日本研究のかたわら日本人患者を診療し
 1824年
 長崎郊外に鳴滝(なるたき)塾
 高野長英
 高良斎(こうりょうさい)
 伊東玄朴
 戸塚静海
 美馬順三
 二宮敬作
 らの門人を指導
 1826年
 商館長の江戸参府に同行
 1828年シーボルト事件
 翌年追放
 日蘭通商条約締結後の
 1859年
 2)長子アレクサンダー〔1846-1911〕
 を伴って再来日
 《日本》《日本動物誌》
 《日本植物誌》《江戸参府紀行》
 などの著書
 長崎滞在中の
 其扇(そのぎ・お滝)
 との間に
 娘〈いね・楠本いね)を儲ける
 アレクサンダーは
 英国公使館などの通訳を経
 1870年~1910年
 日本外務省に勤めた
 ↓↑
 4)シーボルト
 Siebold, Heinrich Philipp von
 1852~1908
 ドイツ人外交官
 1852年7月21日 ドイツのボッパルトで誕生
 ~
 1908年8月11日
 3)P.F.シーボルトの次男
 明治二年(1869)
 2)兄A.G.シーボルトにしたがい来日
 オーストリア-ハンガリー帝国
 公使館の代理公使
 横浜領事代理
 上海総領事
 などをつとめた
 勤務のかたわら
 考古学の研究にあたり
 「考古説略」をあらわした
 1908年8月11日死去。56歳
 ↓↑
 幕末明治期の
 オーストリア=ハンガリー帝国の外交官
 ライン河畔ボッパルトで
 医学者フィリップの次男
 父の影響で
 東洋の文化と歴史に関心を抱き
 駐日イギリス公使館
 通訳官の
 2)兄アレキサンダーが一時帰国した際
 その秘書に日本語を学び
 1869年
 兄と一緒に日本に発つ
 明治五(1872)年一月
 日本代表部の臨時通訳練習生
 10月
 ウィーン万国博覧会の日本万博委員会の連絡係
 六年一月
 博覧会への陳列品と共にウィーンに行き
 同年三月
 名誉通訳官に昇任
 翌年6月再来日
 明治十六年2月
 領事館官房書記官
 後
 代理公使
 横浜代理領事
 1等官房書記官
 上海総領事代理
 などを歴任
 同29年7月10日離日
 『日本考古学覚書』(1879)
 『アイヌ民族研究』(1881)
 を書く
ーーーーー
 3)シーボルト
 ドイツ人の医師,生物学者
 バイエルンの
 ビュルツブルクの医師の家に生まれる
 ビュルツブルク大学で
 医学,植物学,動物学,地理学
 などを学び
 1820年学位を得る
 1822年
 オランダ領東インド会社付の医官
 1823年
 ジャワに赴任
 日本に任官
 文政六(1823)年八月
 長崎出島に入った
 はじめ商館の内部で
 市内の
 吉雄幸載の私塾などで
 診療と講義
 翌年長崎奉行から許され
 郊外の鳴滝に学舎を造った
 学生の宿舎や診療室
 薬草園まで備え
 鳴滝塾とし
 週1回出張
 実地の診療や医学上の臨床講義
 様々な分野の学問の講義を行い
 小関三英・高野長英・伊東玄朴・美馬順三
 二宮敬作らの蘭学者を育てた
 文政九年
 オランダ商館長の江戸参府に随行し
 1カ月余り江戸に滞在
 高橋景保・大槻玄沢・宇田川榕庵
 ら江戸の蘭学者とも親交
 長崎へ帰ったシーボルトと
 高橋や間宮林蔵らとの交際のなかで
 間宮が疑惑を持ったのをきっかけに
 同11年
 任期が満ちて帰国するシーボルトの乗った船が
 嵐によって戻された際に
 荷物が調べられ
 国禁違反が発覚
 高橋が
 シーボルトの
 『フォン・クルーゼンシュテルン世界周航記』
 と
 オランダ領のアジア地図
 などと引き換えに
 伊能忠敬の
 『日本沿海測量図』の
 コピーなどをシーボルトに渡していた
 ほかにも
 葵の紋服などをシーボルトが持ち出そうとしていた
 高橋は裁判の途中に獄中で死亡
 シーボルトは国外追放で
 同12年12月に日本を去った
 ヨーロッパに戻ったシーボルトは
 日本関係の書物を次々に発表
 日本学の権威としてヨーロッパで重要視
 オランダ国王を動かし
 幕府に開国を勧める親書を起草
 この親書は
 弘化一(1844)年
 幕府に伝えられたが
 幕府はこれを拒否
 日本が開国した際に
 ヨーロッパ諸国と結ぶべき
 条約の私案を起草して
 オランダ政府に伝え
 この条約案は
 嘉永五(1852)年
 クルティウスに託され
 幕府の手に届けさせた
 開国後
 クルティウスは
 シーボルトに対する
 追放の解除を幕府に要請
 安政五(1858)年
 日蘭修好条約の締結
 同六年シーボルトは念願の再来日
 文久二(1862)年
 日本を去り
 ミュンヘンで亡くなった
 再来日で帯同していた長男の
 アレクサンダーは日本に留まり
 イギリス公使館通訳
 明治三(1870)年以降は政府のお雇い
 外交政策などの相談役
 次男の
 4)ハインリヒも
 同2年に来日
 外交官として長年日本に滞在
 楠本其扇(お滝)との間に生まれた
 楠本イネは産科医として知られた
 ↓↑
 ヨーロッパに
 3)シーボルトによって紹介された
 日本の風物は
 『日本=日本誌』
 『日本とその周辺諸地域(蝦夷,南千島,樺太,朝鮮,琉球)
  についての記述集成』
 としてライデンで1832年~54年までに刊行
 『日本動物誌』(1833~50)
 『日本植物誌』(1835~70)
 ↓↑
 日本にピアノが伝来したのは
 3)シーボルトが
 1823年(文政六年)に持参した
 1826年(文政九年)
 シーボルトが江戸に来たとき
 最上徳内は
 自分の蝦夷地測量図を貸し
 アイヌ語辞典編纂を援助し
 シーボルトはその著《日本》で
 徳内の業績をたたえた
 ↓↑
 「お稲」は
 3)父シーボルト
 の名に漢字を当て
 「失本(しいもと)イネ」とも名乗った
ーーーーー
  楠本 お稲
 宇和島藩主
 伊達宗城から厚遇され
 宗城から
 「失本イネ」という名の改名を指示され
 「楠本伊篤(くすもと いとく)」と改名
 1871年(明治四年)
 異母弟
 シーボルト兄弟
 2)兄アレクサンダー
 4)弟ハインリヒ
 の支援で東京は築地に開業し
 福澤諭吉の口添えにより
 宮内省御用掛となり
 金100円を下賜され
 明治天皇の女官
 葉室光子の出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)
 医学技術は評価され
 異母弟ハインリヒ
 とその妻
 岩本はな
 の第一子の助産も彼女が担当(その子は夭折)
 1875年(明治八年)
 医術開業試験制度始まる
 女性であったイネには受験資格がなかった
 晧台寺墓所を守るため
 東京の医院を閉鎖し
 長崎に帰郷
 1884年(明治十七年)
 医術開業試験の門戸が女性にも解放
 57歳になっていたため産婆として開業
 62歳の時、娘
 高子(唯・ただ)一家と同居のために
 長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業
 後は
 弟ハインリヒの世話となり余生
 1903年(明治三十六年)
 鰻と西瓜の食べ合わせで
 食中毒(医学的根拠はない)で死去
 享年77
 イネは生涯独身
 石井宗謙との間に儲けた娘
 「唯(タダ)」がいた
ーーーーー
 Siebold=シーボルト
      施福多
      施勃児篤
       勃児杜
     矢以勃児杜
      失勃児篤
     失乙勃児篤
     我爾徳児
 ↓↑   
 おたき・おたくさ
 紫陽花=あじさい=阿字斉
 烏頭紫陽花
  渦紫陽花
 「紫陽花」 という漢字を
 「あじさい」の漢字として引用し始めたのは
 源順(みなもとしたごう)
 ↓↑
 シーボルト=ズィーボルト=ジーボルト
 Siebold, Alexander Georg Gustav von
 1846.8.16. ライデン
 ~
 1911.1.23. テグリー
 ドイツの外交官
 P.シーボルトの長子
 安政六 (1859) 年
 父の再訪日に同伴して来日
 三瀬周三
 らについて日本語を修得し
 のち
 駐日イギリス公使館員 (通訳官)
 明治三 (1870) 年以後
 日本政府の外務省
 ローマ
 ベルリンの日本公使館に奉職
 明治初期から中期にかけ
 日本の外交交渉に貢献
 1910年在職
 40年にあたり
 勲二等瑞宝章を受けた
 ↓↑ ↓
 明治期のお雇い外国人
 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男
 オランダ・ライデンに生まれる
 安政六(1859)年
 父に連れられて来日
 日本語を習い
 文久二(1862)年~明治三(1870)年まで
 在日イギリス公使館勤務
 1866年
 パリ万国博覧会参加の
 徳川昭武一行に付いて訪欧
 一行の動静をイギリス外務省へ逐一内報
 3年民部省雇
   外債切り替え交渉のため
   特例弁務使
   上野景範に従ってロンドンへ出張
 6年太政官正院翻訳局に配属
   ウィーン万国博覧会副総裁
   佐野常民に随行
 8年大蔵省雇
 11年外務省雇
   パリ万国博覧会副総裁
   松方正義に随行
   万博後、在独公使館付
 15年条約改正予議会
 19,20年条約改正会議で東京へ呼ばれ
     通訳官を務め
     会議無期延期直後
     了解工作のため内命を受け
     ヨーロッパ各国を歴訪
     後は終生ヨーロッパにあって
     新聞論調の本省への報告などに従事
     1894年
     日英条約改正交渉のため
     特命全権公使
     青木周蔵に付いてロンドンへ出張
     日清戦争,日露戦争の際は
     世論工作に従事
     1910年勲1等瑞宝章受章
 ↓↑  ↓↑
 シーボルト
 Siebold, Carl Theodor Ernst von
 1804.2.16. ウュルツブルク
 ~
 1885.4.7. ミュンヘン
 ドイツの動物学者
 P.F.vonシーボルトの伯父
 ↓↑
 シーボルト
 Siebold, Philipp Franz von
 1796.2.17. ウュルツブルク
 1866.10.18. ミュンヘン
 ドイツの医者
 文政六 (1823) 年
 長崎オランダ商館の医師として来日
 翌年長崎郊外鳴滝に診療所を兼ねた学塾を開く
 伊東玄朴・高野長英・黒川良安
 ら数十名の門人に
 西洋医学
 一般科学を教授
 商館長の江戸参府に随行 (26)
 日本に関する研究資料を集めた
 シーボルト事件
 文政十二 (1829) 年
 日本追放
 安政六 (1859) 年
 オランダ商事会社員として再来日
 幕府の外交にも参与
 文久二 (62) 年帰国
 『ニッポン』 Nippon (32~54)
 『日本植物誌』 Flora Japonica (35~70)
 『日本動物誌』 Fauna Japonica (33~50)
 など刊行
 ↓↑
 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
 1796年
 ドイツ生まれ
 1823年
 長崎・出島のオランダ商館付の
 医師兼自然科学調査官として来日
 私塾を開設し西洋医学を伝え
 オランダ政府の命で
 動植物や鉱物、民族資料を集めた
 1828年
 積み荷に幕府禁制の地図が発見され
 国外追放処分となった(シーボルト事件)
 1859年
 2度目の来日
 外交顧問などを務め3年滞在
 再び資料収集をして帰国
 1866年、70歳で病死
 (2016-10-11 朝日新聞 夕刊 文化芸能)
 ↓↑
 ジーボルトとも・・・
 1823年長崎出島に着任
 日本研究のかたわら日本人患者を診療し
 1824年
 長崎郊外に鳴滝(なるたき)塾
 高野長英
 高良斎(こうりょうさい)
 伊東玄朴
 戸塚静海
 美馬順三
 二宮敬作
 らの門人を指導
 1826年
 商館長の江戸参府に同行
 1828年シーボルト事件
 翌年追放
 日蘭通商条約締結後の
 1859年
 長子アレクサンダー〔1846-1911〕
 を伴って再来日
 《日本》《日本動物誌》
 《日本植物誌》《江戸参府紀行》
 などの著書
 長崎滞在中の
 其扇(そのぎ・お滝)
 との間に
 娘〈いね・楠本いね)を儲ける
 アレクサンダーは
 英国公使館などの通訳を経
 1870年~1910年
 日本外務省に勤めた
 ↓↑
 4)シーボルト
 Siebold, Heinrich Philipp von
 ドイツ人外交官
 1852年7月21日 ドイツのボッパルトで誕生
 ~
 1908年8月11日
 3)P.F.シーボルトの次男
 明治二年(1869)
 2)兄A.G.シーボルトにしたがい来日
 オーストリア-ハンガリー帝国
 公使館の代理公使
 横浜領事代理
 上海総領事
 などをつとめた
 勤務のかたわら
 考古学の研究にあたり
 「考古説略」をあらわした
 1908年8月11日死去。56歳
 ↓↑
 4)シーボルト
 幕末明治期の
 オーストリア=ハンガリー帝国の外交官
 ライン河畔ボッパルトで誕生
 3)医学者フィリップの次男
 父の影響で
 東洋の文化と歴史に関心を抱き
 駐日イギリス公使館
 通訳官の
 2)兄アレキサンダーが一時帰国した際
 その秘書に日本語を学び
 1869年
 兄と一緒に日本に発つ
 明治五(1872)年一月
 日本代表部の臨時通訳練習生
 10月
 ウィーン万国博覧会の
 日本万博委員会の連絡係
 六年一月
 博覧会への陳列品と共にウィーンに行き
 同年三月
 名誉通訳官に昇任
 翌年6月再来日
 明治十六年2月
 領事館官房書記官
 後
 代理公使
 横浜代理領事
 1等官房書記官
 上海総領事代理
 などを歴任
 同29年7月10日離日
 『日本考古学覚書』(1879)
 『アイヌ民族研究』(1881)
 を書く
ーーーーー
 3)シーボルト
 ドイツ人の医師,生物学者
 バイエルンの
 ビュルツブルクの医師の家に生まれる
 ビュルツブルク大学で
 医学,植物学,動物学,地理学
 などを学び
 1820年学位を得る
 1822年
 オランダ領東インド会社付の医官
 1823年
 ジャワに赴任
 日本に任官
 文政六(1823)年八月
 長崎出島に入った
 はじめ商館の内部で
 市内の
 吉雄幸載の私塾などで
 診療と講義
 翌年長崎奉行から許され
 郊外の鳴滝に学舎を造った
 学生の宿舎や診療室
 薬草園まで備え
 鳴滝塾とし
 週1回出張
 実地の診療や医学上の臨床講義
 様々な分野の学問の講義を行い
 小関三英・高野長英・伊東玄朴・美馬順三
 二宮敬作らの蘭学者を育てた
 文政九年
 オランダ商館長の江戸参府に随行し
 1カ月余り江戸に滞在
 高橋景保・大槻玄沢・宇田川榕庵
 ら江戸の蘭学者とも親交
 長崎へ帰ったシーボルトと
 高橋や間宮林蔵らとの交際のなかで
 間宮が疑惑を持ったのをきっかけに
 同11年
 任期が満ちて帰国するシーボルトの乗った船が
 嵐によって戻された際に
 荷物が調べられ
 国禁違反が発覚
 高橋が
 3)シーボルトの
 『フォン・クルーゼンシュテルン世界周航記』
 と
 オランダ領のアジア地図
 などと引き換えに
 伊能忠敬の
 『日本沿海測量図』の
 コピーなどをシーボルトに渡していた
 ほかにも
 葵の紋服などを
 シーボルトが持ち出そうとしていた
 高橋は裁判の途中に獄中で死亡
 ↓↑
 シーボルトは国外追放で
 同12年12月に日本を去った
 ヨーロッパに戻ったシーボルトは
 日本関係の書物を次々に発表
 ヨーロッパで
 日本学の権威となり
 オランダ国王を動かし
 幕府に開国を勧める親書を起草
 この親書は
 弘化一(1844)年
 幕府に伝えられたが
 幕府はこれを拒否
 日本が開国した際に
 ヨーロッパ諸国と結ぶべき
 条約の私案を起草して
 オランダ政府に伝え
 この条約案は
 嘉永五(1852)年
 クルティウスに託され
 幕府の手に届けさせた
 ↓↑
 開国後
 クルティウスは
 シーボルトに対する
 追放の解除を幕府に要請
 安政五(1858)年
 日蘭修好条約の締結
 同六年シーボルトは念願の再来日
 文久二(1862)年
 日本を去り
 ミュンヘンで亡くなった
 ↓↑
 再来日で帯同していた長男の
 アレクサンダーは日本に留まり
 イギリス公使館通訳
 明治三(1870)年以降は政府のお雇い
 外交政策などの相談役
 ↓↑
 次男の
 ハインリヒも
 同2年に来日
 外交官として長年日本に滞在
 楠本其扇(お滝)
 の娘
 楠本イネ(稲)は
 異母姉で
 産科医
 ↓↑
 3)シーボルトが
 ヨーロッパに紹介した
 日本の風物は
 『日本=日本誌』
 『日本とその周辺諸地域(蝦夷,南千島,樺太,朝鮮,琉球)
  についての記述集成』
 として
 ライデンで・・・ライデン=雷電・来電・頼伝・来伝?
 1832年~54年までに刊行
 『日本動物誌』(1833~50)
 『日本植物誌』(1835~70)
 ↓↑
 日本にピアノが伝来したのは
 シーボルトが
 1823年(文政六年)に持参した
 1826年(文政九年)
 シーボルトが江戸に来たとき
 最上徳内は
 自分の蝦夷地測量図を貸し
 アイヌ語辞典編纂を援助し
 シーボルトはその著《日本》で
 徳内の業績をたたえた
 ↓↑
 「お稲」は
 父シーボルトの名に漢字を当て
 「失本(しいもと)イネ」とも名乗った
 ↓↑
 楠本唯=高子
 は
 楠本イネの娘
 シーボルトの孫娘
 結婚後の改姓により
 三瀬高子(みせ たかこ)
 山脇高子(やまわき たかこ)=山脇たか
 ↓↑
 1865年
 二宮敬作の縁により
 宇和島藩の奥女中奉公
 1866年(慶応二年)
 三瀬諸淵(三瀬周三)と結婚
 1877年(明治10年)
 夫・三瀬諸淵に先立たれ
 後、
 異母兄・石井信義の元で産婦人科を学んだ
 医師・片桐重明に
 船中で強姦され
 妊娠、息子の
 周三(後にイネの養子となり、楠本家を継ぐ)
 を生む
 医業の道を断念
 その直後に
 医師・山脇泰助と再婚し
 一男ニ女を生む
 が、
 結婚7年目に夫、山脇泰助にも先立たれた・・・
 その後
 叔父のハインリヒ・フォン・シーボルトの世話で
 東京で母のイネと共に暮らし
 芸事の教授をして生計を立てた・・・
 ↓↑
 シーボルトの弟子の
 二宮敬作の甥
 三瀬諸淵(みせ もろぶち)・・・楠本唯=高子の最初の夫
 ↓↑  天保十年七月一日
     (1839年8月9日)
      ~
     明治十年
     (1877年10月19日)
     幕末・明治期の医師
     初名・周三
     幼名は弁次郎
     字は修夫
     伊予国
     大洲出身・・・大洲市(おおずし)
     愛媛県の南予地方に位置
     「伊予の小京都」
     肱川の流域にある
     大洲城を中心に発展した旧城下町
     大洲市八幡神社の神主
     常磐井家の私塾
    「古学堂」にて国学を学んだ
     安政五年(1858年)
     大洲に一時帰郷し
     長崎から持ち帰った
     発電機と電信機を持って
     古学堂に旧師、常磐井厳矛を訪ね
     大洲藩の許可を受け
     古学堂から肱川の河川敷まで電線を引き
    「電信」の実験し
     古学堂2階~肱川向かいの
     矢六谷の水亭まで約980メートルの間に
     銅線を架設し、打電に成功
     シーボルトの長男の
     アレクサンダー・フォン・シーボルト
     の家庭教師役を務めながら、自身は医学を学ぶ
     文久二年(1862年)
     諸淵がシーボルトのために
     日本の歴史書の翻訳が発覚、投獄
     1864年に出獄
 ↓↑  明治十年(1877年)胃腸カタルにより39歳で死去
 地元
 大洲で
 日本初の電信実験に成功
 語学も村田蔵六(大村益次郎)から
 学び
 外交で通訳・翻訳
 シーボルトの娘
 イネの娘
 高子と結婚した・・・
ーーーーー
 ・・・人間関係、こんがらがる・・・

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千姫=センひめ=撰秘め=潜秘め・・・知記(チキ)

2018-10-28 01:07:12 | 古事記字源

 ・・・名前の変・・・カイダン・・・何立某?・・・「2018/10/27/00・ETV特集・アンコール「隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録~」、「戦時中、精神障害兵士が送られた国府台陸軍病院・約8000人のカルテから日本兵のトラウマがあきらかになった・発病した中国の戦場を取材。戦後の家族の姿を追う」・・・「反戦主義者」ではない「反日主義者」とは何か・・・
 サギ(鷺)=雪客(セッカク)・・・サギのオオモト・・・「姫路城=ヒメジジョウ=秘め字状」=「白鷺(しらさぎ・ハクロ)城」=「出世城」・・・「日女道丘(ひめじおか)=姫山」→「桜木(さくらき)山」→「鷺(さぎ)山」・・・「黒い壁の烏城、金烏城(キンウジョウ)とも呼ばれる岡山城との対比から」・・・
 1567年(永禄十年)
 黒田職隆の子
 黒田孝高が「姫路(白鷺)城」城代
 1568年(永禄十一年)
 青山・土器山の戦い
 赤松政秀軍の約3,000人に対して
 黒田軍(職隆・孝高父子)は約300人という劣勢で
 姫路城から撃って出て
 赤松軍を撃退
 以後
 1573年(天正元年)まで
 黒田孝高(官兵衛・如水・シモン)が城代
ーーーーー
 千姫
 慶長二年四月十一日~ 寛文六年二月六日
 1597年5月26日   ~ 1666年3月11日
 丁酉(庚・ ・辛)⇔ 丙午(丙・ ・丁)
 乙巳(戊・庚・丙)⇔ 辛卯(甲・ ・乙)
 甲戌(辛・丁・戊)⇔ 丁巳(戊・庚・丙)
  申酉=空亡
 ↓↑ 
 夫は
 豊臣秀頼
 後
 本多忠刻の正室
 元和三年(1617年)
 本多家が播磨姫路に移封
 八月二十八日
 桑名を発って姫路城に移り
 播磨姫君
 寛永三年(1626年
 夫の忠刻、姑の熊姫、母のお江
 が没し
 本多家を娘の勝姫と共に出
 江戸城に入り
 出家して天樹院を号し
 娘と2人で
 竹橋御殿で暮らした
 寛永五年(1628年)
 勝姫が父・秀忠の養女として
 池田光政
 の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなった
 ↓↑
 父は徳川秀忠
 母は継室のお江
 号は天樹院
 1597年4月11日
 山城国
 伏見城内の徳川屋敷で誕生
 父は徳川家康の跡継ぎ
 第二代徳川幕府将軍
 母、お江は
 織田信長の妹
 「お市の方」の娘
ーーーーー
 大坂の陣
 慶長十九年(1614年)十一月十九日
           ~
           慶長二十年(1615年)五月
 冬の陣       夏の陣
 1614年12月4日
 真田丸の戦い
 1614年12月19日   1615年4月26日~大阪城陥落1615年6月11日
 木津川口の戦    郡山城の戦い
           4月29日樫井の戦い
           5月 6日道明寺の戦い・八尾、若江の戦い
           5月 7日天王寺・岡山の戦い
5月 8日未明淀殿と秀頼が自害
 甲寅(己・丙・甲)⇔乙卯
 丙子(壬・ ・癸)⇔
 丁卯(甲・ ・乙)⇔
 1614年12月20日に誓書が交換され和平成立
 堀の埋め立てが開始
 慶長二十年(1615年)1月22~23日完了
 ↓↑
 慶長二十年、元和元年七月十三日・・・明王朝 万暦四十三年
 1615年
 干支 : 乙卯
 ↓↑
 大坂夏の陣(元和偃武)
 8月 7日(慶長20年閏6月13日)江戸幕府が一国一城令を発令
 8月30日 江戸幕府が武家諸法度を発布
 9月 5日(慶長20年7月13日)日本、改元して元和元年
 9月 9日(慶長20年7月17日)江戸幕府が禁中並公家諸法度を発布
  本阿弥光悦が徳川家康から洛北鷹峯の地を拝領し
一族や各種の工人を率いて移住
ーーーーー
 ・・・世の中を動かすヤカラは「さぎ」の「名人」・・・サギ社会の市民意識は「サギは常識」・・・普通の市民も「法的詐欺集団組織の一員」・・・ボク自身もオカワリなし・・・
 サギで食べれるヒトはサイワイなり・・・

ーーーーー
 幸子・S
 辛未(丁・乙・己)
 庚子(壬・ ・癸)
 戊午(丙・ ・丁)
  子丑=空亡
ーーーーー
 プロパガンダ
 ↓↑
 集団心理の・・・・集団=個々人が群(君+羊)れて集まる
 仕組み・・・・・・・・・個々人が牟禮た時の心理的状況
 動機・・・・・・・・・・個々人が牟礼た時にとる行動の動機
 大衆自身が・・・・・・・個々人が群(君+羊)れて
 それに気付くことなしに・無自覚に
 制御し・・・・・・・・・操られ
 組織化することが・・・・秩序的な行動をしてしまう
 ↓↑          羊の群れには「山羊(やぎ・goat)」
             ヒツジ(羊・綿羊・sheep・Ovis aries)
            「羊」と「山羊」の群れには「犬」
            「犬」の命令者は「牧童・牧師」
              ヤギ(山羊・goat)

    「犠牲にささげる獣(生贄)
     古代ユダヤ教で
     年に1度、2匹の
     牡ヤギを選び
     籤(くじ)を引いて
     1匹を生贄とし
     もう1匹を
    「アザゼルのヤギ(贖罪山羊)」
     として荒野に放った(旧約聖書 レビ記16章)
     贖罪山羊は
     礼拝者の全ての罪を背負わされ
     生きたまま捨てられる
     生け贄と異なる
     特定の人間に
     問題の責任を負わせ
     犠牲とすることを
     スケープゴート(scapegoat 生け贄のヤギ)
     と言うのは、これにちなんだ」
 ↓↑  ↓↑
    (by wikipedia)
 ↓↑  ↓↑
    「神道の儀式、民間で祓(はらえ)をするとき
     人間の身代りに
     罪や穢(けがれ)を移す人形
     人形(ひとがた)とも
     雛人形・流し雛・・・雛ひとがた
     撫物(なでもの)・・・形代で身体を
               撫でてそれに
               穢をなすりつけた後
               それを流して災いを除いた
     人のほか
     馬・牛・鳥・犬
     刀・剣・鉾
     車・輿・舟
     男茎形など多種
     素材も紙、布、木、鉄、錫、銀、金、土製と多様
     などの形代がある
     ふつうは紙や薄い板で作る
     祓い終わると川や海に流したり、焼き捨てる」
    「凶用の人形代は587年(用明天皇)
     中臣連勝海が
     彦人・竹田両皇子の人形代を作り呪殺を謀った」

 ↓↑  牧(まき・ボク)=牛(𠂉十)+攵(𠂉乂)
                𠂉=カミさし(髪挿し・櫛)
                乂=かる・おさめる・ガイ・ゲ
                X=カイ(ギリシャ文字)
                  ケー・キー・カイ
             クリスマス(Christmas
                Χριστούγεννα)
                Χριστος
                Xmas・X-mas・X'mas・X'Mas
             ロシア語=PX
             Рождество Христово
             (降誕)   (ハリスト=フリストス)
             スラヴ語
             Христос(フリストース)
             イイスス(イエス)・ハリストス(基督)
             Christ+mass= Crīstes mæsse
             Christī    Nātālis
            (クリスティー・ナーターリス)
             キリスト=Χριστός・降誕
 ↓↑          ↓↑
             前漢・後漢代の州の長官
             牧(まき)は日本古代の
 ↓↑          牛や馬を放牧して飼育区域
            『和名抄』では「むまき」と訓読
             律令時代には公牧制度が整備
             兵部省管轄下の「官牧」
             左右馬寮管轄下で宮中に付属する折るが
             御牧(みまき)=勅旨牧(チョクシまき)
             奈良時代
             文武天皇の勅旨により開発
 ↓↑          軍馬の供給源
 組織化(organize・systemed・institutional
   オルガナイズ システムズ インスティチューショナル)
   織る画内図  詞素出務図 韻 素綴 中  書 名留?
 することが
 可能・・・
 ↓↑
 プロパガンダ(Propaganda)技術
 国家などが組識的に行なう
 主義・教義などの
 宣伝・煽動
 ↓↑
 ネーム・コーリング
 レッテル貼り
 攻撃対象を
 ネガティブなイメージと結びつけ
 危険、恐怖、無価値、無効力であると
 貶める論
 ↓↑
 カードスタッキング
 自らの主張に
 都合のいい事柄を強調し
 都合の悪い事柄を隠蔽
 または
 相手の
 策謀
 捏造だと強調し
 「イカサマ情報」で
 相手当事者、及び周囲(第三者)の心理を操作
 ↓↑
 バンドワゴン・・・バンドワゴン効果(bandwagon effect)
          多数が、ある選択肢を選択し
          その選択肢を更に増大させる効果を狙う
         「バンドワゴン=行列先頭に居る楽隊車
          バンドワゴンに乗る=時流に乗る・多勢に与する
                     勝ち馬に乗る意
 その事柄が
 あたかも
 世の中の趨勢、流行であるような
 宣伝、煽動し
 自らの主張が
 あたかも
 世の中の常識、趨勢であると
 錯覚させる
 ↓↑
 証言利用
 「信憑性がある」と
 される人
 (実力者・大物・権威者・専門家)
 に語らせることで
 自らの主張の説得を訴える
 ↓↑
 平凡化・一般化
 その考えのメリットを
 多数の民衆のメリットにもなると訴える
 ↓↑
 転移・・・人形(ひとがた)・・・ロシアゴミニストが
                 レーニンをナゼ
                 木乃伊にしたんだか?
 何かの威信や非難を
 別のものに代償させる
 愛国心を表彰する感情的な転移として
 国旗を掲げる・・・天皇の「シンボル化」は人間天皇の否定?
 佞臣は、自己保身の為、王を殺す
 忠臣、陪臣は王の犠牲的身代わりになる・・・責任の取り方は死
 ↓↑
 華麗な言葉による普遍化・・・美化・・・
 対象となるものを
 普遍的、道徳的と
 考えられている言葉と結びつける
 ↓↑
 返報性
 投資すれば
 将来
 利益(儲かる)
 という人参、虚偽に従いやすい・・・カネに弱い
 ↓↑
 コミットメントと一貫性
 意見の
 一貫性を保つことで
 社会的信用を得られる・・・?・・・頑固一徹は要領が悪い?
 ↓↑
 社会的証明
 自らの意見が曖昧な時は
 人は
 他の人々に同意を求め
 他の人々の行動に目を向ける・・・付和雷同?不和雷同?
    「多数派に与(くみ)する」・・・民主主義か?
    「不和雷同と書くのは誤り」ではないサッ・・・根拠は?
    「雷同=雷の轟きで、物が共振」・・・雷鳴で強震・狂信?
    「一定の主義・主張がなく安易に他の説に賛成すること」
 ↓↑
 人間は自分の好意、同好、同族、近隣、同郷、同国
 の人物の要請に
 「YES」という可能性がある(ハロー効果)・・・可能性?
 ↓↑
 権威
 対象者の
 「肩書き、服装、装飾品、容貌」
 などの権威、外見に服従しやすい・・・「権力」?
 「暴力行使」による服従・・・抵抗の限界は死
       「服従と操作の手段」=暴力威喝と行使
                  生殺与奪の権利?
 ↓↑
 希少性・稀少性
 市場での
 売買の機会の多少、増減
 その「機会(チャンス)」は
 生活手段の獲得の場であり、時間である
 チャンスの有無、稀少とは価値のあるもの・・・
 ↓↑
 トイレットペパーの
 供給減少で
 買い急ぎの混乱・・・早い者勝ち
   TVショッピングの限定商品、限定売買期間
 ↓↑
 キャッチコピー
 簡単で衝撃的なコトバで煽動
 ↓↑
 注目度の高さは
 その前後に来るものとの
 対比によって変わる
 比較での優劣
 ↓↑
 対象を絞り
 その対象をわかりやすくする
 注目度の高さは
 目に触れる
 回数や反復数によって影響
 注目度の高さは
 呼び起こされた
 感情の強さに比例
 ↓↑
 宣伝の第一段階は
 「注意を引く」
 欲望、欲求を喚起し
 欲望、欲求を満足させ得るものは
 自分の訴えであるとし
 煽動者は
 他者の欠陥をアッピールし
 これを一緒に排除しようと
 繰り返し同意を訴える
 ↓↑
 アドルフ・ヒトラー
 「宣伝効果のほとんどは
  人々の感情に訴えかけるべきであり
  いわゆる知性に対して訴えかける部分は
  最小にしなければならない」
 「宣伝を効果的にするには
  要点を絞り、
  大衆の最後の一人が
  スローガンの意味するところを理解できるまで
  そのスローガンを
  繰り返し続けることが必要である」
 ↓↑
 ヨーゼフ・ゲッベルス
 「十分に大きな嘘を頻繁に繰り返せば
  人々は最後にはその嘘を信じるだろう」
 (嘘も百回繰り返せば真実と信じられるようになる)
 「丁寧な説明」とは何か?
 「ソレはフェイクだッ!」と繰り返すコト・・・らしい?
ーーーーー
 レーニン・・・国家民族主義者・・・?
 プロパガンダは
 「教育を受けた人に教義を吹き込むために
  歴史と科学の論法を筋道だてて使うこと」
 扇動(煽動)を
 「教育を受けていない人の
  不平不満を利用するために宣伝するもの」
 レーニンは
 宣伝と扇動を政治闘争に不可欠なものとし
 「宣伝扇動」(agitprop)という名でそれを表した
 十月革命後
 ボリシェヴィキ政権(ソビエト連邦)は
 人民に対する宣伝機関を設置し
 第二次世界大戦後
 社会主義国に同様の機関が設置
 ヨシフ・スターリン・・・ロシア型ファッシスト・国家民族主義者
 は
 「テロルとプロパガンダ」の両輪・・・秘密軍事組織者・・・
 ドイツ共産党の
 ヴィリー・ミュンツェンベルク著書
 『武器としての宣伝(Propaganda als Waffe)』
 ↓↑
 アドルフ・ヒトラー
 プロパガンダを重視し
 ゲッベルスを大臣とする
 国民啓蒙・宣伝省を設置
 宣伝省は
 放送、出版、絵画、彫刻、映画、歌、オリンピック
 などを利用し
 政治的プロパガンダに用いた
 ↓↑
 第二次世界大戦中
 国家の総動員態勢を維持するため
 日本、ドイツ、イタリアなどの枢軸国
 イギリス、フランス、アメリカ
 ソ連などの連合国
 戦争参加国で
 プロパガンダ
 ↓↑
 終戦後は東西両陣営の冷戦
 両陣営は
 プロパガンダ
 を通して冷たい戦争
 宇宙開発競争で
 陣営の優秀さを喧伝
 ↓↑
 1950年代
 中華民国政府(台湾政府)
 反共文芸を推奨し
 趣旨に共鳴した
 「中華文芸奨金委員会」
 が活躍
 ↓↑
 国家によるプロパガンダ
 ナチス体制下のドイツ
 大東亜戦争直前・戦中の日本
 太平洋戦争直前・戦中のアメリカ合衆国・・・戦後も・・・
 革命下のロシア・・・
 「労働者国家」のウソ・・・ファーム
 「動物農場(Animal Farm)」は
 1945年8月17日に刊行された
 ジョージ・オーウェルの小説
 ↓↑
 雄ブタ達が「革命」烏合集団
      「革命後」の豚たちの権力闘争と粛清
 カラス が正教会の坊主
 人間  が地主・農業資本家
 牡馬  が将軍軍人
 ネコ  が傍観者
 牡ロバ が下士官兵卒 
 犬   が憲兵・特高警察・チェッカー
 羊   が無知従順な労働者
 雌鶏  がウクライナの「ホロドモール」の住人
 ↓↑
 ジョージ・オーウェル(George Orwell)
 1903年6月25日~1950年1月21日
 癸卯(甲・ ・乙)⇔己丑(癸・辛・己)
 戊午(丙・ ・丁)⇔丁丑(癸・辛・己)
 甲申(己・壬・庚)⇔丙辰(乙・癸・戊)
  午未=空亡
 イギリスの作家、ジャーナリスト
 生誕地は
 イギリス植民地時代の
 インド
 ↓↑
 他の著書は
 『1984年』・・・1949/6/8刊行
 ↓↑
 干支:甲子
 昭和59年
  1月24日米アップルコンピュータがMacintoshを発表
  8月30日スペースシャトルディスカバリー、初の打ち上げに成功
 10月31日インド首相、インディラ・ガンジー暗殺
 ↓↑
 2029年の未来世界から
 1984年5月12日の夜
 ロサンゼルスに
 殺人機械
 ターミネーター・・・
 が出現
 ↓↑
 戦後の
 アメリカ合衆国
 ソビエト連邦
 中華人民共和国
 情報活動が国家によって統制・管理
 ↓↑ 
 プロパガンダに虚偽や歪曲
 ↓↑
 国家
 教育とプロパガンダが表裏一体
 初等教育の頃から
 国民に対して
 政府や支配政党への支持
 ナショナリズム
 国家防衛の思想などを擦り込む
 ↓↑
 国家プロパガンダ
 国家、政府機関、政党
 民間団体や民間企業
 個人が自主的、受動的
 無意識に行う
 ↓↑
 大衆の受容能力
 極めて狭量
 理解力は小さい
 忘却力は速い
 スローガンで
 宣伝の効果を継続
 大衆の圧倒的多数は
 冷静な熟慮でなく
 感情的な感覚で
 考えや行動を決める
 非常に単純で閉鎖的
 そこには
 物事の差異を識別するのではなく
 肯定か否定か
 愛か憎しみか
 正義か悪か
 真実か嘘か
 だけが判断の基準
 半分は正しく
 半分は違う
 などということは
 決してあり得ない
 (アドルフ・ヒトラー「我が闘争」)
 ↓↑
 『新しき土』
 1937年公開の日独合作映画
 ドイツ語版のタイトルは
 『Die Tochter des Samurai=侍の娘』
ーーーーー
 ???・・・名前の変・・・「何立某」・・・?

コメント
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『東雲新聞(1888)』・・・虚偽の情報ニュース

2018-10-26 23:45:03 | 古事記字源

 ・・・前々回の颱風でヤられた庭に咲いていた「バラ(薔薇)」だが、散ったバラの花弁の首根っこを切っておいたらそこから再度、蕾(つぼみ)をつけて桃色吐息である・・・
 TVの土曜ドラマ「フェイクニュース」・・・「どこか遠くの戦争の話(2018年10月20日&10月27日)」・・・
 「フェイクニュース=虚偽の情報でつくられたニュース・ネット上で発信・拡散されるうその記事・誹謗、中傷を目的にした個人発信の投稿などを含む」・・・
 「東雲-樹(しののめ・いつき)」
 東雲(しののめ・トウウン)
 古語、闇から光へと移行する夜明け前に茜色にそまる空
  暁(あかつき)→東雲→曙(あけぼの)の順で明ける経過表現
 姓名・神名人名、東雲別命(シノノメワケノミコト)
 あけぼの(曙・明保能)・夜明けのほのかに明るくなるころ
 「しののめ=篠(しの)の目」からの転訛
 昔、住居の明かり取りに用いた篠竹の編み物の編み目
 「網み目から夜明けの薄明かりが差し込む」の意
 古今和歌集・題しらず・寵(うつく)・640・恋
 ↓↑
 「しののめの
  別れを惜をしみ
  我(われ)
  ぞ・・・・・・「ぞ…つる」は係り結び
         「ぞ」は強意の係助詞
         「つる」は完了の助動詞「つ」の連体形
  まづ鳥より
  さきになきはじめ
  つる」・・・・「釣る・吊る・弦・蔓・鶴・津留・都留」?
 ↓↑
 東雲(しののめ)
 地名・・・全国にワンサカ・・・
 北海道上川郡上川町
 北海道函館市
 北海道上士幌町の湖→東雲湖
 大日本帝国海軍の駆逐艦→東雲型駆逐艦「東雲」
             吹雪型駆逐艦「東雲」
 海上保安庁の巡視艇→しののめ (巡視艇)
 『東雲新聞』
 1888年(明治二十一年)1月~1891年(明治二十四年)10月
 民権派の
 「中江兆民」が主筆
 熊本県二本木にあった
 遊郭「東雲楼」
 1900年(明治三十三年)
 娼妓がストライキ
 演歌『東雲節』に
 「東雲の ストライキさりとはつらいね
   てなことおっしゃいましたかね」
 と歌われた・・・
 ↓↑
 「東雲樹(しののめ・いつき)」?
    KK(1986年8月22日)
       丙寅(己・丙・甲)
        冲己
       丙申(己・壬・庚)
       戊戌(辛・丁・戊)
       辰巳=空亡
 ↓↑
 「あづまくもき・トウウンジュ」・・・?
 「猿滑」・・・「猿滑昇太」・・・「猿滑睦子」・・・?
 「猿滑=さるすべり=紫薇=さるすべり=百日紅」
ーーーーー
 薔薇戦争(Wars of the Roses)
 1455年5月~1485/1487年6月
 百年戦争終戦後に発生した
 イングランド中世封建諸侯による内乱
 プランタジネット家の
 男系傍流である
 ランカスター家
 と
 ヨーク家
 の、30年に及ぶ権力闘争
 最終的にはランカスター家の
 女系の血筋を引く
 テューダー家のヘンリー7世が
 ヨーク家を倒し
 ヨーク家の王女と結婚して
 テューダー朝を開いた
 ランカスター家が赤薔薇
 ヨーク   家が白薔薇
 をバッジ(記章)として戦った
 ↓↑
 薔薇十字団(Rosenkreuzer・ローゼンクロイツァー)
 中世から存在する秘密結社
 フリーメーソン第18階級
 The Rose and the Cross
 薔薇が象徴的に描かれた
 薔薇十字文書『至高善』
 ↓↑
 『酒とバラの日々(Days of Wine and Roses)』
 1962年制作のアメリカ映画
 ↓↑
 酒と麻薬、歌
 女性ロック・シンガー
 メアリー・ローズ・フォスター
 ジャニス・リン・ジョプリン
 (Janis Lyn Joplin)
 ↓↑
 1943年1月19日~1970年10月4日
 壬午(丙・ ・丁)⇔庚戌(辛・丁・戊)
 癸丑(癸・辛・己)⇔乙酉(庚・ ・辛)
 丁丑(癸・辛・己)⇔丁巳(戊・庚・丙)
  申酉=空亡
 丙子        丙辰
 ↓↑

 ローザ・ルクセンブルク・・・ロザリア
 (ドイツ語: Rosa Luxemburg
  ポーランド語:Róża Luksemburg
  ルジャ・ルクセンブルク)
  1870年3月5日~1919年1月15日
  庚午(丙・ ・丁)
   三合丙
  戊寅(己・丙・甲)
  庚子(壬・ ・癸)
  辰巳=空亡
  ↓↑
  1871年3月5日~1919年1月15日
  辛未(丁・乙・己)⇔戊午(丙・ ・丁)
  庚寅(己・丙・甲)⇔乙丑(癸・辛・己)
  合害
  乙巳(戊・庚・丙)⇔丁卯(甲・ ・乙)
   寅卯=空亡
 年生まれ・・・?
 ポーランドに生まれ
 ドイツで活動した
 政治理論家、哲学者、革命家
 ↓↑
 各国の労働者党
 民族主義=ナショナリズム(nationalism)
 が
 階級意識(en:Class consciousness)
 よりも濃厚
 ↓↑ ↓↑
 ナショナリズム(nationalism)
 民族、国家に対する
 個人の
世俗的忠誠心を内容とする感情
 もしくはイデオロギー・・・・?・・・個人的思想?
 ↓↑ ↓↑
 支配階級が洗脳目的で
 プロパガンダ(扇動)に利用する思想・・・PR
 プロパガンダ(羅語 propaganda)は
 特定の思想・世論・意識・行動
 へ誘導する意図を持った行為
 通常情報戦、心理戦
 宣伝戦、世論戦
 と和訳
 政治的目的の手段・・・
 ↓↑ ↓↑
 最初に
 プロパガンダと言う言葉を用いたのは
 1622年
 カトリック教会の
 布教聖省
  (Congregatio de Propaganda Fide・福音宣教省)
  の名称で
 ラテン語の「propagare(繁殖させる、種をまく)」に由来
 ↓↑ ↓↑
 宣伝や広告、広報活動、政治活動
 のプロパガンダ
 利益追求者(政治家・思想家・企業人)・・・個人的競争者
 利益集団(国家・政党・企業・宗教団体)
 敵対勢力の支持、行動を失墜させる手段
 「嘘、歪曲、情報操作、心理操作」
 と同義・・・
 団体の行動・広告などを
 「プロパガンダである」
 と主張する
 「プロパガンダ」・・・
 ウラジーミル・レーニンのソビエト連邦
 ヒトラーの国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)
 情報統制と大規模なプロパガンダ
 あらゆる政治的権力が
 プロパガンダを必要としている・・・
 ↓↑
 市民的及び政治的権利に関する
 国際規約(自由権規約)は
 戦争や人種差別を扇動する
 プロパガンダを法律で禁止する
 締約国に求めている
 ↓↑
 ホワイトプロパガンダ
 情報元がはっきりしており
 事実に基づく情報のプロパガン
 ↓↑
 ブラックプロパガンダ
 情報の発信元を偽り
 虚偽や誇張のプロパガンダ
 ↓↑
 グレープロパガンダ
 発信元が曖昧で
 真実かどうか不明なプロパガンダ
 ↓↑
 コーポレートプロパガンダ
 企業利益のためのプロパガンダ
 ↓↑
 カウンタープロパガンダ
 敵のプロパガンダに対抗するためのプロパガンダ
 ↓↑ ↓↑
 ガスライティング(gaslighting)
 心理的虐待の一種
 被害者にわざと誤った情報を提示し
 被害者が自身の記憶、知覚、正気を
 疑うよう仕向ける手法
 嫌がらせの事実を
 加害者側が否定してみせる
 という単純なものから
 被害者を当惑させるために
 奇妙なハプニングを起こして見せる
 もの・・・
 「ガスライティング」=『ガス燈』と言う演劇
            舞台劇(1938年・アメリカでは
               『エンジェル・ストリート』)
            1944年
            イングリッド・バーグマン
            で映画化
            したものにちなむ
           「ガスライティング」は
            相手の現実感覚を
            狂わせようとすること
            被害者の判断力能力を誤っていると
            疑わさせること
        ・・・被害者の意識的、無意識的な自己欺瞞?
        Victor Santoro の1994年の著書
       『ガスライティング
        あなたの敵を狂わせる手引き
       (Gaslighting: How to Drive Your Enemies Crazy) 』
            用語は
            臨床、学術研究論文で使用
       (原文はwikipedia)
 ↓↑
 民族主義と訳されるが
 国民主義、国家主義、国粋主義
 などと訳・・・
 ↓↑
 部族、血族、人種的同一種族の
 領土枠の存在ではない
 政治的(国籍)共同体として存在する
 と言う思想・・・
 ↓↑
 「政治的従属、植民地搾取、異文化共同体に
  強制従属させられていた人びとが
  独立、解放を目指し
  被征服地域を
  自らの共同体として
  高めようとし意識して用いられ思想・・・
 「政治的、宗教、言語、文化などの共有意識」
 を強調する思想・・・
 他国を排除し(排他的)
 自国を中心に「政治」を進める思想
 インターナショナリズム(=国際主義)の反対語
 国家という統一、独立した共同体を
 自己の所属国籍とする意識的人びとを
 形成する政治思想や運動
 ↓↑ ↓↑
 ナショナリズムは
 パトリオティズム(愛国心、郷土愛)と混同
 社会共同体としての
 「郷土(パトリア)」への愛情である
 「パトリオティズム」という言葉を
 近代概念の
 ナショナリズム
 とは峻別・・・
 愛国主義(パトリオティズム・patriotism)
 語源は6世紀の後期ラテン語
 「国の人=patriota」
 「愛国主義(patriotism)」
 の用語派生は、18世紀初頭
 「patriotism」の訳語、
 「愛国」は、
 西周の『百字連環(1870年)』・・・
 ↓↑
 1774年
 『愛国者』
 サミュエル・ジョンソン著
 1775年4月7日
 彼は
 「愛国心は卑怯者の最後の逃げ口上」・・・
 ↓↑ ↓↑
 「労働者には祖国は無い」
    ・・・労働者意識の本質は「プチブル意識⇒ブル志向」・・・
    ・・・労働者意識の本質は「平凡志向」・・・?
    ・・・労働者意識の本質は「一攫千金・成金志向」・・・?
 ↓↑ ↓↑
 1899年以来
 彼女(ローザ)が戦い続けてきた
 「修正主義」が勝利を収め
 戦争が始まった
 ↓↑
 「Freiheit ist immer die Freiheit des Andersdenkenden.
 (自由とはつねに、思想を異にする者のための自由である)」?
 ↓↑
 1917年3月12日
 ロシア革命
 ↓↑
 1918年10月3日
 ドイツ社会民主党
 中央党
 ドイツ民主党
 の三党政府が成立
 ↓↑
 1918年11月4日
 キールでの労働者の蜂起
 キール軍港における
 水兵の反乱
 ロシア革命時のソビエトに倣った
 「労働者・兵士協議会(レーテ)」の結成
 ドイツ革命が勃発
 ↓↑
 1918年11月9日
 皇帝が廃位
 ↓↑
 ローザも釈放
 USPDはSPDとともに
 共和政の新政府を樹立
 首班はエーベルト
 革命後の
 ヴァイマル共和国
 ↓↑ ↓↑
 11月10日
 社会民主党
 独立社会民主党(USPD)
 民主党
 からなる
 仮政府「人民委員評議会」が樹立
 ヴィルヘルム2世はオランダに亡命
 ベルリンの労兵レーテは
 人民委員評議会を承認
 独立社会民主党の左派
 革命的オプロイテが半数を占める
 大ベルリン労兵レーテ執行評議会
 を選出し
 ドイツにおける最高権力をゆだねることを宣言
 二重権力状態が生まれた
 ↓↑
 11月10日夜
 共産主義革命への進展を防ぎ
 革命の早期終息を図る
 エーベルト
 グレーナー参謀次長
 があり秘密会談
 エーベルトらは革命の急進化を阻止
 議会の下での秩序を回復
 これらの目的達成のため
 実働部隊を軍部が提供
 軍の維持と将校の権威の回復
 旧来の将校組織を温存
 (エーベルト・グレーナー協定)
 人民委員評議会政府
 と
 ドイツ軍
 の相互依存関係
 エーベルトは
 旧来の官僚組織を温存
 社会民主党員を派遣し
 行政機構を維持
 海軍は水兵の反乱で
 将校の権威が失墜し混乱
 革命を制圧する能力はなかった
 首都の治安を守るために
 クックスハーフェンから呼び寄せた水兵と
 ベルリンの水兵による
 「人民海兵団」
 が結成
 海兵団は次第に
 革命的オプロイテが浸透し、左傾化
 ↓↑ ↓↑
 1918年11月11日11時
 ドイツ代表の
 マティアス・エルツベルガー
 グレーナー
 らが連合国との
 休戦条約に調印
 第一次世界大戦終結
 ↓↑ ↓↑
 1918年12月23日
 人民海兵団
 ベルリン王宮を占拠
 エーベルト派遣部隊との間で
 戦闘が起き派遣部隊が撃退された
 独立社会民主党は政府から離脱
 (人民海兵団事件)
 新政府にノスケが入閣、軍事問題を扱う
 ↓↑
 1918年12月30日
 ローザのスパルタクス団を中心に
 ドイツ共産党(KPD)結成
 ↓↑
 スパルクス団を再編
 ↓↑
 反革命義勇軍(フライコール)創設
 ↓↑ ↓↑
 1918年12月29日~1919年1月1日
 創設大会
 ローザ
 リープクネヒト
 を指導者とする
 ドイツ共産党(KPD)設立
 ↓↑
 エーベルトSPD政府
 フライコールを出動させ
 革命軍弾圧
 1月9日~15日
 スパルクス団壊滅
 レーテ解体
 ↓↑
 1919年8月11日制定
    8月14日公布・施行
 ドイツ(ヴァイマル共和政)憲法
 ドイツ国家憲法(Die Verfassung des Deutschen Reichs)
 ↓↑
 1920年2月27日
 ヒトラー内閣成立後
 ドイツ国会議事堂放火事件
ーーーーー
 ・・・???・・・

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「壹與・臺與・台与」・位置与・貸与・鯛与・太預・碓与

2018-10-25 21:38:34 | 古事記字源

 ・・・ジャーナリストの暗殺・・・捕虜の解放・・・「ドイツ(独乙・独逸・何奴)帝国、第一次世界大戦の休戦協定に調印=1918年11月11日午前11時、発効」・・・「11月11日午前11時」・・・「十一月、十一日、午前十一時」・・・「拾壱月(ジク=肉・シュウ=舟)、拾壱日(ひ=比・卑)、午前(ゴゼン=御膳・語全・語選)-拾壱時(ジ=字・事・持・辞・似・示・爾・似・丹)」・・・「足壹月(つき=槻・ゲツ=解通・ガツ=臥通)、足壹日(ジツ=字通・ニチ=似知・似地)、午前(語撰・うままえ=宇摩真重・旨舞・埋萬重)、足壹時(とき=解き・朱鷺・鴇・土岐・斎)」・・・
 「壹與・臺與・台与」・・・位置与・・・貸与・鯛与・太預・・・

 新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)
 戊辰(乙・癸・戊)
 壬戌(辛・丁・戊)
 壬午(丙・ ・丁)
 申酉=空亡
 ↓↑
 新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日=明治元年1月1日)
 丁卯(甲・ ・乙)
 癸丑(癸・辛・己)
 辛亥(戊・甲・壬)
 寅卯=空亡
 ↓↑
 大日本帝國憲法
 1889年(明治22年)2月11日に公布・・・22・2・11
 ↓↑       1890年(明治23年)11月29日に施行
 己丑(癸・辛・己)⇔庚寅(己・丙・甲)
 丙寅(己・丙・甲)⇔丁亥(戊・甲・壬)
 戊午(丙・ ・丁)⇔甲寅(己・丙・甲)
  子丑=空亡     子丑=空亡
 ↓↑         ↓↑
 治安維持法
 1925年(大正14年)4月22日法律第46号
 乙丑(癸・辛・己)
 庚辰(乙・癸・戊)
 丙子(壬・ ・癸)
 申酉=空亡
 ↓↑
 1941年(昭和16年)3月10日法律第54号
 辛巳(戊・庚・丙)
 辛卯(甲・ ・乙)
 丁巳(戊・庚・丙)
 子丑=空亡
 ↓↑
 治安維持法・・・
 目的遂行罪・・・
 自白強要・訊問調書・・・10万1654人検挙
ーーーーー
 第一次世界大戦(World War I)
 1914年7月28日~1918年11月11日11時
        (ドイツの降伏・・・幸福)
 甲寅(己・丙・甲)⇔戊午(丙・ ・丁)
 辛未(丁・乙・己)⇔癸亥(戊・甲・壬)
 乙卯(甲・ ・乙)⇔壬戌(辛・丁・戊)
  子丑=空亡   ⇔戊辰(乙・癸・戊)
 ↓↑
 第一次世界大戦(World War I)
 4年3ヶ月
 三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)
 三国協商(イギリス・フランス・ロシア)
 ↓↑
 1914年6月28日(サラエボ事件)
 オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者
 フランツ・フェルディナント大公夫妻が
 サラエヴォにおいて
 セルビア人民族主義者に暗殺
 ↓↑
 1914年8月23日
 日本、ドイツに宣戦布告
 ↓↑
 1914年8月27日~11月7日
 青島の戦い
 日本・イギリス連合軍が
 中国における
 ドイツの拠点港の
 青島を占領
 ↓↑
 1917年3月15日
 二月革命
 ロシア帝国皇帝
 ニコライ2世退位
 「ブルジョワ(?)」・・・プチブルだろう・・・
 臨時政府の成立
 ↓↑
 封印列車
 ふういんれっしゃ
 Sealed Train
 敵国ドイツを通過して
 ロシアに帰ったレーニンの列車
 1917年4月9日
 スイスを出発
 ドイツ、スウェーデン、フィンランド
 を経て
 4月16日(露暦同3日)夜
 ペトログラード
 (サンクト・ペテルブルグ)に到着
 レーニンは
 翌日
 「四月テーゼ」を発表
 ↓↑
 1917年4月6日
 アメリカ合衆国、・・・ブルジョワ階級合衆国?
 ドイツに宣戦布告
 ↓↑
 トーマス・エドワード・ロレンス・・・亜剌比亜のロレンス
  (Thomas Edward Lawrence)
   1888年8月16日~1935年5月19日
 戊子(壬・ ・癸)⇔   ⇔乙亥(戊・甲・壬)
  三合壬           冲戊
 庚申(己・壬・庚)⇔支合庚⇔辛巳(戊・庚・丙)
 己未(丁・乙・己)⇔   ⇔戊戌(辛・丁・戊)
  子丑=空亡       オートバイ事故死(傷官・正財)?
 ↓↑ ↓↑
   イギリスの軍人、考古学者
   オスマン帝国
   に対する
   アラブ人の反乱(アラブ反乱)を支援
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
   1914年7月28日
   第一次世界大戦勃発
   ロレンスは
   10月に召集され
   イギリス陸軍省
   作戦部地図課に勤務
   臨時陸軍中尉に任官後
   12月
   カイロの
   陸軍情報部に転属
   軍用地図作成
   通訳連絡係を務める
   1916年10月
   新設
   外務省管轄下の
   アラブ局に転属
   3月に大尉昇進
   アラビア半島旅行
   オスマン帝国に対する
   アラブの反乱の指導者たちに会った
 ↓↑ ↓↑
   情報将校
   ロレンスは
   ハーシム家当主
   フサイン・イブン・アリーの
   三男
   ファイサル・イブン・フサイン
   と接触
   ファイサル1世
   とその配下の
   ゲリラ部隊に
   共闘を申し出
   オスマン帝国軍と各地で
   ゲリラ戦を行い
   ヒジャーズ鉄道を破壊
   イギリス軍の
   スエズ運河防衛
   パレスチナ進軍を助けた
 ↓↑ ↓↑
   ロレンスとアラブ人の部隊は
   紅海北部の海岸の町
   アル・ワジュ攻略

[
 ↓↑ ↓↑
   1917年5月9日
   ロレンスの一行は
   ファイサルの本隊と別れて
   紅海沿岸の町
   ワジュフを出発
   直線距離で北方500キロの
   ワーディー・スィルハーン経由の大迂回で
   アカバ
   のトルコ軍基地を
   背後から急襲する遠征に出た
   7月6日
   アカバを占領
 ↓↑ ↓↑
   オスマン帝国軍は
   ヒジャーズのメッカへの侵攻をあきらめ
   メディナと鉄道沿線の拠点を死守
   ロレンスは
   アカバを奇襲、陥落させた
   少佐に昇進
 ↓↑ ↓↑
   1918年
   ロレンスは
   ダマスカス占領で
   中佐に昇進
 ↓↑
 1918年11月2日
 イギリス外務大臣
 アーサー・ジェームス・バルフォアが
 ユダヤ人コミュニティーの指導者
 ウォルター・ロスチャイルドに
 書簡で
 パレスチナにおける
 ユダヤ人居住地(ナショナルホーム)
 の建設を支持する旨を表明(バルフォア宣言)
 ↓↑
 1918年11月7日
 ロシアで
 十月革命
 ボルシェヴィキ政権
 ↓↑
 1918年12月23日
 ロシア、
 ドイツと休戦協定を締結
 ↓↑ ↓↑
 1918年1月8日
 アメリカ合衆国大統領
 ウッドロウ・ウィルソン
 合衆国議会で
 十四か条の平和原則を発表
 ↓↑ ↓↑
 1918年3月3日
 ロシア共和国(ボリシェヴィキ政府)
 外務人民委員
 レフ・トロツキー
 と中央同盟国間において、講和条約が締結
 ロシアが第一次世界大戦から離脱
 ↓↑
 1918年10月29日
 ドイツ
 ウィルヘルムスハーフェン近郊で
 ドイツ海軍大洋艦隊所属の船員による
 一連の反乱が発生(キール反乱)
 ↓↑
 1918年11月11日
 中央ヨーロッパ時間 (CET) 午前6時
 フランスのコンピエーニュの森で
 ドイツは連合国と
 休戦協定に調印
 11月11日午前11時、発効・・・・11/11/11・・・拾壱・・?
 ↓↑
 1919年1月18日
 連合国と中央同盟国との講和条約制定の
 パリ講和会議がフランス、パリで始まる
 1919年1月25日
 講和会議において、国際連盟の設立提案が承認
 1919年5月15日
 ギリシャ王国軍がトルコに侵攻を開始
 (希土戦争1919年~1922年)
 1919年6月28日
 連合国とドイツの
 講和条約
 ヴェルサイユ条約調印
ーーーーー
 1920年1月10日
 国際連盟の初会合が
 ロンドンで開催
 1月21日
 パリ講和会議が終会
 11月1日
 国際連盟本部が
 スイス、ジュネーヴに移動
 11月15日
 国際連盟
 第1回総会開会
 ↓↑
 1922年2月6日
 軍艦の保有制限について定めた
 ワシントン海軍軍縮条約が
 アメリカ、イギリス、日本、
 フランス、イタリア
 の5か国によって調印
ーーーーー
 鶴舞(つるまい、つるま)
 ↓↑
 日本の地名
 埼玉県坂戸市の町名⇒鶴舞 (坂戸市)
 愛知県名古屋市昭和区の町名⇒鶴舞 (名古屋市)
 千葉県市原市の町名⇒鶴舞 (市原市)
 ↓↑
 鶴舞藩=市原市鶴舞に存在した
 鶴舞町=千葉県市原郡に属した町・市原市
 鶴舞城=秋田県由利本荘市・本荘城の別名
 鶴舞城=静岡県掛川市・高天神城の別名
 舞鶴市=京都府北部(旧:丹後国)
     中丹地域圏に属し、舞鶴都市圏を形成
     日本海に面する港湾都市
     日本海の若狭湾に面し
     東西に分かれた舞鶴湾とリアス式海岸を持つ
     舞鶴湾口の東西に
     博奕岬と金ヶ岬
     古代
     舞鶴は旦波(丹波)に入っていた
     奈良時代
     丹波国は分割され
     舞鶴は
     丹後国-加佐郡
     南北朝時代
     醍醐寺の荘園が置かれていた
 ↓↑  ↓↑
    一色範光
    ↓↑・・・「イスラエル=以色列=伊色列」の範の光?
         範(のり)=手本・模範・範式・範例・規範
         師範・垂範・典範・文範・模範
         区切られた枠
         範囲・範疇
         広く行き渡る=広範
    ↓↑・・・一色=同色・ひといろ・いっしょく
        華道で、一種類の花木を生けること
       「万年青(おもと)を一色にいける」
        物事の一種類・同じ種類・ひとしな
    ↓↑ 「いちず」であること・・・「一途(いちず)」
        イチヅ=位置図・壹図・壹亠・壹頭・・・
    ↓↑  タイヅ=臺主・帯主⇔帯方・碓(大小の碓⇔小碓命)
    が北朝および室町幕府より・・・南北朝⇔南北朝鮮?⇔質張?
    丹後守護に任じられる・・・・・単語主語?
 ↓↑
 舞鶴・・・舞踏の丹頂鶴・・・鶴(たんちょう・カク)
           鶴=隺+鳥=靏
             異体字は
             鶴・鹤・隺・𩿖・鵠・鶮・䳽・𪇦
             鸖・𪈯・靎・靏・䧼・鹄
             たづ・つる・カク
      1133年の詩序集が丹頂という名称の初出
      越冬地は主に釧路湿原周辺・十勝、根室
      タン(丹)は「赤い」の意
      頭頂に裸出した皮膚に由来
 1945年(昭和20年)から13年に渡って
 66万人余りの引揚者が
 舞鶴に帰国
 「岸壁の母」が待ち続けた
 ↓↑
 651年頃
  笠(かさ)=竹+立
  評(こほり)・・・郡(こほり)・・・桑折・小折・氷・凍
  と呼ばれていた
 676年(天武五年)頃
  丹波国-訶紗郡
 696年頃
  旦波国-加佐評
 701年
  7世紀に丹波国に属する
  加佐評が
  加佐郡となる
 709年 丹波国-加佐郡
 713年(和銅六年)4月3日
  丹波国の北部5郡である
  加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡
  が分離して丹後国
  旧国郡制度の丹波国の北丹地区
  中丹は
  天田郡(あまだぐん:夜久野町・福知山市・三和町)
  何鹿郡(いかるがぐん:綾部市)
      斑鳩・鵤・・・如何留臥・烏賊留画・怒る我・医科留臥
  南丹は
  船井郡(ふないぐん:瑞穂町・和知町・丹波町・園部町・八木町)
  桑田郡(くわたぐん:美山町・京北町・亀岡市)
  西丹は
  氷上郡(ひかみ:市島・春日町・青垣町
          氷上町・栢原町・山南町)
  多紀郡(たきぐん:篠山市)
  丹波道主命
  舞鶴市東地区一帯
  息長の転訛といわれる
  行永(ゆきなが)地区を開拓
  古代丹後国
  加佐郡の
  志楽(しらく)郷
  高橋(くらはし)郷・・・?・・・高橋=たかはし
  を本拠とした・・・
ーーーーー
 浮島丸事件
 太平洋戦争終戦日の後
 1945年8月24日17時20分頃
 舞鶴港の京都府
 舞鶴市
 下佐波賀沖300mの地点で
 日本海軍特設運送艦
 浮島丸(4,730総トン、乗組員255名)が
 アメリカ軍が敷設した
 2,000ポンド音響式機械水雷
 に触雷して沈没
ーーーーー
 ・・・???・・・

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宵待ち草・まつよいづき・弥立つ=いよたつ・イヨ=伊予=伊豫=壱与・・・起つ・発つ・奪つ?

2018-10-23 13:14:23 | 古事記字源

 ・・・今夜は十四夜の月・・・月曜日・・・「待宵月(まつよいづき)・小望月(こもちづき・こぼうげつ)・幾望(キボウ)」・・・昨夜は「栗(くり)名月」ならば、今夜は「粟(あわ)名月」かな?・・・「粟=あわ・ゾク・ショク・ソク=覀+米=異体字は、𠧼・䅇・𥟫・𥸫・𥹟・𥻆・𥾄」・・・「𠧼=ト+冂+又+瓜」、「𥟫=𠧧+禾」、「𥸫=凢+米」、「𥟫=卥+禾」、「𥻆=ト+肉+一+米」、「𥾄=𠨋+米」・・・粟肌・鳥肌・・・「肌が粟立つ・恐ろしさに震えたり寒気を感じたりするさま・戦(おののく=慄く)・震えおののく・戦慄する・肌が粟立つ ・ ビビる・震え上がる・怯える・恐怖に包まれる・恐怖に支配される・慄然とする」・・・「身の毛がよだつ(弥立つ=いよたつ・与奪?・夜立つ?・逆立つ)」?・・・

 ならば「伊予立つ」・・・十三歳の「壱與=壹與⇔台與=臺與」?・・・『晋書』の「泰始二(266)年」・・・
ーーーーー
 旧暦九月十四日(戊戌/壬戌/丁亥)月齢13.43・仏滅・・・年始から287日目(閏年は288日目)、年末まで78日・・・夫婦の日?・・・毎月の22日=「22⇔フーフ」・・・「念弐」・・・封附・・・
 「積木くずし(つみきくずし)・親と子の二百日戦争」・・・
 1931年7月20日 - 2018年10月19日
 辛未(丁・乙・己)⇔戊戌(辛・丁・戊)
 乙未(丁・乙・己)⇔壬戌(辛・丁・戊)
 丙子(壬・ ・癸)⇔甲申(己・壬・庚)
  申酉=空亡  大運丁亥(戊・甲・壬)
  ↓↑
 1967年12月16日 - 2003年8月13日or14日
 丁未(丁・乙・己)⇔癸未(丁・乙・己)
 壬子(壬・ ・癸)⇔庚申(己・壬・庚)
 甲寅(己・丙・甲)⇔戊午(丙・ ・丁)
  子丑=空亡  大運甲寅(己・丙・甲)・乙卯(甲・ ・乙)
ーーーーー
 ???・・・ドウジョウよりもカネ・・・?

  弥立つ=いよたつ・・・イヨ=伊予=伊豫=壱与・・・
 「壱與=壹與⇔台與=臺與」立つ・・・起つ・発つ・奪つ?

 「身の毛が-よだつ(弥立つ)=いよたつ・与奪・夜立つ・逆立つ)」?・・・

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