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コジキジゲン

スズリに向かいて、日暮らし・・・ナニをするんだか?

2016-09-30 23:25:57 | 古事記字源

 ・・・「神翻訳」の「セイショ」って?・・・中国語の「誤訳掲示板、案内書」・・・「福岡県糸島市教委は28日、弥生時代後期(1〜2世紀)とみられる硯(すずり)の破片が出土した同市の三雲・井原遺跡で、新たに別の硯の破片が発見」・・・「スズリ(硯=石+見→意詞視)」・・・「珠洲里(理)・錫(金+易)理→Tin・独語はZinn)・炭素族元素に分類される金属・ 原子番号50の元素・元素記号はSn・元来、銀と鉛の合金・stannum・曲げると錫鳴き(tin cry)と云う音がする・スズは同素変態によってその物性が大きく変化する・鉛との合金は金属接合のハンダ(半田、盤陀、solder)の材料・銅との合金は青銅・砲金(ホウキン、Gunmetal)」・・・「石見国(いわみのくに)・石州・日本の律令制度の地方行政区分の国の一・山陰道に属す・島根県邑智郡・益田都市圏は山口県の一部を含む」・・・
 「最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出・大森銀山・佐摩銀山(さまぎんざん)とも呼ばれた」・・・「銀山を占領を巡って、大内氏と尼子氏が争奪戦」・・・安来の英雄?・・・ナニが「山中鹿之助」の心情だったのか?・・・「馬鹿之助・馬鹿介」・・・「願わくば、我に七難八苦を与え給え」、「天文十四年(1545)八月十五日生・真田幸村の家臣・相木森之介が父親」との説も・・・「相記、洩り、之、素(数)懸」だろう・・・ボクだったら「願わくば、我に七難八苦を去らせ給え」であるが・・・
 「いわみ(意和見・違和見)」なのか、「いしみ(意志見・意思見・医師診)」なのか?・・・銀山・・・「初期には仙ノ山(銀峰山)山頂付近で銀鉱石の露頭採掘(露天掘り)」・・・
 銀精錬=灰吹法・・・カイスイホウ?
 酸化鉛の粉塵を吸い込んだ鉱夫作業員は
 急性、慢性の
 鉛中毒を発症
 当時の鉱夫は短命で、
 30歳まで生きられた者は
 尾頭付きの鯛と赤飯で長寿の祝いをした
 鉱夫たちの家族構成はその多くが
 独身もしくは夫婦のみであった・・・
 ・・・「銀=金+艮」・・・キンコンで、金の恨み、怨み、憾み、占見、浦見である・・・
 「男女・家族・養育・分離独立・新たな家族」・・・新たな家族も出来ない、モチロン「分理独立」もない・・・少子化とは無分裂か?無対立か?・・・人間が居なくなれば地球安全化?であるが・・・宇宙次第であるカナ・・・
 文裏(ブンリ)?の「リ」って・・・音声で聴いてその意味が分別できるのか、どうなのか・・・ヤッパ、視覚で確認する他は無い・・・「り・リ」・・・「文離・文理」・・・
  ↓↑
  利理有履吏璃
  俐(かしこい)
  悧(さとし)
  里(さと)
  浬(かいり・かい)淕浰芮漓灕
  厘
  裡(うち・うら)褵
  鯉(こい)
  鋰(りちゅうむ・りちうむ)
  莉梨莱
  織(おる)
  娌(あいよめ・あによめ)嫠俚
  麗(ふもと)
  孋躧邐酈纚廲
  哩唎喱嚟
  峛(みね)峲
  悝(たわむれる)悧(さとい)悷
  摛攦
  柂栗(くり)梩
  欐(むね・うつばり・よこぎ=梁)
  犁(すき)犂犛
  璃(がらすたま)瓈
  盠(ひさじ・すき=犂)
  磟(すき・磟碡(ロクドク)
  砅(わたる・ふかし・pump)
  离籬
  縭(古代、女子の出嫁時に配する帶的彩巾)
  罹(かかる)
  艃(舟+里)?
   (鳥橋斎-栄艃(ちょうきょうさい-えいり
    宝暦九年・1759年~不詳)
   (江戸時代中期の浮世絵師・御家人
    鳥文斎 栄之の弟子)
  茘荔莅莉莱萊蒞薶蘺蓠
  蜊(あさり・鯏・蛤蜊(こうり)・浅蜊・蛤仔
        貝名シオフキ貝・蟸蠡劙)
  罹(かかる)痢
  䬆(風+利)
  詈(ののしる・罵る・罵詈雑言)
  醨
  驪
  鬁(鬎鬁(ライリ)・髪が抜け落ちる頭皮の皮膚病)
  鸝(コウライウグイスの別名
    高麗鶯(鴬)
    𪈹・𨿯・𩁄・𩁟・𪁐・𪅗・𪅆・𪅌・𪆜・𪇺・𪈳
    黄鸝=コウリ)
  麳黎黐黧
  凜(きびしい)凛
  鈴(すず)玲
  力(ちから)
  凌(しのぐ)
  琉(たま)・・・琉球
  柳(やなぎ)とカエルとアメと唐カサ
  ↓↑       小野之道風?
  ↓↑      (同風・唐風・問う附得)
  ↓↑       小野道風(トウフウ)
           尾張名古屋
           春日井に誕生?
           寛平六年(894年)
             ~
           康保三年十二月二十七日
           (967年2月9日)
           公文書の
           清書係り
           小野好古は実兄
           官位は正四位下・内蔵頭
           「三跡」の一人
           「空海筆の額を批判」
           「玉泉帖(ギョクセンジョウ)
           白氏文集の詩を道風が書いた
           巻子本の
           巻首に
           「玉泉南澗花奇怪」
           浄瑠璃
 ↓↑        「小野道風青柳硯
           (おののとうふうあおやぎすずり
            宝暦四年・1754年初演)」
           が花札の絵になった・・・?
           明治時代までは
           絵柄は
           「斧定九郎(おのさだくろう)」だった
            彼は
           「歌舞伎・仮名手本忠臣蔵・五段目
            山崎街道、鉄砲渡しの場」
            通称、
 ↓↑        「二つ玉の場」に出てくる、悪役浪人で
            元赤穂の
            大野群右衛門がモデル」
           らしい・・・この絵柄は
           柳、
           しぼめた雨傘(唐傘)を持つ男、
           稲光で
           カエルは描かれては居ない
           十一月(霜月=しもつき)
           の絵札だった
           それが
           小野道風の
           「蛙(かえる)が柳に跳びつこうとし
            一生懸命努力し、跳び付いたの観て
            道風はその努力をしていなかった」
           と悟(さと)った、とか?の
           絵柄に変更された・・・
           「秋萩(猪)帖」
           「狗(犬)鹿(紅葉)蝶(猪)」
           「1月松、2月梅、3月桜、
            4月藤、5月菖蒲、6月牡丹、
            7月萩、8月薄、9月菊、
            10月紅葉、11月柳、12月桐」
           ↓↑    ↓↑
           尾の同封?
           小野道風の和歌の記録
           後撰集(天暦九年~天徳元年
                 955~957年)
 ↓↑        ↓↑    ↓↑
     後撰集 巻四・夏
     詞書 題しらす
     番号外作者 小野道風朝臣(999)
     ほにはいてぬ いかにかせまし
     花すすき 身を秋風にすてや はててん(む)
     異同資料句番号=00267
     ↓↑
     詞書 ふたりのをとこに物いひける女の、
        ひとりにつきにけれは、
        今ひとりかつかはしける
        読人不知(よみ人しらす)(000)
     あけくらし まもるたのみを
     からせつつ たもとそほつの
     身とそ成りぬる
     異同資料句番号=00268
     ↓↑
     詞書 返し
     読人不知(よみ人しらす)(000)
     心もて おふる山田の ひつちほは
     君まもらねと かる人もなし
     異同資料句番号=00269
     ↓↑
     詞書 題しらす
     番号外作者 藤原守文(999)
     草のいとに ぬく白玉と 見えつるは
     秋のむすへる つゆにそ有りける
     ↓↑
     詞書 道風しのひてまうてきけるに、
        おやききつけてせいしけれは、
        つかはしける
        大輔(502)
     いとかくて やみぬるよりは いなつまの
     ひかりのまにも 君をみてしか
     異同資料句番号=00884
     ↓↑
     詞書 物いはむとてまかりたりけれと、
        さきたちてむねもちか侍りけれは、
        はやかへりねといひいたして侍りけれは
        番号外作者 道風(999)
     かへるへき 方もおほえす 涙河
     いつれかわたる あさせなるらむ
     異同資料句番号=00889
 ↓↑  ↓↑
     太秦わたりに大輔が侍りけるに、
     つかはしける 限りなく思ひ
     入り日のともにのみ
     西の山べをながめやる哉
     ↓↑
     詞書 しのひてまかりけれと、
        あはさりけれは
        番号外作者 道風(999)
     なにはめに みつとはなしに
     あしのねの よのみしかくて
     あくるわひしさ
     異同資料句番号=00888
 ↓↑  ↓↑
     詞書 物いはむとてまかりたりけれと、
        さきたちてむねもちか侍りけれは、
        はやかへりねと いひいたして
        侍りけれは
        番号外作者 道風(999)
     かへるへき 方もおほえす涙河
     いつれかわたる あさせなるらむ
     異同資料句番号=00889
 ↓↑  ↓↑
     詞書 返し
     大輔(502)
     涙河 いかなるせより
     かへりけん 見なるるみをも
     あやしかりしを
           参議、小野篁の孫
           大宰大弐、小野葛絃の子
           藤原純友を討伐した公卿の
           小野好古は実兄
 ↓↑        小野小町の従弟・・・?
 アヤシイ「後撰集」の和歌である・・・
 ・・・モモちゃんの「見栄きり」は食べ物が歯に挟まってそれを前脚で取ろうとしている時の仕草(仕種)だけれど・・・招きのシグサではない・・・
 ↓↑
 「り・リ」
 ↓↑
  鯛鯉鲡
  織(おる)缡
  璃(がらす・瑠璃)
  秔孷剺氂犛釐
  丽(うららかな・きれい=綺麗)
  驪(くろうま・黒い毛色の馬)
  蓠藜黎
  罹篱黧
  離(はなれる・わかれる)
  狸貍猍
  励(はげます)勵
  隷
  礼禮
  歴(こよみ)暦
  靂(しかる・いかる・おこる・青天の霹靂)
  蠣(かき・牡蠣)
ーーーーー
 ・・・「り・リ」の漢字の検索だが・・・カンジるのは難し・・・
  斧定九郎(おの さだくろう)
 「仮名手本忠臣蔵・五段目」の登場人物
 塩冶の浪士(赤穂浪士)でありながら
 敵方に内通している
 「斧九太夫(おのくだゆう)」
 大野九郎兵衛、浅野家家老の息子
 浄瑠璃、歌舞伎の
 「仮名手本忠臣蔵」の登場人物
 盗賊
 お軽が勘平のために身を売った
 五十両を
 お軽の父
 与市兵衛を殺害して強奪し
 イノシシ(猪・亥)と間違われ
 勘平に撃たれた
 大野群右衛門
 (おおの ぐんえもん)
 赤穂藩浅野氏の家臣
 大野知房の子、嫡男
 寛延元年(1748年)八月
 大坂竹本座にて初演
 全十一段
 勘平が撃ったのは、
 与市兵衛を殺して金を奪った斧定九郎
 十一月札
 「柳に小野道風の花札」の以前の絵柄の人物
 人形浄瑠璃、歌舞伎の演目の一
 二代目
 竹田出雲
 三好松洛
 並木千柳の合作
 明和年間(1764~1772)
 初代
 中村仲蔵は
 明和三年
 仮名手本忠臣蔵の
 「白塗りの役」の登場として
 定九郎の役で大当たり
 ↓↑ 
 ・・・並木千柳・・・並ぶ記の川柳(撰留)・・・選笠(センリュウ)・・・でした・・
 ↓↑
  月 花  光20   種10    短冊5    カス1
  ↓ ↑  ↓    ↑     ↓      ↑
 1月 松  松に鶴         松に赤短 松の滓(2枚)
 2月 梅        梅に鴬   梅に赤短 梅の滓(2枚)
 3月 桜  桜に幕         桜に赤短 桜の滓(2枚)
 4月 藤        藤に不如帰 藤に短冊 藤の滓(2枚)
 5月 菖蒲       菖蒲に八橋 菖蒲に短冊 菖蒲の滓(2枚)
 6月 牡丹       牡丹に蝶  牡丹に青短 牡丹の滓(2枚)
 7月 萩        萩に猪    萩に短冊  萩の滓(2枚)
 8月 芒  芒に月   芒に雁          芒の滓(2枚)
 9月 菊        菊に盃   菊に青短  菊の滓(2枚)
 10月 紅葉 紅葉に鹿      紅葉に青短  紅葉の滓(2枚)
 11月 柳  柳に道風蛙 柳に燕  柳に短冊  柳の滓
 12月 桐  桐に鳳凰             桐の滓(3枚)
  ↓↑
 花札の種類
 八八花(はちはちはな)・・・全国版
 北海花(ほっかいはな)・・・北海道版
 越後花(えちごはな)・・・・新潟版
 越後小花(えちごこはな)・・新潟版・上越
 越前花(えちぜんはな)・・・福井版
 金時花(きんときはな)=阿波花(あわはな)・四国
 奥州花(おうしゅうはな)=山形花(やまがたはな)
 花巻花(はなまきはな)・・・岩手版
 備前花(びぜんはな)・・・・岡山版
 大連花(だいれんはな)・・・ロシア版
 花闘(ファトゥ)・・・・・・朝鮮版
 さくら=ハワイの花合=肥後花
ーーーーー
 ・・・ハナ札・・・博打が好きな「ニンゲン」である・・・カナ

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カツ(克つ)、と云うコト・・・

2016-09-29 01:07:46 | 古事記字源

 ・・・役所の課・・・ボクの住んでいる町役場には「おもいやり課」があるが・・・「ミエるか」、「ワカるか」は都知事の弁舌にあったが、「五W一H」のコトバもあった・・・・・・「ドウスるか」、「シラセるか」、「スグヤるか」、「グズるか」、「カクスるか」・・・「見栄(見得)・倭化(和歌)・如何掏・新羅(示羅)勢・数具埜・愚(具・球・頄)図・仮句素」+「留化(ルカ)」・・・訳知字(トチジ)・・・トチッた・・・「とちめく」の「とち」と同源で、「橡麺坊(とちめんぼう)」=「閙(ドウ・さわがしい)・いそぎうろたへたるかたちをいふ・とちる」・・・漢字表記は不明・・・「怢(とち・テイ)」・・・「怢慄」・・・兎に角、Fighters、勝った!!

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・・・エイセイ・・・

2016-09-27 22:13:53 | 古事記字源

 ・・・マケルこともあるのがアタリマエだが残念、代打大谷の2塁打が惜しいが、事件もワンサカの日常性・・・毎日が「豊洲」、「富山市議会議員の政務活動費のクスネ」・・・「点滴殺人魔の横浜某病院」・・・「少女監禁事件」・・・
 北海道で、サクラ・・・宇宙を見上げて、星を観るが・・・
ーーーーー
 衛星ヨーロッパは皺(しわ)くちゃだけれど、イヲは皰(にきび)かな・・・

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伏見城、地震で崩壊・・・

2016-09-26 22:40:02 | 古事記字源

 やったね、Fighters!!・・・円(○)と四角(□)・・・「√6=2.4494897」・・・三文、六文・・・3/6=三(3)/六(6)=一(1)/二(2)=1/2・・・「似文のイチ」・・・「ふしみ=伏見・臥見・穴見・二四三・節見」・・・伏見城の普請の不審?・・・「真田安房守」・・・「あわ=阿波・安和・泡・粱・併・閔」・・・「淡路」の守?・・・伏見城、地震で崩落・・・ 1596年・慶長伏見地震・・・1596年9月5日0時(文禄五年閏七月十三日子の刻)・・・

  丙申(己・壬・庚)
  丙申(己・壬・庚)
  戊申(己・壬・庚)
  壬子(壬・ ・癸)



 以下、スベテ「ウェブ検索結果」からの参考添付・・・
ーーーーー
 三途川の渡河
 六文冥銭
 六文銭・六連銭・六道銭
 ↓↑
 伏見城
 ↓↑
 築城は
 1594年(文禄三年)から
 普請奉行は
 佐久間政家
 石材は
 讃岐国の
 小豆島から
 木材は
 土佐国
 出羽国
 から調達
 4月に
 淀古城から
 天守、櫓
 を移建
 10月に
 殿舎完成
 1595年(文禄四年)
 秀次事件
 七月
 破却された
 聚楽第からも建物が移築
 宇治川の対岸にある
 向島にも
 伏見城の支城、
 向島城が築城
 1594年(文禄三年)末より
 城下町整備
 ↓↑
 1603年(慶長八年)
 徳川家康が
 伏見城で征夷大将軍の宣下
 以後
 三代
 徳川家光まで
 伏見城で将軍宣下式
 ↓↑
 慶長十年(1605年)三月
 徳川家康は伏見城で
 朝鮮使節と会見
 文禄・慶長の役で悪化していた
 朝鮮と和議
 1607年6月29日(慶長十二年・宣祖四十年五月六日)
 江戸時代最初の通信使が幕府へ派遣
 徳川秀忠に国書を奉呈し、帰路に駿府で家康に謁見
 計12回の通信使が派遣された
 1811年(文化八年・純祖十一年)
 通信使が対馬までで差し止められたのを最後に断絶
 通信使が幕府へ派遣の事情
 ヌルハチのもとで統一された女真族が南下
 文禄・慶長の役で
 加藤清正軍が
 女真族と通じる状況もあり
 女真族と日本が同盟の危険が
 朝鮮では検討されていた・・・
 ↓↑
 伏見城
 御殿建設に伴い、
 徳川家康も
 本丸から
 西の丸に移り、
 更に二条城に移る
 本丸完成の
 8月20日に
 伏見城に帰城
 新御殿で
 徳川秀忠の将軍宣下
 駿府城の改築により、
 1606年(慶長十一年)頃に
 伏見城の作事停止
 家康が
 駿府城へ移った後
 慶長十二年
 松平定勝が城代
 また
大番等による在番や定番が行われた
 ↓↑
 「兼見卿記」
 文禄元年八月二十日条
 「今日、太閤大坂より伏見に至り御上洛云々、
  伏見御屋敷普請縄打ち仰付らる」とある。
 『多聞院日記』
 文禄元年八月二十四日条
 「京都伏見ニ太閤隠居所立之体篇之地取在之云々」とある。
 『多聞院日記』
 文禄元年九月三日条
 「於伏見太閤隠居城立トテ事々敷普請此頃在之云々」とある。
 文禄元年十二月十一日条
 前田玄以に宛てた書状
 「ふしみのふしんの事
  りきう(利休)に
  このませ候て
  ねんごろに申つけたく候」とある。
 1596年
 慶長伏見地震
 慶長五年八月五日
 石田三成が
 真田房州、
 真田豆州、
 真田左衛門左
 に宛てた書状に
 「城内悉火を
  かけやけうちにいたし候」とある。
 慶長五年八月六日
 石田三成が
 真田安房守に宛てた書状
 「悉懸火不残一宇焼払候事」とある。
 慶長五年八月七日
 石田三成が
 上杉義宣に宛てた書状
 「一宇も不残焼捨候事」とある。
 ↓↑
 築城年
 1592年・文禄元年
 廃城年
 1623年・元和九年
 通称、桃山城・指月城・木幡、伏見城の遺構
ーーーーー
 ふしみ=ふし‐みず=伏し水=地下水
     とどこおって流れない水
     流れる水
 ↓↑
 たちみず=たち‐みず=立ち水
     流れている水
     湧き水
     筑波問答に
    「あはれ、いさぎよき水の流れかな。
     水には立ち水、伏し水といふことのあるなり」
     兼載雑談に
    「立ち水とはわき出づる水なり。
     ふし水とは流るる水なり」
 垂れ水=垂水(たるみ)
     「水(みづ)」は「み」の短縮
 落水=落ち水・・・瀧・滝・たき・・・
 ↓↑
 名古屋伏見(中区錦)
 貞享三年
 伏見町下ノ切が、
 京都の淀にちなんで淀町と改称
 明治四年九月二十九日
 淀町を編入
 1878年(明治十一年)12月20日
 名古屋区成立に伴い、同区
 伏見町となる
 1889年(明治22年)10月1日
 名古屋市成立に伴い、同市伏見町となる
 1908年(明治41年)4月1日
 西区成立に伴い、同区伏見町となる
 1944年(昭和19年)2月11日
 栄区成立に伴い、同区伏見町となる
 1945年(昭和20年)11月3日
 栄区廃止に伴い、中区伏見町となる
 1966年(昭和41年)3月30日
 住居表示の実施に伴い、
 消滅
 ↓↑
 伏見町名は
 山城国伏見に住んでいた
 伏見屋六兵衛が移住
 住人
 茶碗屋
 吉田源左衛門
 畳屋棟梁
 吉田市郎左衛門
 張振甫・・・・中国の明国から帰化人(医者)
 ↓↑     明国の王族
        元和年間(1615~1623)
        明末の乱を避けて渡来帰化し
        京都に住み、
        後に江戸に行く途中
        熱田で
        尾張藩主初代義直に懇望され
        名古屋に滞在
        二代藩主光友の代に
        堀詰町(西区巾下町)に土地をもらい
        医者として藩に勤めた
        寛文六年(1666年)
        上田御林(うえだおんばやし)内に
        土地をもらったが猪や鹿が多く
        再度願い出て、
        寛文七年(1667年)上野村内の
        間宮大隅守下邸の上ヶ地に替え地をもらい
       「振甫新田(振甫町)が開かれた
        食品治療の法、食中毒の治療をした・・・
 ↓↑
 淀町
 伏見
 京都市
 伏見区
 古来、
 伏水と書かれた?・・・「伏水」ではなく、「伏見」?
 桃山丘陵からの伏流水に由来
 伏見(ふしみ)
 京都府京都市
 伏見区深草の南、鳥羽の東の地
 平安時代以後、貴族の別荘地
 豊臣秀吉の伏見城(桃山城)築城後は城下町
 名水の地
 江戸時代には京都と大坂を結ぶ
 淀(よど)川水運の要地
 ↓↑
 和歌では「伏し身」にかけてられる
 伏見(ふしみ)
 俯見・臥見・伏水
 とも書く
 山城国紀伊(きい)郡の東南部
 南は宇治川・巨椋池に接し、
 東に東山連峰南端の桃山丘陵
 地名
 「巨椋乃入江響奈利射目人乃
  伏見向田井爾雁渡良之(万葉集)」
 柿本人麻呂
 狩猟場である巨椋池を狩人が
 「伏し見る」場としたから
 この歌の
 伏見は久世(くぜ)郡伏見田井村とする説も
 「伏水」の字義から、
 巨椋池に枕する地形、あるいは
 宇治川の水が伏し湛うる所とする説
 大和国
 菅原伏見に
 土師氏の長が住むため、
 「伏見」の名が
 土師部の代名詞となり、
 山城国の
 土師部居住地も
 「伏見」と称されるようになった
 ・・・定説はない・・・
 ↓↑ 
 「先斗町(ぽんとちょう)」
 ポルトガル語のPontaに由来
 先端を意味
 英語のPointと同義
 鴨川と広瀬川に挟まれた堤にあり、
 堤→鼓→ポンとなる、から先斗町の説・・・
 ・・・先に戦う、先陣、戦陣を争う・・・千尋・・・
 ↓↑
 「万里小路(までのこうじ)」・・・?
      マリではなく、ナゼ「万里=まで」なのか?
 京都府京都市下京区
 万里小路町
 平安期に見える通り名
 ↓↑
 伏見稲荷大社
 全国稲荷神社の総本山
 商売繁盛の神
 ダニキ天が・・・
 狐の背中に乗る女神の姿とされた
 稲荷の神と同体と考えられる
 御饌津(みけつ)神が
 誤って
 三狐神と書かれ、・・・さんこのれい(三顧の礼)の狐?
 そこから
 狐が稲荷神社で祀るようになった・・・?
 野ネズミを狐が駆除してくれるので
 狐が穀物の守り神となった
 ↓↑
 和銅四年(711)・・・「和同開珎」=ワドウ、カイチン or
カイホウ
                 708年8月29日
                 和銅元年八月十日発効
 秦伊呂具が農耕守護神を祀って相建
 中世以降、
 商売繁盛・開運・技術向上の守護社
 全国で約四万社の総本山
 御利益・・・・・五穀豊穣・商売繁盛
 ↓↑
 「伏見城」で廃城になった跡地に
 桃の木を植えたのが「桃山」の地名の由来・・・
 ↓↑
 札幌伏見
 藻岩山麓通と藻岩山に囲まれたエリア
 札幌郡
 藻岩村の中央
 大字山
 鼻村の一部
 札幌市の西南に位
 藻岩山麓を南北に延びる小
 境界は屈曲甚だしく
 東は札幌市を境し、
 南は藻岩山の原始林に迫り、南は狭く北部に広し
 明治四年(1871年)
 山形県人
 佐藤三蔵さん父子が伏見250番に入植
 その後4軒の農家が入植して
 四軒村を創った
 明治七年
 山鼻村の一部となり
 山鼻山根通と呼ばれた
 明治三十九年
 山鼻村と円山村が合併し
 藻岩村となった
 伏見も藻岩村大字山鼻村の一部だった
 明治三十四年
 伏見と言う地名が付けられた
 ↓↑
 伏見城の遺構は全国の社寺に移築
 東山の養源院や西加茂の正伝院には、
 関ヶ原の合戦の際、
 家康の留守を預かった
 鳥居元忠以下の武士が、
 城を死守、自刃した際の血天井がある
 ↓↑
 伏見稲荷
 711 年(和銅四年)
 秦公伊呂具(ハタノキミイログ)が創建
 御祭神は
 先住氏族の
 荷田氏の祖神
 宇迦之御魂大神
 渡来人
 秦氏の祀った
 大宮能売大神
 佐田彦大神
 ↓↑
 巨椋池を臨む土地は平安期から貴族の別荘地
 指月の岡(京都市伏見区桃山町泰長老)に、
 豊臣秀吉が隠居屋敷を設けたのが
 伏見城の始まり
 指月城
 伏見城跡(指月城)発掘により、
 伏見城最初期の遺構
 石垣の石材や大規模な堀の跡
 桐紋や菊紋入りの金箔瓦などの遺物も発見
 1624年(寛永元年)
 伏見城廃城
 ↓↑
 銀座
 1601年(慶長6年)
 伏見城の城下町に
 徳川家康が日本で初めてとなる銀貨の鋳造所を設けた
 慶長丁銀
 慶長豆板銀
 伏見の街にあった銀座は、
 1608年、京に移った
 江戸の銀座は、駿府から移されたもの
 ↓↑
 「桃山」のいわれは、
 伏見城の廃城後、
 城址の山一帯に
 桃の木が植えられ、桃の花見の名所となった
 1912年(大正元年)
 伏見城のあった古城山は
 明治天皇陵
 ↓↑
 伏見という名の由来
 伏水(ふしみず)=そのあたりに水がいっぱいあった
 櫛水(くしみず)=実際に奈良時代には
          こういう場所があったらしい
伏身(ふしみ)=このあたりに人が倒れて
         身を伏せていた
  などの説・・・
 ↓↑
 伏見村の誕生
 明治時代に・・・宝来村、平松村、菅原村、      
(1889年) 疋田村、青野村、西大寺村
         の6つの村が1つになり
         伏見村が誕生
 ↓↑
 万葉集巻9(ふしみ)
「1699
 巨椋乃 入江響奈理 射目人乃 伏見何田井爾 雁渡良之」
 (おほくらの いりえとよむなり 
           いめひとの ふしみがたいに
                 かりわたるらし)
 ↓↑
 「射目人乃(いめひとの)」
 伏見にかかる枕詞
 「伏見」とは
 「狩人が雁を射落とすため体を伏せて見ている」
 という意味
 伏身、伏見・・・
 ↓↑
 橘俊綱の歌
 伏見といふところに四条の宮の女房あまたあそびて、
 日くれぬ先にかへらむとしければ
 「1146
  みやこ人くるれば かへる いまよりは
  ふしみのさとの
  なをも たのまじ」
 (都人 暮るれば帰る 今よりは
  伏見の里の 名をも頼まじ)
 (ふしみというところに
  四条の宮の女房がたくさん遊びに来たが、
  日が暮れぬうちに帰ろうとするので)
 「都から訪ねてくる人も日が暮れると帰ってしまう
  ふしみ(男女が一緒に夜を過ごすこと)
  なんていう名前は
  あてにならないものだなあ」
 ふしみ=「臥身」
 ↓↑
 鎌倉時代
 新古今和歌集巻6
 藤原有家の歌
 同じ家にて、所の名を探りて冬の歌よませ侍りけるに、
 伏見里の雪を
 「673
  夢かよふ道さえ絶えぬ
  くれたけの
  伏見の里の雪のしたをれ」
 (夢通う 道さえ絶えぬ
  呉竹の 伏見の里の 雪の下折)
 (同じ家にて、所の名を探り冬の歌を詠ませた時に
  伏見の里の雪を)
 「雪で道が閉ざされ、さらに夢路さえ途絶えてしまった
  竹が雪の重さで折れる音で目が覚めてしまったから」
 「呉竹の伏見」
 なぜ「呉竹」が「伏見」なのか
 「呉竹」の『節』と
 「伏見」の『ふし』とを掛けた
 「ふしみ」は、
 「臥身」、「節見」の両方にかけた
 ↓↑
 室町・江戸時代
 「ふしみ」は「伏水」と書かれるようになる
 伏見では酒作りが盛んになり
 上質の地下水が豊富にあった
 淀川を利用した
 十石船・三十石船などの往来が盛んになって
 伏見に港ができ
 「伏見津(ふしみつ)」
 ↓↑
 明治~現代
 明治十二年(西暦1879年)
 京都府令で
 「伏見」を公式名した
ーーーーー
 伏見城
 三度に渡って築城
 最初の城は
 朝鮮出兵(文禄の役)
 開始後の1592年(文禄元年)8月
 に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため
 伏見指月(京都市伏見区桃山町泰長老)に建設
 指月伏見城、
 後に近隣の
 木幡山に再築されたものを
 木幡山伏見城と呼んで区別
 木幡山伏見城は豊臣期のものと、
 伏見城の戦いで焼失した跡に
 徳川家康によって再建されたものに分けられる
 伏見城
 築城開始から2年後の
 1594年(文禄三年)
 秀吉が入城
 更にその2年後の
 1596年(文禄五年)に完成
 慶長伏見地震によって倒壊
 指月から北東約1kmの
 木幡山に新たな城が築き直され
 1597年(慶長2年)に完成
 秀吉は
 その1年後の
 1598年(慶長3年)に城内で死没
 秀吉の死後
 豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、
 五大老筆頭の
 徳川家康がこの城に入り政務
 関ヶ原の戦いの際には
 家康の家臣
 鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、
 石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失
 徳川家の家臣らが自刃
 その建物の床板は、
 供養も兼ねて京都市の
 養源院、正伝寺などで天井板として再利用
 血天井とした
 焼失した伏見城は
 1602年(慶長七年)ごろ
 家康によって再建され
 1619年(元和五年)に廃城
 建物や部材は
 二条城、淀城、福山城などに移築
 ↓↑
 山城国伏見に住んでいた
 伏見屋六兵衛なる人物が当地に移り住んだことに由来
 稲荷の1つ
 山名は「古事記」逸文の
 伊奈利の社の条
 秦氏と関連した地名起源の説話に由来
 「朝散太夫中 書少郷脇坂淡路守」
 の邸宅があり、当時伏見の住民から
 脇坂候のことを「中書さん」・・・
 ↓↑
 伏見神社
 「伏見」の語源は「星の観察」
シリウスは地震津波を教える
 シリウスは地震津波を教える星だった・・・?・・・「星の観測」は「伏し見(ひもろぎ逍遥さんの説)」・・・ですか?
ーーーーー
 ・・・???・・・

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乞う、野球実況中継、ナカジマミユキで・・・

2016-09-24 23:25:22 | 古事記字源

 ・・・「陽 岱鋼外野手、4回、13号3ラン、背番号1」、ヤッテくれました。「Fighters」・・・TV中継がオワッたが、結果は勝った「4-1」・・・TV、ラジヲでの野球実況中継、「女性アナウンサー」はいないのかな。もし、「女性アナウンサー」だったらドンナ実況をするだろうか・・・コンサドーレの実況では「女子アナウンサー(千葉真澄さん)が「ナビゲータ(navigator・案内人・先導者)?」だったが・・・「水先案内人」・・・「実況アナウンサー(announcer)」とは、若干、異なる・・・「名靡解意舵?」、「蛙名韻差會?」・・・実況のアナウンサー(announcer)を漢字化するとどうなるのか?・・・「実況放送員」・・・「敵性語・敵声語」・・・「包装音」か・・・
ーーーーー
 ウイッキペデアにも「テキセイ語」の頁があったので、抜粋「引用」・・・
  ↓↑
 「アナウンサー」=「放送員」
 「マイクロホン」=「送話器」
 「レコード」=「音盤」
 「ニュース」=「報道」
 「臨時ニュース」=「臨時報道」
  ↓↑
 「ベースボール」=「野球」
 「ストライク」=「よし1本・正球」
 「ストライク ツー」=「よし2本」
 「ストライク スリー、
  ユー アー アウト」=「よし3本、それまで」
 「ボール」=「だめ1つ、悪球」
 「ファウル」=「だめ、圏外、もとえ」
 「アウト」=「ひけ・無為」
 「セーフ」=「よし・安全」
 「バッテリー」=「対打機関」
 「タイム」=「停止」
ーーーーー
 ・・・「戦争」になったら「コトバ」も替えられるが、日中戦争の敵国は「漢字の本家本元の国」だったが・・・「漢字」は難しかった・・・カンジです・・・

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