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コジキジゲン

臥薪嘗胆・・・呉越同舟・・・語謁同集・・・

2018-01-31 23:54:34 | 古事記字源

 ・・・「ドック=dock=犬・・・造船所=dockyard・dock」・・・「ドック=戌=いぬ=犬・狗・獒=山犬(やまいぬ)⇔おおかみ(狼)」・・・「呉越同舟」になる時・・・身内以外の「敵」の登場・・・共同体を襲う自然災害、人的災害・・・襲ってくる相手は「同じ穴のムジナ(貉・狢)」・・・「むじな=六科・無地名・務字名・無私名・無視名・虫名・無死名・無恥那)」・・・
ーーーーー
 「臥薪嘗胆」は「明治政府の切望」
 ・・・「不平等条約の改正」・・・
 ↓↑
 越=走+戉・・・越前・越中・越後・・・エチゴ
 呉=吳(繁体字・旧字体)・吴(簡体字)・𠯵(異体字)
  =口+𠃑+一+八=口+L+亠+八
   ・・・広島、呉(くれ・ゴ・wú)
 ↓↑
 呉の側
 闔廬(コウリョ・夫差の父・呉王)
     ・・・考慮・興梠・恒亮・考亮=諸葛亮孔明
 夫差(フサ・呉王)
     ・・・夫(おっと)の差(さ)
 伍子胥(ゴシショ=伍員(ゴウン)・・・語詞書=語韻
 ↓↑  闔廬(コウリョ)の部下・夫差の部下)・・・考慮
     ・・・語詞書=語韻
            五蘊(色・受・想・行・識)
             蘊(ウン)=skandha(スカンダ)
                   khandha(カンダ)
                   「塊・要素・集まり」
            人間の心身を構成している
            五つの構成(形態)要素
    「色=物質的存在・外的な認識対象存在」
 ↓↑    ↓↑ 
    「受=感受作用・五感の視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚」
    「想=表象作用・精神内の想像・空想・仮想・妄想」
    「行=意志作用・行動への有無の決断、決定」
    「識=認識作用・対象の分別、分析の認識と
            その構成存在認識」
 ↓↑
 伯嚭(ハクヒ・呉の宰相・大臣)
 ↓↑・・・嚭=喜+否(不口)=異体字は「𡀆・𧯻・噽」
        喜ばず・喜ぶコトは出来ない
    嚭=おおきい・ヒ・mound・lump・stealthily
    伍子胥を讒言し冤罪で処刑させた
    後に呉国を滅ぼした
    越王、勾践に売国奴として
    処刑され晒し首にされた・・・
        江藤新平=えとうしんぺい=重訳有審並(晋併)
     ・・・葉句比(ハクヒ)・・・白衣・羽咋・・・
   「解体新書=ターヘル・アナトミア
        (耐える ・鴉名訳見蛙?)
    独逸人、クルムスの解剖学書
    オランダ語=和蘭語=阿蘭陀語の訳書」
    の面々・・・玄白、良沢、淳庵・・・「千寿骨ヶ原」
        杉田玄白=小浜藩の藩医=はんい=犯意?
        ↓↑   小浜藩=若狭国一国
             越前敦賀郡を領した
             ↓↑
        ↓↑  「上田敏」の
             父は
             上田絅二(旧名、乙骨亘・
                  岩倉使節団の一人)
             母は
             上田孝子
             祖父は儒学者の
             乙骨耐軒
             伯父は
             乙骨太郎乙(洋学者)
             叔母は
             上田悌子(女子アメリカ留学生)
             ↓↑
             従兄弟の
             乙骨三郎は
        乙骨太郎乙の三男で
        ↓↑   作詞家
             東京音楽学校教授
             國學院大學講師
            「日の丸の旗・浦島太郎・池の鯉」
        ↓↑   などの唱歌を作詞
        乙骨三郎の
        母の「つき」は
       「杉田玄白」の曾孫
        ↓↑
            「上田敏」は
            「小泉八雲」の生徒で、彼に
            「英語を以て自己を表現する事のできる
             一万人中、唯一人の日本人学生」
             と評され、後、
             東京高等師範学校教授
        ↓↑   八雲の後任の東大講師
        前野良沢(翻訳)
        享保八年(1723年)
        ~
        享和三年十月十七日(1803年11月30日)
        豊前国中津藩(大分県中津市)の藩医
        後、江戸幕府の幕臣
        「解体新書」の主幹翻訳者
        名は
        「熹(よみす)」で
        「余実寿・Jomis」と自著
        字は子悦・号は楽山、蘭化
 ↓↑     ↓↑
        中川淳庵
        小浜藩蘭方医
        山形藩医の
        安富寄碩(やすとみきせき)
          ・・・「奇蹟・奇跡・軌跡・輝石・鬼籍」?
        にオランダ語を学ぶ
        ↓↑
        大槻玄沢(おおつきげんたく)
          ・・・「諺詫・彦他句・現拓」?
        宝暦七年九月二十八日(1757年11月9日)
        ~
        文政十年三月三十日(1827年4月25日)
        陸奥国
        西磐井郡中里で出生
        杉田玄白から
       「解体新書」改訂を命ぜられ
        寛政二年(1790年)改訂着手
        寛政十年(1798年)
       「重訂-解体新書」
        文化元年(1804年)に完了し
        文政九年(1826年)に刊行
 ↓↑     ↓↑
 伯嚭(?~紀元前473年?)・・・なぜ、「伯嚭」の履歴なのか?
 呉の政治家
 楚の
 伯宛(ハクワン)の子
 曾祖父に
 晋の
 伯宗(ハクソウ)
 祖父に
 楚の軍師の
 伯州犂(ハクシュウ-レイorリ)・・・「白州・白秋」の
鋤犂(ジョレイ)・犂(すき)
           犂牛(リギュウ)・犂耕(リコウ)
           犂鋤(リジョ)
           犂牛の喩え(リギュウのたとえ)
           才能があれば出世可
 呉の闔閭、夫差に仕えた
 幼少の時の
 紀元前541年
 父親の伯宛が
 霊王・・・国を乱した君主の諡号
      第23代周王・第22代簡王の子
      姓、諱は「姫泄心」・・・「ヒメの漏らす心」?
 の
 王位簒奪計画で横死し
 祖父の
 伯州犂に育てられたが
 紀元前515年
 昭王の時代
 伯州犂も讒言で殺された
 既に
 呉国に存在していた
 伍子胥を頼って
 呉王の闔閭に登用され
 紀元前506年
 闔閭や伍子胥と共に
 楚を攻めて
 滅亡寸前に追い込んだ
 (柏挙の戦い)・・・柏(かしわ・十八白)を挙(あげる)
 ↓↑
 越国
 勾践(コウセン・越王)
 妻(勾践の妻)
 文種(大臣=大夫種)・・・・文の種(たね)
 范蠡(ハンレイ・勾践の部下)・・・範例・判例・凡例・反例
 ↓↑
 周の国
 敬王(ケイオウ)
 元王(ゲンオウ)
 呉越の戦いに
 周は参戦関与していない
 春秋戦国時代・・・春秋時期=魯 斉(姜斉) 晋 秦 楚 宋
               衛 鄭 陳 蔡 曹 燕 呉
          紀元前770年
          周の幽王が
          犬戎に殺され洛邑(成周)へ
          都を遷都してから
          晋が三国(韓、魏、趙)に分裂した
          紀元前403年まで、
          以降を戦国時代と分ける
          戦国時代=秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓
 周王朝が
 名目上の中国支配
 諸侯が群雄割拠
 ↓↑ 
 伍奢(ゴシャ)・・・・・・・・誤写・語写
    伍子胥(ゴシショ)・・・語詞書
    の父
    楚の人
    伍奢は
    楚王に殺され
    その子である
    伍子胥が楚を恨み
    呉に仕え
    楚を攻めた
 ↓↑
 呉王の
 闔廬(コウロ)・・・コウロ=航路・行路・高炉・香炉
 ↓↑ 「闔=とびら・とじる・すべて・コウ
 ↓↑    とびら・門
       闔扇・とじる・とざす
       開闔(カイコウ)
       闔国(コウコク)
       ↓↑
       開闔(カイゴウ)=扉の開閉・・・会合・甲斐合
       闔(とじ)る・闔(とびら)
       平安時代の朝廷の記録所
       御書所・和歌所・文殿などの職名
       書物の出納や雑務の役人
       鎌倉・室町時代の
       引付・侍所などの職名
 ↓↑    訴訟事務の進行などにあたった
       廬(いおり・かりずまい・ロ)
 ↓↑      かりほ(仮庵・仮廬)
       越の武将
      「霊姑孚(レイコフ)」が放った矢によって
      「足の親指」に傷を負い、破傷風で死亡
 ↓↑
 闔廬(コウロ)は
 元々、
 楚人の
 伍員(ゴウン・伍子胥=ゴシショ)を重用し
    語韻      語詞諸(緒・書・所)
 国の政治を相談
 ↓↑
 伍員(ゴウン・伍子胥)
 字(あざな)は子胥(シショ)
 楚の国の人の
 伍奢(ゴシャ)は
 楚王に殺され
 伍奢(ゴシャ)の
 子であった
 伍員(伍子胥)は
 呉に逃れ
 呉の軍隊を率いて
 楚に攻め込み
 楚の首都、
 郢(エイ)・・・楚は何処へ遷都しても「郢=口壬邑」とよんだ
 を占領
 ↓↑
 後、
 呉は越を攻撃し
 呉王、
 闔廬(コウリョ)が負傷し死亡
 闔廬
 の子(次男)・・・公子は「子山」
 伍子胥の助言と遺言もあって
 夫差(フサ)・・・姓・諱は「姫-夫差」
 が王位に就く
 ↓↑
 子胥(伍子胥)は
 夫差にも仕え
 夫差は
 父(闔廬)の仇を討つことを
 心に誓う
 夫差は
 父の仇討ちの恨みを
 忘れぬように朝晩
 薪の上に寝て・・・「臥薪」
 出入りする家臣に
 「夫差よ、
  越の連中が
  おまえの父を殺したのを
  忘れたのか」
 と毎度、叫ばせた
 ↓↑
 周の敬王、二十六年
 呉王
 夫差は
 越を
 夫椒(フショウ)で破り ・・・胡椒・山椒・・・山椒太夫?
 越王
 勾践は
 敗残兵を引き連れ
 会稽山に籠り・・・「会稽、東冶(治)之東」⇔氷臺or水臺
 ↓↑       (邪靡堆=邪摩堆)    凍台or纂隋堆
      「冶(とか・ヤ)す=冫+台=氷+臺」
       台の上の氷をトカす
       冶金(ヤキン)・艶冶(エンヤ)・佳冶(カヤ)
       鍛冶(かじ・タンヤ)・陶冶(トウヤ)・遊冶(ユウヤ)
       妖冶 (ヨウヤ)・姚冶(ヨウヤ)
       ↓↑
      「治(おさめ)る=氵+台=水+臺」
       台の上を水で流し洗浄する
       進-水台=launching platform
       造船所=dockyard・dock・・・ドック=dock=犬
       政治(セイジ・セイヂ)・治水(ジスイ・ヂスイ)
 ↓↑    自治(ジチ)・治安(チアン)
 呉王
 夫差に命乞いを願い出た
 越王みずから
 呉王の臣下になり
 越王の妻を
 呉王に侍女として差し出す、と
 伍子胥は
 「越王・勾践を許してはいけない
  勾践を殺すべき」と
 呉王に誡めたが
 宰相の
 伯嚭(ハクヒ)が
 越からの賄賂を受け
 夫差を説得し
 越王を許し釈放させてしまった
 越王
 勾践は国に戻り
 復讐を誓い
 苦い味の肝を嘗めれるように
 獣の肝を寝起きする場所に吊るし
 寝起きの度に
 肝を見上げて嘗め
 「おまえは
  会稽で受けた恥を・・・呉王、夫差の「馬丁」になった?
  忘れたのか」
 と言った
 王自身は軍事に専念し
 経済・司法などの国内の政治は
 大夫(大臣)の
 文種(ブンシュ)に任せ
 越王自身は
 范蠡(ハンレイ)と一緒に
 軍隊訓練、軍事攻略の作戦立案に専念
 ↓↑
 呉の宰相
 伯嚭(ハクヒ)は
 賄賂を越から受け取り
 夫差に
 伍子胥の計略が採用されず
 夫差を恨んでいると誣告(ブコク・偽告・讒言)
 夫差はそれを信じ
 伍子胥に自殺を命じ
 属鏤(ショクル)の剣を与えた
 伍子胥は
 呉王を恨み
 子胥の家族に遺言とし
 「必ず、私の墓場に、檟(ひさぎ)の木を植えよ
  檟(ひさぎ)の木は
  呉王の棺桶の材料だ
  そして
  私の目を抉(えぐ)り
  都の東の門に架けよ
  越の軍隊が攻め込んで
  呉を滅ぼすのを見るために」
 と、子胥は自分の首を刎ねて死んだ
 夫差は怒り
 子胥の死体を埋葬させず取り上げ
 馬の皮で作られた袋に入れ
 長江(揚子江)に投げ込んだ
 呉の人々は
 伍子胥を哀れみ川べりに
 祠(ほこら)を立てて
 胥山(ショザン)と名付けた
 ↓↑
 「肝を嘗めた」
 越国の
 勾践は十年をかけ富国強兵、人口増大
 更に十年をかけ人民を教育、訓練(合計で二十年間)
 周の元王四年
 越(勾践)は
 呉(夫差)を攻撃
 呉は三度戦い、三度とも敗退
 肝を嘗めた
 越王
 勾践が勝利した
 ↓↑
 夫差は講和のため
 姑蘇(コソ)に上り ・・・姑(しゅうとめ=女+古)を
              蘇(よみがえ=艹+魚+禾)らす
 越に請い願ったが
 「范蠡(ハンレイ)」は講和を拒否
 夫差が
 「私は、あの世で伍子胥に会わせる顔がない」
 と、そこで、死者の顔を被う四角い布で
 顔を覆い隠し自刃
 ↓↑
 「臥薪」=呉王の夫差(フサ)・・・父「闔廬」の仇への恨み
      越に敗北し自刃
 「嘗胆」=越王の勾践(コウセン)・会稽山の敗北の恨み
      呉に勝利
 ↓↑
 「臥薪(ガシン)」
 「臥薪=硬い薪(たきぎ)の上で寝ること
     痛みで復讐心を思い出す
 「闔廬」は夫差の父
     呉の前の王
     「闔廬」の仇を討つために「臥薪」した
 ↓↑
 「嘗胆した勾践」は、
 「臥薪した夫差」を滅ぼした
ーー↓↑ーー
 越軍は四万で
 呉の都
 姑蘇城(コソジョウ)を包囲
 姑蘇城の
 守備隊は三万だったが
 伍子胥が率いる
 別働隊二万が背後にまわり
 越軍を挟み撃ち
 兵数にも優る呉軍は
 包囲していた越軍を圧倒し
 越軍は
 会稽山まで逃げ込んだ
 ↓↑
 越の
 范蠡は小勢を引きつれ
 勾践の軍と合流
 勾践は自分の愚かさを悔い
 范蠡に詫びたが
 絶望的な戦況で
 呉軍5万が
 会稽山の山麓を完全に包囲
 勾践は自決か、降伏か、決めかねていたが
 范蠡は
 勾践がまだ若く
 捲土重来の機はまだあるとし
 敗北の屈辱を受け入れ
 勾践と
 越を守ろうとした
 講和交渉は
 文種(ブンショ)に任された
 ↓↑
 会稽の恥
 文種
 越王
 勾践の使者とし
 呉王
 夫差のもとに行き
 「わが君
  勾践は、妃を陛下の側女に差し出し
  みずからも陛下の臣下として仕える
  と申しております。
  何とぞ、哀れみをおかけください」
 と
 父の仇で
 日々、復讐を誓った
 越王
 勾践が自分の臣下になる・・・
 呉王
 夫差は
 勾践を許し
 臣下にすることが
 命を奪う以上の復讐・・・カモと
 呉の重臣
 伍子胥は
 これに強く反対
 「陛下、亡き父君
  闔閭陛下の
  遺言をお忘れか
  先君は、
  必ず越を滅ぼし、
  父の恨みをはらせと。
  天は今、越を呉に賜ろうとしている
  天の与うるところを取らざれば
  必ずや禍を受ける
  勾践を許してはなりません
  殺すべき」
 と
 伍子胥は
 先君の
 闔閭の代から呉に仕え
 夫差も一目置く名臣で
 夫差は
 伍子胥の一喝で目が覚め
 父の遺言を思い出し
 交渉は決裂した・・・
 ↓↑
 文種の報告で
 越王
 勾践は覚悟を決め
 死を覚悟し気持ち吹っ切れ
 王たる者、
 敵の臣下になり下がり
 生き恥をさらすのなら
 死である・・・
 文種は
 勾践の顔を見て
 強い口調で諫めた
 「陛下、
  殷の湯王(トウオウ)は、
  夏の桀王(ケツオウ)に幽閉され
  周の文王(ブンオウ)も
  また
  殷の紂王(チュウオウ)のために
  囚われの身となりました
  しかし、最後には、
  二人とも王となり
  天下に号令をかける
  覇者となったのです」
 勾践は黙って聞いていた・・・
 「越国は、
  陛下お一人の力でなったのではありません。
  越の代々の王と民が
  長い年月をかけて築き上げたものです。
  それを、
  陛下お一人の面目のために
  滅ぼしても良いものでしょうか。
  陛下、ここが
  王たる者の真価が問われるところです。
  恥を捨て
  越の復興に
  賭けるのです」・・・
  ・・・「日本の復興である憲法にカケるのだ」・・・?
 勾践は黙って頷(うなず・肯)いた。
 越は小国だが、
 文種や范蠡は優れた忠臣
 勾践も助言を入れた
 「会稽の恥」を雪(そそ)ぐには
       ・・・注ぐ・灌ぐ・・・夏目(名通埋)漱石?
 「嘗胆」・・・
 「キモ(胆・肝)を
  ナメた(嘗・舐)」・・・
 「大嘗祭 (ダジョウサイ・おおなめサイ) 」
 「神嘗(シンショウ・かんなめ)」
 「新嘗(シンショウ・にいなめ)」
 「嘗=尚+旨」=かつて・なめる・こころみる
         ショウ・ジョウ
 「甞=尚+甘」
 「舐=舌+氏」
 「小=しょうがしら(小頭)」
 「⺌=なおがしら(尚頭)」
 ↓↑
 勾践
 越国復興のため
 面目を捨てた
 夫差には
 伍子胥がついて
 勾践の首を望んだ
 ↓↑
 文種は
 呉の重臣
 伯嚭(ハクヒ)を狙い
 伯嚭(ハクヒ)が己の欲のためなら
 国をも売る人物とみた
 文種は伯嚭(ハクヒ)に賄賂を贈り
 夫差に再び拝謁し
 再び嘆願し
 「わが君、勾践は、助命がかなわぬなら、
  妻子を殺し、
  いっさいの財宝を焼き払い、
  五千の兵とともに玉砕すると申しております。
  どうか、わが君に、
  陛下のご慈悲を」
 ↓↑
 越に買収された
 伯嚭(ハクヒ)が
 「越軍五千の兵が死を決して突撃すれば
  わが軍も危ない
  窮鼠猫を噛むと申します。
  勾践はすべてを捨てて
  王の臣下になるというのですから
  先王の恨みは晴したも同然
  せっかくの越の財宝を
  みすみす灰にすることもないでしょう」
 思わぬ展開に驚いた
 伍子胥は、語気を強めて、反対
 「いま、越を滅ぼさねば、
  必ず後悔するときがきます。
  勾践は名君で、
  文種、范蠡は
  忠義の心をもった誠の名臣です
  彼らの口先を信じ、
  目先の損得に惑わされてはなりません。
  越はかならずや呉にそむくでしょう。
  越をゆるしてはなりません。
  勾践を殺し、
  越を滅ぼすのです」
 だが
 伯嚭(ハクヒ)の意見がとおり
 伍子胥の意見は退けられた
 越王
 勾践はゆるされた
 呉軍は会稽山の囲みをとき
 越軍は帰国
 勾践の決断
 范蠡と文種の知略
 そして
 伯嚭(ハクヒ)の裏切り
 越は命脈をたもった
ーーーーー
 臥薪嘗胆
 (勾践の嘗胆)
 帰国後の
 勾践は
 傍に豚の胆を置き
 食するときは
 必ずそれを嘗め
 その苦味で
 会稽の恥を思い
 復讐を誓った
ーーーーー
 呉王 夫差の「臥薪」
 越王 勾践の「嘗胆」
 「臥薪嘗胆」=「復讐のため大難苦難に耐え、
         目的を達成するまで苦労に耐える
 「呉越同舟」=「仲の悪い者同士や敵味方が、
         同じ場所や境遇にいること
         仲の悪い者同士でも
         同じ災難や利害が一致すれば
         協力し、助け合う
         共通の利害のために協力し
         行動を共にすること」
        「SN南北統一・国共統一」
        「連合軍・同盟軍(枢軸軍)」
 ↓↑
 呉王
 夫差は、亡き父、闔閭(コウリョ)の復讐を果した
 越が呉の属国となり
 越王(勾践)も
 夫差の臣下となった
 夫差は「女色と贅沢」
 ↓↑
 夫差は宮殿を造営し
 その情報を得た
 越は
 越の亀山(キザン)の良木
 黒檀(コクタン)二百本を切り出し
 呉に送った
 呉には良材が乏しく
 この貢ぎ物に
 夫差は喜び
 宮殿は、高級黒檀二百本にみ合う
 宮殿造営の予算を大幅に増額させ
 呉の国庫は目減りした
 豪奢な五層の大宮殿が完成
 姑蘇台(コソダイ)と命名
ーーーーー
 傾国の美女
 「西施」
 越の
 范蠡は
 美女五十人を
 呉に送り込み
 夫差を美女の色香で惑わせ
 国事から反らす策謀をとった
 その中の一人
 西施(セイシ)は「絶世の美女」で
 夫差は西施に溺(おぼれ)
 西施=傾国
 夫差の寵姫となった後
 病んで故郷の村に帰った
 西施が
 痛む胸を手でおさえ
 苦しみに眉を顰(ひそ)めて歩く姿にも
 色香がある噂し、醜女も西施の真似し
 胸をおさえ、眉を顰めて村を歩い・・・
 ↓↑ 
 夫差は
 西施のために
 八景を築き
 その中でともに遊び
 夢幻悦楽を耽溺
 政治も軍事も忘れ
 「傾国」させていった
 ↓↑
 「妹喜(バッキ)は
  夏王朝の
  桀王を溺れさせ、国を傾けて殷に滅ぼされ
  殷(商)の
  紂王は
  妲己(ダッキ)に溺れ
  周に滅ぼされた
ーーーーー
 斉の
 景公が死に
 内紛が起こり
 夫差は
 斉の内紛に乗じて
 斉を滅ぼそうとしたが
 伍子胥に反対された
 「斉はただの皮膚病ですが、
  越は身中の病
  今は越にそなえる時
  もし呉が斉を攻めれば
  そのすきに
  越は呉を攻めてくるでしょう
  斉を攻めてはなりません」
 ↓↑
 夫差は
 越が良材や美女を献上し
 ひたすら媚びへつらう様を見
 呉に歯向かうとは思えなかった
 夫差は
 伍子胥の助言を退け
 斉に攻め込み
 勝利
 夫差は凱旋し
 「余が斉を攻めている間、
  越は攻めてこなかったが
  そちの予言はどうなったのだ」
 伍子胥は
 「ただ運が良かったのです
  越が呉に復讐するため
  準備を進めていることに
  変わりはありません
  越は、やがて必ず呉に背きます
  何はさておき、
  今は越にそなえるべきです」
 夫差は
 伍子胥の物言いが腹立たしかった
 闔閭の先代からの重臣であり
 一目は置いていたが
 夫差は伍子胥を遠ざけるようになった
 夫差のキゲントリの佞臣
 伯嚭(ハクヒ)は
 お気に入りになった
 ↓↑
 越王
 勾践の重臣の情報分析
 斉は北方の強国
 斉が世継ぎ問題
 隣国
 魯(ロ)
 衛(エイ)
 を巻き込む
 呉王
 夫差は
 斉に派兵するなら
 越は呉に攻め入る時・・・
 だが
 越王
 勾践は復讐を焦り
 呉を討とうとした
 重臣の
 逢同(ホウドウ)
 「陛下
  猛獣が獲物を捕るときは
  じっと姿を隠し
  一気に仕留めるものです
  越に対してもそのようにすべきで
  行動を起こす前に
  こちらの意図を感づかれてはなりません」
 と
 勾践は逢同に従った
 「会稽の恥」から
 九年後
 文種は勾践に進言
 「陛下、最近
  呉の警戒心が緩んでいるようなので
  食糧を貸してほしいと
  頼んでみたらどうでしょう。
  もし貸してくれたら
  呉が越を警戒していないことになり、
  今が攻め時かもしれません」
 勾践は
 呉に使者をつかわして
 夫差に食糧を貸してくれるよう懇願
 使者は卑屈に哀れみを乞うふりをしたが
 それを見抜いた
 伍子胥は
 夫差に計略に乗らないよう強く諫めたが
 無視され
 伍子胥は、夫差にいらだち
 夫差は伍子胥に不信をつのらせた
ーーーーー
 ・・・恨み辛み・・・怨恨・・・

コメント
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「サガ懸の連中」・・・サガリ首・・・「サガ-ミ」・・・鍋島の殿様・・・

2018-01-30 23:30:00 | 古事記字源

 ・・・「芎藭(キュウキュウ)=草の名・芹(せり・キン)科の多年草=藭=艹+穴(宀八)+躬(身弓)」・・・「芎藭=セリ科の香草=「芎藭=関中産を京芎・蜀産を川芎・天台産を台芎・江南産を撫芎・・・芎=𦵡=艹+宮(寓)・・・漢方の効能は止血・血を補い、血液の循環・月経不順・冠状動脈硬化性の心臓病、狭心症」・・・
 「北海道釧路郡釧路町・仙鳳趾村」の「重蘭窮(ちぷらんけうし)」地名の「窮⇔藭」・・・
 「重蘭窮(ちぷらんけうし)=アイヌ語
      チプランケウシ(船を下ろす所)」
 「チプ(船)+ランケ(~を下ろす)+ウシ(所)」
 「重蘭窮」=重なる蘭(阿蘭陀)の
   「窮猿投林・窮鼠猫を噛む
         窮鼠齧狸⇔狸(たぬき)=犭+里=山猫?)」
 「古事記」の
 「サガ(佐賀・佐嘉・嵯峨・礒=磯・性
     探    ・捜)
     探査・探索・捜査・捜索
  ミ(見・身)に
  カミにカミて」?
  さがみ・・・相模・坂上・佐上・相神・相見?
  かみ・・・・掛視・咬み・噛み・神・守・髪・嘉美
 「振滌(振るサンズイ(氵)の條=洗滌・船上・撰條)」
 「天 之眞名井而
 (アマの真名=漢字の意の形而=形字)」
  海女・海人・海部・贏・阿毎⇔阿倍
  あま=女
 「佐賀美邇(佐賀見似)、迦美而(加味字)」
 「自佐下六字以音、下效此」
 「佐賀美邇、迦美」・・・下效此=下は此れに效(なら)へ
                 以下、此れに同じく従う
              效=効=傚
               =ならう・まねる・きく・ききめ
              効顰(コウヒン)=ひそみにならう)
 「さかみに かみ」=「顰に倣う=善し悪しも兎に角、真似よ」
          =他も同じく倣え
          =西施(美人)の顰(ひそみ)に倣う
              顰=歩+頁+卑(弥呼)
               =顰(しか)める
                眉間に皺(しわ)を寄せ
                顔を顰(しか)める
     「西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃=中国古代四大美女」
     「西施(セイシ)=越王(勾践)が
              呉王(夫差)に送り込んだ
              傾城の美女」
      越の賢臣
     「范蠡(ハンレイ⇔凡例・範例・判例)」
      の諫めを無視し
     「会稽の戦いで越王は敗北」
      越の名臣
     「文種(ブンシュ)は
      呉王(夫差)に
      越王(勾践)の助命を嘆願
      呉の雄臣、伍子胥(ゴシショ)は反対
 「於、吹棄(ふきすて=附記素出
    スイキ=垂記・椎木・隋記・水記)
    氣吹(きふく・記伏・帰伏
       キスイ・記素意)
    之(シ・詞・史・これ・維・伊・惟・凝=氷+疑=凍+疑)
    狹霧(差務・佐切・怎)・・・せまい・ギョウ」
                  施米 ・業
 「所成藭(キュウ)御名、
  多紀理毘賣命(此藭=キュウ名以音)」
 「亦御名、謂、
  奧津嶋(欧、清等)比賣(比較売り)命」
 「次、市寸嶋上比賣命、
  亦御名、謂、
  狹依毘賣命」
 「次、多岐都(瀧津)比賣命。三柱
  (此藭名以音=キュウ)」・・・
  ↓↑
 ・・・「鍋島=金+咼+島」・・・「化け猫騒動」
     なべしま
  ↓↑
 「鍋島 直大(なべしま なおひろ)」
 肥前国
 佐賀藩第十一代(最後の)藩主
 明治・大正時代の政府高官
 侯爵
 佐賀藩十代藩主
 鍋島斉正(直正)の長男
 初名 は直縄(なおただ)
 明治維新以前(藩主在任中)
 将軍徳川家茂の偏諱を冠し
 茂実(もちざね)
ーー↓↑ーー
 「岩倉使節団の
  船中の読書・・・・・ダレって?「鍋島直大」?
  古事記-妄想-古事記」
 「鍋島の化け猫(犭+苗・ねこ・ビョウ)騒動」
  ↓↑
 「天照大藭」&「須佐之男命」
 ・・・「古事記-原文」・・・
  ↓↑
 故於是、速須佐之男命
 言
 「然者、請天照大御藭、將罷(まかる)」
 乃
 參上天時、山川悉動、國土皆震。
 爾
 天照大御藭、聞驚而詔
 「我那勢命
  之上來由者、必不善心。欲奪我國耳」
 卽
 解御髮、
 纒(まとい)
 御美豆羅(おんみずら)而、
 乃於
 左右
 御美豆羅、
 亦於
 御𦆅、
 亦於
 左右御手、
 各纒持
 八尺勾璁
 之
 五百津
 之
 美須麻流(みすまる)之珠而
 (自美至流四字以音、下效此)、
 曾毘良邇者(そびらに・かいびらに・自曾至邇以音)、
 負
 千
 入(のり)之靫(うつぼ・ゆぎ・矢を入れ)
 (訓入云能理、下效此)。
 比良邇者、
 附五百入之靫、
 亦所
 取佩
 伊都(いと・此二字以音)
 之
 竹鞆而、
 弓腹
 振立而、堅庭者、
 於
 向
 股蹈
 那豆美(なづみ・三字以音)、
 如
 沫雪蹶散而、
 伊都(いと・二字以音)
 之
 男建(たけ・訓建云多祁)夫
 蹈建而
 待問
 「何故上來」
 爾
 速須佐之男命
 答白
 「僕者
  無邪心、
  唯
  大御藭之命以、
  問賜僕
  之哭
  伊佐知流之事。
  故、
  白
  都良久(とらく・つらく・三字以音)、
  僕
  欲往
  妣國以哭。
  爾
  大御藭詔、
  汝者
  不可在此國而、
  藭
  夜良比
  夜良比賜。
  故、
  以爲請
  將罷往之狀、
  參上耳。
  無異心」
 爾
 天照大御
 藭・・・・・「窮猿投林」
 詔
 「然者、汝心之芿明、何以知」
 於是、
 速須佐之男命答白
 「各宇氣比而生子」
  (ウケイ・自宇以下三字以音、下效此)。
  ↓↑
 故爾
 各中置天安河而、
 宇氣布時、天照大御藭、
 先
 乞度
 建速須佐之男命
 所
 佩
 十拳劒、
 打折
 三段而、
 奴那登母母由良邇
 (ヌナトモモユラニ・此八字以音、下效此)
 振滌
 天
 之
 眞名井而、
 佐賀美邇(サガミニ)・・・・・・さがみ=詐臥実似
 迦美而(カミ)・・・・・・・・・かみ
 (自佐下六字以音、下效此)、
 於
 吹棄氣吹之狹霧
 所成藭(キュウ)御名、
 多紀理毘賣命(此藭名以音)、
 亦御名、謂
 奧津嶋比賣命。
 次
 市寸嶋上比賣命、
 亦御名、謂
 狹依毘賣命。
 次
 多岐都比賣命。三柱、(此藭名以音)。
  ↓↑
 速須佐之男命、
 乞度
 天照
 大御藭
 所纒
 左御美豆良八尺勾璁
 之
 五百津
 之
 美須麻流珠而、
 奴那登母母由良爾、
 振滌
 天之眞名井而、
 佐賀美邇・・・・・・さがみ=詐臥実似
 迦美而、・・・・・・かみ
 於吹棄氣吹
 之
 狹霧所成
 藭御名、
 正勝吾勝
 勝速日天之忍穗耳命。
 亦乞度所
 纒右御美豆良之珠而、
 佐賀美邇・・・・・・さがみ=詐臥実似
 迦美而、・・・・・・かみ
 於吹棄氣吹
 之
 狹霧所成藭御名、
 天之菩卑能命。(自菩下三字以音)。
 亦乞度所
 纒御𦆅之珠而、
 佐賀美邇
 迦美而、
 於吹棄氣吹
 之
 狹霧所成藭御名、天津日子根命。
 又乞度所
 纒左御手之珠而、
 佐賀美邇・・・・・・さがみ=詐臥実似
 迦美而、・・・・・・かみ
 於吹棄氣吹
 之
 狹霧所成藭御名、
 活津日子根命。
 亦乞度所
 纒右御手之珠而、
 佐賀美邇・・・・・・さがみ=詐臥実似
 迦美而、・・・・・・かみ
 於吹棄氣吹
 之
 狹霧所成藭御名、
 熊野久須毘命。(くすび・自久下三字以音)。
 幷五柱。
 ↓↑
 於是
 天照大御藭、
 告
 速須佐之男命
 「是後所生
  五柱男子者、
  物實
  因
  我物所成、故、自吾子也。
  先所生
  之
  三柱女子者、
  物實
  因
  汝物所成、故、乃汝子也」
 如此詔別也。
 ↓↑
 故、其先所生之藭、
 多紀理毘賣命者、
 坐
 胸形之奧津宮。
 次
 市寸嶋比賣命者、
 坐
 胸形之中津宮。
 次
 田寸津比賣命者、
 坐
 胸形之邊津宮。
 此三柱藭者、
 胸形君等
 之以
 伊都久三前大藭者也。
 故、此後所生
 五柱子之中、
 天菩比命之子、
 建比良鳥命
 此
 出雲國造・无邪志國造・上菟上國造・下菟上國造
 ・伊自牟國造・津嶋縣直・遠江國造
 等之祖也、
 次
 天津日子根命者。
 凡川內國造・額田部湯坐連・茨木國造
 ・倭田中直・山代國造・馬來田國造
 ・道尻岐閇國造・周芳國造・倭淹知造
 ・高市縣主・蒲生稻寸・三枝部造
 等之祖也。
 ↓↑
 爾
 速須佐之男命、
 白于
 天照大御藭
 「我心芿明、故、
  我所生子、
  得
  手弱女。
  因此言者、自我勝」
 云而、於勝佐備(さび・此二字以音)、
 離
 天照大御藭
 之
 營田之阿(此阿字以音)、
 埋其溝、
 亦其
 於聞看
 大嘗之殿、
 屎麻理(まり・此二字以音)散。
 故、雖然爲、
 天照大御藭者、登賀米受而告
 「如屎、醉而吐散登許曾(此三字以音)、
  我那勢之命爲如此。
  又離田之阿・埋溝者、
  地矣
  阿多良斯登許曾(あたらしとこそ・
         自阿以下七字以音)、
  我那勢之命
  爲如此」
 登(此一字以音)
 詔雖直、猶其
 惡態不止而轉。
 天照大御藭、
 坐
 忌服屋而、
 令
 織藭御衣之時、
 穿
 其服屋之頂、
 逆剥
 天斑馬剥而、
 所墮入時、
 天服織女見驚而、
 於
 梭衝
 陰上而死。(訓陰上云富登)。
 ↓↑
 故於是、
 天照大御藭
 見畏、
 開
 天石屋戸而、
 刺許母理(こもり・此三字以音)坐也。
 爾
 高天原皆暗、葦原中國悉闇、
 因此而
 常夜往。
 於是
 萬藭之聲者、狹蠅那須(なす・此二字以音)滿、
 萬妖悉發。
 是以
 八百萬藭、
 於
 天安之河原、
 藭集集而(訓集云都度比・つどい)、
 高御產巢日藭之子・
 思金藭令思(訓金云加尼・かね)而、
 集
 常世長鳴鳥、
 令鳴而、
 取
 天安河
 之河上
 之天堅石、
 取
 天金山之鐵而、
 求
 鍛人
 天津麻羅而(麻羅・まら・二字以音)、
 科
 伊斯許理度賣命(いしごりどめ・自伊下六字以音)、
 令
 作鏡、
 科
 玉祖命、
 令
 作八尺勾璁
 之
 五百津
 之
 御須麻流之珠而、
 召
 天兒屋命・布刀玉命
 布刀(二字以音、下效此而)、
 內拔
 天香山
 之
 眞男鹿之肩拔而、
 取
 天香山
 之
 天之波波迦(此三字以音)、
 木名而、
 令
 占合
 麻迦那波而(自麻下四字以音)、
 天香山
 之
 五百津眞賢木矣、
 根
 許士爾許士而(自許下五字以音)、・・・コシにコシ
 於上枝、
 取著
 八尺勾璁
 之
 五百津
 之
 御須麻流之玉、
 於
 中枝、
 取
 繋八尺鏡(訓八尺云八阿多、於下枝)、
 取
 垂
 白丹寸手
 青丹寸手而
 (訓垂云志殿)、
 此種種物者、
 布刀玉命・
 布刀御幣
 登取持而、
 天兒屋命、
 布刀詔
 戸言禱白而、
 天手力男藭、
 隱
 立
 戸掖而、
 天宇受賣命、
 手次繋
 天香山
 之
 天之日影而、
 爲𦆅
 天之眞拆而、
 手草
 結
 天香山
 之
 小竹葉而(訓小竹云佐佐)、
 於
 天之石屋戸
 伏汙氣(此二字以音)
 蹈登杼呂許志(此五字以音)、
 爲
 藭懸而、
 掛出胸乳、
 裳虬忍垂
 於番登也。
 爾
 高天原動而、
 八百萬藭
 共咲(わらう)。
 ↓↑
 於是
 天照大御藭、
 以爲怪、
 細開
 天石屋戸而、
 內告者
 「因吾隱坐而、
  以爲
  天原
  自闇
  亦
  葦原中國
  皆闇矣、
  何由以、
  天宇受賣者
  爲樂、
  亦
  八百萬藭
  諸咲」
 爾
 天宇受賣白言
 「?汝命而
  貴藭坐。
  故、
  歡喜
  咲樂」
 如此言之間、
 天兒屋命・布刀玉命、
 指出其鏡、
 示奉
 天照大御藭
 之時、
 天照大御藭
 逾思奇而、
 稍
 自
 戸出
 而
 臨坐之時、
 其所
 隱立
 之
 天手力男藭、
 取
 其御手
 引出、
 卽
 布刀玉命、
 以
 尻久米(此二字以音)繩、
 控度
 其御後方白言
 「從此以內、不得還入」
 故、
 天照大御藭
 出坐之時、
 高天原
 及
 葦原中國、
 自
 得
 照明。

 於是
 八百萬藭共議而、
 於
 速須佐之男命、
 負
 千位置戸、
 亦
 切鬚
 及
 手足爪
 令拔而、
 藭
 夜良比
 夜良比岐。
 ↓↑
 又
 食物
 乞
 大氣津比賣藭、
 爾
 大氣都比賣、
 自
 鼻口
 及
 尻、
 種種味物
 取出而、
 種種
 作具而進時、
 速須佐之男命、
 立伺其態、
 爲
 穢汚而奉進、
 乃
 殺其
 大宜津比賣藭。
 故、
 所殺藭
 於
 身生物者、
 於
 頭生蠶、
 於
 二目生稻種、
 於
 二耳生粟、
 於
 鼻生小豆、
 於
 陰生麥、
 於
 尻生大豆。
 故是
 藭產巢日御祖命、
 令
 取茲、成種。
 ↓↑
 故、
 所避追而、
 降
 出雲國
 之
 肥上河上
 ・名鳥髮地。
 此時
 箸從其河流下、
 於是
 須佐之男命、
 以爲
 人有其河上而、
 尋覓上往者、
 老夫
 與
 老女
 二人在而、
 童女
 置中而泣、
 爾
 問賜之
 「汝等者誰」
 故其
 老夫答言
 「僕者國藭、
  大山上津見藭之子焉、
  僕名謂
  足上名椎、
  妻名謂
  手上名椎、
  女名謂
  櫛名田比賣。」
 亦問
 「汝
  哭
  由者
  何。」
 答白言
 「我之女者、
  自本
  在
  八稚女。
  是
  高志
  之
  八俣遠呂智(此三字以音)
  毎年來喫、
  今其
  可來時、
  故泣」
 爾問
 「其形如何」
 答白
 「彼目
  如
  赤加賀智而、
  身一
  有
  八頭八尾、
  亦
  其身
  生
  蘿
  及
  檜榲、
  其
  長度
  谿八谷
  峽八尾而、
  見其腹者、
  悉
  常血爛也。」
 此謂
 赤加賀知者、
 今
 酸醤者也。
 ↓↑
 爾
 速須佐之男命、
 詔其老夫
 「是汝之女者、奉於吾哉」
 答白
 「恐不覺御名」
 爾答詔
 「吾者
  天照大御藭
  之
  伊呂勢者也(自伊下三字以音)、
  故今、
  自
  天降坐也」
 爾
 足名椎
 手名椎
 藭白
 「然坐者恐、立奉」
 爾
 速須佐之男命、
 乃
 於
 湯津爪櫛
 取成
 其童女而、
 刺
 御美豆良、
 告其
 足名椎
 手名椎藭
 「汝等、
  釀
  八鹽折之酒、
  亦
  作
  廻垣、
  於其垣
  作八門、
  毎門
  結
  八佐受岐(此三字以音)、
  毎
  其
  佐受岐
  置酒船而、
  毎
  船盛
  其
  八鹽折酒而待」
 ↓↑
 故、
 隨告而
 如
 此設備待之時、
 其
 八俣遠呂智、
 信如言來、
 乃
 毎船
 垂入
 己頭
 飮
 其酒、
 於是
 飮醉留伏寢。
 爾
 速須佐之男命、
 拔其所
 御佩之十拳劒、
 切散
 其蛇者、
 肥河
 變
 血而流。
 故、
 切其中尾時、
 御刀之刄毀、
 爾
 思怪
 以御刀之前、
 刺割而見者、
 在
 都牟刈之大刀、
 故
 取
 此大刀、
 思
 異物而、
 白上於
 天照大御藭也。
 是者
 草那藝之大刀也。(那藝二字以音)。
 ↓↑
 故是以、
 其
 速須佐之男命、
 宮可造作之地、
 求
 出雲國、
 爾到坐
 須賀(此二字以音、下效此)
 地而詔之
 「吾來此地、我御心
  須賀
  須賀斯而。」
 其地作宮坐、
 故其地者
 於今云
 須賀也。
 茲大藭、
 初作
 須賀宮之時、
 自其地雲立騰、
 爾
 作御歌、
 其歌曰、
 ↓↑
 夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾
 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
 ↓↑
 於
 是喚其
 足名椎藭、告言
 「汝者、任我宮之首」
 且
 負名號
 稻田宮主
 須賀
 之
 八耳藭。

 故、其
 櫛名田比賣
 以、
 久美度邇起而、
 所生藭名、
 謂
 八嶋士奴美藭。(自士下三字以音、下效此)。
 又娶
 大山津見藭之女、
 名
 藭大市比賣、生子、大年藭、
 次
 宇迦之御魂藭。二柱。(宇迦二字以音)。
 ↓↑
 兄
 八嶋士奴美藭、
 娶
 大山津見藭之女
 名
 木花知流(此二字以音)比賣、
 生子、
 布波能母遲久奴須奴藭。
 此藭、
 娶
 淤迦美藭之女
 名
 日河比賣、生子、
 深淵之水夜禮花藭。(夜禮二字以音)。
 此藭、
 娶
 天之都度閇知泥上藭(自都下五字以音)生子、
 淤美豆奴藭。
 此藭名(以音)。
 此藭、
 娶
 布怒豆怒藭(此藭名以音)之女
 名
 布帝耳上藭(布帝二字以音)生子、
 天之冬衣藭。
 此藭、
 娶
 刺國大上藭之女
 名
 刺國若比賣、生子、
 大國主藭
 亦名謂
 大穴牟遲藭(牟遲二字以音)
 亦名謂
 葦原色許男藭(色許二字以音)
 亦名謂
 八千矛藭
 亦名謂
 宇都志國玉藭(宇都志三字以音)、
 幷有五名。
ーーーーー
 岩倉使節団の計画
 ↓↑
 大隈重信
 と
 伊藤博文
 の建言による
 背景には政府顧問の
 グイド・フルベッキ
    (Guido Herman Fridolin Verbeck
     Verbeek)
     1830年1月23日~1898年3月10日
     オランダ系アメリカ合衆国移民
     日本に派遣された宣教師
     法学者・神学者
     明治政府顧問
    「何礼之(が のりゆき・レイシ)」
     長崎奉行所支配定役格・英語稽古所学頭
     の私塾の塾生は
     フルベッキの
     アドバイスや援助も受けていた
    「振別記(ふるべっき)」?
 による
 ブリーフ・スケッチ(進言・助言)
 の存在があった。
 当初10ヶ月で全行程を踏破の予定であったが、
 米国で想定外の条約改正予備交渉が始まってしまい
 (結局失敗したが)、長期化することとなった。
 だが結果として
 欧米先進国の実態を、
 じっくりと見聞し、熟慮することで、
 明治政府は日本近代化の
 基本構想が出来た・・・
 同時にその事により
 帰国直後の
 留守政府内での
 征韓論に対する
 海外派遣組の反発を招き
 「明治六年政変」に至った。
 ↓↑
 久米邦武
 佐賀藩士・久米邦郷の三男
 佐賀藩校の弘道館に学び
 大隈重信とも親交
 久米の博覧強記ぶりは
 漢籍、儒書、史書や
 『坤輿図識』(箕作省吾)
 など和漢の
 世界地図書に親しんだ基本的知識のほかに、
 藩主
 「鍋島直正」の
 近習として勤めた経験にある。
 ↓↑
 「鍋島直正」は
 ↓↑
 早くから西洋文化に興味を抱き、
 唯一
 「オランダ船に乗り込んだ大名」
 藩内に製錬方を設け
 反射炉を建設
 日本初の
 鉄製大砲の製造に成功
 幕府の
 台場用大砲の製造を引き受け
 巨艦建造の軍港を設け
 国産初の
 木造外輪船を建造
 多くの西洋技術を導入
 ↓↑
 「久米邦武」は
 それらの技術に関する質問に答えるため
 近習として仕え、
 加えて
 「唐鑑会」と称する
 「唐鑑」の書の輪講を
 藩主と家臣が分け隔てなく議論し合う場に参与し
 柔軟多様な発想を持つ事で鍛えられた。
ーー↓↑ーー
 ・・・「紅葉山=もみじやま=摸視字哉磨」の蔵書を持ちだした奴は「江藤新平」・・・蔵書には「古事記」があった?・・・

コメント
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磐余彦=いわれびこ・バンヨゲン・・・謂われ靡拠・・・

2018-01-28 22:50:38 | 古事記字源

 ・・・「岩倉使節団」が欧米をヨクヨク観察して、「日本」と比較している・・・そして、けっして「欧米」がその「支配秩序」として優れているワケでは無いことを見抜いてきたコトである・・・
ーーーーー
 「大久保利通・岩倉具視」の
 「岩倉使節団」
 明治4年11月12日(1871年12月23日)?
  ~
 明治6年(1873年9月13日)
 ↓↑
 (明治4年11月11日出発・・・?
   1871年12月22日出発・・・?
   1872年 1月15日、サンフランシスコ着
   1872年 2月29日、ワシントン到着)
 ↓↑
 日本からアメリカ合衆国
 ヨーロッパ諸国への大使節団
 正使
 岩倉具視
 ↓↑
 政府首脳陣や留学生を含む
 使節46名、随員18名、留学生43名
 総勢107名
 ↓↑
 大久保利通
 伊藤博文
 木戸孝允
 山口尚芳
 ↓↑
 二年間、各国を歴訪
 不平等条約改正を目指した
 アメリカには
 約8か月、長期滞在
 後
 蒸気船オリムパス号で
 1872年8月17日
 イギリスのリバプールに到着
 1872年12月5日
 ヴィクトリア女王に謁見
ーー↓↑ーー
 以上は前回の重複部分で、以下はツヅキ・・・
 ↓↑
 岩倉使節団
 一等書記官
 ↓↑
 田辺太一
 何礼之(が のりゆき・レイシ)
 ↓↑・・・「何」は中国姓
      何皇后(カコウゴウ?~189年)
      後漢の霊帝の皇后・諡は思・諡号は霊思皇后
      荊州南陽郡宛県(河南省南陽市)出身
      父は何真・母(舞陽君)は何真の後妻
      子は少帝弁
      異母兄は何進・異父兄は何苗(朱苗)
      妹は張譲の子(養子?)の妻
 ↓↑
   外務省六等出仕として随行
   使節団副使の木戸孝允に附属
   憲法の調査
   モンテスキューの『法の精神』を翻訳
   後に『万法精理』として刊行
  「錦鶏間祗候(きんけいのましこう)」
    ↓↑
   功労のあった華族や官吏を優遇するため
   明治時代の半ばに設けられた資格
   職制・俸給等はない名誉職
   宮中席次等では勅任官に準じた待遇
   麝香間祗候の次に位置
   錦鶏間=本来は京都御所内の部屋の一つ
 ↓↑    御学問之間
 福地源一郎
 ↓↑
 二等書記官
 ↓↑
 渡辺洪基
 小松済治
 林董三郎
 長野桂次郎(立石斧次郎)・・・「立石の斧の次郎」
      万延元年(1860年)幕府、遣米使節団の一員
      小栗上野介の従者
 ↓↑
 三等書記官
 川路寛堂
 ↓↑
 四等書記官
 安藤太郎
 池田政懋
 ↓↑
 大使随行
 ↓↑
 久米邦武・・・「久の米の邦(くに)の武(たける)」
      ・・「久米(粂)=来目=久留米」は
        「神武天皇の陪臣」の「大伴氏の随臣」で
      「天-久米(くめ)-命」、久米氏の祖神
      『古事記』で天孫降臨に登場
      『日本書紀』で天孫降臨、第四の一書に登場
       大伴氏の祖神とされる
      「天忍日命(アメノオシヒ)」と共に武装し
      「瓊瓊杵尊(ニニギ)を先導」         
 中山信彬
 内海忠勝
 野村靖
 五辻安仲
 ↓↑
 理事官
 ↓↑
 田中光顕
 東久世通禧
 山田顕義
 佐佐木高行
 田中不二麿
 肥田為良
 ↓↑
 随行
 ↓↑
 村田新八
 由利公正
 原田一道
 長與專齋
 安場保和
 若山儀一
 阿部潜・・・阿の部が「潜(ひそむ)」?
 沖守固・・・沖を守り固(かためる)?
 富田命保
 杉山一成
 吉雄永昌
 中島永元
 近藤鎮三
 今村和郎
 内村公平
 大島高任
 瓜生震・・・瓜を生み震(ふるえる)?
       「永井繁子=瓜生繁子」との関係の有無?
 岡内重俊
 中野健明
 平賀義質・・・平(たいら)の賀(くに)の義の質
 長野文炳・・・長野の文の炳
 ↓↑
 イギリス留学
 ↓↑
 中江兆民・・・ルソー
 鍋島直大
 百武兼行・・・百の武を兼(かね)る行(ギョウ)
 前田利嗣
 毛利元敏
 ↓↑
 イギリス・フランス留学
 ↓↑
 前田利同
 ↓↑
 アメリカ留学
 ↓↑
 金子堅太郎・・・日露戦争の講和条約
 團琢磨・・・・・三井三池炭鉱経営者・三井財閥の総帥
 牧野伸顕・・・・大久保利通の次男
 黒田長知
 鳥居忠文・・・・壬生藩、鳥居家12代・ハワイ王国総領事
ーー↓↑ーー
 津田梅子
 山川捨松・・・大山捨松(安政7年2月24日)=山川咲子
             1860年3月16日・庚申-己卯-己未g
              ~        子丑=空亡
             大正8年
             1919年2月18日・己未-丙寅-庚子
             大山巌の妻・鹿鳴館の花
 永井繁子・・・瓜生繁子(文久2年3月20日)=永井繁子
             1862年4月18日・壬戌-甲辰-壬寅=空亡
              ~        辰巳=空亡
             昭和3年
             1928年11月3日・戊辰-壬戌-丁未
             海軍大将男爵の「瓜生外吉」の妻
             父親は「益田鷹之助」で
             函館奉行江戸詰
             兄は
            「益田徳之進(孝)」で三井物産創立者
ーー↓↑ーー
 津田梅子(6歳)、永井繁子(10歳)、山川捨松(11歳)
 吉益亮子(14歳・1886年6月、父、吉益正雄により
      亮子を校長とした私塾「女子英学教授所」を設立
      同年秋、コレラの為に死没・享年30、満29歳)
 上田悌子(16歳・医師の桂川甫純と結婚
 ↓↑   父は「上田東作?・シュン?」
      新潟港の開港事務を指揮
      元、幕臣
 ↓↑   ↓↑
     「上田敏」は
     「上田悌子」の甥
      上田敏(びん)の
      父は
     「上田絅二(ケイジ)=乙骨亘
               =上田悌子の兄」で
      1864年(文久三年)
     「池田長発」正使の
     「横浜鎖港談判(遣欧)使節団
      文久元年(1861)修好使節団」
      の理髪師として海外視察・帰国後、幕府の通訳
      上田家の養子となり名を
     「上田絅二(ケイジ)」と改めた
 ↓↑   ↓↑
      祖父は
     「乙骨耐軒」で儒学者
      母は
     「上田孝子(博士号修得の人物)」で
      母の妹が
     「上田悌子」で
     「上田敏」の叔母にあたる・・・
      ↓↑
     「乙骨耐軒(たいけん)」の長男の
     「乙骨太郎乙(おつこつ たろうおつ」は
     『君が代』を提案した人物
     (海軍七十年史談、國歌「君が代」歌詞選出由来)
      ↓↑
     「乙骨耐軒」の三男は
     『浦島太郎』
     『池の鯉』
      で有名な作詞家の
 ↓↑     「乙骨三郎」
 上田悌子は体調不良
 吉益亮子は眼病(ホームシック・homesick)で
 1872年(明治5年)に日本に帰国
ーー↓↑ーー
 吉川重吉
 木戸孝正
 日下義雄・・・会津藩の侍医・石田龍玄(常雄)の長男
 ↓↑     内科の名医・貧者には無銭で薬を処方
        母は中村為七郎の娘の「ちえ子」
        幼名は石田五郎
        初名は石田伍助
        弟に白虎隊二番士中組で飯盛山で自刃した
        石田和助
        妻は水野忠精の娘
        鳥羽・伏見の戦いに従軍
        会津戦争で大鳥圭介らと共に行動
        落城前に会津を脱出
        箱館戦争で捕虜
        増上寺で謹慎時に石田義雄と名乗る
        後に赦免され会津出身を隠すために
        日下義雄と改名・・・
        長州藩、
 ↓↑     日下(久坂玄瑞?)家の養子になった・・・
 山脇正勝・・・正勝
 ↓↑    「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(古事記)
        正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(日本書紀)
        正哉吾勝々速日天押穂耳尊(先代旧事本紀)」
        天照大神
        と
        須佐之男の誓約(うけい)で
        須佐之男が天照大神の勾玉を譲り受け
        生まれた五皇子の「長男」
        勾玉の持ち主である
        天照大神の子(古事記)
       「日本書紀の一書」では「次男」
 ↓↑     ↓↑
       「正勝」は
       「高木神」の娘の
       「萬幡豊秋津師比売命(古事記)
        ヨロヅハタトヨアキツシヒメ
        別記は
        栲幡千千媛萬媛命
        天萬栲幡媛命
        栲幡千幡姫命
        栲幡千々姫命
        栲幡千千姫命
        拷幡姫命」
        との間に
       「天火明命
        アメノホアカリ」
        と
       「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命
        アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギ
        別記
        天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊(日本書紀)
        天津日高彦瓊瓊杵尊
        瓊瓊杵尊
        邇邇芸命」
        をもうけ、
       「瓊瓊杵尊=ニニギのミコト=邇邇芸命」を
 ↓↑     高天原から葦原中国へ「天孫降臨」させた
 高木貞作・・・高木の神=高御産巣日神=高皇産霊尊?・・・
 ↓↑     高木の貞の作
 三岡丈夫・・・三陸丈夫・・・岡=おか=陸・丘
 ↓↑
 ドイツ留学
 ↓↑
 平田東助
 ↓↑
 ロシア留学
 ↓↑
 清水谷公考・・・・清の水(氵=サンズイ)の語句の公の考?
 万里小路正秀・・・万理の公字の所為の就?
 ↓↑
 留学
 大村純熈
 朝永甚次郎・・・→朝永三十郎(子)・朝永振一郎(孫)
 長岡治三郎・・・長岡半太郎の父⇔土星模型
 大鳥圭介・・・・医者の大鳥直輔の長男・五稜郭凾館戦争
 坊城俊章
 武者小路実世・・武者小路実篤の父
 錦小路頼言
 ↓↑
 随員
 ↓↑
 新島襄(通訳)・・・
 岩倉具綱
 大久保利和
 牧野伸顕・・・・・・
 山縣伊三郎
 山口俊太郎
 吉井幸輔
 吉原重俊(大原令之助)
 畠山義成(杉浦弘蔵)
ーー↓↑ーー
 ・・・以上も以下も、スベテの原文は「ウイッキペデア」からの参考、参照の抜粋で、段落、句読点など少々、改作添付・・・
  ↓↑
 『米欧回覧実記』
 久米邦武編著
 (明治十一年刊
  五冊組で全100巻・博聞社・1878年)
 『米欧回覧実記』
 岩倉使節団の
 在外見聞の大部の報告書で
 正式名称は
 『特命全権大使 米欧回覧実記』
 使節団は特命全権大使
 岩倉具視を筆頭に
 明治新政府首脳と随員含め
 総勢46名で構成
 明治4年11月12日
 (1871年12月23日)
  ~
 (1873年)
 明治6年9月13日
 1年9カ月余(632日)を掛け
 米欧の条約締結国12か国を歴訪
 ↓↑
 使節団の見聞は
 広く国民に知らせるべき、
 との立場・・・「現今政治」は「広く国民に隠蔽」?
 岩倉大使は
 久米邦武を
 随行記者として参加させた
 久米は
 日々見聞をメモり
 帰国後、各省の
 理事官報告書も閲覧し
 「視察見聞記」を製作した。
 ↓↑
 2005年
 水澤周 訳注
 『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記』が刊行
 訳書では序文で
 「西洋では、
  政府は国民の公的機関であり、
  使節は国民の代理者であるとされている。
  各国の官民が、
  わが使節を親切丁寧に迎えたのは、
  つまりは
  我が国の国民と
  親しくなりたいためであり、
  その産業の状況をそのまま見せてくれたのは、
  つまりその産物を
  わが国民に愛用してほしいからなのである。
  そこで岩倉大使はこの待遇の懇切さを尊重して、
  わが使節が見聞したことについては、
  これを出来るだけ
  広く国民に知らせなくてはならないと考え、
  書記官
  畠山義成(当時は杉浦弘蔵と称していた)
  と
  久米邦武の二人に対し、
  常に自分に随行し、視察したことについては
  調べて記録することを命じた。
  これが本書編集の本来の趣旨であり、
  公的な目的の一つである」
   ↓↑
 以下に引用する原書の巻頭例言では
 本書の目的・概要が、
 久米邦武による文語体で
 格調高く簡潔明快に述べられている。
 久米邦武編、田中彰校注
 『特命全権大使 米欧回覧実記(一)』(岩波文庫)より。
 ↓↑
 明治四年七月(1871年8月)
 廃藩置県を断行
 11月に結成
 岩倉具視、木戸孝允、大久保利通
 若年の
 少壮官僚、
 伊藤博文
 らを正・副使として
 各省理事官と随員含め
 46名からなる大使節団
 更に60名近くの留学生も加わり
 米欧回覧の壮途に就いた。
 目的は
 条約締結各国への
 国書奉呈と聘門の礼を修め、
 欧米先進諸国の
 制度・文物を親しく見聞して、
 明治国家の
 「国のかたち」を考えること、
 そして
 条約改定期限(明治5年5月26日・1872年7月1日)
 に向けた締結国との予備交渉も含まれていた。
 ↓↑
 使節団の計画は
 大隈重信
 と
 伊藤博文
 の建言による
 背景には政府顧問の
 グイド・フルベッキ
    (Guido Herman Fridolin Verbeck
     Verbeek)
     1830年1月23日~1898年3月10日
     オランダ系アメリカ合衆国移民
     日本に派遣された宣教師
     法学者・神学者
     明治政府顧問
    「何礼之(が のりゆき・レイシ)」
         長崎奉行所支配定役格・英語稽古所学頭
     の私塾の塾生は
     フルベッキの
     アドバイスや援助も受けていた
    「振別記(ふるべっき)」?
 による
 ブリーフ・スケッチ(進言・助言)
 の存在があった。
 当初10ヶ月で全行程を踏破の予定であったが、
 米国で想定外の条約改正予備交渉が始まってしまい
 (結局失敗したが)、長期化することとなった。
 だが結果として
 欧米先進国の実態を、
 じっくりと見聞し、熟慮することで、
 明治政府は日本近代化の
 基本構想が出来た・・・
 同時にその事により
 帰国直後の
 留守政府内での
 征韓論に対する
 海外派遣組の反発を招き
 「明治六年政変」に至った。
 ↓↑
 久米邦武
 佐賀藩士・久米邦郷の三男
 佐賀藩校の弘道館に学び
 大隈重信とも親交
 久米の博覧強記ぶりは
 漢籍、儒書、史書や
 『坤輿図識』(箕作省吾)
 など和漢の世界地図書に親しんだ基本的知識のほかに、
 藩主
 鍋島直正の
 近習として勤めた経験にある。
 直正は早くから西洋文化に興味を抱き、
 唯一
 オランダ船に乗り込んだ大名
 藩内に製錬方を設け
 反射炉を建設
 日本初の
 鉄製大砲の製造に成功
 幕府の
 台場用大砲の製造を引き受け
 巨艦建造の軍港を設け
 国産初の
 木造外輪船を建造
 多くの西洋技術を導入
 それらの技術に関する質問に答えるため
 近習として仕え、
 加えて
 唐鑑会と称する
 「唐鑑」の書の輪講を
 藩主と家臣が分け隔てなく議論し合う場に参与し
 柔軟多様な発想を持つ事で鍛えられた。
 ↓↑
 父・邦郷は
 佐賀藩・山方として
 鉱山・石炭の管理を
 目安方で藩の会計を
 長崎聞役で大砲、軍艦の購入や
 藩特産品の輸出に関わり、
 有田皿山代官として
 有田焼の生産・輸出取締りの専売に関与し
 江戸、京都、大坂、堺、兵庫、長崎の
 藩支所を監督
 大阪蔵屋敷詰で
 コメの販売管理を担当し、
 最後には
 御側頭として藩主の側近としても仕えた
 久米は、藩主と父親から
 ジェネラリストとっして柔軟な目で物事を見る
 リアリストの才能を鍛えられ、
 岩倉使節団の一員になったのも、
 岩倉具視が出帆直前に
 閑叟から以前聞いた
 久米の有能さを見出し、
 側近としての報告係に選んだ経緯がある。
 岩倉具視は維新後、
 息子3人の教育を
 佐賀藩に託するほどの親密な関係を持った。
 ↓↑
 江戸時代後期
 国学や水戸学の一部や
 吉田松陰らの立場から
 古代日本が
 朝鮮半島に支配権を持っていたと
 『古事記』
 『日本書紀』
 に記述されていると唱えられ
 こうしたことを論拠として
 朝鮮進出を唱え、
 尊王攘夷運動の
 政治的主張にも取り入れられた。
 幕末期
 松陰
 勝海舟
 橋本左内
 の思想にその萌芽・・・
 慶応二年(1866年)末
 清国
 広州の新聞に
 日本人
 八戸順叔が
 「征韓論」の記事を寄稿
 清・朝鮮の疑念を招き
 その後
 日清・日朝関係が悪化
 (八戸事件)
 朝鮮では国王の父の
 大院君が政を摂し
 鎖国攘夷の策をとり
 丙寅洋擾
 や
 シャーマン号事件
 の勝利によって、意気がおおいにあがっていた。
 ↓↑
 日朝双方が強気になっている中で
 明治維新が起こり
 日本は
 対馬藩を介して
 朝鮮に対して新政府発足の
 通告と国交を望む交渉を行うが、
 日本の外交文書が
 江戸時代の形式と異なることを理由に
 朝鮮側に拒否された
 明治三年(1870年)2月
 明治政府は
 佐田白茅
 森山茂
 を派遣
 佐田は朝鮮の状況に憤慨
 帰国後に
 征韓を建白
 9月
 外務権少丞
 吉岡弘毅
 を釜山に遣り
 明治5年(1872年)1月
 対馬旧藩主を外務大丞に任じ
 9月
 外務大丞
 花房義質を派した。
 朝鮮は頑としてこれに応じることなく、
 明治6年になってからは
 排日の風がますます強まり、
 4月、5月
 釜山において
 官憲の先導による
 ボイコットなども行なわれた。
 日本国内においては
 征韓論が沸騰
 ↓↑
 政権を握った
 大院君は
 「日本夷狄に化す、
  禽獣と何ぞ別たん、
  我が国人にして
  日本人に交わるものは
  死刑に処せん」
 という布告を出し
 当時外交官として釜山に居た
 多田、森山等はこの乱暴な布告をみて
 日本に帰国
 事の次第を政府に報告
 ↓↑
 明治6年(1873年)6月
 森山帰国後の閣議で
 対朝鮮外交問題が取り上げ
 参議である
 板垣退助は
 閣議において
 居留民保護を理由に
 派兵を主張
 西郷隆盛は
 派兵に反対
 自身が大使として赴くと主張
 後藤象二郎
 江藤新平
 らもこれに賛成
 中国から帰国した
 副島種臣は
 西郷に賛成はしたが
 西郷ではなく自らが赴く事を主張
 二人の議論の末
 三条実美の説得もあり
 福島が折れ
 板垣退助も西郷のために尽力
 三条実美の承諾を得て
 西郷を使節として
 朝鮮に派遣することを上奏
 同年8月
 明治政府は
 西郷隆盛を使節として派遣決定
 9月
 帰国した岩倉使節団の
 岩倉具視・木戸孝允・大久保利通
 らは時期尚早とし反対
 10月
 収拾に窮した
 太政大臣三条は病に倒れ
 太政大臣代理となった
 岩倉の意見が
 明治天皇に容れられ
 遣韓中止が決定
 西郷や板垣らの
 征韓派は一斉に下野
 (征韓論政変=明治六年政変)
 ↓↑
 台湾出兵
 江華島事件
 明治政府はこの政変で
 西郷らを退けたが、
 翌年
 明治7年(1874年)
 宮古島
 島民遭難事件を発端として
 初の海外出兵となる
 台湾出兵を行った
 (木戸孝允は征韓論を否定しておきながら、
  台湾への海外派兵を行うのは
  矛盾であるとして反対した結果、
  参議を辞任して下野)
 明治8年(1875年)
 李氏朝鮮に対して
 軍艦を派遣し
 武力衝突となった
 江華島事件の末
 日朝修好条規
 を締結
 ↓↑
 士族反乱
 自由民権運動
 明治7年(1874年)
 佐賀の乱から
 明治10年(1877年)
 西南戦争に至る
 不平士族の乱
 自由民権運動
ーー↓↑ーー
 岩倉使節団
 ↓↑
 ヨーロッパ
 イギリス(4か月)
 フランス(2か月)
 ベルギー、オランダ、ドイツ(3週間)
 ロシア(2週間)
 デンマーク、スウェーデン、イタリア、
 オーストリア(ウィーン万国博覧会視察)
 スイス
 などの12か国
 地中海から
 スエズ運河を通過
 紅海を経
 ヨーロッパ諸国の植民地
 セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海
 等への訪問も行われた
 出発から1年10か月後
 明治六年(1873年)九月十三日
 太平洋郵船
 「ゴールデンエイジ」号で横浜帰着
 ↓↑
 留守政府では朝鮮出兵の
 征韓論
 使節帰国後
 「明治六年の政変」
 ↓↑
 大隈重信の発案
 小規模な使節団を派遣予定が
 政府のトップが殆んど
 長期間外遊
 直に西洋文明や思想に触れ
 多くの国情を
 比較体験する機会を得た
 同行留学生
 帰国後に
 政治・経済・科学・教育・文化
 など様々な分野で活躍
 一方で
 権限を越えて条約改正交渉
 留守政府との摩擦
 外遊期間の大幅な延長
 木戸
 と
 大久保
 が不仲、対立
ーーーーー
 ・・・磐=いわ=巌=巌=嵒=岩=違和・・・の使節・・・

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カラダも、アタマもコンラン・・・

2018-01-27 19:25:04 | 古事記字源

 ・・・イヤァア~ッ、天気はイイのに本日も猛烈に凍える日だった・・・TVでの「俳句の先生」のコトバが、ボクには「トウガン」って聴こえちゃった(?)んだが、モニターに映し出された漢字は「凍鶴(トウガク・トウカク)?」で、「凍雁・凍贋・凍鴈」じゃあなかった・・・「贋作(ガンサク)=他者を偽る意図をもって絵画、彫刻、書などの芸術品や工芸品に似せて模倣品を作成すること、またその作品・偽作とも言う。本物の作品のことを真作と称する」、「制作者あるいは制作年代などを偽って、買手をだます意図のもとに制作された美術品。現存作品もしくは実在した作品をそのまま模倣したもの・特定の作者または時代の様式を模倣したもの・いくつかの原作をもとにその諸部分を集めて作られたもの」・・・original(オリジナル⇔嗚理字名留?)で表現、創作されたモノの「パクリ=真似る=学ぶ=文明・文化」って、犯罪なのか?・・・「模写・レプリカ(replica)・模造・模刻・複製」・・・問題は「著作権=copyright=版権」なんかの「法的な権利などが蔓延」した結果の「使用価値=交換価値」の信用度下落だろう・・・困るのは「資産家・金持ち・蓄財家」・・・ドル札の偽札は世界中に蔓延し通用しているが、使用したい偽札は「エン札、ユーロ札、ポンド札、ゲン札、ウォン札」のドレか?・・・手に入らない「偽札」は「交換価値」がアルかも・・・塵(ごみ)もカネになるらしいから(フリマアプリ)・・・
 なんか、「仮想通貨」って、「実用通貨」も「交換価値幻想」だろう・・・重いけれど「キン」も「交換幻想価値」である・・・それは「食い物」が目の前から無くなった時にスグ解かるコトだが・・・
 一般K国人の訪日オバサン旅行者が「キン」を持ち込んで、「円に換金」しているらしい・・・カラクリは「日本国内での買い取りで、消費税8%」が丸儲け・・・一時、没収されても、罰金と消費税を払えば、現物の金は、持ち主に返還される権利システムらしく、「リスク」は低いらしい・・・違法行為があっても現物の金塊の完全没収はしないらしい・・・
 「1662年、ロンドンで印刷物の独占権として許可制を法律化・1886年、日本では著作権という言葉が政府によって公の場で使われ、さらに旧著作権法が1899年に定められた(旧著作権法は1970年に全面改正)」・・・「江戸時代の本、絵画の出版」は「御禁制」になった・・・作者、作家、歌舞伎も「弾圧(風紀)」・・・
 「楽市楽座」って、「規制撤廃」だろう・・・当然、「落書き・覶句作」は「自由?」であるが・・・
 「古代ローマで、本の複写は、読み書きのできる奴隷により行われ、この様な能力を持つ奴隷の購入・維持は高コストだった」、「ブックカース(book curse)=中世に書物の盗難を避けるために使用された、本に記載される呪いの言葉」だった・・・
 日本じゃぁ、記録文書の担い手は「帰化人」だったろう。役所は「舎人」・・・特に「陽侯」氏が「?」である・・・「?」は「あきつ=安芸津=穐津=秋津⇔蜻蛉(とんぼ)」と「ヤゴ」の関係だが・・・「とんぼ(蜻蛉・蜻蜓)・トンボ(dragonfly・damselfly)=かげろう(蜉蝣)=陽炎」、「水蠆(やご・yago)トンボ類の幼虫の総称=水蟣(やご)」・・・「オニヤンマ(鬼蜻蜓・馬大頭)のヤゴが5~6年」、「シオカラトンボ(塩辛蜻蛉)⇔ムギワラトンボ(麦藁蜻蛉)のヤゴが2~8カ月(1年多世代)、幼虫で越冬」、「オツネン(越年)トンボのヤゴが1~3ヶ月、成虫で越冬」・・・「イトトンボ=南に種類が多い・本州の山地や北海道に分布するエゾイトトンボなどは北方系・成虫として越冬するトンボとして、オツネントンボ、ホソミオツネントンボ、ホソミイトトンボの3種」・・・厳しい冬なの窓枠で息づいている・・・ボクは「ホソミイトトンボ」を「カミサマトンボ」とカンチガイしていた・・・「水蠆=やご=水蟣」・・・なんで、当て字が「弥吾・八児・矢蜈・耶故・焚胡」じゃぁないんだろう・・・
 蠆=萬+虫・・・・・・・太安万(萬)侶
 蟣=虫+幾(幺幺戍)・・関孝和・・・幾何学の虫「施記考和」?
            字は子豹・通称は新助・号は自由亭
            新井白石と同世代、同君主(家宣)
            明暦 3年(1657年)2月10日
            西暦1657年3月24日~1725年6月29日
            丁酉・癸卯・癸未 ~乙巳・壬午・丙辰
             ~
            享保10年5月19日(1725年6月29日)
            ↓↑
            関  孝和
            寛永19年(1642年)3月 ?
             ~
            宝永5年10月24日(1708年12月5日)
            ↓↑
            甲府藩主
            徳川綱重(家光の3男)
            徳川綱豊(6代将軍家宣)⇔新井白石も家臣
            の家臣
            傍書法を編出し文字係数方程式を扱う
            後に松永良弼が
           「帰源整法」から「点竄術」に改めた
            著作は「発微算法」
  ・・・幾何=キカ=帰化・奇禍・記掛・
        旗下=麾下=揮下
        貴下(キカ)
        木香(キカ)
帰臥(キガ)
起臥(キガ)
飢餓(キガ)
偽花(ギカ)
偽果(ギカ)
戯画(ギガ)
偽臥(ギガ)=僞衙
木賀(きガ)
        危牙・鬼牙
 蟣=虫+幾(幺幺戍)
         戍(まもる・まもり・ジュ・シュ)
         戌(いぬ・ジュツ・ジュチ)
戉(まさかり・エツ・オチ)
戎(えびす・ジュウ・ニュウ)
成(なっる・なす・セイ・ジョウ)
 「聴覚」は前からイカレつつあると思っていたが・・・TVでは「ガク」が「ガン」って聴こえたのかナッ・・・
 「トウガン」を検索したら
 「トウガン(冬瓜、学名:Benincasa hispida、中国語のラテン翻字: dōngguā)は、瓜(ウリ・蓏・苽)科の蔓(つる)性一年草、雌雄同株の植物・果実を食用する夏野菜・カモウリ(氈瓜・加茂瓜・賀茂瓜)とも呼び、富山県ではカモリ、沖縄県ではシブイと言う・秋の季語」・・・
 ・・・冬瓜(トウガン・トウガ)は「冬」の「瓜」なのに「アキの季語?」って・・・「冬瓜(トウガン・トウガ)の旬は夏・冬まで保存可能で食べる瓜という意味」、「皮が硬くなり、貯蔵性に優れる・トウガは冬に採れる野菜ではなく、7月~10月ごろまでに収穫でき、一年間は保存可能で、冬までも野菜として食べれる意味」・・・なるほど・・・「瓜(うり・音声符はクヮ (カ)・コ)」・・・
 丸みのある球型の
 「マルトウガン(丸冬瓜)」
 俵のような長楕円形の白粉をおびる
 「ナガトウガン(長冬瓜)」
 俵のような長楕円形だが白粉をおびない
 「オキナワトウガン(沖縄冬瓜)」
 「冬瓜盅(トンクワチョン)」は中華料理
 「冬瓜子(トウガシ)」は利尿剤、排膿の漢方
 ↓↑
 「烏瓜(からすうり)
  胡瓜(きゅうり・コ・カ)
  糸瓜(へちま・シカ)
  西瓜(スイカ)
  甜瓜(まくわうり・テンカ)・・・豊臣秀吉の仮装大会
 ↓↑ 「瓜売=天下統一を果たした豊臣秀吉が
        朝鮮出兵時
       「文禄の役(1592~93年)
        ↓↑   慶長の役
            (慶長二年(1597年)
             講和交渉決裂
             慶長三年=万暦二十六年
             宣祖三十一年(1598年)
             太閤豊臣秀吉の死で日本軍の撤退
             高麗の陣・壬辰倭乱・丁酉再乱
        ↓↑   明は万暦、朝鮮役」
        に築いた
        肥前国
        松浦郡
        名護屋(佐賀県
            唐津市
            旧-東松浦郡・鎮西町・呼子町)
              東松浦郡・玄海町)
        の
        名護屋城で
        開催(文禄三(1594)年六月)した
       「瓜畑遊び=仮装大会」
        秀吉が「甜瓜(まくわうり
            テンカ⇔天下)=瓜売」
        を演じた・・・「やつしくらべ=仮装大会」
          ↓↑   「やつし=身をやつす・憔・悴
                    窶す・みすぼらしい
                やつ(忰・顦・顇)れた姿?
                奴姿比べ?
 ↓↑       ↓↑    奴史比(較)べ?・・・委奴国
江戸時代の
       「太閤記(小瀬甫菴著・寛永三年)」
       「絵本太閤記(1797~1802年刊行
        大坂の武内確斎、執筆
        挿絵は岡田玉山が文中に
        約800枚の絵
        84巻の大作)」
 ↓↑     ↓↑↓↑
        豊臣秀吉 =瓜売「味よしの瓜めせめせ」
        徳川家康 =あじか(木製の笊=ザル)売り
        蒲生氏郷 =路茶売り
              茶点(チャたて・茶たて)の
              商人(あきんど)
        伊達政宗 =桟敷席から「にぎやかし役」
              (「やんややんや」と囃し立てた)
        織田有楽斎=旅の老僧
             (織田長益・1547年
              織田信秀の11男
              母は不詳
              13歳年上の兄は織田信長)
        前田利家 =仏具を入れる箱「笈(おい)」を
              肩に担いで高野聖
        前田玄以 =比丘尼の女装
        有馬則頼 =有馬池坊宿亭主
             (有馬温泉の神仏の恵みを説く)
        津川義近 =赤い帽子を被って
             「弦(つる)はいらんかァ
              弦(つる)はいらんかァ」
  ↓↑    ↓↑↓↑
        羽柴秀勝=同姓同名の人物が三名?!困った
  ↓↑    ↓↑↓↑
        羽柴秀勝=織田信長の四男、羽柴秀吉の養嗣子
             於次丸-秀勝
  ↓↑    ↓↑↓↑
        羽柴秀勝=羽柴秀吉が近江長浜城主時代の子
             幼名は石松丸、石松-秀勝
  ↓↑    ↓↑↓↑
        豊臣秀勝 =漬物売り
             (異名は小吉秀勝・三好秀勝)
              豊臣秀吉の甥
              母は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の姉
              日秀(とも)・・・ナゼ?、「とも」
              実兄に豊臣秀次
              実弟に豊臣秀保
              正室は江(淀殿=ちゃちゃ
                   の妹・・・淀川
                   後に
                   徳川秀忠の正室)
              娘・完子の子孫は
              大正天皇の貞明皇后・・・
               ↓↑
              岐阜兵8,000の兵を率い
              九番隊大将として出征
              秀吉は
              甥の秀次に対して
              三国分割計画を示し
              高麗には
              秀勝か
              宇喜多秀家を配する
              秀勝は
              朝鮮統治予定者の最有力候補・・・
              秀吉の天下統治構想に
              秀勝が血族として
              重要な役割を与えられたていた
              だが、文禄の役で戦病死・・・
               ↓↑
        織田信雄 =書庫を持たせた従者を引き連れた
              遍歴僧(織田信長の次男)
  ↓↑    蒔田広定 =宿屋の主人・秀吉の小姓
  ↓↑         (備中浅尾藩の初代藩主)
  ↓↑          蒔田=まいた=巻記拿・万意他
  冬瓜(トウガン)
  南瓜(かぼちゃ・ナンカ)
  破瓜(ハカ)
  木瓜(ぼけ・ボッカ)
  「瓜の皮は大名に剝かせよ
   柿の皮は乞食に剝かせよ
   瓜の蔓に〈茄子〉は生らない
   瓜実顔(うりざねがお)
   瓜蠅(うりばえ)
   瓜田(カデン)に履(くつ)を納れず
   瓜呂根(カロコン)」
 「瓢=票(西示)+瓜
  箪=竹+単(單)」
 「千生瓢箪=数多く群がって実がなること」・・・
 撰名理・・・泉成り描譚・・・瞄潭?・・・見詰る、狙う・・・
 「潭水・深潭・碧潭 (ヘキタン)・底深いさま・潭潭」
 「潭=水が深く淀(澱)む所・淵」
 「龙潭虎穴(lóng tán hǔ xué)=敵の虎穴で生活する」
 「龙=龍」
 「量詞、たまった水・涙などを数える」
 「她的眼里湧上了一潭泪水
 (彼女の目に溢れんばかりの涙を浮かべた)」
 「千成り瓢箪 (びょうたん) 」の略
 「せんなりがき(千成り柿)・支那(シナ)の柿」の別名
 「夕顔(ユウガオ)の栽培品種
  小さな果実が群がってなる
  せんなり ひさご
  群生したモノを図案化
  豊臣秀吉の馬印=千成り瓢箪」
 ↓↑
 「凍鶴(いてづる・トウカク)=ツルが片足で立ち、長い首を後方にまげて翼の間にはさみ、みじろぎもせずうずくまる姿が霜夜の寒さをきらうと言い伝えられているところから名づけられたツルの様子」・・・
 「つる(脈)=水流・海流」って、「山脈・水脈・鉱脈・油脈・人脈・血脈」・・・「鶴嘴(つるはし)」の共通項の「蔓(つる)」で繋がるんだ・・・「都留・敦賀・弦・吊る・釣る」・・・「津留・通流・椄留・傅留」・・・
 「た+る・ち+る・つ+る・て+る・と+る」・・・
 ↓↑
 昨日も今日も、「風呂場(my bath-room)バス-ルーム)」の「水道(piped)の水が凍った(water of frozen)」・・・「The pipes of the bath-room froze up」・・・
 「凍水脈(いてつる・いてづる・トウスイミャク)=凍った(frozen)、地下水脈(水路・an underground water-course・water course・water vein)」・・・
 凍(こぉ)って、凍(い)てついたモノ・・・
 「ヴァース(verse)
  バース (birth)
  ベース (base)
  ヴェース(vase)」・・・?
 「chapter and verse=聖書の章と節・正確な出所の典拠と根拠」・・・
 「birth・・・the date of one's birth=生年月日
    ・news about births and deaths=誕生と死亡の」・・・
 「a bath=風呂に入る(have [take] a bath)
      風呂につかる(soak in the bath-tub)
      風呂を立てる(get the bath ready)
      風呂をわかす(heat the bath)」
 ・・・関連は有るみたいだ・・・
 ↓↑ 
 ナゼか、ボクの家の庭の周りを囲み、今現在、カナリ雪の冠帽子を被った松の木を寝倉としている2、30羽のスズメ達・・・ダイヤモンド-ダストの中を起きだし、電線に音符を小刻みに描きながら、チームワークは一気に、一斉に隣同士がブツカルこともなく、見事に飛び立ち、basket-ballの速攻の様に、また元の場所に戻り、騒(ざわ)めいている・・・冬の最中、食い物は如何(どうして)イルンダロウと思いつつ眺めているが・・・
 「凍靄(いてもや)=急激な寒気によって、空気中にある
           水蒸気が凝結し、靄となる現象」
 「凍雲(いてぐも・トウウン)=寒々と凍りついたような雲
                雪模様の雲・冬空の雲
 「凍霞(いてがすみ)=凍り付きそうな冬の霞(かすみ)」
 「凍雀(いてすずめ・トウジャク)?」
 が群がっている・・・
ーーーーー
 ・・・凍てついた「政治状況」・・・フライパン(Olympic)の上でトカしてどうするんだか?・・・アベがどんな「立場」で相手を責めようが、妥協しょうが、結果、罵倒されて「彼らが同胞と確信している民族主義的な幻想、妄想に利用されるダケ」である・・・
 「プチブル国家主義者」であるコトを「法治の枠内」で標榜シタイのカモだが、本音は相手が「外敵日本」を叫んでくれれば、「日本民族の再生、蘇生、復活」がアルカモ知れんなどと淡い願望を持っているのカモ・・・「美しいニッポン」って?・・・
 オトナリは紀元前の昔から大陸中国王朝の興亡、分裂のたびに、トバッチリで半島で生きる術を失いつつ、共食い状況に晒され、逃げ場の無い状況に直面し、その経験から学んだ集団のリーダーに狡猾に利用され、洗脳され、搾取されてき、その国家組織は「ハイエナ集団」のなりかけであったし、ある?・・・カンリュウ(SK)の「映画」を観る限り、中国のような「反日映画」を観たコトがナイが(ワンサカと有るんだろうナッ)・・・ボクが観た映画の殆んどは「反国家、反財閥、小市民のささやかな幸福を願うモノガタリ」である・・・NKはどうか、「ゴジラ」みたいな映画を「故金さん」はツクッたとか・・・
 「市民社会での個々人の自我、自立」は「民族と云う支配階級の幻想」にベッタリ塗り潰され阻害されている・・・
 ・・・女王をリーダーとしてサバンナで生きている「ハイエナ(動物)集団」には申し訳ないが、生き方にも流儀があるんだろう・・・
 だが、生きて行く期間の現実は「キレイゴト」では「命」を全う出来ないのはアタリマエである・・・
 「大久保利通・岩倉具視」の「岩倉使節団」
 明治4年11月12日(1871年12月23日)
  ~
 明治6年(1873年9月13日)
 日本からアメリカ合衆国
 ヨーロッパ諸国への大使節団
 岩倉具視の正使
 政府首脳陣や留学生を含む
 使節46名、随員18名、留学生43名
 総勢107名
 大久保利通・伊藤博文・木戸孝允・山口尚芳
 二年間、各国を歴訪
 不平等条約改正を目指した
 アメリカには約8か月、長期滞在
 後
 蒸気船オリムパス号で
 1872年8月17日
 イギリスのリバプールに到着
 1872年12月5日
 ヴィクトリア女王に謁見
ーーーーー
 ・・・

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ジャッカルじゃぁなく・・・ハイエナのアラソイ・・・

2018-01-24 22:07:27 | 古事記字源

 ・・・本日もガンガンの天気だったけれど、氷点下の世界・・・隣の町へ朝の9時半からバスで通院、帰りは電車・・・クスリの代金を見ながら、薬よりもナニか旨いモノを喰った方がイイなぁと、思いつつ、スーパーに寄って「あんドーナツ」を買ってしまった・・・「平昌五輪、安倍首相が出席」?・・・「安倍晋三首相は24日午前、韓国で2月9日に開催する平昌冬季五輪の開会式に出席する意向を表明」?・・・「文在寅(新羅)と金正恩(高句麗)」vs「アベ(九州倭王朝)」?・・・どうやら「阿毎王朝」は「百済支援の失敗」を反省していないようである・・・だが、ヤリタイ放題が出来るとカンチガイしている、元々「団扇(うちわ)のドウゾク」・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・名前を視ただけで奴らの思惑が・・・国家主義者だとしても「アベ」は失格かも・・・「ウタを忘れたカナリ哉」って?・・・「百禽(ももり)・百鳥・百舌鳥・鵙」・・・「童謡・かなりあ(詩・西条八十)」・・・何で「百禽(ももり)」なんだか・・・

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