モスクワの夜も更けて・・・暗い国に「笑顔」はナイ・・・
紫陽花の色が灰色がかって燻(くす・煤)んできた・・・くすむ?
↓↑
燻(いぶ)す
燻(くす)ぶる
燻(くす)べる
燻(くゆ)らす
燻(ふす)べる
燻(や)く
煤(すす)=煤煙・油煙
煤(すす)ける・煤で汚れて黒くなる
燻(や)く
燻=火+熏
火+丿+一+丷+丨+灬
熏
煤(すす)=煤煙・油煙
煤(すす)ける・煤で汚れて黒くなる
煤=火+某
火+甘+木
↓↑
媒=女+某
女+甘+木
バイ
なかだち
仲介・間に入って関係をとりもつ
なこうど=仲介人・関係をとりもつ人
おとり・誘い寄せる働きをするもの
↓↑
某+α
湈・㖼・楳・煤
腜・禖・䗋・䤂
↓↑
謀=ボウ・ム・はかる
策謀・謀議
間諜・防諜
↓↑
媒(なかだち)=二者の間をとりもち人
記憶媒体=情報装置・記録装置
触媒=それ自身は変化しないが
それを加えることで
反応の速度を変える性質のある物質
「水=酸素+水素=H₂O」の
電気分解での
「鉛(Pb)=青白色の軟らかい金属」
なまり=訛り・鈍り・吪・譌
仲立ち・媒(なかだち)
媒介
媒材=媒介となる材料。絵の具を溶くための材料。
媒質=物理的作用を他の場所に伝える仲介となる物
↓↑
紅葉良媒
紅葉が仲人の役割をするということ
男女の不思議な因縁
「良媒」=すぐれた仲人
唐の時代
書生の
于裕は宮廷を流れている小川の下流で
詩の書かれた紅葉を見つけ
于裕もその小川の上流から
詩を書いた紅葉を流すと
宮女の
韓夫人がそれを拾い
それが縁で結婚した
↓↑
楳=梅・・・梅園=水戸茨木の「偕楽園」
梅里=徳川光圀=水戸黄門
改名 長丸・千代松・徳亮・光国・光圀
別名 子龍
字 観之
号 梅里・日新斎・常山人
率然子・西山
諡 義公
神号 高譲味道根之命
「大日本史」の編纂
↓↑
媛蹈鞴五十鈴媛命
初代天皇后
在位
神武天皇元年1月1日
~
神武天皇76年3月11日
皇后 神武天皇元年1月1日
皇太后 綏靖天皇元年1月8日
諱
媛 蹈鞴 五十鈴 媛
(ひめたたらいすず ひめ)(日本書紀)
鈴=金+令=レイ・リン
比売多多良伊須気余理比売
(ひめたたらいすけより ひめ)(古事記)
秘めた盥 数懸余理 鳹=今+鳥
円盤の数理の余り 近 長
円の直径に対する
円周の長さの
比率
π=pie=円周率=3.14159
↓↑
別称
富登多多良伊須須岐比売
(ほとたたらい すすきひめ)(古事記)
濯 ぎ・雪ぎ・漱ぎ・鈴木
煤 気・薄木
↓↑
父 大物主神=事代主神
母 勢夜陀多良比売=玉櫛媛
配偶者 神武天皇
手研耳命
結婚 神武天皇即位前年9月24日
子女 日子八井命
神八井耳命
綏靖天皇
↓↑
八月も終わりに近づいてきた・・・残り、九、十、十一、十二月の四ヶ月
毎日のニュース、ユーチューブ(youtube)で
ウクライナとプーチンの侵略破壊の情勢と
日本政治屋と「統一」との関係の是非・・・
「にほん人」ってツクヅク・・・イイ人たちが多い・・・
素直に騙されても
他人をアクドク騙そうとはしないヒトビト・・・善人・・・
みんな
アマチヤァのスポーツマンシップの「観客にほん人」・・・
電通・・・広告会社・・・「電通のドン」・・・?
口利き屋、さすがプロの手配師「T」・・・の逮捕・・・
ー↓↑ー--
統一新羅=新羅+百濟+高句麗・・・統一半島?
統一日本=「倭+新羅+百濟+高句麗」+「唐」・・・統一島国?
↓↑
新羅=シラ義=シラ期
↓↑
第37代
「宣徳王」
782年閏正月
唐に対して朝貢
渤海に備え、北方面の守備に努め
781年7月
浿江(大同江)以南の地に使者を送って安撫
782年2月
漢山州(京畿道広州市)の住民を
浿江鎮(黄海北道平山郡・金川郡)
へ移住させた
在位6年目
785年正月
唐の徳宗から
検校太尉・鶏林州刺史・寧海軍使・新羅王
に冊封
病に倒れてそのまま
正月13日に死去
↓↑
第38代
「元聖王」
即位後(785年2月)
自祖先への追封
五廟を再整備
788年
官吏登用の制度として
科挙に類似する
「読書三品」を定めたように
儒教的・律令体制的な政策
律令体制の下で貢納された
租粟を振舞って民の救済を行った
恵恭王の末年以来
政治的混乱の収拾に努めた
788年秋
国の西部で盗賊が現われ
791年
元の侍中の
「悌恭」
が反乱を起こし
誅殺
↓↑
786年
唐に使者を派遣して貢納
徳宗からは
新羅の長年の忠勤を慰撫する詔書
宣徳王に与えられた官爵
検校太尉・鶏林州刺史・寧海軍使・新羅王
をそのまま引き継いだ
↓↑
第40代
哀荘王
(在位800年~809年)
801年10月
耽羅国(済州島)
からの朝貢
耽羅国
文武王十九年(679年)
新羅に隷属していたが
後に独立
↓↑
802年
順応・利貞
らの高僧に命じて
伽耶山に
海印寺(慶尚南道陜川郡伽耶面)
を創建
↓↑
803年
日本とも国交が再開
『三国史記』新羅本紀
哀荘王の四年(803年)7月
「国交を開き通好」
五年(804年)五月
「日本から黄金三百両が進上」
七年(806年)三月
「日本からの使者を朝元殿で引見」
九年(808年)二月
「日本国の使者を厚くもてなす」
『日本後紀』
延暦二十三年(804年)九月己丑条
「大伴宿禰岑万里を新羅に遣わした」
↓↑
805年
唐で
「順宗」即位
「哀荘王」
も冊封され
開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督
鶏林州諸軍事・鶏林州刺史・兼持節充寧海軍使
上柱国・新羅王
と官爵を進められた
↓↑
809年7月
摂政の
金彦昇(憲徳王)
が
伊飡(2等官)の
「悌邕(ていよう)」
とともに反乱
「哀荘王」は弟の
「体明侍衛」とともに殺害された
元和四年(809年)七月十九日
王の叔父の
「憲徳」
「興徳」
の2人によって殺害された
↓↑
「憲徳王」は即位
唐に使者を派遣
憲宗からは
開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督
鶏林州諸軍事・兼持節充寧海軍使
上柱国・新羅王〉
に冊封
唐に対して
810年10月
王子
「金憲章」
を送って金銀製の仏像などを献上し
定期的に朝貢を行った
819年7月
唐の鄆州(山東省済寧市)で
「李師道」
が反乱
兵馬を徴発する
「憲宗」の詔勅に応え
将軍
「金雄元」
ら3万の援軍兵を派遣
↓↑
812年9月
渤海へ使者を派遣
「宣王大仁秀」
が即位
826年7月
漢山州(京畿道広州市)
以北の州・郡から1万人を徴発して
浿江(大同江)沿いに
300里の長城を築いて
渤海の南下を食い止める備えとした
↓↑
飢饉と地方豪族の反乱
816年
浙江省東部へ流入した民
170人
↓↑
819年3月
各地の賊徒がいっせいに蜂起
諸州の都督や太守に命じて鎮圧
↓↑
日本への賊徒侵攻
弘仁新羅の乱
新羅の国内情勢が悪化
新羅人は
日本へ亡命
賊化した新羅人が度々
日本を襲撃
↓↑
弘仁二年(811年)十二月六日
新羅船三艘が
対馬島に現れ
1艘が
下県郡の佐須浦に着岸
船に10人ほど乗っており
他の2艘は闇夜に流れた
十二月七日未明
灯火をともし
相連なった20余艘の船が姿を現した
賊船と判明
先に着岸した者のうち
5人を殺害
5人は逃走
うち
4人は後日補足
島の兵庫を衛り
軍士に動員をかけ
新羅(朝鮮半島方面)を望み見ると
毎夜数箇所で火光が見えると大宰府に報告
大宰府は通訳と軍毅を対馬へ派遣
要害の警備につくすべき事を
大宰府管内
長門・石見・出雲
等の国に通知
弘仁四年(813年)二月二十九日
肥前
五島・小近島(小値賀島)に
新羅人110人が五艘の船に乗り上陸
島民100余人を殺害
島民は新羅人9人を打ち殺し101人を捕虜
4月7日
新羅人一清
清漢巴
らが日本より新羅へ帰国
と大宰府より報告
新羅人らを訊問し
帰国を願う者は許可
帰化を願う者は
慣例により処置せよと指示
事後の対策
通訳を対馬に置き
商人や漂流者
帰化・難民になりすまして
毎年のように
来寇する新羅人集団を尋問できるようにし
承和二年(835年)
防人を330人に増強
承和五年(838年)
796年以来絶えていた
「弩師(どし)」
を復活させ、壱岐に配備
弘仁五年(814年)
化来した新羅人
加羅布古伊
等6人を美濃国に配す
↓↑
弘仁十一年(820年)
日本国内の
遠江・駿河両国に移配した
新羅人在留民700人が反乱(弘仁新羅の乱)
その殆どが処刑、鎮圧
天長元年(824年)
新羅人
「辛良・金貴賀・良水白」
等54人を陸奥国に安置
法により復を給し
乗田を口分田に充てる
↓↑
822年3月
武珍州(全羅南道、光州広域市)
菁州(慶尚南道晋州市)
熊川州(忠清南道公州市)
の都督職を歴任した
「金憲昌」が反乱
熊津(公州市)を都として
「長安国」
と号
支配領域は
武珍州・菁州・熊川州
完山州(全羅北道全州市)
沙伐州(慶尚北道尚州市)
の五州及び
国原(忠清北道忠州市)
西原(忠清北道清州市)
金官(慶尚南道金海市)
の三小京に及んだように
旧百済の領域を中心とし
国土の大半が
「金憲昌」
を支持
王権に対抗する姿勢をとった
「金憲昌の反乱」
は1ヶ月ほどで鎮圧
鎮圧に活躍した討伐軍は
貴族の私兵と花郎集団で
律令体制の下での兵制は
有名無実化
825年1月
「金憲昌」の子
「金梵文」
が高達山(京畿道驪州郡)を根拠として反乱
北漢山州(京畿道広州市)の都督によって鎮圧
↓↑
826年10月
「憲徳王」死去
↓↑
第42代
王興徳王
唐の文宗からは
開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督
鶏林州諸軍事・兼持節充寧海軍使・新羅王
に冊封されて以降
唐への朝貢を続けて文物の招来に努め
827年
唐に入った旧高句麗系の僧の
「丘徳」
は経典を持ち帰った
828年
帰国した「金大廉」が茶を持ち帰り
新羅での喫茶が盛んになった
827年
漢山州(京畿道広州市)
瓢川県
から速富の術(すぐに富貴になれる方法)
という信仰が流行り出す
政府は教祖を遠島へ流刑
↓↑
832年
春夏の旱魃
7月の大雨で凶作
餓えた民衆が盗賊となって蜂起
10月
各地に使者を派遣して慰撫
833年
凶作で民が飢餓
834年10月
王自らが巡幸して
民に穀物を分け与え
民心の安定を図ろうとした
834年
身分の上下に応じて
色服・車騎・器物・家屋
などの区別を厳然とさせて
違反者には刑罰を用いるとする教書を発布
奢侈を禁じるとともに
王都の住民に対する身分序列を明確化
教書の中で規定された身分序列
「真骨・六頭品・五頭品
四頭品・平人のそれぞれ男女」
7世紀中葉に成立していた
王族を中心とする身分序列である
「骨制度(聖骨・真骨)」に対して
「頭品制度」とされる
骨制度・頭品制度をあわせて
新羅の骨品制度という。
↓↑
承和三年(836年)
日本が遣唐使を久しぶりに派遣を決定した際
遣唐使船が難破した場合の保護を
新羅に要求
新羅側執事省は
使者
「紀三津(きのみつ)」
を問い詰め
「小人の荒迫(こうはく)の罪を恕し
大国の寛弘の理を申す」
との蝶を日本へ送った
「小人」とは使者紀三津
「大国」は新羅自身を指す
↓↑
承和九年(845年)
日本は外交方針を変換
太宰大弐
「藤原衛(ふじわらのまもる)」
は新羅人の越境禁止を進言
以後、帰化を申請する場合でも
漂着民に食料衣服を与えて
追い返せとした
『貞観格(ジョウカンカク)』
以後の
対新羅外交の基本方針になった
↓↑
「張保皐」のもとに集結した
「金祐徴」らの一派は
838年3月に軍事活動を起こし
祐徴派の「金陽」が
武州(光州広域市)を下し
南原小京(全羅北道南原市)を陥落
12月
「金陽」が武州鉄冶県(全羅南道羅州市)
まで軍を進め
新羅王
「閔哀王」
は
「金敏周」を派遣して迎撃
「金陽軍」に壊滅
839年1月19日
金陽軍が
達伐(大邱広域市)
にまで及び
王は禁軍を用いて防戦に努めたがかなわず
兵の半数以上が戦死
この敗戦を聞いた王の側近は皆逃げ
王も殺害された
「祐徴」は王の儀礼を以て
「閔哀王」の屍を埋葬
古礼に則って即位式を執り行い
王位を継承し
「神武王」
として即位
しかし
「神武王」は病で同年、死亡
子の
「文聖王」
政権交代に役のあった
「張保皐」
に官位を与えるが
「張保皐」
は不満を持ち
846年
清海鎮(全羅南道莞島)で反乱
王軍は「張保皐」を暗殺
↓↑
第48代
「景文王」
862年7月
唐に使者を派遣、土産物を貢納
864年4月
日本からも国使を迎えた
日本側の史書には対応する記事はない
865年4月
「懿宗」
開府儀同三司・検校太尉・使持節
大都督鶏林州諸軍事・上柱国・新羅王
に冊封
869年7月
王子の
「金胤」
らを唐に派遣
馬二匹・砂金百両・銀二百両、様々の進奉
870年2月
には沙飡(8等官)の
「金因」
を唐に宿衛
874年
「僖宗」
からの
「宣諭使」
を受けた
↓↑
866年10月
伊飡(2等官)の
「允興」
がその弟の
「叔興」
「季興」
とともに反逆を謀った
発覚して
「允興」
らは
岱山郡(慶尚北道星州郡)に逃走
捕縛されて斬刑
一族が誅滅
↓↑
867年5月
王都
「金城(慶尚北道慶州市)」
で疫病が流行
8月
洪水
地方各地で飢饉
868年1月
伊飡の
「金鋭」
「金鉉」
らが反乱し、誅殺された
870年
王都が地震・洪水
冬には再び疫病が流行
873年
飢餓と疫病
王は民に穀物を与えて救済した
874年5月
伊飡の
「近宗」が反乱して宮中まで至り
王は近衛兵を派遣して撃破
近宗一味を捕らえて
車裂きの刑にした
875年7月8日
景文王死去
↓↑
日本への賊徒侵攻
貞観八年(866年)
肥前
基肄郡
擬大領
山春永
藤津郡領
葛津貞津
高来郡
擬大領
大刀主
彼杵郡住人
「永岡藤津」
らが、新羅人と共謀
対馬攻撃の計画発覚
↓↑
貞観十一年(869年)六月
新羅の海賊
艦2艘に乗り
筑前國
那珂郡(博多)
荒津に上陸
豊前の貢調船を襲撃
年貢の絹綿を掠奪し逃亡
追跡したが、見失った
『日本三代実録』
「鄰國の兵革」
隣国の新羅の戦争(内戦)
が背景にあるのではないかと
卜(うらない)
貞観十一年(869年)
五月二十六日
(ユリウス暦7月9日)
貞観地震
肥後地震
↓↑
日本政府は沿海諸郡の警備を固め
内応の新羅商人
「潤清」
ら30人を逮捕し放逐
新羅に捕縛されていた
対馬の猟師
「卜部 乙屎麻呂」
が現地の被害状況を伝え
大宰府管内の
すべての在留新羅人を
陸奥国などに移し
口分田を与えて
帰化させることにした
新羅は大船を建造し軍事演習
問えば
「対馬島を伐ち取らんが為なり(870年2月12日条)」
と答えた
現地の史生が
「新羅国の牒」を入手し
大宰少弐
「藤原元利万侶」
の内応を告発
↓↑
870年2月15日
弩師や防人の選士50人を対馬に配備
在地から徴発した兵が役に立たないと
俘囚
律令国家に服属した
「蝦夷」を配備
国防法令は
『延喜格(えんぎきゃく)』
に収められ外交の先例となった
伊勢神宮、石清水八幡宮、香椎、神功陵
などに奉幣および告文をささげ
「わが日本の朝は所謂神明の国也
神明の護り賜わば
何の兵寇が近く来るべきや
(日本は神の国であり
神の守護によって
敵国の船は攻め寄せない)」
と訴えた
新羅を敵と認識する考えは
神国思想の発展へとつながっていった
神功皇后による
三韓征伐説話もたびたび参照された
↓↑
貞観十二年(870年)九月
新羅人20人の内
清倍、鳥昌、南卷、安長、全連
の5人を
武蔵国に
僧香嵩、沙弥傳僧、關解、元昌、卷才
の5人を
上総国に
潤清、果才、甘參、長焉、才長
眞平、長清、大存、倍陳、連哀
の10人を
陸奥国に配する
↓↑
貞観十四年~十九年
編纂の
『貞観儀式』追儺儀(ついなのぎ)
陸奥国以東
五島列島以西
土佐国以南
佐渡国以北
は、穢れた疫鬼の住処と明記
対新羅関係が悪化
天皇の支配する領域の外は
ケガレの場所
王土王民思想
神国思想
とともに形成
↓↑
憲康王
(在位875年~+886年)
876年7月
唐に朝貢
878年4月
僖宗から冊封
七月
「黄巣の乱」
で使者の派遣は中止
885年10月
「黄巣の乱」平定され
祝賀する使者を唐に送った
↓↑
878年8月
日本からの使者を
朝元殿で引見
882年4月
日本国王が
黄金300両
明珠10個とを進上
『三国史記』新羅本紀は伝えている
869年
新羅の海賊船が博多を襲って
新羅と日本との間には緊張関係
『日本三代実録』
元慶四年(880年)条
新羅の賊が侵入の情報を得た
日本海沿岸の諸国は厳重な警戒態勢
↓↑
『三国史記』新羅本紀
「憲康王」の時代は順調
879年6月
一吉飡(7等官)
「信弘」
が反乱して誅殺
↓↑
日本への賊徒侵攻
『扶桑略記』
寛平六年(884年)九月(旧暦)
新羅船45艘
対馬を襲撃
大宰府の奮戦で迎撃して危機を脱した
捕虜となった
新羅人の
「賢春」
は尋問で
前年来の不作により
「人民飢苦」の状態が続き
新羅では「王城不安」
答えている
打開すべく王の命令で
2500人の軍が大小百艘に分乗、飛帆
『三国史記』十年に相当するが
十年の記述は「三国史記」の段階では消失
886年7月5日
「憲康王」死去
続く
「定康王」の時代
887年1月
「金蕘(キンジョウ)」
が反乱
↓↑
新羅下代の女王
「真聖女王」
は
「三国史記」
角干(官位)の
「魏弘」と通じていたが
即位すると常に入内させて用いていた
間もなく
「魏弘」死亡後
少年美丈夫2~3名を密かに引き入れて姦淫
彼らに要職を授けて国政を委ね綱紀弛緩
女王の治世
国内で反乱が続発
治世十一年(897年)
女王は
「盗賊蜂起、此れ孤の不徳なり」
と宣言
「太子」に譲位
十二月
女王は金城(慶州)の北宮で死去
↓↑
「真聖女王」時代
日本への新羅賊徒が侵攻
893年5月11日
新羅の賊が
肥後国
飽田郡(熊本市)で民家を襲撃放火
肥前国
松浦郡
においても襲撃し逃亡
寛平六年(894年)
唐の将軍も交えた
新羅の船大小100艘に乗った
2500人にのぼる
「新羅の賊」の大軍が
対馬に侵攻
9月5日の朝
対馬守
「文屋善友(ふんやよしとも)」
は郡司士卒を励まして
賊徒45艘を
弩をかまえた数百の軍勢で迎え撃ち
220人を射殺
300名を討った
船11、太刀50、桙1000
弓胡(やなぐい)各110、盾312
など莫大な兵器を奪い
賊ひとりを生け捕った
捕虜が
新羅は不作で餓えに苦しみ
倉も尽きて王城も例外ではなく
「王、仰せて
穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」
と
全容は大小の船100艘、乗員2500、逃亡将軍は3人
特に1人の「唐人」が強大、と証言
翌年
寛平七年(895年)
新羅の賊が壱岐を襲撃、官舎を焼いた
↓↑
後三国時代
農民出身の
「甄萱」が
892年
南西部に後百済
901年
新羅王族の
「弓裔」が
北部に後高句麗
新羅の
「孝恭王」
は酒色におぼれ
領土は日増しに削られ
新羅は滅亡・・・
↓↑
後高句麗の武将
「王建」
は
後百済との戦争で何度も勝利したが
「弓裔」には嫌われ命を狙われ
「弓裔」は宮殿を再建し民衆の不満が高まった
自分を
「弥勒菩薩」と呼ばせて
「観心法」で人の心を見ることができると言い
反対派を粛清
「王建」は
「弓裔」の暴政に対して政変を起こし
「弓裔」を追放し
918年
「高麗」
を興した
920年
新羅の
「景明王」
「王建」と誼を通じて
後百済に対抗したが
924年死亡
次の
「景哀王」
927年
宴会中
後百済の
「甄萱」
に奇襲を受け、殺された
「敬順王」は
「甄萱」により王位に就けられた
↓↑
高麗と後百済の戦争が続き
935年
後百済王
「甄萱」が
四男に王位を継がせようとすると
長男の
「甄神剣(百済の第2代王)」
が反乱を起こし
「甄萱」を寺院に監禁し、王位を簒奪
935年6月
「甄萱」は後百済から逃亡、高麗に亡命
「王建」は「甄萱」を国賓として迎えた
11月
新羅の
「敬順王」が君臣を挙げて高麗に帰順
新羅は滅亡
↓↑
936年
高麗は後百済を滅し
朝鮮半島は
高麗によって統一
↓↑
紀元前後の朝鮮半島
粛慎、挹婁、沃沮、濊、濊貊
等、各諸民族の混在地域
百済・高句麗
等の
扶余系民族も国内に抱えていた
↓↑
初代
「赫居世(ヒョッコセ)居西干」は「朴」
4代
「脱解(タレ)尼師今」は「昔」
13代
「味鄒尼師今」は「金」
朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系が
始祖説話を持っている
13代
「金味鄒」は
「金閼智」の子孫とされているが
後になって
「金閼智」の子孫を称する一族が
金氏王統となり
統一新羅王朝に於ける唯一の王族となった
↓↑
「新撰姓氏録」
初代王
赫居世(朴氏)は
「神武天皇」の兄
「稲氷命」
の後裔であると記録
「古事記」「日本書紀」
などには
新羅の王子
「天日槍(アマノヒボコ)」
が但馬の国にやってきて
「豊岡」に住んだと伝承
「天日槍」が建立の
若狭の新羅神社には
「天日槍」
が父の国を探し
日本に帰ってきたことが記録
四代
「脱解尼師今(昔氏)」
の出身地は
「多婆那国」
とされ、丹波・但馬とする・・・説
↓↑
「三国史記」
「法興王」の時代
521年
中国南朝の
梁に使を遣わした
新羅王は
姓は募
名は秦
と伝えられる
564年
新羅王
「金真興」
北斉の鄴に使を派遣
「募」=姓は「慕韓」=「馬韓」
532年
金官国の王
「仇衡王(金仇亥)」
を降し
536年
初めて元号を立て
「建元元年」
545年
初めての国史を編纂
554年
百済の
「聖王」
を管山の戦いで殺し
562年
加耶国を征服
任那を併合
統一新羅王朝末期
52代
「孝恭王」
に子がいなかったので
「朴景暉」
が推戴されて
王位を継承(53代神徳王)
55代
「景哀王」
までの3代は
「朴氏」王統
新羅最後の王(第56代)
「敬順王」
の姓は
「金氏」
であり
新羅は王位が
「金氏王統」
に戻ってから間も無く滅亡
↓↑
新羅の王(君主)を表す称号としては
『三国史記』
「居西干(コソガン)」
「次次雄(チャチャウン)」
「尼師今(イサグム)」
「麻立干(マリッカン)」
の固有語由来の表記
第22代
「智証麻立干」の代で
王号を「王」に定め
諡の制度が始まった・・・
「中原 高句麗碑文」
『日本書紀』
には
「寐錦」
↓↑
「蔚珍鳳坪碑文」
には
「寐錦王」
↓↑
「迎日冷水碑文」
には
「葛文王」
『太平御覧』
引用の
『秦書』に
「楼寒(麻立干)」
に相当する・・・
↓↑
六部
建国神話に現れる辰韓の六村は
新羅六部であり
王都「金城(慶州市)」に居住
自立的な政治的集団として存在
王都外部に対しては
「王京人」
として結束し優位性を保ち続けた
新羅が六部の優位性を維持するために
元来は六部の内部的な身分制度が拡大し
「骨品制」
が成立
六部の名には
高句麗の五部と類似
六部の勢力は均等でない
六部のうち三部は
それぞれ神話上の
3つの王家
「朴氏・昔氏・金氏」
と関係が深い
第3代
「儒理尼師今」9年(32年)に
元の六村に対し
部名を改めるとともに
姓を下賜した
『三国史記』
と
『三国遺事』
との間でも伝える内容が異なっており
姓の表記については
高麗の前半期に整備されて付加された・・・
↓↑
政治機構
「骨品制」=官位制度
↓↑
『三国史記』新羅本紀
建国当初
「大輔」という官名が最高位
第3代
「儒理尼師今」の9年(32年)
17階級の官位(京位)が制定
枠外の官位
第23代
「法興王」の18年(531年)
宰相=「上大等(上臣)」
三国統一に功績のあった
「金庾信」
を遇するものとして
第29代
「武烈王(金春秋、キム・チュンチュ)」
7年(660年)
百済を滅ぼす
「伊伐飡(角干)」
の更に上に
「大角干(大舒発翰)」
「武烈王」の息子の
第30代
「文武王(金法敏)」の8年(668年)
高句麗を滅ぼす
「太大角干(太大舒発翰)」
の位が設置
↓↑
新羅王が新たに即位すると
直ちに最高官位の
「上大等(大輔・舒弗邯)
が任命され
その王代を通じて権力の頂点にたつ
貴族連合政治体制の要
三国統一後
「上大等」が任命された
「真徳女王」
の代になって
651年
国家機密を掌握する執事部が設けられ
長官の中侍が
「上大等」に代わって政治体制の要となった
「京位」
首都金城に居住する
六部のための身分体系
地方に移り住んだものに対しては
「外位」
という別途の身分体系を併せ持っていた
百済・高句麗を滅ぼした後
両国の遺民を取り込み
唐に対抗していくため
「京位・外位」
の二本立ての身分制度を再編
673年
百済から帰属してきた者のうち
百済の2等官の
「達率」の場合には
金城に移住した者に対しては
「京位10等」の
「大奈麻」に当て
地方に留まった者には
「外位4等」の
「貴干」を当てた
↓↑
674年
外位を廃止
京位に一本化
唐との戦闘を終え
684年
報徳国を滅ぼし
半島内の混乱を収拾した後
686年
高句麗人に対しても官位(京位)を授けた
高句麗の3等官の
「主簿」に対して
「京位7等」の
「吉飡」を当てた
百済・高句麗両国の
官位体系の序列を格下げし
新羅の身分体系に組み入れ
三国独自の身分体系が
新羅の政治秩序のもと
一本化、統一国家としての内実を整えた
↓↑
骨品 外位 等級 京位 読み(日本語/朝鮮語[115])
真骨
伊伐飡
伊罰干(イボルガン)
于伐飡(ウボルチャン)
角干(カッカン)
角飡(カッチャン)
舒発翰(ソバルハン)
舒弗邯(ソブルハン)
伊尺飡(イチョッチャン)
伊飡(イチャン)
迊飡(チャプチャン)
迊判(チャッパン)
蘇判(ソパン)
波珍飡(パジンチャン)
海干(ヘガン)
破弥干(パミガン)
大阿飡(テアチャン)・・・ナゼ、「阿」?
大阿飡以上の官位は
真骨だけが任じられ
他の宗族は任命されない
六頭品
阿飡(アチャン)
阿尺干(アチョッカン)
重阿飡(チュンアチャン)
四重阿飡(サジュンアチャン)
嶽干
一吉飡(イルギルチャン)
乙吉干(ウルギルガン)
述干
沙飡(サチャン)
薩飡(チャルチャン)
沙咄干(サトゥルガン)
高干
級伐飡(クッポルチャン)
級飡(クプチャン)
及伏干(クッポッカン)
五頭品
貴干
大奈麻(テナマ)
大奈末(テナマル)
重奈麻(チュンナマ)
九重奈麻(クジュンナマ)
までの9階層
選干
奈麻(ナマ)・・・・・・・マナの逆「マナ=真名=漢字」・・・
奈末(ナマル)・・・・・・訛(なま)る?
重奈麻(チュンナマ)・・・重なる「名真」
から
七重奈麻(チルチュンナマ)
までの7階層
四頭品
上干
大舎(テサ)
韓舎(ハンサ)
干
舎知(サジ)
小舎(ソサ)
一伐
吉士(キルサ)
稽知(ケジ)
吉次(キルチャ)
一尺
大烏(テオ)
大烏知(テオジ)
彼日(ピイル)
小烏(ソオ)
小烏知(ソオジ)
阿尺
造位(チョウィ)
先沮知(ソンジョジ)
↓↑
地方行政区分
九州と五小京の位置
九州
6世紀以来
新羅は一定の領域に
州を設け
その下に
郡・村を置き
州には軍主を
村には道使を派遣し
在地の有力者を
村主に任命し
地方を掌握する
州郡制
地方統治
三国統一
7世紀後半から
村を県に改めて
州・郡・県
とする支配方法
(日本の国・郡・里制に相当)
州には都督
郡には郡太守
県には県令
を中央から派遣
州・郡に対しては
外司正=検察官を別途派遣
第31代
「神文王」
687年
九州が完成
州治が地方統治の拠点となり
旧三国のそれぞれを
三州とし
三国の統一を改めた
↓↑
統一後
首都・金城の
京都駅(都亭駅)を起点とし
五通
主要街道が整備
北海通(北側)
塩池通(西側)
東海通(東側)
海南通(南西側)
北徭通(北西側)
↓↑
4世紀後半~6世紀前半
慶州新羅古墳から
金冠その他の金製品
西方系のガラス器
が出土
6世紀前半以前
の新羅出土のガラス器に
ローマ系統の技法のものが多い
ガラス工芸史の研究者の
由水常雄は
新羅は北方の遊牧民経由で
ローマ帝国の文化を受け入れていた
古代国家である・・・と唱えた
新羅は中国文化よりも
北方の遊牧騎馬民族(匈奴・鮮卑など)
の影響が強かった
5世紀後半~6世紀半ばに
前方後円墳の築造が盛んになり
勾玉等の装飾品と共に
日本から人・文化が流入
↓↑
斯羅國
本東夷
辰韓
之
小國也。
魏時 曰 新羅
宋時 曰 斯羅
其實 一也。
或屬 韓
或屬 倭
國王 不能 自通使聘。
普通二年
其王名募秦
始 使 隨 百濟 奉表献方物。
其國
有城
號曰 健年。
其俗 與 高麗相類。
無 文字
刻 木 為範
言語 待 百濟而 後通焉
↓↑
斯羅國は元は東夷の辰韓の小国
魏の時代では新羅
劉宋の時代には斯羅
というが同一の国
或るとき
韓に属し
あるときは
倭に属したため
国王は使者を派遣できなかった。
普通二年(521年)
募秦王(法興王)が
百済に随伴して初めて朝貢した。
斯羅国には
健年城という城があり
習俗は高麗(高句麗)と類似し
文字はなく
木を刻んで範とした(木簡)。
百済の通訳で
梁と会話を行った。
・・・
当時の新羅には文字が無かった
↓↑
『三国遺事』
『三国史記』
仏教は胡人の僧侶の手により
新羅と高句麗にもたらされた
↓↑
新羅は528年
法興王14年に仏教を公認
↓↑
仏教
高句麗へは
372年(小獣林王2年)に伝来
百済へは
384年(枕流王元年)に伝来
日本へは538年(戊午年、宣化天皇3年)に伝来
・・・ 552年・・・?
↓↑
新羅の僧侶
元暁(617年~686年)
義湘
↓↑
576年(新羅真興王37)
安弘法師が
南朝 陳より
胡僧の
吡摩羅等と帰国
627年(新羅真興王49)
新羅僧 慧超など3名インド入国
719~727年
新羅僧 慧超が
南海経由で
五天竺訪問 長安に帰国する
↓↑
遺跡
迎日冷水碑 6世紀初頭の智証麻立干時代の碑石
蔚珍鳳坪碑 6世紀初頭の法興王時代の碑石
中原高句麗碑 高句麗の碑石
高句麗と新羅との関係を
兄弟になぞらえ
高句麗を「大王」
新羅王を「東夷之寐錦」
↓↑
好太王碑=高句麗の碑石
慶州の古墳群
赤城碑 忠清北道丹陽郡丹陽面の石碑
新羅の伊史夫智らの高官名と官位
真興王が赤城の民を慰撫した記録
真興王拓境碑
昌寧碑 慶尚南道昌寧郡にある
真興王23年(562年)
大伽耶(高霊加羅)討伐に先立ち
前年の561年の会盟を記念し建立
北漢山 新羅 真興王 巡狩碑
黃草嶺碑 真興王29年(568年)建立
磨雲嶺碑
ー↓↑ー--
ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ
スターリン(ジュガシヴィリ)
(Iosif Vissarionovich Stalin)
1878年12月21日
~
1953年3月5日
大運1944年1月(65歳)辛未偏印
戊 寅(己丙甲)正官・傷官沐浴⇔癸巳比肩
甲┏子(壬 癸)傷官・比肩建禄⇔甲寅傷官
┏癸 酉(庚 辛) ・偏印 病⇔乙卯食神
┗戊┗午(丙 丁)正官・偏官 絶⇔壬午劫財
戌亥空亡 斗宿 房宿
ー↓↑ー--
Paul Mauriat♪モスクワの夜は更けて
Midnight In Moscow
https://www.youtube.com/watch?v=i1Kp87UKXo0
ー↓↑ー--
マクシム・ゴーリキー
(Макси м Го рький
Горькій)
1868年3月28日(ユリウス暦3月16日)
~
1936年6月18日
大運1930年7月(62歳)壬戌劫財
戊辰(乙癸戊)正官・正官 養⇔丙子
害
乙卯(甲 乙)食神・食神長生⇔甲午
┏癸丑(癸辛己) ・偏官冠帯⇔辛未
┗戊午(丙 丁)正官・偏財 絶⇔甲午
寅卯空亡 参宿
ニジニ・ノヴゴロド
(ニジニノブゴロド・ニジニーノブゴロド)
出身
ロシアの作家
本名
アレクセイ・マクシーモヴィチ・ペシコフ
ニコライ・ゴーゴリ
の小説
『外套』・・・?・・・ぬすまれちゃった・・・
ー----
↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
+
(表紙・画像・音楽)」の
移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/8
↓↑
干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
↓↑
追加添文
「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB