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コジキジゲン

広告会社デン通のドン」? 口利き屋、仲介屋、プロの手配師「T」の逮捕・・・

2022-08-30 22:38:59 | 古事記字源

モスクワの夜も更けて・・・暗い国に「笑顔」はナイ・・・

 「蜘蛛の巣」と「蜻蛉」の季節・・・


 紫陽花の色が灰色がかって燻(くす・煤)んできた・・・くすむ?
 ↓↑
 燻(いぶ)す
 燻(くす)ぶる
 燻(くす)べる
 燻(くゆ)らす
 燻(ふす)べる
 燻(や)く
 煤(すす)=煤煙・油煙
 煤(すす)ける・煤で汚れて黒くなる
 燻(や)く
 燻=火+熏
   火+丿+一+丷+丨+灬
   熏
 煤(すす)=煤煙・油煙
 煤(すす)ける・煤で汚れて黒くなる
 煤=火+某
   火+甘+木
 ↓↑
 媒=女+某
   女+甘+木
   バイ
   なかだち
   仲介・間に入って関係をとりもつ
   なこうど=仲介人・関係をとりもつ人
   おとり・誘い寄せる働きをするもの
   ↓↑
   某+α
   湈・㖼・楳・煤
   腜・禖・䗋・䤂
   ↓↑
   謀=ボウ・ム・はかる
     策謀・謀議
     間諜・防諜
 ↓↑
 媒(なかだち)=二者の間をとりもち人
 記憶媒体=情報装置・記録装置
 触媒=それ自身は変化しないが
    それを加えることで
    反応の速度を変える性質のある物質
   「水=酸素+水素=H₂O」の
    電気分解での
   「鉛(Pb)=青白色の軟らかい金属」
    なまり=訛り・鈍り・吪・譌
 仲立ち・媒(なかだち)
 媒介
 媒材=媒介となる材料。絵の具を溶くための材料。
 媒質=物理的作用を他の場所に伝える仲介となる物
 ↓↑
 紅葉良媒
  紅葉が仲人の役割をするということ
  男女の不思議な因縁
  「良媒」=すぐれた仲人
  唐の時代
  書生の
  于裕は宮廷を流れている小川の下流で
  詩の書かれた紅葉を見つけ
  于裕もその小川の上流から
  詩を書いた紅葉を流すと
  宮女の
  韓夫人がそれを拾い
  それが縁で結婚した
 ↓↑
 楳=梅・・・梅園=水戸茨木の「偕楽園」
       梅里=徳川光圀=水戸黄門
       改名 長丸・千代松・徳亮・光国・光圀
       別名 子龍
       字  観之
       号  梅里・日新斎・常山人
          率然子・西山
       諡  義公
       神号 高譲味道根之命
      「大日本史」の編纂
 ↓↑
 媛蹈鞴五十鈴媛命
 初代天皇后
 在位
 神武天皇元年1月1日
 ~
 神武天皇76年3月11日
 皇后  神武天皇元年1月1日
 皇太后 綏靖天皇元年1月8日
 諱
  媛 蹈鞴 五十鈴 媛
 (ひめたたらいすず ひめ)(日本書紀)
        鈴=金+令=レイ・リン
  比売多多良伊須気余理比売
 (ひめたたらいすけより ひめ)(古事記)
  秘めた盥  数懸余理 鳹=今+鳥
     円盤の数理の余り  近 長
     円の直径に対する
     円周の長さの
     比率
     π=pie=円周率=3.14159
 ↓↑ 
 別称
  富登多多良伊須須岐比売
 (ほとたたらい すすきひめ)(古事記)
         濯 ぎ・雪ぎ・漱ぎ・鈴木
         煤 気・薄木   
 ↓↑
 父   大物主神=事代主神
 母   勢夜陀多良比売=玉櫛媛
 配偶者 神武天皇
     手研耳命
 結婚  神武天皇即位前年9月24日
 子女  日子八井命
     神八井耳命
     綏靖天皇
 ↓↑
 八月も終わりに近づいてきた・・・残り、九、十、十一、十二月の四ヶ月
 毎日のニュース、ユーチューブ(youtube)で
 ウクライナとプーチンの侵略破壊の情勢と
 日本政治屋と「統一」との関係の是非・・・
 「にほん人」ってツクヅク・・・イイ人たちが多い・・・
 素直に騙されても
 他人をアクドク騙そうとはしないヒトビト・・・善人・・・
 みんな
 アマチヤァのスポーツマンシップの「観客にほん人」・・・
 電通・・・広告会社・・・「電通のドン」・・・?
 口利き屋、さすがプロの手配師「T」・・・の逮捕・・・
ー↓↑ー--
 統一新羅=新羅+百濟+高句麗・・・統一半島?
 統一日本=「倭+新羅+百濟+高句麗」+「唐」・・・統一島国?
 ↓↑
 新羅=シラ義=シラ期
 ↓↑
 第37代
 「宣徳王」
 782年閏正月
 唐に対して朝貢
 渤海に備え、北方面の守備に努め
 781年7月
 浿江(大同江)以南の地に使者を送って安撫
 782年2月
 漢山州(京畿道広州市)の住民を
 浿江鎮(黄海北道平山郡・金川郡)
 へ移住させた
 在位6年目
 785年正月
 唐の徳宗から
 検校太尉・鶏林州刺史・寧海軍使・新羅王
 に冊封
 病に倒れてそのまま
 正月13日に死去
 ↓↑
 第38代
 「元聖王」
 即位後(785年2月)
 自祖先への追封
 五廟を再整備
 788年
 官吏登用の制度として
 科挙に類似する
 「読書三品」を定めたように
 儒教的・律令体制的な政策
 律令体制の下で貢納された
 租粟を振舞って民の救済を行った
 恵恭王の末年以来
 政治的混乱の収拾に努めた
 788年秋
 国の西部で盗賊が現われ
 791年
 元の侍中の
 「悌恭」
 が反乱を起こし
 誅殺
 ↓↑
 786年
 唐に使者を派遣して貢納
 徳宗からは
 新羅の長年の忠勤を慰撫する詔書
 宣徳王に与えられた官爵
 検校太尉・鶏林州刺史・寧海軍使・新羅王
 をそのまま引き継いだ
 ↓↑
 第40代
 哀荘王
 (在位800年~809年)
 801年10月
 耽羅国(済州島)
 からの朝貢
 耽羅国
 文武王十九年(679年)
 新羅に隷属していたが
 後に独立
 ↓↑
 802年
 順応・利貞
 らの高僧に命じて
 伽耶山に
 海印寺(慶尚南道陜川郡伽耶面)
 を創建
 ↓↑
 803年
 日本とも国交が再開
 『三国史記』新羅本紀
 哀荘王の四年(803年)7月
 「国交を開き通好」
 五年(804年)五月
 「日本から黄金三百両が進上」
 七年(806年)三月
 「日本からの使者を朝元殿で引見」
 九年(808年)二月
 「日本国の使者を厚くもてなす」
 『日本後紀』
 延暦二十三年(804年)九月己丑条
 「大伴宿禰岑万里を新羅に遣わした」
 ↓↑
 805年
 唐で
 「順宗」即位
 「哀荘王」
 も冊封され
 開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督
 鶏林州諸軍事・鶏林州刺史・兼持節充寧海軍使
 上柱国・新羅王
 と官爵を進められた
 ↓↑
 809年7月
 摂政の
 金彦昇(憲徳王)
 が
 伊飡(2等官)の
 「悌邕(ていよう)」
 とともに反乱
 「哀荘王」は弟の
 「体明侍衛」とともに殺害された
 元和四年(809年)七月十九日
 王の叔父の
 「憲徳」
 「興徳」
 の2人によって殺害された
  ↓↑
 「憲徳王」は即位
 唐に使者を派遣
 憲宗からは
 開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督
 鶏林州諸軍事・兼持節充寧海軍使
 上柱国・新羅王〉
 に冊封
 唐に対して
 810年10月
 王子
 「金憲章」
 を送って金銀製の仏像などを献上し
 定期的に朝貢を行った
 819年7月
 唐の鄆州(山東省済寧市)で
 「李師道」
 が反乱
 兵馬を徴発する
 「憲宗」の詔勅に応え
 将軍
 「金雄元」
 ら3万の援軍兵を派遣
 ↓↑
 812年9月
 渤海へ使者を派遣
 「宣王大仁秀」
 が即位
 826年7月
 漢山州(京畿道広州市)
 以北の州・郡から1万人を徴発して
 浿江(大同江)沿いに
 300里の長城を築いて
 渤海の南下を食い止める備えとした
 ↓↑
 飢饉と地方豪族の反乱
 816年
 浙江省東部へ流入した民
 170人
 ↓↑
 819年3月
 各地の賊徒がいっせいに蜂起
 諸州の都督や太守に命じて鎮圧
 ↓↑
 日本への賊徒侵攻
 弘仁新羅の乱
 新羅の国内情勢が悪化
 新羅人は
 日本へ亡命
 賊化した新羅人が度々
 日本を襲撃
 ↓↑
 弘仁二年(811年)十二月六日
 新羅船三艘が
 対馬島に現れ
 1艘が
 下県郡の佐須浦に着岸
 船に10人ほど乗っており
 他の2艘は闇夜に流れた
 十二月七日未明
 灯火をともし
 相連なった20余艘の船が姿を現した
 賊船と判明
 先に着岸した者のうち
 5人を殺害
 5人は逃走
 うち
 4人は後日補足
 島の兵庫を衛り
 軍士に動員をかけ
 新羅(朝鮮半島方面)を望み見ると
 毎夜数箇所で火光が見えると大宰府に報告
 大宰府は通訳と軍毅を対馬へ派遣
 要害の警備につくすべき事を
 大宰府管内
 長門・石見・出雲
 等の国に通知
 弘仁四年(813年)二月二十九日
 肥前
 五島・小近島(小値賀島)に
 新羅人110人が五艘の船に乗り上陸
 島民100余人を殺害
 島民は新羅人9人を打ち殺し101人を捕虜
 4月7日
 新羅人一清
 清漢巴
 らが日本より新羅へ帰国
 と大宰府より報告
 新羅人らを訊問し
 帰国を願う者は許可
 帰化を願う者は
 慣例により処置せよと指示
 事後の対策
 通訳を対馬に置き
 商人や漂流者
 帰化・難民になりすまして
 毎年のように
 来寇する新羅人集団を尋問できるようにし
 承和二年(835年)
 防人を330人に増強
 承和五年(838年)
 796年以来絶えていた
 「弩師(どし)」
 を復活させ、壱岐に配備
 弘仁五年(814年)
 化来した新羅人
 加羅布古伊
 等6人を美濃国に配す
 ↓↑
 弘仁十一年(820年)
 日本国内の
 遠江・駿河両国に移配した
 新羅人在留民700人が反乱(弘仁新羅の乱)
 その殆どが処刑、鎮圧
 天長元年(824年)
 新羅人
 「辛良・金貴賀・良水白」
 等54人を陸奥国に安置
 法により復を給し
 乗田を口分田に充てる
 ↓↑
 822年3月
 武珍州(全羅南道、光州広域市)
 菁州(慶尚南道晋州市)
 熊川州(忠清南道公州市)
 の都督職を歴任した
 「金憲昌」が反乱
 熊津(公州市)を都として
 「長安国」
 と号
 支配領域は
 武珍州・菁州・熊川州
 完山州(全羅北道全州市)
 沙伐州(慶尚北道尚州市)
 の五州及び
 国原(忠清北道忠州市)
 西原(忠清北道清州市)
 金官(慶尚南道金海市)
 の三小京に及んだように
 旧百済の領域を中心とし
 国土の大半が
 「金憲昌」
 を支持
 王権に対抗する姿勢をとった
 「金憲昌の反乱」
 は1ヶ月ほどで鎮圧
 鎮圧に活躍した討伐軍は
 貴族の私兵と花郎集団で
 律令体制の下での兵制は
 有名無実化

 825年1月
 「金憲昌」の子
 「金梵文」
 が高達山(京畿道驪州郡)を根拠として反乱
 北漢山州(京畿道広州市)の都督によって鎮圧
 ↓↑
 826年10月
 「憲徳王」死去
 ↓↑
 第42代
 王興徳王
 唐の文宗からは
 開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督
 鶏林州諸軍事・兼持節充寧海軍使・新羅王
 に冊封されて以降
 唐への朝貢を続けて文物の招来に努め
 827年
 唐に入った旧高句麗系の僧の
 「丘徳」
 は経典を持ち帰った
 828年
 帰国した「金大廉」が茶を持ち帰り
 新羅での喫茶が盛んになった
 827年
 漢山州(京畿道広州市)
 瓢川県
 から速富の術(すぐに富貴になれる方法)
 という信仰が流行り出す
 政府は教祖を遠島へ流刑
 ↓↑
 832年
 春夏の旱魃
 7月の大雨で凶作
 餓えた民衆が盗賊となって蜂起
 10月
 各地に使者を派遣して慰撫
 833年
 凶作で民が飢餓
 834年10月
 王自らが巡幸して
 民に穀物を分け与え
 民心の安定を図ろうとした
 834年
 身分の上下に応じて
 色服・車騎・器物・家屋
 などの区別を厳然とさせて
 違反者には刑罰を用いるとする教書を発布
 奢侈を禁じるとともに
 王都の住民に対する身分序列を明確化
 教書の中で規定された身分序列
 「真骨・六頭品・五頭品
  四頭品・平人のそれぞれ男女」
 7世紀中葉に成立していた
 王族を中心とする身分序列である
 「骨制度(聖骨・真骨)」に対して
 「頭品制度」とされる
 骨制度・頭品制度をあわせて
 新羅の骨品制度という。
 ↓↑
 承和三年(836年)
 日本が遣唐使を久しぶりに派遣を決定した際
 遣唐使船が難破した場合の保護を
 新羅に要求
 新羅側執事省は
 使者
 「紀三津(きのみつ)」
 を問い詰め
 「小人の荒迫(こうはく)の罪を恕し
  大国の寛弘の理を申す」
 との蝶を日本へ送った
 「小人」とは使者紀三津
 「大国」は新羅自身を指す
 ↓↑
 承和九年(845年)
 日本は外交方針を変換
 太宰大弐
 「藤原衛(ふじわらのまもる)」
 は新羅人の越境禁止を進言
 以後、帰化を申請する場合でも
 漂着民に食料衣服を与えて
 追い返せとした
 『貞観格(ジョウカンカク)』
 以後の
 対新羅外交の基本方針になった
 ↓↑
 「張保皐」のもとに集結した
 「金祐徴」らの一派は
 838年3月に軍事活動を起こし
 祐徴派の「金陽」が
 武州(光州広域市)を下し
 南原小京(全羅北道南原市)を陥落
 12月
 「金陽」が武州鉄冶県(全羅南道羅州市)
 まで軍を進め
 新羅王
 「閔哀王」
 は
 「金敏周」を派遣して迎撃
 「金陽軍」に壊滅
 839年1月19日
 金陽軍が
 達伐(大邱広域市)
 にまで及び
 王は禁軍を用いて防戦に努めたがかなわず
 兵の半数以上が戦死
 この敗戦を聞いた王の側近は皆逃げ
 王も殺害された
 「祐徴」は王の儀礼を以て
 「閔哀王」の屍を埋葬
 古礼に則って即位式を執り行い
 王位を継承し
 「神武王」
 として即位
 しかし
 「神武王」は病で同年、死亡
 子の
 「文聖王」
 政権交代に役のあった
 「張保皐」
 に官位を与えるが
 「張保皐」
 は不満を持ち
 846年
 清海鎮(全羅南道莞島)で反乱
 王軍は「張保皐」を暗殺
 ↓↑
 第48代
 「景文王」
 862年7月
 唐に使者を派遣、土産物を貢納
 864年4月
 日本からも国使を迎えた
 日本側の史書には対応する記事はない
 865年4月
 「懿宗」
 開府儀同三司・検校太尉・使持節
 大都督鶏林州諸軍事・上柱国・新羅王
 に冊封
 869年7月
 王子の
 「金胤」
 らを唐に派遣
 馬二匹・砂金百両・銀二百両、様々の進奉
 870年2月
 には沙飡(8等官)の
 「金因」
 を唐に宿衛
 874年
 「僖宗」
 からの
 「宣諭使」
 を受けた
 ↓↑
 866年10月
 伊飡(2等官)の
 「允興」
 がその弟の
 「叔興」
 「季興」
 とともに反逆を謀った
 発覚して
 「允興」
 らは
 岱山郡(慶尚北道星州郡)に逃走
 捕縛されて斬刑
 一族が誅滅
 ↓↑
 867年5月
 王都
 「金城(慶尚北道慶州市)」
 で疫病が流行
 8月
 洪水
 地方各地で飢饉
 868年1月
 伊飡の
 「金鋭」
 「金鉉」
 らが反乱し、誅殺された
 870年
 王都が地震・洪水
 冬には再び疫病が流行
 873年
 飢餓と疫病
 王は民に穀物を与えて救済した
 874年5月
 伊飡の
 「近宗」が反乱して宮中まで至り
  王は近衛兵を派遣して撃破
  近宗一味を捕らえて
  車裂きの刑にした
 875年7月8日
 景文王死去
 ↓↑
 日本への賊徒侵攻
 貞観八年(866年)
 肥前
 基肄郡
 擬大領
 山春永
 藤津郡領
 葛津貞津
 高来郡
 擬大領
 大刀主
 彼杵郡住人
 「永岡藤津」
 らが、新羅人と共謀
 対馬攻撃の計画発覚
 ↓↑
 貞観十一年(869年)六月
 新羅の海賊
 艦2艘に乗り
 筑前國
 那珂郡(博多)
 荒津に上陸
 豊前の貢調船を襲撃
 年貢の絹綿を掠奪し逃亡
 追跡したが、見失った
 『日本三代実録』
 「鄰國の兵革」
  隣国の新羅の戦争(内戦)
 が背景にあるのではないかと
 卜(うらない)
 貞観十一年(869年)
 五月二十六日
 (ユリウス暦7月9日)
 貞観地震
 肥後地震
 ↓↑
 日本政府は沿海諸郡の警備を固め
 内応の新羅商人
 「潤清」
 ら30人を逮捕し放逐
 新羅に捕縛されていた
 対馬の猟師
 「卜部 乙屎麻呂」
 が現地の被害状況を伝え
 大宰府管内の
 すべての在留新羅人を
 陸奥国などに移し
 口分田を与えて
 帰化させることにした
 新羅は大船を建造し軍事演習
 問えば
 「対馬島を伐ち取らんが為なり(870年2月12日条)」
 と答えた
 現地の史生が
 「新羅国の牒」を入手し
 大宰少弐
 「藤原元利万侶」
 の内応を告発
 ↓↑
 870年2月15日
 弩師や防人の選士50人を対馬に配備
 在地から徴発した兵が役に立たないと
 俘囚
 律令国家に服属した
 「蝦夷」を配備
 国防法令は
 『延喜格(えんぎきゃく)』
 に収められ外交の先例となった

 伊勢神宮、石清水八幡宮、香椎、神功陵
 などに奉幣および告文をささげ
 「わが日本の朝は所謂神明の国也
  神明の護り賜わば
  何の兵寇が近く来るべきや
 (日本は神の国であり
  神の守護によって
  敵国の船は攻め寄せない)」
 と訴えた
 新羅を敵と認識する考えは
 神国思想の発展へとつながっていった
 神功皇后による
 三韓征伐説話もたびたび参照された
 ↓↑
 貞観十二年(870年)九月
 新羅人20人の内
 清倍、鳥昌、南卷、安長、全連
 の5人を
 武蔵国に
 僧香嵩、沙弥傳僧、關解、元昌、卷才
 の5人を
 上総国に
 潤清、果才、甘參、長焉、才長
 眞平、長清、大存、倍陳、連哀
 の10人を
 陸奥国に配する
 ↓↑
 貞観十四年~十九年
 編纂の
 『貞観儀式』追儺儀(ついなのぎ)
 陸奥国以東
 五島列島以西
 土佐国以南
 佐渡国以北
 は、穢れた疫鬼の住処と明記
 対新羅関係が悪化
 天皇の支配する領域の外は
 ケガレの場所
 王土王民思想
 神国思想
 とともに形成
 ↓↑
 憲康王
 (在位875年~+886年)
 876年7月
 唐に朝貢
 878年4月
 僖宗から冊封
 七月
 「黄巣の乱」
 で使者の派遣は中止
 885年10月
 「黄巣の乱」平定され
 祝賀する使者を唐に送った
 ↓↑
 878年8月
 日本からの使者を
 朝元殿で引見
 882年4月
 日本国王が
 黄金300両
 明珠10個とを進上
 『三国史記』新羅本紀は伝えている
 869年
 新羅の海賊船が博多を襲って
 新羅と日本との間には緊張関係
 『日本三代実録』
 元慶四年(880年)条
 新羅の賊が侵入の情報を得た
 日本海沿岸の諸国は厳重な警戒態勢
 ↓↑
 『三国史記』新羅本紀
 「憲康王」の時代は順調
 879年6月
 一吉飡(7等官)
 「信弘」
 が反乱して誅殺
 ↓↑
 日本への賊徒侵攻
 『扶桑略記』
 寛平六年(884年)九月(旧暦)
 新羅船45艘
 対馬を襲撃
 大宰府の奮戦で迎撃して危機を脱した
 捕虜となった
 新羅人の
 「賢春」
 は尋問で
 前年来の不作により
 「人民飢苦」の状態が続き
 新羅では「王城不安」
 答えている
 打開すべく王の命令で
 2500人の軍が大小百艘に分乗、飛帆
 『三国史記』十年に相当するが
 十年の記述は「三国史記」の段階では消失

 886年7月5日
 「憲康王」死去
 続く
 「定康王」の時代
 887年1月
 「金蕘(キンジョウ)」
 が反乱
 ↓↑
 新羅下代の女王
 「真聖女王」
 は
 「三国史記」
 角干(官位)の
 「魏弘」と通じていたが
 即位すると常に入内させて用いていた
 間もなく
 「魏弘」死亡後
 少年美丈夫2~3名を密かに引き入れて姦淫
 彼らに要職を授けて国政を委ね綱紀弛緩
 女王の治世
 国内で反乱が続発
 治世十一年(897年)
 女王は
 「盗賊蜂起、此れ孤の不徳なり」
 と宣言
 「太子」に譲位
 十二月
 女王は金城(慶州)の北宮で死去
  ↓↑
 「真聖女王」時代
 日本への新羅賊徒が侵攻
 893年5月11日
 新羅の賊が
 肥後国
 飽田郡(熊本市)で民家を襲撃放火
 肥前国
 松浦郡
 においても襲撃し逃亡
 寛平六年(894年)
 唐の将軍も交えた
 新羅の船大小100艘に乗った
 2500人にのぼる
 「新羅の賊」の大軍が
 対馬に侵攻
 9月5日の朝
 対馬守
 「文屋善友(ふんやよしとも)」
 は郡司士卒を励まして
 賊徒45艘を
 弩をかまえた数百の軍勢で迎え撃ち
 220人を射殺
 300名を討った
 船11、太刀50、桙1000
 弓胡(やなぐい)各110、盾312
 など莫大な兵器を奪い
 賊ひとりを生け捕った
 捕虜が
 新羅は不作で餓えに苦しみ
 倉も尽きて王城も例外ではなく
 「王、仰せて
  穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」
 と
 全容は大小の船100艘、乗員2500、逃亡将軍は3人
 特に1人の「唐人」が強大、と証言
 翌年
 寛平七年(895年)
 新羅の賊が壱岐を襲撃、官舎を焼いた
 ↓↑
 後三国時代
 農民出身の
 「甄萱」が
 892年
 南西部に後百済
 901年
 新羅王族の
 「弓裔」が
 北部に後高句麗
 新羅の
 「孝恭王」
 は酒色におぼれ
 領土は日増しに削られ
 新羅は滅亡・・・
 ↓↑
 後高句麗の武将
 「王建」
 は
 後百済との戦争で何度も勝利したが
 「弓裔」には嫌われ命を狙われ
 「弓裔」は宮殿を再建し民衆の不満が高まった
 自分を
 「弥勒菩薩」と呼ばせて
 「観心法」で人の心を見ることができると言い
 反対派を粛清
 「王建」は
 「弓裔」の暴政に対して政変を起こし
 「弓裔」を追放し
 918年
 「高麗」
 を興した
 920年
 新羅の
 「景明王」
 「王建」と誼を通じて
 後百済に対抗したが
 924年死亡
 次の
 「景哀王」
 927年
 宴会中
 後百済の
 「甄萱」
 に奇襲を受け、殺された
 「敬順王」は
 「甄萱」により王位に就けられた
 ↓↑
 高麗と後百済の戦争が続き
 935年
 後百済王
 「甄萱」が
 四男に王位を継がせようとすると
 長男の
 「甄神剣(百済の第2代王)」
 が反乱を起こし
 「甄萱」を寺院に監禁し、王位を簒奪
 935年6月
 「甄萱」は後百済から逃亡、高麗に亡命
 「王建」は「甄萱」を国賓として迎えた
 11月
 新羅の
 「敬順王」が君臣を挙げて高麗に帰順
 新羅は滅亡
 ↓↑
 936年
 高麗は後百済を滅し
 朝鮮半島は
 高麗によって統一
 ↓↑
 紀元前後の朝鮮半島
 粛慎、挹婁、沃沮、濊、濊貊
 等、各諸民族の混在地域
 百済・高句麗
 等の
 扶余系民族も国内に抱えていた
 ↓↑
 初代
 「赫居世(ヒョッコセ)居西干」は「朴」
 4代
 「脱解(タレ)尼師今」は「昔」
 13代
 「味鄒尼師今」は「金」
 朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系が
 始祖説話を持っている
 13代
 「金味鄒」は
 「金閼智」の子孫とされているが
 後になって
 「金閼智」の子孫を称する一族が
 金氏王統となり
 統一新羅王朝に於ける唯一の王族となった
  ↓↑
 「新撰姓氏録」
 初代王
 赫居世(朴氏)は
 「神武天皇」の兄
 「稲氷命」
 の後裔であると記録
 「古事記」「日本書紀」
 などには
 新羅の王子
 「天日槍(アマノヒボコ)」
 が但馬の国にやってきて
 「豊岡」に住んだと伝承
 「天日槍」が建立の
 若狭の新羅神社には
 「天日槍」
 が父の国を探し
 日本に帰ってきたことが記録
 四代
 「脱解尼師今(昔氏)」
 の出身地は
 「多婆那国」
 とされ、丹波・但馬とする・・・説
  ↓↑
 「三国史記」
 「法興王」の時代
 521年
 中国南朝の
 梁に使を遣わした
 新羅王は
 姓は募
 名は秦
 と伝えられる
 564年
 新羅王
 「金真興」
 北斉の鄴に使を派遣
 「募」=姓は「慕韓」=「馬韓」
 532年
 金官国の王
 「仇衡王(金仇亥)」
 を降し
 536年
 初めて元号を立て
 「建元元年」
 545年
 初めての国史を編纂
 554年
 百済の
 「聖王」
 を管山の戦いで殺し
 562年
 加耶国を征服
 任那を併合
 統一新羅王朝末期
 52代
 「孝恭王」
 に子がいなかったので
 「朴景暉」
 が推戴されて
 王位を継承(53代神徳王)
 55代
 「景哀王」
 までの3代は
 「朴氏」王統
 新羅最後の王(第56代)
 「敬順王」
 の姓は
 「金氏」
 であり
 新羅は王位が
 「金氏王統」
 に戻ってから間も無く滅亡
 ↓↑
 新羅の王(君主)を表す称号としては
 『三国史記』
 「居西干(コソガン)」
 「次次雄(チャチャウン)」
 「尼師今(イサグム)」
 「麻立干(マリッカン)」
 の固有語由来の表記
 第22代
 「智証麻立干」の代で
 王号を「王」に定め
 諡の制度が始まった・・・
 「中原 高句麗碑文」
 『日本書紀』
 には
 「寐錦」
  ↓↑
 「蔚珍鳳坪碑文」
  には
 「寐錦王」
  ↓↑
 「迎日冷水碑文」
 には
 「葛文王」
 『太平御覧』
 引用の
 『秦書』に
 「楼寒(麻立干)」
 に相当する・・・
 ↓↑
 六部
 建国神話に現れる辰韓の六村は
 新羅六部であり
 王都「金城(慶州市)」に居住
 自立的な政治的集団として存在
 王都外部に対しては
 「王京人」
 として結束し優位性を保ち続けた
 新羅が六部の優位性を維持するために
 元来は六部の内部的な身分制度が拡大し
 「骨品制」
 が成立
 六部の名には
 高句麗の五部と類似
 六部の勢力は均等でない
 六部のうち三部は
 それぞれ神話上の
 3つの王家
 「朴氏・昔氏・金氏」
 と関係が深い
 第3代
 「儒理尼師今」9年(32年)に
 元の六村に対し
 部名を改めるとともに
 姓を下賜した
 『三国史記』
 と
 『三国遺事』
 との間でも伝える内容が異なっており
 姓の表記については
 高麗の前半期に整備されて付加された・・・
 ↓↑
 政治機構
 「骨品制」=官位制度
  ↓↑
 『三国史記』新羅本紀
 建国当初
 「大輔」という官名が最高位
 第3代
 「儒理尼師今」の9年(32年)
 17階級の官位(京位)が制定
 枠外の官位
 第23代
 「法興王」の18年(531年)
 宰相=「上大等(上臣)」
 三国統一に功績のあった
 「金庾信」
 を遇するものとして
 第29代
 「武烈王(金春秋、キム・チュンチュ)」
 7年(660年)
 百済を滅ぼす
 「伊伐飡(角干)」
 の更に上に
 「大角干(大舒発翰)」
 「武烈王」の息子の
 第30代
 「文武王(金法敏)」の8年(668年)
 高句麗を滅ぼす
 「太大角干(太大舒発翰)」
 の位が設置
 ↓↑
 新羅王が新たに即位すると
 直ちに最高官位の
 「上大等(大輔・舒弗邯)
 が任命され
 その王代を通じて権力の頂点にたつ
 貴族連合政治体制の要
 三国統一後
 「上大等」が任命された
 「真徳女王」
 の代になって
 651年
 国家機密を掌握する執事部が設けられ
 長官の中侍が
 「上大等」に代わって政治体制の要となった

 「京位」
 首都金城に居住する
 六部のための身分体系
 地方に移り住んだものに対しては
 「外位」
 という別途の身分体系を併せ持っていた
 百済・高句麗を滅ぼした後
 両国の遺民を取り込み
 唐に対抗していくため
 「京位・外位」
 の二本立ての身分制度を再編
 673年
 百済から帰属してきた者のうち
 百済の2等官の
 「達率」の場合には
 金城に移住した者に対しては
 「京位10等」の
 「大奈麻」に当て
 地方に留まった者には
 「外位4等」の
 「貴干」を当てた
 ↓↑
 674年
 外位を廃止
 京位に一本化
 唐との戦闘を終え
 684年
 報徳国を滅ぼし
 半島内の混乱を収拾した後
 686年
 高句麗人に対しても官位(京位)を授けた
 高句麗の3等官の
 「主簿」に対して
 「京位7等」の
 「吉飡」を当てた
 百済・高句麗両国の
 官位体系の序列を格下げし
 新羅の身分体系に組み入れ
 三国独自の身分体系が
 新羅の政治秩序のもと
 一本化、統一国家としての内実を整えた
 ↓↑
 骨品 外位 等級 京位 読み(日本語/朝鮮語[115])
 真骨
 伊伐飡
 伊罰干(イボルガン)
 于伐飡(ウボルチャン)
 角干(カッカン)
 角飡(カッチャン)
 舒発翰(ソバルハン)
 舒弗邯(ソブルハン)
 伊尺飡(イチョッチャン)
 伊飡(イチャン)
 迊飡(チャプチャン)
 迊判(チャッパン)
 蘇判(ソパン)
 波珍飡(パジンチャン)
 海干(ヘガン)
 破弥干(パミガン)
 大阿飡(テアチャン)・・・ナゼ、「阿」?
 大阿飡以上の官位は
 真骨だけが任じられ
 他の宗族は任命されない
 六頭品
 阿飡(アチャン)
 阿尺干(アチョッカン)
 重阿飡(チュンアチャン)
 四重阿飡(サジュンアチャン)
 嶽干
 一吉飡(イルギルチャン)
 乙吉干(ウルギルガン)
 述干
 沙飡(サチャン)
 薩飡(チャルチャン)
 沙咄干(サトゥルガン)
 高干
 級伐飡(クッポルチャン)
 級飡(クプチャン)
 及伏干(クッポッカン)
 五頭品
 貴干
 大奈麻(テナマ)
 大奈末(テナマル)
 重奈麻(チュンナマ)
 九重奈麻(クジュンナマ)
 までの9階層
 選干
 奈麻(ナマ)・・・・・・・マナの逆「マナ=真名=漢字」・・・
 奈末(ナマル)・・・・・・訛(なま)る?
 重奈麻(チュンナマ)・・・重なる「名真」
 から
 七重奈麻(チルチュンナマ)
 までの7階層
 四頭品
 上干
 大舎(テサ)
 韓舎(ハンサ)
 干
 舎知(サジ)
 小舎(ソサ)
 一伐
 吉士(キルサ)
 稽知(ケジ)
 吉次(キルチャ)
 一尺
 大烏(テオ)
 大烏知(テオジ)
 彼日(ピイル)
 小烏(ソオ)
 小烏知(ソオジ)
 阿尺
 造位(チョウィ)
 先沮知(ソンジョジ)
 ↓↑
 地方行政区分
 九州と五小京の位置
 九州
 6世紀以来
 新羅は一定の領域に
 州を設け
 その下に
 郡・村を置き
 州には軍主を
 村には道使を派遣し
 在地の有力者を
 村主に任命し
 地方を掌握する
 州郡制
 地方統治
 三国統一
 7世紀後半から
 村を県に改めて
 州・郡・県
 とする支配方法
 (日本の国・郡・里制に相当)
 州には都督
 郡には郡太守
 県には県令
 を中央から派遣
 州・郡に対しては
 外司正=検察官を別途派遣
 第31代
 「神文王」
 687年
 九州が完成
 州治が地方統治の拠点となり
 旧三国のそれぞれを
 三州とし
 三国の統一を改めた
 ↓↑
 統一後
 首都・金城の
 京都駅(都亭駅)を起点とし
 五通
 主要街道が整備
 北海通(北側)
 塩池通(西側)
 東海通(東側)
 海南通(南西側)
 北徭通(北西側)
 ↓↑
 4世紀後半~6世紀前半
 慶州新羅古墳から
 金冠その他の金製品
 西方系のガラス器
 が出土
 6世紀前半以前
 の新羅出土のガラス器に
 ローマ系統の技法のものが多い
 ガラス工芸史の研究者の
 由水常雄は
 新羅は北方の遊牧民経由で
 ローマ帝国の文化を受け入れていた
 古代国家である・・・と唱えた
 新羅は中国文化よりも
 北方の遊牧騎馬民族(匈奴・鮮卑など)
 の影響が強かった
 5世紀後半~6世紀半ばに
 前方後円墳の築造が盛んになり
 勾玉等の装飾品と共に
 日本から人・文化が流入
 ↓↑
 斯羅國
 本東夷
 辰韓
 之
 小國也。
 魏時 曰 新羅
 宋時 曰 斯羅
 其實 一也。
 或屬 韓
 或屬 倭
 國王 不能 自通使聘。
 普通二年
 其王名募秦
 始 使 隨 百濟 奉表献方物。
 其國
 有城
 號曰 健年。
 其俗 與 高麗相類。
 無 文字
 刻 木 為範
 言語 待 百濟而 後通焉
 ↓↑
 斯羅國は元は東夷の辰韓の小国
 魏の時代では新羅
 劉宋の時代には斯羅
 というが同一の国
 或るとき
 韓に属し
 あるときは
 倭に属したため
 国王は使者を派遣できなかった。
 普通二年(521年)
 募秦王(法興王)が
 百済に随伴して初めて朝貢した。
 斯羅国には
 健年城という城があり
 習俗は高麗(高句麗)と類似し
 文字はなく
 木を刻んで範とした(木簡)。
 百済の通訳で
 梁と会話を行った。
 ・・・
 当時の新羅には文字が無かった
  ↓↑
 『三国遺事』
 『三国史記』
 仏教は胡人の僧侶の手により
 新羅と高句麗にもたらされた
 ↓↑
 新羅は528年
 法興王14年に仏教を公認
 ↓↑
 仏教
 高句麗へは
 372年(小獣林王2年)に伝来
 百済へは
 384年(枕流王元年)に伝来
 日本へは538年(戊午年、宣化天皇3年)に伝来
 ・・・ 552年・・・?
 ↓↑
 新羅の僧侶
 元暁(617年~686年)
 義湘
 ↓↑
 576年(新羅真興王37)
  安弘法師が
  南朝 陳より
  胡僧の
  吡摩羅等と帰国
 627年(新羅真興王49)
  新羅僧 慧超など3名インド入国
 719~727年
  新羅僧 慧超が
  南海経由で
  五天竺訪問 長安に帰国する
 ↓↑
 遺跡
 迎日冷水碑  6世紀初頭の智証麻立干時代の碑石
 蔚珍鳳坪碑  6世紀初頭の法興王時代の碑石
 中原高句麗碑 高句麗の碑石
 高句麗と新羅との関係を
 兄弟になぞらえ
 高句麗を「大王」
 新羅王を「東夷之寐錦」
 ↓↑
 好太王碑=高句麗の碑石
 慶州の古墳群
 赤城碑 忠清北道丹陽郡丹陽面の石碑
     新羅の伊史夫智らの高官名と官位
     真興王が赤城の民を慰撫した記録
 真興王拓境碑
 昌寧碑 慶尚南道昌寧郡にある
 真興王23年(562年)
 大伽耶(高霊加羅)討伐に先立ち
 前年の561年の会盟を記念し建立
 北漢山 新羅 真興王 巡狩碑
 黃草嶺碑 真興王29年(568年)建立
 磨雲嶺碑
ー↓↑ー--
 ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ
 スターリン(ジュガシヴィリ)
 (Iosif Vissarionovich Stalin)
 1878年12月21日
 ~
 1953年3月5日

      大運1944年1月(65歳)辛未偏印
 戊 寅(己丙甲)正官・傷官沐浴⇔癸巳比肩
 甲┏子(壬 癸)傷官・比肩建禄⇔甲寅傷官
┏癸 酉(庚 辛)  ・偏印 病⇔乙卯食神
┗戊┗午(丙 丁)正官・偏官 絶⇔壬午劫財
   戌亥空亡 斗宿 房宿
ー↓↑ー--
 Paul Mauriat♪モスクワの夜は更けて
 Midnight In Moscow
https://www.youtube.com/watch?v=i1Kp87UKXo0


ー↓↑ー--
 マクシム・ゴーリキー
 (Макси м Го рький
  Горькій)
 1868年3月28日(ユリウス暦3月16日)
 ~
 1936年6月18日
       大運1930年7月(62歳)壬戌劫財
   戊辰(乙癸戊)正官・正官 養⇔丙子
    害
   乙卯(甲 乙)食神・食神長生⇔甲午
  ┏癸丑(癸辛己)  ・偏官冠帯⇔辛未
  ┗戊午(丙 丁)正官・偏財 絶⇔甲午
    寅卯空亡 参宿
  ニジニ・ノヴゴロド
 (ニジニノブゴロド・ニジニーノブゴロド)
  出身
 ロシアの作家
 本名
 アレクセイ・マクシーモヴィチ・ペシコフ
 ニコライ・ゴーゴリ
 の小説
 『外套』・・・?・・・ぬすまれちゃった・・・
ー----
  ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/8
 ↓↑
 干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB
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一発の弾丸の「ロシアンルーレット」・・・

2022-08-28 22:20:02 | 古事記字源

 前回の「シラない」のツヅキ・・・

 「ロシアンルーレット」
 「THE DEER HUNTER CAVATINA」
https://www.youtube.com/watch?v=bMC6PDujY30



https://www.youtube.com/watch?v=bMC6PDujY30


 「Cavatina from the Deer Hunter」
 イタリア語で「楽器が奏でる音色」を意味する
 「カヴァータ(cavata)」の縮小形
     ・・・椛(樺・架場)阿知意名・・・「樺太(からふと)」?
            河馬=hippopotamus =海馬
               ヒポクラテス(ヒッポクラテース)
        古代ギリシア語(Ἱπποκράτης、・Hippocrates )
         紀元前460年ごろ ~紀元前370年ごろ
        古代ギリシアの医者
        エーゲ海に面した
        イオニア地方南端の
        コス島に生まれ
        祖先=アスクレピス・・・「明日呉れ泌素」?
        病気=自然と肉体の関係性から発生するとした
       「医学の父」
        医術を迷信から切り離し
        経験科学としての医学を発展
        職業としての医師を確立
        ↓↑ 
 「ヒポクラテスの定理(Hippocrates's theorem)」
 「ヒポクラテスの三日月(lune of Hippocrates)」
  3つの半円の面積を
  S₁、S₂、S₃
  S₁+S₂-S₃+(三角形 ABC の面積)
  三平方の定理
  BC=2√3
  S₁=π/2、S₂=3π/2、S₃=2π
 (π/2)+(3π/2)-2π+(2ⅹ2√3ⅹ1/2)=2√3
  ↓↑
  ∴(だから) ∵(何故ならば)
  S₁+S₂-S₃=0
  S₁+S₂=S₃
 (半円の面積は直径の二乗に比例する)
 ↓↑
 タレスの定理(hales' theorem)
 直径に対する円周角は直角
 A, B, C
 が円周上の
 相異なる
 3 点で
 線分 AC が直径であるとき
 ∠ABC が直角である
 ↓↑
 タレスの「幾何学の五定理」
 円は中心点を通る直線で二等分される
 二等辺三角形の両底角は等しい
 交差する直線の対頂角は等しい
 三角形は底辺と両底角で定められる
 半円に内接する三角形は直角三角形である
 ↓↑
 円の面積=半径×半径×3.1415
 円の面積=半径×半径×円周率(π)
 ↓↑
 円周率=円の直径に対する
       円周の長さの比
 「the perimeter of a circle
  =Pi=π
  =Kreiszahl=Kreis円(周)+Zahl(数)
  =περίμετρος(ペリメトロス)
             縁 目斗蘆数
  =περιφέρεια(ペリペレイア)」
             経理杯例 丫(合)
 ↓↑
 円周の長さ=直径  ×円周率
      =2×半径 ×円周率
      =2×半径 ×圓周率
 ↓↑
 円の周長を C
   直径を d
    π=C/d
 平面上に
 描かれる
 大小の個々の
 全ての円は
 互いに相似なので
 この比率は一定
 ↓↑
 アルキメデスの計算
 円に内接・外接する
 正多角形による π の近似
 ↓↑
 半径 r の球の体積
 4/3πr3
 球の表面積
 4πr2
 球の大円による
 切り口の面積の4倍
 ↓↑
 ルート=root
 累乗根=平方根・記号√
 言語学で、語根
 階層構造の根本(―ディレクトリー)
 ルート=route
 道・道路・道筋・路線
 経路・手づる
 ↓↑
 漏斗(ろうと・じょうご・funnel)
 ↓↑
 平方根
 2回かける(2乗)で
 Ⅹになる数字
 平方根=√(ルート)記号
 √x
 ↓↑
 4の平方根
 √4=2
 √4×√4=2×2=22=4
 ↓↑
 √4×√4=(+2)×(+2)=+22=4
 √4×√4=(-2)×(-2)=-22=4
 √4の答え
 +2
 -2
 の2つが存在
 ↓↑
 平方根(ルート)計算
 平方根(ルート)の足し算・引き算
 ルートの中が同じ数字のものだけを
 足し引きできる
 ↓↑
 「√2+√2」
  √2=a
  √2+√2=a+a=2a=2√2
 ↓↑
 ルートの中が違う数字の計算
 ↓↑
 「3√3-2√2-√3-2√2」
  √3=a
  √2=b
  3√3-2√2-√3-2√2
    =3a-2b-a-2b
    =2a
    =2√3
 ↓↑
 平方根(ルート)のかけ算
 ルートの外の数字同士
     中の数字同士
 をかけて計算
 ルートを
 ほかの文字に置き換えるて計算
 ↓↑
 「3√2×5√3」
  √2=a
  √3=b
  3√2×5√3=3a×5b=15ab
  ab=√2×√3
   =√(2×3)=√6
  15ab=15√6
 ↓↑
 平方根(ルート)の割り算
 ルートの外と中の数字でそれぞれ割り算
 分母にルートが入っていると計算
 ルートの中で割り算をおこなったうえで
 分母と分子に
 分母と同じルートをかけ
 分母からルートをなくす
 ルートの数字をなくすことを
 「有理化」
 ↓↑
 「√27÷√6」
 =√27/√6
 =√9 /√2
 =√9 /√2×√2/√2
 =√18/2
 ↓↑
 分母にルートの数字が入る場合
 有理化
 ↓↑
 平方根(ルート)の近似値
 割り切れなく
 小数点以下が永遠に続く
 ↓↑
 √2=1.41421356…(ひとよひとよにひとみごろ
           一夜一夜に人見ごろ)
 √3=1.7320508…(ひとなみにおごれや
           人並みに奢れや)
 √5=2.23620679…(ふじさんろくにおうむなく
            富士山麓にオウム鳴く)
  ↓↑
 (√6+√8+√10)√2
  √2のかけ算をおこなってカッコを外す
  ↓↑
 (√6+√8+√10)√2
 =√12+√16+√20
 =√(2×2×3)+√(4×4)+√(2×2×5)
 =2√3+4+2√5
 ↓↑
 2√3×3√6+12/√3
 2√3×3√6
 を通分
  ↓↑
 {√3(2√3×3√6)+12}/√3
 =(6×3×3√2+12)/√3
 ↓↑
 次に、分母を有理化
 √3(6×3×3√2+12)/3
 =√3(6×3√2+4)
 =√3(18√2+4)
 =18√6+4√3
 ↓↑
 10、√95、√110
 √a<√b
  a<b
 ↓↑
 数字をそれぞれ二乗すると
 100、95、110
 となり
 小さい順に並べると
 95、100、110
 正しい順番は
 √95、10、√110

 「∴(だから)=3点」・・・ナニ?
            ・・・ルート⇔漏斗(ろうと)・・・郎党?
ー↓↑ー--
 北海度の札幌にも
 「白川神社」があるらしい・・・?
 「白川」という地名
 豊平川支流の
 白川に由来
 砥石山の水成岩を溶かして
 白く濁っていたことにちなむ・・・
 元々は「シロイカワ」が
    「シライカワ」と呼ばれるようになった・・・
    「レッド・リバー(Red River)」
    「ブラック・リバー(Black River )」・・・
     炭川=ペンケ歌志内川・パンケウタシナイ川(下歌志内川)
 本州からの移民開拓団が来た場所・・・本拾遺民カイタク談の?
 ↓↑
 寛文五年(1665年)二月十一日
 延焼で
 滋賀県
 甲賀市・・・甲賀忍者・・・情報、諜報、先遣隊?
 南土山に遷座
 現在の本殿
 文久三年(1863年)に造営
 ↓↑
 白川神社の別称
 「牛頭天王社・祇園社」・・・語事転往写・擬音写?
 ↓↑
 天明七年(1787)光格天皇
 嘉永元年(1848)考明天皇
 の両大嘗祭に
 白川神社拝殿を
 悠紀斎田抜穂調整所にあてられた
 白川神社境内を
 内待所奉安所にあてられた
 ↓↑
 白川神社
 白山飛騨側の山麓にひらけた集落
 大野郡
 白川村は
 合掌造りの里
 ↓↑
 札幌
 白川神社の由緒・歴史
 1899年(明治32年・1898年説)
 篠路(札幌市北区)に入植していた
 「小村亀十郎」氏・・・ハを引っ掛ける
            木を寸(はかる)
            亀の十の郎?
            一寸法師=小村寿太郎?
 らが
 白川に入植し開拓
 ↓↑
 1919年(大正8年)
 入植者たちの協議で
 白川神社を建立
 ↓↑
 篠路地区
 札幌でも早い段階で入植者がいて
 篠路神社は
 札幌で一番古い神社
 ↓↑
 白川神社の祭神=稲荷神
 ↓↑
 兵庫県姫路市の
 白川神社
 ↓↑
 白河の関
 古代日本の関所の1
 奈良時代~平安時代
 都から陸奥国に通じる
 東山道の要衝に設けられた関門
 「みちのく(奥州)の玄関口」
 ↓↑
 福島県
 白河市
 旗宿に比定
 白川神社が祀られ
 下野国(栃木県)
 と
 陸奥国(福島県)
 との国境付近
 ↓↑
 「白河の関」より北に位置する
 東北地方(北海道地方も)
 「白河以北=河北」
 と称することがある
 ↓↑
 鼠ヶ関(ねずがせき)
 勿来関(なこそのせき)
 『奥州三関』の一
 ↓↑
 『類聚三代格』承和二年(835年)太政官符
 「白河・菊多(勿来)の関を設置して以来400余年」
 と記録
 835年当時には
 「5世紀前半に設置された」と認識
 ↓↑
 白河関
 ヤマト政権が
 北方の蝦夷に対抗するために建立した基地
 陸奥国との国境検問所
 ↓↑
 六国史
 白河の初出
 718年(養老二年)五月二日 (旧暦)
 陸奥国から
 「白河」など5郡を分割し
 石背国を設置の記事
 728年(神亀五年)四月十一日 (旧暦)
 白河軍団の新設
 769年(神護景雲三年(769年)三月十三日
 陸奥国
 大国造
 道嶋宿
 祢嶋足
 の申請によって功績者への賜姓付与
 白河郡では
 丈部某・・・阿部 陸奥臣
 大伴部某・・阿部 会津臣
 を授かった
 ↓↑
 宝亀十一年(780年)十二月二十二日
 陸奥鎮守府
 副将軍
 「百済王・俊哲」・・・百濟=伯濟
 が賊に囲まれ危機に瀕し
 「白河の神」
 十一神に祈り突破
 これで弊社に加えることを許可
 ↓↑
 承和二年(835年)十二月三日
 太政官符(『類聚三代格』)
 「俘囚」・・・渡来難民の末裔?
 の出入りや
 不正商品の通過の検問を
 長門国関(赤間関)
 と同様に取り締まることが許可
 ↓↑
 「みちのく」
 和歌の歌枕に起用
 文学的感傷をもたらす存在
 和歌での初出例
 平安中期
 平兼盛が詠んだ
 「たよりあらば
  いかで都へ告げやらむ
  今日
  白河の関は越えぬと」
 (「拾遺和歌集」別)
 ↓↑
 鎌倉時代始期
 1189年(文治五年)
 源頼朝
 奥州藤原氏を滅ぼす奥州合戦で
 頼朝が白河に達した際に
 梶原景季に歌を詠むよう命じると
 「秋風に草木の露をば払わせて
  君が越ゆれば
  関守も無し」
 と詠んだ
 ↓↑
 江戸時代前期
 1689年(元禄二年)
 松尾芭蕉は
 「おくのほそ道」
 の紀行で
 白河の関を訪れ
 「心許なき日数重なるままに
  白河の関にかかりて
  旅心定まりぬ」
 と記した
 ↓↑
 白
 しろ・しろへん
 ハク
 ビャク
 しろ・しら・しろい
 あきらか・もうす・せりふ(科白・台詞)
 セリフ=「競り言ふ(せりいふ)」の約
 台詞=舞台詞の略
 科白=中国で「科」は劇中の俳優のしぐさ
       「白」は言葉
 セリフ=「分説・世理否・世利布」
     古くは「世流布(せるふ・せれふ)」
 しろくする・しらげる・しらむ・明るくなる
 明るい・明らか・はっきりしている
 告げる・述べる
 むなしい・なにもない
 「白耳義(ベルギー)」の略
 ↓↑
 白の熟語
 白丁・白丸(地名)・白亜・白人・白光・白兎
 白兵・白刃・白化・白及・白句(人名)・白図
 白土・白地・白堊・白墨・白声・白夜・白太
 白妙・白子・白字・白寿
 白尾(地名)・白山(地名)・白岡(地名)・白川(地名)
 白州・白帯・白張・白描・白文・白斑・白旗
 白日・白星・白昼・白書・白木・白朮・白材
 白杖・白板・白栲・白根・白桃・白梅・白楊
 白樺・白檀・白檜・白毛・白毫・白気・白水
 白沙・白河(地名)・白油・白波・白洲・白浜(地名)
 白浪・白湯・白滝・白濁・白煙・白熊・白熱
 白燐・白状・白狐・白狼・白玉・白球・白璧
 白瓜・白瓷・白画・白痢・白痴・白癜・白癬
 白白・白皙・白目・白眉・白眼・白石・白砂
 白磁・白神(地名)・白票・白禍・白秋・白筋
 白米・白粉・白糠・白紙・白組・白絹・白線
 白羽・白肌・白膚・白船・白色・白苔・白英
 白茅・白茶・白菜・白蓮・白藍・白藤・白虎
 白虹・白蝋・白蟻・白衣・白詩・白話・白質
 白身・白道・白酒・白酢・白金・白鉛・白銀
 白銅・白鍵・白鑞・白陸(人名)・白雉・白雨
 白雪・白雲・白露・白面・白頭・白餡・白首
 白馬・白駒・白骨・白髪・白髯・白魚・白鮫
 白鯨・白鱚・白鳥・白鶴・白鷴・白鷺・白黒
 白鼠・白卵
 ↓↑
 一白・余白・半白・卵白・告白・啓白・大白
 太白(地名)・寸白・建白・敬白・斑白・明白
 月白・淡白・清白・漂白・潔白・激白・片白
 独白・白白・皓白・目白・眼白・科白・空白
 精白・紅白・純白・美白・腕白・自白・色白
 蒼白・蛋白・追白・鉛白・関白・頒白・頬白
 頰白・飛白・黄白・黒白
 ↓↑
 白無垢・白虎湯・白粉花・白樺油・白灯油
 白檀油・白醤油・白酒酢・白妙酢・白飛白
 白小豆・白南風・白南風・白膠木・白禿瘡
 白百合・白楊樹・白刀魚・白耳義・白辛樹
 白梨樹・白頭翁・白朮祭・白屈菜・白絞油
 白檜曽・白拍子・白装束・白詰草・白灯蛾
 白膠木・白亜紀・白眼視・白鶺鴒・白地図
 白丁花・白内障・白血球・白血病・白毫相
 白癬菌・白兵戦・白耳牛・白良浜(地名)
 白髪頭・白足袋・白葦毛・白葦毛・白味噌
 白帯下・白描画
 ↓↑
 粉白粉・水白粉・辣白菜・山白竹・三白草
 虫白蝋・漂白剤・夏白菊・精白米・蛋白質
 灰白色・片白草・山白竹
 ↓↑
 白飛白・蚊飛白・亜鉛白・矢飛白
 ↓↑
 白砂青松・白物家電・白色人種・白髪太郎
 白河夜船・白川夜船・白雲孤飛・白玉楼中
 白日昇天・白首窮経・白水真人・白黒分明
 白条天牛・白山一華・白山一花
 ↓↑
 大白牛車・後白河院(人名)
 ↓↑
 青天白日・明明白白・二河白道・黒風白雨
 素車白馬・活性白土
 ↓↑
 明明白白・清廉潔白・亭主関白・天青地白
 天青地白
 ↓↑
 白髪三千丈・後白河天皇(人名)
 ↓↑
 白+α
 百・的・皇・皆・皋・皐・皁・皎・皓・皖
 癿・皂・㒵・㒶・㿝・皀・皁・伯・劰・皃
 㕷・㚖・佰・的・凮・怕・泊・狛・迫・帕
 岶・拍・廹・苩・㓦・帛・胉・㼟・冟・咟
 泉・陌・洦・皅・皍・皆・㢶・㹮・卽・珀
 皇・帞・敀・㑡・㿞・柏・皈・皌・㪶・㿟
 原・栢・畠・皋・铂・唕・砶・唣・皊・㝸
 㹸・䄸・袙・絈・皙・皚
 ↓↑
 地名
 白山(はくさん)
 白川(しらかわ)
 白鳥(しらとり)
 白石(しらいし)
 白山町(はくさんちょう)
 天白(あましろ・あまじろ・てんはく・てんぱく)
 飯白(いいしろ・いいじろ)
 石徹白(いしどしろ・いとしろ)
 井白(いしろ・いじろ)
 今白(いましろ)
 ↓↑
 白(しら)
 白(しろ)
 白い(しろい)その物の色が白であること
 白らか(あきらか)
 白(せりふ)
 白す(もうす)
 ↓↑
 烏白馬角(ウハクバカク)
  絶対にあるはずがないこと
 「烏白」=頭の色が白い烏
 「馬角」=角の生えている馬
 ↓↑
 雲中白鶴(ウンチュウのハッカク)
  世俗を超越した、心の清らかな人
  白い雲の中にいる白い鶴
  心が清らかで、気高く立派な人物
 ↓↑
 顔面蒼白
  恐怖や怪我などで動揺したり
  困惑したりして血の気が失せた顔色
 ↓↑
 堅白異同(ケンパクイドウ)
  辻褄の合わない無茶な論理の展開
  詭弁・戦国時代の趙の公孫竜の詭弁
  堅くて白い石を見ると白いことはわかる
  堅さは分からない
  手で触って堅さを調べると
  色は分からないので
  堅くて白い石は存在しない
 ↓↑
 月白風清(ゲッパクフウセイ)
  静かで美しい秋の月の明るい夜の風情
  「月白く風清し」
 ↓↑
 朝に紅顔ありて夕べに白骨となる
  人の生死は予測できない
  朝血色のよい顔をしていた人が
  夕方には白骨となる
 ↓↑
 色の白いは七難隠す
  白ければ、顔かたちに
  多少の欠点があっても気にならない
 ↓↑
 烏の頭の白くなるまで
  いつまで経ってもその時がこないこと
  戦国時代に燕の太子
  丹が人質になった時
  奏王が
  「烏の頭が白くなり
   馬に角が生えたら国へ帰す」
  と言った
 ↓↑
 狐の子は面白
  子は親に似ること
 ↓↑
 客と白鷺は立ったが見事
  客は長居をしないで、早く帰るがよい
 ↓↑
 堅白同異の弁
  こじつけの論理、詭弁
  中国戦国時代、趙の公孫竜が説いた論法
 ↓↑
 青白い
 蒼白い
 一白
 色白
 裏白
 白粉(おしろい)
 白粉下(おしろいした)
 白粉花
 面白い
 面白可笑しい
 面白半分
 面白み(おもしろみ)
 灰白色(かいはくしょく)
 飛白(かすり)
 科白(かはく)
 紙白粉(かみおしろい)
 銀白色(ぎんはくしょく)
 銀白色(ぎんぱくしょく)
 空白
 黒白(くろしろ・コクビャク)
 啓白(文書や手紙などの終わりに添える言葉)
 敬白
 潔白
 建白
 激白
 紅白
 黄白(コウハク・金と銀・金銭)
 告白
 白帯下(こしけ
     女性の生殖器から
     分泌される
     血液以外の液体
      おりもの)
 紺飛白(こんがすり)
    ・・・飛白=かすり=絣・綛・纃・掠
 白湯(さゆ)
 三白眼(さんぱくガン)
 三盆白(さんぼんしろ)
 白あえ(しらあえ)
 白和え(しらあえ)
 白魚(しらうお)
 白樫(しらかし)
 白樺(しらかば)
 白壁
 白粥(しらかゆ)
 白樺(しらかんば)
 白髪(しらが)
 白木(しらき)=樹皮を削っただけの状態の木材
 白菊
 白雲
 白癬(しらくも・伝染性の皮膚病)
 白ける(しらける)
 白子(しらこ・魚の精巣)
 ↓↑
 白人
 白子
 白髪
 白目
 白須
 白蟻
 白犬
 白鳥
 白狐
 白猫
 白鼠
 白蛇・・・它・蝮
 白鯨(ハクゲイ)
 白雲
 白物(しろもの)
 白土
 白山
 白頭山
 白木
 白百合・・・新羅+百濟=合
 白金
 白石・・・・新井白石
 白砂
 白州
 白状(ハクジョウ)
 白杖(ハクジョウ)
 白雪・・・・白雪姫
 白洲
 白波・・・・白波誤認オトコ?
 白川
 ↓↑
 白河の関
 白河天皇
 後白河法皇
 ↓↑
 関白
 前漢の
 宣帝が
 上奏はすべて実力者
 「霍光」
  ・・・霍=雨+隹
       カク
       にわか(俄か)
       はやい
       すみやか・たちまち
     霍+α
     嚯・瀖・攉・藿・㺢・㰌
     臛・㱋・㸌・曤・癨・皬
     矐・礭・籗・鸖
 ↓↑   ↓↑
     名字
     霍川=かくかわ・つるかわ
     霍田=つるた・つるだ
     霍間=つるま
     霍見=つるみ
 ↓↑   ↓↑
     霍(にわ)か
     霍(はや)い
 ↓↑   ↓↑
     霍乱(カクラン)
     夏期に起こしやすい病気の総称
     日射病や食中毒
 ↓↑   ↓↑
     漿酒霍肉(ショウシュカクジク)
     この上なく贅沢なこと
     「漿」=一度沸騰させて冷ました水
        酢のこんず
     「霍」=貧しい人が食べる豆の葉
        酒を水のように扱い
        肉を豆の葉のように扱う
 ↓↑   ↓↑
     鬼の霍乱(カクラン)
     丈夫な人が珍しく病気にかかること
     鬼が日射病で患う
 ↓↑   ↓↑
 「霍光」
  が
 「関(あずか)り白(もう)す」
    預か  り  申  す 
 ようにした故事
 ↓↑
 関白
 天皇が幼少、病弱などで
 大権を全面的に代行する摂政とは異なり
 関白の場合
 成人の天皇を補佐する立場
 最終的な決裁者は天皇
 摂政が引き続き関白となる例が多
 慣例として
 摂政関白は
 天皇臨席などの例外を除いては
 太政官の会議には参加しない慣例あり
 太政大臣・左大臣が
 摂政・関白を兼任している場合には
 その次席の大臣が
 太政官の首席の大臣(一上)として
 政務を執った
 関白の内覧の権限
 天皇と太政官の間の
 政治的なやりとりを行う際
 関白が事前にその内容を把握・関与することで
 国政に関する情報を常に把握し
 天皇の勅命や勅答の権限を
 直接侵害することなく
 天皇・太政官双方を統制する権限を有した
 ↓↑
 関白
 別名=博陸
    霍光が博陸侯であった
    関白職を子弟に譲った前関白を
    唐名で太閤
   「太閤」は出家すると
   「禅閤」と呼ばれる(禅定太閤の略)
 ↓↑
 887年
 宇多天皇が
 橘広相に命じて書かせた
 藤原基経への関白任命の詔勅にあった
 「阿衡」にイチャモン
 基経が天皇と対立し
 政務の参加を一時拒否(阿衡事件)
 ↓↑
 関白職の初任者
 藤原基経
 陽成天皇
 元慶四年十一月八日
 (880年12月13日)
 『公卿補任』
 陽成天皇の成人と同時に関白になった
 天皇が成人した際に
 関白に転じる慣例が成立したのは
 60年後の
 朱雀天皇成人時の
 藤原忠平の時・・・
 ↓↑
 光孝天皇
 元慶八年六月五日(884年7月1日)
 天皇から
 基経に対して国政委任の詔が出され
 これが後の関白任命の際の詔書の原点
 ↓↑
 宇多天皇
 仁和三年十一月二十一日(887年12月9日)
 「関白」の語源
 「関り白す」の言が入った国政委任の詔書
 ↓↑
 藤原道長
 道長自身は関白に就くことなく
 内覧および一上として政務を主導
 事実上の関白として
 「御堂関白」とも呼ばれた
 1016年(長和五年)
 後一条天皇が即位
 道長は摂政
 子の頼通にその座を譲った
 その後も道長の外孫が天皇となり
 藤原頼通は
 50年以上にわたって関白
 ↓↑
 頼通と外戚関係にない
 後三条天皇即位
 後三条の主導による政治改革
 その子の
 「白河天皇」
 が
 「堀河天皇」
 に譲位して院政を開始
 師実・師通の父子が相次いで死去し
 摂関政治終焉
 堀河の没後に
 白河が
 鳥羽天皇を擁立
 鳥羽の外舅にあたる
 「藤原公実」
 が摂政の地位を望んだが
 白河は御堂流直系の忠実を摂政に任じた
 以降、外戚の有無に拘わらず
 御堂流の嫡流「摂家」が摂関となる慣例が成立
 ↓↑
 1121年(保安二年)
 関白
 藤原忠実は
 白河法皇の勘気を被り
 10年にわたる謹慎生活を強いられ
 関白は息子の忠通が継ぎ
 院御所議定に加わることもあるなど
 一定の影響力と権威を持った
 1132年(天承二年)
 忠実が内覧に任じられて政界復帰
 関白
 忠通と
 内覧
 忠実が並立
 忠実は忠通の弟
 頼長を寵愛し
 近衛天皇の元服が行われた
 1150年(久安五年)
 忠通に対して摂政の地位を譲るよう要求
 忠通は拒否し、激怒した
 忠実は藤原氏長者の証である
 朱器台盤などの宝器を
 忠通邸から強奪して
 頼長を氏長者とした
 鳥羽法皇は忠通を関白
 頼長を内覧とし
 氏長者と関白が分離する事態が発生
 忠通と忠実・頼長の対立は
 「保元の乱」
 の一因
 頼長はこの乱で敗死
 忠通に氏長者補任の宣旨が下り
 藤原家内の身分であった氏長者が
 朝廷に握られることとなった
 後の
 後白河院政
 と
 平氏政権
 で摂関家は主体性を発揮することが出来ず
 忠通の子の代から
 近衛家・松殿家・九条家
 の三系統に分裂
 ↓↑
 「白河の関の廃止の後」
 1800年(寛政十二年)
 白河藩主
 松平定信
 は考証を行い
 白河神社の建つ場所をもって
 白河の関跡であると論じた
 ↓↑
 戊辰戦争以後
 白河関より北にある
 東北地方は
 内戦に敗れた「賊地」として蔑視
 薩長土肥などの官軍側からは
 「白河以北一山百文
 (東北地方には
  山1つにつき100文の価値しかない)」
 と蔑称も用いられた
 ↓↑
 1897年(明治三十年)
 宮城県の実業家
 一力健治郎
 は
 「河北」の字を取り
 地方新聞紙『河北新報』を創刊
 1918年(大正七年)
 平民内閣総理大臣
 原敬(岩手県盛岡市出身)
 は自身の俳号を
 『一山』と称した
ー↓↑ー--
 ・・・???・・・
   ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/8
 ↓↑
 干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB
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自爆ドローン=神風ドローン=フェニックスゴースト(Phoenix Ghost)」

2022-08-25 06:18:06 | 古事記字源

 「映画」や
 「小説」、「物語」、「漫画」を観るように
  過去の記録
 「歴史」
  を傍観するわけにはいかない・・・

 「歴史」は
 「事実・事件」の
  記録言語を
  膨張、萎縮の多寡の形容で修飾し
  欠(闕)落、歪曲して
 「加減乗除」
  させた文言文章の
 「創作作文・妄想作文・空想作文・感想作文」
 「物語」でも「小説」でもない
  ↓↑
 「現代史」って何なんだ?
  現時点から振り返れば
  すべて
 「過去の事実的出来事=事実的事件」だが
  一秒、一分前に・・・
 起きた「事実、事件」の「認識」としての
 「5W(何時・何処・何者=何物・何事・何故)」としての
 「時系列の記録」である
 現代の
 「記録的手段=録音・録画・写真・映像」は多々あるが
 それらの記録、表現、創造されたモノを
 「事実」として理解する
 「1H(How・どの様に)」は
 ジャンルとして認識された分別、区別し
 享受する個々人の「相互共通理解」の
 「音声」or「文字」としての
 「共通なコトバ」が必要である・・・
 だが
 「共通言語」として
 「共通理解」されるかどうかは・・・???
 今現在に理解されている
 「Word(ワード)」・・・・・・・・・・話蛙努?
 「language(ランゲージ)」・・・・・・覧解絵字?
 「vocabulary(ボキャボラリィ)」・・・簿脚模拉理意?
 「一言語」
 「一文字」
 には、時代的な「誤解使用・歪曲使用」もあり
 多数の意味、意義が纏わりつき
 元々の意義が消失してしまッテイルものもアル
 記録されるモノには
 時代の権力に
 「阿=おもねる=忖度する=阿(ア)」
 も
 「改竄」・・・竄=宀+鼠=宀+臼+瓜(爪?厂ム乀)+⠅+⠅
         =宀+臼+㇙+⟘+丶(丨+_+ヽ)+⠅+⠅+㇂(乚)
         =宀+臼+𠄌+ム+⠅+⠅+㇂(乚)
          ㇂=尻尾?
          ⵆ・⼎・︔・︓・¦・;」
 されるモノもある

  ↓↑
 プーチン
 「人殺し」を続けている・・・
 「8月15日」は既に過ぎ去った・・・
 だが敗戦も終戦も無い
 ロスケのウクライナ侵略は終わらない・・・
 だがいつまでも
 「モスクワの地下」
 で安眠できると思うなョッ・・・
 殺人鬼の領袖
 プーチン、ラブロフ・・・くたばれ・・・
  ↓↑

 「drawn =drawの過去分詞形・やつれた・緊張した・引き分けの」
 「UAV=無人機を意味するUnmanned Air(Aerial) Vehicleの略称」
 「マルチコプター=無人ヘリコプター」
 英語
 「drone = 雄バチ・特に雄のミツバチ(蜜蜂)」
 「drone=外来語・元々はオスの蜂(ハチ)を指す言葉」
  新型自爆ドローン=神風ドローン
 「フェニックスゴースト(Phoenix Ghost)」
 「フェニックスゴースト(Phoenix Ghost)」
  ↓↑
 「ロシア侵略占領地を攻撃」しているらしい・・・
 くたばれ、プーチン
 「フェニックス(Phoenix)」
 と名付けられた
 「drone=オスの密蜂(ハチ)」
 ・・・「ドローン(drawn)」・・・?

  ↓↑
 「ベンヌ」・・・弁努(濡=氵+需=氵+雨+而)
 エジプト語の「不死鳥=ベンヌ」
 「アトゥム・ラー・オシリス」の魂
 長い嘴をした黄金色に輝く「青鷺(アオサギ)」
 or
 爪長鶺鴒=赤と金の羽の鷲
      鷺(サギ)の頭をした人間=詐欺師?
 「ベンベンの丘」で
 「ベンヌ(不死鳥)」が
 「タマゴ(卵)であった太陽」
  を抱いて暖めて孵化させた
 「ベンヌ」=ホルス、フェニックスの原型
 「立ち上がる者(ウェベン)」が由来
 「鮮やかに舞い上がり、そして光り輝く者」
 「ラーの魂」
 「自ら生まれた者」

ー↓↑---
 煬帝=楊広(本名)=英(別名)=阿𡡉(小字)
 天和四年
 (569年)
 ~
 大業十四年三月十一日
 (618年4月11日)
 ↓↑
 645年の
 斯盧(シロ・サロ・さら)・・・沙羅(さら)・・・?
  ↓↑  ↓↑
  鸕野  讃良(さら)=持統天皇
  諱 鸕野 讚良
   (うののさらら
    うののささら)
    「娑羅羅 馬飼造」が養育・・・?
  和風諡号
  『続日本紀』
  703年(大宝三年)十二月十七日
  火葬
  「大 倭  根子天 之廣 野日女 尊」
  (おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)
        ネコ=猫・・・高宗の「蕭淑妃」
       ネズミ=「則天武后」=武照=鼠=子
ー↓↑---
 高宗=唐の第3代皇帝
    太宗の第9子
    母 鮮卑の拓跋出自の
      長孫無忌の妹の
      長孫皇后
 在位
 貞観23年6月1日~弘道元年12月4日
 (649年7月15日~683年12月27日)
 都  長安
 姓  李
 諱  治
 字  為善
 小字 稚奴
 諡号 天皇・・・天皇
    大聖
    大弘孝皇帝
 廟号 高宗
 生年
 貞観2年6月15日
 (628年7月21日)
 ~
 弘道元年12月4日
 (683年12月27日)
       大運673年8月(45歳)甲子偏財
        ~
       大運683年8月(55歳)乙丑正財
 戊┏子(壬 癸)偏印・傷官 死⇔癸未傷官
 己┏未(丁乙己)印綬・印綬冠帯⇔甲子偏財
 庚 寅(己丙甲)  ・偏財 絶⇔丁巳正官
 壬┗午(丙 丁)食神・印綬沐浴⇔丙午偏官
   午未空亡
 ↓↑
 父  太宗(第9子)
 母  文徳皇后長孫氏
 后妃 王皇后(廃位)
    武皇后(武則天=則天武后)・・・鼠
    蕭淑妃(廃位)・・・・・・・・・猫
 ↓↑  ↓↑
    徐婕妤(唐太宗賢妃徐恵の妹)
    劉宮人・鄭宮人・楊宮人
 ↓↑  ↓↑
    韓国夫人 武順・・・・韓国の夫人?
        (武則天の姉妹)
    魏国夫人 賀蘭氏・・・魏国の夫人?
        (武則天=則天武后の姪
         武順の娘)
 ↓↑
 陵墓 乾陵・・・乾=戌亥=狗(犬)猪=北北西
 年号
 永徽650年~655年
 顕慶656年~661年
 龍朔661年~663年
 麟徳664年~665年
 乾封666年~668年
 総章668年~670年
 咸亨670年~674年
 上元674年~676年
 儀鳳676年~679年
 調露679年~680年
 永隆680年~681年
 開耀681年~682年
 永淳682年~683年
 弘道683年
ー↓↑---
  鸕野  讃良(さら)=持統天皇
  諱 鸕野 讚良
   (うののさらら
    うののささら)
  『日本書紀』
  720年(養老四年)
  「高 天 原 廣 野姫  天皇」
  (たかまのはらひろのひめのすめらみこと)
  ↓↑          ↓↑
  新羅         斯盧
 「しんら・しら」・・・「さら・さろ・しろ」
 と発音するのが一般的
 「城=き」の意味を語尾に付し
 「しらぎ」・・・「しろき」
 新羅建国
 辰韓(シンカン)
 斯盧(しろ・さろ)国
 新羅(シンラ・しらぎ)
 「三国史記」
 「奈勿(なもつ)王」
 即位年
 新羅建国期
 六部(ろくぶ)の統合の
 貴族連合体制の時期
 ↓↑
 「キョンジュ(慶 州)」市
       ケイシュウ
 ↓↑
 韓国
 慶尚北道
 南東部に位置する市
 「テベク(太白=タイハク)山脈」
 と
 「トハム(吐含=トガン)山地」
 に挟まれた盆地に位置
 「辰韓=斯盧国」の地
 三国時代
 統一時代
 「新羅の王都」
 高麗時代
 「トンギョン(東京)」
 李氏朝鮮(朝鮮王朝)
 「観察使営」設置
 「ヨンナム(嶺南)地方」
 行政、文化の中心地
 1661年
 「観察使営」
 が
 テグ(大邱)直轄市)に移った
 「武烈王」の王陵など多数の古墳
 仏教の史跡、文化財も多
 仏国寺・石窟庵
ー↓↑---
 新羅(前57年~935年)
 「斯蘆(しろ、サロ)」
  斯=其+斤
    卄+一+八+斤
    一+丨+八+斤
    シ
    かかる
    かく
    この
    これ
    きる・切りさく・切り離す
   「この・これ・ここ」
    近くの物事を指し示す意
   「かく」
   「このように」の意
   「すなわち」
   「~であれば~となる」
   「~したら~する」
   ↓↑
   蘆=艹+盧=芦=艹+戸=艹+㇒+尸
     艹+虍+田+皿
     艹+卜+丿+乛+七+田+皿
     ロ
     あし・・・蘆名=芦名・葦名・足名・蘆品
     よし
     イネ(稲)科の多年草
 ↓↑
 「斯蘆(しろ・サロ)」・・・「さら」?
 と称していたが
 503年
 「新羅(シンラ・しらき・しらぎ)」
 を正式な国号とした
 ↓↑
 朝鮮半島北部  高句麗
   半島南西部 百済
   半島東南部 新羅
 ↓↑
 7世紀中頃まで
 朝鮮半島中部以南をほぼ統一
 高麗
 李氏朝鮮
 の半島国家の祖形
 「高麗」
 に降伏し滅亡
 ↓↑
 三国時代(7世紀中盤まで)
 新羅・高句麗・百済
 ↓↑
 統一新羅時代(668年~900年)
 新羅の半島統一
 「新羅」+「渤海」・・・南北国時代・・・?
       燕國=公孫淵=公孫一族
           ・・・皇孫・神尊
             コウソン=功存
             幸村(眞田)
             神州=信州=長野
 信州=信濃国の別称=長野県
    中国大陸の地名=信州 (四川省) =重慶市北東部
    南朝梁・隋によって設置
    信州 (河南省)=河南省・周口市
 ↓↑
 後三国時代(10世紀)
 新羅から
 後高句麗
 後百済
 が分裂
 ↓↑
 史実性
 4世紀
 第17代
 「奈勿王」以後
 ↓↑
 6世紀中頃
 半島中南部
 「加羅諸国」
 を滅ぼし配下に組み込む
 唐
 と
 新羅
 が同盟
 ↓↑
 660年
 「唐・新羅連合軍」
 が
 百済を滅ぼし
 ↓↑
 663年
 3月 阿倍比羅夫ら、新羅征討のため出発
 6月 百済の余豊璋、鬼室福信を斬り首級を塩漬け
 10月5日(天智天皇二年八月二十八日)
 「 白村江の戦い」
 唐・新羅連合軍vs百済・倭連合軍
 倭国水軍壊滅
 10月13日(天智天皇二年九月七日)
 百済が降伏
 半島難民が日本へ逃亡
 唐 「単于-都護府」を
   「雲中」に設置・・・「雲中」?

  単于-都護府(ゼンウ-トゴフ)
 唐代の「六 都護府」の一
 ↓↑
 内蒙古の
 「突厥(トッケツ)=突厥 (552~744)」
 アルタイ山脈を本拠地
 トルコ系遊牧騎馬民族の国家
 当初は、柔然に服属
 6世紀頃
 アルタイ山脈の
 鉄と製鉄技術と交易の利益を背景に
 大帝国
  ↓↑
 「突厥(トッケツ)」
    ・・・厥(まげる)⇔蕨(わらび)
       厥=厂+欮
         厂+屰+欠
         厂+䒑+屮+丿+乛+人
         厂+丷+一+凵+丨+丿+乛+人
         クツ・ケツ
         その・それ
         石を掘る
         まげる(曲げる)・くぼむ(窪む)
         ぬかずく(額ずく)=丁寧なお辞儀
         のぼせる・嘔吐する
       厥角稽首(ケッカクケイシュ)
        礼儀正しく、心のこもった敬礼
        「厥角=稽首」=地面に頭を着けてする礼
 ↓↑
 などの諸部族を統治するため
 650年に設置
 664年に「雲中都護府」から改称され
 テュルク系の部族の
 「薛延陀 (セツエンダ)」
 が滅亡し
 唐は
 外モンゴルの
 「鉄勒」
  諸部族に
 「六都護府・七刺史(シシ)州」・・・刺史(シシ)
 設置
 オルドスの北辺に
 「燕然-都護府」・・・燕(つばめ)然(しかるべき)?
 を設置
 「都護府・刺史」らによって
 中国王朝の脅威
 北方遊牧民族 に対して備えた
 突厥の部族には
 649年
 「雲中-都督府」
 「定襄-都督府」
 を設置
 663年
 「燕然-都護府」
 を
 「瀚海-都護府」
 と改名し、その統治を
 外モンゴル地域に移した
  ↓↑
  瀚=氵+翰
   氵+龺+人+羽
   氵+十+日+人+羽
   カン
   ひろい・大きい・広大
   翰=龺+人+羽
     十+日+人+羽
     カン
     てがみ
     とぶ
     ふで・ふみ・みき
     山鳥の名
     羽・鳥の羽
     高く飛ぶ
     白い・白い馬
     はしら(柱)・みき(幹)
 白瀚=しらなみ
  瀚(ひろ)い
 浩瀚=書物の巻数や頁数
    数量が非常に多いこと
    大部
 載籍浩瀚(サイセキコウカン)
  沢山の書物があること
 「載籍」=書籍・書物
 「浩瀚」=巻数が多い
 ↓↑
 668年
 高句麗を滅ぼし
 三国を統一
 後
 唐が
 朝鮮全土を
 「藩属国化」し
 「都督(総管)府」=唐属国化の
           軍事、行政、監督機構
 旧
 百済領  熊津 「都督府」・・・熊=ユウ=邑=酉
 新羅   鶏林州「都督府」・・・鶏・雞
 高句麗領 安東 「都護府」・・・安藤・阿藤
 ↓↑
 朝鮮半島
 熊津都督府…顕慶5年(660年)
       百済を滅ぼしその旧域に設置
 鶏林州都督府…龍朔3年(663年)4月
        新羅の版図に設置
        新羅王の文武王を
        鶏林州大都督に任命
 安東都護府…総章元年(668年)9月
        高句麗を滅ぼし平壌に設置
        朝鮮北部および満州を支配
       上元3年(676年)2月
        新羅、高句麗遺民との
        抗争に敗退し
        遼陽へ後退
        儀鳳2年(677年)
        新城に移転
        697年
        大祚栄との抗争の影響で廃止
        神龍元年(705年)
        大祚栄との和解で再び設置
        「安史の乱」
        で再び廃止
     https://ja.m.wikipedia.org/wiki/都護府
       「都護府・都督府」=唐の侵略した
                 各地に置く
                 占領機関の名称
 ↓↑     ↓↑
        天智紀六年閏十一月
       「十一月丁巳朔乙丑
        百済鎮将
        劉仁願
        熊津 都督府
        熊山県令
        上柱国
        司馬法聡
        等を遣して
        大山下・・・大山の下
        境部連・・・国境の辺の連
        意志積・・・石積り?
        等を
        筑紫
        都督府・・・都・督・府
        に送る」
 ↓↑  ↓↑
     水城=唐占領軍によって攻略された残骸
        唐占領軍の防塁として
        後から造営・・・?
 ↓↑
 九州
 大宰府  都督
     「都督府-古址」
      乙金村(大野城市乙金)
      大庄屋
     「高原善七郎」
      明治四年
      に自費で
     「都督府-古址」の碑を建立
     「高原善七郎」
      は太宰府周辺の
      文化財の調査・保存・顕彰に努めた
      白村江の敗戦後
      天智天皇三年(664年)
      唐使来朝
      倭国は辺境防衛の
      防人(さきもり)
      情報伝達
      烽(とぶひ)
      を
      対馬島・壱岐島・筑紫国
      に配備
      筑紫国に水城
      筑紫国に大野城
      大宰府防衛のため築城
 ↓↑   ↓↑
      太宰府天満宮-都督
      大宰権帥=実質的な大宰府の長官  
      福岡県太宰府市宰府(さいふ)神社
      旧官幣中社
      神社本庁の別表神社
      紋は梅紋
      菅原道真(菅公)を祭神の天満宮の一
      901年
      大宰府に左遷
      2年後に死亡
      30年ほどの間に
     「道真謀反」にかかわった
      天皇1人・皇太子2人・右大臣1名
      その他の高級貴族が死亡
     「怨霊」・・・
      ↓↑
     「遣唐使(検討し)廃止」の意図・・・?
     「日本民族の独立」を断行・・・?
      ・・・
      ↓↑
     「刀伊(トイ)の入寇」
      寛仁三年(1019年)
     「靺鞨=女真=金=満州」・・・?
      の一派集団が
      壱岐・対馬を襲い
      筑前に侵攻した事件
      日本に捕虜になった3名
      すべて「高麗人」
      権大納言
      源俊賢は高麗の責任を主張
      『小右記』
      海賊の中に
     「新羅人」
     「刀伊(トイ)」
      に捕虜になった
     「内蔵 石女」
     「多治比 阿古見」
      は高麗軍に救助され帰還
 ↓↑   ↓↑
      725年
      唐の
      安東都護の
     「薛泰」
      は
     「黒水靺鞨に
      黒水州都督府」
      を置き、その首領を
     「都督」とし
      各部部族長を
     「刺史」として
      この地を監督することを奏上
      後に「渤海」が強盛となり、唐が衰微
      その南部の
     「拂涅・虞婁・越喜・鉄利部」
      などは
     「渤海」に併合された
     「契丹」の興隆後
      契丹人は
      彼らを
      「女真(女直)」
      と呼び始め
     「靺鞨」
      の名前は使われなくなった・・・
 ↓↑   ↓↑
     「建州」の統一
      明の武将
     「李成梁」
      遼東一帯を統括
      建州女直
      を
      海西女直
      と争わせ
      彼は
      スクスフ部の
      ニカンワイラン
      ヌルハチ
      を支援
      1587年
      ヌルハチに
      建州女直
      を統一させた
      マンジュ国を建設したヌ
      ルハチは
      明朝が
      豊臣秀吉の朝鮮出兵の隙に
      海西女直を撃破
      女真族を統一し
     「後金」
      を建国
 ↓↑
 唐が
 「吐蕃」
 と戦争
 ↓↑
 新羅軍
 と
 高句麗遺民軍が反乱
 ↓↑
 670年3月
 「唐・新羅戦争」
 6年続いた後
 新羅が勝利
 唐は
 熊津 都督府
 安東 都護府
 を
 遼東に移し
 朝鮮半島から撤退
 新羅は朝鮮半島の中南部を統一
 首都
 「金城(慶尚北道慶州市)」
 ↓↑
 9世紀末
 旧「百済・高句麗」
 が復興
 後百済
 後高句麗
 となり鼎立
 後三国時代
 ↓↑
 その後
 後高句麗から起こった
 「高麗」
 に帰順して滅亡
 ↓↑
 新羅の歴史
 『三国史記』新羅本紀・敬順王紀
 上代
 始祖から
 第28代
 真徳女王末年(654年)まで
 ↓↑
 中代
 第29代
 武烈王(金春秋)即位から
 第36代
 恵恭王末年(780年)まで
 ↓↑
 下代
 第37代
 宣徳王から滅亡まで
  ↓↑
 「斯蘆」=日本語  では「しろ」
      朝鮮語  では「サロ」・・・サラ・サル
      漢字上古音では「シラ」・・・シリ・シル
   ↓↑
  「さぁ・しぃ・すぅ・せぇ・そぉ」
   +
  「ラァ・リィ・ルゥ・レェ・ロォ」
 ↓↑
 万葉集=「新羅奇」
        奇=大+可=竒=亠+ハ+可
          大+丁+口
          大+一+亅+口
          キ
          あやしい
          くし
          めずらしい
          変わっている
          すぐれている・非凡
          不思議
          くしくも
          思いがけない・予想外
          二で割り切れない=奇数
          不運・運に恵まれない
 出雲風土記=「志羅紀」
         記紀・古事記・日本書紀
       「新羅城」の意味・・・?
 「辰韓」
 朝鮮半島南東部の
 辰韓十二国のうちの
 斯蘆国
 「新羅本紀」
 建国
 前漢
 孝宣帝
 五鳳元年、甲子年
 紀元前57年・・・
 『三国史記』
 著者の
 「金富軾」
 慶州出身で
 新羅王家の一族だが
 高麗王家に仕え
 平壌が高麗から独立した反乱を鎮圧し
 武勲を上げた人物
 ↓↑
 『三国史記』
 新羅建国年
 紀元前57年
 『漢書』等の記録によれば
 紀元前108年
 漢の
 武帝が
 朝鮮半島に
 漢四郡を設置
 昭帝が
 紀元前82年
 朝鮮半島南部の
 真番郡を廃止
 『三国史記』
 慶州盆地に朝鮮
 「箕子(キシ)」
 朝鮮
 からの移民が住む6つの村
 閼川楊山
 突山高墟
 觜山珍支
 茂山大樹
 金山加利
 明活山高耶
 が
 「卵」・・・・「UFO」?
 から生まれた
 「赫居世」
 を王に推戴したのが新羅の始まり
 ↓↑
 新羅の建国神話
 「三姓の王」の交代
 初 代 赫居世 朴氏
 第四代 脱解  昔氏
 第13代 味鄒  金氏
        (始祖は味鄒より数代前の閼智)
 三姓が由来が異なって
 6つの村(新羅六部の前身)
 が関わる建国神話
 ↓↑
 朴氏の始祖説話
 朴氏の初代
 赫居世(赫居世=居西干)
 辰韓の六村の長の一人が
 蘿井(慶州市塔里面)の林で
 馬の嘶くのが聞こえ近寄ったところ
 馬が消えて大きな
 「卵」があった
 「卵」を割ると中から
 幼児が出てき
 10歳を越えた頃
 六村の人たちは彼を王位につけた
 「卵」
 が
 「瓠(ひさご)」
  瓠=夸+瓜
    大+亏+瓜
    大+一+丂+瓜
    大+二+瓜
    カク
    コ
     ひさご
    ふくべ
    ひょうたん
    瓢・瓠・匏(ひさご)
    瓠・瓢(ふくべ)
   「瓠落(カクラク)」
    丸く中が空虚なさま
 ↓↑
 瓠(ひさご)
 ほどの大きさで
 「辰韓」
 の語で
 「瓠」を表す
 「朴」を姓とした
 ↓↑
 紀元前57年
 13歳で王位(居西干)に就き
 国号を
 「徐那伐」
 とした
 ↓↑
 閼英井(南山の北西麓の羅井)
 に龍(娑蘇夫人)が現れ
 その左脇(『三国史記』では右脇)
 から生まれた幼女が長じ
 容姿端麗にして人徳を備えていたので
 「赫居世」
 は彼女(閼英夫人)を王妃に迎えた
 人々は赫居世と閼英夫人とを
 二聖と称した
 『三国遺事』
 赫居世と閼英夫人はともに
 中国から
 辰韓に渡来した中国の王室の娘
 「娑蘇夫人」の子・・・
 『三国史記』敬順王条末尾
 編者
 金富軾
 が中国の接待官から
 類似の話を聞いた記録が残されている
 「赫居世」
 の臣下には
 倭国から来たとされる
 倭人の
 「瓠公」がおり
 辰韓が属国であると主張する
 「馬韓王」
 に対峙させた・・・
 ↓↑
 昔氏の始祖説
 初代
 脱解(第4代脱解尼師今)
 『三国史記』
 「倭国 東北一千里の
  多婆那国(但馬・丹波地域)
  の王妃が妊娠後
  7年たって大きな卵を生んだが
  多婆那王は不吉であるとして
  卵を捨てるように命じた
  王妃は捨てるに忍びず
  絹の布で卵を包み
  宝物と共に箱に入れ
  海に流した
  その後
  金官国に流れ着いたが
  金官国の人々は警戒し
  これをとりあげなかった
  次いで
  辰韓の
  阿珍浦
  に流れ着き
  そこに住んでいた老婆が箱を拾って開けると
  中から一人の男の子が出てきたので
  育てることにした
  ↓↑
  姓氏がわからなかったので
  ある人が
  箱が流れ着いたときに
  鵲(カササギ)
  がそばにいたので
  鵲の字を略して
 「昔」を姓とし
  箱を開いて生まれ出てきたことから
 「脱解」
  と名付けた
 「脱解」は
 「瓠公」の邸宅を見て
  吉兆の地であると判断し
  相手を騙して土地を取り上げ
  これが後の
  新羅の拠点である
  月城になった
  新羅の第2代王
  「南解」
  は
  「脱解」
  が賢者であるのを見て
  娘(阿孝夫人)を与え
  第3代の
  儒理王は死に際して
  脱解に後事を託し
  脱解が王となった
 ↓↑
 金氏の始祖説
 始祖
 金閼智は
 第13代
 「味鄒(味鄒尼師今)」
 の7世祖
 脱解の治世に
 首都
 金城の西方の
 始林の地で
 鶏の鳴き声を聞こえたので
 夜明けになって
 瓠公に調べさせたところ
 金色の小箱が木の枝に引っかかって
 その木の下で
 白い鶏が鳴いていた
 報告を受けた
 脱解が役人に小箱を回収させ開かせると
 中から小さな男の子が現れた
 容姿が優れていたので
 脱解は喜んでこれを育てた
 長じて聡明であったので
 「閼智(知恵者の意味)」
 と名づけ
 金の小箱に入っていたので
 「金」を姓とした

 合わせて
 始林の地を
 鶏林と改名
 後に金氏が
 新羅王となると
 その始祖である
 閼智にちなんで
 国号も
 鶏林とした
 ↓↑
 新羅の初出記事
 『資治通鑑』巻104・太元2(377年)年条
 高句麗とともに
 前秦に朝貢したという記事
 4世紀頃が国家形成・・・
 ↓↑
 4世紀頃
 原三国時代
 弁韓
 辰韓
 考古学的遺物が分化する時期
 朝鮮半島島南部
 洛東江を境にして
 東側は新羅
 西側は伽耶
 476年
 『三国史記』「新羅本紀」
 新羅人は始祖から
 真徳女王までを上代
 武烈王から
 恵恭王までを中代
 宣徳王から
 敬順王までを下代
 ↓↑
 周辺諸国と新羅
 377年
 前秦
 への遣使が
 高句麗と共同で
 行われ
 初期の新羅は高句麗に対し
 相当程度
 従属的な地位にあった
 382年
 新羅は再度単独で前秦への遣使
 高句麗の承認があった
 新羅は建国初期から
 倭人の脅威にも晒され
 『三国史記』「新羅本紀」
 倭人の侵入があり
 戦いを繰り返していた
 百済と
 同調する
 伽耶諸国
 とも対立し
 倭が軍事支援を行っていた
 ↓↑
 韓国で発見された
 中原
 高句麗碑などの発掘史料
 広開土王碑など多くの史料
 新羅を高句麗の属民とし
 朝鮮半島で行われた大きな戦い
 高句麗は
 百済を「属民」としていたが
 391年
 倭国
 が
 百済・新羅
 を「臣民」としたため
 出兵し倭軍を撃退
 その戦いの中
 400年頃
 新羅の王都が
 倭軍に占領され
 高句麗が
 新羅に出兵し
 倭軍を蹴散らし
 「任那加羅」まで追った
 広開土王碑文
 『三国史記』
 『日本書紀』
 にこれらと対応する記録として
 新羅が
 高句麗と
 倭の両方に
 王子
 宝海(卜好)
 美海(未斯欣)
 を人質として送った
 中原
 高句麗碑は
 高句麗が
 新羅領内で人夫を徴発
 碑文は
 高句麗王と
 新羅寐錦(王)の関係を
 兄弟に擬制し
 高句麗王を兄としている
 ↓↑
 新羅が
 高句麗からの自立
 5世紀の半ば頃
 450年
 新羅が高句麗の辺将を殺害
 高句麗が新羅征討を計画
 新羅が謝罪し
 一旦問題は収まった
 454年
 高句麗が
 新羅領に侵入して戦闘
 翌年
 高句麗と百済の戦いで
 百済へ援軍を送る
 新羅は次第に
 高句麗に対し
 自立を明確にしていった
 ↓↑
 新羅の発展
 西暦500年
 即位の
 智証麻立干(在位:500年-514年)
 国号
 新羅とし
 王号を旧来の
 「麻立干」から
 「王」へと変更
 503年
 日付を持つ
 『迎日冷水碑』
 で
 「智証(至都蘆)」が
 「葛文王」を称し
 524年の日付を持つ
 『蔚珍鳳坪碑』
 法興王(在位514年~540年)
 「寐錦王」と称していることから確認
 ↓↑
 智証王の跡を継いだ
 法興王は更なる改革を続け
 520年
 「律令」を発布
 独自の官位制を制定
 140年ぶりの
 中国(南朝、梁)への遣使
 522年
 大伽耶(高霊)
 と婚姻
 532年
 伽耶地方の
 金官国を降伏させ併呑
 536年
 独自年号
 「建元」を制定
 527年
 仏教を導入
 「法興」
 の名はこの業績にちなむ
 王は廃仏派の群臣たちと対峙し
 処刑された
 異次頓
 侶阿道
 とともに新羅仏教の三聖人に数えられている
 「法興王」
 ↓↑
 真興王(在位540年~576年)
 高句麗と争い
 551年
 小白山脈を超え
 高句麗の10郡を奪った
 552年
 高句麗
 と
 百済の争いで
 漁夫の利を得る形で
 漢城(ソウル)
 を手中に収めて
 「新州」を置き
 朝鮮半島の西海岸に勢力を伸ばした
 475年
 百濟の
 漢城(ソウル)は
 高句麗によって奪われた都市で
 新羅の行動は
 百済との関係悪化を招いた
 553年
 百済の聖王が率いる軍勢を
 新羅軍が撃破
 聖王を戦死させた
 562年
 伽耶地方の
 大伽耶を滅ぼし占領
 洛東江下流域の
 伽耶諸国が新羅の支配下に入った
 王都では仏教の隆盛とともに
 寺院建築、仏教儀礼
 花郎
 と呼ばれる青年組織が制度化

 564年
 北斉に朝貢
 翌年
 「使持節東夷校尉楽浪郡公」
 に冊立
 568年
 南朝の陳に朝貢
 独力による
 南北両王朝との外交関係の構築は
 新羅が高句麗や百済と並んで
 東アジアの中で確固たる地位を確保した
 高句麗
 570年
 初めて
 倭国に使者を送って外交関係の構築を模索
 ↓↑
 589年
 隋が中国を統一
 高句麗と百済、新羅が
 隋に朝貢
 隋と国境を接する
 高句麗は
 軍事的圧力を強く受け
 隋の侵攻を受ける
 隋の高句麗遠征は失敗
 王朝は倒れ
 618年
 唐が興った
 新羅は
 高句麗、百済
 と同じように
 唐から冊封を受けた
 唐は当初三国の和解を促しつつ
 情勢の安定化を試みたが
 640年代
 高句麗への遠征を再び繰り返した
 ↓↑
 642年
 高句麗
 「淵蓋蘇文」
 がクーデターで
 実質的な支配者となり
 唐の侵攻に備えた
 百済では
 義慈王(在位641年~660年)
 即位
 新羅に侵攻
 新羅は敗北
 伽耶地方
 40城余りを失い
 大耶城(慶尚南道陝川)
 失陥の際に
 城主が妻子もろとも殺害
 城主の妻は
 新羅の王族
 金春秋の娘
 「大耶城の役」
 翌年
 高句麗と百済が和睦
 倭国とも連携
 新羅は孤立
 新羅の
 「善徳女王」
 「金春秋」
 旧金官国の王族に連なる
 「金庾信」
 が結束
 ↓↑
 643年
 新羅は
 唐に救援要請したが得られず
 逆に女王を退け
 唐の皇族を
 新羅王に据えることを要求され
 親唐派と反唐派の対立を生じ
 上大等
 「毗曇」
 が女王の廃位を求めて反乱
 「善徳女王」急死し
 「毗曇」の反乱は半月程度で鎮圧
 「金春秋(武烈王)」
 は
 「真徳女王」
 を立てて唐との関係構築を模索
 律令制度を取り入れる改革を始め
 650年
 新羅独自で用いていた年号(太和)を廃止
 唐の年号を用い
 唐との連携を強めた
 ↓↑
 655年
 高句麗
 百済
 から攻撃を受け
 唐に救援と出兵を依頼
 唐は
 658年
 高句麗遠征を行ったが失敗し
 方針を変更し
 百済を
 660年に攻撃
 新羅もこれに呼応して百済に出兵
 百済の将軍
 「堦白」
 を撃破
 百済の首都
 泗沘が唐によって攻略
 熊津も陥落
 百済は滅亡
 百済の遺臣は復興を目指し
 倭国や高句麗の支援を頼みに
 唐・新羅に対し反乱を起こしたが
 663年
 「白村江の戦い」
 で倭水軍大敗
 百済復興は失敗
 ↓↑
 唐は高句麗への攻撃を再開したが失敗
 666年
 高句麗の
 「淵蓋蘇文」
 死去
 息子たちが対立
 667年
 唐は
 高句麗に再遠征
 新羅
 文武王(在位661年~681年)
 は唐に呼応して
 30人の将軍と共に
 高句麗に攻め入った
 668年
 唐軍が
 高句麗の首都
 平壌を陥落させ
 高句麗滅亡
 唐軍は
 20万とされる捕虜を連行
 新羅軍も
 7000人の捕虜を得て王都へと戻り
 先祖廟に高句麗と百済の滅亡を報告
 ↓↑
 渤海の台頭
 新羅は高句麗最後の王
 宝蔵王(在位642年~668年)
 の外孫
 「安勝」を
 「高句麗王=報徳王」
 に封じ
 「高句麗の使者」
 を
 「倭国」に朝貢させた
 以後しばらくの間
 新羅の使者が帯同し
 高句麗使が
 倭国へ送られた
 これは
 新羅が
 高句麗を保護下に置いていることを
 外交的に示威
 「報徳王」
 の冊立とともに
 新羅王権の正統性を示し
 唐が設置した
 安東都護府
 に対抗する姿勢を示した
 ↓↑
 新羅は
 旧百済領の一部を併呑していたが
 唐は百済故地に置いた
 熊津都督府の都督に
 旧百済王族の
 「扶余隆」
 を据え
 新羅王と会盟を行わせ
 制圧した城や遺民の返還を要求した
 新羅は謝罪使を派遣し
 朝鮮半島全体を
 「羈縻州」
 とする唐の論理を逆手にとって
 「百済と新羅は共に唐の羈縻州であり
  境界をわかつべきではない」
 と主張して自らの行動を正当化
 670年
 軍事行動を起こし
 旧百済領に侵攻し
 672年
 2度目の謝罪使を派遣
 侵攻と謝罪を繰り返しつつ勢力を扶植
 唐は
 674年
 新羅征討軍を起こし
 675年
 新羅は3度目の謝罪使を派遣したが
 唐皇帝
 高宗(在位649年~683年)
 の逆鱗に触れ
 文武王の官職剥奪の問題にまで進展
 新羅は謝罪外交と並行して
 軍事的処置を取り
 676年
 伎伐浦で唐軍を破って
 旧百済領全域の支配を掌握
 唐は
 熊津都督府を
 遼東の
 建安城
 安東都督府を
 遼東城に後退
 唐はなお
 新羅征討を計画したが
 チベットの
 吐蕃の勢力によって
 朝鮮半島に兵力を回す余裕がなくなり
 678年
 新羅征討を断念
 新羅は朝鮮半島中部以南から
 唐の勢力を排除
 安勝の
 高句麗亡命政権
 684年
 に取り潰した
 ↓↑
 旧高句麗領には
 旧高句麗遺民
 靺鞨
 などが中心となって
 「渤海」が興った(698年)
 渤海
 東北地方(満州)南部
 朝鮮半島北部
 ロシア沿海州
 に相当する地域に勢力
 8世紀
 黒水部に対する
 渤海の勢力拡張を巡る紛争から
 唐と渤海の対立が深まり
 732年
 渤海が唐の登州(山東省蓬莱市)を襲撃
 唐は新羅に渤海攻撃を要請
 新羅による攻撃はほとんど戦果なしだったが
 唐と新羅の関係は改善
 翌年
 新羅は渤海攻撃の功績によって
 浿江以南の地を冊封
 渤海は
 8世紀後半の
 文王の頃には
 高句麗の後継者であることを意識し
 「高麗国王」を名のった
 新羅と渤海の間では緊張が高まり
 両国の対唐
    対日本
 関係にも影響を及ぼした
 ↓↑
 官吏の養成機関
 国学
 州・郡・県を基本と為す
 郡県制での地方支配体制
 旧新羅・任那・加羅領に3州
 旧百済領に3州
 旧高句麗領に3州
 の9つの州を設置
 副都五京によって
 地域支配
 ↓↑
 745年頃~750年代後半
 飢饉や疫病が発生
 755年
 日本の九州北部をはじめ
 日本へ亡命し
 帰化した新羅の民が多数いた
 移民の数が多いため
 天平宝字三年(759年)九月
 大宰府に
 新羅からの帰化人に対して
 帰国したい者があれば
 食料等を与えたうえで
 帰国させよとする勅を出した
 翌年には
 帰国を希望しなかった
 新羅人13人を
 武蔵国に送還
 ↓↑
 668年以降
 日本は遣新羅使を派遣
 672年
 「壬申の乱」
 大海人皇子(天武天皇)
 親新羅政策
 持統天皇(在位690年~697年)
 天武天皇の外交方針を継ぎ
 親新羅政策を執ったが
 対等の関係は認めず
 新羅が日本に従属し
 朝貢するという関係であり
 新羅は日本への朝貢関係をとった
 ↓↑
 持統天皇元年(687年)
 朝廷は帰化した新羅人14人を
 下野国
 新羅の僧侶
 百姓の男女22人を
 武蔵国に土地と食料を給付し生活が出来るようにした
 持統天皇三年(689年)
 帰化した新羅人を
 下毛野に移し
 持統天皇四年(690年)
 帰化した新羅人を
 武蔵国
 下毛野国
 に居住させた
 霊亀元年(715年)
 尾張国人の
 席田君邇近
 及び
 新羅人74人が
 美濃国を本貫地とし
 席田郡に移されるた
 天平五年(733年)
 ↓↑
 735年(天平7年)
 日本へ入京した新羅使が
 国号を
 「王城国」
 と改称したと事後通告したため
 日本の朝廷は無断で
 国号を改称した無礼を責め
 使者を追い返した
 日本と対等な関係を要求した為に悪化
 渤海が成立し
 日本へ遣日本使を派遣
 ↓↑
 736年(天平八年)
 遣新羅大使の
 「阿倍 継麻呂」
 は新羅で非礼な扱いを受け
 朝廷は伊勢神宮など諸社に
 新羅の無礼を報告し
 調伏のための奉幣
 以後
 新羅使を大宰府に止めて帰国させ
 入京を許さなかった
 「阿倍継麻呂」
 は新羅からの帰国途中に病死
 遣新羅使の帰国後
 平城京で
 天然痘とみられる疫病が流行
 疫病が新羅から
 持ち込まれたと信じられた
 ↓↑
 752年(天平勝宝四年)
 新羅王子
 「金泰廉」
 ら700余名の新羅使が来日
 日本へ朝貢
 使節団は
 奈良の大仏の塗金用に
 大量の金を貢いだ
 「三国史記」の
 752年記載には
 当時新羅の
 景徳王には王子がおらず
 太子
 「金乾運」
 が
 758年に生まれ
 「金泰廉」
 は新羅の王子を詐称した商人・・・
 「金泰廉」
 は自ら
 天皇陛下の臣下を自任し
 莫大な物を売却したのに
 買新羅物解
 にその目録が記されている
 翌年
 日本の使臣が新羅を訪問したが
 無礼な態度を理由に
 謁見できず追い出された
 激怒した日本は
 新羅を征伐する計画を構想
 ↓↑
 753年(天平勝宝五年)
 長安の大明宮での
 唐の朝賀で
 遣唐使
 大伴古麻呂
 が
 新羅の使者と席次を争い
 唐は
 新羅が
 日本の従属国である事実を受け
 新羅を下位に置いた
 新羅の
 景徳王は
 遣新羅使
 に謁しなかった
 ↓↑
 藤原仲麻呂の
 新羅征討計画
 天平宝字二年(758年)
 「安禄山の乱」
 報が日本にもたらされ
 「藤原仲麻呂」
 は大宰府をはじめ
 諸国の防備を厳にすることを命じた
 天平宝字三年(759年)
 新羅が日本の使節に無礼
 仲麻呂は新羅征伐の準備
 軍船394隻
 兵士4万700人
 を動員する
 遠征計画
 孝謙上皇
 と
 仲麻呂
 との不和により実行されなかった

 8世紀末
 新羅の国内が混乱
 再び日本に慇懃な態度をとり
 宝亀十年(779年)
 新羅は
 日本へ服属する御調(みつき)を携え使者を派遣
 新羅の混乱により多数の難民が
 日本列島へ亡命
 大量に帰化を申請
 日本側は
 「蛮国」の人民が
 天皇の徳を慕って帰化を願い出た事を嘉し
 帰化を許可
 ↓↑
 780年
 正規の遣新羅使は停止
 以後
 遣唐使の安否を問い合わせる使者が
 数度送られたのみ
 民間の交易交流は続けられ
 唐・日本・新羅商人により
 日本の文物を唐・新羅へ
 唐・新羅の文物を日本へ
 と運んだ
 新羅商人に
 「張宝高」
 がいる
 ↓↑
 下代(780~935年)
 780年
 武烈王の王統が絶え
 王位継承争い
 王位簒奪
 王都内
 での反乱が頻繁
 骨品制により
 新羅王族のみが
 上位官僚を占め
 官僚制度は行き詰まり
 災害や飢饉
 反乱や内戦
 渤海(698年~926年)
 との対立
 新羅は滅亡
 ↓↑
 恵恭王の時代
 第36代
 恵恭王の在位中
 律令体制の推進派
 と
 旧来の貴族連合的体制
 への復帰派との間に
 対立、反乱が多数発生
 ↓↑
 768年7月
 吉飡(7等官)大恭
 阿飡(6等官)大廉
 の兄弟の反乱
 貴族連合体制復活派の反乱
 王都を
 33日間包囲
 王の軍隊が平定
 770年8月
 大阿飡(5等官)
 「金融」の反乱
 「金融」は
 「金庾信」の後裔
 律令体制推進派
 ↓↑
 775年6月
 伊飡の金隠居の反乱
 元侍中の
 「金隠居」
 は
 「金融の反乱」後に退官
 反乱を起こした
 貴族連合体制復活派の反乱
 ↓↑
 775年8月
 伊飡の廉相
 侍中(現職)の
 「正門」
 が反乱を企て発覚誅滅
 「正門」は
 「金隠居」の退官の後に侍中に就任
 律令推進派の反乱
 776年正月
 新羅政府は教書を出し
 律令体制を強固に推進した
 「景徳王」
 が唐風に改名した百官の名称を
 旧来のものに戻した
 貴族連合体制派への譲歩
 律令体制推進の政策を廃止しようとするものではなく
 同年3月
 倉部(徴税)の史(3次官)を8名増員
 名目的には
 律令体制の推進を控えながらも
 国家財政や人民支配の強化という点において
 貴族層・官僚層の間には共通の意識が持たれていた
 780年2月
 伊飡の
 「金志貞」
 が反乱を起こし宮中を包囲
 同年4月
 上大等の
 「金良相(宣徳王)」
 が伊飡の
 「金敬信(元聖王)」
 とともに挙兵し
 「金志貞」
 を滅ぼす
 「恵恭王」
 も王妃ともに殺害された
ー----
 ・・・???・・・ナニを云いたいんだかは・・・
 その意図の是非を問わず
 侵略戦争とは多民族国家への
 武力侵入と略奪である・・・
 権力闘争、覇権闘争とは
 「血縁関係の近親者同氏」の
 「私服、私怨」の争いである・・・
 「宗教・思想・哲学」とは全く無関係な
 「損得、利害関係」の「利権」の争いである・・・
 ・・・ダレが結果として「儲かる」のか・・・
ー----
  ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/8
 ↓↑
 干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB

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権力を握った宦官・・・「甘露の変」・・・韓露之変

2022-08-20 18:36:48 | 古事記字源

 「井・眞・成」=セイシンセイ

        =精神性=政審所為・・・?

 ↓↑
 ツルのキュウリ・キュウリのツル
 「脈=ミャク=陌」の「窮理=キュウリ=鳩里」
 ↓↑
 巻きひげ
 薇(発条・ぜんまい・全妹?)髯(髭・鬚・須・卑下?)
 蕨(わらび)    全妹→ゼンマイ=全毎→毎=𠂉+毋?
           全姉→ゼンシ =全史→史=口+乂?
           全弟→ゼンテイ=全綴→綴=糸+叕?
           全兄→ゼンケイ=全経→経=糸+圣?
           母も父も同じ血統の
               競走(キョウソウ)馬
           ↓↑
           父が同じでも兄弟とは呼ばず
           母が同じ場合のみ「兄弟姉妹」
           父も同じ場合が「全」+「兄弟姉妹」
           父が違う場合が「半」+「兄弟姉妹」

 「玄宗皇帝=ゲンソウコウテイ=幻想行程」の日本人
 玄宗皇帝
 在位期間 先天元年8月3日 - 天宝15載7月12日
 (712年9月8日 - 756年8月12日)
 都城 長安
 姓  李・・・李=木+子
 諱   隆基
 諡号 至道大聖大明孝皇帝
 廟号 玄宗
 垂拱元年8月5日
 685年9月8日
  ~
 上元2年4月5日
 762年5月3日
      大運756年9月(71歳)丁丑印綬
 乙酉(庚 辛)正官・食神 死⇔壬寅偏財
 乙酉(庚 辛)正官・食神 死⇔乙巳正官
 戊寅(戊丙甲)  ・比肩長生⇔甲寅偏官
 戊午(丙 丁)比肩・偏印帝旺⇔庚午偏印
  申酉空亡
 ↓↑
 父   睿宗
 母   竇徳妃・・・
    竇=穴+賣
      宀+八+士+買
      宀+八+士+罒+貝
      トウ
      トク
      あな
      あなぐら
      みぞ
      物をたくわえておく穴
      くぐり戸
      溝・水道・水路
      竇(あな)
      竇(あなぐら)
      竇(みぞ)
    異体字
    窦=穴+卖
      宀+八+十+买
      宀+八+十+乛+头
      宀+八+十+乛+大+丶
      卖=十+买=売=賣
        十+乛+头
        十+乛+大+丶
        バイ
        うる・うれる
        あきなう・品物をうる
        うる・だます・裏切る
        うる・広める・宣伝する
     头=大+"=斗+丶=頭
     卖+α
     渎・牍・觌・㱩・犊・椟・赎・窦・黩

     买=バイ・かう=金をはらって品物を得る
       求める・あさる・まねく
     荬=バイ・「苣荬菜=キク科の植物」
 ↓↑
 竇=穴+賣・・・賣(売)買・・・比売(賣)=姫・媛・嬪
   宀+八+士+買
   宀+八+士+罒+貝
   トウ
   トク
   あな
   あなぐら
   みぞ
   物をたくわえておく穴
   くぐり戸
   溝・水道・水路
   竇(あな)
   竇(あなぐら)
   竇(みぞ)
 異体字
 窦=穴+卖
   宀+八+十+买
   宀+八+十+乛+头
   宀+八+十+乛+大+丶
   卖=十+买=売=賣
     十+乛+头
     十+乛+大+丶
     バイ
     うる・うれる・あきなう・品物をうる
     うる・だます・裏切る
     うる・広める・宣伝する
 ↓↑   ↓↑
     头=大+"=斗+丶=頭
 ↓↑   ↓↑
     卖+α
     渎・牍・觌・㱩・犊・椟・赎・窦・黩
 ↓↑   ↓↑
     买=バイ・かう=金をはらって品物を得る
          買う・求める・あさる・まねく
     荬=バイ・苣荬菜=キク科の植物
 ↓↑
 后妃 王皇后
 陵墓 泰陵
 年号 先天=712年~713年
 開元 713年~741年
 天宝 742年~756年

 ↓↑
 楊貴妃=楊 玉環・・・爪楊枝(つまようじ)
 ↓↑
 開元7年6月1日
 (719年6月22日)
 ~
 天宝15載6月14日
 (756年7月15日)
        大運753年10月(34歳)甲戌偏官
 己┏未(丁乙己)劫財・劫財    衰⇔丙申偏印
  支合 丙
 庚┗午(丙 丁)食神・偏印・印綬帝旺⇔乙未正官
 戊┗午(丙 丁)  ・偏印・印綬帝旺⇔丙申偏印
 戊┗午(丙 丁)比肩・偏印・印綬帝旺⇔甲午偏官
   子丑空亡
 ↓↑
 字   鴎(鷗)法・・・森鴎(鷗=區+鳥)外
 小字  玉奴・玉環
 称号  楊貴妃
 道号  太真(眞=匕+県)
 身位  王妃→貴妃
 出生  蜀州
 死去  馬嵬(山+鬼・異体字「㠕=山+阝+鬼」)
ー↓↑ー--

 つる=蔓
    植物の茎で、細く直立せず
    地面をはうか、他の物にまきついたり
    「巻きひげ」・・・ぜんまい=発条・薇
    などで付着するものの総称
    鉉=鉱脈(コウミャク)
       脈=つる・ミャク
    弦=弓の弦
    鶴=嘴と脚が長い水鳥の類
    釣瓶(つるべ)=井戸水を汲む桶

    鉤(鈎・こま)
     陰匿鉤距(イントクコウキョ)
      姿を隠したまま
      裏から人を陥れようとすること
     「鉤距」=外部の人に
          知られていない事情を探ること
     鉤章棘句(コウショウキョクク)
      読みにくい文章・奇怪で難しい文章
      釣り針のように
      引っかかりの多い文章
     「棘句」=とげ(刺)のある句
     鉤心闘角(コウシントウカク)
      高さのある建物が
      密集し数多く建っている様子
      知恵を振り絞って争いをすること
     「鉤心」=車軸・屋根の中心が集まっているところ
     「闘角」=角を突き合わせて戦うこと
    鉤縄規矩(コウジョウキク)
     物事の法則や基準になるもの
    「鉤」=曲線を引く時に使う道具
    「縄」=直線を引く時に使う道具
    「規」=円を描く時に使うコンパス
    「矩」=直角を描く時に使う定規
 ↓↑
 葛=艹+曷
   ・・・葛城皇子=中大兄皇子=天智天皇
            ↓↑
          古人大兄皇子は異母弟
          舒明天皇の第一皇子
          母は
          蘇我馬子の娘
          蘇我法提郎女(ほほてのいらつめ)
          蘇我入鹿とは従兄弟
          娘は
          倭姫王(天智天皇の皇后)
           ・・・倭姫=倭武の叔母も同名
          643年11月
          蘇我入鹿は
          斑鳩宮で
          山背大兄王とその一族を滅ぼし
          645年6月
         「乙亥の変」で
          中大兄皇子らによて
          蘇我蝦夷、入鹿が殺され
          古人大兄皇子は
          皇極天皇退位を受け
          皇位に即く事を勧められたが断り
          出家して吉野へ隠退
          645年9月12日
          吉備 笠垂・・・「笠前・新笠」
         (きびのかさのしだる)
          の
         「古人大兄皇子」
          謀反有りと密告を受け
          中大兄皇子が攻め殺させた
               ↓↑
               古人大兄皇子
          古人皇子=古人大市皇子=吉野太子
          とも呼称(穪=禾+爾
               称=禾+尓
               稱=禾+爯
                 禾+爫+冉)
               大兄=大市
                兄==市・・・?
         ↓↑
 穪=禾+爾=称=稱
   禾+一+八+冂+丨+㸚
   禾+一+八+冂+丨+爻
   禾+一+八+冂+丨+㐅+乂
   禾+一+八+冂+丨+㐅+丿
   ショウ
   あげる
   穪(あげ)る
   穪(かな)う
   穪(たた)える
   穪(とな)える
   穪(はか)る
   たたえる・ほめる・ほめたたえる
   となえる・となえ・名づける・呼び名
   はかる・目方をはかる・重さをはかる
   はかり・天秤・重さをはかる道具
   かなう・適合する・つり合いがとれる
   艹+日+匂
   艹+日+匃
   艹+日+勹+匕
   艹+日+勹+亾
   艹+日+勹+人
   カツ
   くず
   かずら
   かたびら
   つづら
   くずかずら
   くずぬの
   つる草の総称
   かずらの蔓で作った箱
   一裘一葛(イッキュウイッカツ)
    非常に貧しい暮らし
    「裘」は冬に着る毛皮の服
    「葛」は夏に着る薄い布の服
    一枚ずつしか持たず
    他の着替えを持たない貧乏
   瓜葛之親(カカツのシン)
    親類、縁者
    植物の瓜や葛の蔓が絡み合うこと
   人事葛藤(ジンジカットウ)
    人間と人間の争い
    「人事」=人間にかかわりのある事柄
    「葛藤」=かずらや藤がもつれて絡むさま
ーー↓↑ー--
  井   真 成
 (セイ  シンセイ
  い   ま なり・・・今也?
  ゐ   ま なり
  ゐ の ま なり)
  文武天皇三年(699年)
  ~
  天平六年=開元二十二年(734年)
  唐代の日本人留学生・官吏
  中国の古都
  西安で墓誌が発見
 ↓↑
 「井 真成」
 中華人民共和国で発見された墓誌に
 日本人留学生として記されていた姓名
 ↓↑
 陝西省
 西安市内の工事現場から発見
 中国西北大学が
 2004年10月12日
 に発表
 個人の所蔵物だったが
 西北大学付属博物館が収集
 ↓↑
 墓誌
 開元二十二年(西暦734年)
 正月(朔~十or廿)日に死去
 「尚衣奉御」
 の官職を追贈と記録
 中国で発見された
 最初の
 日本人の墓誌
 唐国への留学生の墓誌の唯一の発見例
 現存の
 石刻資料のなかで
 日本の国号を
 「日本」
 と記述した最古の例
 ↓↑
 墓誌原文
 ■は判読不明文字
 ↓↑
 贈 尚衣奉御井公墓誌文并序
 公
 姓  井
 字  眞成
 國號 日本
 才稱 天縱故能
 命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶
 朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終
 遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月
 日乃終于官弟春秋卅六皇上
 傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官
 卽以其年二月四日窆于萬年縣滻水
 原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠
 兮頽暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰
 乃天常哀茲遠方形旣埋于異土魂庶
 歸于故鄕
 ↓↑
 墓誌の訓読
 贈、尚衣奉御、井公墓誌文、并序。
 公、
 姓は井
 字は眞成
 國號は日本。
 才は天縱に稱ひ
 故に能く命を遠邦に■
 騁を上國に馳せり。
 禮樂を蹈み
 衣冠を襲ひ
 束帶して朝に■
 與に儔び難し。
 豈に圖らんや
 學に強めて倦まず
 道を聞くこと未だ終へずして
 ■移舟に遇ひ
 隙奔駟に逢へり。
 開元廿二年正月■日を以て
 乃ち官弟に終へり。
 春秋卅六。
 皇上■傷して
 追崇するに典有り。
 詔して
 尚衣奉御を贈り
 葬むるに官をして■せしめ
 卽ち其の年の二月四日を以て
 萬年縣滻水■原に窆るは禮なり。
 嗚呼
 素車は曉に引きて丹旐哀を行ふ。
 遠■を嗟きて暮日に頽れ
 窮郊に指びて夜臺に悲しむ。
 其の辭に曰く
 「乃の天の常を■
  茲の遠方なるを哀しむ。
  形は旣に異土に埋むるとも
  魂は故鄕に歸らんことを庶ふ」
  ↓↑
 墓誌の概訳
 姓は井
 字(あざな)は真成
 国は日本と号す
 天賦の才能が認められ
 選ばれて国命で
 遠国の
 日本から
 唐朝にやってきた
 衣冠束帯を着けて朝廷に上った様子は
 堂々としていた
 ところが思わぬことに
 一生懸命
 勉学に励み
 学業がまだ終わらない中で
 急に病気になり
 開元22年(734年)の1月に
 官舎で亡くなった
 36歳だった
 皇帝は大変残念に思い
 特別な扱いで詔を出して
 尚衣奉御を追贈し
 葬儀は公葬にした
 2月4日
 萬年県の郊外
 滻水東岸の原に埋葬することにした
 体は異土に埋葬されたが
 魂は故郷に帰るにちがいない
 「氣賀澤保規・中国史」
ー-↓↑ー-
  伝説の遣唐使
  井  真成
  い  まなり
  意  真名理・・・?
  意  真菜莉・・・?
  意  真魚利・・・?
  ↓↑
  委  申 請・・・?
  ヰ  シンセイ
  ゐ
  伊
  ↓↑
  井=廾+一
    ナ+丨 
    二+丿+丨
    一+一+丿+丨
    ショウ
    セイ
    い
    いげた(井桁)
    いど(井戸)
    まち・人の住んでいるところ
    井戸の周りに
    人が集まり住むことから
    地面に穴を掘り
    地下水を汲んだり
        汲み上げたりするもの
    「井の中の蛙」
    川や泉などで
    生活のための水を汲む場所
   「山の井」
    易(エキ)の六十四卦の一
    二十八宿の一・ちちりぼし
    青天井=青空・空を天井にたとえた・野天
    井桁=井の形に組んだ井戸の縁
    井筒=井戸の地上部分を囲っている部分
       中に落ちないようにするため
       木や石などの材料で
       井戸の穴を囲ったモノ
    井戸=地面を深く掘って
       地下水を汲み上げ
       用水として利用するための施設
    井戸端=井戸に近い場所・井戸のほとり
        井戸端会議
  相碁井目(アイゴセイモク)
   人それぞれの実力の差
   何をするにも差ができ
   囲碁の腕前にたとえた
  雲竜井蛙(ウンリヨウセイア)
   地位や知恵の格差の大小
   大空を翔る竜
   井戸の中にいる蛙
   竜は地位や知恵が高いこと
   蛙は低いこと
  甘井先竭(カンセイセンケツ)
   才能がある人ほど、衰退するのが早い
   「甘井」=うまい水の出る井戸
    うまい水が出る井戸は
    人がより多く集まるために
    水がなくなるということから
    「甘井先ず竭(つ)く」
         竭(かれる)
         竭(ことごと)く
         竭(つ)きる
         竭(つ)くす
         竭=立+曷
             曷=日+匃
               日+勹+亾
               日+勹+人
           立+日+匂
           立+日+匃
           立+日+勹+匕
           立+日+勹+亾
           立+日+勹+人
           カツ
           出し切る・なくなる
           水がつきはてる
           ことごとく
           もちあげる・高くかかげる
  ↓↑ 
  橘井杏林(キッセイキョウリン)
   医者の美称、敬称
  市井之徒(シセイのト)
   普通の人・素行の悪いならず者
   「市井」=町の共用の井戸
        井戸の周りに町を作ってた
        人家が集中している場所
        「徒」=多くの人々
  井蛙之見(セイアのケン)
   広い世間を知らず
   狭い見識にとらわれていること
   井の中の蛙、大海を知らず
  ↓↑
  渇に臨みて井を穿つ=慌てても間に合わない
   喉がかわいてから井戸を掘っても手遅れ
  坎井の蛙(カンセイのア)
   考えや見聞が狭く
   広い世界があることを
   知らない人を嘲笑する言葉
  井底の蛙(セイテイのア)
   見識や知識が狭く
   他に広い世界があることを
   知らない人を嘲笑するコトバ
   天井から目薬
   じれったくて、もどかしいこと
   回りくどくて効果のないこと
   二階から目薬
  ↓↑
  名字では
    井(わかし)
  阿 井  =あい
  相 井  =あいい=そうい=そおい
  阿 井 川=あいかわ
  青 井  =あおい
  阿迦井  =あかい=あがい
  今 井(いまい)
  新 井(あらい)
  平 井(ひらい)
  福 井(ふくい)
  大 井(おおい)
  萬 井(まんい・よろずい)
    井 戸
    井 上
  桂 井
  蔓 井
  藤 井寺
  葛 井寺(ふじいでら)
    
  大阪府
  藤井寺市
  藤井寺
  真言宗御室派の寺院
  聖武天皇より
  古子山
  葛井寺(紫雲山金剛琳寺)
  の勅号を得た
  葛井連の前身
  「白猪氏」
  は百済
  「辰孫王」の後裔
  「王辰爾」の甥である
  「胆津」を祖とし
  『日本書紀』によれば
  吉備国の
 「白猪屯倉」
  の田部の丁を定めた功績により
 「白猪氏」・・・白猪=伊吹山の「白猪」神
  の姓を賜った・・・
  奈良時代
  養老四年(720年)
 「白猪氏」は
 「葛井連(藤井連)(ふじいのむらじ)」
 に改姓
 「葛井(ふじい)寺」は
 一族の
 「葛井連(むらじ)広成」が創建した・・・
 「葛井一族」
  からは
 「大安寺」僧である
 「慶俊」が出ている
 ↓↑
 大同元年(807年)
 「葛井氏」の出身である
 「藤子(葛井連道依娘)」
 と
 「平城天皇」
 の間に生まれた皇子
 「阿保親王」・・・阿(おもね)て保(たも)つ
 によって再建
 「阿保親王」
 の皇子
 「在原業平」
 が奥の院を造営
 本尊千手観音坐像は奈良時代の作品
  ↓↑
  山号 紫雲山
  本尊 日本最古の十一面千手観世音菩薩(千手観音)
  聖武天皇の勅願寺で
  神亀二年(725年)に創建
  開山 行基
  西国三十三所第五番札所
  真言 おん ばざら だらま きりく そわか 
  ご詠歌 参るより
      頼みを
      かくる葛井寺
      花のうてなに
      紫の雲
  ↓↑
  藻 井=?
      ペルシャ絨毯の絵柄を
      天井に張り付けたような感じの
      建築装飾構造・・・?
      古くから中国の木造建築の装飾技術
      鉄の釘を使わずに
      深い感覚の藻井を積み上げる
      藻井の2つの形状
      円形の藻類井戸
      四角形の藻類井戸
      原文網址
      https://kknews.cc/other/k2r86bb.html
  ↓↑
 葛井氏説
 井上氏説
 帰化人の末裔、井上氏の一族
 葛井氏なら一字にする
 「葛」姓にするハズ・・・
 葛井氏は
 720年(養老四年)
 に下賜された姓(『続日本紀』)で
 「井 真成」
 がその3年間に唐に派遣された事実との年代的矛盾
 「井上忌寸」
 「葛井連」
 は同じ
 河内国
 志紀郡を拠点とする
 渡来系氏族
 「情 真誠」説
 「井」姓
 唐の時代から
 長安周辺の
 古代の周原地区
 (陳西省
  岐山県
  扶風県)
 に集中的に多い姓
  ↓↑
 高級官吏説
 「717年の留学生ではなく
  733年の遣唐使の随員(高級官吏)」
 唐の制度では
 官立学校の在学期間は最長9年までで
 「17年間留学した」
 ハズがない・・・
 日本が遣唐使を送ったのは
 20年に1回程度
 頻繁に遣使した新羅などとは異なり
 次の派遣で帰国するまでは
 残留が認められた・・・
  ↓↑
 死後追贈された役職
 「尚衣奉御」
 皇帝の衣服を管理する部門の
 責任者で従五品上の官
 新羅の例から
 元の官位より一階進めて遺贈
 「井 真成」
 は従六位下と推定
 遣唐使使節の随員の
 「准判官」
 となり日本記録には残らず
 遣使仮増位で従五位下とされ
 死に際し一階上の
 「尚衣奉御」が遺贈
  ↓↑
 「井 真成」
 の死は皇帝に報告され
 葬儀の費用は唐政府が負担
 三等官以上の外国使節に対する扱い
  ↓↑
 入唐間もない
 「尚衣奉御」の遺贈に合った身分ならば
 日本でも高級官吏
 遣唐使節での死去なら
 日本側の記録に残らないことはなく
 留学生として同行し
 「阿倍仲麻呂」
 のように唐朝官吏に抜擢されたが
 若くして客死して昇任せず
 唐側の記録には残らなかった・・・
  ↓↑
 「井 真成」
 が死んだ場所が
 短期滞在外国使節用の宿泊所の官第(かんてい)で
 「井 真成」
 が唐朝にとって客だった・・・
 長安在住の唐代官人は
 自宅から通勤するのが通例である
ー↓↑----
 天平六年=734年
 干支 甲戌
 唐  開元二十二年
 ↓↑
 元正上皇
 聖武天皇
 ↓↑
 知太政官事
 舎人親王
 ↓↑
 左大臣
 欠員
 ↓↑
 右大臣
 藤原武智麻呂(2/23-)
 ↓↑
 大納言
 藤原武智麻呂(-2/23)
 ↓↑
 中納言
 多治比県守
 ↓↑
 参議
 藤原房前
 藤原宇合
 藤原麻呂
 鈴鹿王
 葛城王
 大伴道足
 ↓↑
 2月4日
 出羽柵を秋田村高清水岡(秋田市)へ移設
 5月14日
 畿内七道に地震
 8月10日
 初めての相撲節会の記録
 ↓↑
 8月15日
 地震による
 世情不安で天下に大赦
 12月30日
 日食
 ↓↑
 唐王朝
 唐室
 李氏の高祖・太宗・高宗三代
 の
 母(女系)はすべて
 鮮卑系
 唐室李氏男系
 漢人の名門貴族
 隴西李氏
 「李耳(老子)」
 の子孫と自称
 『晋書』
 西涼の初代王
 「李暠」が遠祖
 西魏末年
 唐室李氏は
 西魏より
 大野(ダイヤ・おほの)
 という
 鮮卑姓を与えられ
 一時的にこの姓を名乗った
 ↓↑
 建国         618年6月18日
 突厥を服属させる   630年
 高句麗を滅ぼす    668年
 武則天の簒奪(武周) 690年~705年
 タラス河畔の戦い   751年
 安史の乱       756年~763年
 黄巣の乱       874年~884年
 滅亡 五代十国時代へ 907年6月1日
 ↓↑
 712年(先天元年)
 李隆基(玄宗)は
 睿宗から譲位され即位
 翌年、太平公主を処刑
 玄宗の治世前半
 「は開元の治」
 唐の絶頂期
 唐の羈縻支配
   冊封政策
 751年
 トランスオクシアナ
 の支配権を巡って
 アッバース朝と
 タラス河畔の戦い
 に敗北
 ↓↑
 玄宗は
 宰相の
 李林甫
 貴妃の一族
 楊国忠
 の専横
 楊国忠は
 節度使の
 安禄山
 と対立
 755年
 「安禄山の乱」
 節度使=玄宗が増加した官職
     辺境に駐留する藩師に
     軍事指揮権
     一部の行政権を与えた制度
 北方3州の節度使を兼ね大軍を握った
 安禄山は
 華北を席巻
 洛陽を陥落させ
 大燕皇帝
 と称した
 ↓↑
 長安を占領され
 玄宗は
 蜀に逃亡
 途中で
 楊貴妃
 楊国忠
 は誅殺
 玄宗は
 粛宗に
 譲位
 763年
 名将
 郭子儀らの活躍や
 回鶻(ウイグル)
 の援軍(太子の葉護ら)によって
 乱を平定
 安禄山
 と
 史思明
 の名をとって
 「安史の乱」
 軍事力増強のため
 藩鎮を増やした結果
 内地の節度使も増加
 五代十国時代まで
 各地に節度使が置かれた状態は続いた
 ↓↑
 中興の祖
 憲宗
 中央の命令に服さない節度使を討伐
 後
 不老長寿の薬といわれた
 丹砂(水銀)をはじめ怪しげな仙薬を常用
 精神に不安定をきたして
 宦官をしばしば殺害
 恐れた宦官により殺された
 孫の
 文宗
 は権力を握った宦官を誅殺しようと
 「甘露の変」と呼ばれる策略を練ったが失敗
ー↓↑ー--
 ・・・???・・・
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/8
 ↓↑
 干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB
 
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金蛙王・・・キンのカエルのオウ・・・

2022-08-18 23:14:51 | 古事記字源

 つもり・・・スルつもり・・・シタつもりの気分・・・
 太陽神=アポローン(Apollōn)
     「遠矢射る神」
     「詩歌・音楽・芸能・芸術の神」
     「羊飼いの守護神」
     「光明の神」
     「疫病・頓死の神」
     「治療神」
     「ヘーリオス(太陽神)」・・・
     前5世紀
     「ヘーリオス」と混同され
     ローマ時代
     「太陽神」と化した
     聖獣=狼・蛇・鹿
     聖鳥=ヒュペルボレオイの国から飛来する
        白鳥(しらどり)・・・大和建
        鴉(からす)・・・加羅州
        雄鶏(おんどり」)
        ・・・阿輩雞(鵻・鷄)彌=阿毎王朝
        鷹(たか)
        禿鷹(はげたか・コンドル=condor)
        蝉(せみ)
        海豚=いるか(デルピス)=入鹿
           イルカに変身=デルピニオス
                 「デルポイ」は地名
     武器=銀の弓矢
     シンボル=竪琴
          櫚・御柳
          月桂樹(ダプネー)
        ・・・桂小五郎
 月女神=アルテミス
    「疫病と死の女神」
    =ディアーナ(Diāna・Dīāna)
     「産褥の苦痛を免れる死を恵む女神」
      シンボル=熊・鹿・猟犬
           糸杉(いとすぎ)
         ・・・杉  寅次郎
            吉田 松陰
            吉田 寅次郎
            一族
            父  杉 常道
            母    瀧
            兄    梅太郎(民治)
            妹    芳子(千代)
                 児玉祐之の妻
            妹    寿
                 小田村伊之助
                (楫取素彦)の妻
            妹    艶 早世
            妹    美和子(文)
                 久坂玄瑞の妻
                 楫取素彦の後妻
            弟    敏三郎
           ↓↑
           糸杉(いとすぎ・シサン)
              意図諏義 史纂(簒)
              伊都洲疑?

 拿=合+手・・・
   亼+口+手
   人+一+口+手
   ダ・・・・・妥・兌・兊
         雫・蛇
         惰・楕・堕・媠
         隋=隨・陏・随・髄
         建・垂=埀・出・儺
         多・太・大
   ナ・・・・・名・奈・納・茄・並・勿・嘗
   つかむ
   とらえる
   ひく
   力強くひっぱる
   つかまえる=拿捕
   拿(つか)む
   拿(と)らえる
   拿(ひ)く
   異体字「拏=女+又+手
       㧱=合+手」
 亼=シュウ
   ジュウ・・・蒐・聚・拾
   あつまる=集
 ↓↑
 危(あぶ)ない、
 気(き)おつけろッ・・・テッ、か?
 ・・・ドウも、スミまセン・・・?

 ↓↑
 つもり・・・スルつもり・シタつもり・・・ツモッタ?
       気分・記文・紀文
       紀聞・記聞・奇聞・希文・黄文
 ↓↑
 気(き)押っ付けろッ・・・?
 ↓↑
 気を付ける(きをつける)・・・?
 気持ちや、記憶、頭、心に留め置くこと
 常時、危機的、緊急事態に備え行動できるようにしておく
 瞬時の出来事にも対処できるように心構えをしておく
 緊張しろ・油断するな
 気をつけろ
 注意を払え
 元気をつけさせる
 気づかせる・思い出させる
 留意・注意・用心
 ↓↑
 気をつけ(attention・take carefully)
 ↓↑
 直立不動となる人体の姿勢
 その姿勢を命ずる号令の一種

 ↓↑
 caution=コーション・警告する・戒める・要注意
 alert=アラート・警告
     alert・alerts・alerting
     warn・warned・warning
     警報
     alarm・alarming・alert・alerts
 warning=ワーニング
      厳重注意
    回避しないと
      死亡
      重傷を負う可能性がある危険状況
 attention=アテンション
      回避しないと
      軽度の傷害を負う危険状態
     「気を払う・意識を向ける・注意を向ける」
 ↓↑
 気=气+㐅(乂・乄・Ⅹ)
 氣=气+米
   𠂉+一+㇈(乁)+米
   𠂉+一+㇈(乁)+丷+木
   𠂉+一+㇈(乁)+丷+十+八
   キ
   ケ
   いき(意気・息)・・・意気込み・気迫・霊気
   くうき(空気)
   冷気(レイキ)
   寒気・熱気・温気・換気
   勘気=主人、親などの怒りにふれ、とがめを受けること
   うんき(雲気・運気)
   すいじょうき(水蒸気)
   たいき(大気)
   息・呼吸・息をふきかける・呼吸をする
   気張る
   やる気・する気
   やるツモり・するツモり
   ↓↑

   気長足姫尊
  (おきながたらしひめのみこと)『日本書紀』
   息長帯姫大神
  (おきながたらしひめのみこと)『古事記』
   大帯比売命
  (おおたらしひめのみこと)『古事記』
   大足姫命皇后『続日本後紀』
   大帯日姫『日本三代実録』
   ↓↑
   神功皇后
  (成務天皇40年~神功皇后69年4月17日)
   第14代天皇・仲哀天皇の皇后
   仲哀天皇崩御~応神天皇即位まで
   約70年間摂政
   在位 神功皇后元年10月2日~69年4月17日
   ↓↑
   父 開化天皇の玄孫の
     息長宿禰王
   母 天之日矛の子孫
       ・・・新羅王子=天日槍=天之日矛
     葛城高顙媛
        顙=䫙=ソウ
        顙=桑+頁=叒+木+頁
            額(ひたい)・頭
            ぬかずく
            頭を地面につけて
            礼をする
            お辞儀をする
        䫙=桒+頁
          十+卄+木+頁
          十+廾+木+頁
          十+一+丿+丨+木+頁
          桑+頁=桒+頁
          桑  =桒
          くわ
          クワ科の落葉 高木
              洛陽・落陽・酪陽
                 公僕・坑木・厚朴
              高木神=高皇産霊尊
              高木 兼寛(かねひろ)
              嘉永二年九月十五日
              1849年10月30日
              ~
              大正九年
              1920年4月13日

              高橋=膳=柏で
              高句麗・高麗
          ↓↑   
          葉=桑は蚕(かいこ)の飼料
            扶桑=日本=大和=倭
          桒⇔棄=亠+厶+丗+木=弃
              亠+厶+廿+丨+木
           揚棄=アウフヘーベン=止揚
           aufheben
          (独語・ヘーゲル哲学の認識論概念)
           拾い上げる・保存する・中止する
          「破棄する」の意
           弁証法の基本概念の一
           あるものを否定しつつ
           より高次の統一の段階で生かし
           保存すること
             =弃=云+廾
                亠+厶+廾
   ↓↑
   神功皇后の
   弟 息長日子王
   妹 虚空津比売
     豊姫
   ↓↑
   仲哀天皇二年一月
   立后
   天皇の九州熊襲征伐に随伴
   仲哀天皇九年・・・西暦367年?
   二月
   崩御
   三月
   熊襲征伐・・・熊(くま・ユウ)を襲(かさねる)
   十月
   新羅へ攻め込み
   百済
   高麗
   も服属させる(三韓征伐)
   十二月
   誉田別尊=応神天皇を出産
   ほんだわけみこと
   ・・・本を拿(合+手・あわ・ダ)せて別けて見る事?
        拿=合+手
          亼+口+手
          人+一+口+手
          ダ
          ナ
          つかむ
          とらえる
          ひく
          力強くひっぱる
          つかまえる=拿捕
          拿(つか)む
          拿(と)らえる
          拿(ひ)く
          異体字「拏=女+又+手
              㧱=合+手」
   ↓↑
   翌年
   仲哀天皇の嫡男、次男
   香坂皇子・・・香=禾+日
          坂=十+一+反
          日下・日下部
          草壁・草加部・久坂部・・・草彅
   忍熊皇子・・・忍=刃+心
          熊=ム+月(肉)+七(匕・ヒ)+灬
          熊(ユウ)の忍耐・我慢・・・熊親爺=ペリー
          熊津・球磨津・久万津
   と
   滋賀付近での戦い勝利、凱旋
   皇太后摂政となり
   誉田別尊を太子とした
   明治時代まで
   『常陸国風土記・扶桑略記・神皇正統記』
   で
   第15代天皇
   初の女帝(女性天皇)
   大正十五(1926)年
   皇統譜令(大正15年皇室令第6号)
   より正式に歴代天皇から外された
   摂政69年目に崩御
   ↓↑
   気=氣=息=大=一+人
          =壹+人=十一冖+豆(高坏・まめ・ズ)
          =壱+人=十一冖+匕(七)
ー↓↑----
 気=氣
 物質の三状態の一つ
 気体
 天地間に生じる自然現象
 元気・活力・人間の活動力の根源
 偉人の雲気(うんき)
 気力・気勢・心構え
 におい(匂)・かおり(香)
 においをかぐ(嗅ぐ)・におい(臭気)がする
 様子・けはい(気配)
 おもむき(趣)
 感じ
 陰暦
 一年を二十四分した
 一つの期間・二十四節気(節季)
 生命・意識・心などの状態や働き
 息・呼吸
 意識
 物事に反応する心の働き
 精神の傾向・気質
 精神の盛り上がり・気勢
 気分・気持ち
 あれこれ考える心の動き
 心遣い・心配
 物事にひきつけられたり
 恋い慕ったりする気持ち
 興味・関心
 何かをしようとする
 何かしたいと思う心の動き
 つもり
 天地に生じる自然現象
 空気・大気・水蒸気などの気体
 あたりに漂う雰囲気
 心に感じる周囲のようす
 ある物がもっている特有の香りや風味
 1年を24分した一つの
 15日間
 さらに
 3分した一つを候
 気は
 3候からなる=節気
 ↓↑
 金蛙王・・・キンのカエルのオウ
       カネをカエルのウオン?
       王=おう・わ・ワン⇔鰐(わに)・鬼(おに)
         王仁 倭 倭武 兔(うさぎ)桃(もも)太郎     
 東扶余
 第2代国王
 王朝 東扶余
 都城 迦葉原・・・河馬波羅
 父  解夫婁王・・甲斐布留⇔海部留・魁附留?
 母  不詳
 后妃 柳花夫人
 ↓↑
 金蛙王
 金蛙王(きんあおう・クムワワン)
 高句麗建国神話
 伝説上の人物
 扶余王
 「解夫婁(かいふる・ヘプル)」・・・経振る
 の子
 「東明聖王=朱蒙(シュモウ)」
 の父
 『三國史記』13巻
 高句麗本紀第1
 東明聖王
 「解夫婁」王はある日
 「鯤淵(コンヱン・地名)の池で
 王の乗っていた馬が
 岩を見て立ち止まり
 涙を流した
 王は不思議に思い
 その岩を動かしてみると
 「金色の蛙」
 の姿をした子供がいた
 王は天が私に嗣子を与えてくれたと思い
 名を
 「金蛙」
 と名付け太子とした
 その後、宰相の
 「阿蘭弗」
 が
 「天の神が私に降臨して
 『吾が子孫がいずれ国を作るだろう
  この地から離れなさい
  東海に
  迦葉原(かしょうげん)という地がある
  そこは五穀が良く実る
  ここに都を遷すと良いだろう』
 と言いった」
 と「解夫婁」に進言し
 王は都を迦葉原の地に遷し国名を
 「東扶余」
 とした
 「扶余の都」
 から元の王である
 「解夫婁」
 が退去した後
 天帝の子を自称する
 「解慕漱(かいぼそう・へモス)」
 がその跡地に現れて
 新しく
 「扶余王」となった
 これを
 「北扶余」という
 「東扶余」
 では
 「解夫婁」
 が死去した後
 「金蛙」
 が後を継いで
 「東扶余」王
 となった
 ↓↑
 柳花夫人(りゅうかふじん・ユファブイン)
 中国の
 「河伯」
 の娘
 高句麗の建国者
 朱蒙の母
 夫は
 「解慕漱」
 と
 「金蛙王」
  ↓↑
 『好太王碑』
 「(朱蒙は)天帝の子
  母は河伯の女郎」
 『魏書』高句麗伝
 『三国史記』高句麗本紀
 「河伯」・・・「魁罡」
 の女
 「柳花」
 が室内に閉じ込められ
 日光に感応
 「朱蒙」
 を生んだ
  ↓↑
 『日本書紀』
 天智天皇七年(668年)冬十月条
 「仲牟王(朱蒙)」
 は高麗(高句麗)を建てた時
 国の千年の存続を願ったが
 母夫人(柳花)は
 「善く国を治めても700年でしょう」
 と言った
 唐の大将軍
 「英公(李勣)」
 が
 高句麗を滅ぼしたのは
 まさに700年目であった・・・
 ↓↑
 冬十月
 大唐
 大將軍
 英公
 打滅高麗
 高麗
 仲牟王
 初建國時
 欲治千歳也
 母夫人云
 若善治國可得也(若或本有不可得也)
 但當有七百年之治也
 今此國亡者
 當
 在七百年之末也

  ↓↑
 『日本書紀』巻第二十七
 『続日本紀』延暦九年一月十五日(790年2月3日)
 「皇太后(高野新笠)」・・・桓武天皇の母
 の葬式の箇所に
 「(遠祖の都慕王は)
   河伯の娘が日光に感応して生んだ」
 「高野新笠」
 の諡号
 「天高知日乃子姫尊」
 ハコの伝説に因んで贈られた
 ↓↑
 明年正月十四日辛亥
 中納言正三位
 藤原朝臣
 小黒麻呂
 率誄人奉誄
 上諡曰
 天高知日之子姫尊
 壬午
 葬於大枝山陵
 皇太后姓
 和氏
 諱 新笠
 贈正一位
 乙継之女也
 母 贈正一位
 大枝朝臣 眞妹
 后先出自
 百濟
 武寧王
 之子
 純陀太子
 皇后容徳淑茂
 夙著聲譽
 天宗高紹天皇龍潜之日
 娉而納焉
 生今上
 早良親王
 能登内親王
 寳龜年中
 改姓
 爲
 高野 朝臣
 今上即位
 尊爲 皇太夫人
 九年 追上 尊號
 曰 皇太后
 其 百濟 遠祖
 都慕王者
 河伯之女
 感日精而所生
 皇太后即其後也
 因以奉諡焉
 『続日本紀』巻第四十
 ↓↑
 父 河伯
 夫 解慕漱
 夫 金蛙王
 子 朱蒙
 子 解夫婁王
 ↓↑
 高野 新笠(たかの の にいがさ)
 ?~延暦八年十二月二十八日(790年1月17日)
 光仁天皇の
 宮人、後 夫人
 桓武天皇
 早良親王
 能登内親王
 の生母
 桓武天皇の即位後
 皇太夫人
 薨去後
 贈皇太后
 贈太皇太后
 諡号 天 高 知 日之子姫  尊
   (あめたかしるひのこひめのみこと)
 ↓↑
 父は
 百済系渡来人
 「和(ワ・カ)」氏
 史姓の
 「和乙継(やまとのおとつぐ)」
 母は
 宿禰姓の
 「土師真妹(はじのまいも・真姝)
  ↓↑
 『続日本紀』
 父方の「和氏」は
 百済
 「武寧王」の子孫とされている
 高野朝臣は
 (たかの の あそん)
 光仁天皇
 即位後の賜姓
 ↓↑
 天智天皇の孫
 「白壁王(光仁天皇)」
 の宮人(側室)
 天平五年(733年)
 「能登女王」
 天平九年(737年)
 「山部王(桓武天皇)」
 天平勝宝二2年(750年)頃
 「早良王」
 を生む
 ↓↑
 白壁王
 天平十六年(744年)以後
 「称徳天皇」
 の異母妹
 「井上内親王」
 を正妃に迎える
 宝亀元年(770年)
 「称徳天皇」死後
 「天武系皇統」断絶
 62歳で
 「光仁天皇」
 となった
 皇后には
 「井上内親王」
 皇太子
 「他戸親王」
 ↓↑
 新笠の甥
 「和家 麻呂」
 が議政官に任ぜられた
 「蕃人の相府に入るはこれより始まる」
 と記された
 渡来人の身分は低く
 「新笠」
 の皇子達にも皇位継承権はなかったが
 宝亀三年(772年)三月
 「井上皇后」
 は、呪詛による大逆を図った罪で
 皇后を廃され
 「他戸親王」も
 五月に廃太子
 宝亀四年十月
 母子ともに庶人に落とされ
 大和国の没官の邸に幽閉
 宝亀六年(775年)四月二十七日
 幽閉先で死去
 宝亀四年(773年)一月二日
 「新笠」の子
 「山部親王(桓武天皇)」
 が立太子
 藤原式家の
 「乙牟漏」
 を妃に迎え
 宝亀五年
 「平城天皇」が生まれた
 ↓↑
 宝亀9年(778年)1月29日
 「新笠」
 従四位下~従三位
 「高野朝臣」
 を賜り夫人となったが
 立后はされず
 藤原式家の
 「藤原永手」の娘
 「藤原曹司」
 が従三位・夫人の位
 ↓↑
 天応元年(781年)四月十五日
 「桓武天皇」即位
 「新笠」は皇太夫人と称され
 四月二十七日
 正三位に昇叙
 皇太子に
 桓武天皇の同母弟
 「早良親王」
 が立ったが
 延暦四年(785年)
 「早良親王」
 は
 「藤原種継事件」
 に連座し淡路へ流され、自殺
 延暦八年
 「新笠」死亡
 「藤原乙牟漏」
 「藤原旅子」
 らが死亡
 「早良親王」の怨霊による・・・
 延暦二十五年(806年)
 太皇太后を追贈
 陵
 大枝陵(京都市
     西京区
     大枝
     沓掛町
     字
     伊勢講山)
 諡号
 「天高知日之子姫尊」
 百済王族の遠祖
 「都慕王(東明王)」
 は
 「河伯」
 の娘が日精に感じて生まれた人
 という伝承に因んだ名・・・
 ↓↑
 父の「和 乙継」
 百済系渡来人
 和氏(姓(かばね)は史(ふひと))
  ↓↑
 「光仁天皇」
 宝亀年間(770年~781年)
 「高野朝臣」と改姓
 母の
 「土師真妹」
 は
 土師氏(姓(かばね)は宿禰(すくね))
 桓武天皇即位後
 延暦九年(790年)
 大枝朝臣と改姓(没後賜姓)
 延暦八年までにどちらも死去
 正一位が追贈
  ↓↑
 『続日本紀』延暦九年一月十五日条
 「皇太后姓は
  和氏
  諱は新笠
  贈正一位
  乙継の女(むすめ)なり
  母は
  贈正一位
  大枝朝臣
  真姝なり
  后の先は
  百済
  武寧王の子
  純陁太子より出ず
  ……
  其れ
  百済の遠祖
  都慕王は
  河伯の女
  日精に感じて生めるところなり
  皇太后は即ち其の後なり」
 和氏を
 「武寧王」
 更に古くは
 「東明王」
 の子孫・・・
 『日本書紀』継体天皇七年(西暦513年)
 「百済太子
  淳陀
  薨」
 「純陁」
 「淳陀」
 「武寧王」の子に
  彼らに比定できる人物はいない・・・
  ↓↑
 「武寧王」の没年(523年)
 と
 「高野新笠」
 の推定生年(720年頃)には約200年の開き
 古い世代の帰化氏族・・・
 父方の
 「和氏一族」
 「和家麻呂(新笠の甥、桓武天皇の従兄弟)」
 以降、ほとんど知られていない
 ↓↑
 母方の土師氏
 「天穂日命」
 を遠祖とした出雲国造の分流
 「垂仁天皇」時代の
 「野見宿禰」を祖
 桓武天皇の頃
 土師氏は四系統に分かれ
 「真妹」の家は
 「毛受腹(もずばら)」
 和泉国百舌鳥古墳群
 百舌鳥地方(大阪府堺市)
 を本拠とする系統
 「真妹」の一族は
 「大枝朝臣(大江朝臣)」
 その他は
 「菅原朝臣」
 や
 「秋篠朝臣」
 を賜姓
 ↓↑
 高野朝臣の改賜姓
 宝亀年間(770年~781年)
 宝亀九年(778年)一月
 叙位記事に
 高野姓で記載
 高野朝臣姓は
 「乙継」
 「新笠」
 の父娘2人にのみ賜姓され
 後宮の后妃への
 賜姓は稀
 ↓↑
 「高野」
 字(あざな)
 奈良市高の原・・・
 宝亀年間
 孝謙・称徳天皇陵(高野陵)が置かれ
 孝謙・称徳天皇は
 「高野天皇・高野姫天皇」
 高野朝臣への改賜姓は
 宝亀三年(772年)
 聖武天皇の血統
 皇后・井上内親王
 皇太子・他戸親王
 が廃され
 「山部親王(桓武天皇)」
 の立太子に係る
 皇太子の母
 「新笠」
 が聖武天皇嫡女の
 「孝謙・称徳天皇」
 に縁の姓に改めることは
 皇太子を正当化するための措置
 母を介して聖武皇統に繋がるための
 擬制的な作為・・・説
 ↓↑
 新笠の陵
 山背国
 乙訓郡
 大枝(京都市西京区大枝沓掛町)
 伊勢講山の円墳が比定=明治13年(1880年)
 ↓↑
 延暦九年(790年)十二月一日
 桓武天皇は
 外祖父母の
 「高野(和)乙継」
 「土師真妹」
 に正一位を追贈
 祖母
 「真妹」
 に「大枝朝臣」を賜姓
 真妹の同族
 「菅原真仲」
 「土師菅麻呂」
 の2名にも
 「大枝朝臣」姓を与えた
 三十日
 土師諸士らの一族に
 「大枝朝臣」
 が賜姓
  ↓↑
 「菅原真仲」
 天応元年(781年)
 大和国菅原に因んで改姓した15人の一人
  ↓↑
 「高野新笠」の子
 「桓武天皇」の子孫は
 臣籍降下して
 源氏
 平家
 の武家統領などになった子孫もいる・・・
 ↓↑
 平野神社
 久度神社
 京都市北区平野宮本町
 に鎮座する
 延喜式名神大社平野神社は
 「高野新笠」と縁が深い神社
 今木神
 久度神
 古開神
 比咩神
 の四座
 平安京遷都によって京都に遷座
 今木神=今来の神
 渡来人
 田村後宮にあった
 今木大神は
 高野新笠
 山部親王
 が祭祀
 ↓↑
 久度神=竃神
 奈良県北葛城郡王寺町の
 延喜式内社
 久度神社だけ
 近くには
 「和乙継」の墓
 百済系渡来人
 「和氏」
 が祭祀していた神・・・
ー↓↑----
 「ドーリットル空襲(Doolittle Raid)
 第二次世界大戦中
 1942年(昭和17年)4月18日
 アメリカ陸軍
 航空軍の爆撃機(航空母艦より発進)
 によって日本本土を初めての空襲した
 名称
 爆撃機隊の指揮官
 ジミー・ドーリットル中佐
 に由来

 航空母艦ホーネットから発進した
 B-25双発爆撃機
 ミッチェル16機
 が日本本土攻撃をした一連の空襲
 ヨークタウン級
 航空母艦2隻(エンタープライズ、ホーネット)
 ハルゼー提督指揮下の
 アメリカ海軍機動部隊が
 太平洋を横断し
 日本列島(本州)東方海域に到達空襲
 日本本土各地
 東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸
 等)に空襲
 軍事的な戦果
 潜水母艦から航空母艦へ改造中の
 大鯨(龍鳳)が直撃弾で損傷

 中華民国国民革命軍の支援を受け
 日本本土爆撃後
 B-25のうち15機は
 中国大陸に不時着放棄
 この際
 一機が九州で墜落
 搭乗員8名が日本軍の捕虜となった
 一機はソビエト連邦支配地域に不時着
 搭乗員は抑留
 ↓↑
 アメリカ本土沿岸で
 通商破壊戦の
 潜水艦伊10
 サンフランシスコ市内の
 シェルターへの避難案内
 日系アメリカ人に対する強制退去命令
 ↓↑
 1941年(昭和16年)12月8日
 真珠湾攻撃以降
 日本海軍
 先遣部隊(指揮官清水光美第六艦隊司令長官)
 の一部潜水艦を抽出し
 先遣支隊が編成され
 アメリカ大陸西岸で行動
 巡潜乙型潜水艦計9隻or10隻
 (伊9、伊10、伊15、伊17、伊19
  伊21、伊23、伊25、伊26)
 アメリカ、カナダ、メキシコ
 西海岸に展開
 12月20日頃より
 アメリカに対する通商破壊戦を展開
 約10日間の作戦で
 航行中のアメリカのタンカーや貨物船を
 5隻撃沈
 5隻大破
 西海岸沿岸の住宅街沖わずか数キロで
 米貨物船を撃沈
 浮上して米艦船へ砲撃撃沈
 1942年(昭和17年)2月24日
 伊17乙型大型潜水艦による
 カリフォルニア州
 サンタバーバラ
 エルウッド石油製油所
 への砲撃
 フランクリン・D・ルーズベルト大統領は
 日本軍の本土上陸があると判断
 ロッキー山脈でこれを阻止する作戦立案を指示
 ニイハウ島事件の影響で
 日系アメリカ人の強制収容
 ↓↑
 アメリカ政府は
 日本軍の本土攻撃に対し
 国民の動揺と厭戦気分を防ぐ
 マスコミに対する報道管制
 ロサンゼルスに対する
 日本軍機の空襲を誤認し
 米陸軍による高射砲戦が行われ
 6人の民間人の死者
 (ロサンゼルスの戦い)
 米国の官民は混乱
 ↓↑
 1941年(昭和16年)12月8日
 開戦時
 真珠湾攻撃で米空母の捕捉に失敗
 日本海軍潜水艦部隊は
 幾度か米空母を発見するが
 損害を与えられなかった
 1942年(昭和17年)1月初旬
 伊号第三潜水艦が
 ハワイ近海で米軍機動部隊を襲撃失敗
 1月12日
 伊号第六潜水艦が
 「レキシントン型1隻撃沈」報告
 実際の戦果は
 「空母サラトガ」大破
 1月24日
 クェゼリン環礁に帰投した
 伊六からの詳細報告により
 連合艦隊はレキシントンの撃沈を確信
 警戒態勢を緩め
 南雲機動部隊(第一航空艦隊)を
 ラバウル攻略作戦
 南方作戦に転用
 1942年2月初旬
 米艦隊は
 マーシャル・ギルバート諸島機動空襲
 ウェーク島
 南鳥島
 など日本軍の拠点に牽制攻撃を敢行
 日本海軍は米軍機動部隊の奇襲に翻弄
 4月5日
 大本営海軍部は
 ミッドウェー攻略
 アリューシャン西部要地攻略作戦に同意
 1941年12月21日
 ホワイトハウス会議
 ルーズベルト大統領は
 アメリカ統合参謀本部に対し
 米国民の士気を高めるためにも
 可能な限り早く
 日本に爆撃すべきだと要求
 1942年(昭和17年)1月
 海軍作戦部作戦参謀
 フランシス・S・ロー海軍大佐(潜水艦出身)は
 空母ホーネットの状況を確認した際
 「航続距離の長い陸軍航空軍の爆撃機を
  空母から発艦させ
  日本本土を爆撃する」
 というプランを思いつき
 ロー大佐は
 アーネスト・キング提督に
 アイデアを説明
 航空作戦参謀
 ドナルド・B・ダンカン海軍大佐にも報告
 アーネスト・キング提督から
 ヘンリー・アーノルド陸軍航空軍司令官に伝えられ
 アーノルドは
 ジミー・ドーリットル中佐を
 任務の指揮官に選んだ
 艦載する爆撃機はB-25
 ↓↑
 B-25のうちB型から24機が本作戦用に改修
 1月22日から作業
 部隊は
 第17爆撃隊
 (第34、第37、第95爆撃中隊、第89偵察中隊)
 から志願者を選別
 長距離飛行のために
 燃料タンクを大幅に増設
 爆弾槽内や無線士席の脇にも
 燃料タンクが設置
 下部銃塔も撤去してタンクの設置場所に充てた
 作戦中は無線封止となるため無線機類は撤去
 爆弾は通常の500ポンド爆弾1発
 TNTとアマトール混合の500ポンド特殊爆弾1発
 焼夷弾128発を束ねたM54集束焼夷弾2発
 計4発
 2月1日
 ノーフォーク沖で
 ジョン・E・フィッツラルド海軍大尉
 ジェームス・F・マッカーシー海軍大尉
 がB-25Bをホーネットからの発進成功
 4月1日
 16機がサンフランシスコ・アラメダ埠頭で
 空母ホーネットの甲板にクレーンで搭載
 任務終了後は空母に帰投・着艦するのではなく
 日本列島を横断し
 中華民国東部に着陸予定
 蔣介石(中華民国総統)は
 日本軍の報復を恐れ
 着陸の延期を執拗に要請
 中華民国軍飛行場への
 誘導電波発信機設置は間に合わなかった
 アメリカ軍は
 ウラジオストクを避難場所とすることを検討し
 ソ連に提案したが
 日本と中立条約を結んでいたので拒否
 B-25を搭載する空母は
 ホーネット
 護衛には
 姉妹艦エンタープライズ
 ↓↑
 1942年(昭和17年)4月1日
 16機のB-25を搭載した空母ホーネット
 護衛の巡洋艦3隻
    駆逐艦3隻
 はサンフランシスコを出撃
 4月13日
 第18任務部隊(ホーネット隊)
 ハルゼー提督直率の
 第16任務部隊
 (エンタープライズ、巡洋艦2隻、駆逐艦4隻)
 と合流し、日本へ向かった
 事前の計画
 4月18日午後
 日本本土(本州)沿岸距離500浬地点で
 B-25隊は発進(各機500ポンド爆弾4個搭載)
 指揮官ドーリットル中佐機は
 夜間の東京に焼夷弾を投下
 火災を目標に後続機が爆撃を敢行
 (名古屋、大阪、神戸を各1機が空襲)
 空襲終了後は
 全機中国大陸に脱出
 ↓↑
 4月18日02:10
 エンタープライズはレーダーに2つの光点を発見
 米艦隊はSBDドーントレス爆撃機を索敵発進
 北緯36度4分
 東経153度10分地点で
 哨戒艇発見
 日本軍特設監視艇
 第二十三
 日東丸(日東漁業、昭和10年建造、90トン)
 は
 軽巡洋艦ナッシュビルの砲撃
 F4Fワイルドキャット
 (エンタープライズ)の機銃掃射を受け
 撃沈
 アメリカ軍は付近の日本軍哨戒艇を攻撃
 第二旭丸(第二哨戒隊)
 海神丸
 福久丸
 粟田丸
 第三千代丸
 第二十六南進丸
 長久丸
 機銃掃射で火災、漂流、沈没した
 「栄吉丸」はSBD1機と交戦、航行不能
 支援艦赤城丸に曳航されて本土に向かった
 ↓↑
 「第一岩手丸」
 米軍機の爆撃と機銃掃射で航行不能、沈没
 船員は潜水艦「伊七四」に救助
 ↓↑
 第二一南進丸
 航行不能、軽巡洋艦木曾が砲撃処分
 ↓↑
 長渡丸
 ナッシュビルが6インチ砲102発
        5インチ砲63発
 で撃沈
 ↓↑
 米艦隊は日本軍に発見され
 当初の夜間爆撃の予定をとりやめ
 予定より7時間早い08:15から
 B-25爆撃機を発艦後
 直ちに退避を開始
 B-25の7番機(テッド・W・ローソン中尉)
 の搭載爆弾には
 駐日米海軍武官補佐官
 ステファン・ユーリカ海軍中尉
 の所有物で
 日本から授与された
 紀元2600年祝典記念章が
 ドーリットルの手で装着されていた
 ハルゼー提督(エンタープライズ乗艦)は
 「諸君、利息をつけて
  この勲章を返してやれ、成功を祈る」
 と伝言
 ↓↑
 ドーリットル率いる
 B-25爆撃機16機中15機が爆弾投下に成功
 ↓↑
 日本軍に逮捕された爆撃機搭乗員8人は
 都市の無差別爆撃と非戦闘員に対する
 機銃掃射を実施した戦時国際法違反であるとし
 戦争犯罪人として扱われた
 アメリカは爆撃機搭乗員が捕虜になったことを知ると
 「彼らは軍事目標のみを攻撃した」
 と事実とは異なる主張を展開
 ↓↑
 1943年(昭和18年)4月23日
 アメリカはドーリットル隊員の処刑を報道
 日本政府に対して抗議
 日本側の行為を『野蛮人の蛮行』として非難
 大々的にプロパガンダに利用
 東條英機を「血に飢えた独裁者」であると宣伝
 1944年(昭和19年)
 これら捕虜を描いた映画
 『パープル・ハート』
 が20世紀フォックスによって製作
 ガダルカナル島の戦い
 アッツ島の戦い
 を経た同時期に至ると
 連合国の間では
 日本人絶滅政策を検討
 米軍の調査によれば
 約半数の米兵が
 「平和が回復されるまで
  日本人(軍人・民間人関係なく)は
  一人残さず殺すべきだ」
 1944年(昭和19年)12月
 の世論調査
 (戦争終了後、日本人に対する処置について)
 では
 アメリカ国民の13%が
 日本人の全員殺害を希望
 ルーズベルト大統領首席補佐官
 ウィリアム・リーヒ提督は
 「日本は我々のカルタゴ」
 と表現(1942年9月)

ー↓↑ー--
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/8
 ↓↑

 干支暦
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB

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