食い物次第・・・?・・・難民救済の「緒方貞子」氏
ナゼ
「禹豆満佐=うずまさ」
ナノのか・・・菜音(なの)か・・・?
カンジ分解で下向(文析・細分)し、上向(文積・止揚)
↓↑
独語・Aufheben(アウフヘーベン)=止揚・揚棄
合う譜(符)
併(経意)
弁(辯・卞)
↓↑
止揚・揚棄=Aufheben
ヘーゲル弁証法
低い次元で
矛盾対立
する二つの
「概念」や・・・概念の意味の止揚は判るが
「事物」を・・・事物はそれ自体が止揚物である
↓↑ 「事物・生物」のプロセスの変化
この事物は構造変化の
始~構造組織化~終~結果
↓↑
この結果の構造を
分解、分析し
知識として
積み上げ更新化
概念(ことば)化=形而上化
音声化
文字化=文章化
↓↑
この生物は形態変化の
始~形態組織化~終~死
分解、解剖し
概念(ことば)化=形而上化
↓↑
いっそう高次の段階に高めて
新しい調和と秩序のもとに
統一すること
・・・この日本語の説明は人間界での
「侵略戦争の始終・終始」にも当て嵌まる?
廃棄する・否定する
保存する・高める
という二様の意味で
ヘーゲルはこの言葉を用いて
弁証法を説明した
↓↑
「否定の否定の法則」・・・正⇔反 ⇔合
始⇔変化⇔終
がナゼ
「らせん(螺旋)的発展」
になるんだか・・・
渦巻・竜巻・螺子巻・左巻・藤巻・海苔巻
↓↑
うづまさ・・・秦=𡗗+禾=龵+乀+禾
丰(ホウ)=龵・・・棒(|)の右曲がり(乀)
𡗗=龵+乀
𡗗+α・・・あるふぁ・・・或る譜のアは「丫・蛙」?
春=𡗗+日
舂=𡗗+臼
泰=𡗗+氺
秦=𡗗+禾
奉=𡗗+キ
奏=𡗗+夭
一+夫+「禾・夭・氺・‡(十+一)・日・臼」
二+大+「禾・夭・氺・‡(十+一)・日・臼」
三+人+「禾・夭・氺・‡(十+一)・日・臼」
↓↑
春≠舂≠秦≠奏≠泰≠奉≠春≠舂
禹=ノ+虫(中+ム)+冂
ウ
夏(カ)王朝を開いた伝説上の王
名 文命(ブンメイ)
諡 禹
別称 大禹・夏禹・戎禹
姓 姒(ジ)=女(おんな)+似(にる)
姓・諱を合わせ
姒文命(ジブンメイ)
・・・自(己)分名(文明)
夏王朝創始後
氏 夏后
黄河の治水を成功させ伝説上の人物
↓↑
禹行舜趨(ウコウシュンスイ)
禹惜寸陰(ウセキスンイン)
禹湯文武(ウトウブンブ)
禹拝昌言(ウハイショウゲン)
禹歩舜趨(ウホシュンスウ)
禹立諫鼓(ウリツカンコ)
豆=一+口+ハ+一
まめ
満=氵+艹+両(丅+山+冂)
みちる・みつる
佐=イ+ナ+工
すすめる・佐酒=酒を勧める(奨める)
たすける
↓↑
雨蛙=あまがえる=蝦蟇=がま・・・蝦夷(歌意)
海女が得る
吾未臥重柳・・・小野道風・己同封
海部加得留・・・小野妹子・蘇因高(訴因項)
阿部変える・・・堀部安兵衛威
阿倍・阿邉
↓↑
「安倍 貞任(あべ の さだとう)」
平安時代中期の武将
奥六郡支配の
俘囚長
「安倍頼時」
の次男
厨川柵主
「安倍厨川次郎貞任」
妹聟に
・・・聟(知+耳)=むこ=婿=女+疋+月
壻 月=肉⇔冃
擡=扌+臺(台)
タイ・ダイ・もたげる
御台=御台所(みだいどころ)
貴人の妻に用いられた呼称
御台盤所(みだいばんどころ)
奥方様
「御台・御台盤」
貴人の食事を載せる台盤・御膳
「台盤所」=貴族の邸宅の配膳室
調理室=台所・kitchen
「藤原経清」
(奥州藤原氏初代
「藤原清衡」の父)
貞任と清衡は
伯父と甥の関係
↓↑
永承六年(1051年)
安倍氏と
朝廷から派遣されていた
陸奥守
「藤原登任」
が争い
12年間にわたって
「前九年の役」で
東北各地で戦闘
登任の後任
「源頼義」
が
永承七年(1052年)に赴任
後冷泉天皇の祖母
「上東門院(藤原彰子)」
の病気快癒祈願のために大赦
「安倍氏」も朝廷に逆らった罪を赦され
天喜四年(1056年)
阿久利川で
「藤原光貞」の営舎が襲撃され
「阿久利川事件」
頼義は事件の張本人と貞任の身柄を要求
父の頼時がこれを拒絶して開戦
天喜五年(1057年)
「安倍頼時」が戦死し
「安部貞任」が跡を継ぎ
弟の
「安部宗任」
とともに一族を率いて戦いを続けた
十一月
河崎柵に拠って
「黄海の戦い」で国府軍に大勝
衣川以南に進出
康平五年(1062年)7月
国府側に
「清原氏」が
「藤原頼義」側に加勢し形勢逆転
安倍氏の拠点で
小松柵・衣川柵・鳥海柵が陥落
9月17日
「厨川の戦い」で
「安部貞任」は深手を負って捕らえられ
「藤原頼義」の面前に引き出され死亡
享年四十四、or 三十四年
首は丸太に釘で打ち付けられ、朝廷に送られた
弟の
「安部宗任」は投降し
七年三月
伊予国に配流
治暦三年(1067年)
太宰府に移された
「安部宗任」は
背丈 六尺
腰回 七尺四寸
容貌魁偉な色白の肥満体
(『陸奥話記』による)
「衣川柵の戦い」で
「源 義家」
と和歌の問答歌をした
『今昔物語』には
「安倍頼時(貞任の父)」
は陸奥国の奥に住む
「夷」と同心したため
「源頼義」に攻められ
貞任・宗任兄弟らは一族とともに
「海の北(北海道)」
に渡り河の上流を30日余り遡ったところで
「湖国の人」の軍勢に遭遇
↓↑
父:安倍頼時
母:金為行の妹か
妻:千里 - 金為行の娘
生母不明
子女:千代童子
子女:春童子
男子:安倍高星
後裔
津軽地方の豪族
安東氏(秋田氏)は
貞任の子、高星(高星丸)の後裔を称した
群馬県利根郡みなかみ町
「湯檜曽 温泉(ゆびそ おんせん)」
は、貞任の子孫によって発見
貞任の息子を含んだ残党が
奥羽山脈の尾根道を南下し
新潟と群馬の県境で三手に別れ
それぞれ
姓を「阿部」に変え
新潟県 南魚沼の清水
群馬県 湯桧曽
群馬県 奥利根藤原
に分かれ住んできた・・・
↓↑
「阿部 正弘(あべ まさひろ)」
江戸時代末期
備後国
福山藩
第七代藩主
江戸幕府
老中首座
・・・海老=えび=蝦・蝦夷(えぞ・カイ)
「安政の改革」断行
阿部宗家
第十一(壱拾壱・11・一一・Ⅺ)
代当主
↓↑
文政2年10月16日(1819年12月3日)
第5代藩主
「阿部正精」の5男
江戸
西の丸屋敷で誕生
文政9年6月20日(1826年7月24日)
兄の正寧が家督を継ぐ
正弘は
本郷(文京区)の中屋敷へ移転
正寧は10年後の
天保七年(1836年)12月25日
正弘に家督を譲って隠居
天保八年(1837年)
福山へお国入り
正弘が国元へ帰ったのは1度のみ
天保九年(1838年)9月1日
奏者番
天保十一年(1840年)5月19日
寺社奉行見習
11月
寺社奉行
「感応寺の破却」
大奥と僧侶が乱交
家斉没後に露見
僧侶の
「日啓」や
「日尚」らを処断
大奥の処分は一部に限定
第12代将軍
「徳川家慶」
老中就任
天保十四年(1843年)閏9月11日
25歳 老中
辰の口(千代田区大手町)屋敷へ移転
天保十五年(1844年)5月
「江戸城本丸焼失事件」
「外国問題の紛糾」
などから
「水野忠邦」が老中首座に復帰
正弘は水野が復帰するのに反対
「天保改革」時代の不正を行っていた
町奉行
「鳥居忠耀」
「後藤三右衛門」
「渋川敬直」
らを処分
弘化二年(1845年)9月
老中首座の
「水野忠邦」
をも「天保の改革不正」を理由に
その地位から追い
老中首座となった
「阿部正弘」は
家慶、家定の2代の将軍の幕政を統括
嘉永五年(1852年)
江戸城西の丸造営を指揮し
1万石が加増
度重なる外国船の来航
中国のアヘン戦争勃発
に対応
弘化二年(1845年)~
海岸防禦御用掛(海防掛)を設置
薩摩藩の
「島津斉彬」
水戸藩の
「徳川斉昭」
など諸大名から幅広く意見を求め
「筒井政憲」
「戸田氏栄」
「松平近直」
「川路聖謨」
「井上清直」
「水野忠徳」
「江川英龍」
「ジョン万次郎」
「岩瀬忠震」
など人材登用し
人材育成のため
嘉永六年(1853年)
備後福山藩の藩校
「弘道館(新学館)」を
「誠之館」に改め教育を行った
だが藩政を顧みることはほとんどなく
藩財政は火の車
嘉永五年(1852年)
加増された1万石の天領
安那郡山野村
矢川村
神石郡上豊松
ほか14ケ村
古川村を除く
ほとんどの石高を
「誠之館」に注ぎ込んだ・・・
弘化三年(1846年)
アメリカ東インド艦隊司令官
「ジェームズ・ビドル」
が相模国浦賀(神奈川県)へ来航し
通商を求めたが
正弘は鎖国を理由に拒絶
七年後の
嘉永六年(1853年)
「マシュー・ペリー」
率いる東インド艦隊が
アメリカ大統領
「フィルモア」
の親書を携えて浦賀へ来航
七月
長崎にロシアの
「プチャーチン」
率いる艦隊も来航し商を求めた
「松平慶永」
「島津斉彬」
らの意見により
「徳川斉昭」
を海防掛参与に任命し
諸大名の幕政介入の原因となった
正弘は
「異国船打払令」の復活を諮問しが
海防掛の反対により断念・・・
「安政の改革」
嘉永七年1月16日(1854年2月13日)
ペリー再来
3月3日(3月31日)
日米和親条約締結
条約締結反対の
「徳川斉昭」
は締結後に海防掛参与辞任
安政㊁年(1855年)
攘夷派の
「徳川斉昭」の圧力により
開国派の
「松平乗全」
「松平忠優
を8月4日(9月14日)を罷免
開国派の
「井伊直弼」らの怒りを買い
孤立を恐れた正弘は
10月9日
開国派の
「堀田正睦」
を老中に起用し
老中首座を譲り
両派の融和を図る・・・
正弘は
「江川英龍」
「勝海舟」
「大久保忠寛」
「永井尚志」
「高島秋帆」
らを登用して海防の強化
講武所や長崎海軍伝習所、洋学所
などを創設
講武所は日本陸軍
長崎海軍伝習所は日本海軍
洋学所は東京大学
の前身となった
西洋砲術の推進
大船建造の禁の緩和
など
「幕政改革(安政の改革)」
安政四年6月17日(1857年8月6日)
老中在任のまま江戸で急死
享年39
跡を
甥(兄・正寧の子)で
養子の正教が継いだ。
正弘は
「将軍継嗣問題(家定の後継者問題)」で
「一橋慶喜」を推していた
自らは蘭方医の治療を最後まで拒否
肝臓癌による病死
激務の過労死・・・
暗殺・・・説・・・
「瓢箪鯰」のあだ名
明治四年までは旧暦
天保7年(1836年)
12月25日 - 家督相続。
12月28日 - 従五位下伊勢守に叙任。
天保9年(1838年)9月1日 - 奏者番と就る。
天保11年(1840年)
5月19日 - 寺社奉行加役を兼帯。
11月8日 - 寺社奉行加役から寺社奉行を兼帯。
天保14年(1843年)
閏9月11日 - 老中に異動。
12月15日 - 従四位下に昇叙。
天保15年(1844年)
6月13日 - 侍従を兼任。
7月22日 - 勝手掛を兼務する。
弘化2年(1845年)
2月22日 - 水野忠邦の老中辞職により
勝手掛兼帯のまま
先任により老中首座と就る。
5月29日 - 阿部家の家格を帝鑑間席とする。
安政2年(1855年)10月9日
堀田正睦の
老中再任及び首座と就るに及び
勝手掛兼帯のまま
老中次座
大正4年(1915年)11月10日
政府より贈従三位。
系譜
父:阿部正精(1775-1826)
母:高野貝美子
養父:阿部正寧(1809-1870)
正室:謹姫 - 松平治好の娘
継室:謐姫(1837-1873)
松平慶永養女、松平直春の娘
生母不明の子女
男子:篤之助
男子:哲次郎
男子:鋼蔵
六女:寿子(1850-1884)
松平茂昭養女、阿部正桓正室
養子
男子:阿部正教(1840-1861)
阿部正寧の長男
ーーーー↓↑ーー
安部・安陪・安倍・安邊
安武(則天武后)
安部正弘
綾部(あべ)=綾邊
・・・服部(はっとり)・・・呉服の部
秦氏
太秦(うずまさ)
・・・太い秦
太=大+丶・・・犬=大+丶
一+人+丶・・ 一+人+丶
太歳=辰星⇔木星
辰星=彗星=箒星=客星
太乙貴人・太陽・太陰・太洋
太=大+丶
タイ・ダイ
ふとい・ふとる
はなはだ
はなはだ・非常に・ひどく
年長者や貴人に対する敬称
日本語
肥える・肥えている・肥前・肥後
ふとい・ふてぶてしい・ずぶとい・大胆
肥える
㑀・汰・呔・㣖・忲・态・肽・迏・盇・钛
㳲・舦・粏・軚・酞・鈦・㗐・葢・駄・豓
太陽・太鳳・津太子
太巻=うずまき・おおまき・たまき
太秦=うずまさ・はた・はだ
太田(おおた)
太子堂(たいしどう)
太郎丸(たろうまる)
太子(おおし)
上太田(かみおおた)
悪太郎(あくたろう)
受け太刀(うけだち)
団扇太鼓(うちわだいこ)
お太鼓・御太鼓(おたいこ)
堅太り・固肥り・固太り(かたぶとり)
川太郎・河太郎(かわたろう)
木太刀(きだち)
着太り(きぶとり)
義太夫(ぎだゆう)
義太夫節(ぎだゆうぶし)
皇太后(こうたいごう)
皇太子(こうたいし)
皇太孫(こうたいそん)
小太鼓(こだいこ)
小太刀(こだち)
小太り・小肥り(こぶとり)
先太り(さきぶとり)
酒太り(さけぶとり)
脂肪太り(しぼうぶとり)
地団太・地団駄(じだんだ)
陣太鼓(じんだいこ)
助太刀(すけだち)
図太い(ずぶとい)
太陰(たいいん)
太陰暦(たいいんれき)
太虚(たいきょ)
太極(たいきょく)
太極拳(たいきょくけん)
太古(たいこ)
太鼓(たいこ)
廓然太公(カクゼンタイコウ)
太液芙蓉(タイエキのフヨウ)
太羹玄酒(タイコウゲンシュ)
太山鴻毛(タイザンコウモウ)
太山之安(タイザンのやすき)
太山府君(タイザンフクン)
太山鳴動(タイザンメイドウ)
太山梁木(タイザンリョウボク)
太盛難守(タイセイカンシュ)
太牢滋味(タイロウのジミ)
天下太平(テンカタイヘイ)
一姫二太郎
鉦太鼓(かねたいこ)で捜す
鉦や太鼓で探(さが)す
鉦や太鼓で捜(さが)す
肝(きも)が太い
肝っ玉が太い
神経が太い
地団太を踏む
獣を逐う者は目に太山を見ず
次郎にも太郎にも足りぬ
線が太い
太鼓判を捺す
太鼓判を押す
太鼓も桴(ばち)の当たりよう
太鼓も撥(ばち)の当たりよう
太鼓を叩く(たいこをたたく)
太鼓を持つ(たいこをもつ)
太山を挟んで北海を超ゆ
太平楽
太陽の照っているうちに干し草を作れ
太刀打ちができない
太刀打ちできない
だんだん良くなる法華の太鼓
抜かぬ太刀の高名
根太(ねぶと)は敵に押させよ
太く短く
弓は袋に太刀は鞘
与太を飛ばす
↓↑ ↓↑
雄略天皇の時代・・・
渡来系の豪族
秦氏(秦酒公)が
絹を「うず高く積んだ」
「禹豆満佐=うずまさ」
の号を与えられ
「太秦(タイシン)」の漢字を当てた
京都市
太秦
太=拠点の意・・・?
朝鮮半島(新羅)から
古代「秦国」から
百済東部に逃亡難民し
新羅に居住し
更に
日本に
渡来した秦氏の拠点
「太」・・・「太秦」
「うずまさ=渦雅」・・・秦酒公・太る
渦高い=うづ高い=堆(うずだか)い
太秦
秦系渡来人
京都府京都市右京区
太秦から発祥
平安時代に記録のある地名
471年(雄略天皇十五年)
「秦(はた)氏」が賜った名前・・・
ー↓↑ーー
広隆寺
秦氏の氏寺
国宝
木造弥勒(みろく)菩薩半跏(ハンカ)像(宝冠弥勒)
を安置
『日本書紀』
推古十一年(603年)
十一月条
「聖徳太子(厩戸皇子)から
「秦河勝」が仏像を賜り
「蜂岡寺(はちおかでら・広隆寺)を建立
『上宮聖徳太子伝補闕記』
『聖徳太子伝暦』
「秦河勝」
が聖徳太子に仕えて活躍した記録
ー↓↑ーー
大正期
「葛野郡
太秦村」
1931年(昭和六年)京都市に編入
↓↑
映画撮影所
時代劇映画の撮影所を置いていた
マキノ雅弘親子らのマキノプロ
阪東妻三郎プロ
片岡千恵蔵プロ
中小の映画会社多数の撮影所が密集
↓↑
日活(戦時統合で大映)
松竹
東宝(J.O.スタヂオ・1941年閉鎖
跡地は大日本印刷 京都工場)
大映画会社の撮影所
東映京都撮影所
↓↑
「児雷也」
河竹黙阿弥による
『児雷也豪傑譚話』(嘉永五年<1852年>)
などの歌舞伎に脚色翻案
1921年公開の
牧野省三監督の映画
『豪傑児雷也』
日本初の特撮映画
主演の
「尾上松之助」
の代表作
↓↑
肥後の豪族の子
尾形周馬弘行(おがた しゅうま ひろゆき)
越後
妙高山に棲む
仙素道人から教えられた
蝦蟇の妖術(大蝦蟇に乗る・大蝦蟇に変身)
を使う
妻は蛞蝓(なめくじ)の妖術使いの
綱手(つなで)
宿敵は青柳池の大蛇から生まれた
大蛇丸(おろちまる)
児雷也・大蛇丸・綱手
の「三すくみ」の人物設定・・・
↓↑
「自来也」の初登場
「感和亭鬼武(かんわてい おにたけ)」
による読本
『自来也説話』(文化三年<1806年>刊)
自来也は義賊
正体は三好家の浪士
「尾形周馬寛行(おがた しゅうま ひろゆき)」
蝦蟇の妖術を使って活躍
「自来也」
宋代の中国に実在し
盗みに入った家の壁に
「我、来たるなり」
と書き記したという
盗賊「我来也」(沈俶『諧史』所載)
を元にしたとされ
「自来也」の物語は
歌舞伎や浄瑠璃に翻案された
↓↑
左巻きは・・・鳴門まき・・・
巻物は「日本書紀」か、「古事記」か・・・
大蝦蟇の背中に乗って
「巻物」を咥えて「印」を切る「忍者」か・・・
「忍者」は「児雷也=自来也」・・・
ロシアの防戦は塹壕の周りの「地雷原」・・・
ーー↓↑ーーー
(ユカリとオジさんの世迷い言・2)
古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)
http://web.archive.org/web/20080501061632/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/fanin/pura2/kojiki42.htm
↓↑ ↓↑
エメラルドブルーの謎 (碧き眼の人形伝説) 奈井江 五郎
↓↑ ↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源) + (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
↓↑
干支歴
↓↑
追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
↓↑
メリキリの - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8
↓↑
モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
↓↑
モウ君の総合目次
↓↑
コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
↓↑
古事記と虎関師錬
↓↑鉄腕アトムのロボット法を思い出してこれを貼り付けてみたけれど・・・