くろふね・・・「伯理」・・・「彼理」
彼理(ペリー)=彼の理屈・理論・論説・・・
どうして「彼=かれ・ヒィ=he」なんだか・・・屁理屈・・・?
↓↑
マシュー・カルブレイス・ペリー
(Matthew Calbraith Perry)
綽名 「熊おやじ(Old Bruin)」
兄
オリバーの孫は
慶應義塾大学
英文学教師の
トーマス・サージェント・ペリー
(Thomas Sergeant Perry)
↓↑
ぺリー
1794年4月10日
~
1858年3月4日
大運1852年10月(58歳)甲戌偏官
甲 寅(戊丙甲)偏官・比肩長生⇔戊午比肩
戊┏辰(乙癸戊)比肩・正官冠帯⇔甲寅偏官
戊┗戌(辛丁戊) ・傷官 墓⇔丙申偏印
戊 午(丙 丁)比肩・偏印帝旺⇔甲午偏官
辰巳空亡
魁罡
↓↑
彼=彳+皮・・・行人偏のヒ(かわ・皮・革)・・・カワ=化話
第三者としての呼称・あいつ
彳=テキ・チャク・行(ギョウ)人偏
「彳=交叉」+皮=皮膚と皮膚の繋ぎ目
皮膚=肌(膚=虍+胃)
彳+乛+丿+ı+又
皮の異体字「𠬱・𠰎・𡰻・𤿌・𤿤・𥬖・⽪」
ヒ・・・he
かの
かれ
あれ・あの人・あの人たち・向こうの人や物
かの・あの・向こう・向こうの
「皮=乛+丿+ı+又=skin」
体の表面を覆っている膜状のもの
動物の皮を剥いで平らに延ばし
乾かしたりしたものは「革」
鞣(なめ)したものは「韋」
波=水面の皺
𤿎=比+皮=𢻹=比+攵(𠂉乂)
ヒ・ビ
𢻹=上𠤎匕比𠂉乂又攵・皮=𤿎
裂けて孔(あな)が開いた布
割れ目が入った器、罅(ひび)
𤿙=此+皮=𠂱=此+乃
シ
𠂱=上止七𠤎匕此乛ノ丿又皮=𤿙
皮の皺(しわ)
↓↑
彼方(おちかた)
彼岸田(ひがんだ)
西彼町伊ノ浦郷(せいひちょういのうらごう)
西彼町大串郷(せいひちょうおおくしごう)
西彼町風早郷(せいひちょうかざはやごう)
↓↑
小彼=おがの
彼方=おちかた・かなた
彼塚=かなつか・かのつか
彼崎=かのさき・そのさき
彼島=かのしま
↓↑
彼(かの)
彼(かれ)
↓↑
彼奴(あいつ)
彼処(あそこ)
彼方(あなた)
彼の(あの)
彼の世(あのよ)
↓↑
彼岸(ヒガン)
彼も一時、此れも一時
(かれもいちじ、これもいちじ)
・・・掛例模一事・此例模一字?
↓↑
彼も人なり、我も人なり
↓↑
彼を知り
己を知れば
百戦
殆(あや)うからず・・・殆=歹+ム+口
↓↑
何や彼や(なにやかや)
二十(はたち)過ぎての意見と
彼岸過ぎての肥(こえ)はきかぬ
・・・戦国時代
二十歳になった青年武将は
主君の紋所を
染め抜いた
旗を背中にくくりつけて戦場に出た
旗には
「旗乳(はたち)」
と呼ばれる
竿を通す輪が
年齢に合わせて
20個ついており・・・20は多すぎないか?
戦場で旗を掲げ、それを有する
資格年齢、年代=二十路だろう・・・
「命を賭けた決断のできる年齢(成人)」
という意・・・説
そぢ=十路・・・10年間単位の「年代」だろう・・・
乳(ち)=矩形の旗布の天と横の一方の縁に付けられた輪
乳(ち)=布製の筒によって竿に固定する
「乳付旗(ちつきばた)」
旗竿への接合部分を袋縫いにして
竿に直接縫い付ける
「縫含旗(ぬいふくめばた)」
↓↑
彼岸過ぎての麦の肥(こえ)
三十(みそじ)過ぎての男に意見
・・・三(み)+十(そぢ)・・・
十=拾(ひろう)=足(たりる)=路(みち・ぢ)
↓↑
黒船
1853年7月8日(嘉永六年六月三日)
浦賀入港
癸┏┏丑(癸辛己)正官・正官 養
己┏┗未(丁乙己)傷官・劫財 衰
丙┗┏子(壬 癸) ・偏官 胎
甲┗┗午(丙 丁)偏印・比肩帝旺
申酉空亡
通詞役・・・「堀 達之助」・・・ドイツ通商要求書簡独断没収の罪で入牢
「英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書」編纂
慶應元年、函館奉行所通詞
1854年2月13日(嘉永七年一月十六日)
サスケハナ、ミシシッピ、ポーハタン
3隻の蒸気船を含む7隻の艦隊は
条約締結を求め日本を再訪
↓↑
サスケ ハナ 川
Susquehanna River
オチンゴ湖水源の河川
サスケハナ族=ネイティブ・アメリカン言語族・・・インデアン語
1マイルの幅、1フィートの深さ
「アルゴンキン」語族の言葉で・・・有る、言、金?
「泥まみれの流れ」・・・泥流・淀(澱)んだ流れ
「曲がりくねった流れ」・・・曲解・曲者・歪曲・よこしま
上流で「無煙炭」の発見
↓↑
サスケハナ郡・・・・佐助洟・猿飛佐助の鼻?
Susquehanna County
Pennsylvania
アメリカ合衆国
ペンシルベニア州の
北東部に位置する郡
↓↑
3月31日(嘉永七年三月三日)
神奈川で日米和親条約調印
↓↑
甲寅(戊丙甲)食神・食神 病
┏丁卯(甲 乙)正財・傷官 死
┗壬寅(戊丙甲) ・食神 病
丙午(丙 丁)偏財・正財 胎
辰巳空亡
ーーーーー
・・・
彼理(ペリー)
彼理 江戸湾に闖入するに際し
蒼皇措置を失したる、また宜べならずや
外交の紛雑、幕閣豈に責なしとせんや
吉田松陰 (新字新仮名) ・ 徳富蘇峰(著)
↓↑
嘉永六年癸丑
十年四方に遊学の公許を受く
六月朔日、江戸に着す
六月三日、米国水師 提督 彼理 浦賀に来る
七月、家定将軍となる〔温恭公〕
七月、露艦長崎に来る
吉田松陰 (新字新仮名) ・ 徳富蘇峰(著)
ーーーーー
・・・???・・・誰彼・・・
↓↑
林復斎=岩瀬忠震
寛政十二年十二月二十七日
1801年2月10日
~
安政六年九月十七日
1859年10月12日
大運1853年1月(51歳)甲申劫財
辛 酉(庚 辛)偏官・正官 絶⇔己未偏財
┏庚┏寅(戊丙甲)正官・正財帝旺⇔甲戌劫財
┗乙┗亥(戊甲壬) ・正財 死⇔癸未偏印
壬 午(丙 丁)印綬・傷官長生⇔戊午正財
申酉空亡
↓↑
父 林述斎
兄弟 林檉宇
鳥居耀蔵・・・鳥居耀蔵
復斎
子 鶯渓
学斎
↓↑
朱子学者 林家当主
復斎は号
本名
「岩瀬忠震」
別名 韑(あきら、諱)
字 弸中
號 梧南・藕潢
大学頭
↓↑
黒船来航時の
日本の交渉責任者
↓↑
「堀利煕」は甥
↓↑
嘉永六年(1853年)
本家大学頭家を継いでいた甥の
「壮軒(健)」
死去し大学頭家を継ぐ
小姓組番頭次席
大学頭と改名
54歳で
林大学頭家
十一代当主
↓↑
アメリカ合衆国
東インド艦隊
司令長官
マシュー・ペリー提督の
黒船、浦賀に来航
復斎は
日本側全権の
応接掛(特命全権大使)に命ぜられ
永禄九年(1566年)
~
文政八年(1825年)まで
対外関係史料を
国別・年代順に配列した史料集
『通航一覧』(350巻)編纂
各藩大名の歴史をまとめた
『藩鑑』編集
↓↑
安政元年(1854年)正月
ペリー艦隊再来
「復斎」
は町奉行
「井戸覚弘」
とともに応接掛として
老中
「阿部正弘」から任命
横浜村で交渉
交渉は漢文での応酬
異国船への
薪水食料の給与はやむを得ずとしたが
通商要求は拒絶した
↓↑
米国艦隊との交渉記録
『墨夷応接録』(墨夷=アメリカ)
にまとめた
↓↑
和親条約締結
下田追加条約
三月三日(1854年3月31日)
横浜村で
「日米和親条約」締結
条文は
日本文
漢文
英文
の3種類で交換
日本文署名者の筆頭は復斎
日本側が英文版への署名を拒否し
国際法上の条約締結の体裁が整わず
条約正文を
何語にするかも結論が出ず
新たな開港地予定の
下田・函館を
米艦隊が視察した後
下田で再び交渉を行うこととなった
↓↑
「覚弘」
「鵜殿 鳩翁」
が下田取締掛として任命され
目付
「岩瀬忠震」
「永井尚志」
なども下田へ派遣されたが
ペリーとの交渉役は「復斎」であった
交渉で
漢文版を廃し
条約正文を
日本語・英語・オランダ語
の各語版とすること
英文版へ日本側全権が署名すること
異国人遊歩地の範囲
批准書交換
などその他の手順が決定され
下田追加条約
(additional regulations・条約附録)
を締結した
↓↑
安政六年(1859年)
死去・享年60
牛込の下屋敷(新宿区市谷山伏町林氏墓地)
に埋葬
↓↑
長男
「鶯渓(晃)」
は
「復斎」
が大学頭家の家督を継いだ際に
第二林家を継承し
次男の
「学斎(昇)」
を大学頭家の後継者とした
ーーーーー
???・・・名前の示唆だけれど・・・怪しい幕末・明治
「?」・・・コジキ・キキに散らばっているジンブツのカンジ・・・
林・岩瀬・復斎・鳥居・鶯渓・堀・・・
櫻田・井伊・阿部・岩倉・三条・・・
渡邉・高野・尾関・ 天保十年(1839年)・尚歯会(會)・・・
高橋・文政十一年(1828年)・・・
桂・吉田・杉・日下・高杉・坂本・勝・・・西郷・大久保・・・
本居宣長・・・賢瑜・・・
↓↑
松浦武(竹)四郎・・・
↓↑
文化十五年二月六日
1818年3月12日
~
明治二十一年
1888年2月10日
大運1886年4月(68歳) 壬戌偏印
戊 寅(戊丙甲)偏財・偏財建禄⇔戊子偏財
乙┏卯(甲 乙)劫財・比肩帝旺⇔甲寅比肩
甲┗戌(辛丁戊) ・正官 養⇔辛亥正官
庚 午(丙 丁)偏官・食神 死⇔甲午比肩
申酉空亡
ーーーーー
・・・