・・・イヤァ~、壮絶でスゴイッ・・・サッカーのワールドカップ(W杯)ブラジル大会は29日、決勝トーナメント1回戦、2試合・・・オランダ(阿蘭陀)VSメキシコ(墨西哥)に「2—1」で逆転勝ち・・・コスタリカ(哥斯達利加)VSギリシャ(希臘)と「1—1」の後、延長、PK戦でコスタリカ(哥斯達利加)が「5—3」で制し、初の8強入り・・・
それにしても、「サッカー」はダレのモノなんだろう・・・ローマ帝国の剣闘士・・・ブラジル・ワールドカップの賞金総額が5億7600万ドル(約5886億4000万円)・・・優勝国には3500万ドル(約35億6000万円)、準優勝国には2500万ドル(約25億5000万円)が支払われる。3位には2200万ドル(約22億4000万円)、4位には2000万ドル(約20億4000万円)・・・敗退しても800万ドル(約8億1000万円)・・・賞金とは別に、同大会に出場する32カ国には準備金として150万ドル(約1億5000万円)が支給・・・地球的世界拝金帝国の歓喜はコロッセオ(円形闘技場)と電波に乗るTV画面の前・・・貧困な人々の息抜きの「興行」でもないようだ・・・スパルタクスは泣いているかも・・・
ーー
以下は「コスタリカ」の紹介記事
↓
Republic of Costa Rica
コスタリカ共和国
1983年に
永世非武装中立宣言を行ったが、
非常時に軍隊を組織することは
憲法で認めていること、
米州相互援助条約(リオ条約)という
集団安全保障体制があることと、
「公安警察」が実質的に
国防を担っており、
ドミニカ内戦終了後に
米州相互援助条約の下で
警備隊を派遣しているなど、
単なる
政治的宣言でしかないと捉えられている。
↓↑
・・・だから、ドウだってんだ・・・「政治的宣言」であったとしても「反戦憲法」である・・・
サッカーだけじゃなく、「コスタリカ」には「平和憲法」で世界にカッテほしい・・・
↓↑
以下はスベテ「ウイッキペデア」の原文を参照、参考にしたモノ・・・
ーーーーー
中米
コスタリカ共和国(哥斯達利加)
中央アメリカ南部に位置する共和制国家
北にニカラグア
南東にパナマと国境を隣接
南は太平洋
北はカリブ海に面している
首都はサン・ホセ
↓
1949年
常備軍を廃止する憲法が成立
憲法第12条
常設的機関としての軍隊は禁止
コスタリカ共和国憲法第12条
同じに
憲法によって
非常時徴兵を規定
「大陸間協定により、
もしくは国防のためにのみ、
軍隊を組織することができる」
集団的自衛権の行使や
自衛権の行使などの
非常時には
軍隊を組織し
徴兵制を敷くことを認めている
ーー↓↑
1953年
大統領選挙
フィゲーレスの国民解放党(PLN)が勝利
フィゲーレス政権は
「兵士の数だけ教師を」を合言葉に、
軍事予算を教育予算に回し教育国家に転換
ーー↓↑
1983年
ルイス・アルベルト・モンへ大統領が
「コスタリカの
永世的、
積極的、
非武装的中立に関する
大統領宣言」
中央アメリカでは政治的に安定
経済状態も良好な国家であった
だが、
1990年代以降
麻薬の横行で
治安の悪化と社会の不安定化
ーー↓↑
2002年
アペル・パチェーコが大統領に就任
大統領は、
アフガニスタン攻撃に続いて
2003年3月の
イラク戦争開始時に
米ブッシュ政権を支持する声明に署名
↓↑
常備軍を廃止したコスタリカの
平和憲法の精神や国際法に違反していると、
当時コスタリカ大学の学生が
最高裁憲法法廷に提訴
2004年12月
最高裁が大統領声明を無効とし、
支援国のリストから外れるように命じた
しかし
政府は支援を停止することはしなかった
カルデロンとロドリゲスの二人の
元大統領が汚職で逮捕
ーー↓↑
2006年
アリアス大統領が大統領
ーー↓↑
2010年2月7日
大統領選挙で
国民解放党(PLN)の
ラウラ・チンチージャ前副大統領が当選
女性大統領となった
ーー↓↑
コスタリカ共和国
大統領を元首とする共和制国家
行政権は大統領に属す
大統領の任期4年
再選は禁止
(8年以上の期間後、再選可能)
立法権は一院制の議会
任期は4年
国会議員も
連続再選禁止
投票権は18歳から
大統領選挙は
得票率が40%以下の場合は
決選投票
司法権は最高裁判所
現行憲法は
1949年憲法
ーーーーー
「本能寺の変」後の日本と国際情勢・・・
↓
1596年10月
サン=フェリペ号事件
日本の土佐国で
スペインのガレオン船、
サン=フェリペ号漂着
豊臣秀吉の
キリスト教徒への迫害
「日本二十六聖人殉教」
1597年2月5日
慶長元年十二月十九日
豊臣秀吉の命令によって
長崎で磔の刑に処された
26人のカトリック信者
↓
切っ掛け・・・
ーー↓↑
サン=フェリペ号事件の史料
「長宗我部元親記(1632年)」
「土佐物語」
「甫庵太閤記」
「天正事録」
など・・・
ーー↓↑
サン=フェリペ号事件
スペイン側の資料
サン=フェリペ号船長
マティアス・デ・ランデーチョの
航海日誌は日本で没収されたため現存しない
後、
ランデーチョが
「サン=フェリペ号遭難報告書」を記録
「フィリピン総督府記録」
「宣教師による記録」
など存在
ーー↓↑
1587年
豊臣秀吉は
バテレン追放令を発布
限定的で禁止されたのは布教活動
キリスト教の信仰は禁止されなかった
ーー↓↑
1596年(文禄五年)7月
フィリピンのマニラを出航した
スペインのガレオン船
サン=フェリペ号が
メキシコを目指して太平洋横断に出帆
船長は
マティアス・デ・ランデーチョ
船員以外に当時の航海の通例として
七名の司祭
フランシスコ会員
フェリペ・デ・ヘスース
ファン・ポーブレ
四名のアウグスティノ会員
一名のドミニコ会員
が乗船
サン=フェリペ号は
東シナ海で台風に襲われ、
10月19日(文禄五年九月二十八日)
四国土佐沖に漂着
長宗我部元親の指示で
船は浦戸湾内へ曳航
湾内の砂州に座礁
船員たちは
長浜(高知市長浜)の町に宿泊
船の修繕許可と身柄の保全を求め
秀吉の元に
使者の
ファン・ポーブレなどを差し向け、
船長、ランデーチョは長浜に待機
使者は秀吉に会うことを許されず、
奉行の1人
増田長盛が浦戸に派遣された
船員たちは町内に幽閉
増田らは
「スペイン人たちは海賊であり、
ペルー、
メキシコ(ノビスパニア)、
フィリピンを武力制圧したように
日本でもそれを行うため、
測量に来たに違いない。
このことは都にいる
3名の
ポルトガル人ほか数名に聞いた」
という秀吉の書状を告げた
増田らの一行は
積荷と船員の所持品をすべて没収し、
航海日誌などの書類をすべて取り上げ
破棄
ランデーチョは
都で秀吉に直接抗議しようと決めて
12月
都では交渉の仲介を頼もうとしたが
フランシスコ会など
スペイン系の宣教師たちが捕らえられていた
ーー↓↑
秀吉は12月8日に再び禁教令公布
イエズス会の後に来日した
フランシスコ会の宣教活動が
禁教令に対して挑発的
京都奉行の
石田三成に命じて、
京都に住む
フランシスコ会員と
キリスト教徒全員を捕縛して
磔の刑に処するよう命じた
「アルカンタラ派」
フランシスコ会員
7名と信徒14名
イエズス会関係者
3名の合計24名が捕縛
24名は、京都・堀川通り一条戻り橋で
秀吉の命令で耳と鼻を削げ、とされ
左の耳たぶを切り落とされ引き回され
1597年1月10日
長崎で処刑せよという命令
大坂を出発、歩いて長崎へ向かう
道中で
イエズス会員の世話を依頼され付き添っていた
ペトロ助四郎と
フランシスコ会員の世話をしていた
伊勢の大工
フランシスコも捕縛された
長崎の西坂の丘の上で処刑決定
2月5日
4000人超の群衆が西坂の丘に集まり
槍で両脇を刺し貫かれて絶命
午前10時頃・・・
ーー
後、
サン=フェリペ号の修繕が許され、
1597年4月に浦戸を出航
5月にマニラに到着
9月
スペイン使節としてマニラから
ドン・ルイス・ナバレテらが
秀吉の元へ送られ、
サン=フェリペ号の積荷の返還と
二十六聖人殉教での
宣教師らの遺体の引渡しを求めたが、
果たせなかった
宣教師ルイス・フロイスもこの
「漂着した船舶は、
その土地の領主の所有に帰するという
古来の習慣が日本にあったため」
積荷が没収されたと記録
時代の海事法(廻船式目)
廻船式目とは
鎌倉時代の
海上の慣習を文章化した上で
鎌倉幕府の裁可を得たもので、
後に
長宗我部元親がこれを発見し、
豊臣秀吉の
「海路諸法度(1592年)の元になった
廻船式目
第一条で難破船の積荷の扱い
難破船に
生存者がいない場合は
その資産を漂着地の
神社仏閣の造営費にあててもかまわない
「海路諸法度」
漂着船がでて積荷を入手したものは
船主から請求があったら
ただちに積荷を返さなければならないと記録
サン=フェリペ号の場合、
廻船式目でも海路諸法度でも
積荷の権利は
スペイン人船員たちに保障されている
↓
二十六聖人殉教
「積荷を没収された腹いせに、
スペイン人船員
(航海長デ・オランディアの言葉?)
が、
『スペインは領土征服の
第一歩として
宣教師を送り込む』といったことが
秀吉を激怒させ、
二十六聖人殉教を引き起こした」
このような「発言」は
1598年に
長崎でイエズス会員たちが行った
「サン=フェリペ号事件」の顛末
および
「二十六聖人殉教」の
原因調査のための査問会で、
「証人の言葉」として
出たとされるもので、
日本側の記録には
一切残されておらず、
その真偽は定かではない・・・?
当時の海上慣習にも
生存者のある難破船の積荷を
勝手に没収できる慣習はない
スペイン側がその「理由」を
「秀吉が
スペインに武力侵攻の意図あり」
と考えていた
二十六聖人殉教は
サン=フェリペ号事件が
直接的に引き起こしたというものではなく、
都周辺での活動を自粛していた
イエズス会に対して、
新進の
スペイン系修道会
フランシスコ会や
アウグスティノ会が活発に活動をし
秀吉は
明国の冊封使の対応に忙殺され
呂宋国(フィリピン)との
外交関係にビジョンがなかった・・・
ーーーーー
バテレン追放令(伴天連追放令)
天正十五年六月十九日
1587年7月24日
筑前
箱崎(福岡県福岡市東区)で
豊臣秀吉が発令した
キリスト教宣教と
南蛮貿易に関する
禁制文書
バテレン(padre・パァデレ)とは、
ポルトガル語で「神父」の意味
「松浦家文書・六月十九日付」の
「五か条の文書」を指す
1933年(昭和八年)
伊勢神宮の神宮文庫から発見された
「御朱印師職古格・六月十八日」付の
「11か条の覚書」とも含めることがある・・・
「11か条の覚書」と
「五か条の追放令」とには相違点がある・・・
↓
豊臣秀吉
キリスト教布教を容認
1586年(天正十四年)3月16日
大坂城にイエズス会宣教師
ガスパール・コエリョを引見
5月4日
イエズス会に布教の許可証を発給
1587年7月24日
天正十五年六月十九日
筑前箱崎で
ポルトガル側通商責任者(カピタン・モール)
ドミンゴス・モンテイロ
イエズス会日本地区の責任者
コエリョに対して
宣教師の
退去と
貿易の自由を
宣告する文書を手渡し
キリスト教宣教の制限を表明
↓
領民などを集団で信徒にすること
神社仏閣などの打ちこわしの禁止
宣教師の20日以内の国外退去
同時に、
法令が南蛮貿易を妨げるものでなく、
布教に関係しない
外国人商人の渡来に関しては
なんら規制を設けないことが示された
強制的にキリスト教への改宗をさせることは
禁止
個人が自分の意思で
キリスト教を信仰することは規制していない
領地を持つ大名が
キリスト教信者になるのも認可制で
禁止ではない
下層の民については
信仰の自由を保障する・・・
ーー↓↑
追放令
キリスト教が拡大し、反乱を起こすことを恐れた
神道・仏教への迫害を好まなかった
ポルトガル人が
日本人を奴隷として売買していた
秀吉が
有馬の女性を連れてくるように命令したが
女性たちが
キリシタンであることを理由に拒否した
ーー↓↑
イエズス会宣教師
ルイス・フロイス
秀吉の言い分は
「かつて織田信長を苦しめた一向一揆は、その構成員のほとんどが身分の低い者だったが、キリスト教は大名にまで広まっているため、もしキリシタンたちが蜂起すれば由々しき事態になる」
直接的な切っ掛けの事件
九州征伐に向かった秀吉の目の前で、
日本イエズス会準管区長
ガスパル・コエリョが、
スペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく誇示した
同時期に
イエズス会東インド管区巡察師
日本に来ていた
アレッサンドロ・ヴァリニャーノは
コエリョの軽率な行動を厳しく非難
キリスト教の拡大については、
6月
18日
「11か条の覚書・御朱印師職古格」
では
キリシタンも
「八宗九宗(第九条)」と規定して
体制下の宗教と見なしていた
19日の
「追放令」では
キリスト教は
「邪法を授ける」もの
として規定
ーー
九州の
有馬氏や
大村氏など大名が
領民を強制的に
キリスト教に改宗させたり、
神社仏閣を破壊
秀吉は
コエリョに
「なぜ神仏の寺院を破壊し、その像を焼くのか」
と質問
コエリョは
「キリシタンたちは、我らの教えを聞き、真理を知り、新たに信ずるキリシタンの教え以外には救いがないことを悟った。彼らは、(中略)神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである
(ルイス・フロイスの日本史 4)」と回答
↓↑
「11か条の覚書」に
日本人を
南蛮に売り渡すことを禁止する一文があり、
「バテレン追放令」には
そのような文言は無い
↓↑
秀吉の女性問題
フロイス日本史
「女を連れていこうとした
施薬院全宗が怒って、
秀吉にキリシタンを讒言した」
の記録であり・・・?
「秀吉が女漁りを邪魔されて怒った」
というのは誤り
↓↑
追放令後にイエズス会宣教師たちは
平戸に集結し、以後公然の布教活動を控えた
秀吉は京都にあった教会(南蛮寺)を破却、
長崎の公館と教会堂を接収
秀吉がキリスト教に対して態度を硬化
サン=フェリペ号事件以後のこと・・・
↓↑
徳川家康の禁教令は
1614年(慶長十九年)
↓↑
「バテレン追放令」の原文
「松浦家文書」
6月19日付の追放令
秀吉の側近の主侍医
施薬院全宗(徳運軒)による原文
一、日本ハ神國たる処
きりしたん國より邪法を授候儀
太以不可然候事
一、其國郡之者を近付門徒になし
神社佛閣を打破之由 前代未聞候
國郡在所知行等給人に被下候儀は當座之事候。
天下よりの御法度を相守、
諸事可得其意処
下々として猥義曲事事
一、伴天聯其知恵之法を以心さし次第に
檀那を持候と被思召候へは
如右日域之佛法を相破事曲事候条
伴天聯儀日本之地ニハおかされ間敷候間
今日より廿日之間に用意仕可帰國候
其中に下々伴天聯に
不謂族(儀の誤りか)申懸もの在之ハ
曲事たるへき事
一、黒船之儀ハ
商買之事候間格別候之条
年月を經諸事賣買いたすへき事
一、自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ
商人之儀は不及申、
いつれにてもきりしたん國より
往還くるしからす候条
可成其意事
已上
天正十五年六月十九日 朱印
↓↑
「きりしたん禁令」
「施薬院・全宗」という
秀吉側近の法印という
最高位の医師によって記録
ーーーーー
・・・「哥(歌)斯達利加」・・・
歌、
斯(シ・かく)
話し手が身近なこととして
事態をとらえていう
このように・こう
具体的な内容を省略していう
このように・こう
斯くやあらん
斯くも
このように・これほどにも
「斯波(シバ)」氏は織田家の主筋
「波斯(ハシ)」は「ペルシャ・イラン」
達(タチ・ダツ・タツ・とおる・とどく)
達(たち)・複数であることを表す
友達・俺達・君達
達人=名人
達(たっし)
江戸時代に
上役人から下役に出された命令
先達
配達・未達・至達・示達
達成
公達
伊達(だて・いたて・いたち)
伊達家→仙台宮城・宇和島愛媛
暦応二年(1339年)の文書
「いたてのかもんのすけ為景」
慶長十八年(1613年)
支倉常長がローマ教皇に渡した
伊達政宗の書簡の記録には
「Idate Masamune」
支倉常長の幼名は
與市
初名は
六右衛門長経
洗礼名は
ドン・フィリッポ・フランシスコ
文禄・慶長の役に従軍
足軽・鉄砲組頭として
朝鮮に渡海
利(リ・とし)
加(カ・くわえる)
・・・慶長十八年(1613年)の「コスタリカ」の情況は・・・ヌエバ・エスパーニャ副王領・・・中央アメリカ「コスタ・リカ(Costa Rica=Rich Coast=豊かな海岸)」の南国境までの範囲、メキシコ、アメリカ合衆国南西部のほぼ全部(アメリカ合衆国のカリフォルニア州、ネバダ州、ユタ州、コロラド州、ワイオミング州、アリゾナ州、ニューメキシコ州、テキサス州のすべてまたは一部を含む)、そしてフロリダ州・・・
1519年~1821年
ヌエバ・エスパーニャ副王領
(スペイン語=Virreinato de Nueva España)
北アメリカ大陸、カリブ海、太平洋、アジアにおけるスペイン帝国の副王領地を指す名称
江戸時代の日本では、
「ノビスパン(濃毘数般)」、
「新イスパニア(新意斯巴尼亜)」
などと呼ばれた・・・
「伊達」とは
仙台東北から墨西哥(メキシコ)を経由し、西班牙(スペイン)から伊太利亜(バチカン・vaticinare=預言)に到達した・・・との「暗示の按字」であるカナ・・・
「伊都に達した」
「伊太利亜に達した者」
・・・
・・・ィヤァ~ッ、「ブラジル(伯剌西爾)VSチリ(智利)」のサッカーのまさに「死闘」、スゴカッた・・・あんなに大きな「ゴール(Goal)の駕籠(バスケット・Basket)」なのに、チリには「カミの加護」がなかった・・・6月28日(日本時間29日未明)・・・一蹴り・・・訓練され、鍛えられた足は「条件反応」か、それとも天性的な「本能=才能」か・・・
「本能示(事・字)の変」・・・自律神経系(Autonomic nervous system)は、末梢神経系のうち「植物性機能」を担う神経系であり、「動物性機能」を担う体性神経系に対比される。
一般的に「自律神経」は意識的に制御できない?・・・
「自律神経系」は
内臓諸臓器の機能を脳ミソから
指令、調節する遠心性機序と、
内臓からの情報を
中枢神経系に伝える求心性の機序
という2つの系からなる・・・
脳ミソ→命令→末端臓器
末端臓器→反応伝達→脳ミソ
「交感神経系」と「副交感神経系」の2つの神経系で構成されている・・・
「随意神経系(体性神経系)」ではない
「不随意神経系(自律神経系)」で
↓
循環、呼吸、消化、発汗
体温調節、内分泌機能、生殖機能
新陳代謝代謝などの
「不随意」な機能を「制御」し、
ホルモンによる調節機構である
内分泌系と協調し、
種々の生理的パラメータを調節
ホメオスタシスの維持
↓
恒常性・常態性=ホメオスタシス
↓
homeo(ホメ)=等しい・同一
+
stasis=平衡状態・定常状態
↓
ホメオスタシス
生物および鉱物において、
その内部環境を
一定の状態に保ちつづけようとする傾向
「ホメオスタシスの三角形」とは
自律神経系、
内分泌系、
免疫系
の協働機能である
「自律神経」は
交感神経と副交感神経の2つの神経系からなり、
双方がひとつの臓器を支配することも多く(二重支配)、 また
ひとつの臓器に及ぼす両者の作用は
一般に拮抗的に働く(相反支配)
交感神経系の機能は、
闘争か逃走か(fight or flight)
と総称されるような、
身体的活動や侵害刺激、
恐怖といった
広義のストレスの多い状況において重要となる
「自律神経系」は
各臓器の機能を統合的に調節することで、
結果として個体の内部環境の
安定、恒常性を維持する
↓↑
「随意」の
認識思惟の意識、理屈で
動かすコトが出来ない
「不随意=本能=自律(自立)」の仕業
君←忠誠←臣
↑ 自立 ↓
臣→不忠→君
↓
「本能ジの変」をスガメで見詰める?
↓
「ちやうすかめ」
「チヤウスカメ」・・・
「Chosugami(チョウスガミ)」
「ちょうすがめ」・・・
「長い眇」
↓
すがめ(眇め)
片方が小さい目
ほそ目
目を細めて、すかして見る
はるか・遠くかすかな
はるかかなたに及ぶ
細く小さいさま
かすかなさま
眇(すがめ)
片方しか目がないこと
片方の目が不自由であること
片目が細いこと
斜視 (しゃし)
やぶにらみ
ーー↓↑ーー
本能寺の変
天正十(1582)年六月二日
長宗我部元親の
手紙発見
ーー↓↑ーー
本能寺の変直前、信長に恭順の姿勢
長宗我部元親が領有する
四国をめぐり、
織田信長が方針転換したことに
明智光秀が納得しなかった・・・
ーー↓
長宗我部氏
本姓は
秦氏
家紋は
「七つ酢漿草(かたばみ)」
長曽我部・長曾我部とも記される
土佐国
長岡郡に拠った国人の一族
土佐一条氏を滅ぼし土佐を統一
ーー↓↑
長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)
土佐国の戦国大名
長宗我部氏
第二十一代当主
天文八年
(1539年)
~
慶長四年五月十九日
(1599年7月11日)
改名 弥三郎(幼名)→元親、雪蹊恕三(法名)
別名 通称:土佐侍従
渾名:姫若子、鬼若子、
土佐の出来人、鳥なき島の蝙蝠
戒名 雪渓如三大居士
雪蹊恕三大禅定門
墓所 天甫寺山(高知県高知市)
官位 従五位下、宮内少輔
土佐守、侍従、
贈正五位、贈正三位
主君 豊臣秀吉→秀頼
氏族 秦姓長宗我部氏
父
長宗我部国親
母
斎藤氏の娘(祥鳳玄陽)
兄弟
長宗我部元親
吉良親貞
香宗我部親泰
島親益
女(本山茂辰室)
女(池頼和室)
女(波川清宗室)
妻
正室
元親夫人
(石谷頼辰・斎藤利三の異父妹)
側室
小少将
子
信親、香川親和、津野親忠、
盛親、右近大夫、康豊、
女(一条内政室)、女(吉良親実室)、
女(佐竹親直室)、女(吉松十左衛門室)
ーー↓↑
長宗我部 元親
ーー↓↑
長宗我部国親の長男
母は
美濃
斎藤氏の娘
正室
石谷光政の娘で
斎藤利三の異父妹
位階
従五位下
死後に
正五位
昭和三年(1928年)
正三位が贈られた・・・・?
土佐国守護職を兼ねる
細川京兆家当主で管領の
細川晴元より、
京兆家の通字である
「元」の一字を受けたため、
かつて同じく
細川氏より
「元」の字を受けた
十五5代当主
長宗我部元親(南北朝時代)
と同名を名乗った
土佐の国人から戦国大名
阿波・讃岐の三好氏
伊予の西園寺氏・河野氏
らと戦い四国の覇者となった
信長の後継となった
豊臣秀吉に敗れ
土佐一国に減知
ーー↓↑ーー
織田信長
天正八年(1580年)
信長は元親の四国征服をよしとせず、
土佐国と
阿波南半国のみの領有を認めて
臣従するよう迫るが
元親は信長の要求を拒絶
ーー↓↑
天正九年(1581年)三月
信長の助力を得た
三好康長は息子の康俊を寝返らせ、
十河存保は中国で
毛利氏と交戦している
羽柴秀吉と通じて
元親に圧迫
天正十年(1582年)五月
神戸信孝を総大将とした
四国攻撃軍が編成
三好氏旧臣らは
元親を見限って
康長に寝返り
阿波の
一宮城と
夷山城を落とされた
ーー↓↑ーー
長宗我部元親は
斎藤利三(明智光秀家臣)宛の書状で
信長に対し恭順する意向
四国攻撃軍は
六月二日に渡海予定であったが、
本能寺の変が起こって
織田信長が明智光秀に殺された
信長の死で
織田信孝軍は解体して撤退
元親は危機を脱した
ーー
元親は宿敵であった
十河存保を
八月に
中富川の戦いで破って、
阿波の大半を支配下に置いた
九月に
勝端城に籠もった存保を破り、
阿波を完全に平定
十月に
存保が逃れた
虎丸城や
十河城を攻めた
ーー
天正十一年(1583年)
賤ヶ岳の戦い
柴田勝家と手を結び
羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対抗
四月
柴田勝家は秀吉に敗れて滅亡
天正十二年(1584年)
小牧・長久手の戦い
織田信雄や
徳川家康らと結んで秀吉に対抗
秀吉が送り込んだ
仙石秀久の軍勢を破った
東伊予の
金子元宅と同盟し、
南伊予の
西園寺公広の諸城を落とす
伊予国でも勢力を拡大
六月十一日
十河城を落として讃岐を平定
小牧の戦いは
秀吉と信雄が和睦
伊予の平定
ーー↓↑
天正十二年三月
毛利氏は
宍戸元孝を
河野氏救援のために派遣
恵良で長宗我部軍と衝突
四月
高山で、
五月~六月にかけて
恵良・菊間(菊万)で合戦
八月
小早川氏の将である
杉就良によって
新居浜市を落とされた
九月
渡海して遠征していた
毛利軍は劣勢になり
十二月
河野氏は元親に降伏
天正十三年(1585年)春
西予の豪族なども降伏させた
秀吉が紀州征伐に出てこれを平定
秀吉は元親に対して
伊予・讃岐の返納命令
元親は伊予を割譲することで
和平を講じようとしたが
秀吉は許さず
弟・羽柴秀長を総大将とする
10万超の軍を派遣
元親は
阿波白地城を本拠に
阿・讃・予の海岸線沿いに
防備を固め抗戦する
秀吉は
宇喜多秀家らを讃岐へ、
小早川隆景・吉川元長率いる毛利勢を伊予へ、
羽柴秀長・秀次の兵を阿波へと同時派遣
長宗我部方の城を相次いで攻略
元親は
反戦派の家臣
谷忠澄の言を容れて
七月二十五日に降伏
土佐一国のみを安堵された
ーー
天正十四年(1586年)
秀吉の九州征伐
嫡男の信親とともに従軍
大友氏の救援
十二月
戸次川の戦い
四国勢の
軍監・仙石秀久により、
島津軍の策にはまって敗走
信親は討死
元親は落ち延び、
伊予の
日振島に落ちた
ーー
天正十六年(1588年)
本拠地を
大高坂城へ移転
家督継承問題で
次男の香川親和
三男の津野親忠
ではなく、
四男の盛親に家督を譲る
天正十七年(1589年)
羽柴の名字を与えられた
天正十八年(1590年)
小田原征伐で
長宗我部水軍を率いて参加
後北条氏の下田城を攻め、
小田原城包囲に参加
ーー
天正十九年(1591年)一月
浦戸湾に迷い込んだ
体長九尋の
鯨を数十隻の船団と100人余の人夫で
大坂城内へ丸ごと持ち込み、
秀吉や大坂の町人を大いに驚かせる
文禄元年(1592年)
朝鮮出兵、文禄・慶長の役にも従軍
慶長元年(1596年)
サン=フェリペ号事件
秀吉によるキリスト教迫害の引き金を作った
領内では検地を行い、
慶長二年(1597年)三月
盛親と共に分国法
「長宗我部元親百箇条」を制定
慶長三年(1598年)八月十八日
秀吉が死去
十一月二十六日
徳川家康の訪問を受ける
後、土佐に帰国
慶長四年(1599年)三月
三男の津野親忠を幽閉
四月二十三日
豊臣秀頼に謁見
五月十九日死去
享年六十一
↓↑
子・長宗我部盛親の代で
関ヶ原の戦いに
西軍に
参戦・敗北し改易
後、
盛親が
大坂の陣に大坂方に味方、敗死
嫡流は断絶
ーーーーー
・・・トンだ・・・「ちょうそかべ」・・・安土桃山時代の文献、
「御湯殿上日記」では
「ちやうすかめ」、
「多聞院日記」では
「チヤウスカメ」・・・
ルイス・フロイスの
「日本史」では
「Chosugami(チョウスガミ)」
からは
「か」は濁音の「が」・・・
現代仮名遣いで表せば
「ちょうすがめ」・・・
「長い眇目」・・・?・・・蘇我氏・・・飛鳥時代の秦氏・・・「秦河勝」の後裔が「長宗我部」氏・・・?
・・・以上も以下もすべて出所は「ウイッキペデア」である・・・怪しい「史料」である・・・
↓
秦河勝は聖徳太子の信任を受けており、丁未の乱(587年)にて聖徳太子と蘇我馬子が物部守屋を倒した際に功をたて信濃国に領地を与えられたので、子・秦広国を派遣した。これにより信濃秦氏が始まる[3]。後年、信濃更級郡に居住していた秦能俊(初代 長宗我部能俊)が土佐に入ったのが、長宗我部氏の始まりとされる
↓
由井正雪の片腕といわれた丸橋忠弥(長宗我部盛澄)は、長宗我部盛親の子孫と称していた。また、幕末の尊皇志士として徳島藩士の長宗我部太七郎がおり、生野の変に参加するも、文久3年(1863年)10月14日、但馬国山口村妙見堂にて自刃するという。没後、靖国神社に合祀される
ーーーーー
・・・
・・・昨夜のTV番組、日本が誇るトイレ。男子のトイレの使用法・・・トイレの構造はヨシとしても立ち小便を飛散させずにトイレの床の清潔さを維持する排便方法・・・「T」とは・・・オトコがしゃがんで「小便」するのは、その人体機能から不合理、防人としての防衛機能から無防備かも・・・それに、たいがい、オトコが暗殺される場所は狭い空間のトイレ(厠)でしゃがんでいる時である。「大碓命」が「小碓命=やまとたける」に暗殺された場所はトイレであった・・・オトコのセックス機能・・・性交行為真っ最中に敵から自分も相手の「オンナ」も守れる「意識状態」にあるのは「オトコ」である・・・?・・・逆の場合は女性が醒めている時で、上下体勢(態勢)が逆の時だろう・・・?・・・失礼・・・
↓
「しゃがむ(蹲む)」の英語
sit down on one's heelssquat down
物陰にしゃがむ
crouch for shelter
「しゃがむ・かがむ・中腰」
しゃがむ(蹲む=足+尊)
・・・「足(たり・ソク)を尊ぶ」である・・・
squat (down), crouch (down)
しゃがんだ姿勢
in a squatting position
トイレット(toilet・便所・便器)の「T」
「T」は、世界共通の郵便物の料金未納又は料金不足郵便物の記号・・・「郵便」は「ユウビン」で、「ユウベン」とは読まないのはナゼだろう・・・「便秘(ベンピ)から解放される「便通(ベンツウ)」のベンは「便(たよ)り」である・・・「便利」とは「ローマ皇帝(ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス)の便所税(公衆有料トイレ税)」の「便の利」なんだ。
なるほど「新約聖書のキリスト」と「ローマ皇帝(ウェスパシアヌス)」の共通項は「漢字の便」ではあるな・・・「十二使徒の手紙で、書簡で、便り」であり、「信徒への手紙」、「新約聖書の福音」である。
ネストリウス派の「キリスト教(景教)」が中国の唐代に「漢訳聖書」があった。「大秦景教流行中国碑」は、明末に長安の崇聖寺の境内で発掘された古碑で。「ネストリウス派(景教)」の教義や中国への伝来などを刻し、唐代の781年(建中二年)に「伊斯」が建立し、碑文は「景浄」が作成・・・日本に持ち込んだのは「空海(佐伯 眞魚)」である・・・
空海(佐伯 眞魚)
↓
延暦二十三年(804年・唐暦は貞元二十年)八月十日、遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る。福州長渓県赤岸鎮に漂着。同年十一月三日に長安入りを許可、十二月二十三日に長安に入った。
大同元年(806年)十月、帰国し、大宰府に滞在。この時期、三月に桓武天皇が死亡し、平城天皇が即位していた・・・
781年とは
干支の「辛酉」年
日本
宝亀十二年、天応元年
皇紀1441年
中国
唐
建中二年
↓
天応元年四月三日(4月30日)
光仁天皇が譲位
山部親王が践祚し、
第五十代天皇・桓武天皇となる
天応元年四月十五日(5月12日)
桓武天皇が即位
五月
中宮職を置く
八月
持節征東大使
藤原小黒麻呂、蝦夷征討を終えて帰京
誕生
義真、平安時代の天台宗の僧(~833年)
藤原美都子、藤原冬嗣の正室(~828年)
死去
天応元年二月十七日(3月16日)
能登内親王(733年~)
↓
天応元年六月二十四日(7月23日)
石上宅嗣・公家、文人(729年~)
旧宅に阿閦寺(あしゅくじ)を建立
その片隅に書庫を設け、
「芸亭」と名付け、主として
仏教経典以外の外典(げてん)を
一般に公開
「続日本紀・巻三十六」
天応元年(781年)六月辛亥二十四に伝記
「芸亭」は日本最初の公開図書館
↓
石上宅嗣
天平宝字三年(759年)
三河守
天平宝字五年(761年)
上総守
遣唐使の副使に任命されたが、
唐に渡ることなく、
天平宝字六年(762年)
藤原田麻呂に交代して辞任
天平宝字七年(763年)
文部大輔
藤原宿奈麻呂
大伴家持
佐伯今毛人・・・・空海の縁戚
とともに、
太師(太政大臣)の
恵美押勝を除こうとして失敗
天平宝字八年(764年)正月
大宰少弐に左遷
九月
藤原仲麻呂=恵美押勝が失脚
十月
宅嗣は復権し
正五位上・常陸守
宝亀元年(770年)
称徳天皇の崩御
参議として
藤原永手らとともに
光仁天皇を擁立
宝亀二年(771年)
中納言
宝亀十一年(780年)
大納言に昇進
右大臣大中臣清麻呂
内大臣藤原魚名
に次いで、
太政官で第三位の地位を占めた
宝亀六年(775年)
物部朝臣
宝亀十年(779年)
石上大朝臣に改姓
天応元年(781年)四月
正三位に叙せられるが、
六月に死亡
後、正二位の位階を贈位
ーー↓↑ーー
新約聖書
1613年ころまでに
日本語に訳された
聖書が京都で出版されていたらしい・・・
↓
1872年(明治四年)
ヘボンによる「新約聖書翻訳」
↓
1872年
干支は「壬申」年
日本(天保暦)
明治四年十一月二十一日
~
明治五年十二月二日
清国
同治十年十一月二十一日
~
同治十一年十二月二日
朝鮮国
李氏朝鮮
高宗九年
↓↑
1872年
ヘボンによる「新約聖書翻訳」である
1880年に新約聖書を完成
1887年に旧約聖書を完成
これらを「明治元訳」と呼ぶらしい・・・
1917年に「新約聖書」は改訳され、
これは「大正改訳」と呼ばれているらしい・・・
ーー↓↑ーー
1885年(明治十八年)十二月二十二日
逓信省が発足
1893年(明治二十六年)十一月十日
水運事業・陸運事業の監督行政を所管
↓
逓信省が郵便マークを一旦「丁」と発表したが、「丁」と形の似ている「T」が料金未納の意味であることが分かったので、後に「〒」の誤りとした・・・
↓↑
字形「T」の意味
「T」
複 Ts or Ts, ts or(まれ)ts)
「TS」
↓
T section
T shirt
T square
T state
T surface
T switch
T system
Tsunami damage
↓
英語アルファベットの
第20字(子音字)
「T・t」の字で表される音
sit(座る)
attend(出席する・参加する・参列する
attention(注意・注目・注意力・警戒)
ATTN =attention の略
attention to (~行き、宛て)
Attention Line(特別宛名)
attention=官公庁の公式文書
stand at attention=軍隊の気を付けの姿勢
不動の姿勢
Stand at ease=軍隊の休め
↓
ten(10・十・拾→足→垂)
↓
「T字形の物」
「T-bandage」
「T字形」
包帯
「T」は
漢字の
「丄=ジョウ・ショウ
うえ・のぼ-せる・かみ」の逆字で
「上」の古字
ならば
「T(丅=カ
した・げ・さがる・しも)」の漢字は
「下」の古字・・・
ーーーーー
・・・「丄」+「丅」=工(コウ・ク・たくみ)、片仮名の「エ」・・・「上+下=凸+凹」の合体とは・・・「天地合体」、「あなにやし、えヲトコを」、「あなにやし、えヲトメを」・・・「ダマスコ」の町に住む「アナニアへの啓示」と「回心者のパウロ」・・・「使徒言行録5章1-11」の「ペトロ」と「アナニア夫婦の死」・・・異なるハナシだが「アナニアし」である・・・
・・・「キセキの始まり」は「垂頭喪気」から・・・キリストの「山上の垂訓」・・・新約聖書内マタイによる福音書第五章から七章・・・キリストが山上で弟子たちと群集に語った教え・・・
ーーーーー
以下、ウイッキペデアより抜粋、添付・・・
↓
章頭(マタイ福音書5章3節から10節まで)の
「幸福なるかな」と8回繰り返されるところであり、
幸福の説教、
真福八端(しんぷくはったん)、
真福詞
等とも呼ばれている
↓
マタイ 5:1-2
イエスが悪魔払いにより
病人を治したため
群集が集まってくる
そこでイエスは山に登り、
彼らに教えて言う
↓
マタイ 5:3-12
幸福の説教
(「真福九端」、「真福八端」とも)
マタイ 5:13-16
信者を「地の塩」と「世の光」になぞらえる
マタイ 5:17-48
律法、モーゼの十戒への論評
マタイ 6
善行を見せびらかすな
施し、主への祈り、断食は隠れてせよ
物のことで悩むな
マタイ 6:25-33
野の花を見よ。
何を食べようか、
何を飲もうかと思いわずらうな
マタイ 6:34
明日のことを思いわずらうな
一日の苦労は、
その日一日だけで十分である
マタイ 7:1-5
自らを裁かずに人を裁くな
マタイ 7:6-29
聖なるものについて
偽預言者に気を付けなさい
↓
腹を立ててはならない(5:21-26)
姦淫してはならない(5:27-30)
離縁してはならない(5:31-32)
誓ってはならない(5:33-37)
復讐してはならない(5:38-42)
敵を愛しなさい(5:43-48)
ーー↓↑ーー
「第十一代垂仁天皇」を推認する・・・
「ユリウス暦の西暦1年1月1日」
通暦日1721424日・丁丑日・土曜日
は
「グレゴリオ暦換算のBC1年12月30日」
「垂仁天皇二十九年十一月十八日」
↓
「グレゴリオ暦 AD1年01月01日月曜日」
通暦日1721426日己卯日
「垂仁天皇二十九年十一月二十日
ーー
「ユリウス暦の西暦31年4月13日金曜日」
通暦日1732483日・丙申日
は
「グレゴリオ暦換算の31年4月11日」
「垂仁六十年三月三日」
↓
「グレゴリオ暦 31年4月13日日曜日」
通暦日1732485日戊戌日
「垂仁天皇六十年三月五日」
ーーーーー
「キセキの始まり」は
「ユリウス暦の
西暦31年
4月
13日
金曜日」で、
通暦日1732483日目
丙申日
「垂仁六十年三月三日」
↓
垂
一般に
「厂(がんだれ)」
「广(まだれ)」
「尸(しかばね)」
「疒(やまいだれ)」
「戸(とだれ)」
の五部首が「垂」と呼ばれる
↓
「垂涎の的」
ヨダレ(涎)を垂らすほど食べたいモノ
喉から手が出るほどの欲しいモノ
ある物を手に入れたいと熱望すること
object of envy
何としてでも手に入れたいと思うほどの
貴重なモノ
↓
「垂直」
水平面、水平線にまっすぐに垂れ下がる直線
「⊥・┸」←「T」の逆字
まっすぐに垂れ下がるモノ
↓
垂簾聴政
中国で男女の区別を厳しくするため、
皇太后などが群臣に会うとき、
その前にすだれを垂らした
天子が幼年のとき、
皇太后などが代わって行う政治
「垂簾の政(まつりごと)」
↓
「垂頭喪気」
元気をなくしてしょげかえり、
がっかりすること・・・
ーーーーー
「垂井(たるい)・垂下(すい-か)」
「懸垂・胃下垂」
「垂訓・垂示・垂範」
↓
上位者が下位者に教えを示す
↓
「紙垂(しで)」・・・注連縄(しめなわ)についているひらひらした紙・・・