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コジキジゲン

ヒダカミ・・・日高見・・・日高

2017-12-31 20:59:31 | 古事記字源

 ・・・大西蔵(藏)区・大蔵(藏)区?・・・ナゼ、「西=一(はじめ)+儿(ひと)+囗(くに)=にし=螺(虫+累)=中ム田糸=(中ム囗十幺亅八))=似詞・似史)の蔵=藏=艹+爿+一+臣+戈=くら・ゾウ」なんだか?・・・「爿=木を裂いて二つにしたモノの左半分・・・右半分は片」・・・「木=爿+片」・・・將(まさ)に牃(符牒・あいことば=合言葉)して鼎(かなえ)を妝(よそおう)・・・「山川(やまかわ)」・・・「忠臣蔵十一段目夜討」・・・元禄十五年十二月十四日(壬午年癸丑月庚寅日・1703年1月30日)未明、「忠臣蔵=仮名手本忠臣蔵=衷心蔵」は終わったが・・・「心の底(广+氐)から」・・・播州赤穂の「大石内蔵助」は何かを隠していた?・・・
 「加里屋(かりや)城=大鷹(おおたか)城・・・築城(加里屋城)は、1466年~1483年頃、岡光広が赤穂に築城」・・・
 「1701年、三代・浅野内匠頭(浅野長矩)が、江戸城中・松の廊下での刃傷事件を起こし、浅野家は改易、赤穂城は播磨龍野藩主・脇坂安照の預かり」・・・
 「1702年、赤穂城に永井直敬が3万3千石で入り、浅野家再興が閉ざされ、赤穂浪士の討ち入り」・・・
 「1706年からは森長直が二万石で入封、廃藩置県まで森家が赤穂城主」・・・
ーーーーー
 三蔵(サンゾウ)
 ↓↑
 三蔵(みつくら・みくら)
 ↓↑
 ti-pitaka=ティ-ピタカ→「飛騨・日田・肥田
              樋田・氷田」+タカ
       弖射-比日高・・・阿-弖-流為
       弖=弓+一  ア テ ルイ
         ?~802・平安初期の蝦夷の族長
         北上川流域一帯を支配し
         延暦八年(789)
         征東将軍
         紀古佐美(きのこさみ)軍を破り
         延暦二十一年(802)
         征夷大将軍
         坂上田村麻呂に降伏
         河内国杜山で処刑
氐夷-肥田掛・・・五胡十六国時代の
氐=氏+一・・・・氏のハジメ
         チベット系の部族
         渭水上流地方から嘉陵江上流地方に居住
         苻氏・呂氏などの有力氏族が
         前秦、後涼を建国
         隋代から氏族としての独立を失った
         ↓↑
         氐宿=宿曜経二十八(二十七)宿の
            東方青龍七宿の第三宿
         氐宿=東方を守る霊獣青竜の胴
         十二宮の「秤宮」の三足
        「蠍宮」に一足属する
         天の根、青龍の胸、及び前足
       綴 -比他化
       綴(テイ)=糸+四又=つづる=津亠留
                 つづり=通図理
                つづら=葛籠・九十九・廿楽
 tri-piṭaka=トリ-ピタカ
止理-比多化・・・鳥-日高・・・北上・北神
      北上・・・日高見(ヒタカミ)
      ヒダ(山ひだ)カ(処)
      ヒダ(高)カ(地)
      ヒナ(夷)カ(処)
      ヒタカミ(辺境)
      日本書記に
     「武内宿禰、東国より環りまいてきて奏して言さく
     「東の夷(ひな)の中に日高見国あり…
     (景行天皇二十七年二月条)」
     「日高見国の母なる川の意味が
      日高見川(ヒタカミ川)→キタカミ川
      北上川と当て字」
     ・・・ヒダカがキタとは?キツイ・・・
     河川としては勾配がかなり緩(ゆる・緩慢)い・・・


ーーーーー
  八十梟帥(やそたける)は『日本書紀』にある人名
 「数多くの勇者」という意味
 「古事記」で
  八十建と表記
 「日本書記」で
 神武天皇が
 菟田の
 高倉山
 ・・・高倉山(たかくらやま・コウソウサン)
        高来等山   構 想 纂(簒・算)
 に登り
 国内を見渡したとき
 「国見岳」の上に・・・・・・「国見岳」⇔日高見・北上川
                     にっこうみ
                     日光見
 八十梟帥(たける)がいた・・・
 八十梟帥は後に天皇に斬り殺された・・・
 ↓↑
 弟猾=弟宇迦斯(オトウカシ)・・・音雨下し?
 は
 「倭の国の磯城の邑に
  磯城の
  八十梟帥あり
  又
  高尾張の邑に
   ・・・尾張氏の遠祖=天香語山命・天牟良雲命・天背男命
      などは、饒速日尊の東遷(185年頃)に従って
      筑紫から大和にやってきた・・・
      尾張氏の大和での本拠地は高尾張
      奈良県西部である葛城市の高台(葛城山の麓)
      尾張氏は海部氏の一族・・・
  赤銅の
  八十梟帥あり」
 と奏上・・・
 弟磯城は
 「吾が兄、
  兄磯城
  天つ神の子
  来ましつと
  聞きては
  八十梟帥を聚め
  兵甲を具へて
  あひ戦はむとす」
 と述べた・・・
 ↓↑
 神武天皇の
 菟田の
 高倉山・・・神武天皇顕彰碑・由緒
       宇陀郡の式内社二座に比定
       式内社について
       東吉野村の
       高見山頂鎮座の高角神社
       と
       山麓の水分神社とする説がある
       明治期に大高角社
       下守道の八坂神社を古高角社と称していた
 ↓↑

 四国に「高倉山」が無い?・・・

 高倉山 青森県-1
 高倉山 岩手県-7
 高倉山 宮城県-2
 高倉山 秋田県-1
 高倉山 山形県-6
 高倉山 福島県-6
 高倉山 栃木県-3
 高倉山 群馬県-1
 高倉山 新潟県-2
 高倉山 石川県-2
 高倉山 福井県-1
 高倉山 長野県-2
 高倉山 三重県-1
 高倉山 大阪府-1
 高倉山 兵庫県-4
 高倉山 和歌山県-1・・・ナンで3文字?
 高倉山 岡山県-2
 高倉山 山口県-2
 高倉山 福岡県-1
 高倉山 大分県-1
 高倉山 鹿児島-2
 ↓↑
 三蔵
 上代、朝廷の官物を納めた三つの蔵
 斎蔵 (いみくら)
 内蔵 (うちくら)
 大蔵 (おおくら)
 ↓↑
 仏教の聖典の三分類したもの
 経蔵=Sutta pitaka 〈スッタ・ピタカ〉
    Sutra pitaka 〈スートラ・ピタカ〉
    釈迦の教え
 律蔵=Vinaya pitaka 〈ヴィナヤ・ピタカ〉
    僧団)規則・道徳・生活様相など
 論蔵=Abhidhamma pitaka 〈アビダンマ・ピタカ〉
    Abhidharm pitaka 〈アビダルマ・ピタカ〉
    「経、律」の注釈、解釈
 ↓↑
 仏教の聖典に深く通じた高僧に対する敬称
 また、聖典の翻訳者
 ↓↑
 「経蔵」
 釈迦の説法を文字にしたもの
 「律蔵」
 僧侶の生活規則を記したもの
 「論蔵」
 仏教教義について解釈や解説を施したもの
 ↓↑
 三蔵
 (さんぞう・ti-pitaka=ティピタカ
      ・・・pitaka=籠(かご)の意
      ・tri-piṭaka=トリピタカ)
 仏教における 経蔵・律蔵・論蔵の3つのこと
 仏教の典籍の総称
 論蔵(ろんぞう・Abhidhamma pitaka=アビダンマ・ピタカ
    Abhidharma pitaka=アビダルマ・ピタカ)
 仏教の聖典(仏典・三蔵)の一部で
 律蔵・経蔵に対する
 解釈・注釈書である
 論(Abhidhamma(アビダンマ)
   Abhidharma(アビダルマ)
   阿毘達磨)
 をまとめたもの
 ↓↑
 「三種の籠」の意
 転じて
 仏教の
 経典 (経蔵)
 戒律書 (律蔵)
 注釈書 (論蔵)
 仏教の意義を包蔵していることから
 三蔵と呼ばれ
 経、律、論の
 三蔵に通達している学僧を尊称し
 名前のあとに三蔵をつける
 ↓↑
 仏教の聖典の
 経蔵・律蔵・論蔵のそれぞれに精通した人を
 経師・律師・論師
 といい
 三蔵のすべてに通暁した人を
 三蔵比丘
 三蔵聖師
 といった
ーーーーー
 ・・・
 結集(編集会議)によって
 初期仏教・部派仏教の時代から
 仏典はこの三蔵の形でまとめられ、継承
 上座部仏教の『パーリ仏典』で
 その原型を留めている
 ↓↑
 大乗仏教経典の作成と混淆
 段階的な仏典の伝播・翻訳を経て
 三蔵が原型を留めた形で
 伝わらなかった
 中国仏教(北伝仏教)
 チベット仏教圏では
 仏典は
 「大蔵経」
 「一切経」・・・「一切合財・一切合切」=何もカモすべての意
 という形で再編
 仏典の総称として用いられている
 『漢訳大蔵経』
 とは異なり
 『チベット大蔵経』は
 「律蔵」、「経蔵」を「カンギュル」
 「論蔵」を「テンギュル」と呼び
 三蔵を意識した形で編纂されている・・・
 ↓↑
 三蔵の語
 「三蔵に精通した人」という意味
 「玄奘三蔵」
 中国の北周時代の僧官の一
 北朝の「沙門統」や南朝の「僧正」に相当
 「夏州三蔵」のように地方にも置かれていた
ーー↓↑ーー
 北上川
 ↓↑
 岩手県
 岩手郡
 岩手町
 弓弭(ゆはず)・・・弭=弓の両端・弓弭
           矢の端の、弓の弦につがえる
           切り込みのある部分・矢筈 (やはず)
           相撲で、親指と他の指を広げ
           矢筈の形にした手
           これで相手のワキを押しつけて攻める
 に源泉を発し
 盛岡市、花巻市、北上市、奥州市、一関市
 へと北から南へと流れ
 宮城県登米市で
 旧北上川を分け
 洪水防止のため開削された
 新北上川に入り
 東へ向きを変え
 石巻市の旧北上町地区で
 追波湾に注ぐ・・・
 ↓↑
 旧北上川
 南へ流れ
 石巻市で石巻湾に注ぐ
 旧北上川河口から
 松島湾を経て
 阿武隈川河口まで・・・・・「阿の武の隈」
 仙台湾沿いに
 全長約60kmに及ぶ
 日本最長の運河
 貞山運河が延び
 岩手県の北上川水系
 宮城県の仙台平野の全ての水系
 福島県の阿武隈川水系がつながっている
 ↓↑
 日河(ひのかわ)
 続日本紀
 天平宝字四年(760)の条
 宮城県牡鹿郡より大河(北上川)をわたり
 峻嶺(しんれい)をこえて
 桃生柵を建置した
 これによって賊は
 肝胆(かんたん)を奪われ、伏した
 と記録
 岩手県内における河の初見
 桃生城建置後二十年を経た
 宝亀十一年(780)二月二日の条
 衣川以北に
 蛮居する
 胆沢の賊を討伐せんとせしが
 同年は例年より寒さきびしく
 河はすでに凍て
 船を通ずる事が出来なかった
 と記録
 延暦八年(789)六月三日の条
 征東将軍
 紀古佐美
 副将軍
 入間宿弥廣成
 右中将
 池田真枚
 前軍別将
 安倍援嶋・・・安倍、援嶋・・・嶋を援ける
 等と計り
 三軍協力し河(北上川)を渡り
 東岸に賊師
 「阿弖流為(アテルイ)」・・・阿の弖の為す流れ
 等を討つの時
 巣伏村 (水沢市四丑(しうす))において
 官軍は前後に敵を受け
 戦死者25人
 矢にあたり傷つくもの245人
 河に入り溺死するもの1,036人
 裸で游(およ)ぎ帰るもの1,257人
 に及ぶ大敗
 ↓↑ 
 此の時
 右中将
 池田真枚が
 日上乃湊(ひのかみのみなと)
 において
 溺(おぼ)るる者を扶け
 その功により敗戦の罪は免ぜられた
 「日上乃湊」=「日上川(ひのかみかわ)の湊(みなと)」
 「日高見川(ひたかみかわ)」の船付場で
 「石巻」等の海港ではない・・・
 ↓↑
 日河=日高見川
 延暦十六年(797)六月
 桓武天皇に上表
 「威振二日河之東一」は
 日高見川の東に
 桃生城を建置してより、
 毛狄(モウテキ・蝦夷)
   ・・・狄=テキ・えびす
      古代中国で、北方の異民族
夷蛮戎狄
      異民族や野蛮人
      夷狄 (イテキ)
      戎狄(ジュウテキ)
      北狄(ホクテキ)」
      匈奴(キョウド)など北方の異民族
 のそむくことがない・・・
 日高見川=日河=日上河
 日高見川(ひたかみかわ)=日高見の国の河
 日上河(ひのかみ河)=日高見川
 日高見川=夷語
 の
 「ヒタラ-カムイ=河床の神の義」・・・?
 日高見=大和言葉で
 日立国=常陸国・・・なぜ「ひたち」なのか?
 ニチリツ・ジョウリク
 景行天阜二十七年
 武内宿禰が
 東国を巡り
 日高見の国状を奏上
 二月十二日
 武内宿禰
 自二東国一還之奏言。
 東夷之中。
 有二日高見国一。
 其国人。
 男女並椎結文レ身。
 為レ人勇桿。
 是縈曰二
 蝦夷一。
 亦土地沃壊而曠之。
 撃可レ取也。
 ↓↑
 日本武尊(やまとたける)
 東夷を平定
 日高見国より帰る
 日高見の国は
 陸奥国より進んでさらに奥地
 蝦夷(えぞ)の住む
 宮城県仙北
 及
 岩手県内陸部の総称・・・
 ↓↑
 日本武尊
 日高見の地
 宮城県
 桃生附近・・・桃生=ももう=百生
 北上川の左岸
 桃生郡
 桃生村
 太田(桃生町)に
 日高見神社
 延喜式神名帳所載の古社
 祭神は
 天照大神、日本武尊、武内宿弥
 の三柱
 本吉郡に日高見神社
 古代本吉地方は
 桃生の内であり
 日本武尊を祀り
 日高見神社と称す
 水沢市
 日高神社は
 弘仁元年
 火満瓊命(ほむすびのみこと)・・・瓊=赤玉
 を祀る処の妙現社で
 社地周辺の古名が
 日高
 地名、
 日高=日高見
 日高見川が
 北上川と訛(なま)った?・・・北→比・此と漢字を間違えた?
 神水(かみかわ)
 神川(かみかわ)
 加美川(かみかわ)
 ↓↑
 来-神川(きた-かみがわ)
 北-神川(きた-かみかわ)
 北-上川(きた-かみかわ)
 北-上川の名称
 北-上河=北-上川
 ↓↑ ・・・上川→掛視化話
 ↓↑   →川上→熊襲八十梟帥(やそたける)
       川上梟帥(かわかみたける)
           (日本書紀)
       熊曾建 兄弟二人
           (古事記)
       球磨囎唹
           (筑前国風土記)
    ・・・「神武天皇が
        菟田の
        高倉山・・・四国を省き全国的ある同名の山
        に登り
        国内を見渡したとき
        国見岳の上に
        八十梟帥がいた・・・
        八十梟帥は後に天皇に斬り殺された」・・・
        弟猾は
       「倭の国の磯城の邑に
        磯城の
        八十梟帥あり
        又
        高尾張の邑に
        赤銅の
        八十梟帥あり」
        と奏上・・・
        弟磯城は
       「吾が兄、兄磯城
        天つ神の子(神武天皇=磐余毘古・比古・彦)
        来ましつと
        聞きては
        八十梟帥を聚め
        兵甲を具へて
        あひ戦はむとす」
 ↓↑     と述べた・・・
 「吾妻鏡」
 文治五年(1189)九月二十七日
 …至二于四五月一。
 残雪無レ消仍號二駒形嶺一。
 麓有二流河一而落二于南一。
 是北上河也。
 衣河自レ
 北流降而通二于此河一。
 坂上田村麻呂
 田谷窟(達谷窟)の前面に
 九間四面の精舎を建立し
 多聞天を安置し
 寄進状の中において
 「北上川を限り」と記すところ
 前九年役
 盛岡周辺の北上川が
 大沢と呼ばれた・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・

コメント
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知別途・・・地別訳・・・

2017-12-29 21:23:35 | 古事記字源

・・・2017/12/31・・・「壬辰日」・・・
ーーーーー
 2018年 丁酉(庚・ ・辛)
 0001月 壬子(壬・ ・癸)
 0001日 癸巳(戊・庚・丙)午未=空亡
 0001時 壬子(壬・ ・癸)
 まだ、二月の節分前まで「酉年」・・・
ーーーーー
 大西蔵区・大蔵区?・・・ナゼ、「西の蔵」なんだか?
ーー↓↑ーー
 西蔵(西藏)犬=いぬ=獒
 ↓↑
 チベット
 周辺諸国が古くから用いて来た呼称
 「tubat(モンゴル語・満州語)」
 「tbt(アラビア語)」
 等に由来
 チベット人自身は
 「プー (bod)(チベット語)」
 と称する
 日本語の「チベット」は
 英語「Tibet」経由で
 明治期に成立した呼称
 ↓↑
 チベット全域をさす
漢字表記による総称は
 清代
 土伯特(ドハクトク)
 唐古特(とうことく・タングート)
 等がある
 7世紀なかば
 チベットの古代王朝が
 上記の領域を統合した建国時
 中国人(隋)はこの国を
 「蕃(バン)・吐蕃(トッバン)・大蕃(ダイバン)」
 等と表記し呼んだ
 842年
 王朝は崩壊
 清朝の
 康煕年間(1720年代)ごろまで
 この領域全体の地域呼称を
 「吐蕃」という呼称で総称
 ↓↑
 チベットを示す
 「西蔵」は
 中国大陸で
 1725年ごろから
 中央チベットと
 その周辺だけの地域呼称として使用
 現在も中華人民共和国政府は
 アムド
 や
 カム
 を含む
 チベット全域の総称ではない
 ↓↑
 清朝の雍正帝は
 1723~24年
 グシ・ハン王朝(1642年~1724年)を征服
 彼らがチベット各地の
 諸侯や直轄地に有していた支配権をすべて接収
 タンラ山脈
 と
 ディチュ河
 を結ぶ線より南側に位置する地域は
 ガンデンポタンの統治下に所属
 この線より北側の地域は
 青海地方を設けて
 西寧に駐在する
 西寧弁事大臣に管轄させた
 残る各地の諸侯は
 隣接する
 陝西(分離して甘粛)
 四川
 雲南
 などの
 「中国内地」の各省に分属させた
 ↓↑
 「西蔵」という地域呼称は
 康煕時代から
 ↓↑ ・・・康煕帝=聖祖
    順治十一年三月十八日
    (1654年5月4日)
          ~
          康熙六十一年十一月十三日
                 (1722年12月20日)
    1654生年 甲午(丙・ ・丁)壬寅(己・丙・甲)
    0005生月 戊辰(乙・癸・戊)壬子(壬・ ・癸)
    0004生日 戊申(己・壬・庚)甲午(丙・ ・丁)
    寅卯=空亡
    姓・諱
    愛新覚羅玄菀
   (アイシンギョロ・ヒョワンエ)
    清の第四代皇帝(在位1661~1722年)
    合天弘運文武
    睿哲恭倹寛裕
    孝敬誠信功徳
    大成仁皇帝(略して仁皇帝)
    三藩の乱を平定
    台湾・ ジュンガル・チベットを制圧
    ロシアとの国境策定
 ↓↑ 清朝の領土を拡大
    康熙字典=清代の字書・十二集四十二巻
    康熙帝の勅命 により
    張玉書
    陳廷敬
    らが編纂・1716年刊
   「説文解字・玉篇・字彙・正字通」など
    歴代の「字書」を集大成した
    四万七千余の漢字を
    楷書部首、画数順に配列し
    字音・字義・用例を示し
 ↓↑ 以後の「字書」の範となる
 ↓↑
 西蔵(チベット)は
 中国文献に登場
 これ以降
 チベットのうち
 ガンデンポタンの管轄下にある範囲が
 西蔵と称される
 清朝滅亡後
 チベットはモンゴルと歩調をあわせ
 国際社会に
 「独立国家としての承認」を求め
 チベットの全域を
 ガンデンポタンのもとに統合すべく
 中華民国との間で武力衝突
 中華民国は
 中国人が多く住む
 諸民族の雑居地帯
 河西回廊の南部と
 青海地方をあわせて
 青海省を樹立
 青海地方も
 「内地」という位置づけ
 中華民国の歴代政権は
 「西蔵」の部分のみを
 「Tibet(チベット)」
 とし、その他の各地は
 「内地=中国本土」に属するとした
 ↓↑
 中華人民共和国も
 「西蔵」の部分のみを
 「Tibet(チベット)」とし
 その他の各地は
 「内地=中国の本土」に属する
 を踏襲
 1960年に発足した
 「チベット自治区」は
 「西藏」部分のみを
 管轄領域
 ↓↑
 日本では
 明治期から昭和中期にかけ
 中華民国や中国国外の華僑等の間では
 近年、「Tibet」の訳語として
 「西蔵」を用いている
 ↓↑
 日本
 明治期に
 英語「Tibet」に由来する
 「チベット」という呼称が一般的
 漢字表記には
 「西蔵」が採用
 「西藏・西蔵」
 中国では
 チベット民族居住地域に対する通常の呼称として
 「蔵区」
 「蔵族地区」
 「西蔵和其他蔵区」
 等の呼称が使用
 チベット全体を
 単一の自治行政単位とするよう求める
 ダライラマやチベット亡命政府の立場を
 非難、批判する場合には
 「大チベット区・大西蔵区・大蔵区」
 という用語を使用・・・
 大西蔵区・大蔵区?・・・ナゼ、「西の蔵」なんだか?
ーー↓↑ーー
 西蔵(西藏)犬
 ↓↑
 三蔵法師(さんぞうほうし)
 三藏法師=仏教の経蔵・律蔵・論蔵
 ↓↑   の三蔵に精通した僧侶(法師)のこと
      転じて「訳経僧」を指す
      602年~664年3月7日
      唐代の中国の訳経僧
      戒名は玄奘(ゲンジョウ)
      俗名は陳褘(チンイ)
      諡は大遍覚
      尊称は法師、三蔵
      三蔵法師ゆかりの寺は
      長安の
      大慈恩寺(ダイジオンジ)・・・代字音字?
      鳩摩羅什と共に二大「訳聖」
      「真諦」と「不空金剛」を含めて
 ↓↑   四大訳経家とも呼ばれる・・・
 ↓↑   所謂、翻(ホン)訳(ヤク)家
      翻=ハン・ファン=飜
      ひるがえる・ひるがえす・ひらひらする・ひるがえる
      翩翻(ヘンポン)
      他を意のままに動かす
      翻弄(ホンロウ) 」
      裏返しにする・急に変える・ひるがえす
      翻意・翻然
      対応するものと入れかえる
      翻案・翻刻・翻訳
 西蔵(西藏)犬=いぬ=獒
    ・・・犬の吠え声=汪汪(wang wang)wu-wu(ウーウー)
       犬の遠吠え=嗥叫(ハオジャオ・ヘアオジアオ)
                háo jià o・há o jià o
    阿蘭陀(和蘭)語の「犬=ホント・ホントゥ=hond」?
 ↓↑
 獒=敖(十一方攵)+犬(一人丶)
  =蔵獒=チベット犬=西蔵犬
 ↓↑ ↓↑
 犬・太・大+丶・・・「一の人が丶(主・灯・灯火)」
           「始めの人が火の丁(の火)」
           「女台(ム口)のヒトがヒのチョウ」
           ム囗=私の國=邪の國=横嶋の國
 ↓↑ ↓↑
 犬=一+人+丶
   意味・字形
   「丶」=絕止する所(説文解字・巻五)
       読点(、)のような区切り文字で
       字形は指事
       「丶」字=「主」の初文
            字は指事ではなく
            「灯火の炎」の象形
            「主」の字
            「鐙中の火主なり
             丶に從ふ(説文)」
   「丶」=チュ・シュ
       しるし、きれめにしるす點
       異体字 黒+主・火+主
        シュ・ス
       主=おも・ぬし・あるじ・つかさどる
         シュ・ス
         亠+土・丶+王
         異体字「炷」・「黒主」
        「丶」のことを「黒主」点という
    篆書体の字形?
   「主」=屮+二=凵+l+二=U+l+二
       ↓↑
   「主」=山(亠・丶一)+土=山+十+一
       山土
         亠=音の字の略字
           丶=しるし・切れ目に記す點
    篆書体の字形           辿=テン=点・天
   「主」・・・「Ψ・ψ=psi=プサイ」+「土」?
           「ψ+十一」?
         「Ω=ω=omega=オメガ」→「ω+土」?
   辿=山+辶=たどる・たどり・テン
     天・「丶」・「:」・「‥」・「・」
     典・・・辞典
     佃・・・佃煮
     点・・・点数・視点・支点・観点
     店・・・店舗・支店・店卸
 ↓↑ ↓↑
 駄=馬+太=ダ
   荷役に使う馬・駄馬
   値うちのないもの・つまらないもの
   粗悪なもの
  「駄菓子・駄洒落(ダじゃれ)」
   助数詞の馬1頭に負わせる荷物の量、一駄、数量
   一駄=三十六貫
 駄目=駄=囲碁用語で
    駄目はあっても意味がないところのこと
    無駄=無徒
        徒=あだ・実を結ばないさま
          かいのないさま・むだ(無駄)
   「あだ」が転じて「むだ」となり、「無駄」 になった
   「あだごと=徒言=実のない言葉・うそ」
 駄目=駄馬=馬または牛一頭に背負わせるだけの分量
    馱の俗字
    ダ=馬+大=馬+太
    異体字は「馱」
 雪駄=雪踏(せった)
 竹皮草履の裏面に皮を貼って防水機能を与え
 皮底の踵部分に尻鉄がついた履物(草履)の一種
 傷みにくく丈夫
 湿気を通しにくい
 千利休が水を打った露地で履くためや
 下駄では積雪時に歯の間に雪が詰まるため考案」
 雪が詰まるのは駄目な草鞋(わらじ)・・・草履(ぞうり)
              鞋=革+圭=くつ
                    カイ・ゲ・アイ
 竹皮の草履(ぞうり)の裏に獣皮を貼った履物
 ↓↑
 「雪駄」より古い語に「せきだ=席駄」の当て字
 「むしろ(席⇔蓆)のはきもの(駄)」・・・
                蓆(むしろ)の履物(駄)
 「席駄(セキダ)」から
 「せちだ→せっだ→せった」と変化し?
 ・・・「雪駄=セキダ」・・・雪(ゆき)の駄(駄馬)?
 雪駄の一つの特徴である
 「鋲打ち」は、踵の補強と擦り減り防止
 歩くと裏金と地面がすれ
 チャラチャラと音をたて、粋
 江戸の侠客の間から始まった・・・
 天保改革(1841~43年)以前
 裏金の鋲を赤銅で作り、
 これに
 金象篏(キンゾウガン)を施した雪駄もあった・・・
 ↓↑
 利休と交流のあった茶人
 「丿貫」の意匠によるもの・・・
 主に茶人や風流人が用いるものとされ
 現代においては、
 男性が着物を着る場合はほぼ雪駄を履く
 江戸町奉行所の
 同心が必ず
 「ばら緒の雪駄」を履いており
 「雪駄ちゃらちゃら(後金の鳴る音)」
 「チャラチャラするんじゃぁない」・・・
 ↓↑
 「雪駄の踵に用いられている形状は
  主に馬蹄型とテクタ型が殆んどで
  江戸時代の雪駄は
  ベタガネ型(またはチャラガネ型)
  という金属製の
  尻鉄が打ち込まれている物が一般的で
  これをチャラチャラと鳴らしながら
  履くのが粋とされた
  ベタガネは非常に音が響きやすい材質で
  金属製なこともあって
  「音が煩い・滑りやすい・傷がつきやすい」
  などの問題点が指摘され
  長い年月を経て改良がなされ
  馬蹄型とテクタ型に進化していった」・・・
 ↓↑
 「丿貫(へちかん、べちかん)」
 生没年不詳
 戦国時代後期~安土桃山時代
 茶人
 名の表記は
 「丿恒・丿観・別貫」などとも
 「丿(ヘツ、ヘチ)」は漢字
 ↓↑
 京都上京の商家坂本屋の出身とも、美濃の出とも
 一説に
 医師
 曲直瀬道三の姪婿
 武野紹鴎の門で茶を修めた
 山科の地に庵を構えて寓居し
 数々の奇行
 久須見疎安の『茶話指月集』(1640年)
 によれば
 天正十五年(1587年)
 豊臣秀吉主催の
 北野大茶湯の野点で
 「丿貫」は
 直径一間半(約2.7メートル)の
 大きな朱塗りの大傘を茶席に立てて
 秀吉も大いに驚き喜び
 以後
 「丿貫」は諸役免除の特権を賜った・・・
 江戸時代中期に成立した
 藪内竹心の『源流茶話』
 「丿貫は、侘びすきにて、
  しいて茶法にもかかはらず、
  器軸をも持たず、一向自適を趣とす」
 「異風なれ共、いさぎよき侘数奇なれば
  時の茶人、交りをゆるし侍りしと也」
 と書かれ
 当時盛行していた高額な茶器などは用いず
 独自の茶道を追求していた・・・
 久須見疎安の『茶話指月集』には
 「丿貫」が
 手取釜一つで雑炊も煮
 茶の湯も沸かした・・・清貧・・・
 茶人・数寄者との交流もあり
 千利休と親交
 江戸後期の
 柳沢淇園『雲萍雑誌』には
 利休と茶道を争い
 世間に媚びることの多い
 友、利休
 の茶風を嘆いた・・・
 千利休を自庵へ招待した際
 庵の前に落とし穴を設けて
 利休を陥れ、沐浴させ
 新しい着物を供したなどとの逸話・・・
 晩年は薩摩へ下った
 薩南学派の
 南浦文之の詩文に
 「丿貫」との交流を伺わせる詩句
 同地で没した
 『三国名勝図会』鹿児島郡西田村に
 「丿恒石」なる塚が記されている・・・
 表千家の良休宗左(随流斎)の記述
 露地で履く
 雪駄(セッタ)は
 元は
 「丿貫」の意匠から出た・・・
ーーーーー
 セッタ=アイヌ語で「イヌ」・・・?・・・ア・イ・ヌ・・・
 「オヒョウ(於瓢)は
  ニレ科ニレ属の落葉高木
  日本列島から東北アジアの山地に分布・北海道に多い・・・
  別名
  アツシノキ(厚司の木)
  ヤジナ(矢科)
  ネバリジナ(粘科)
  アイヌ語では
  オヒョウの樹皮と繊維を
  アッ(at)
  オヒョウの木を
  アッニ(atni)
  と呼ぶ
  樺太方言ではそれぞれ
  アハ(ax)、
  アハニ(axni)という
  白浦地方では樹皮を
  オピウ(apiw)とも呼び
  「オヒョウ」の名称はこれに由来
 ↓↑
  「アハ」って?・・・「あわ・泡・沫・粟・粱」・・・阿波は渦(宇津・宇受・宇須)の鳴門海峡だろう・・・
ーーーーー
 アツシ、アトゥシ、アットゥシ織、アッシ織、厚司織・・・文様は海の波だろう・・・アトゥイはアイヌ語で海を意味・・・「アトゥイ」・・・ルルはアイヌ語で海や海水を意味・・・レプはアイヌ語で沖を意味・・・・コイはアイヌ語で波・・・アイヌ語のオンナ(onna)は「内部」・・・
 地別訳(チベット)・・・?

コメント
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虎の威をかる・・・トラメイシ・・・山梨の地名・・・

2017-12-29 00:00:03 | 古事記字源

・・・来年は「戊戌(ボジュツ)」の年で、「土(つち)の兄(え)の犬(いぬ)」の年・・・「イヌドシ・ケンネン」・・・「狗年=クネン・いぬどし」・・・「獒=土+方+攵+犬=おおいぬ・いぬ・ゴウ・マスチフ犬」の年?・・・「チベット犬=狗四尺、為獒=「蔵獒(藏獒・zang-ao=ザンアオ)=獒(ao・アオ)=大きな猛犬=チベタン・マスティフ(Tibetan Mastiff)・(チベット語=西蔵)でドーキー」・・・「獒=人の心の如く使うべき大型の猟犬」・・・番犬、闘犬・・・
 「体高66cm、体重64~82kg。主人への忠誠心が強く、外敵に対しては勇敢に戦う犬種である。そのため番犬、護衛犬、猟犬に優れている」
 「本種の外見上、特に首周りの毛の特徴から「獅子型」と「虎型」にタイプが分けられ、「獅子型」はさらに毛の長い「大獅子頭型」と短い「小獅子頭型」に分けられる。
 毛の色からは、主に黒色、赤毛、金黒、灰、白、黄から構成されており、
 尾の毛は長く巻いているため、
 中国ではその部位を
 キク(菊)の花に例えられている」・・・尻尾が長く巻いてキク・・・
 「チンギス・ハーン(ジンギスカン=成吉思汗・1162年5月31日~1227年8月25日)は3万匹のチベタン・マスティフ軍団を引き連れて西征」・・・
 1162生年 壬午(丙・ ・丁) 丁亥(戊・甲・壬)
 0005生月 乙巳(戊・庚・丙) 戊申(己・壬・庚)
 0031生日 乙亥(戊・甲・壬)G 壬午(丙・ ・丁)
壬午(丙・ ・丁)U 己丑
      申酉=空亡
 ↓↑
 「アフガン(Afghan Mastiff)は部族間で揉め事が起こったときに決着をつけるために闘犬として使われる」・・・
 「ジャパニーズ・マスティフ=土佐犬」・・・
ーーーーー
 斉明天皇の
 阿倍臣(阿倍比羅夫)が
 胆振鉏(いぶりさえ)・・・
 ↓↑     鉏=金+且=犂・鋤・耒・耜=すき
          身に添えて持つ小刀・さえ
    ・・・「鉏」は「斧・鉞・戉」の形状のモノ
    石器時代、縄文時代なら「石斧」・・・?
    弥生時代、古墳時代も「石器」の需要はあった?
    刃物類は金属になったが装飾品の玉の需要はあった・・・
    ・・・「ソゴ=齟齬・鉏=ソゴ」・・・
    物事がうまくかみ合わないこと
 ↓↑ 食い違うこと・ゆきちがい
 蝦夷(えみし)
   ・・・アイヌ?・・・「阿・委・奴」?
   「胆振鉏(いぶりさえ)」は
    阿倍(阿毎王朝)に委ねる奴?
   「夷振り=ヒナぶり」は
    アイヌの歌謡舞踏だろう・・・
    味 耜 高 彦 根 神・・・耜=鉏
    あじすきたかひこねのかみ
    阿遅志貴高 日子根 神・・・志し遅れる
    あぢしきたかひこねのかみ
    阿知詞記多寡比古音之漢?
    山口市阿知須(あじす)幾?
    漢直の祖、「阿知使主」・・・?
    応神二十年
    子の
    都加使主
    党類十七県の民を率いて来朝
    三十七年に縫工を求めて
    漢人系渡来人
    東漢氏の祖
    阿智使主=阿知王=阿知吉師
    機織りを伝えた
    東漢氏(やまとのあやのうじ)
    倭   漢  得字
    東=倭・・・大陸、半島からの東が倭
    東漢=トウカン・・・問う漢字?
 ↓↑ ↓↑
    応神三十七年
    縫工を求め
    子の
    都加使主とともに
    呉につかわされ
    工女の
    兄媛(えひめ)
    弟媛(おとひめ)
    呉織(くれはとり)
    穴織(あなはとり)
    四人を連れ
    応神四十一年帰朝
    畿内への途中
    筑紫の
    胸形大神に
    兄媛を献じ
    ほかの
    三人を
    オオササキのミコト
   (仁徳天皇)に献上
    履中天皇即位に際し
    住吉仲皇子の反乱で
    平群氏
    物部氏
    とともに
    履中天皇を
    河内から大和に逃がして守護
    これにより
    王仁とともに内蔵の出納を司った
   「阿知吉師(あちきし)=阿直岐」・・・古事記
   「坂上氏」の伝承で
    阿知使主は後漢の
    霊帝の曾孫
    後漢の滅亡に際して
    朝鮮の帯方に移住
    七姓の民とともに
    倭に渡来
    阿知使主は
    応神天皇に奏し
   「旧居帯方の人民男女はみな
    才芸があるが
    最近は百済と高句麗の間にあって
    去就に困っているため
    これを呼び寄せたい」
   と進言、使者を派遣し
 ↓↑織工の民を勧誘帰化させた
 ↓↑ ↓↑
 アイヌの
 「胆振鉏(いぶりさえ)」・・・胆=肉+日+一=きも
 ↓↑             振=扌+辰  =ふる
 ↓↑             鉏=金+且  =すき
 を饗応した故事・・・
 ↓↑ ↓↑
 犬(いぬ)=セタ・シェダ・セッタ・ヘダ
 里言葉で「犬の肉(にく・ジク)」のこと
 アイヌ語で
 犬=セタ・シェタ
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 「戌(いぬ・ジュツ)=ト+戈=滅(ほろぶ・メツ)」
          戌=厂+-+乂(乄)+丶=犬=狗
          犬=一+人+丶(灯火・主人)
          狗=犭+句(勹口)
    草木が枯れる?
   「戌」が「滅」とは思えない・・・果実を刈り取る
                   収穫=シュウカク=収獲
   「戌」は実が「成」る、「成熟の秋・穐」・・・
    ↓↑
   「戌(ジュツ)」に 
    動物の犬が割り当てられた
    Dog(ドッグ)
    十二支の中で第11(十一・壱拾壱)番目
    戌月=旧暦九月(新暦十月)
    戌の刻=午後八時・7~9時の2時間
眞西から北へ30度の方角
    戌の方は西北西・北基準右廻り300°の方角
    数の百
    古本商の符牒語
    同商の仲間で
    十二支の中
    子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉
    を一より十までの数に配し
    戌=百
    亥=千
    の数に配して符牒とする・・・古本屋の用語?
「戌亥子丑寅(いぬいねうしとら)」の呪文
    イヌに追われたり囲まれたりしたとき
    この呪文を唱えつつ5本の指を折ると
    イヌが退散する・・・?
    ・・・次の「卯」が
      「支合の丁(火の弟・日の徒)」になる?
         「兎(うさぎ)」は犬よりも速い?
    「亥子丑寅卯(いねうしとらう)」の呪文なら
    ・・・次の「辰」は
         「冲、衝」で「戊(土の兄)」になる?
         「戌の牙(-)」が抜けて「戊(ボ)」
 類字=戉(まさかり・エツ)
    戊(つちのえ・ボ)
    戍(まもる・ジュ・シュ)
    成(なる・セイ)
 シリウス(Sirius)=大犬座で最も明るい恒星
           青星=天狼星・・・
           シリウスBとシリウスAの連星
         「支離有珠=シリウス=尻臼・後碓」?
          取石鹿文=熊襲=熊曾=球磨囎唹
          とり-いし-しか-あや(ふみ)
          シュセキロクブン
          イワを取ってフミを録す
          曰  問って文を訶(しか・詞化)訳素
          ↓↑ 訶=叱る・責める・大声で怒鳴る
          ↓↑   咎める・非難する
          ↓↑ 訶に摩がつくと
          ↓↑摩訶般若波羅蜜多心経⇔摩訶=偉大な?
          取石鹿文(トロシカヤ)?
          とらいししかあや
          虎威遺志史化文(彪)
          ↓↑
          熊襲=川上梟首(タケル)
          クマソタケル(熊襲建=川上梟帥)
          を殺したのは
          小碓命=倭男具那
 ・・・「熊襲の頭は渠師者(イサオ)
     二人存在、その下に小集団の頭たる梟師(タケル)
     渠師者(イサオ)の娘に贈り物をし手なずけ
     娘に、父に酒で酔わせ、弓の弦を切り、殺害
     ヤマトタケルは美濃国の弟彦(オトヒコ)も
     敵を酔わせて殺害」・・・
ーー↓↑ーー
 「アイヌ語辞典」から
  ↓↑
 セタ=アイヌ語で犬(いぬ)
    アイヌの飼育した犬の犬種をセタと呼ぶ
    北海道犬
    アイヌ犬
    マタギなどの集団でも犬の意味
    スペイン語のアルファベットの最後の文字Z
    英語のZに相当
    読みはzeta
    Z=乙(オツ・イツ)=乚=L
ーー↓↑ーー
 「seta」=動・植・哺乳類や無脊椎動物の
      剛毛(bristle)
      刺毛・とげ (状部[器官])
      サク柄(さくえ)
      印欧語根 sai=束ねる・縛ること
ーー↓↑ーー
 石狩国上川郡に
 (Seta-un-nay
  セタ・ウン・ナイ
  イヌ・いる・沢
 という地名
 「セタ」ハ犬ニアラズ
 「ウオーセカムイ=狼」ヲ云フ
 「狼ノ子ヲ生ミシ処」
 オオカミ=horkew(ホロケウ)
      onrupus-kamuy オンルプシカムイ
狩をする-神
 wose-kamuy=ウォセカムイ
wo(イヌ、オオカミの吠え聲(ごえ)
 wo-se(ウォーとほえる)kamuy(神)
 石狩国上川郡
 Seta-un-nay
 「セタ・ウン・ナイ」
  イヌ・いる・沢 
 北見国紋別郡に
 「オオセウシ=Woseusi
  ウォーとほえる所)という地名
 「狼多キ処」
 「狼出デ夥シク鹿ヲ食ヒシ処ナリシガ
  今ヤ鹿尽キテ狼モ亦ナシ」
 wose-kamuy
 と
 horkew
 とはちがう
 「wose-kamuy」は「オオカミ」ではなくて
 「ヤマイヌだ」
 と主張する老人たちが、白老や幌別には多い
 北海道には
 オオカミのほかにヤマイヌもいた
 野生化した犬をアイヌは
 「kimuy-set=山のイヌ=kim(山)un(にいる)seta(犬)」
 飼い犬と区別していた
 wose-kamuy
 kimuy-seta
 をもさした・・・
 poyop(ポヨプ)
 「ポヨプ(狼)」
 日高国静内郡
 「ポヨプ」という地名
 オオカミの意味
 「ホヨプ」ハ「凶害ヲナス」
 nupuripaunkur=ヌプリパウンクル
 nupuri(山)pa(かみて)un(にいる)kur(神)
 山のかみてに住む神
 オオカミの神としての名
 nupuripakorkamuy=ヌプリパコロカムイ
 nupuri(山)pa(かみて)kor(支配する)kamuy(神)
 オオカミの神としての名
 犬=セタ=狗=いぬ=戌
ーー↓↑ーー
 瀬田(せた)=勢多(せた)
 ・・・瀬=氵(水)+束+頁=荑=氵(水)+褚(束刀貝)
    荑=氵(水)+束+負(刀貝)
      河川の中で流れが速く水深が浅い場所
      はやせ・水が激しく流れる場所・急流
      せ・あさせ
      川の中で、立ち歩けるほどに浅い場所
    田=原義は狩場・猟場・漁場
      水田、田圃のタンボではなかった
 ↓↑
 地名・河川
 瀬田川=淀川の滋賀県内における呼称
 瀬田の唐橋=瀬田川にかかり
       大津市
       石山地区と瀬田地区を結ぶ橋
 瀬田駅
 滋賀県大津市・東海道本線(琵琶湖線)の駅
 瀬田駅
 熊本県菊池郡大津町
 ↓↑
 瀬田・玉川「瀬田」
 「瀬戸」がなまった
 「瀬戸」とは狭小な海峡という字義?
 「瀬田」は「狭田(さた)」という意味?
 ↓↑
 中津川市
 田瀬(たせ)=田んぼのある川の瀬ではない
        ここを流れる
        付知川は田瀬のすぐ上流で
        狭い谷を刻んでいる
        その谷平野の地名が
       「芝ヶ瀬(しばがせ)」
 ↓↑
 世田谷(せたがや)
 平安時代の文献にも見える名
 この近辺は往時
 勢田郷という村落
 勢田のうちの谷地であった
 江戸期
 世田ヶ谷村として成立
 明治二十二年(1889)
 周辺の7つの村と合併し
 世田ヶ谷村の大字となり
 昭和七年(1937)
 世田谷区成立の際に
 世田谷と「ヶ」が省かれた
 その際に
 羽根木町を
 昭和三十九年(1964)
 住居表示の際に
 梅丘、桜丘、豪徳寺などを
 分離・町域変更
 ↓↑
 九州・熊本に大津「おおづ」
 近くに「瀬田」がある
 大津の瀬田が由来
 殿様が元居た「大津」を懐かしがって付けた・・・
 芭蕉、木曾義仲、明智光秀、今井兼平
 などの墓・・・
 芭蕉は大津市の国分山からの眺望を絶賛
 庵を結んだ
 石山の奥
 岩間の国に山有り
 国分山といふ
 清陰翠微(せいいんすいび)の佳境
 いと、めでたき眺望になむはべれば
 元禄三卯月の始、暫く訪ね入りて、
 「先ずたのむ 椎の木もあり 夏木立」
 芭蕉の墓は義仲の墓の隣にある・・・
 ↓↑
 瀬田掃部(かもん)・・・化文・日分・掛問?
 桃山時代の武士・茶人
 名は正忠、伊繁
 小田原北条氏
 豊臣秀吉
 に仕え
 近江国
 瀬田を本貫地とした
 千利休に茶の湯を学び
 利休七哲の一人
 大ぶりの
 平高麗茶碗
 や
 掃部形
 と呼ばれる
 「茶杓」を愛用・・・柄杓・北斗七星(小熊座)
   形状⇔斧・戉・鍬・鋤(犂・耒・耜・鉏)・杵
      杵=木(十八)+午(ノ-十)=きね=姫音=記音
 瀬田正忠(せた まさただ)
 通称は清右衛門
 名は伊繁(これ しげ)
 利休七哲の一
 官位は「掃部(かもん)・掃除係」
 高山右近の推挙により豊臣秀吉に仕え
 天正十二年(1584年)
 「小牧・長久手の戦い」に従軍
 天文十七年(1548年)頃生まれ
 文禄四年(1595年)死没
ーー↓↑ーー
 犬(いぬ)
 ↓↑
 英 ドッグ  dog
 独 フント  Hund
 仏 シアン  chien
 仏 シャン  chien
 仏 シィアン chien
 伊 カーネ  cane
 西 ペロ   perro
 西 ペルロ  perro
 西 ペーロ  perro
 西 ペロォ  perro
 羅 カニス  canis
 希 キュオーン
 露 サバーカ     собака
 オランダ語 ホント  HOND
 ポーランド語 ピェス pies
 中 コウ 狗
 マレー語 アヌジン  anjing
 スワヒリ語 ムブワ  mbwa
 ヘブライ語 ケレヴ  
 デンマーク語 フンン hund (dは無声音)
 ノルウェー語 フン  fund
 ルーマニア語 クイネ câine
 ルーマニア語 クイニ câini (複数形)
 トルコ語 キョペキ  köpek
 クメール語 チュカェ 
 カタルーニャ語 ゴス gos
 チェコ語 ペス    pes
 エストニア語 コエル koer
 チュニジア語 カルブ
 ペルシア語 サグ
 ヒンディー語 クッター
 ヘブライ語 ケレヴ
 スウェーデン語 フンド hund
 モンゴル語 ホノィ   нохой
 ルーマニア語 クイネ  câine
 シンハラ語 バッラー
 ネパール語 ククル
ーーーーー
 ・・・

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カラオケ文化・・・ウタイたくなる根拠は?・・・

2017-12-27 23:24:29 | 古事記字源

 ・・・暴風雪・・・ィヤァ~ッ、家が揺れていた・・・一昨日(おととい→音問い?)から、昨日(きのう→機能・帰農・帰納・喜納・気嚢?)の出来ごとだったけれど・・・物置小屋の戸を閉める鍵代わりに針金で括っていたが強風で切れ、開けられ、小屋の中は雪が舞い込んで積もってしまった・・・毎日、毎日、大雪の吹雪き・・・交通事故も多発・・・夏は兎に角、倭人、なんで、「蝦夷地」で冬を過ごそうなんて考えたんだろう?・・・黒曜石、十勝石・・・砂金が採れた・・・住むには、まだ、シベリヤよりはマシか・・・「ブナ」の北限が「歌才(うたさい)」って云う場所で北海道の「寿都郡・黒松内町・字黒松内」にあるらし・・・ムカシ、ロス(羅府)~ニューヨーク(紐育)へ、車でアメリカ横断中の友達から「ブナの妖精が飛び交う道を走っています・・・」なんて、手紙を貰ったけれど・・・「ブナ」って?・・・材木は身近な日常生活の原材料なのに当時は興味がなかった・・・
 それにしても「歌才(うたさい)ブナ」って記録されているからブナの木の「種類」かと思っていたが、ブログ検索すると「地名」・・・本当に、「北海道の地名」にはマイル(眞意留)が、ボクの興味はナゼ、その漢字を「アイヌ語」に「当て字」したんだろう?・・・ってコトに尽(盡)きるカナ・・・
 「歌才」は「和歌の才能・歌姫の歌唱力」、「歌棄」は「歌の創作を棄てる、諦める」なんかじゃぁなくて、「歌漫才」の「才能」と「才能、採納」の「委棄、遺棄」・・・
ーーーーー
 以下、ボクが理解出来る熟語って?
  ↓↑
 歌曲・歌劇・歌詞・歌謡・哀歌・演歌・凱歌
 軍歌・校歌・国歌・賛歌・聖歌・挽歌・牧歌
 詠歌・謳歌・狂歌・詩歌・唱歌・聖歌・短歌
 長歌・悲歌・連歌・和歌・歌集
 歌手・歌唱・歌舞・謳歌・高歌・放歌
 ・・・以下は、正確には判らんが字面から推測は出来るか?
 ↓↑
 歌功頌徳・歌舞音曲・歌舞優楽・緩歌縵舞・緩歌慢舞
 琴歌酒賦・撃壌之歌・高歌放吟・慷慨悲歌・高吟放歌
 詩歌管弦・四面楚歌・流行歌
 ↓↑
 歌合わせ・・・「歌才」
 歌う・・・・・「歌才」
 小倉百人一首
 歌留多=かるた=加留多=かるた=借る他・刈る田・狩る多
 ・・・北海道の「かるた会」は「トり札」が「木札」である・・・
 跳(飛・翔)んでくるから見物人は危険である・・・
 ↓↑
 歌舞伎・歌会・歌枕・詩歌・賛美歌
 引歌・臼歌・艶歌・歌意
 歌唄
 哀傷歌・愛唱歌・稲刈歌・艶書歌・応援歌
 歌い手・歌い女・歌の家・歌の道
 ↓↑
 ・・・歌舞伎=かぶき=蕪木・株樹・株木・甲木・冠木・・・
 ↓↑
 伊呂波短歌・伊呂波連歌・詠歌大概抄
 歌舞の菩薩・歌舞伎音楽・歌舞伎狂言
 歌舞伎芝居・歌舞伎若衆・歌舞伎草子
 歌沢大和大掾・歌舞伎十八番
 歌舞伎浄瑠璃・傾城歌三味線
 古今和歌六帖・後拾遺和歌集
 孝女白菊の歌・新古今和歌集
 新後撰和歌集
ーーーーー
 北海道の「歌・唄」のつく地名
 歌島
 歌棄
 歌才
 歌登
 歌越
 歌志内
 美唄
 歌神
 上歌
 原歌
 歌露
 三石歌笛
 宮歌
 歌内
 ↓↑
 新潟県
 糸魚川市
 歌(うた)・・・隋書の「利歌彌多弗利」
             リカミタフリ
ーーーーー
 橅=木+無
 ↓↑
 ブナ・・・附名
   ・・・鮒=魚+イ+寸
      船=舟(月)+八+口
 山毛欅・・けやき=欅・槁・槻
 橅=十+八+無
 椈=十+八+匊(勹米)・・・匊(すくう)
 桕=十+八+臼・・・・・・・臼=うす=碓・有珠・宇受
 樻=十+八+中+一+目+八・・貴人=きじん=奇人・鬼人・楊貴妃
ーー↓↑ーー
 北海道
 寿都(すっつ)郡・・・・後志=しりべし
 黒松内町
 字
 黒松内 302-1
 北緯42度40分
 東経140度18分
 アイヌ語の
 「黒松内=クル マッ ナイ
      和人の女性の・沢」
 に由来
 当時の現地では
 アイヌには
 和人の女性が珍しかった
 ↓↑
 昔出稼ぎにきた漁夫を追ってきた
 女性を乗せた船が難破し
 そのままこの
  クルマッナイ
 (黒 松 内)
 の地に
 滞留し、当て字を
 「黒松内」とした・・・
 ↓↑
 黒松内村の起源となる
 他の地区
 「熱郛(ねっぷ)村」・・・郛=孚+阝=くるわ・フ・廓・郭
                爫(爪)+子(孑)+邑
                くるわ・城の周りの囲い
                土塁や石垣などで造られる
 明治二十四年(1891 年)
 「歌棄(うたすつ)」
     1906年(明治三十九年)四月一日
     歌棄郡(うたすつぐん)の
     潮路村
     有戸村
     種前村
     美谷村
     が合併し、
    「歌棄村」が発足
 の住人である
 横村儀兵衛外
 16 人が
 「歌棄-共同農業組合」を設立し
 道庁に土地の払い下げを請願
 同二十七年(1894年)に許可をもらい開墾
 湯別村中ノ川地区も
 明治二十二年(1889年)頃
 滝沢千代吉
 を先達とした
 「青壮年一団(新潟県)」が・・・新潟
 第一次入植者として開墾
 黒松内村は
 明治六年(1873年)
 黒松内市街地
 同三十一年(1898年)
 字
 中里以東の地方と
 二度にわたる所属替えを経て
 黒松内村として成立
 明治三十年(1898年)頃
 函樽鉄道株式会社(北海道鉄道株式会社)の
 函館~小樽間の主要駅とし
 鉄道の町として
 昭和六年(1931年)
 金鉱脈の発見により
 鉱山を
 「大榮鉱山」
 と命名し
 鉱山の町として栄えた
 昭和三十年(1955年)
 旧黒松内村
 旧熱郛村
 旧樽岸村の中ノ川地区との
 合併により
 「三和(みわ)村」となり
 同三十四年一月(1959年)
 町制施行で
 「三和町」に
 五月には
 「黒松内町」と名をかえた
 ↓↑
 熱郛(ねっぷ)・・・音威子府(オトイネップ)村
 ↓↑        アイヌ語(濁った  川)
           旧称は常盤村
           1963年改称・・・何故?
           音の威嚇は孑(ぼうふら)
                子(ねずみ・北)
                府=广+イ+寸
 ↓↑        オトイネップ=乎(嗚)問いネップ?
 ↓↑        Novaya ekonomicheskaya politikaの略称
 ↓↑        新経済政策=ソ連邦1920年代の経済政策?
 後志国・・・1910年(明治四十三年)三月一日
       小樽支庁、岩内支庁、寿都支庁
       室蘭支庁虻田郡の
       真狩村
       狩太村
       を統合し
       後志支庁を倶知安村に設置
 寿都(すっつ)郡
 黒松内町
 開駅
 明治三十六年十一月三日
 (北海道鉄道)
 はじめ
 「熱郛(ねっぷ)」
 といい
 明治三十七年十月十五日
 「歌棄(うたすつ)」
 と改称
 明治三十九年十二月十五日
 もとの
 「熱郛」
 に改めた
 アイヌ語の
 「クンネ・ネッ・ペッ」
 (黒い  標木の 川)
 アイヌ語の
 「オタ・シュツ」
 「歌  棄」
 は
 「浜の草原がつきて
  砂原にかかるあたり」
 から出た
 ↓↑
 歌才(うたさい)=u-tasa-i
   「互いに・向かう・もの」
 では、「歌才(和歌の才能)」の漢字の意味は
 ・・・和歌の才能、歌留多(加留多)、対戦競技の試合?・・・
 ↓↑
 「上りエナヲ峠
 (昔し山越内・アブタ〔虻田〕の境也)
  土人(アイヌ)等
  エナヲ(木幣)
  ↓↑  ・・・稚内・抜海村
        「バッカイ石と云うもの有。
         大なる丸き石の上に
         また三位ぐらいの丸石有。
         ここに七五三(しめ)をはり、
         エナヲ(木幣)立て、
  ↓↑     華表等を立、まつる也(松浦武四郎)」
  を立し跡有。
  しばし
  過(六七丁)境柱(今此所を界とす)。
  是より下り
  木立原。
  右にスツヽベツ、
  左黑松内川を眺々下りて
  風栗の木臺、
  是、
  ぶな多が故號く。
  後ろ
  ウタサイ(丸山)と云山有。
 (松浦武四郎・著
  吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」
  時事通信社 p.40)
  またしばし過て
  ウタサイ・・・・歌才
  右小川。
  其名義は
  両方より
  岬、互に合て
  川が曲り重り有りと云事のよし也」
 ↓↑
 黒松内町で
 ブナを貴重な財産ととらえ、
 木偏に貴と書く
 「樻」という漢字を使用
 ↓↑
 胆振国(いぶりのくに)
 大宝律令の国郡里制を踏襲し
 戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定
 五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた
 制定当初は
 膽振國とも表記
 国名の由来
 斉明天皇の
 阿倍臣が
 胆振鉏(いぶりさえ)・・・
 ↓↑     鉏=金+且=犂・鋤・耒・耜=すき
          身に添えて持つ小刀・さえ
    ・・・「鉏」は「斧・鉞・戉」の形状のモノ
    石器時代、縄文時代なら「石斧」・・・?
    弥生時代、古墳時代も「石器」の需要はあった?
    刃物類は金属になったが装飾品の玉の需要はあった・・・
    ・・・「ソゴ=齟齬・鉏鋙=ソゴ」・・・
    物事がうまくかみ合わないこと
    食い違うこと・ゆきちがい
 ↓↑ ずれ・食い違い・行き違い(ゆきちがい)
    大倭日子鉏友命=懿徳天皇
         ・・・懿=壹+次+心・・・壹與のツギの心
   (オオヤマトヒコスキトモノミコト)
    安寧天皇(三代)の子
    大倭日子鉏友命(古事記)
    大日本彦耜友天皇(日本書紀)
   (オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)
    宮は軽の曲峽宮(マガリオノミヤ)
    陵は畝火山(ウネビヤマ)の
   「真名子(まなこ)谷」の近く(古事記)
   「畝 傍山 南   纎 沙 谿  上  陵
   (ウネビヤマミナミのマナゴのタニのカミのミササギ)
   (日本書紀)
   ↓↑
   まなこ
   真名子・真奈子・真那子・摩耶子
   眼(まなこ)・愛子・真子=まさご=真砂・眞砂
   眞名語=漢字文・漢語文・・・眞魚=弘法大師・空海
   まな-こ
   ↓↑まな⇔なま・・・「ま」と「な」の逆配置 
   なま-こ
   海鼠(カイソ)=なまこ=海参(ハイシェン)
      加工は海参 (いりこ) ・海鼠腸 (このわた)
     =sea cucumber(海胡瓜)・・・カイ究理(窮理)
   海鼠透=宮本武蔵創案とされる
       大振り楕円形の透し模様を
 ↓↑    左右対称に配した鐔(つば・鍔)
 の
 蝦夷(えみし)
 を饗応した故事
 ↓↑ ↓↑
 犬(いぬ)=セタ・シェダ・セッタ・ヘダ
 里言葉で「犬の肉(にく・ジク)」のこと
 アイヌ語で
 犬=セタ・シェタ
 ↓↑ ↓↑
ーーーーー
 ・・・ヒトはウタウ、自然はウナル・・・

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木を切り倒してモノを造りたかった・・・道具はイシで石を砕くコトから始まった

2017-12-26 22:45:08 | 古事記字源

 ・・・「イド・イト・ヒド・ヒト」・・・「日詰」、「二九日」、「ひづめ」・・・?「蹄(ひづめ・テイ)=足(あし・口ト人=クチウラナウヒト)+帝(みかど・亠〃冖巾・亠丷冖巾=オトハワハバ)」・・・「ひづめ=日(ひ・か・ニチ・ジツ)詰(言+吉・詰め込む)・比(くらべる・ヒ)詰・樋(とい・ヒ)詰・樋爪(つめ・ソウ・ショウ・手足の指のツメ・ネール=Nehru)・飛(とぶ・ヒ)詰」・・・「イだ・イぢ(じ)・イづ(ず)・イぜ・イぞ」、「ヒだ・ヒぢ(じ)・ヒづ(ず)・ヒぜ・ヒぞ」・・・
 「イド」・・・


ーーーーー
 秋田県
 男鹿市
 北緯39度52分
 東経139度51分
 ↓↑
 秋田県・・・アキタにカカル・シュウデン
 男鹿市・・・おじか・ダンロク
 船川港・・・ふねかわみなと・センセンコウ
 船川
 字・・・・・あざ・ジ
 泉台66-1・・いずみだい・センダイ
 北緯39度53分
 東経139度50分
 ↓↑


 比詰=寒風山の南西
    羽立の北
    日枝神社の東
    戸賀加茂-青砂の東・・・青の砂
   「きららか」の北東・・・記等等化・吉良等化
 ↓↑
 岩手県
 久慈市・・・籤・九字・句字
 二十八日町(にじゅうはちにちまち)
 岩手県
 久慈市
 川崎町1番1号
 北緯40度11分
 東経141度46分
 ↓↑
 「廿九日=ひづめ=日詰」・・・29日
 石川県
 鹿島郡・・・・しかじま
 中能登町・・・なかのと
 廿九日(ひづめ)
 廿九日(ひづめ)=晦日(みそか)とも書く・・・
 由来は
 樋詰の転化
 古代の
 越蘇郷・・・越蘇駅
       8世紀
       中央と地方の中継基地の駅(馬+尺)の一
       能登郡に
       越蘇(えそ)駅
       撰オ(よき)駅
       が作られた
 院内住人
 の
 馬場の
 蹄跡が多い故
 旧暦で
 大の月は30日
 小の月は29日
 が月末で
 それぞれ
 「日が詰まった日」
 「日詰」の他
 「比詰・樋詰・樋爪・飛詰」
 などの当て字があり
 いずれも「ひづめ」と読む
 ↓↑ 
 秋田県男鹿市船川港    比詰(ひづめ)
    男鹿、船川港を比較(皮革・非核)しツメル
 ↓↑
 秋田県大館市比内町独鈷  日詰(ひづめ)
    大館の比較の内の独鈷(獨古)のヒヅメ
 ↓↑
 岩手県紫波郡紫波町    日詰(ひづめ)
    紫波の紫葉(斯波・司馬・芝・標葉・榛葉・鳥羽)
              の日詰
 ↓↑
 富山県氷見市(ひみし)  日詰(ひづめ)
       大境洞窟住居に日詰
       蝦夷防備の狼煙監視所で日詰
       海をへだてた
       立山連峰の万年雪、氷の日詰
       漁り火の見張り番所の日詰
       海が干し陸地になって
       干海(ひみ)番所の日詰
 ↓↑
 富山県高岡市       樋詰(ひづめ)
    加賀藩主
    前田利長が築いた高岡城の城下町の樋詰
1609年入城
   「鳳凰鳴矣于彼高岡
   (鳳凰鳴けり彼の高き岡に)」に由来
    746年
    国司として
    大伴家持が赴任
    五年間在任
桜谷古墳・・・伊弥頭国造の大河音足尼一族の墓
    出土品
    内行花文鏡・管玉・石釧・紡錘車・青琅・金環・小玉
 ↓↑
 京都府向日市(むこうし)
       上植野町   樋爪(ひづめ)
    向日の上の植野の樋爪
    山城国
    乙訓郡に属し
    長岡京が設置
    向日市
    鶏冠井町に
    1470年(文明二年)
    日成が
    石塔を建立
    石塔寺(セキトウジ)の樋(とい)の爪(つめ)
 ↓↑
 兵庫県川辺郡猪名川町広根 飛詰(ひづめ)
    川の辺、猪の名の川の広の根、訳葉詞摘め・・・
 ↓↑
 石川県金沢市に
 「蚊爪町(かがつめまち)」の地名由来に
 「蚊爪(かがつめ)=日々詰で、日詰と同じ
月末に市がたつこと」
 「樋詰(ひづめ)=月末の29日を「ひづめ」と呼び
          定期市などを開くこと
 ↓↑
 「四十日(しとか)」、「四十物(あいもの)」
 新潟県
 南
 魚沼市
 「四十日(しとか)」
 毎月4と10の日に開市
 新潟県
 佐渡市
 相川
 「四十物町(あいものまち)」
 慶長年間
 四十物(あいもの)商人が集まって住んだ
 四十物(あいもの)=魚の塩漬け
           鮮魚と干物との間のモノ
           四十種に及び
           「四十物」という表記になった
 ↓↑
 男鹿石=江戸時代中期頃
     石川忠右衛門氏・・・・・石川
    (久保田町亀の丁出身
     佐竹家の石工大棟梁)・・石工
     男鹿石の採掘・加工・販売
     石川忠右衛門が好んで口にした
    「面白や 石にも苔の 花衣も」
     霊祭之碑が残っている・・・
 ↓↑
 新潟県
 十日町市
 ブナの美人林・・・?
 ブナ=学名Fagus crenata
    別名は
    シロブナ、ホンブナ、ソバグリ、ソバグルミ
    ソバ、 ソバノキ、コハブナ
 橅=木+無
   落葉高木
   役に立たない木として
   木偏に無でブナと読ませた・・・国字
   ソバの名があるのは
   実が蕎麦の実に似ているため
   ブナ=山毛欅・橅・椈・桕・Fagus crenata Blume
      落葉高木広葉樹
      温帯性落葉広葉樹林の構成種
      小名のcrenataは
     「円鋸歯状の」を意味

 羊蹄=ギシギシ・・・ノコギリの発明・・・

      中国語で「山毛欅」とは
      本種ではなく中国ブナの一種
     「橅(ぶな)」は日本造作の文字
     「椈=十八匊」は
      中国語でブナの意味は無く
     「檜(ひのき・桧)の意味
   鮒=魚+付→「まな+イ+寸」=ぶな=部納・分名・伏名
   ブナの古名
   蕎麦の木
   ブナの果実
   蕎麦栗
   果実にソバ(稜角の古語)がある木
   ブナは生長しながら「根から毒素を出す」
   ブナの木は重く川を流して搬出が困難で
   商取引には向かない資材で
   腐りやすい上
  「加工後に曲がって狂いやすい」性質・・・改竄文章も?
   歌才(うたさい)ブナ
   渡島半島のみに分布
   自生北限地帯
   北海道寿都郡
     黒松内町、分布の北限
   和泉葛城山ブナ林
   大阪府貝塚市蕎原
     岸和田市塔原
   比婆山のブナ純林
   広島県庄原市
     西城町
     比和町
   高さ30mほどに達する落葉高木
   樹皮は灰白色できめが細い
   地衣類(苔・蘚)などが着いて
   独特の模様
   若い枝は褐色で光沢
   葉は互生し楕円形(長さ4-9cm、幅2-4 cm)
   薄くてやや固め
   縁は波打って、
  「鋸歯」・・・「ノコギリのハ」・・・
   ↓↑
   イヌブナ Fagus japonica
   岩手県以南の本州・四国・九州に分布
   一般にブナよりも温暖で雪の少ない土地を好む
   ブナの樹皮は白く
   イヌブナの樹皮は暗褐色
   樹皮の色から
   クロブナとも
   葉序は互生
   葉の形は楕円形
   先端は尖り
   縁は針のように尖って
  「ギザギザ」
   イボ状の皮目
   イヌブナの殻斗=短い鱗片に被われる
   材質がブナより劣り「イヌブナ」となった・・・?
   葉の裏面に毛があるので「イヌ」がつく・・・?
   葉は互生
   卵状楕円形、長楕円形
   やや薄い
   裏面に
   白くて長い絹毛
   縁には
   波状鋸歯があり
   ブナと同様に
   側脈が
   鋸歯の凹部に至る
   側脈は10~14対で
   ブナの「7~11対」より多い・・・七~十一
   ブナと同様に
   イヌブナにも
   虫瘤(こぶ)が多くつく・・・
 ↓↑ ↓↑
 葛巻町(くずまきまち)
 北限のイヌブナ・町の天然記念物
 岩手県
 岩手郡
 葛巻町
 葛巻・・・・・・葛(かずら)の巻(まき)
 第16地割1番地1
 北緯40度2分
 東経141度26分
 ↓↑


 新潟県
 糸魚川市
 一の宮 一丁目2番5号
 北緯37度2分
 東経137度51分
 ↓↑
 姫(ひめ・キ)川
 暴れ川として厭われ
 「厭(いと)い川」が
 「糸魚川」の名の由来・・・?
 ↓↑   ↓↑
 翡翠=翡翠輝石+オンファス輝石?
    omphacite=オンファサイト=ケイ酸塩鉱物
    カルシウムとナトリウムを含む単斜輝石
    オンファス=未熟なブドウという意
 ↓↑ ↓↑


 翡翠=奴(ぬ)の玉・・・奴国の玉・瓊の玉?
    奴国(なこく・なのくに)・・・奴=女+又・女の右手
   「後漢書・東夷伝」
   「魏志倭人伝」
    に記録されている国、「奴国」
    大和時代の儺県(ナ or ヌのあがた)・・・?
            漢(氵+艹+口+夫)⇔難⇔儺
              水+艹+央+二
              水+艹+史+二・・・水+英+二?
              水+艹+中+人+二
            漢=氵(水)+𦰩(動物を火で炙る)
               「𦰩=火で炙るの意」
               「𦰩=火矢」
            ・・・水で炙りモノを冷やす?
            ・・・水で火矢を消す?
            ・・・水の中に火のモノを浸ける?
            ・・・焼き入れ
            高温熱の金属を急冷させる熱処理?
      漢=氵+𦰩・・・𦰩=動物の革を火で炙る・燃やす
                乾いた・渇いた
                𦰩=日照り神
                𦰩=巫祝を焼く字
         熯・暵・艱・嘆・歎・難・灘・儺
      𪅀=難=かたい・むずかしい・なやむ・なじる
          ナン・ダン・ダ
        難=𦰩+隹
     異体字は「難・難・𨿻」・・・𦰩=𡶦=山+丘
        阿毎王朝         嶽=岴=𡶦
        鷄・鶏・雞
       「隋書・卷八十一列傳第四十六 東夷 俀國」
       「阿輩雞彌(あはケイミ・おほきみ)」
      「王妻號雞彌」
        鷄・雞・鶏・・・源字は「雞=奚+隹」
       「俀国王 阿毎多利思北孤」
      漢=カン=暵・艱・漢
        タン=灘・嘆・歎
         ナ=儺
        ナン=難 
    福岡市付近に存在・・・
    西暦57年に後漢から
   「漢委奴国王」の印を贈られた・・・「委奴=イヌ」?
 邇邇藝命=ににぎミコト=瓊瓊杵尊・・・「ア+イヌ」の瓊瓊杵?
   邇=瓊
   藝=杵・・・「きね(杵=十八ノ一十)」
   ↓↑     の形は
         「尸」、「中」
         「7・7・丅・丁・十・卩・P」
         「匚+l」
      ・・・当然にも「鉞・戉・斧・大斧」の
         形体でもあるカナ・・・
         「蘇因高=小野妹子」?
   ↓↑    「斧=八+乂+斤」=葉を刈る斤?
   命=尊
ーー↓↑ーー


 ・・・???・・・翡翠の原産地の糸魚川
          姫川=ひめがわ=女川
          璧=たま=玉=霊=珠・多摩・太万
            玉+α=たま
          瓊(たま・に・ケイ)=赤玉・紅玉・珠
 「八坂(やさか)瓊の
  五百箇 (いほつ) の
  御統(みすまる)
  日本書紀・神代上訓」
 瓊=ギョウ(ギャゥ)・ケイ(ケィ)・たま・に(ぬ)
   瓊英(ケイエイ)
   水滸伝・第97回~110回まで登場
   田虎配下の女将軍・・・・・・・・田虎(伝虎=天武)
   十六歳の美少女
   石礫(つぶて・飛礫)の名手で・・通部弖(氐=氏一)
   綽名は
   瓊矢鏃(ケイシゾク)・・・・・・雞氏族?
   汾陽府介休県出身・・・・・・・・分与得符甲斐求懸?
   国舅・鄔梨(ウリ)の養女・・・・田虎の妻の兄
   父は仇申・・・・・・・・・・・・申(猨・猿)の仇
   母は宋氏の娘
   二人は
   田虎に殺された
   瓊英は
   番頭の
   葉清、安氏夫妻・・・・・・・・・葉が清い・宀の女
   によって助けられ成長
ーー↓↑ーーー
 フォッサマグナ
 (Fossa magna・大溝)
 東北日本
 と
 西南日本
 の境目の地帯
 中央地溝帯=大地溝帯
 古い地層でできた本州の中央を
 U字型の溝が南北に走り
 その溝に
 新しい地層が溜まっている地域
 本州中央部、
 中部地方から関東地方にかけての地域を
 縦断位置
 糸魚川-静岡 構造線(糸静線)
 新発田-小出 構造線
 及び
 柏 崎-千葉 構造線
 ↓↑
 フォッサマグナの
 糸静線は
 フォッサマグナの西端で
 地図の上でも
 フォッサマグナが「面」で
 糸静線は
 その一方の境界を成す「線」
ーー↓↑ーー
 富山県富山市
 新総
 曲輪 1番7号・曲輪(くるわ)
        城の内外を土塁、石垣、堀などで
        区画した区域の名称
        郭(くる わ)とも
        主要な曲輪内には
        曲輪の出入り口である
        虎口を封鎖する門
        最前線の塀
        物見や攻撃の櫓を建て
        主郭は城主の居所
        兵糧備蓄の蔵
        台所などの建造物が建てられ
        戦時、曲輪に守備兵たちが駐屯した
        曲輪=城壁や堀、自然の崖や川などで
           仕切った城館内の区画
           仕切られた堀、壁の敷地に
           遊女屋が集まっていた
           遊郭・遊里・さと
        曲=よこしま=横島・邪・冒・犯・頗・漢
 北緯36度41分
 東経137度12分
 ↓↑
 石川県金沢市
 鞍月一丁目1番地
 北緯36度35分
 東経136度37分
 ↓↑
 蹄=ひづめ=比詰=ひづめ=二九日
 「比 詰」の由来は?・・・比較して詰(言十一口・つ)めれ?
 「二九日」の由来は?・・・貮×玖=十八日?・・・拾う葉の比
 ↓↑
 地理的位置の地名比較
 ↓↑
 能登半島
    七尾ー
 大槻/
 日靈神社・・靈=霊の旧字体・レイ・リョウ
 ひめ    初めの鎮座地
       神明ヶ谷内で
       社号は
       神明社
       明治八年
       大日霊神社と改号
       神饌 幣帛料供進神社に指定
       珠洲市宝立町馬渡68-50
 大槻
 日靈神社
   \↖   七尾
  大割   /
    \↖ /
    廿九日→徳田
    /↙
  能登二宮
  羽坂
 ↓↑
 大日霊貴神社(おおひるめむちじんじゃ)
 秋田県
 鹿角市
 八幡平にある神社
 大日堂
 「孁」の代わりに
 「霊」や「霎」が用いられるコトも
 霎=雨+立+女・・・・・雨に立つ女(おんな)
 孁=雨+口口口+女・・・三ツ口はウサギ⇔月女神
 靈=雨+口口口+巫
 ↓↑
 稚日霊尊 八幡大神
 鎮座地
 金沢市
 稚日野町南1
 金沢市
 稚日野町
 由緒
 創立年月
 文正年間
 ↓↑ 文正(ブンショウ)
 ↓↑ 寛正の後、応仁の前
    1466年~1457年の期間
    後土御門天皇
    室町幕府将軍は
    足利義政
    文正の政変
   (ぶんしょうのせいへん)
    文正元年(1466年)九月六日
    室町幕府八代将軍
    足利義政の側近
    伊勢貞親
    季瓊真蘂・・・「瓊(ケイ・ニ)」???
            邇
    らが諸大名の反発で
    追放された事件・・・
   「応仁の乱」端緒
    ↓↑
    季瓊 真蘂・・・・・・理経真髄(神髄・心髄)
   (キケイシンズイ)・・・「季の瓊の真の蘂」?
    応永八年(1401年)
     ~
    文明元年八月十一日
   (1469年9月16日)
    室町時代の臨済宗の僧
    相国寺塔頭鹿苑院内の
    蔭涼軒主(蔭涼職)
    蔭涼軒真蘂とも・・・蔭の涼の軒の真蘂
    播磨の
    赤松氏の支族にあたる
    上月氏の生まれ
    父母は不明
    雲頂院の叔英宗播に師事
    永享七年(1435年)
    将軍と鹿苑院の連絡役である
    蔭涼軒主となり
 ↓↑ 将軍近侍の側近となる
 ↓↑ ↓↑  ↓↑
 ↓↑長禄の変
   長禄元年十二月二日(1457年12月18日)
   赤松氏の遺臣らが
   後南朝の行宮を襲い
   南朝の皇胤である
   自天王
   忠義王(後南朝の征夷大将軍)
   の兄弟を討って
   神璽を持ち去った事件
   嘉吉三年(1443年)九月
   禁闕の変
   三種の神器の一つ
  「神璽」
   は後南朝に持ち去られ
   嘉吉の乱で取り潰された
   守護大名赤松氏の再興を目指す
   赤松氏の遺臣達
   上月満吉
   石見太郎
   丹生谷帯刀左衛門
      四郎左衛門
   兄弟など
   落ちぶれて浪人となっており
   赤松氏再興は悲願で
   朝廷や幕府とは
   神璽を
   後南朝から取り戻すことを条件とし
   成功すれば
   赤松氏再興を約していた
   吉野(南朝)朝廷に参上し
   ともに京を奪還したい
   との申し入れに
   後南朝は赤松遺臣らを受け入れ
   康正二年(1456年)十二月二十日
   赤松遺臣らは吉野に入った
   彼らは神璽のありかをさぐり
   およそ1年の歳月を要し
   神璽は後南朝が行宮を置いていた
   奥吉野の北山(三之公)
   にあると判明
 ↓↑ ↓↑
   長禄元年(1457年)十二月二日
   子の刻(午前0時頃)
   赤松遺臣らは二手に分かれ
   南朝の皇胤である
   自天王(北山宮、一の宮とも)
   忠義王(河野宮、二の宮とも)
   の兄弟を襲撃
   丹生谷兄弟の兄によって討たれ
   神璽を強奪
   河野郷にいた
   忠義王も
   上月満吉によって討たれた
   後南朝に仕えていた
   野長瀬盛高
      盛実
   兄弟
   楠木正理
   らは
   尊雅王(南天皇)
   を擁して
   奥吉野の山中を逃走
   十津川にて討たれた
 ↓↑ ↓↑


   赤松遺臣らは
   神璽を持ち去ることに成功
   後南朝の吉野の民に襲撃を察知され
   吉野の民の反撃によって
   神璽を持っていた
   丹生谷兄弟は
   伯母谷で殺害され
   神璽は・・・・・・・勾玉
   自天王の首とともに
   奪還され
   赤松遺臣らは
   吉野から一旦引き上げた
 ↓↑ ↓↑
   翌年の長禄二年(1458年)三月末
   赤松遺臣らは
   大和の豪族
   小川弘光
   越智家栄
   の協力を得
   神璽がある自天王の母の屋敷を襲い
   再度神璽を持ち去った
   同年八月三十日
   神璽は京へと戻り
   朝廷へ返還
 ↓↑ ↓↑
   室町幕府は
   後南朝によって
   約15年間
   持ち去られていた
   神璽の奪還成功の功績を認め
   赤松氏の再興を許し
   赤松政則に家督相続
   勲功として
   加賀北半国の
   守護職
   備前新田荘
   伊勢高宮保が与えられた
   赤松氏再興と所領の付与には
   細川勝元が関与
   赤松氏を取り立てる事で
 ↓↑山名宗全に対抗・・・
 稚日霊尊 八幡大神   
 創建・・・
 昭和20年
 稚日霊社を
 稚日霊神社と改称
ーー↓↑ーー
 義圓
 還俗して
 義宣(よしのぶ)
 従五位下左馬頭に叙任
 4月14日
 従四位に昇任
 将軍宣下はなかった
 鎌倉公方
 足利持氏が将軍となるという流言が走り
 京都は不穏
 同年の
 正長元年(4月27日に改元)7月6日
 称光天皇が危篤
 義宣は密かに
 伏見宮貞成親王の皇子
 彦仁王を伏見宮御所から京都に移し
 後小松上皇に後継者を決めるよう要請
 上皇が彦仁王を後継とする意向を伝えると
 義宣は彦仁王が京都にいることを伝えた
 上皇は喜び
 20日の称光天皇崩御後に
 彦仁王は即位(後花園天皇)
 ↓↑
 正長二年(1429年)三月十五日
 義宣は
 義教(よしのり)と改名
 参議近衛中将に昇った上で
 征夷大将軍となった
 改名の理由は
 「義宣(よしのぶ)」が
 「世忍ぶ」に通じるという
 俗難(噂)
 当初は公家が協議して新たな名に
 「義敏」(よしとし)を決定
 「教」(「?」)の字の方が優れている
 と
 摂政二条持基(もちもと、二条家)
 を通じてこれを訂正
 ↓↑
 生誕 応永元年6月14日(1394年7月12日)
 死没 嘉吉元年6月24日(1441年7月12日)
 改名 春寅(幼名)→義圓(法名)
    →足利義宣→義教(義?)・・・ギシギシギシ
 別名 籤引き将軍、籤将軍、悪御所、万人恐怖
 戒名 普広院殿善山道恵禅定門
 ↓↑
 三代将軍の足利義満が大臣となって以降
 将軍は大臣を兼ねる(没後に贈官)場合が多
 京都を追われた将軍が
 七人(尊氏・義詮・義稙・義澄・義晴・義輝・義昭)
 幕府所在地以外の地で没した将軍が
 六人(義尚・義稙・義澄・義晴・義栄・義昭)
 暗殺された将軍が
 二人(義教・義輝)
 更迭された将軍が
 三人四回(尊氏・義稙が二回・義澄)
 幕府所在地に入れなかった将軍が
 一人(義栄)
 ↓↑
 代数
 十五代(15人)
 が、
 第十代(10人目)の
 足利義材(足利義稙)が
 一度将軍職を追われた後
 再び将軍職に就任(任命)
ーーーーー
 ・・・「季瓊真蘂」の「瓊」の漢字と、吉野南朝から「赤松一族郎党」が「神璽=勾玉」を掠奪・強奪・・・
 強奪(ゴウダツ)・争奪(ソウダツ)・剝奪(ハクダツ)・与奪(ヨダツ)・略奪(リャクダツ)・・・
 奪衣婆(ダツエバ)・奪回(ダッカイ)・奪還(ダッカン)・奪取(ダッシュ)・奪掠(ダツリャク)・奪略(ダツリャク)・・・
 「盗む」と云うコトの意味は・・・?・・・
 「他人の労働を盗む」って?・・・
ーーーーー
 ・・・

コメント
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