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コジキジゲン

ジャパンのイチ・・・日(口+一)の本(十+八+一)

2017-11-30 12:25:19 | 古事記字源

 ・・・なんか「ジャパン」を検索していたら以下のブログを発見・・・勝手に参考させてもらって、勝手に添付してしまったけれど、世の中には面白くて、スゴイ人がいるねッ!・・・原文は・・・
ーー↓↑ーー↓↑ーー↓↑
 「アメリカにある地名 Japan の意外な由来
  リアルETの英語学習
  高校入試&TOEIC/BIGLOBEウェブリブログ」
http://studyenglish.at.webry.info/201706/article_25.html
ーー↓↑ーー↓↑ーー↓↑
 ジャパン(Japan)
 アメリカ合衆国ミズーリ州フランクリン郡
 非法人地域
 北緯38度14分21秒
 西経91度18分21秒
 セントルイスの都市圏内
 セントルイスから
 南南西へ約120km
 カトリックの
 セントルイス大司教区管轄下
 ジャパン聖殉教者教会が立地
 教会の住所は
 法人化された市である
 サリバン・・・サリバン先生・・・奇蹟の人・ヘレン・ケラー
 ↓↑
 ジャパン(Japan)という名の郵便局
 1860年に建てられ
 1908年に廃止
ーー↓↑ーー
 1860年
 干支=庚申・・・更新・後進・行進・亢進・交信・後身・口唇
        「庚申信仰」・・・猿田彦
 日本(天保暦)
    安政六年十二月九日~安政七年三月十七日
    万延元年三月十八日~万延元年十一月二十日
 皇紀2520年
 清王朝
 咸豊九年十二月九日~咸豊十年十一月二十日
 朝鮮
 檀紀4193年
 李氏朝鮮
 哲宗十一年
 ↓↑
 2月10日
 咸臨丸、太平洋横断航行
 ↓↑  ・・・咸臨丸=江戸幕府の軍艦
        木造でバーク式の3本マストの蒸気コルベット
        旧名(オランダ語名)は
        Japan(ヤパン号・ヤッパン号・ヤーパン号)
       「咸臨=君臣が互いに親しみ合うこと(易経)」
        軍艦奉行
        木村芥舟は咸臨丸の司令官として
        遣米副使を命じられ、乗組士官を選考
        運用方
        佐々倉桐太郎、鈴藤勇次郎、浜口興右衛門
        らを任命
        測量方
        小野友五郎、伴鉄太郎、松岡磐吉
        らを任命
        蒸気方
        肥田浜五郎、山本金次郎
        らを選定
        従者
        福澤諭吉
        勝海舟
        らを同乗
        通訳
        中浜万次郎
        米国側との連絡に
        米海軍大尉ジョン・ブルック
 ↓↑     ら米国軍人の乗艦を幕府に要請し認可
 万延元年
 一月十九日
 浦賀を発った咸臨丸は
 二月二十六日
 サンフランシスコに到着
 木村芥舟ら一行は
 遅れて到着した正使一行と共に
 市民の熱烈な歓迎をされ
 現地の人々との交流も行った
 ワシントンへ向う正使一行と別れ
 ↓↑      ↓↑
 ↓↑     小栗忠順=日米修好通商条約批准のため
             咸臨丸と伴走した
             米艦ポーハタン号で渡米
        新見正興
        村垣範正も米艦ポーハタン号で渡米
        正使-新見正興
        副使-村垣範正
        監察-小栗忠順
        勘定方組頭-森田清行
        外国奉行頭支配組頭-成瀬正典
        外国奉行支配両番格調役-塚原昌義
        帰路は
        ナイアガラ号にて大西洋航路で
        南アフリカ・インド経由で帰国
        9月27日に江戸へ到着
        村垣範正は航海日誌
 ↓↑    「村垣淡路守公務日記=遣米使節日記」
 ↓↑     を残した
        37日後の
        3月17日
        サンフランシスコへ到着
        閏三月十九日
        サンフランシスコを発って
        咸臨丸はホノルル経由で
 ↓↑     五月五日に浦賀へ帰還


 2月26日(安政七年二月五日)
 午後7~8時頃
 横浜の本町通り(中区本町)で
 オランダ人船長の
 W・デ・フォス(Wessel de Vos)
 N・デッケル(Jasper Nanning Dekker)
 が攘夷派により斬殺
 3月
 サルデーニャ王国・・・猿出重似也?
 フランスへの
 サヴォイア・ニース割譲と引き換えに
 中部イタリア諸国
 (パルマ・モデナ・トスカーナ・ロマーニャ)
 を併合
 3月24日(安政七年三月三日)
 桜田門外の変
 大老「井伊直弼」が暗殺・・・彦根藩主、井伊直弼
              「現今判取、云い直す化」?
 4月8日(万延元年三月十八日)
 元号が
 安政~万延
 に改元
 5月17日
 ドイツのサッカークラブ
 TSV1860ミュンヘンが設立
 7月2日(ユリウス暦6月20日)
 ロシア帝国の輸送船
 「マンジュール号」が・・・・「饅頭留・万重留」?
 金角湾・・・・「金角湾=ロシア語
 ↓↑      ブーフタ・ザラトーイ・ローク」は
         ロシア沿海の
         ウラジオストクにある入り江
         アムールスキー半島の先端に
         角状に細長く切れ込んでいる」
        「金角湾(トルコ語 Altın Boynuz
             ギリシア語 Χρυσόν Κέρας
             金の角の意)
         トルコのイスタンブールにある湾
 ↓↑      トルコ語ハリチュ(Haliç・ハリチ=入り江)」
 に到達
 湾の北岸に砦の建設を開始
 ウラジオストク開基の日
 9月7日
 ジュゼッペ・ガリバルディ
 両シチリア王国の
 首都ナポリに入城・・・・名補理
 翌10月
 両シチリア王国の・・・・「細々里・昔昔里」
             「示地理蛙」?
 版図である
 シチリア・・・・・・・・「史知理亜」
 を含む
 南イタリアを
 サルデーニャ王国・・・・「猿出重似哉」
 国王
 ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上
 11月6日
 エイブラハム・リンカーン・・・エイプ・ラ・ハム・リン・カアン
 ↓↑             瀛 部 覶 葉務 臨  化案
 アブラハム=脂食む      ape=類人猿・直立して歩く
                   尾のないサル
             ape=chimpanzee・gorilla
 ↓↑          orangutan・gibbon・cf.monkey
 アメリカ合衆国大統領に当選
 12月
 アメリカ南部諸州が
 合衆国からの離脱を宣言
ーー↓↑ーー
 1908年
 干支=戊申・・・椄知の重の申(上海・猿・猴・猨・狙)
                狙う・狙撃
 日本
 明治四十一年
 皇紀2568年
 中国
 清王朝
 光虬三十三年十一月二十八日~光虬三十四年十二月九日
 朝鮮
 大韓帝国・隆熙二年
 ↓↑
 2月1日
 ポルトガル国王
 カルロス1世
 皇太子ルイス・フィリペが暗殺
 2月18日
 移民に関する
 日米紳士協約締結
 (日本は米国への新規移民を禁止することを約束)
 3月5日
 時事新報社
 シカゴ・トリビューンの世界美人コンクールの
 日本予選として日本初の美人コンテストを開催
 3月7日夕方~9日夕方
 北海道釧路地方で暴風雪
 (家屋倒壊により釧路町で19人、昆布森村で18人圧死)
 3月8日
 ニューヨーク
 女性労働者が
 パンと婦人参政権を要求するデモ
 (国際女性デーの由来)
 3月9日
 インテルナツィオナーレ・ミラノ創立
 3月22日
 東京大久保で
 出歯亀事件発生
 黒板勝美「国史の研究」
 4月27日
 第4回夏季オリンピック
 ロンドンで開幕(〜10月31日)
 4月28日
 第1回ブラジル移民を乗せた
 笠戸丸が神戸港を出港(6月到着)
 5月15日
 第10回衆議院議員総選挙
 5月20日
 ジャワ
 民族主義的政治結社
 プディ・ウトモ結成
 6月10日
 日新火災海上保険設立
 6月22日
 赤旗事件(大杉栄、荒畑寒村ら14名を検挙)
 6月30日
 シベリアでツングースカ大爆発
 7月1日
 銚子無線電信局(銚子無線電報サービスセンタ)開局
 7月4日
 第1次西園寺内閣総辞職
 7月10日
 ヘイケ・カメルリング・オネス
        ring・link→平家・亀留吝具・嗚音素
 初の「ヘリウムの液化」・・・helium・「縁有無の液果」?
 に成功
 7月14日
 第2次桂内閣成立
 7月23日・・・・七月二十三日・・・弘文天皇・大友皇子
 オスマン帝国
 青年トルコ人革命
 7月24日
 ロンドンオリンピック
 男子マラソンで
 ドランド・ピエトリが係員の助けを借りて
 最初にゴールに辿り付いたが、失格
 2着のジョニー・ヘイズが金メダル
 7月25日
 池田菊苗
 「グルタミン酸を主要成分とせる
  調味料製造法(味の素)」が特許登録・・・アジのモト
 7月26日
 アメリカ連邦捜査局設立
 8月7日
 ヴィレンドルフの
 ヴィーナス発掘
 9月16日
 ゼネラルモーターズ(GM)創業
 (ウィリアム・C・デュラント)
 9月19日
 グスタフ・マーラー交響曲第7番初演(プラハ)
 9月23日
 アルバータ大学創立
 9月27日
 米国でフォード・モデルT完成
 9月30日
 メーテルリンク童話劇・・・「目(女)重照(出留)吝句」
 「青い鳥」初演(モスクワ)
 清で
 欽定憲法大綱発布(国会開設を公約)
 10月1日
 フォード・モデルT発売開始
 10月3日
 新聞プラウダ刊行(ウィーン亡命中のトロツキーら)
 10月5日
 ブルガリア
 オスマン帝国から独立宣言
 10月6日
 オーストリア=ハンガリー帝国
 ボスニアとヘルツェゴヴィナを併合
 10月7日
 セルビア王国とモンテネグロ公国が
 反オーストリア=ハンガリー同盟を結成
 10月18日
 ベルギーがコンゴ自由国を併合
 10月24日
 日本統治下の台湾
 縦貫線基隆・高雄間が全線開通
 10月28日
 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世
 と
 英軍大佐エドワード・ワートリー
 の対談が
 デイリー・テレグラフ紙に掲載
 (デイリー・テレグラフ事件)
 11月3日
 米大統領選挙
 ウィリアム・タフトが勝利
 11月10日
 国際ギデオン協会が
 最初の聖書をホテルに配布
 11月14日
 清で光緒帝が崩御
 翌日に西太后も崩御
 11月13日
 アンドリュー・フィッシャー
 オーストラリア首相に就任
 11月15日
 「新フランス評論」創刊
 11月22日
 第1回日米野球
 11月30日
 高平・ルート協定締結
 (日米両国の太平洋での現状維持や
  清の領土保全・機会均等)
 波多野精一「基督教の起源」
 12月2日
 愛新覚羅溥儀が清の皇帝に即位
 12月16日
 豪華客船「オリンピック」起工
 12月21日
 オスカー・スレイター事件起こる
 12月22日
 第25議会召集
 12月28日
 メッシーナ地震発生
 ↓↑
 「アララギ」創刊(伊藤左千夫ら)
 正宗白鳥『何処へ』
 語劇の絶頂期
 水俣村に日本窒素株式会社創設
 中部で農民の抗税デモ
 流刑が廃止される
ーーー↓↑ーーー
http://studyenglish.at.webry.info/201706/article_25.html
 ↓↑  ↓↑
 Incidentally, on September 2, 1945, the signing of Japan's Instrument of Surrender was held on the battleship Missouri in Tokyo Bay--the flag that stood in the background had once flown on Perry's flagship Powhatan, and was brought from the United States for the occasion.
 ちなみに、昭和20年(1945年)9月2日
 東京湾の
 戦艦ミズーリ艦上で
 日本の降伏文書調印式が行われた際、
 この時のペリー艦隊の
 旗艦「ポーハタン」号に
 掲げられていた米国旗が本国より持ち込まれ、
 その旗の前で調印式が行われた。
 (Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス)
 ↓↑
 The community established its first post office November 13, 1860 with Absolam R. Dyson the first postmaster. He became a Confederate soldier. The post office closed March 17 to October 5, 1865. It remained open until January 31, 1908.
 その地域は
 1860年11月3日に初めての郵便局を建て
 最初の局長は
 ダイソン氏でした。
 彼はその後
 南部連邦政府の兵士となりこの地を離れました。
 その郵便局は
 1865年の3月17日~10月5日までは閉鎖されましたが
 1908年の1月31日まで営業していました。
 ↓↑
 The present church building was built in 1896
  and the cemetery shortly afterward.
 現在の教会の建物は
 1896年に建てられ
 その後すぐに墓地もできました。
 ↓↑
 During the Second World War, the citizens of Japan, who pronounce the name of their town 'Jay-pan' resisted the pressure brought upon them to change their town's name."
 第二次世界大戦の間は
 ジャパンの住人たちは
 自分たちの町の名前を
 「ジェイパン」と発音することによって
 敵国の名前がついた町の名前を変えろ
 という圧力に抵抗しました。
 ↓↑
 ここまでが新聞記事の引用です。
 ここからは
 これを引用した女性のブログ記事から。
 Below is a map of Franklin County, Missouri from about 1920, I believe. It shows the townships, railroads and larger streams. An "x" represents a place that was a post office at one time, but had been closed by 1925, while an "o" represents a place that was still a post office as of 1925.
 1920年ころの
 ミズーリ州フランクリン郡の地図
 郡区名,鉄道,大きな川
 「×」印は一時期郵便局が置かれた場所
 1925年までには閉鎖
 「〇」印は
 1925年の時点でまだ郵便局があった場所


 ↓↑ 
 The northern boundary of Franklin County is the Missouri River, and it is one county west of St. Louis County.
 フランクリン郡の
 北の境界線はミズーリ川で
 セントルイス郡から見て西にある郡の一つです。
 ↓↑
 In the lower left area of the map is Boone Township, with the Bourbeuse River running across it. Below the river can be seen Japan, and below that Argo.
 地図の左下の地域は
 ブーン(Boone)郡区で
 Bourbeuse川が流れています。
 その川の下に
 「ジャパン」
 が見つかります。
 その下は
 「アーゴー(Argo)」です。
      ↓↑
     アァゴォ・・・蛙鴉語嗚・・・嗚呼漁尾(互訖)
            訖=言+乞=おえる・おわる=終→尾張
              ついに=終に→対に・竟に・遂に
              とまる・やむ・いたる・およぶ
              コチ・キツ
ーー↓↑ーー↓↑
 the Argo=ギリシャ神話のアルゴー号 (Argonaut)
      英雄イアソン・・・位-朝臣=朝臣(あそん、あそみ)
               684年(天武天皇十三年)制定の
              「八色の姓」
      をはじめ
      黄金の羊の皮を求める
      五十余人の冒険者たち
     (アルゴナウタイ)・・・「阿留語名唄意(易)」?
      を乗せた巨船・・・
ーーーーーー
 Argo
 アルゴー=南天の大星座
      艫とも座(Puppis)・帆座(Vela)
      羅針盤座(Pyxis)・竜骨座(Carina)
      の4つの別々の星座に分けられる
ーーーーー
 映画「アルゴ」
 1979年
 イラン革命の混乱のなかで起きた
 アメリカ大使館人質事件を題材とした
 2012年のアメリカ映画
 第85回アカデミー賞作品賞を受賞
ーーーーー
 「Thunderbirds are go!」・・・are go=出発・出動・発進
         ready・準備完了
 「オセロー」の旗手「イアーゴー(Iago)」
ーー↓↑ーー
 フランクリン郡(Franklin County)は、
 アメリカ合衆国ミズーリ州の東部、
 ミズーリ川の南岸に位置する郡である。
 2010年国勢調査での人口は101,492人であり、
 2000年の93,807人から8.2%増加した。
 州内では10番目に人口の多い郡である。
 郡庁所在地はユニオン市(人口10,204人)であり、
 同郡で人口最大の都市は
 ワシントン市(人口13,982人[3])である。
 フランクリン郡は
 セントルイス大都市圏に属しており、
 独立市である
 セントルイス市と
 ミズーリ州、
 イリノイ州
 にある周辺郡を
 合わせると都市圏人口は280万人になる。
 セントルイス市西の準郊外地域を構成している。
 フランクリン郡は
 1818年に組織化され、
 建国の父である
 ベンジャミン・フランクリン
 に因んで名付けられた。
ーーーーー
 郡内にはハーマン・ブドウ栽培地域に含まれる
 ワイン醸造所があり、
 また
 ミズーリ川の両岸に跨る
 ミズーリ・ラインランドと呼ばれる地域に属している。
 田園部では
 メタンフェタミンの製造と消費という問題があり、
 2005年のA&Eテレビのドキュメンタリー
 『Meth: A County in Crisis』
 で取り上げられた。
ーーーーー
 ・・・ジャホン=邪本・蛇本・舎本・写本・・・

コメント
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トンチンカン・カンチントン・・・

2017-11-29 21:24:27 | 古事記字源

 ・・・「頓珍漢」のツヅキ・・・ 
ーーーーー 
 New Orleans(オリンズ→織理務図) 
  & 
 Orleans (オルレアン→嗚留例晏) 
 ・・・Joan of Arc・・・ジャンヌ・ダルク 
  ↓↑ 
 「晏=日+宀+女 
    アン・くれる 
    おそ・さだ・はる・やす 
    おそい・日が低く落ちかかるさま 
    時刻がおそい 
    晩(夜、おそい) 
   「何晏也=ナンゾ晏キヤ(論語)」 
    靖=やすらか・やすし 
      安堵・安土・・・and・・・按度・・・蛙務説 
  ↓↑ 
 「頓=屯+頁=トン・チュン 
    たむろ(屯)+ページ(頁) 
        屯=明治時代、巡査の詰めている所 
          巡査の「調書」? 
          駐在所・駐屯地 
          古代日本における 
          真綿の質量・取引単位 
      頓=とみに・ひたすら 
        頭を地面につけて礼をする 
        ぬかずく・頓首 
        その場にとどまる・落ち着く 
        整頓・停頓 
        すぐに・即座に・急に・とみに 
        頓悟・頓才・頓死・頓知 
        ひたぶる(頓・一向) 
        いちずなさま・ひたすら 
        完全にその状態であるさま 
        向こう見ずなさま 
        強引で粗暴なさま。 
 「とにに(頓に)=副詞の「とに」は「頓」の字音「トン」 
         「とみに」 に同じ 
         「風波とみにやむべくもあらず(土佐)」 
          急に・俄(にわか)に 
 「頓首=ぬかずく・頭を下げて地につける 
     躓(つまず)く・倒れる 
     苦しむ・苦しめる 
     やぶれる(壊れる・失敗 する)」 
 「嵌頓(カントン)=腸管などの内臓器官が 
           腹壁の間隙から脱し 
           もとの位置に戻らなくなった状態 
           嵌頓ヘルニア(脱腸)」 
 「頓=一回、一度」 
 「頓服薬」 
 「頓首」 
 「困頓(疲れで動きがとれない)」 
 「整頓(ととのえる)」 
 「頓躓=どんと重みをかける・急に動く 
     とっさに変化する」 
 「頓足=足を頓す」 
 「頓仆(トンボク)=たおれる・ふす」 
 「一頓=腰をおちつける休み所や宿 
     休憩所で一食するコト」 
 「頓挫(突然くじける・不意な挫折)」 
 「頓死(急死)」 
 「頓知(状況に応じて働く知恵)」 
 「頓悟(その場で悟ること)」 
 「頓(とん)とわからない、すぐにはわからない」 
 「頓服(必要なときに)すぐに服用する」 
 「頓服薬=腹痛薬・頭痛薬」 
  ↓↑ 
 ジャパン 
 マルコ・ポーロの 
 「東方見聞録」の 
 「黄金の国・ジパング (ZIPANG・ZIPANGU) 」 
 「にっぽん・じっぽん」・・・日・實・実 
            ・・・本・椪・笨・翻 
            ほむ=誉む・褒む 
            本多和気尊(ホムダワケノミコト) 
            本多和氣尊(ホムダワケノミコト) 
            品陀和氣尊命(ホ ムダワケノミコト) 
            品陀和気尊(ホムダワケノミコト) 
            品陀皇大神(ホンダコウタイジン) 
            誉田命(ホンダノミコト) 
            品陀別天皇(ホンダワケテンノウ) 
            譽田別天皇(ホンダワケテンノウ) 
            誉田別尊(ほむたわけのみこと) 
            誉田別命(ほんだわけのみこと) 
            大鞆和気命(おおともわけのみこと) 
            ↓↑ 
            本多正信=相模国玉縄藩主 
            本多正純=下野国小山藩主 
                 宇都宮藩主 
                 本多正信の長男 
            本多忠勝=上総大多喜藩初代藩主 
                 伊勢桑名藩初代藩主 
                 本姓は藤原氏・通称は平八郎 
            ↓↑ 
      垂仁天皇・・・「推認転向・推認典項」? 
      と 
      沙本比売・・・・・順和(すな)の比べ売り? 
               詐本=サホン=差本=作翻? 
      佐波遅比売・・・・たすけるナミジ(並字)? 
                   名見字 
      狭穂毘売・・・・・佐俣(サホ) 
               熊本県下益城郡美里町佐俣 
               佐保川=大和川水系の支流 
      の子 
      本牟智和気御子 
      誉津別命(ほむつわけのみこと) 
      誉津別命(日本書紀) 
      本牟都和気命(古事記) 
      本牟智和気命(古事記) 
      品津別皇子(尾張国風土記・逸文)? 
 中国語で 
 「日本」を 
 ズーベン(ziben) 
 リーベン(liben) 
 と発音 
 「日本=rìběn」 
 と発音 
 アメリカ合衆国ミズーリ州フランクリン郡 
 ジャパン(Japan) 
  ↓↑ 
 「ジパング」と「ジャパン」 
 「ジパング~ジャパン」 
 「ジャパン」は中国語の 
 「Jih-pŭn」がマレー語の 
 「Jăpung, Japang」を経て 
 ヨーロッパ諸語に取り入れられ 
 「Chipangu (チパング)」 
 と語源は同じ 
 『東方諸国記(ポルトガル語版)』(1514年筆) 
 「Jampon」 
 ダミアン・デ・ゴエス 
 『マヌエル王代記』(1562年筆・1567年刊) 
 「Japongos」 
 ジョアン・デ・バロス 
 『アジア史』第1編(1552年刊) 
 「Japões」 
 同第3編(1556年刊)の 
 「Japam」 
 16世紀に東アジアに来航した 
 ポルトガル人が 
 「日本」の中国音(広東音) 
 を直接伝え聞いて記録 
 1554年の 
 ロポ・オーメンの世界図で 
 ジャパン(大陸と陸続きになっている) 
 とは別に 
 ジパングらしき無名島が描かれている 
 「ジャパン」と「ジパング」 
 が同一であることを示した最初の地図は 
 メルカトルの 
 1569年版世界地図(en:Mercator 1569 world map) 
  ↓↑ 
 「Japan」以外の使用[編集] 
 ドイツ語およびポーランド語 
 「Japan(ヤーパン)/Japonia(ヤポニア)」 
 「Japanisch(ヤパーニッシュ)/Japoński(ヤポンスキ)」 
 単略形「Jap.(ヤープ)」が使用 
 「日本人」を「イルボンサラム」 
 と云うのは隣国の人 
 「日本」を「リーベン」or「ルイベン」or「イーベン」 
 「日本人」は 
 「リーベンレン」or「ルイベンレン」or「イーベンレン」 
 「日本」は 
 「リーベン(イーベン)」 
 「日本人」は 
 「リーベンレン(イーベンレン)」 
ーー↓↑ーー 
 発音が似ているのは「?」だが・・・ 
  ↓↑ 
 両班(りょうはん、 
    ヤンバン・韓国語〉 
    リャンバン・北朝鮮語) 
    高麗、李氏朝鮮王朝時代の 
    官僚機構・支配機構を担った 
    支配階級の身分 
    士大夫 
    身分階層と同一 
    身分制度は 
   「甲午改革」後に廃止 
   「乙未事変(いつびじへん)」 
    =「明成皇后弑害事件」 
    李氏朝鮮 
    第26代国王 
    高宗の王妃であった 
   「閔妃」が 
    1895年10月8日 
    三浦梧楼 
    らの計画に基づいて・・・? 
    王宮に乱入した 
    日本軍守備隊 
    領事館警察官 
    日本人壮士(大陸浪人) 
    朝鮮親衛隊 
    朝鮮訓練隊 
    朝鮮警務使 
    らに暗殺された 
  ↓↑ 
 両班(やんばん・リャンバン) 
 高麗時代に役人の 
 文官を文班(ムンバン) 
 武官を武班(ム バン) 
 両者をあわせ 
 官職に就いている人を 
 両班といった 
 「班=序列」のことで 
 朝廷において 
 南面の国王に向かって 
 右側に文官 
 左側に武官 
 が整列 
 両 班(南でヤンバン、北でリャンバン) 
 身分制度 
 「良民」と「」に二分 
 「良民=自由民・納税、国役の義務を負い 
 「両班(文班、武班)」 
 「中人(下級役人、技術官など)」 
 「常民(農民、商人、職人)」 
 に分けられた 
  ↓↑ 
 「」は 
 「奴隷―」と 
 「白丁(ペクチョン)」 
 「才人(広大・芸人)」 
 「官妓(役所に所属する酌婦)」 
 「牽令(キュンエン・牛馬を引く者)」 
 「砲手(猟師)」 
 「水尺(スチョク・狩猟民)」 
 「駅卒(駅の使用人)」 
 「巫女」 
 「僧侶」 
 など・・・ 
 「」は 
 「―国家に所属するもの」 
 「―個人に所属するもの」 
 に分けられ 
 は 
 「」 
 「」 
 とも 
 「入役」と「納貢」 
 とがあった 
 「入役」は 
 国の労役や主人の雑役に従事 
 「納貢」は 
 国や主人から独立の生計を営み 
 一定の身貢をする義務 
 「」は 
 売買、贈与、相続の対象 
 父母の一方がの場合は 
 子もとなった 
  ↓↑ 
 「両班」が罪を犯し「」になったり 
 「」が軍功などで 
 「中人・常民」になった 
  ↓↑ 
 晏 
 アン・くれる 
 おそ・さだ・はる・やす 
 おそい・日が低く落ちかかるさま・時刻がおそい 
 晩(夜・おそい) 
  ↓↑ 
 「何晏也=ナンゾ晏キヤ(論語)」 
 やすらか・やすい 
ーーーーー 
 1894年3月28日 
 閔氏政権によって 
 開化派の中心人物 
 金玉均 
 が 
 閔妃の刺客である 
 洪鐘宇 
 の回転式拳銃で暗殺 
 5月31日 
 閔氏政権に対し農民が蜂起し 
 甲午農民戦争勃発 
 閔氏政権は 
 宗主国 
 清に軍の出動を要請 
 日本も朝鮮へ出兵 
 1894年7月23日 
 日本軍は景福宮を占領 
 日本は 
 興宣大院君(高宗の父)の復権を行い 
 開化派の 
 金弘集政権は 
 日本の支援のもと 
 甲午改革を進め 
 日清戦争は日本が勝利 
 1895年4月17日 
 下関条約が締結 
 政権を追われていた 
 閔妃の一族は 
 ロシア公使 
 カール・イバノビッチ・ヴェーバー 
 ロシア軍の力を借りて 
 クーデターを行い 
 1895年7月6日 
 政権奪回 
 日本公使 
 三浦梧楼 
 軍事顧問 
 岡本柳之助 
 らは 
 露派の 
 閔妃を排除するクーデター 
 1895年10月8日午前三時 
 日本軍守備隊 
 領事館警察官 
 日本人壮士(大陸浪人) 
 朝鮮親衛隊 
 朝鮮訓練隊 
 朝鮮警務使 
 が 
 景福宮に突入 
 騒ぎの中で 
 閔妃は斬殺 
 遺体は焼却 
 興宣大院君 
 と 
 閔妃 
 の権力闘争 
 10月10日 
 日本政府は 
 小村寿太郎 
 外務省政務局長を京城に派遣 
 三浦梧楼は 
 10月24日後任に免官処分 
 小村が 
 特派大使として 
 井上馨 
 が京城に派遣 
 軍人8人は 
 第五師団の軍法会議 
 三浦ら48名は謀殺罪等で起訴され 
 広島監獄未決に収監 
 証拠不十分で免訴、釈放 
 朝鮮では 
 閔妃暗殺の2日後(10月10日) 
 閔妃の死亡が公表される前に 
 大院君が 
 閔妃の王后の地位を剥奪し 
 平民に落とす詔勅公布 
 小村壽太郎の助言で 
 11月26日に再び王后閔氏に復位 
 朝鮮の裁判 
 「王妃殺害を今回計画したのは、私」 
 と証言した 
 李周会(前軍部協弁=次官) 
 朴銑(日本公使館通訳) 
 尹錫禹(親衛隊副尉) 
 3人とその家族を 
 三浦らの公判中の同年10月19日に処刑 
ーーーーー 
 ・・・???・・・フランス国歌に怒るフランス人にあったコトがあるけれど・・・「ダイサンカイキュウ」ってナンなんだか・・・「フランスの平家の平民」・・・? 
 「第三身分とは何か(だいさんみぶんとはなにか」、フランス語: qu'est-ce que le tiers état )、エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスが表したパンフレット。フランス革命の原動力。タイトルは「第三階級とは何か(1789年初版)」とも訳される・・・ 
 ・・・アベ(坊主)=シェイエス(総裁政府の5人の総裁のひとり(ルーベルの後任))・・・

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New Orleans(オリンズ→織理務図) & Orleans (オルレアン→嗚留例晏)・・・Joan of Arc

2017-11-28 17:33:52 | 古事記字源

 ・・・「日本」の位置「宗谷岬(北緯45度31分21秒)~阿蘇山(北緯32度53分)~鹿児島県(北緯32度)~種子島(30度24分)~沖縄市(北緯26度32分66)」・・・「石垣島(北緯24度20分)」・・・「最南端は東京都 沖ノ鳥島、20度25分最北端, 北海道 択捉島、45度33分」・・・
 跳んで飛んで富んで、トンチンカン、とんちんかん、頓珍漢・・・鍛冶屋 (かじや→楫也・加持也・化字哉) の相槌 (あいづち→會津知・合図置・合津地・相津置) の音を漢字を当てて表したもの。その打つ音が揃(そろわ)ないところから、物事の辻褄(つじつま)が合わないこと、見当違いであること」・・・「頓珍漢」な受け答え、書き込み・・・イド、イト、イトド、意図、伊都、怡土、緯度が過ぎる・・・33度・・・753(七五三縄=しめなわ)・・・
 「いとどと」=甲州弁・・・ 昆虫、竃馬(釜戸馬・カマドウマ)の別名・羽根がないので鳴かない・江戸時代、「コオロギ」の一種とみなされた。「エビコオロギ=海老(鰕・螧・蝦・蛯)蟋蟀」?・・・兎に角、「いよいよ・ますます・さらに」、「いとど=竈馬」デアルらしいが・・・「バッタ目・カマドウマ科・昆虫・俗称は便所コオロギ・オカマコオロギ」・・・「褐色・背は丸く盛り上がり、触角は細く長く、翅 (はね) はない・後脚が長大で、大ジャンプ(跳躍)する・台所や縁の下などにすみ、夜行性・いとど、いいぎり」・・・「ユリウス暦 1412年1月6日(g1412年1月15日)~1431年5月30日(g1431年6月8日)」・・・
ーーーーー
 「ジャン・ヌダルク」
 生年1412 辛卯(甲・ ・乙) 1431 辛亥(戊・甲・壬)
 生月0001 辛丑(癸・辛・己) 0006 甲午(丙・ ・丁)
 生日0015 庚戌(辛・丁・戊) 0008 癸丑(癸・辛・己)
 寅卯=空亡・魁罡
ーーーーー
  ↓↑
 「北緯33度線はアーカンソー(Arkansas・米国南部の州・州都リトルロック=little rock)州」と「ルイジアナ(Louisiana)は、アメリカの南部の州・州都はバトンルージュ市だが、大都市はニューオーリンズ・New Orleans)州」の州境・・・「Orleans (オルレアン)」ってフランスの「ジャン・ヌダルク」戦勝の場所・・・フランス、Paris 南西方の Loiret県の県の都・百年戦争時、Joan of Arc(Jehanne Darc、Jeanne d'Arc) が英軍の包囲から救った都市」・・・
 「嗚呼、観想、感想、換装」、「小石」、「類字の會名」、「入織務図」・・・
  ↓↑
 北緯45度線・・・
 ボルドー(仏)
 トリノ、ミラノ、ヴェネツィア=ベニス(伊)
 ベオグラード(ユーゴ)
 ハルビン(中・哈爾浜)=黒竜江省人民政府の所在地
            =白鳥・黒竜江=アムール川
            =伊藤博文が安重根に暗殺された場所
        哈爾濱(浜)=口+合+爾+氵+賓 
 ミネアポリス(米・ミネアポリス(Minneapolis )
 ミネソタ州東部に位置・ヘネピン郡の郡庁所在地
 ミネアポリスの市名はダコタ族の言葉で
 「水(mni)」+「都市(polis)」
 オタワ(加)・・・Ottawa=倭塔瓦=倭の塔の瓦
             「和の問=トウ=答の化話等」?
              乎多和(橈・垰→峠=訳得解)
          加奈陀 加拿太 加拿大 加拿陀
          加拿佗 加拿達
          カナダ(加奈陀)の首都
  ↓↑
 北緯30~37度線・・・
 カイロ(埃及のカイロ=改羅・開羅・該禄・北緯30度03分)   
 アレクサンドリア(エジプト・北緯31度13分)
       ・・・アレキサンダーの都
          亜歴山の都
          アレキサンダー
          Alexander=歴山
 カサブランカ(モロッコ・北緯33度32分)
       ・・・カサ(家)-ブランカ(白)
       ベルベル人が「アンファ」に定住・・・
 武漢(中國        ・北緯30度34分)
 紹興(中国        ・北緯30度00分)
    旧名は越州・南宋の紹興元年(1131年)
    会稽・山陰方面を治める事を目的として
    越州府が置かれ、元号に因んで命名された

 上海(中国・北緯31度23分)・・・申=さる=猿
 アテネ(希臘・北緯37度59分)・・宛て名・Athens・雅典・当音
 アダナ(土耳古・北緯37度)・・・綽名・渾名・仇名・婀娜名
 アンマン(ヨルダン・北緯31度57分)・・・餡饅
 ゴラン高原(イッスラエル・北緯33度)・・御覧
 ダマスカス(シリア・北緯33度30分)・・・瞞(騙)諏化蘇
 バグダッド(イラク・北緯33度35分)・・・葉具拿通訳
 テヘラン(イラン・北緯35度39分)・・・・弖篦等務・手篦務
 カブール(アフガニスタン・北度34度52分)・掛部得留
 イスラマバード(パキスタン・北緯33度43分)・意素等眞葉蛙度
  ↓↑
 北緯20~27度線・・・
 アッサム(インド・北緯26度18分)・・・阿通作務
 ダッカ(バングラデッシュ・北緯23度43分)・・・拿通掛
ーーーーー
[
[
[
[
ーーーーー
 ・・・セカイチズ(施化夷置図)にジャポンを嵌める・・・New Orleans(オリンズ→織理務図) & Orleans (オルレアン→嗚留例晏)・・・Joan of Arc

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冬の蝿・・・

2017-11-26 19:12:42 | 古事記字源

 ・・・ここ2、3日、姿を見せなかった「ハエ(蝿=虫+甲+甩)」さんが出てきて遊んでくれている。どっか行っちまったのかなぁ~、どこかに隠れているのかなぁ~・・・家の中のアッチ、コッチを捜して、最後にはオォ~ィッ、出てきてぉくれョゥォ~、である・・・ワラちゃうけれど、ボクは「彼女(?)」の消息を心配している。雪が積もって温度も零度以下だし、彼女、来年への越冬は無理カモって・・・今日は纏わりついて遊んでくれている。ダレかのお使いなのかな、なぁ~んて。人間の魂魄が離脱して動物や虫に憑依してやってクルってコトがあるらしいけれど、ボクはキミが人間の魂魄の憑依なんかじゃなくてもィイんだ・・・「病原体媒介虫」ですか・・・モチロン、キミは「衛生害虫」なんかジャァない・・・
 「銀蝿」でも「金蝿」でもないけれど、「家蝿」って「家族」?・・・やっぱ、蝿やその他の虫には「輪廻」で「転生」したくないなッ・・・「モモエグリイエバエ」って、「桃(腿・股・百々)抉り家蝿」?・・・桃恵、栗畏、重葉得・・・

ーーーーー
 ハエ(蠅・蝿)=ハエ目(双翅目:そうしもく)
         ハエ亜目(短角亜目)
          環縫短角群(かんぽうたんかくぐん)
         ハエ下目(Muscomorpha)属
         の総称
         日本だけで60ほどの科
         属する3,000種近い種が存在
 「ハエ(蝿・蠅)」と名のつくもののうち
 「アシナガ(足長、脚長、肢長)ハエ科
  オドリ(踊)バエ科」
 などは「アブ(虻)」の仲間
 「アブ(虻)」は
      ・・・「阿武」は「則天武后」
         「煬(あぶ・ヨウ)」は「煬帝(隋王)」
         「安武=あぶ=阿倍・焙」
         「阿武隈山地」は
          宮城県南部から
          福島県東部を通り
          茨城県北東部へ続く
          紡錘形の高原状山地」
 通常「ハエ(蝿・蠅)」とは別の
 「直縫短角群」
 「アブ(虻)」と名のつくもののうち
 「ハナ(花)アブ科
  アタマ(頭)アブ科」
 などは「ハエ(蝿・蠅)」の仲間
ーーーーー
 「ハエイロネ」・・・「蠅伊呂泥(はえいろね)=蝿伊呂杼(はえいろど)」って、「百襲姫=倭迹迹日百襲姫命」の母親で、
 「意富夜麻登玖邇阿礼比売(おおやまとくにあれひめの)命(古事記)=大海姫命(おおあまひめみこと・勘注系図?)」、
 「倭国香媛(やまとのくにかひめ)、
  マタの名を
  蠅伊呂泥(はえいろね
       絚某姉(糸瓦・はえ某姉・日本書紀)」で、
 「七代孝霊天皇の
  妃となって、
  娘
  倭途途日百襲媛(やまとととひももそひめ)」
 を生んだ女性である・・・
 その娘の
 「倭途途日百襲媛」は「三輪山の大物主(大物主大神)」との結婚譚があるが、神の正体は「小さな黒蛇=ペニス?・櫛笥の中に小蛇の姿)」で、「百襲媛」にバレて・・・箸(竹者)墓・・・伝説・・・
 「母母曽毘売(百襲姫)」
 「活玉依比売」が三輪山の神の居所を毛玉の糸でツキとめたって、ギリシャ神話の「ミノタウロス(巨牛頭の怪物)」のラビリンス(迷路)からの脱出の剽窃?・・・「美濃(みの)の蛇有留守(たうろす)or 美濃多雨露州」って「斎藤道三(利政・蝮・まむし)」だろうッ・・・
 「倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかんあさじはらまくわしひめ)=百襲姫と同一」
  ↓↑
 「然更求爲大后之美人時、大久米命曰、
  此間有媛女、是謂神御子、其所以謂神御子者、
  三嶋湟咋之女、
  ↓↑・・・湟=氵+皇=川の名・湟水
         濠・堀・城の周囲のほり
    三島溝杭姫=玉櫛媛(たまくしひめ)
          日本書紀で事代主神の妃
          古事記で大物主の妃
          神武天皇の皇后である
          媛蹈鞴五十鈴媛命の母
          別名は
          溝咋姫神・三島溝杭姫
          三嶋溝樴姫・溝咋玉櫛媛・活玉依姫
  ↓↑      勢夜陀多良比売とも
  名
  勢夜陀多良比賣、
  其容姿麗美故、
  美和之大物主神
  見感而、
  其美人
  爲
  大便之時、・・・「うんこ」?
  ↓↑      いきむ(りきむ)声「うん」に
          接尾語「こ」が付いた?
          「阿吽(あうん)」の「吽(うん)」
          中国仏教で
          大小便を「吽」
          大小便の溜まり場を
          「吽置(ウンチ)」と云うらしい
          「ばば」?・・・江戸時代の幼児語?
              猫糞(ねこばば→場場・場張)?
          「猫好き婆さんが人から借りたものを
           返そうとしなかったという
           江戸時代の婆さんに由来」?
           婆ァさんのヤルことが「汚い」って?
                 バッチィ=汚いモノ
                 ばば=大便
  ↓↑             ちい=小便
          「御虎子=おまる」→「放(ほう)まる」?
          「御丸」の形態からだろう
           塒を巻く(とぐろをまく)
           蛇が渦巻状に巻いて蟠(わだかま)る
           とぐろ=塒=蜷局
          「ウンコの」
          「便」の原義は
          「順調、好都合、スラスラ」?
           排便が可ってコト
           便利ってコト
           友好、都の合理性・・・?
          「便=すなわち・(助字)
             そうすると
             ~するとすぐに
             つまり~である」
             詰まり、便秘、でアル?
          「便=イ+更(一曳・一由乂)
          「糞=米+異(田共)」
          「屎=尸+米」
          「大便(ダイベン・糞)」って
          何時頃からのコトバなんだか?
          「スカトロジー(Scatology)」?
  ↓↑      「猫糞 (ねこばば)」?
  化丹塗矢
  自其爲
  大便之溝流下、
  突其美人之富登、
  爾其美人驚而立走
  伊須須岐伎、
  乃將來其矢置於床邊、
  忽成麗壯夫、
  即娶其美人生子、
  名謂
  富登多多良伊須須岐比賣命、
    多田良=たたら=踏鞴・蹈鞴・鞴(ふいご)
  亦名謂
  比賣多多良伊須氣余理比賣、
       一寸木・委好(鋤・鉏・耜・犂・耒)
  故是以謂神御子也」
ーーーーー
 「斌(ヒン)=文(亠乂)+武(止一弋・ト丄一弋)
       =うるわしい・あきらか・たけ
        ヒン・フン
        外見の美しさと
        内面の実質が調和しているさま」・・・
        文武天皇
       (683~707)
        第四十二代天皇(在位697~707)
        名は珂瑠(かる)
        大宝律令を制定
        天武・持統天皇の孫
        草壁皇子の第一皇子
        母は
        ↓↑
        元明天皇
       (第四十三代天皇
        在位慶雲四年七月十七日
       (707年8月18日)
          ~
        和銅八年九月二日
       (715年10月3日)
        名は阿閇皇女(あへのひめみこ )
          阿部皇女
        草壁皇子の正妃
        文武天皇と元正天皇の母
        藤原京から平城京へ遷都
       「風土記」編纂の詔勅
       「古事記の完成」
       「和同開珎の鋳造」
ーーーーー
 ・・・

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悲しみは駆け足で去っていく・・・吹く偲間(シマ)・・・島=燈明

2017-11-25 21:57:39 | 古事記字源

  ・・・「甲斐(かい)・甲府」⇔「会津(會津・あいづ・カイづ→蝦夷津)・若松(わかまつ・ジャクショウ)→若(もしか)しかしたら松(木公・十八八ム)⇔若(艹ナ口)いと云う字は苦(艹十口)しいと云う字に似てる(ワッ!・アン真理子 ・悲しみは駆け足でやってくる(1969年)」・・・「徳川義直は慶長八年(1603年)、徳川家康から甲斐国に封じられる」⇔「保科正之は会津、松平家初代藩主・信濃高遠藩主、出羽山形藩主を経て陸奥、会津藩初代藩主・江戸幕府初代将軍、徳川家康の孫・三代将軍、徳川家光の異母弟・家光と四代将軍家綱を輔佐」・・・そして「福島」・・・「カイ→アイヅわかまつ→尾張たかす→えぞ→・・・」の関連性はアルのか?・・

 會津若松・福島県
ーーーーー
 地名
 会津若松市(福島県の市)・旧市名は若松市
 若松区(北九州市の区)・旧市名は若松市
 若松(高崎市)・群馬県高崎市
 若松 (船橋市)・千葉県船橋市
 若松 (我孫子市)・千葉県我孫子市
ーーーーー
 北九州市の若松区
 ↓↑
 仲哀天皇と神功皇后が
 熊襲を征伐したとき
 洞の海に霊石を見つけ
 これを神体としてまつり
 神社の海辺に小松を植えた
 武内宿弥が
 「海原(うなばら・カイゲン)の
  滄瞑(ソウメイ)たる
  松の青々たる、我が心も若し」
 が「若松」の地名由来
    ・・・滄=氵+倉
       瞑=目+冖+日+六(亠八)
         (目を)つぶる・くらい(暗)
         メイ・ミョウ
         滄瞑(わだのはら・大海)
         瞑想(メイソウ)
若い松が多い所だったのでという説も・・・?
 会津若松市(福島県)
 ↓↑
 「福島県」の県名由来
 明治九年
 当時の
 若松県
 磐前(いわさき)県
 福島県
 が合併し「福島」の名称
 1593(文禄二)年ごろ
 木村吉清
 によって
 福島城に使われた
 ↓↑
 信夫(しのぶ)郡は昔
 見渡す限りの湖で
 その真ん中に
 信夫山があった
 この山には
 「吾妻 おろし」が吹きつけ
 コレを
 「吹島(ふくしま・ふきしま)」と呼んだ
     「複揣摩・覆嶋・伏嶌・副縞・附句詞眞」?
 湖が干上がり
 陸地ができ
 集落が生まれ
 吹島は
 風が吹きつける吹を福とし
 福島と呼ぶようになった・・・
 ↓↑
 福島の中心街一帯は
 信夫(しのぶ)・・・・忍ぶ・偲ぶ・志信・耐・恕
 の
 里(さと・リ)
 の
 杉目(すぎのめ)郷・・・杉目(サンモク)=十八彡目
 と呼ばれた
 1413(応永二十)年頃
 伊達盆地の支配者である
 伊達持宗
 がこの場所に
 杉目城(大仏城=だいぶつじょう)を築いた
 1590(天正十八)年
 伊達政宗
 の代に
 豊臣秀吉よって領地を北に移され
 蒲生氏郷(がもううじさと)
 の領地となり
 氏郷は、
 会津黒川城
 を本拠とし
 伊達盆地の
 杉目城を
 その支城とし
 黒川を若松・・・・・黒川=若松
 杉目を福島・・・・・杉目=福島・・・岑越
 に改名・・・
ーー↓↑ーー
 古代、
 「福島」の地名は元々が
 「岑越(みねこし)=山+今+十一ト人戍(戌)」
   越=走+戉(まさかり・エツ・オチ)⇔戍戌戎成
 ↓↑        
 信夫(しのぶ・シンプ)山(やま・サン)も
 岑越山(みねこしやま)と呼ばれた
 奈良時代の律令制
 東山道の福島周辺の
 駅名(馬宿)は
 南から
 安達(あだち・本宮)→
 →湯日(ゆい・二本松市油井)
 →岑越(みねこし)
 →伊達(伊達郡桑折町)
 →篤借(あつかし・宮城県白石市)
 岑越は
 松川(当時の流路は信夫山の南側)以北
 摺上川以南で
 松川以南は当時でも
 杉妻(すぎのめ・杉目)であった
 安土桃山時代
 信夫郡・伊達郡が
 蒲生氏郷支配になったとき
 蒲生氏郷の下で
 福島城主とされた
 木村吉清が・・・木(十八)の
         村(木寸)の
         吉(士口)の
         清(氵主月・氵亠十一冃・肉)
 杉妻(杉目)を
 福島と改名
ーー↓↑ーー
 尾張は
 慶長五年(1600年)九月
 関ヶ原の戦い終結まで
 清洲城主
 福島正則・・・・・・・・「福の島の正の則」
 が24万石で支配
 戦功により
 福島正則は
 安芸広島藩に加増移封・・・
 ↓↑
 そのあとに
 徳川家康の九男
 徳川義直(五郎太、義俊、義利)
 が尾張徳川の家祖
 ↓↑
 徳川義直は
 慶長八年(1603年)
 家康から
 甲斐国
 に封じられ
 甲斐統治は
 甲府城代
 平岩親吉・・・・「平の岩の親の吉」
 によって担われ
 徳川義直(五郎太)自身は
 在国せず
 駿府城に在城
 元服後
 慶長十一年(1606年)
 義直は
 兄、
 松平忠吉
 の遺跡を継ぐ形で
 尾張国
 清須に移封
 家臣団が編制され
 尾張徳川家は
 江戸時代を通じて
 尾張藩を治めた
 ↓↑
 徳川将軍家に
 後継ぎがないときは
 他の御三家とともに
 後嗣を出す資格を有したが
 七代将軍の
 徳川家継
 没後
 紀州徳川家出身の
 徳川吉宗
 が
 尾張家の
 徳川継友
 を制して
 八代将軍に就任
 その後
 御三卿が創設され
 尾張家からは
 将軍は出なかった・・・
ーー↓↑ーー
 梁川-松平家(大久保-松平家)
 ↓↑
 梁川藩(やながわはん)
 3万石
 福島県
 伊達郡
 ↓↑
 1683年~1730年
 四代目を継いだ
 松平通春(宗春)
 が
 宗家断絶により
 尾張藩主
 徳川宗春
 になったため
 廃藩にした
 ↓↑↓↑
 梁川藩(やながわはん)は
 江戸時代の一時期
 陸奥国
 伊達郡
 に存した藩
 福島県
 伊達市
 梁川町
 鶴ヶ岡
 の
 梁川城跡に陣屋を置いた
 当初は
 尾張藩徳川家の支藩(御連枝)
 後には一時、
 松前氏
 が入封
 ↓↑↓↑
 尾張徳川家連枝
 幕府直轄領となった
 梁川には、その後、
 天和三年(1683年)
 尾張藩二代藩主
 徳川光友の三男の
 松平義昌
 が入封
 3万石にて立藩
 分家の理由
 ↓↑
 尾張藩が
 血脈の断絶を恐れ
 同時期、同様の理由で
 尾張藩は
 四谷家
 川田久保家
 を分家させた
 梁川の立藩は
 有力な外様である
 伊達氏への楔(くさび)であり
 親藩を求める幕府の思惑とも一致
 ↓↑
 享保十四年(1729年)五月
 三代
 尾張徳川義真が卒去
 無嗣子のため廃絶
 ↓↑
 同年九月
 尾張藩三代藩主
 徳川綱誠の十九男の
 松平通春(徳川宗春)
 に改めて
 梁川3万石が与えられたが
 享保十五年(1730年)
 に世継を残さないまま
 尾張藩主
 徳川継友が死亡
 通春が尾張藩を相続し
 梁川を一時廃藩し
 尾張宗家断絶を防止するという
 役目を果たした
 梁川藩を廃藩・・・
ーー↓↑ーー
 藩祖、義直の遺命
 「王命に依って催さるる事」
 を秘伝の藩訓とした
 勤皇家・・・?
 戊辰戦争では官軍
 ↓↑ 
 尾張徳川家の支系(御連枝)
 美濃国
 高須藩・・・「高(亠口冋・亠口冂口)
        の
        須(彡頁・一ノ目八)」
      冋=冂=けいがまえ・まきがまえ・どうがまえ
          えがまえ・えんがまえ・ケイ・キョウ
          境界
 を治めた
 高須松平家(四谷松平家)
 1799年
 尾張徳川家
 1801年
 高須松平家で
 義直の男系子孫は断絶
 尾張徳川家は
 養子相続を繰り返し
 至っている
 10代から13代まで
 徳川吉宗の血統の養子が
 藩主に押し付けられたが
 これに反発した尾張派は
 14代慶勝を
 高須家から迎え
 幕府からの干渉を弱めた
 ↓↑
 明治維新
 徳川慶勝が
 佐幕から倒幕に転じ
 官軍につき
 侯爵を授けられ
 第十六代
 徳川義宜が
 名古屋藩知事となった
 秩禄処分後
 約74万円という高額の
 金禄公債証書を受領
 資産のうち
 約43万円を
 第15国立銀行に出資し
 配当金を再投資
 士族授産のため
 北海道
 遊楽部原野の土地を開拓
 八雲町を開拓
 維新後
 高い政治的・経済的地位を維持
 ↓↑
ーーーーー
 「中山道(中仙道)」=「東山道」
 ↓↑
 豊臣秀吉による奥州仕置
 伊達政宗
 の元の本領以外を没収
 ↓↑
 会津には
 蒲生氏郷が入る
 翌年
 葛西大崎一揆の戦後処理で
 伊達政宗が
 岩出山に移封
 ↓↑
 蒲生氏郷が
 福島県中通り以西のほとんどを領有
 子の
 蒲生秀行は
 会津から
 宇都宮に移され
 代わって
 越後国の
 上杉景勝が
 会津120万石を得
 福島県の中通り以西と
 山形県の置賜地方を領有
 ↓↑
 葛西大崎一揆の原因を作ったとし
 所領を奪われた
 岩出山の旧領主の
 木村吉清は
 後に許されて
 蒲生氏郷に仕えて
 杉目城主となった
 吉清は
 杉目を
 「福島」と改称・・・・福島
 ↓↑
 関ヶ原の戦い
 上杉景勝は
 信夫郡、伊達郡を除く
 福島県域の所領を失い
 30万石となる
 ↓↑
 会津に
 蒲生秀行が再度入封
 会津藩60万石が成立
 2代目の
 蒲生忠郷が早世し
 伊予松山藩に移る
 ↓↑
 1627年
 加藤嘉明が
 40万石で会津に入封
 2代目
 加藤明成が
 会津騒動を起こし
 領地を徳川幕府に返上
 ↓↑
 1643年
 松平氏
 保科正之が
 23万石で入封
 以後
 松平氏会津藩が
 戊辰戦争まで続く
 ↓↑
 信夫郡と伊達郡も
 1664年
 上杉氏
 米沢藩から召し上げられ
 会津藩以外の大藩はなくなり
 会津と
 浜通り夜ノ森以北(相馬氏領)を除く
 県内のほとんどの地域で
 小・中藩、天領が入り乱れて激しく変遷
 この間
 白河藩は
 一時、徳川譜代となり
 寛政の改革を主導した
 松平定信など
 城主が入った
 ↓↑
 江戸時代
 会津若松
 と
 日光街道
 を結んだ重要な交通路
 会津西街道(下野街道)の
 大内宿には 
 幕末に置かれた
 藩及び城郭
 交代寄合陣屋
 ↓↑
 会津藩支城の猪苗代城、
 二本松藩、棚倉藩、中村藩、三春藩、
 磐城平藩、福島藩、泉藩、湯長谷藩、下手渡藩、
 水戸藩、支藩の守山藩、
 幕末に
 徳川幕府直轄地となった白河城、
 仙台藩の支城の谷地小屋城
 などがあり、
 交代寄合の
 溝口家の横田陣屋
 その他に代官陣屋もあった
 ↓↑
 明治初期
 版籍奉還後の
 1869年(明治二年)
 の太政官令で
 陸奥国南端である
 福島県域は
 陸奥国から分離し
 西側が岩代国(いわしろのくに)
 東側が磐城国(いわきのくに)
 となった
 岩代国は
 福島県中通り地方の中北部と会津地方
 磐城国は
 福島県中通り地方南部と福島県浜通り地方
       宮城県南部(亘理郡、伊具郡、刈田郡)
 1869年(明治二年)7月20日
 福島藩が
 重原藩に移封され
 幕府領となっていた
 伊達郡、信夫郡を管轄するために
 福島県(第1次)が設置
 1871年(明治四年)
 7月(旧暦)
 廃藩置県で全国に多数の県
 11月(旧暦)
 福島県域は
 岩代国の会津地方
 (旧会津藩領の越後国蒲原郡の一部
          東蒲原郡を含む)
 が若松県、
 岩代国
 と
 磐城国からなる中通り地方が
 二本松県(二本松県・12日間後に
      県庁が信夫郡福島町に移転
      福島県に改称し機能はしていない)
 磐城国はほぼそのまま
 磐前県(いわさきけん)
 の3つの県として統合
 1876年(明治九年)8月21日
 福島県(第1次)、若松県、磐前県が合併
 現在の福島県(第2次)が成立
 磐前県北部(亘理郡、伊具郡、刈田郡)が
 宮城県に、
 磐前県南部の一部が
 茨城県に
 移管され、
 1886年(明治十九年)
 東蒲原郡が新潟県へ移管
 ↓↑
 大和朝廷の勢力圏
 福島県域が北限
 蝦夷勢力圏との境界に当たる
 信夫国(福島盆地)
 などの国には防備の任があった
 ↓↑
 関東や近畿地方などから
 開拓のための移民
 その後、
 国は評(こおり)と呼び名が代わり
 陸奥国に再編
 大和朝廷の勢力圏も
 宮城県域、さらに北に拡大し
 信夫評(しのぶごおり)
 も「北端」ではなくなった
 ↓↑
 701年(大宝元年)
 大宝律令の施行
 陸奥国となり
 評は郡
 評司(国造)は郡司になった
 718年(養老二年)
 石城国
 と
 石背国
 が分置
 石城国=菊多郡、石城郡
     標葉郡(しねはぐん or しめはぐん)
     行方郡(なめかたぐん)、宇太郡
     曰理郡(わたりぐん)の6郡
 石背国(いわせのくに)=信夫郡、安積郡
             石背郡、白河郡
             会津郡の5郡
 現福島県域は
 石城国
 or
 石背国
 に属することとなり
 陸奥国の領域ではなくなった
 分置後も
 蝦夷との戦いが続き
 東北全体(陸奥・出羽)での戦いに拡大
 724年(神亀元年)
 までには
 石城国
 と
 石背国
 は再び
 陸奥国に合併
 後
 信夫郡から伊達郡が分割
 安積郡からは安達郡などが分割
 会津郡も耶麻郡を始め多くの郡に分割
 ↓↑
 会津の由来
 記紀の記述
 崇神天皇が
 北陸道に遣わした
 大彦命(おおひこのみこと)
 と
 東海道に遣わした
 建沼河別命(たけぬかわわけのみこと)
 が、日本海側と太平洋側から遠征して
 出会ったのが
 「相津(あいづ)」だった
 この「相津」が後に「会津」と表記
 会津盆地でいくつかの川が
 合流するために舟運の拠点として
 会津、
 あるいは
 日本海側と太平洋側の物産を運ぶ隊商が
 会津盆地で取引をすために
 会津と呼ばれるようになった・・・などの説
 ↓↑
 大和朝廷の勢力圏は
 福島県域が北限で
 蝦夷勢力圏との境界に当たる
 信夫国(福島盆地)などの国には
 国境防備の任もあった
 ↓↑
 移民
 国は評(こおり)・・・・評=言+平
 と呼び名が代わり
 陸奥国に再編
 大和朝廷の勢力圏も
 宮城県域
 北に拡大し
 信夫評(しのぶごおり)も
 「北端」ではなくなった。
 ↓↑
 701年(大宝元年)
 大宝律令の施行時には
 陸奥国
 評は郡
 評司(国造)は郡司になった
 拡大した陸奥国から
 718年(養老二年)
 石城(いわき )国
 と
 石背(いわしろ・いわせ)国
 が分置された
 ↓↑
 石城国=菊多郡
     石城郡
     標葉郡(しねはぐん or しめはぐん)
     行方郡(なめかたぐん)
     宇太郡
     曰理郡(わたりぐん)の6郡
 石背国(いわせのくに)=信夫郡、安積郡、
             石背郡、白河郡、
             会津郡の5郡
 ↓↑
 現福島県域は
 石城国
 または
 石背国に属し
 陸奥国の領域ではなくなった
 分置後も
 蝦夷(えぞ・えみし・カイ)
 との戦いが続き
 東北全体(陸奥・出羽)に拡大
 724年(神亀元年)までに
 石城国
 と
 石背国
 は再び
 陸奥国に合併
 これらの郡は、その後、人口の増加などにより
 さらに再分割
 信夫郡から伊達郡が分割され
 安積郡からは安達郡などが分割され
 会津郡も耶麻郡を始め多くの郡に分割された・・・
ーー↓↑ーー
 甲州(こうしゅう)
 令制国の一
 甲斐国の別称
 ↓↑
 慶応四年三月六日
 1868年3月29日
 甲州勝沼の戦い
 慶応四年三月六日(1868年3月29日)
 柏尾の戦い
 勝沼・柏尾の戦い
 甲州戦争
 甲州柏尾戦争
 とも
 板垣退助の軍勢
 と
 近藤勇の軍勢が戦った合戦
 ↓↑
 甲斐国
 山梨郡
 勝沼(甲州市勝沼町)
 甲府盆地の東端に位置
 信濃国から
 甲府(甲府市)を経て
 江戸へ向かう
 甲州街道の勝沼宿
 ↓↑ 
 甲州街道
 江戸から
 郡内地方の
 山間部を経て
 甲府盆地(国中地方)へ至り
 勝沼は盆地へ入った最初の地点
 勝沼から
 郡内地方を越えれば
 武蔵多摩地方
 新選組の幹部や隊士を多く輩出した
 多摩地方にも近い
 ↓↑
 甲斐国
 享保九年(1724年)
 幕府直轄領化
 甲府城(甲府市)には
 甲府勤番が配置
 代官支配地
 天保七年(1836年)
 甲斐一国規模の
 天保騒動の際には
 勤番士
 三百数十人と
 各代官手付
 手代50余り
 ↓↑
 1867年(慶応三年)
 中岡慎太郎
 の仲介を経て
 五月二十一日
 小松清廉邸で
 薩摩藩の
 西郷隆盛・吉井友実・小松清廉
 らと
 土佐藩の
 乾(板垣)退助・谷干城・毛利恭助・中岡慎太郎
 らが会談
 薩土討幕の密約(薩土密約)を結ぶ
 二十二日
 乾(板垣)退助は
 薩摩藩と討幕の密約を結んだことを
 山内容堂へ報告
 乾(板垣)退助が
 江戸築地の
 土佐藩邸に
 勤王派
 水戸浪士を
 匿っていることを告げられ
 これを了承
 大坂で
 アルミニー銃300挺
 の買い付けを命じ
 乾(板垣)退助に
 土佐藩の軍制近代化改革を命じた
 ↓↑
 薩土密約に基づき
 1867年(慶応三年)12月28日
 京都にいる
 西郷隆盛から
 土佐の
 乾(板垣)退助あてに
 「討幕の開戦近し」との伝令
 1868年(慶応四年)一月三日
 鳥羽・伏見の戦い
 1月6日
 京都から
 谷干城
 が早馬で土佐に到着
 京都において
 武力討幕戦が開始されたことを
 土佐藩庁に報告
 ↓↑
 大政奉還が成って以降
 乾(板垣)退助は
 武闘派の棟梁と警戒され
 藩軍の大司令(陸軍大将)の職を解かれ
 その他総ての役職を被免され
 失脚していたが
 即日、失脚を解かれ
 藩軍の大司令に復職
 1月6日
 乾退助は
 谷干城の報告を受けて
 薩土討幕の密約を履行すべく
 土佐勤王党の流れをくむ隊士や
 勤皇の志を持った諸士からなる
 迅衝隊を土佐で編成
 1月7日
 朝廷より
 「徳川慶喜追討」の勅が出された
 ↓↑
 1月13日
 迅衝隊は
 土佐城下致道館前で出陣祈願
 土佐藩門閥派の重鎮
 寺村左膳らが
 止めに入るが出陣
 直後
 「讃岐高松、
  伊予松山両藩
  及び
  天領川之江征討」
 の勅を拝し
 「錦の御旗」を授けられ
 皇威を畏み、正式に官軍としての命を奉じた
 迅衝隊が
 高松、松山に到着すると
 両藩は朝敵となることを恐れ降伏
 京都へ上洛
 ↓↑
 総督
 板垣退助
 山内容堂は当初
 鳥羽・伏見の戦いを私闘と見做し
 土佐藩士の参戦を制止したが
 「薩土討幕の密約」に基づいて
 初戦から参戦した者も多く
 追討の勅が下った後は
 京都で在京の
 土佐藩士と合流した
 「迅衝隊」は
 部隊を再編し軍事に精通した
 「板垣(乾)退助」を
 大隊司令兼総督とし
 退助はさらに朝廷より
 東山道先鋒総督府参謀に任ぜられた
 2月14日
 京都を出発し東山道を進軍
 乾退助の12代前の先祖とされる
 板垣信方の320年目の命日で
 天領である甲府城の掌握目前の美濃で
 武運長久を祈念し
 「甲斐源氏の流れを汲む
  旧武田家家臣の
  板垣氏の末裔であることを示して
  甲斐国民衆の支持を得よ」
 との岩倉具視等の助言を得て
 「乾(いぬい)」を
 「板垣」氏に姓を復し
 東山道(中山道)を進軍
 東山道先鋒総督府軍は
 諏訪で本隊と別働隊に分かれ
 本隊は
 伊地知正治
 が率いてそのまま中山道を進み
 板垣退助(乾退助)
 率いる別働隊は
 幕府の天領であった
 甲府を目差した
 甲府城入城が
 決戦の勝敗を決するとし
 板垣退助は
 「江戸~甲府」と
 「大垣~甲府」までの距離から
 東山道先鋒総督府軍の
 不利を計算し、走って進軍
 土佐迅衝隊(12小隊, 約600名)と
 因幡鳥取藩兵(8小隊, 約800名)らと共に
 1868年(慶応四年)3月5日
 甲府城入城
 ↓↑
 断金隊、護国隊の結成
 板垣退助が
 旧武田遺臣であると知れ
 「武田家旧臣の
  板垣信方
  の末裔が甲府に帰ってきた」
 と領民に迎えられた
 旧武田家家臣の子孫の
 浪人や神官、長百姓らが協力を願い出
 甲斐の郷士らで
 「断金隊」や、「護国隊」が組織
 武田信玄の墓前で結成式
 ↓↑
 板垣退助
 らより一日遅れ
 大久保大和(近藤勇)
 の率いる
 甲陽鎮撫隊
 は甲府についたが
 甲州街道
 と
 青梅街道
 の分岐点近くで布陣
 柏尾坂附近で戦闘となったが
 洋式兵法にも精通していた
 迅衝隊がこれを撃破
 戦闘が始まって僅か約2時間で勝敗がつき
 甲陽鎮撫隊は山中を隠れながら江戸へ敗走
 「板垣」の復姓は
 甲斐国民心の懐柔に効果
 江戸に進軍する際も
 旧武田家臣が多く召抱えられていた
 八王子千人同心たちの心を懐柔させた
 ↓↑
 新選組は
 京都守護職指揮下で
 京都市街の治安維持
 慶応四年一月
 鳥羽・伏見の戦い
 淀千両松の戦いで
 新政府軍と戦って敗れ
 江戸へ移った
 新政府軍は
 東海道・東山道・北陸道に別れ
 江戸へ向けて進軍
 ↓↑
 新選組局長の
 近藤勇は
 抗戦派と恭順派が
 対立する江戸城において
 勝海舟と会い
 幕府直轄領である甲府を
 新政府軍に先んじて押さえるよう
 出陣を命じられた
 (江戸開城を控えた勝海舟が
  暴発の恐れのある近藤らを
  江戸から遠ざけた?)
 新選組
 と
 浅草弾左衛門(矢野内記)配下
 の被差別民からなる
 混成部隊が編成され
 甲陽鎮撫隊と名を改め
 近藤勇は大久保剛(後に大和)
 土方歳三は内藤隼人
 と変名
 ミニェー銃をはじめとする
 洋式砲が多数配備されたが
 近藤らは
 剣術の腕を過信し・・・?
 隊士らに殆ど
 西洋式練兵をさせぬまま
 3月1日に江戸を出発し
 甲州街道を行軍
 ↓↑
 近藤勇は
 「甲府を新政府軍に先んじて押さえるよう」
 という
 勝海舟の指令を軽んじ
 新選組70人と
 被差別民200人からなる
 混成部隊の不満をやわらげ
 士気を高めるため
 幕府より支給された
 5,000両の軍資金を使って
 大名行列のように贅沢に豪遊しながら行軍
 飲めや騒げの宴会を連日繰り返し
 移動の邪魔となった
 大砲6門のうち4門を置き去りにし
 2門しか運ばなかった
 さらに天候が悪化し行軍が遅くなり
 甲府到着への時間を空費
 沖田総司は途中で江戸に戻った
 ↓↑
 正月
 甲府城へ公家の
 高松実村を総帥とした
 「官軍鎮撫隊」が入城
 高松隊は高松を中心に
 伊豆国出身の
 宮大工・彫刻師である
 小沢一仙らを加えた
 草莽諸隊で
 甲斐で年貢減免などの
 政策を約束しつつ甲府城へ入城したが
 官軍東海道総督府から
 勅宣を受けていない
 高松隊への帰国命令が発せられ
 小沢一仙は処刑された(偽勅使事件)
 ↓↑
 3月4日
 新政府側
 板垣退助の率いる
 土佐藩
 迅衝隊(12小隊, 約600名)と
 因幡鳥取藩兵(8小隊, 約800名)が
 東山道総督府先鋒として
 甲府城に入城
 甲府城内の勤番士は立退きを命じられ
 後に官軍は
 甲府市中に残った勤番士を場内に戻し
 近藤派に属したものは入牢
 ↓↑
 甲陽鎮撫隊は勝沼から前進
 甲州街道と青梅街道の分岐点近くで布陣
 300名いた兵は次々脱走し121名まで減
 近藤は
 「会津藩の援軍がこちらへ向かっている」
 と騙して脱走を防ごうとした
 土方は
 神奈川方面へ赴き旗本の間で結成されていた
 菜葉隊(隊長:吹田鯛六、以下隊士:500名)
 に援助を頼むが黙殺
 ↓↑
 3月6日
 山梨郡
 一町田中村
 歌田(山梨市一町田中・歌田)において
 迅衝隊
 と
 甲陽鎮撫隊
 との間で戦闘
 迅衝隊が圧倒し
 近藤は
 勝沼の柏尾坂へ後退
 兵は逃亡
 甲陽鎮撫隊は
 八王子へ退却し、解散
 近藤らはその途中で
 土方と合流
 ↓↑
 甲府城の迅衝隊は
 その後江戸へ向かい
 官軍側であった
 市ヶ谷の
 尾張徳川藩邸(防衛省本部)を本陣とし
 新宿方面を警備
 江戸城の無血開城と
 上野戦争で江戸を確保し
 戊辰戦争の戦場は
 関東北部の
 宇都宮
 会津
 越後
 へと移った
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