モンジュのチヱ・・・
↓↑
古代エジプトで「太陽と月」は
ハヤブサ(隼⇔隼人)の姿、頭部を持つ
天空神「ホルスの両目」だと考えられてきた
二つの目は
左目(ウアジェト(ウジャト)の目)は月
右目(ラーの目)は太陽・・・天照大神は「左目」
の象徴とされた
・・・邪視・邪眼・・・銅鐸にも「邪視紋」・・・エジプト?
エジプト=埃及⇔馬糞風=北海道
・・・トラホーム(トラコーマの独語)
顆粒性結膜炎=エジプト眼炎
トラコーマ
・・・虎 呼尾目(魔)
虎 子於磨
寅 児(兒)緒巻?
トラコーマ(顆粒性結膜炎、エジプト眼炎)
クラミジア・トラコマチス
( Chlamydia trachomatis)
という細菌によって引き起こされる長期に渡る
眼の結膜の炎症・・・「慢性結膜炎」
2016年
世界保健機関(WHO)発表
トラコーマによる失明、視力障害者数は190万人
↓↑
エジプトとニッポンを繋ぐモノが「古墳時代」なら
「珍敷塚古墳」の磐繪(絵)?
繪=糸+會(会)
↓↑
エジプトとニッポンを繋ぐモノが「戦国時代末期」なら
「天正遣欧少年使節
↓↑ ↓↑
1582年(天正十 年
壬午年・明=万暦十年)」?
水馬=河馬= 魁罡(カイゴウ)
=北斗七星の魁(さきがけ)
北斗七星=魁+𩲃+𩵄+䰢+魓+𩳐+魒
天枢+天璇+天璣+天権=魁(カイ)
玉衡+開陽+揺光=標or杓(ヒョウ)
魁+杓=斗
「魁𩲃𩵄䰢魓𩳐魒」尊帝星君律令敕
「陰斗乙丁己辛癸為六陰」
「魁𩲃𩵄䰢魓𩳐魒」
「倶七斗之諱」
「毎叩歯而念一星・星者=魁𩲃𩵄䰢魓𩳐魒」
「北斗の柄の端から
2番目の
ζ星ミザールには
伴星アルコル (Alcor・輔星)が存在
視力検査に用いられる・・・視力の是非有無
視(み)ザール
御 座 る
帰化ざ る
岩 ザ ル
「北斗七星+輔星+弼星=北斗九星」
「榎本 武揚(釜次郎)」・・・蝦夷共和国総裁
蝦夷地(北海道)へ渡った
「開陽丸」は
「開陽星」に由来する
↓↑ ↓↑
明王朝 万暦十年
・・・万の暦を拾って賭(まかなう・カける)詞
太安万侶
2月20日
(天正十年一月二十八日)
「天正遣欧少年使節」が長崎を出航
↓↑
1582年
2月24日 教皇グレゴリウス13世
勅書「インテル・グラウィッシマス
最も重大なる懸念の内に」
「インテル・グラウィッシマス」は
「グレゴリオ暦」の導入を
依頼、勧告、推奨するもの
10月15日 「グレゴリオ暦」導入
前日はユリウス暦の
1582年 1582年
10月4日→(-10) →10月15日
56789 10 11 12 13 14
4日の翌日を「10日間」飛ばして「15日」とした
↓↑
6月21日(天正10年6月02日)本能寺の変
7月04日(天正10年6月15日)安土城炎上
↓↑
エジプトとニッポンを繋ぐモノが「関ケ原の1600年」なら
「豊後・大分に漂着した
ウイリアム・アダムス=三浦按針」?
ウィリアム・アダムス(William Adams)
1564年9月24日(ユリウス暦)
~
1620年5月16日
(元和六年四月二十四日)・・・元の和(話・倭・輪・環・数)
大運1616年2月(51歳)戊寅劫財
甲┏子(壬 癸)正官・偏財 絶⇔庚申傷官
壬┗申(戊壬庚)正財・傷官沐浴⇔辛巳食神
己 丑(癸辛己) ・比肩 墓⇔壬戌正財
庚 午(丙 丁)傷官・偏印建禄⇔丙午傷官
午未空亡
↓↑
1588年
海軍に入り
フランシス・ドレークの指揮下の
貨物補給船
リチャード・ダフィールド号
の船長として
1588年7月~8月(旧暦7月)
英仏海峡での諸海戦
「アルマダ
(Battle of Armada, Armada Wars)
の海戦」
に参加
↓↑
1589年
メアリー・ハインと結婚
娘デリヴァレンス
息子ジョン
を設けた
軍を離れて
バーバリー商会・・・バーバリー(Burberry Group plc)?
ロンドン会社
の航海士・船長
↓↑
ロッテルダムで極東を目指す
航海船員募集に弟の
トマスらと共に志願
5隻からなる船団
↓↑
ホーぺ 号(希望・旗艦)
リーフデ号(愛)
ヘローフ号(信仰・ロッテルダムに帰還)
トラウ 号(忠誠)
フライデ・ボートスハップ号(吉兆・陽気な使者)
↓↑
司令官
ジャック・マフ
アダムスは
ホープ号の航海士として採用され
1598年6月24日
ロッテルダムを出航
↓↑
マゼラン海峡を抜けるまで
ウィリアム
トマス(トラウ号に乗船)
兄弟は
リーフデ号に配置転換
トラウ号はポルトガルに
フライデ・ボートスハップ号はスペインに
拿捕
はぐれた
ヘローフ号はロッテルダムに引き返した
太平洋横断中
ホープ号沈没
リーフデ号は
食糧補給の寄港した港で
赤痢感染、壊血病蔓延
インディオの襲撃
で船員を失い
トマスもインディオに殺害
出航時に
110人
だった乗組員は
日本漂着までには
24人
になっていた
↓↑
関ヶ原の戦い
約半年前の
1600年4月29日
(慶長五年三月十六日)
リーフデ号は
豊後臼杵
黒島
に漂着
↓↑
臼杵城主
太田一吉
が救助し
日本上陸
長崎奉行
寺沢広高
に通報され
アダムス
らは拘束され
船内の
大砲・火縄銃・弾薬を没収
・・・大砲は関ケ原、大坂城攻撃に使用・・・
大坂城の
豊臣秀頼に指示を仰いだ
この間にイエズス会の宣教師たちが訪れ
オランダ人やイングランド人を即刻処刑の要求
↓↑
五大老首座の
徳川家康が
船長
ヤコブ・クワッケルナック
に代わり
アダムス
ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン
メルキオール・ファン・サントフォールト
らを大坂に護送
併せて船も回航させた
↓↑
5月12日(慶長五年三月三十日)
アダムス
と
ヤン=ヨーステン
が
徳川家康と引見し
路程や航海の目的
オランダやイングランドなど
プロテスタント国
と
ポルトガル・スペインら
カトリック国
の紛争を説明
家康は
執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺し
幾度かにわたって引見を繰り返した後に釈放し
江戸に招いた
↓↑
アダムスは帰国を願い出たが
家康は米や俸給を与えて慰留し
外国使節との対面や外交交渉に際して
通訳を任せたり
助言を求めたりし
幾何学、数学、航海術
・・・ギリシャ神話、エジプト学は教えたカナ?
などの知識を
家康以下の側近に授けた・・・
↓↑
江戸湾係留の
リーフデ号が沈没
西洋式の帆船建造を要請され
アダムスは
「伊東」・・・静岡県伊東市=伊豆半島最東部
に日本で初めての
造船ドックを設置
・・・九鬼海軍の甲鉄戦艦(鉄甲船)建造には
「Dock」は
利用しなかったのか・・・?
80tの帆船を建造
1604年(慶長九年)完成
↓↑
1605年
干支 乙巳・・・645年=乙巳年=大化の改新
慶長十年
皇紀2265年
明王朝 万暦三十三年
唐人川
河口で造船を行ない
西洋式大型帆船2隻をつくる
1607年(慶長十二年)
120tの船舶を完成させた
↓↑
1605年
セルバンテス・・・競る番です・施留版(盤)出素(数)?
『ドン・キホーテ』(前編)・・・ダレが「ドンキ」か?
↓↑
家康は
アダムス
を250石取りの旗本に取り立て
帯刀を許し
「相模国・・・・佐賀観
逸見」・・・・何時(乙・伊津・伊都・伍)観
に采地を与え
「三浦按針」
の名乗りを与え
日本武士とした
この所領は息子の
「ジョゼフ」が相続
「三浦按針」の名乗りも「ジョゼフ」に継承された
↓↑
1613年(慶長十八年)
にイギリス東インド会社
クローブ号
が交易を求めて日本に来航
一行に付き添い
家康らとの謁見を実現させ
貿易を許可する
朱印状をイギリスの為に取りつけた
1614年(慶長十九年)
クローブ号帰還の際
一緒に帰国できる許可が
日英両方から出たが
同船司令官
「ジョン・セーリス」
と意見が合わず、帰国を見送った
後
オランダ商館より安い賃金の
母国イギリス商館で仕事をした
↓↑
1616年(元和二年)4月
家康が死去
徳川秀忠
幕臣
が貿易を
「平戸」のみに制限
鎖国体制を敷き
按針は不遇となった
按針の役目は
天文官のみとなり
幕臣や次期将軍候補の
徳川家光らに警戒され
1620年5月16日(元和六年四月二十四日)
平戸で死去
(享年55歳)
↓↑
1602年(慶長七年)頃
大伝馬町の名主
家康の御用商人
馬込
勘解由
平左衛門の娘
「お雪(マリア)?」と結婚
息子ジョゼフ(二代目三浦按針)
娘スザンナ
が生まれている
↓↑
エジプトとニッポンを繋ぐモノが「江戸時代末期」なら
「池田使節団」
↓↑
屋形古墳群
珍敷塚古墳、原古墳、鳥船塚古墳、古畑古墳
の4基の円墳で構成
墳丘が残っているのは
古畑古墳と原古墳のみ
↓↑
珍敷塚古墳(めずらしづかこふん)
奥壁と壁の腰石のみが残る
壁画には点と線を使った絵が描かれている
原古墳(はるこふん)
横穴式石室で
奥壁には赤色で
大型の船が描かれ
船の上には櫂を漕ぐ人
弓を持つ人が描かれている
鳥船塚古墳(とりふねづかこふん)
石室は破壊、奥壁の腰石2段を残すのみ
奥壁の1段目には
2個の靫と船、同心円文が描かれている
船は大きな櫂のある大型の船
人物が乗っており
帆を張る柱が2ヶ所
2段目には
鳥が船の艫と舳先に各1羽つづ止まっている絵が描かれている
古畑古墳(ふるはたこふん)
横穴式石室を持つ円墳
墳丘は2段築成
段築面には円筒埴輪が並んで
奥壁には三角文、人物、同心円文が赤色で描かれている
所在地
福岡県
うきは市
吉井町
富永653-2他
ー↓↑ーーー
横浜鎖港談判使節団=第2回遣欧使節=池田使節団
池田長発( 筑後守)正使
河津祐邦(伊豆守)副使
河田熙(相模守)目付
文久三年十二月二十九日~元治元年七月二十二日
(1864年2月6日~8月23日)
幕府がフランスに派遣した外交団
↓↑
1864年2月6日
フランス軍艦
ル・モンジュ号・・・文殊・文珠⇔「文殊菩薩」
↓↑ 711年(和銅四年)
法隆寺五重塔の
塑造群像に存在
文殊五尊図
文殊菩薩が
優填王・仏陀波利三蔵
善財童子・大聖老人(最勝老人=婆藪)
の四尊ともに描かれた絵図
↓↑ プラス・モンジュ駅(仏: Place Monge)は
フランス・ パリの5区にある
メトロ(地下鉄)7号線の駅
モンジュ=パン屋の屋号
フランス数学者の名前=ガスパール・モンジュ (Gaspard Monge)
著書に《画法幾何学》(1795)
↓↑ モンジュ (ミサイル追跡艦)
ル・モンジュ号
で日本出帆
上海、インド等を経由
スエズ~陸路でカイロ
ギザの
三大ピラミッド
スフィンクス
を見学し
写真撮影
地中海を通って
マルセイユ
に入港
↓↑
パリ
到着
皇帝ナポレオン3世に謁見
横浜の鎖港に関する交渉は
失敗
交渉を途中で打ち切り
5月17日(6月20日)
フランス政府とパリ約定を結び
一行は他の国には寄らず
同年7月22日(8月23日)に帰国
↓↑
咸臨丸・・・Screw(スクリュー)軍艦
幕府海軍保有の軍艦
バーク式の3本マスト
蒸気コルベット
旧名(オランダ語名)
Japan(ヤパン号・ヤッパン号・ヤーパン号)
「咸臨」=『易経』
君臣が互いに親しみ合うこと
↓↑
1855年(安政二年)7月
オランダ
キンデル ダイク・・・金出る大丘?
にて起工
キンデルダイク (蘭: Kinderdijk)
オランダの
南ホラント州
ニーウ・レッケルラント基礎自治体内の地区
ロッテルダムの南東約 13 km の位置
レク川
と
ノールト川に挟まれた風車設置地区
1857年(安政四年)
3月、完成
8月4日 (旧暦) 日本へ送られ
長崎海軍伝習所の練習艦となる
1860年(万延元年)
日米修好通商条約の批准書交換で
遣米使節団派遣の正使一行が乗艦する
アメリカ軍艦ポーハタン号の別船として
本艦も伴走派米
福澤諭吉らも便乗
米国派遣
↓↑
随伴艦として
幕府海軍の練習航海も兼ね
派米された
士官は
長崎海軍伝習所の教員がそのまま乗船
出発前に
「軍艦奉行」に昇進して遣米副使として
木村摂津守を除いて
艦内組織は未整頓で
教員の主席
「軍艦操練所教授方頭取」
「勝海舟」が先任士官として
運用の実質的責任者
対外的には
通訳の
「中浜万次郎(ジョン万次郎)」
「勝」が艦長
「木村」が提督
と説明・・・
↓↑
旧暦1月13日
品川を出帆
旧暦1月19日
浦賀を出港し
旧暦2月26日(太陽暦3月17日)
サンフランシスコに入港
往路は38日間の航海
荒天に見舞われ、艦の各所が破損し
日本人の乗員は疲労と船酔い
艦の運用は
ジョン・ブルック大尉指揮下の
アメリカ人乗員が代行
↓↑
復路
ハワイ経由
往路で同乗した
アメリカ人水夫のうち5名を雇った以外は
日本人のみでの運用
45日間の航海は好天
↓↑
小笠原派遣
1862年(文久二年)
艦長
小野友五郎・・・小野の友五郎?
小笠原諸島を巡視
父島と母島を探検
1866年(慶応二年)
故障頻発
蒸気機関を撤去し帆船となる
↓↑
1868年(慶応四年)
戊辰戦争
8月19日 (旧暦)
海軍副総裁
榎本武揚の指揮下で
旧幕府艦隊として
品川湊から
奥羽越列藩同盟の支援に向かう
8月23日 (旧暦)
銚子沖で暴風雨に遭い
榎本艦隊とはぐれ
下田港に漂着
救助に来た
蟠竜丸と共に清水へ入港
9月11日 (旧暦)
蟠竜丸は先に出航
咸臨丸は修理が遅れ
新政府軍艦隊に追い付かれ
乗組員の多くは戦死または捕虜
逆賊として放置された乗組員の遺体を
清水次郎長が
清水市築地町に埋葬
↓↑
明治二年九月
1869年10月~11月
咸臨丸は兵部省から民部省回漕方に交付
1871年(明治四年)9月19日 (旧暦)
片倉氏の旧臣401名を移住させる目的で
北海道小樽へ向け出航
輸送途中
北海道
木古内町
泉沢沖
で暴風雨(米人船長の操船)で遭難し
サラキ岬で破船、沈没
1887年(明治二十年)
清水次郎長が
清水市興津の
清見寺に
咸臨丸乗組員
殉難碑を建立
1984年(昭和59年)
サラキ岬沖で
鉄製の朽ちた錨が発見
錨は咸臨丸のものだった
↓↑
建造所 ホップ・スミット造船所
オランダ
キンデル ダイク市・・・金出る大丘?
ヘレフートスライス海軍工廠
運用 江戸幕府
艦種 コルベット
発注 1855年(江戸幕府)
起工 1855年
竣工 1857年3月(安政四年二月)
就役 安政四年九月五日受領
1871年 沈没
↓↑
1853年7月
嘉永六年六月
黒船来航
↓↑
「鳳凰丸」
Japanese warship Hou-Ou Maru. 1855 painting.
洋式軍艦
安政二年二月(1855年3月頃)
1853年(嘉永六年)に建造決定
建造 浦賀造船所
発注 江戸幕府
起工 1853年10月22日
竣工 1854年6月6日(安政元年五月)
戊辰戦争後
兵部省を経て
大蔵省所属に移管
↓↑
「旭日丸」
発注 江戸幕府・水戸藩
建造所 水戸藩石川島造船所
起工 1854年1月30日
進水 1855年
就役 1856年
水戸藩が建造
洋式軍艦
明治維新後
輸送船
本船建造で
石川島 造船所
が開設
↓↑
水戸藩
徳川斉昭
洋式船建造に関して
天保十二年(1841年)
「快風丸」の再建名目で
半洋式の大型船建造を企画
計画は幕府から許可が下りなかったが
同年に
「バッテラ(Bateira)」
と呼ばれる小型の洋式船2隻を
「那珂湊」で密造・・・
↓↑
小石川
の水戸藩邸でお抱えの蘭学者
「鱸半兵衛」・・・鱸の半兵衛?
を中心に
オランダの造船書などの翻訳
雛型(縮小模型)の製造が進められ
1853年11月30日(嘉永六年十月三十日)
雛型は
将軍
徳川家定
以下に供覧
↓↑
1853年12月12日(嘉永六年十一月十二日)
正式な建造命令
1854年1月30日(嘉永七年一月二日)
幕府直轄地
隅田川河口に
水戸藩が整備した
「石川島 造船所」で起工式
1855年
進水したが
着底して横倒しになり
オランダの書物を参考に
廻船や樽で浮力させ復元
江戸の町民たちから
「厄介丸」と揶揄された
後、横浜に回航されて艤装工事
約2年半後の
1856年6月頃(安政三年五月)に竣工
「旭日丸」と命名
↓↑
昇平丸
起工1853年5月
進水1854年4月
竣工1854年12月
薩摩藩が建造
洋式軍艦
幕府に献上され
「昌平丸」
と改称
薩摩藩主
島津斉彬
嘉永5年12月27日
幕府に対して
「琉球王国」の防衛を名目に
「琉大砲船(洋式軍艦)」の建造願いを提出
嘉永六年(1853年)4月29日
建造許可
5月29日
桜島
瀬戸村
造船所で起工
↓↑
嘉永六年(1853年)6月
アメリカ合衆国
マシュー・ペリー
アメリカ東インド艦隊が来航(黒船来航)
老中
阿部正弘
の主導で
8月8日
水戸藩に
「旭日丸」の建造
9月8日
浦賀奉行に「鳳凰丸」の建造を命じ
9月15日
大船建造禁止令を解除
↓↑
琉大砲船
嘉永七年(1854年)4月3日進水
安政元年(1854年)12月12日竣工
嘉永七年(1854年)5月10日
鳳凰丸に続いて
日本で
2番目の洋式軍艦
↓↑
琉大砲船
安政2年(1855年)1月26日
昇平丸と命名
2月
江戸に回航
8月13日
幕府に献上
後
品川
に置かれ
長崎海軍伝習所への
伝習生派遣など
練習艦として使用
↓↑
1854年(嘉永七年)3月
日米和親条約調印後
外国船と区別する標識が必要となり
日本国共通の船舶旗(日本惣船印)の必要が生じ
幕臣達は当初
「大中黒」
(徳川氏の先祖である
新田氏?の旗・白地に黒の横一文字)
を日本惣船印に考えていたが
薩摩藩主
島津斉彬
幕府海防参与
徳川斉昭
らの進言によって
「日の丸」の幟を用いることになり
7月9日
老中 阿部正弘
布告し
昇平丸に「日の丸」が船尾部に掲揚
日本の船旗として掲揚した第一号・・・
↓↑
浦賀奉行の提案で
徳川斉昭の支持を得て
鳳凰丸」竣工に際し日本船の総印として規定
「昇平丸」にも適用・・・
↓↑
明治二年(1869年)
「昌平丸」は
「咸臨丸」と共に開拓使所管となり
輸送船として使用
明治三年(1870年)3月
松前沖で嵐に遭遇
北海道の
上ノ国
木の子村
「猫澤」海岸
で高波により座礁破船
鳳凰=ホウオウ=法皇・訪欧・・・丸・〇・円・まる・麻呂・・・
ーーーーー
・・・???・・・「日の丸」・・・「月の丸」・・・
埃及(Egypt・エジプト)の「ウジャト」・・・
ウアジェト(Wadjet・ウジャト)=古代エジプト神話の女神・・・
「ウアジェトの目」
「ホルスが父オシリスの敵セトを討つ時に奪われた左目」
「ハヤブサの姿あるいは頭部を持つ天空神
ホルスの両目(「ホルスの目」)」
二つの目は区別され
左目(「ウアジェト(ウジャト)の目」)は月
右目(「ラーの目」)は太陽
ーーーーー
・・・邪眼・邪視・・・
古代エジプトで「太陽と月」は
ハヤブサ(隼⇔隼人)の姿、頭部を持つ
天空神「ホルスの両目」だと考えられてきた
二つの目は
左目(ウアジェト(ウジャト)の目)は月
右目(ラーの目)は太陽・・・天照大神は「左目」
の象徴とされた
・・・邪視・邪眼・・・銅鐸にも「邪視紋」・・・エジプト?
エジプト=埃及⇔馬糞風=北海道
・・・トラホーム(トラコーマの独語)
顆粒性結膜炎=エジプト眼炎
トラコーマ
・・・虎 呼尾目(魔)
虎 子於磨
寅 児(兒)緒巻?
トラコーマ(顆粒性結膜炎、エジプト眼炎)
クラミジア・トラコマチス
( Chlamydia trachomatis)
という細菌によって引き起こされる長期に渡る
眼の結膜の炎症・・・「慢性結膜炎」
2016年
世界保健機関(WHO)発表
トラコーマによる失明、視力障害者数は190万人
↓↑
エジプトとニッポンを繋ぐモノが「古墳時代」なら
「珍敷塚古墳」の磐繪(絵)?
繪=糸+會(会)
↓↑
エジプトとニッポンを繋ぐモノが「戦国時代末期」なら
「天正遣欧少年使節
↓↑ ↓↑
1582年(天正十 年
壬午年・明=万暦十年)」?
水馬=河馬= 魁罡(カイゴウ)
=北斗七星の魁(さきがけ)
北斗七星=魁+𩲃+𩵄+䰢+魓+𩳐+魒
天枢+天璇+天璣+天権=魁(カイ)
玉衡+開陽+揺光=標or杓(ヒョウ)
魁+杓=斗
「魁𩲃𩵄䰢魓𩳐魒」尊帝星君律令敕
「陰斗乙丁己辛癸為六陰」
「魁𩲃𩵄䰢魓𩳐魒」
「倶七斗之諱」
「毎叩歯而念一星・星者=魁𩲃𩵄䰢魓𩳐魒」
「北斗の柄の端から
2番目の
ζ星ミザールには
伴星アルコル (Alcor・輔星)が存在
視力検査に用いられる・・・視力の是非有無
視(み)ザール
御 座 る
帰化ざ る
岩 ザ ル
「北斗七星+輔星+弼星=北斗九星」
「榎本 武揚(釜次郎)」・・・蝦夷共和国総裁
蝦夷地(北海道)へ渡った
「開陽丸」は
「開陽星」に由来する
↓↑ ↓↑
明王朝 万暦十年
・・・万の暦を拾って賭(まかなう・カける)詞
太安万侶
2月20日
(天正十年一月二十八日)
「天正遣欧少年使節」が長崎を出航
↓↑
1582年
2月24日 教皇グレゴリウス13世
勅書「インテル・グラウィッシマス
最も重大なる懸念の内に」
「インテル・グラウィッシマス」は
「グレゴリオ暦」の導入を
依頼、勧告、推奨するもの
10月15日 「グレゴリオ暦」導入
前日はユリウス暦の
1582年 1582年
10月4日→(-10) →10月15日
56789 10 11 12 13 14
4日の翌日を「10日間」飛ばして「15日」とした
↓↑
6月21日(天正10年6月02日)本能寺の変
7月04日(天正10年6月15日)安土城炎上
↓↑
エジプトとニッポンを繋ぐモノが「関ケ原の1600年」なら
「豊後・大分に漂着した
ウイリアム・アダムス=三浦按針」?
ウィリアム・アダムス(William Adams)
1564年9月24日(ユリウス暦)
~
1620年5月16日
(元和六年四月二十四日)・・・元の和(話・倭・輪・環・数)
大運1616年2月(51歳)戊寅劫財
甲┏子(壬 癸)正官・偏財 絶⇔庚申傷官
壬┗申(戊壬庚)正財・傷官沐浴⇔辛巳食神
己 丑(癸辛己) ・比肩 墓⇔壬戌正財
庚 午(丙 丁)傷官・偏印建禄⇔丙午傷官
午未空亡
↓↑
1588年
海軍に入り
フランシス・ドレークの指揮下の
貨物補給船
リチャード・ダフィールド号
の船長として
1588年7月~8月(旧暦7月)
英仏海峡での諸海戦
「アルマダ
(Battle of Armada, Armada Wars)
の海戦」
に参加
↓↑
1589年
メアリー・ハインと結婚
娘デリヴァレンス
息子ジョン
を設けた
軍を離れて
バーバリー商会・・・バーバリー(Burberry Group plc)?
ロンドン会社
の航海士・船長
↓↑
ロッテルダムで極東を目指す
航海船員募集に弟の
トマスらと共に志願
5隻からなる船団
↓↑
ホーぺ 号(希望・旗艦)
リーフデ号(愛)
ヘローフ号(信仰・ロッテルダムに帰還)
トラウ 号(忠誠)
フライデ・ボートスハップ号(吉兆・陽気な使者)
↓↑
司令官
ジャック・マフ
アダムスは
ホープ号の航海士として採用され
1598年6月24日
ロッテルダムを出航
↓↑
マゼラン海峡を抜けるまで
ウィリアム
トマス(トラウ号に乗船)
兄弟は
リーフデ号に配置転換
トラウ号はポルトガルに
フライデ・ボートスハップ号はスペインに
拿捕
はぐれた
ヘローフ号はロッテルダムに引き返した
太平洋横断中
ホープ号沈没
リーフデ号は
食糧補給の寄港した港で
赤痢感染、壊血病蔓延
インディオの襲撃
で船員を失い
トマスもインディオに殺害
出航時に
110人
だった乗組員は
日本漂着までには
24人
になっていた
↓↑
関ヶ原の戦い
約半年前の
1600年4月29日
(慶長五年三月十六日)
リーフデ号は
豊後臼杵
黒島
に漂着
↓↑
臼杵城主
太田一吉
が救助し
日本上陸
長崎奉行
寺沢広高
に通報され
アダムス
らは拘束され
船内の
大砲・火縄銃・弾薬を没収
・・・大砲は関ケ原、大坂城攻撃に使用・・・
大坂城の
豊臣秀頼に指示を仰いだ
この間にイエズス会の宣教師たちが訪れ
オランダ人やイングランド人を即刻処刑の要求
↓↑
五大老首座の
徳川家康が
船長
ヤコブ・クワッケルナック
に代わり
アダムス
ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン
メルキオール・ファン・サントフォールト
らを大坂に護送
併せて船も回航させた
↓↑
5月12日(慶長五年三月三十日)
アダムス
と
ヤン=ヨーステン
が
徳川家康と引見し
路程や航海の目的
オランダやイングランドなど
プロテスタント国
と
ポルトガル・スペインら
カトリック国
の紛争を説明
家康は
執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺し
幾度かにわたって引見を繰り返した後に釈放し
江戸に招いた
↓↑
アダムスは帰国を願い出たが
家康は米や俸給を与えて慰留し
外国使節との対面や外交交渉に際して
通訳を任せたり
助言を求めたりし
幾何学、数学、航海術
・・・ギリシャ神話、エジプト学は教えたカナ?
などの知識を
家康以下の側近に授けた・・・
↓↑
江戸湾係留の
リーフデ号が沈没
西洋式の帆船建造を要請され
アダムスは
「伊東」・・・静岡県伊東市=伊豆半島最東部
に日本で初めての
造船ドックを設置
・・・九鬼海軍の甲鉄戦艦(鉄甲船)建造には
「Dock」は
利用しなかったのか・・・?
80tの帆船を建造
1604年(慶長九年)完成
↓↑
1605年
干支 乙巳・・・645年=乙巳年=大化の改新
慶長十年
皇紀2265年
明王朝 万暦三十三年
唐人川
河口で造船を行ない
西洋式大型帆船2隻をつくる
1607年(慶長十二年)
120tの船舶を完成させた
↓↑
1605年
セルバンテス・・・競る番です・施留版(盤)出素(数)?
『ドン・キホーテ』(前編)・・・ダレが「ドンキ」か?
↓↑
家康は
アダムス
を250石取りの旗本に取り立て
帯刀を許し
「相模国・・・・佐賀観
逸見」・・・・何時(乙・伊津・伊都・伍)観
に采地を与え
「三浦按針」
の名乗りを与え
日本武士とした
この所領は息子の
「ジョゼフ」が相続
「三浦按針」の名乗りも「ジョゼフ」に継承された
↓↑
1613年(慶長十八年)
にイギリス東インド会社
クローブ号
が交易を求めて日本に来航
一行に付き添い
家康らとの謁見を実現させ
貿易を許可する
朱印状をイギリスの為に取りつけた
1614年(慶長十九年)
クローブ号帰還の際
一緒に帰国できる許可が
日英両方から出たが
同船司令官
「ジョン・セーリス」
と意見が合わず、帰国を見送った
後
オランダ商館より安い賃金の
母国イギリス商館で仕事をした
↓↑
1616年(元和二年)4月
家康が死去
徳川秀忠
幕臣
が貿易を
「平戸」のみに制限
鎖国体制を敷き
按針は不遇となった
按針の役目は
天文官のみとなり
幕臣や次期将軍候補の
徳川家光らに警戒され
1620年5月16日(元和六年四月二十四日)
平戸で死去
(享年55歳)
↓↑
1602年(慶長七年)頃
大伝馬町の名主
家康の御用商人
馬込
勘解由
平左衛門の娘
「お雪(マリア)?」と結婚
息子ジョゼフ(二代目三浦按針)
娘スザンナ
が生まれている
↓↑
エジプトとニッポンを繋ぐモノが「江戸時代末期」なら
「池田使節団」
↓↑
屋形古墳群
珍敷塚古墳、原古墳、鳥船塚古墳、古畑古墳
の4基の円墳で構成
墳丘が残っているのは
古畑古墳と原古墳のみ
↓↑
珍敷塚古墳(めずらしづかこふん)
奥壁と壁の腰石のみが残る
壁画には点と線を使った絵が描かれている
原古墳(はるこふん)
横穴式石室で
奥壁には赤色で
大型の船が描かれ
船の上には櫂を漕ぐ人
弓を持つ人が描かれている
鳥船塚古墳(とりふねづかこふん)
石室は破壊、奥壁の腰石2段を残すのみ
奥壁の1段目には
2個の靫と船、同心円文が描かれている
船は大きな櫂のある大型の船
人物が乗っており
帆を張る柱が2ヶ所
2段目には
鳥が船の艫と舳先に各1羽つづ止まっている絵が描かれている
古畑古墳(ふるはたこふん)
横穴式石室を持つ円墳
墳丘は2段築成
段築面には円筒埴輪が並んで
奥壁には三角文、人物、同心円文が赤色で描かれている
所在地
福岡県
うきは市
吉井町
富永653-2他
ー↓↑ーーー
横浜鎖港談判使節団=第2回遣欧使節=池田使節団
池田長発( 筑後守)正使
河津祐邦(伊豆守)副使
河田熙(相模守)目付
文久三年十二月二十九日~元治元年七月二十二日
(1864年2月6日~8月23日)
幕府がフランスに派遣した外交団
↓↑
1864年2月6日
フランス軍艦
ル・モンジュ号・・・文殊・文珠⇔「文殊菩薩」
↓↑ 711年(和銅四年)
法隆寺五重塔の
塑造群像に存在
文殊五尊図
文殊菩薩が
優填王・仏陀波利三蔵
善財童子・大聖老人(最勝老人=婆藪)
の四尊ともに描かれた絵図
↓↑ プラス・モンジュ駅(仏: Place Monge)は
フランス・ パリの5区にある
メトロ(地下鉄)7号線の駅
モンジュ=パン屋の屋号
フランス数学者の名前=ガスパール・モンジュ (Gaspard Monge)
著書に《画法幾何学》(1795)
↓↑ モンジュ (ミサイル追跡艦)
ル・モンジュ号
で日本出帆
上海、インド等を経由
スエズ~陸路でカイロ
ギザの
三大ピラミッド
スフィンクス
を見学し
写真撮影
地中海を通って
マルセイユ
に入港
↓↑
パリ
到着
皇帝ナポレオン3世に謁見
横浜の鎖港に関する交渉は
失敗
交渉を途中で打ち切り
5月17日(6月20日)
フランス政府とパリ約定を結び
一行は他の国には寄らず
同年7月22日(8月23日)に帰国
↓↑
咸臨丸・・・Screw(スクリュー)軍艦
幕府海軍保有の軍艦
バーク式の3本マスト
蒸気コルベット
旧名(オランダ語名)
Japan(ヤパン号・ヤッパン号・ヤーパン号)
「咸臨」=『易経』
君臣が互いに親しみ合うこと
↓↑
1855年(安政二年)7月
オランダ
キンデル ダイク・・・金出る大丘?
にて起工
キンデルダイク (蘭: Kinderdijk)
オランダの
南ホラント州
ニーウ・レッケルラント基礎自治体内の地区
ロッテルダムの南東約 13 km の位置
レク川
と
ノールト川に挟まれた風車設置地区
1857年(安政四年)
3月、完成
8月4日 (旧暦) 日本へ送られ
長崎海軍伝習所の練習艦となる
1860年(万延元年)
日米修好通商条約の批准書交換で
遣米使節団派遣の正使一行が乗艦する
アメリカ軍艦ポーハタン号の別船として
本艦も伴走派米
福澤諭吉らも便乗
米国派遣
↓↑
随伴艦として
幕府海軍の練習航海も兼ね
派米された
士官は
長崎海軍伝習所の教員がそのまま乗船
出発前に
「軍艦奉行」に昇進して遣米副使として
木村摂津守を除いて
艦内組織は未整頓で
教員の主席
「軍艦操練所教授方頭取」
「勝海舟」が先任士官として
運用の実質的責任者
対外的には
通訳の
「中浜万次郎(ジョン万次郎)」
「勝」が艦長
「木村」が提督
と説明・・・
↓↑
旧暦1月13日
品川を出帆
旧暦1月19日
浦賀を出港し
旧暦2月26日(太陽暦3月17日)
サンフランシスコに入港
往路は38日間の航海
荒天に見舞われ、艦の各所が破損し
日本人の乗員は疲労と船酔い
艦の運用は
ジョン・ブルック大尉指揮下の
アメリカ人乗員が代行
↓↑
復路
ハワイ経由
往路で同乗した
アメリカ人水夫のうち5名を雇った以外は
日本人のみでの運用
45日間の航海は好天
↓↑
小笠原派遣
1862年(文久二年)
艦長
小野友五郎・・・小野の友五郎?
小笠原諸島を巡視
父島と母島を探検
1866年(慶応二年)
故障頻発
蒸気機関を撤去し帆船となる
↓↑
1868年(慶応四年)
戊辰戦争
8月19日 (旧暦)
海軍副総裁
榎本武揚の指揮下で
旧幕府艦隊として
品川湊から
奥羽越列藩同盟の支援に向かう
8月23日 (旧暦)
銚子沖で暴風雨に遭い
榎本艦隊とはぐれ
下田港に漂着
救助に来た
蟠竜丸と共に清水へ入港
9月11日 (旧暦)
蟠竜丸は先に出航
咸臨丸は修理が遅れ
新政府軍艦隊に追い付かれ
乗組員の多くは戦死または捕虜
逆賊として放置された乗組員の遺体を
清水次郎長が
清水市築地町に埋葬
↓↑
明治二年九月
1869年10月~11月
咸臨丸は兵部省から民部省回漕方に交付
1871年(明治四年)9月19日 (旧暦)
片倉氏の旧臣401名を移住させる目的で
北海道小樽へ向け出航
輸送途中
北海道
木古内町
泉沢沖
で暴風雨(米人船長の操船)で遭難し
サラキ岬で破船、沈没
1887年(明治二十年)
清水次郎長が
清水市興津の
清見寺に
咸臨丸乗組員
殉難碑を建立
1984年(昭和59年)
サラキ岬沖で
鉄製の朽ちた錨が発見
錨は咸臨丸のものだった
↓↑
建造所 ホップ・スミット造船所
オランダ
キンデル ダイク市・・・金出る大丘?
ヘレフートスライス海軍工廠
運用 江戸幕府
艦種 コルベット
発注 1855年(江戸幕府)
起工 1855年
竣工 1857年3月(安政四年二月)
就役 安政四年九月五日受領
1871年 沈没
↓↑
1853年7月
嘉永六年六月
黒船来航
↓↑
「鳳凰丸」
Japanese warship Hou-Ou Maru. 1855 painting.
洋式軍艦
安政二年二月(1855年3月頃)
1853年(嘉永六年)に建造決定
建造 浦賀造船所
発注 江戸幕府
起工 1853年10月22日
竣工 1854年6月6日(安政元年五月)
戊辰戦争後
兵部省を経て
大蔵省所属に移管
↓↑
「旭日丸」
発注 江戸幕府・水戸藩
建造所 水戸藩石川島造船所
起工 1854年1月30日
進水 1855年
就役 1856年
水戸藩が建造
洋式軍艦
明治維新後
輸送船
本船建造で
石川島 造船所
が開設
↓↑
水戸藩
徳川斉昭
洋式船建造に関して
天保十二年(1841年)
「快風丸」の再建名目で
半洋式の大型船建造を企画
計画は幕府から許可が下りなかったが
同年に
「バッテラ(Bateira)」
と呼ばれる小型の洋式船2隻を
「那珂湊」で密造・・・
↓↑
小石川
の水戸藩邸でお抱えの蘭学者
「鱸半兵衛」・・・鱸の半兵衛?
を中心に
オランダの造船書などの翻訳
雛型(縮小模型)の製造が進められ
1853年11月30日(嘉永六年十月三十日)
雛型は
将軍
徳川家定
以下に供覧
↓↑
1853年12月12日(嘉永六年十一月十二日)
正式な建造命令
1854年1月30日(嘉永七年一月二日)
幕府直轄地
隅田川河口に
水戸藩が整備した
「石川島 造船所」で起工式
1855年
進水したが
着底して横倒しになり
オランダの書物を参考に
廻船や樽で浮力させ復元
江戸の町民たちから
「厄介丸」と揶揄された
後、横浜に回航されて艤装工事
約2年半後の
1856年6月頃(安政三年五月)に竣工
「旭日丸」と命名
↓↑
昇平丸
起工1853年5月
進水1854年4月
竣工1854年12月
薩摩藩が建造
洋式軍艦
幕府に献上され
「昌平丸」
と改称
薩摩藩主
島津斉彬
嘉永5年12月27日
幕府に対して
「琉球王国」の防衛を名目に
「琉大砲船(洋式軍艦)」の建造願いを提出
嘉永六年(1853年)4月29日
建造許可
5月29日
桜島
瀬戸村
造船所で起工
↓↑
嘉永六年(1853年)6月
アメリカ合衆国
マシュー・ペリー
アメリカ東インド艦隊が来航(黒船来航)
老中
阿部正弘
の主導で
8月8日
水戸藩に
「旭日丸」の建造
9月8日
浦賀奉行に「鳳凰丸」の建造を命じ
9月15日
大船建造禁止令を解除
↓↑
琉大砲船
嘉永七年(1854年)4月3日進水
安政元年(1854年)12月12日竣工
嘉永七年(1854年)5月10日
鳳凰丸に続いて
日本で
2番目の洋式軍艦
↓↑
琉大砲船
安政2年(1855年)1月26日
昇平丸と命名
2月
江戸に回航
8月13日
幕府に献上
後
品川
に置かれ
長崎海軍伝習所への
伝習生派遣など
練習艦として使用
↓↑
1854年(嘉永七年)3月
日米和親条約調印後
外国船と区別する標識が必要となり
日本国共通の船舶旗(日本惣船印)の必要が生じ
幕臣達は当初
「大中黒」
(徳川氏の先祖である
新田氏?の旗・白地に黒の横一文字)
を日本惣船印に考えていたが
薩摩藩主
島津斉彬
幕府海防参与
徳川斉昭
らの進言によって
「日の丸」の幟を用いることになり
7月9日
老中 阿部正弘
布告し
昇平丸に「日の丸」が船尾部に掲揚
日本の船旗として掲揚した第一号・・・
↓↑
浦賀奉行の提案で
徳川斉昭の支持を得て
鳳凰丸」竣工に際し日本船の総印として規定
「昇平丸」にも適用・・・
↓↑
明治二年(1869年)
「昌平丸」は
「咸臨丸」と共に開拓使所管となり
輸送船として使用
明治三年(1870年)3月
松前沖で嵐に遭遇
北海道の
上ノ国
木の子村
「猫澤」海岸
で高波により座礁破船
鳳凰=ホウオウ=法皇・訪欧・・・丸・〇・円・まる・麻呂・・・
ーーーーー
・・・???・・・「日の丸」・・・「月の丸」・・・
埃及(Egypt・エジプト)の「ウジャト」・・・
ウアジェト(Wadjet・ウジャト)=古代エジプト神話の女神・・・
「ウアジェトの目」
「ホルスが父オシリスの敵セトを討つ時に奪われた左目」
「ハヤブサの姿あるいは頭部を持つ天空神
ホルスの両目(「ホルスの目」)」
二つの目は区別され
左目(「ウアジェト(ウジャト)の目」)は月
右目(「ラーの目」)は太陽
ーーーーー
・・・邪眼・邪視・・・