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コジキジゲン

「我(われ・ガ)・蘇(よみがえる・ソ)」・・・ファラオ=パロ・・・

2017-10-31 23:15:08 | 古事記字源

 ・・・「JFK暗殺」・・・「暗殺の連鎖」・・・不都合な人間の抹殺・・・「古人大兄皇子(?~大化元年九月十二日・645年10月7 日)・古人皇子・古人大市皇子・吉野太子とも呼称・舒明天皇の第一皇子・(厩戸皇子の子?とも)・母は蘇我-馬子の娘、蘇我-法提郎女(ほほてのいらつめ)・大臣、蘇我入鹿と従兄弟・娘は倭姫王(天智天皇の皇后)」・・・「蘇我 善徳(敏達天皇九年・580年~?」、「蘇我蝦夷(用明天皇元年・586年~皇極天皇四年六月十三日・645年7月11日)、入鹿(推古天皇十八年・610年~皇極天皇四年・645年・6月12日)」と、「蘇方定(ソホウテイ)・592年~667年)」の履歴の重なりだが・・・586~667=87・・・59歳、35歳、75歳・・・幅を広げれば「蘇我馬子(欽明天皇十三年・551年~推古天皇三十四年五月二十日・626年6月19日」の「645-551=94」の重なる期間の「蘇 我≠蘇 定方」・・・「蘇生」・・・そして、高句麗の「淵蓋蘇文=センガイソブン=泉蓋蘇文=泉蓋金」・・・「泉(いづみ)の蓋(ふた)を採って蘇(よみがらせる)文(ふみ・あや・ブン)」・・・日本書紀の記録は「伊梨柯須彌(伊梨柯須弥=いりかすみ)」・・・「水源の霞み」?・・・
ーーーーー
 「我(われ・ガ)・蘇(よみがえる・ソ)」・・・
 蘇(そ)=古代の日本で作られていた乳製品
  ↓↑  相当に乾燥し長期保管に耐える
      加熱濃縮系列の乳加工食品
      酥とは同一の物では無い
      チーズとしての蘇(ソ)
      大般涅槃経の乳製品・・・涅槃(ネハン)
                  (ニルヴァーナ)
                  涅=氵+日+十+一
                  槃=舟+几+又+禾(ノ十八)
       nirvāa=吹き消すこと・吹き消された状態
       ニルバナ=似留花(把名・鼻・洟・塙)
            似る場名(地名)→蘇州・蘇聯 
       蘇聯=ソ連邦成立1922年12月30日
          露西亜革命1917年11月7日 
          日本承認=1925年1月20日
               1925年5月23日午前11時11分
               北但馬地震=但馬地震・M8
          米国承認=1933年11月
               1933年3月23日
               授権法(全権委任法)が成立
               1933年3月3日
               三陸地方地震・M8.1
      文武天皇が(700年)に
     「蘇」を税として全国で作るように
      使いが派遣
      典薬寮の乳牛院という機関が
      生産を担って
      薬や神饌としても使われた
      仏教祭事には
      蜜と混ぜられて使用・・・「蘇我+蜜蜂」
     「蘇は乳を煮詰めた
      乳製品で美味しいもの」・・・?
      『大般涅槃経』の記録の五味
      乳→酪→生酥→熟酥→醍醐・・・醍醐味(ダイゴミ)
      酥は醍醐の原料で
      蘇と酥は別もの・・・
      生産地
      摂津国・味原(あじふ)の
      乳牛牧
     (ちちうしまき、ちちゅうしまき)
      古代東国で牛が飼育され
     『延喜式』によれば
      東国すべての国で蘇を貢納
      蘇=牛乳を煮詰めたもの
      酥=牛乳を煮詰めるときに
        出る被膜(乳皮)を集めたもの
      蘇と酥が混同されるのは
      発音が同じであり
      乳製品が「涅槃経」の中で書かれ
      後世になって文献を本に
      復元された為・・・諸説・・・
      蘇酥同一・・・
      蘇をさらに熟成・加工して
      醍醐(チーズ様の乳製品)
      も作られた・・・
      cheese(チーズ)・・・
      地異圖・地位図・・・地位(置)圖→チズ(地図)
      地衣図
      高山帯の最高部で、
      地衣類や
      苔(コケ)類が生え・・・苔=コケ=虚仮・鱗・蘚
      高等植物は
      ほとんど生育しない地帯
      地衣類
      菌類と藻類の共生体・・・金類と毛類?
      地衣植物
      藻類と菌類との共生体
      菌類によって大部分が
      構成される地衣体を形成し
      岩石や樹上に生育する植物群
      地衣体が未分化で
      基物に固着するチズゴケ
      枝状のサルオガセ・リトマスゴケ
      葉状のイワタケ・カブトゴケ
      など
  ↓↑  ↓↑
 cheese(チーズ)
 独語 ケーゼ Käse
 仏語 フロマージュ fromage
 伊語 フォルマッジョ formaggio
 西語 ケッソ queso
 羅語 カーセウス caseus
 希語 チューロス τυρος
 希語 フェッタ Feta(山羊のチーズ)
 露語 スイール сыр
 露語 スゥイル сыр
 蘭語 カース KAAS
 ベンガル語 チャーナ(手作りのカッテージ)
 ヒンディ語 パニール(手作りのカッテージ)
 丁抹語 オスト ost
 諾威語 オスト ost
 瑞典語 オスト ost
 芬蘭語 ユースト juusto
 タミル語 パンニール (インドのチーズの一種)
 羅馬尼亜語 ブルンザ brânză
 波斯語 パニール پنیر
 愛蘭語 カーシュ cáis
 愛蘭語 カース cáis
 立陶宛語 スーリス sūris
 ヒンディー語 パニール पनीर
 捷克語 スィール sýr
 ヘブライ語 グヴィナー גבינה
 斯洛伐克語 スィル syr
 捷克語 シール sýr
 スワヒリ語 ジビニ jibini
 エスペラント語 フロマーヂョ fromaĝo
         カッテージチーズ
 捷克語 トゥヴァロフ tvaroh
  ↓↑
 「蘇 定方」も、・・・「蘇(よみがえる)=艹+魚+禾」
         類字は「蘚(こけ・セン)=艹+魚+羊」=苔
 「定方=テイホウ・ジョウホウ」だが、
 「定レ方」の「レ点」で訓読すれば
 「ホウテイ・ホウジョウ」で
 「よみがえる(蘇)」だろう・・・?
 「方定=ホウテイ=方綴・方程・法廷」・・・・方位・方角
 「ホウジョウ=法帖・豊饒・北條・方城・北城・方丈」
北城=ホクジョウ=北上→北帰行→松浦武四郎
                    北紀行・北帰航
        松浦武四郎=北海道へ六度渡来
        文化十五年二月六日
       (1818年3月12日)
   1818生年 戊 寅(己・丙・甲)
   0003生月 乙 卯(甲・ ・乙)
   0012生日 甲 戌(辛・丁・戊)申酉=空亡
         ~
        明治二十一年
       (1888年2月10日)
   1888没年 戊 子(壬・ ・癸)
   0002没月 甲 寅(己・丙・甲)
   0010没日 辛 亥(戊・甲・壬)
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 ・・・そして、蝦夷地に北上したのは「榎本武揚(えのもと たけあき・1836年10月5日(天保七年八月二十五日)~1908年(明治四十一年)十月二十六日)・元幕臣、明治維新政府官僚、海軍中将、正二位、勲一等子爵・通称は釜次郎・号は梁川(リョウセン)・異名は榎、釜を分解した夏+木+金+八(郎)」・・・
 四稜郭(シリョウカク)・・・「定方」?の稜郭
 箱館戦争の際に
 蝦夷共和国(箱館政権)が
 明治二年(1869年)
 北海道函館市に築城した堡塁
 新台場、神山台場、新五稜郭などとも呼ばれる
 五稜郭を援護する支城
 東照宮を守護する為に
 洋式築城法により築かれた
 建設監督は
 大鳥圭介、ブリュネ大尉
 ↓↑
 榎本武揚
 伊能忠敬の弟子であった幕臣
 榎本武規(箱田良助)の次男
 ↓↑
 生年1836 丙 申(己・壬・庚)
 生月0010 丁 酉(庚・ ・辛)
 生日0005 丙 子(壬・ ・癸)申酉=空亡
 ↓↑
 箱館戦争=五稜郭の戦い=己巳(キシ)の役
 慶応四年・明治元年~明治二年(1868年~1869年)
 戊辰戦争の新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘
 干支が「戊辰~己巳」に替わった
 ↓↑
 1868年12月4日、約3,000名が「鷲ノ木」に上陸
 1868年10月22日夜、峠下で戦端
 1868年10月26日、五稜郭へ無血入城
 ↓↑
 1868年12月15日、蝦夷地を平定し、箱館政権を樹立
 1868年 戊 辰(乙・癸・戊)食神 月支合金
 0012月 甲 子(壬・ ・癸)偏印 年三合水
 0015日 乙 亥(戊・甲・壬)印綬 年害
 ↓↑
 1869年 6月27日、箱館政権降伏
 1869年 己 巳(戊・庚・丙)傷官 支合水
 0006月 庚 午(丙・ ・丁)偏財 生日沖
 0027日 己 丑(癸・辛・己)傷官 支合火
 ↓↑
 没年1908 戊 申(己・壬・庚)食神・日三合
 没月0010 壬 戌(辛・丁・戊)偏官・月害
 没日0026 甲 寅(己・丙・甲)偏印・年沖
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 蘇我稲目(506年頃~570年3月22日)
 蘇我馬子(551年~626年6月19日)
 河上娘
 刀自古郎女(=河上娘?)
 蘇我-法提郎女・・・ナゼ、「法提郎女」なのか?
              「法廷牢序」?
          提=手にぶら下げる・提出・持ち上げる
            上に動かす・提昇
            引き出す・引き出して注目させる
            提起・提案・提供
            さげる・テイ・ダイ
            提琴・提携
            差し出す・持ち出す
            提案・提起・提供・提言・提示
            提出・提唱・前提
            先に立って引き連れる
        「提督→底度久御魂(そこどくみたま)」
            溺死の「猿田比古」 
 川堀
 杲安
 蘇我善徳(580年~?
 蘇我 倉麻呂(雄当)
 蘇我蝦夷(586年~645年7月11日)
 蘇我入鹿(610年~645年6月12日)
 ↓↑   ↓↑
      643年11月
      入鹿は斑鳩宮を襲い
      山背大兄王と
      その厩戸(馬宿・聖徳太子)の
      一族を滅ぼした
 ↓↑
 蘇 定方(592年~667年)
 本貫、冀州武邑県
 蘇邕の子
 ↓↑
  邕(ヨウ・ユ)
 蔡邕・・・蔡倫=宦官・字は敬仲
 (サイヨウ   ↓↑
  132~192年) ↓↑
 ↓↑      50年?~121年?
 ↓↑      紙の発明者
        「和帝」のとき・・・倭帝=ワテイ=倭綴
         尚方令(帝室技芸長官)
         元興一(105)年
         竹木簡、白絹などに代えて
         樹皮、麻頭、魚網、襤褸などから
         紙をつくり、和帝に献上
         初元一(114)年
         龍亭侯
         長楽太僕 (卿)
         安帝即位とともに
         帝の祖母を陥れたことで
 ↓↑      服毒自殺                
 建寧三(170)年
 「霊帝」の郎中
 東観で書物の校定
 熹平四(175)年
 「諸経の文字平定を奏請し
 みずから書して
 石に刻み太學の門外に建てた(熹平石経)
 董卓に召されたが
 董卓の誅死後、投獄され獄中で死亡
     ↓↑
     「董卓」をたよった
     「丁原」は
     董卓の策で部下の
     「呂布(?~198)」に殺され
     董卓は「王允」に唆された
     「呂布」に殺された
     呂布は「劉備」or「曹操」の軍に殺された
ーーーーー
  邕=巛+邑(口巴)=ヨウ・ユ・・・三く=くくく
   異体字=巛+口+囗           3×9=弐拾七(漆)
   周囲を川(巛)や堀で囲まれた都市
   ふさぐ・周囲を囲って封じ込める
   やわらぐ・なごむ
   ピンイン(Yōng)付属形態素
   川の名に用いる
   邕江=広西・チワン族自治区にある川の名
      広西チワン族自治区南寧の別称
      広西南寧の別称邕剧
      広西チワン族自治区の
      粤(えつ)語による地方劇
      邑(ユウ・オウ)=むら・くに・・・阝
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 邕=武帝(543年~578年6月21日)
      北朝北周の第三代皇帝
   武帝の諱は「邕(ヨウ)」
   姓は「宇文」
   西魏の
  「宇文 泰」の四男
   姓  宇文
   字  爾羅突
   諡号 武皇帝
   廟号 高祖
   生年 大統九年(543年)
   没年 宣政元年六月一日
      (578年6月21日)
   父  宇文泰(ウブンタイ)
   母  叱奴(口七女又)太后
   皇后 阿史那(アシナ)皇后
   側室 李皇后、庫汗姫
      馮姫、薛世婦
      鄭姫(北斉の南陽王-高綽の寡婦)
   子
   宣帝
   宇文贇・・・贇=斌(文武)+貝(目八)
          =イン・よし・すばらしい・美しい
   宇文贊(漢王)
   宇文贄(秦王)
   宇文允(魯王)
   宇文充(趙王)
   宇文兌(蔡王)・・・兌=八+兄=蔡王
              =かえる・よろこぶ・するどい
               ダ・タイ・エツ・エイ
               兌換・易の八卦の一
               沢・少女・秋
               方角で西
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 宇文 化及(ウブン カ-キュウ)
       宇文 化 及・・・宇宙の文化を及ぼす?
 隋の政治家、軍人
 隋末の混乱期に独立し
 皇帝を僭称
 「許」を建国・・・・・許=言+午(ノ一十)=うま=馬
                      宇摩合
 宇文智及・・・宇文智-及
 宇文恵及・・・宇文恵-及
 の兄、
 宇文士及・・・宇文士-及
 の異母兄
  ↓↑
 北周の
 左翊衛将軍
 宇文述
 の長男
 代郡
 武川鎮(内蒙古武川県)に生まれ
 長安で育った
 長安では「軽薄公子」と呼ばれ
 幼少の頃より
 楊広の寵愛を受け
 煬帝の即位後は
 太僕少卿に任じられた
 大業十二年(616年)
 父(宇文述)が死去
 右屯衛将軍に任命
  ↓↑
 大業十四年(618年)
 叛乱を避け
 江南の江都(揚州)に逃れ
 大興城へ帰還しようとしない
 煬帝
 に対し
 司馬徳戡・趙行枢・薛世良
 らによる反乱が計画
 「宇文化及」はその指導者に推戴された
 「宇文化及」は弟の
 「宇文智及」とともに
 「煬帝」を弑殺
 「煬帝」の弟である
 蜀王秀の子
 「秦王浩」を擁立し・・・「秦の王の浩(ひろい・おおきい)」
              ハタの王の浩(氵+告)
 自ら
 大丞相となり北上
 王世充・李淵・李密
 らの勢力に阻まれ
 長安に入ることはできなかった
 「宇文化及」は
 「楊-浩(秦王浩)」を毒殺し・・・陽侯氏→薩摩→島津
 魏県を根拠地として自ら
 皇帝に即位
 国号を
 「許」
 元号を
 「天寿」と定めた
  ↓↑
 天寿二年(619年)
 竇建徳に
 聊城で敗れ
 智及ら部下は処刑
 自らは子の
 宇文承基・・・承基・・・基を継承・承諾・承知
 宇文承趾・・・承趾・・・趾(足止)を継承
 とともに
 「襄国」に運ばれて斬首
 「化及」の首は
 突厥に嫁いだ
 「文帝」の宗室の娘である
 義成公主
 に送られた
  ↓↑
 武徳二(619)
 隋の反臣
 北周系の門閥
 宇文述・・・・宇の文を述(のべる)
 の長子
 隋末に各地で反乱が起ったとき
 「化及」・・・化して及ぶ
  は
 北帰を望む軍人らを率いて
 江都にいた
 煬帝を殺した
 「化及」は
 煬帝の甥
 「楊浩」
 を擁立して
 北帰しようとしたが
 途中で
 「楊浩」を殺し
 みずから帝位についた
 国を
 「許」と号し
 年号を
 「天寿」と称し百官を任命
 「竇建徳 (トウケントク)」
 と戦って敗れ、斬殺された
  ↓↑
 隋の貴族
 「煬帝」の殺害者
 「宇文化及」
  ↓↑
 父の
 「宇文述」
 は
 煬帝の寵を得て貴顕の地位に上った
 「宇文化及」も
 右屯衛将軍を授けられたが
 弟の
 「宇文智及」
 とともに非行多く
 軽薄公子とよばれた
 大業(605~616)末年
 煬帝は反乱情勢に阻まれ
 江都(江蘇省江都県)の離宮から
 動かず
 「宇文化及」
 は北帰を望む近衛軍の将兵に擁されて
 「煬帝」を殺し
 帝の甥
 「浩」を奉じて北上
 魏県(河北省大名県)で
 「浩」を殺し
 自ら即位し
 「許国」を建國したが
 「竇建徳(トウケントク)」
 に滅ぼされた
  ↓↑
 皇帝を僭称し
 「許」を建国
 宇文智及
 宇文恵及
 の兄
 宇文士及
 の異母兄
ーー↓↑ーー
 宇文元(荊王)=周武帝宇文邕的第七子=武帝
 武帝(ぶてい)=宇文邕
         北朝・鮮卑系の宇文氏が建国した
         北周の第三代皇帝
         姓は宇文
         諱は邕(ウオウ・ユ)
         西魏の実力者
         宇文泰の四男
         独裁の従兄
        「宇文護」を
         572年に誅殺、親政し
        「皇帝」号をやめ、
        「天王」を採用・・・「天皇」?
         578年
         陣中にて病を得て崩御
         皇太子の
        「宇文贇(宣帝)」が新たに即位
         ↓↑
         第三十代
        「敏達天皇」
         宣化天皇三年(538年?)
         ~
         敏達天皇十四年八月十五日(585年9月14日?)
         在位
         敏達天皇元年4月3日
         572年4月30日?
          ~
         585年9月14日?
         和風諡号は
         渟中倉太珠敷尊
        (ぬなくらのふとたましきのみこと)
         沼名倉太珠敷命
         別名、他田天皇
  ↓↑
 武帝=宇文邕
    突厥と同盟して北斉を攻撃
    儒教・仏教・道教
    に関する討論会を開き
    儒者・僧侶・道士の優劣を競わせた
  ↓↑
 天和七年(572年)
 地方から首都長安に戻った
 「宇文護」
 を誅殺し
 親政を開始
  ↓↑
 建徳三年(574年)
 道教と仏教をともに廃止
 仏教・道教の研究機関として
 通道観を設置
 120名の通道観学士を選任
 寺院の破壊と財産の没収
 僧侶の還俗を行って財産を没収
 税賦を逃れる目的で
 僧籍に入る者を還俗させて税を取り
 財政改善を狙った
 (三武一宗の廃仏)
  ↓↑
 建徳二年(573年)
 陳の
 宣帝
 陳頊
 が
 将
 呉明徹を遣わして
 北斉軍を討ち破り
 寿陽など江北の九郡を奪った
 陳の攻撃で弱った北斉に
 これらの富裕な土地を
 奪還する能力が欠如していると
 「武帝(宇文邕)」は
 建徳四年(575年)
 北斉への本格的な攻撃を開始
 建徳五年(576年)
 平陽と晋陽を奪い
 建徳六年(577年)
 首都の
 鄴を包囲
 北斉を滅ぼし
 北魏の東西分裂以来
 四十数年ぶりに華北統一
 武帝(宇文邕)は
 北斉の旧皇族である
 高一族や
 北斉の臣下たちに
 寛大な処置で臨み
 最後まで北斉に忠実だった者は厚遇
 李徳林
 は法律制度を整備するために重用
 旧北斉領内においても
 仏道二教の廃毀を断行
ーー↓↑ーー
 邕=武帝
 北朝北周の第三代皇帝
 武帝(宇文邕)
 周礼を理想
 鮮卑への復古も標榜する
 北周朝の政策に則って
 仏道二教を廃止
 武帝は、道教の外護者であり
 通道観においても
 道教の経典研究を行い
 道教典籍を編纂
 『無上秘要』という道教類書
  ↓↑
 宣政元年(578年)
 彭城で陳軍を破って
 呉明徹を捕らえた
 武帝(宇文邕)は呉明徹を
 懐徳公に封じ厚遇
 突厥に親征を企てたが
 罹病し、間もなく崩御
 享年36(満34歳没)
  ↓↑
 没後の仏教説話
 武帝の崩御後
 数種の説話伝承が流布
 廃仏皇帝の因果応報としての
 末路を示す伝説
 冥界説話や応報説話
 寿命のある人が
 誤って閻魔王のもとに送られ
 審判の結果
 その誤りが判明して
 蘇生し、見聞したさまを語った・・・
 武帝の話説によれば
 彼を煽動した
 衛元嵩は、閻魔王の管轄外にあって
 武帝の受けているような
 地獄での仏罰を受けていない
 三界をくまなく捜索しても、
 その姿を発見し得ない・・・
ーーーーー
 武帝の崩御
 皇太子の宇文贇(宣帝)が即位
 暗愚の息子・・・
 即位した宣帝は
 武帝を支えていた一族群臣を粛清
 即位の翌年
 579年
 皇太子の
 宇文闡(静帝)に譲位
 自らは
 天元皇帝と称した
 実権は外戚の
 随国公
 楊堅が掌握・・・
 580年
 宣帝は22歳で崩御
 8歳の静帝の下で
 楊堅は兵権を掌握
 隋王の称号を与えられ
 581年
 楊堅は静帝より禅譲を受け
 隋を建国
 北周は滅亡
 北周皇族の宇文氏は
 静帝を初めとして
 楊堅によって皆殺しにされた
 例外として
 虞国公の
 宇文興
 (宇文韜(宇文泰の祖父)
  の兄の
  宇文阿頭
  の孫、
  宇文仲
  の子)、
 宇文洛(字は永洛)
 父子の系統のみは許され
 唐に仕えて存続した・・・
ーー↓↑ーー
 「党錮の禁」
 166年(延熹九年)~169年(建寧二年)
 ・・・・宦官と儒教の学徒の官僚と対立し、官僚たちを党人と言い、党人が宦官によって禁固・・・
ーー↓↑ーー
 武内
 宿禰
  ↓
 蘇我
 石川(宿禰)
 満智
 韓子
 高麗
 稲目・・・武烈天皇八年
      (506年頃)
        ~
      欽明天皇三十二年三月一日
      (570年3月22日)
      財務に手腕を振るい
      王辰爾を遣わして船賦を数え記録
      諸国に屯倉を設置
 馬子   境部摩理勢・法提郎女・堅塩・小姉
 蝦夷   倉麻呂   古人大兄皇子
 入鹿   倉山田石川麻呂・赤兄・連子・日向・果安
      姪娘
      元明
 ↓↑
 兄=あに=昆・豈・詎・晜・阿似・阿爾・阿仁・王仁
          詎=キョ・ゴ・なんぞ
          晜=兄
            昆(晜)孫の子(七代後)
 玄孫(やしゃご)・・・曾孫の子(四代後)
 来孫(らいそん)・・・玄孫の子(五代後)
 昆孫(こんそん)・・・来孫の子(六代後)。晜孫
 仍孫(じょうそん)・・・昆(晜)孫の子(七代後)
 雲孫(うんそん)・・・仍孫の子(八代後)
 ↓↑
 晜孫(昆孫)=本人を1世とすれば
           7世(6代後)の末裔
  ↓↑
 藤原不比等に嫁ぎ
 武智麻呂、房前、宇合の三男を儲けた
 母親
 蘇我 娼子(そがのしょうし・そがのまさこ)
 蘇我 媼子(そがのおんし・そがのおうなこ)
 「娼子=媼子」は同一人物
  ↓↑
 蘇我氏の血縁
 持統天皇(大叔父
      蘇我倉山田石川麻呂の外孫)
 に不比等が取り立てられ
 後年
 藤原仲麻呂が
 石川年足を取り立てたのも
 彼女の血縁による・・・
 蘇我氏(石川氏)自体は
 天武天皇の皇統断絶
 女系で藤原氏を通し
 血統(蘇我氏)を伝えたのは
 蘇我稲目の娘の
 蘇我堅塩媛
 蘇我堅塩媛―桜井皇子―
       吉備姫王―皇極天皇―天智天皇…
  ↓↑
 「娼子=媼子」の
  ↓↑
 父は蘇我連子=蘇我連子(そがのむらじこ)
        推古天皇十九年(611年)?
         ~
        天智天皇三年(664年5月)
        名前は連=むらじ=武羅自・牟羅志
        氏姓=蘇我朝臣
        蘇我倉麻呂(蘇我雄正)の子
 母は未詳
 兄は蘇我安麻呂
 夫は藤原不比等
 長男は藤原武智麻呂
 次男は藤原房前
 三男は藤原宇合(馬飼)
  ↓↑
 藤原馬飼(宇合・宇摩合)
 霊亀二年(716年)八月
 第九次遣唐使の
 遣唐副使
 (遣唐押使は多治比県守)
 (遣唐大使は大伴山守)
 霊亀三年(717年)六月~七月ごろ入唐
 十月に長安到着
 養老二年(718年)十月
 遣唐使節一行は九州に帰着
 養老三年(719年)正月に復命
 藤原宇合は
 正五位上に昇叙
 遣唐使節としての入唐を通じ
 「馬養」から「宇合」に改名・・・
  ↓↑
ーーーーー
 蘇 定方
  ↓↑
 660年
 熊津道大総管
 百済征討で
 城山から海をわたって
 熊津口に上陸
 真都城に進軍
 百済義慈王・・・孝、泰、隆、演、豊璋
         勇(百済王善光・帰化)
         などの6人の王子
         他、庶子41人
         父親、武王の死により即位
         唐から
        「柱国・帯方郡王・百済王」の称号
 と
 太子の隆
 は一旦
 北方に逃走
 泗沘城を包囲
 義慈の子の泰が抗戦しようとしたが
 義慈王は開門して降伏
 百済の将軍の
 禰植と義慈は唐軍に降り
 泰も捕らえられ
 百済王義慈・隆・泰
 らは
 東都洛陽に送られた
ーー↓↑ーー
 百済
 義慈王は
 ↓↑
 黄帝の子の
 少昊・・・少昊(ショウコウ)
      中国古代の五帝の一人
      姓は己
 金天氏・・氏は金天氏
     (鳳鳥氏・青陽氏・窮桑氏・雲陽氏)
      とも称す
      名は摯(シ・鷙・質)、玄囂
      号は「昊(皞・皓・顥)」とも
     「朱宣・少昊(太昊の徳行継承による)」
 の
 子孫である
 ↓↑
 新羅軍に
 649年8月
 道薩城(忠清北道槐山郡)付近で大敗
 651年
 唐に朝貢した折
 高宗から
 新羅との和睦を進める璽書を送られた
 後も新羅との争い
 655年
 高句麗・靺鞨と組んで
 新羅の30城を奪った
 驕慢になった義慈王は
 酒色に走り朝政を顧みなくなった・・・
 これを諫めた
 佐平の成忠(浄忠)を投獄
 660年
 唐の高宗は
 蘇定方に大軍13万を与え
 新羅の
 武烈王・金庾信
 の軍5万と連合(唐・新羅の同盟)し
 百済を征討
 百済軍は
 白江(錦江の支流)に
 迎撃したが大敗
 唐・新羅軍が首都の
 泗沘城(忠清南道公州市)まで迫ると
 義慈王はいったん
 太子(隆)とともに北方へ逃亡
 百済王の第2子の
 泰が自ら王を名乗って
 泗沘城を固守したが
 太子の子の
 文思が隆に相談し
 唐軍が去ったとしても
 自立した泰に害せられることを恐れて投降
 泰も開城して投降し
 逃げのびていた義慈王も諸城をあげて降伏
 百済は滅んだ
 義慈王は妻子とともに長安に送られ
 その年のうちに唐で病死
 「金紫光禄大夫・衛尉卿」
 の爵号を贈られ
 洛陽市かその近くに葬られた
 隆には
 司稼卿
 の爵号が贈られた・・・
 ↓↑
 百済滅亡後
 豊璋が倭国の軍事援助で
 復興戦争
 白村江の戦い(663年)で大敗
 唐は
 百済旧領に
 熊津都督府を置いて
 羈縻州としたが
 百済遺民を慰撫するため
 665年
 義慈王の王子の
 扶余隆を
 熊津都督
 百済郡公
 熊津道総管
 兼
 馬韓道安撫大使
 として
 旧百済王城の
 熊津城に入れ
 その統治に当たった
 後、新羅の勢力が強くなり
 都督府は撤退
 高句麗、百済の地は
 新羅、渤海、靺鞨
 に分割され
 百済の影響は
 朝鮮半島から完全に消滅
 677年2月
 唐は扶余隆の封爵を
 かつての
 百済国王と同じ
 光禄大夫
 太常員外卿
 熊津都督
 帯方郡王
 に格上げし
 熊津都督府を回復しようとしたが
 既に百済旧領は
 新羅領となっており
 隆は熊津城に帰ることが出来なかった
 682年
 隆は洛陽に没し
 輔国大将軍の爵号を追贈
 武則天が
 隆の孫の
 扶余敬に
 衛尉卿を授けて
 帯方郡王に封じたが
 旧領の回復は全く出来ず
 子孫も断絶した
 1920年
 扶余隆の墓誌が洛陽で出土
 中国正史や『三国史記』
 等には記載されていない
 隆の経歴や爵号、生没年などが判明
ーーーーー
 善徳女王(ゼントコジョオウ)
 647年2月17日(旧暦1月8日)
 新羅の第27代の王
 在位、632年~647年
 新羅初の女王
 姓は金
 諱は徳曼
 真平王の娘
 母は金氏の
 葛文王、福勝の娘の
 摩耶夫人
 王配は
 水月
 葛文王
 朴欽飯
 3人姉妹(三国史記では長女
      三国遺事、花郎世記では次女
     で、男兄弟はいない)
 632年1月
 先王死去したときに男子がなく
 父母ともに
 王族である聖骨の男子がいなく
 徳曼が
 呪術者的性格・・・鬼道?・・・三つの「予言」
 に期待され
 王位を継いだ
 即位して後に
 聖祖皇姑の号を
 国人?
 から奉られた
ーーーーー
 ・・・???・・・

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参拾六・J・F・ケネディ・1963年11月22日・・・十一=壱拾壱・・・二十二=弐拾弐=念弐

2017-10-28 23:20:36 | 古事記字源

 ・・・昼間に殺されても「暗殺(Assassination)」「アサシン(Assassin)=暗殺者・暗殺団・刺客」・・・日本語的漢字なら「朝臣(あさシン・あさのおみ・チョウシン)」で、「阿佐(沖縄県島尻郡座間味村)の臣・安佐(広島県安佐郡に存在した町)の臣・厚狭(日本国山口県西部の地名・厚狭郡厚狭町)の臣」、「麻の麻績(おみ)」だけれど・・・「阿佐-東線(あさ-とうせん)=徳島県海部郡海陽町の海部駅から高知県安芸郡東洋町の甲浦駅に至る阿佐海岸鉄道の鉄道路線」・・・「麻績(おみ=麻續、麻続)=長野県の地名・信濃国筑摩郡麻績郷・麻績宿(おみじゅく)、善光寺街道(北国西街道、善光寺西街道)の宿場・麻績村の前身、麻績城、麻績村にあった城・長野県東筑摩郡(中信地区の村)・麻続王=麻積王(おみのおう・7世紀末の皇族・麻積郎女(継体天皇の妃)」、「麻績=おみ=をみ=麻(お)を細く裂いて、撚(よ)り合わせて糸にすること、それの職人・青麻(あおそ)を績(つ)むこと」・・・
 「フィッツジェラルド(FitzgeraldもしくはFitzGerald)は、英語圏の姓の一つ・Fitz-は元来ノルマン人が用いた~の子(特に王や貴族の庶子)を意味する接頭辞・フィッツジェラルド家 (Fitzgeralds). アイルランドの貴族・キルデア伯爵家と分家のデズモンド伯爵家の二家」・・・「第十代キルデア伯トマス・フィッツジェラルドがイングランド国王ヘンリー8世に対して反乱(絹衣のトマスの乱)を起こしたが敗れ、滅亡」・・・「絹衣のトマス」って布の種類?、「ギャバジン(gabardine・gaberdine)・通称ギャバ、綾織物の1つで、縦糸が横糸より2倍程度、密に織られ、斜文の方向が45度以上と急角度が特徴で、綾目がくっきりしている斜文織物。裏面は、比較的フラットである。ギャバジンは、イタリア語gallederdine・中世に着た、丈の長い、ゆったりした上っ張り、緩やかな形の外套、労働着。語源は中期高地ゲルマン語の放浪者、巡礼者(wallevart)からで、古フランス語gauvardine、スペイン語gabardineになった。僧侶や巡礼者、ユダヤ人が着た長コートで、16世紀に英語に入ったもの。19世紀末頃、イギリスのトマス・バーバリーが綿織物に防水加工した生地やコートをギャバジンとして登録して発売してから、ギャバジンは広まり、ギャバジンをバーバリーということもあるが、バーバリーはギャバジンよりさらに細い糸で密に織られている斜文織をいい、特殊な防水加工施したもの・・・」

 第35代大統領ジョン・F・ケネディ
 1963年11月22日・・・十一=壱拾壱・・・二十二=弐拾弐=念弐
 パレードの最中に暗殺
 2017年10月26日
 期限として、
 すべての
 「ジョン・F・ケネディの暗殺文書」
 を公開・・・まだスベテが公開されていない・・・
 ジョン・フィッツジェラルド・
 ジャック"・ケネディ
 (John Fitzgerald "Jack" Kennedy)
 1917年5月29日~1963年11月22日
 第35代アメリカ合衆国大統領
 在任中
 テキサス
 ダラス
 北緯32度46分48秒 西経96度48分00秒
 1963年11月22日現地時間12時30分(22日03時)
       ダラスとの時差 前日戊辰
 暗殺(明殺)
 マサチューセッツ州との時差 前日庚午
 ↓↑
 生年1917 丁巳(戊・庚・丙)
 生月0005 乙巳(戊・庚・丙)
 生日0029 辛未(丁・乙・己)戌亥=空亡
 ↓↑
 没年1963 癸卯(甲・ ・乙)
 没月0011 癸亥(戊・甲・壬)
 没日0022 己巳(戊・庚・丙)戌亥=空亡
 没時1230 庚午(丙・ ・丁)
 ↓↑
 命式干支 
   丁 巳(戊・庚・丙)年   
   乙 巳(戊・庚・丙)月    
   辛 未(丁・乙・己)日 戌亥    
   戊 子(壬・ ・癸)時 ?
   甲 午(丙・ ・丁)時 ?
 命式支 ↓↑  
 偏官丁・巳(印綬・劫財・正官)・・死
 偏財乙・巳(印綬・劫財・正官)・・死
 比肩辛・未(偏官・偏財・偏印)・・衰
 ?   ? ?
     刑冲(己)生日×大運
 大運37~47歳
 比肩辛・丑(食神癸・比肩辛・偏印己)
 1963
 年運
 食神癸 卯(甲・ ・乙)年
 11     正財  偏財
   生日未三合乙
 食神癸 亥(戊・甲・壬)月
 22     印綬正財傷官
   生日未三合乙
 偏印己 巳(戊・庚・丙)日
 12     印綬劫財正官
 劫財庚 午(丙・ ・丁)時
       正官  偏官
   生日未支合丙
ーーーーー
 ・・・???・・・

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史(ふみ)勿(なかれ)国(くに)=無文字の國?

2017-10-27 22:56:40 | 古事記字源

 「大陸中国が
  前漢王朝時代
  朝鮮半島は
  三韓時代
  半島南部の泗川一帯には
  弁辰十二ヵ国の一派の拠点
  200年(後漢末~三国志時代)ころに
  浦上八国の一つの
  史勿国(シコツコク)があった」
 ・・・支笏湖・・・笏(コツ→シャク)・笏拍子
   (しこつこ) 笏=竹+勿=古代大臣
    ↓↑      上朝拿着的手板
    ↓↑      用玉、象牙或竹片制成
    北海道千歳市にある淡水湖
    日本最北の不凍湖
   「アイヌ語・シ・コッ=大きな窪地」に由来    
    松前藩は「志古津(漢字表記)と呼んでいた
    支笏湖=「シコツ川(千歳川)の水源の湖」
   「シコツ・トー」と呼び、改まった場合に
   「シコテムコ・エアン・パラト」
   (シコツ川の・水源・そこに・ある・広い湖)
    と称えていた・・・
   「志古津=シコツコ=死骨湖」の表記が
    1805年(文化二年)に
   「支笏湖」の地名に改名・・・?
 ↓↑
 ・・・史(ふみ)勿(なかれ)国(くに)=無文字の國?
 「浦上八国=金官伽倻国家(狗邪韓国)
  の総称で、
  泗川、巨斎島一带の
  骨浦国・漆浦国・古史浦国▫史勿国▫保羅国」・・・
 「保羅国・古自国・史勿国。
  保羅国・古自国は慶尚南道固城郡
  史勿国は
  慶尚南道
  泗川市に比定。
     勿稽子」
     勿稽子?
      稽=禾尤ヒ日=とどまる・かんがえる
      引きとめる・とどまる
      稽留・稽古・滑稽(コッケイ)・不稽
      無稽・頭を地につける・稽首
      会稽(会計)の恥
      会稽の東=計其道里
           當在
           會稽
           東冶之東=緯度33度→阿蘇山頂・横島
 ↓↑
 これら小国群も
 百済と新羅による侵攻を受け
 泗川地域は
 百済の勢力圏に組み込まれた
 512年
 4県を
 倭が百済へ割譲
 532年
 南部の金官国が
 新羅に滅ぼされ
 562年
 洛東江流域の
 任那諸国が
 新羅に滅ぼされた
 ↓↑
 新羅が
 660年に
 百済を滅亡させ
 史勿県と
 昆明県の
 東西二つの行政区に分割管理
 新羅によって統一された後
 757年
 唐王朝の統治制度が導入
 泗水県・・・泗の水を懸(かける)
       泗水=中国山東省を流れる河川、泗河の古名
          泗水国・泗水郡・泗水の流域にあった
          古代中国の諸侯国
          泗水県=山東省済寧市の管轄下の県
          泗水町=熊本県
              菊池郡にあった町
 となり
 固城郡・・・大韓民国慶尚南道の南部
       固城→湖上の琿(群・君→訓)?
             琿=グン・コン・ゴン・キ
 に属した
 ↓↑
 高麗時代
 940年
 地名が
 昆明県・・・昆明に懸(かけ)る
       昆明=中国雲南省の省都
       昆明市=省名は雲嶺
       四川省との境の山地の南・石林で有名
      (ベトナム・ミャンマーへの交通の要地)
       昆明無差別殺傷事件(2014年3月1日21時20分)
 へと改名
 995年
 10道の1つであった
 山南道の
 晋州牧使・・晋州城攻防戦=文禄の役の2回の攻城戦
       第一次攻防戦
       半島の晋州城(チンジュソン・晋州市)を
       敗走した
       柳崇仁は後方の晋州城へ入ろうとするが
       部下で、守将の
       晋州(もくそ=当字は木曽?=モックサ)
       牧使
       金時敏は
       日本軍の突入を怖れて城門を開く事を拒否
       柳崇仁は城外で日本軍との野戦で戦死
 の管轄下に帰属
 1015年
 泗洲県が新設
 1018年
 河東郡
 晋州牧の管轄下に組み込まれた
 1172年
 西部地域に
 最初の監務(県監)が設置
 ↓↑
 熊川(浦萕)→鎮海→泗川→昆陽→河東・・・カトウ=加藤?
 ↓↑
 高麗滅亡
 李氏朝鮮が建国
 1413年
 泗洲県
 が
 泗川県へ改名
 改めて監務(県監)が設置
 1415年
 倭寇襲来対策
 泗川鎮鎮兵馬使
 兼
 判県使
 が新設される。
 1419年
 南海県と昆明県が合併、昆南郡へ昇格
 1423年
 兵馬節制使が導入
 1430年
 昆陽県城に
 1445年に
 泗川県城(宣仁里)に
 それぞれ土壁の城壁が建造
 新羅時代からあった
 県役所(監務・県監)
 と住民らの居住区を囲む形で城壁が設置
 朝鮮式邑城誕生
 1468年
 泗川鎮へ改編
 泗川邑城内に
 県監兵馬節制使
 兼
 県監
 が新設
 李朝末期の
 1895年
 八道制が廃止
 全国23府制となり
 昆陽郡と合併された泗川郡は
 晋州府の管轄下に帰属
ーーーーー
 ↓↑
 文禄・慶長の役・・・韓国では「壬辰・丁酉の倭乱」
 ↓↑
 文禄元年=万暦二十年
      宣祖二十五年
     (1592年)
  ~
 文禄二年(1593年)
 ↓↑
 慶長二年(1597年)
 講和交渉決裂
 慶長の役
 慶長三年
 万暦二十六年
 宣祖三十一年(1598年)
 ↓↑
 太閤豊臣秀吉の死
 日本軍撤退で終結
ーー↓↑ーー
 泗川新城
 朝鮮軍は
 日本軍が新築した倭城を
 泗川新塞と呼称
 ↓↑
 平山城
 北、西、南を
 海に囲まれた天然の要害
 数千もの船舶が停泊できた
 陸続きの部分は
 東面のみ
 石垣が積み上げられ
 外側には3重の防護柵
 堀として海水が引かれた
 城郭の郭は
 本丸、二の丸、三の丸、外郭の4重構造
 長曾我部元親、中川秀成、池田秀氏
 毛利吉成、伊東祐兵、秋月種長
 高橋元種、相良頼房、島津豊久
 軍監であった
 垣見一直らが築城を担当
 1597年10月29日に着工
 12月27日に完成
 ↓↑
 後、
 島津義弘
 が守備を担当
 9月下旬
 島津軍の
 泗川一帯での激戦の最中
 西隣の
 順天城
 に籠る
 小西行長軍にも
 6万の明・朝鮮連合軍が迫った
 十月一日の
 泗川の大敗北を知らないまま
 明・朝鮮連合軍は
 十月二日に
 順天城への総攻撃を開始
 大量の鉄砲による
 日本軍の迎撃を受け
 五日間におよぶ攻城戦で
 膠着状態
 秀吉の死で
 双方は休戦協定
 籠城する
 小西行長軍は撤退をはかるも
 十一月中旬になっても
 朝鮮、明水軍は海上封鎖を解除せず
 日本軍は
 順天湾に閉じ込められ
 巨済島の
 日本水軍は総力をあげて
 順天城守備軍の救出作戦を決行
 「新城=泗川新城」より
 島津義弘軍も援軍として順天へ向かった
 この島津軍が
 「李舜臣」を討ち取った・・・
 順天城の攻防戦
 「露梁海戦」・・・慶長三(1598年)十一月十八日
          無血撤退の双方合意で
          撤退しようとした
          順天城守備の
          小西行長らに対し
          合意を無視し
          明・朝鮮が攻撃
          島津軍を中心の日本軍が救援
          小西行長軍は
          巨済島への撤退に成功
 が「李 舜臣」が戦死
 「朝鮮の役」の最後の戦闘となった
ーー↓↑ーー 
 文禄・慶長の役・・・韓国では「壬辰・丁酉の倭乱」
 ↓↑
 文禄元年=万暦二十年
      宣祖二十五年
     (1592年)
  ~
 文禄二年(1593年)
 休戦
 ↓↑
 慶長二年(1597年)
 講和交渉決裂
 ↓↑
 慶長の役
 慶長三年
 万暦二十六年
 宣祖三十一年(1598年)
 太閤豊臣秀吉の死
 日本軍撤退で終結
 ↓↑
 文禄元年への改元は
 十二月八日
 (グレゴリオ暦1593年1月10日)
 に行われ
 四月十二日の
 釜山上陸で始まった
 戦役初年の
 1592年のほとんどの出来事は
 天正二十年の出来事
 ・・二十=弐拾=念・・・
ーー↓↑ーー
 663年・白村江の海戦
  ↓↑
 「白村江=錦江=熊川=泗川」=「白馬江」
 「白い村」は
 「白色=白雪・白州=しらす=白砂」
           知らす=曰(いわく)
 「錦江(きんこう、クムガン)=熊川(くまがわ)」
  にしきえ          ユウセン
          クムガン =クマガワ
  ↓↑
 「錦江は大韓民国南西部の主要河川
  全羅北道長水郡の
  小白山脈に端を発し
  全羅北道・忠清北道・忠清北道と
  大田・・・大田(テジョン)広域市←忠清南道に属
       西に「鶏龍山(ケリョンさん)」
       同名の山は
       巨済島=瀆盧国
       の中央部に
      「鶏龍山(ケリョンサン)」として存在
       巨済島付近の海上で
       玉浦海戦
       巨済島海戦(漆川梁海戦)
       閑山島海戦
       が戦われた
  の
  道市境・忠清南道を通ったのち
  忠清南道と全羅北道の道境を流れ
  群山
  と
  舒川の市郡境で
  黄海に注ぐ」
  ↓↑
 「倭水軍=隋残党亡命水軍+百済水軍
       +
 「筑紫君薩夜麻(つくしのきみさちやま)=薩野馬とも表記」
  筑紫の君=「俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌」
       俀王の姓は阿毎
          字は多利思北孤
          號は阿輩雞彌(おほきみ)
          妻は雞弥(きみ)・・・
       聖徳太子は
       推古六年(598年)
       菩岐 岐美   郎女
      (ほき きみ の いらつめ)
       と結婚・・・
 「薩夜麻=さやま=薩野馬・・・薩摩」
 「島津(薩摩)水軍=鹿児湾水軍=錦江湾水軍」
  ↓↑
 「白村江の戦い」で戦死
  天智二年八月二十八日
  (663年10月5日)
  ↓↑
  朴市 秦    田来津
 (えち はた の たくつ
  不詳~天智天皇二年八月二十八日
        (663年10月5日)
  ↓↑
  安曇 比羅夫(安曇山背)
  662年
  倭の人質であった
  百済王子、豊璋
  と
  水軍170隻を率いて百済に渡った
  後、「大錦中」に任じられた・・・大の錦の中?
  長野県
  安曇野市の
  穂高神社に
  安曇連比羅夫命として祀られる・・・?
     比(くらべる)
      羅(あみ)
       夫(おっと・フ)
        命(みこと・いのち・メイ)
  先祖
  阿曇磯良(あづみのいそら、安曇磯良、磯武良とも書く)
  阿度部磯良(あとべのいそら)
  石清水八幡宮の縁起(八幡愚童訓)
  に
 「安曇磯良と申す志賀海大明神」とあり
  志賀海神社(福岡市)の祭神であった
 「神功皇后が三韓征伐で新羅出兵の際
  阿曇磯良に協力を求め、承諾して皇后を庇護」
 「細男の舞=神功皇后が舞わせたところ、
       貝殻のついた醜い顔を
       白布で隠した磯良が現れた
       白布の覆面姿の男たちが舞う」
  現在は
 「綿津見(わたつみ)」三神を祀る・・・
  綿津見=錦津見?・・・綿(もめん)=錦(にしき)
  志賀海神社は古代の創建以来、
  阿曇氏が祭祀を司っている
  ↓↑
  氏は秦、朴市
  姓は造
  大花上・秦河勝
  の子(系図有)
  朴市 秦    田来津
 (えち はた の たくつ)
 渡来系氏族の
 秦氏の一族?・・・陽侯氏も秦氏も
          隋王朝の残党だろう? 
 近江国
 愛智郡
 に移り地名を冠して
 朴市秦と名乗ったと考えられる
 愛智=えち=朴市(十八ト亠巾)?・・・重位置?
 延暦年間(782年~806年)
 「依知秦公(えちはたのきみ)」
 と記された木簡が発見された
 上蚊野古墳群(愛知郡秦荘町大字上蚊野)
 は
 「依智(依知)秦」氏の居住地
 古墳時代後期における
 渡来系氏族の居住が契機となって
 本格的な群集墳を造営した・・・
  ↓↑
 阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ)
 生没年不詳
 氏姓は阿倍引田臣
 冠位は大錦上
 越国守・後将軍・大宰帥
 を歴任
 斉明天皇四年(658年)から三年間
 日本海側を北海道までを航海
 蝦夷を服属させ
 粛慎と交戦
 父は阿倍目or阿倍浄足
子は宿奈麻呂、引田広目、安麻呂、船守
 阿倍氏宗家(阿倍御主人の布勢氏)
 阿倍引田臣
 ↓↑
 阿倍 比羅夫
 斉明天皇四年(658年)四月
 蝦夷に遠征
 降伏した
 蝦夷の
 恩荷・・・齶田(秋田)で迎え、朝廷へ服属
      小乙上の冠位を与えられた
 を
 渟代・津軽二郡の郡領(長)に定め
 有馬浜で
 渡島の蝦夷を饗応
 生きている
 羆(ヒグマ)二匹・・・羆=網(罒・横目・余拠目)+熊(能火)
 羆(ヒグマ)の・・・・羆=網(罒・横目・余拠目)+熊(能火
 皮七十枚を献上
 斉明天皇五年(659年)三月
 蝦夷国を討つ・・・蝦夷=蝸牛・海老・蝦蟇・・・洟垂
          夷=一+人+弓=えびす・えみし・えぞ
                 恵比須・恵美子・重蘇
 阿倍比羅夫=官位は「大錦上」=大(おほ)の
                錦(にしき)の
                上(うえ・かみ・ジョウ)
 は
 一つの場所に
 飽田・渟代二郡の
 蝦夷241人とその虜31人
 津軽郡の
 蝦夷112人とその虜4人
 胆振鉏の
 蝦夷20人
 を集めて饗応し禄を与える
 後方羊蹄・・・語法(誤報)・要諦
     ・・・後志(しりべし)幼帝
 に郡領を置く
 粛慎(シュクシン・みしはせ・あしはせ)
 と戦って帰り
 虜49人を献じる
 斉明天皇六年(660年)三月
 粛慎を討つ
 比羅夫は
 大河(石狩川、or 後志利別川)
 のほとりで
 粛慎に攻められた
 渡島の蝦夷に助けを求められ
 比羅夫は粛慎を
 幣賄弁島(へろべのしま=樺太 or 奥尻島)
 まで追って彼らと戦い
 能登(のと)馬身龍(まむたつ)?
       noteの「バシンリュウ=葉晋留」?
 が戦死するが
 これを破る
 斉明天皇六年
 (660年)
 五月・・・660年、百済滅亡
 ↓↑   唐の蘇定方将軍
      熊津道大総管となり
      城山から渡海し
      熊津口に上陸
      沿岸の百済軍を撃破し
      真都城に進軍
      百済、義慈王の太子の
      隆は高句麗に逃走
      泗沘城は包囲され
      義慈の子の
      泰が王を称し
      抗戦を続けようとしたが
      義慈は開門、降伏
      百済将軍の
      禰植と義慈は唐軍に降り、泰も捕らえられ
      百済滅亡
      百済王義慈や隆・泰らは東都洛陽に送られた
 ↓↑   ↓↑
      蘇定方(592年~667年)・・・・「蘇・我」氏?
      名は烈・字は定方・諡を荘
      本貫は
      冀州武邑県・・・キシュウ・ブユウ・懸
      父は
      蘇邕
      隋末に
      蘇邕は郷里の数千人を率いて
      劇県の叛乱軍の
      張金称・楊公卿らを撃破
      定方は15歳で父の下で従軍
      後
      竇建徳の部将の
      高雅賢の養子になった
      657年
      蘇定方は
      伊麗道行軍大総管に抜擢され
      西突厥の王(可汗)
      「阿史那賀魯(あしな がろ・あしだ かろ)
       阿史那劫越の子
       可汗号は
       沙鉢羅可汗(イシュバラカガン)」
      と戦い、
      石国に逃れた可汗を拘束
      功績により
      左驍衛大将軍に任ぜられ
      邢国公に封ぜられた
      子の
      蘇慶節も
      武邑県公に封ぜられた
      659年
      蘇定方は
      遼東道行軍大総管
      平壌道行軍大総管
      高句麗の軍を
      浿江で破り
      馬邑山の敵営を陥落させ
      平壌を包囲
      大雪で包囲を解いて帰還
      涼州安集大使に任ぜられて
      吐蕃や吐谷渾とも戦った
      667年に76歳で死去
      高宗は、
      左驍衛大将軍・幽州都督の位を追贈
      高句麗は
      武将・淵蓋蘇文の死後、内部紛争
      668年11月・・・十一月・・・
      新羅と唐の連合軍に滅ぼされた
      「百済」と「高句麗」は
      同族の祖先の「扶余」族
      「新羅」は「倭」と同族か?・・・
      ・・・「燕・遼・女真」もみんな同族近親?
 ↓↑      
 蝦夷50人余りを献じる
 粛慎の37人を饗応・・・?
 白村江の戦い
 662年
 中大兄皇子(天智天皇)の命で
 征新羅将軍として
 百済救援のために
 朝鮮半島に向かった
 663年
 新羅と唐の連合軍に
 「白村江の戦い」で敗北・・・
  ↓↑
 天智十年(671年)十一月十日
 「沙門 -道久(ドウク)
  筑紫君-薩野馬(さつやま・さやま)・・・さつま
  韓嶋 -勝裟婆(かっさば・すぐりさば)
  布師 -首-磐(いわ)」
  ↓↑
 壬申の乱
 天武天皇元年六月二十四日~七月二十三日
 (ユリウス暦 672年7月24日~8月21日)
  ↓↑
 持統四年(690年)十月二十二日
 「土師-連-富杼(ほど)→意富富杼王(おお-ほど-の-おおきみ)
  氷 -連-老(おゆ・おひ)
  筑紫-君-薩夜麻
  弓削-連-元寶の兒・・・弓削-連-元の寶兒?
  四人」
 「軍丁
  筑紫國
  上陽竎郡人
  大伴部-博麻(はかま)」・・・
 「汝、獨淹滯他界、
  於今、卅年矣」・・・
 「お前は、一人外国に長く留まり、
  今年で30年」・・・690-663=27・・・27年
ーーーーー
 1872年
 闕字の廃止令
 が、
 闕字の慣行は復活
ーーーーー
 漆=うるし=得るシ・宇留志
   有留氏=「有留=ありとめ・ありどめ・うる」氏
 蒔絵(まきえ・ジカイ)
 彫漆(ほりうるし・チョウシツ)
 蒟醤(きんま・クショウ)
 沈金(チンキン)
 螺鈿(ラデン)
 平文(ひょうもん・ヘイブン)
 堆錦(ついきん・タイキン)
 ↓↑
 蒔絵(まきえ)
 漆で文様を描き、金粉などを降り掛け、
 文様部分に固着させる技法
 ↓↑
 彫漆(チョウシツ)
 厚く塗り重ねた漆に文様を彫る技法
 表面の色の違いにより
 堆朱(ツイシュ)
 堆黒(ツイコク)
 がある
 中国の漆工、
 紅花緑葉は応用した技法
 ↓↑
 蒟醤(きんま)
 塗り重ねた漆に文様を彫り、
 色漆を塗り込んでから研ぎ、
 平面的な文様を描き出す技法
 東南アジアで盛んに用いられている。
 タイ国の植物の実の名称
 蒟蒻(コンニャク)
 ↓↑
 沈金(ちんきん)
 漆を塗った器物の表面に文様を彫り
 金箔や金粉を塗りこむ技法
 中国の技法、戧金(ソウキン)に同じ
 ↓↑
 螺鈿(らでん)
 文様の形に切った夜光貝等の貝殻を貼り付け、
 さらに漆を塗り研ぎ出す技法
 ↓↑
 平文(ひょうもん)
 金属(金、銀、錫等)の薄い板を
 文様の形に切って貼り付け
 さらに漆を塗り平坦に研ぎ出す技法
 金貝(かながい)ともいう
 漆と金属の高低差があると
 平脱(へいだつ)となる
 平文、平脱は同じ意味で取られている・・・
 ↓↑
 堆錦(ツイキン)・・・堆=十+一+隹
    堆(つもる)=タイ=碓(うす)
    碓=石(一ノ囗)+隹・・・囗(くに)・口(くち)
                囗=エ・イ 口=コウ・ク
      からうす(加羅臼・殻ウス)
      足の力や水の力で穀物をつくウス
      ふみウス
    錦(キン・にしき)=金白巾=綿(メン・わた)
    堆=タイ・ツイ・うずたかい
      渦(うず)たかく積み上げる
      堆積・堆肥
      ツイ・いくつも重ねる
      堆朱(ツイシュ)=地固めした
      素地(きじ)の上に朱漆を数十回以上
      塗り重ねて層を作り
      乾燥後これに文様を彫刻したもの
      堆紅 (ツイコウ)=彫漆の一
      朱漆を何度も厚く塗り重ねる過程で
      黒漆の層を入れ
      彫り目の断面の朱色地に
 ↓↑   黒い筋が表れるようにしたもの
 堆錦(ツイキン)
 琉球(沖縄)漆器特有の技法
 漆と各種の顔料を練り合わせ
 これを押し広げて型にはめるか
 または切り取って文様を作り
 漆器の表面にはりつけるもの
ーーーーーー
 ・・・「波多(はた・秦・幡・波多)氏は、平安末期から肥前松浦地方で活躍した上松浦党の最大の一族で、東松浦郡 波多村を中心に佐志氏から分かれて成立・・・
 ↓↑
 波多氏は
 源久の二男持の子孫
 室町時代の
 波多氏は、
 松浦一族である
 佐志氏、呼子氏、鴨打氏、塩津留氏
 らと共同して海外交易を行った・・・
 波多氏は現在の北波多付近を根拠地とし、
 岸岳城を本拠に勢力を拡大・・・
 松浦一族である
 佐志氏・・・佐志 房(さし ふさし)
 (さし)  ?~文永十年(1274年)十月
 ↓↑    鎌倉時代中期の武将
       松浦党・肥前国松浦郡佐志村の地頭
       鎌倉幕府より将軍家下文を受け
       東国御家人に準ずる存在として地頭を務める
       元寇において
       文永十年(1274年)十月十六日
       文永の役で
       佐須浦で
       3万数千人の蒙古軍と
       松浦党は松浦郡で
       戦った・・・
       佐志房と子息の
       直(なおす)、留(とむる)、勇(いさむ)
       は討ち死
       後、遺領をめぐって
       直の子、「熊太丸」
       と
       勇の娘、「久曽(くそ)」
       が争っている
 ↓↑   (『有浦文書』弘安2年10月8日関東下知状)
 呼子氏・・・松浦党の勢力下にあり
 (よびこ) 倭寇の根拠地
 ↓↑    佐賀県北西部、東松浦郡にあった
       唐津市の北西端部を占める地域
       東松浦半島の北端、玄界灘の加部(かべ)島、
       小川島を含む
       加部島とは呼子大橋で結ばれる
       玄武岩台地を背にした溺(おぼ)れ谷に
       呼子港があり、加部島が防波堤をなす
       古来、壱岐・対馬を経て
       朝鮮に至る最短コースの要津
       豊臣秀吉も
       近くの名護屋築城
       小川島はかつて玄海捕鯨基地
 ↓↑   『呼子町史(1978・呼子町)』
 鴨打氏・・・松浦一党に属・波多持の子、至が鴨打を称した
 (かもち) 後鳥羽院の御宇、至は上洛し禁中の警固で
 ↓↑    院が飼われているいる鴨のところへ
       一羽の新鴨が飛び来って
       双方嘴合戦に及んだ
       至は走り寄って、
       扇で新鴨を打ち、院の鴨を守った
       これを愛でた院は
 ↓↑   「鴨打」の名字を与えて、美濃守に任じた
 塩津留氏・・戦国初期の文明四年(1472)
       壱岐を分割知行していた
       志佐・佐志・呼子・塩津留氏に対し
       岸嶽城主、波多泰が攻撃しこれを滅し
       壱岐の城主となった波多泰は
       亀丘城に修築を加え
       一族の
       阿波守某を代官として壱岐を支配させた
       永禄八年(1565)
       日高甲斐守政が
       波多政を据えて全島を支配
       江戸時代、平戸松浦藩の壱岐城代が館を構え
       支配の拠点とした
       朝鮮王朝は
       倭寇沈静化の一策として
       倭寇禁圧に協力的な西国諸勢力、
       倭寇自体に通交権を与え、
       平和的通交者へと懐柔した
       塩津留氏は壱岐牧山氏から通交権を譲り受け
       牧山氏名義の偽使通交も行った
 ↓↑
 らと共同して海外交易を行ったが、
 港は他氏が押えていたため、十分な海外交易を行えなかった
 他方、佐志氏、呼子氏、塩津留氏らは
 壱岐島を分割支配し、
 波多氏を尻目に海外交易で利益をあげていた・・・

 文明四年(1472)
 「波多」下野守「泰」は
 壱岐島を不意に
 志佐、佐志、鴨打、呼子、塩津留
 の松浦党の五氏、
 佐志氏らの代官を追い払い
 壱岐島を支配下におき
 以後、
 波多氏は
 岸岳城に拠り、
 壱岐島の海外交易をもって
 戦力・財力ともに他の
 上松浦一族を圧する存在に成長・・・
ーーーーー
 北海道(蝦夷)探険の
 「松浦武四郎」は
 「松浦一族」だったであろう・・・

コメント
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「熊川(コモガイ・くまがわ)県」は陶器の産地・・・薺浦に「熊川-倭城」・・・

2017-10-27 11:35:32 | 古事記字源

・・・毎日の生活の「衣食住」だが、「食費」を抜いても「4、5万」はかかる・・・生きているコトで確実に自己確認できるのは、「喰うコト」、「トイレに行くコト」、「寝るコト」で、それらが出来れば文句は無い・・・「トイレに行くコト」だが、いくら力(リキ)んでも、踏ん張ってもデテコナイ・・・耳に聴こえるのは脈拍の音・・・狭い空間で長いして、ナンで出てこないんだョ、ッて
・・・ツクヅク考えてしまう・・・「ウン」は排便ではなく、「生産」で、造り出したモノを意識的に産み出すコトなんだって・・・なんか、自分の自然体から疎外されるって・・・
ーー↓↑ーー

 泗川(サチョン・シセン)市・・・川=チョン=セン=かわ
 ↓↑・・・泗水(シスイ)・・・・泗=サ=シ=なみだ=泪
      ↓↑         水=スイ=みず
      ↓↑ 「三泗=三重県の三重郡・四日市市地区」
   中華人民共和国山東省を
   流れる河川、泗河の古名
   泗水国、泗水郡
   泗水の流域にあった古代中国の諸侯国
   泗水県
   中華人民共和国
   山東省
   済寧市の管轄下にある県
 ↓↑ ↓↑
   泗水町(しすいまち)
   熊本県
   菊池郡・・・菊池渓谷・「菊池=久々知(くくち)」
         鞠智城(きくちじょう・くくちのき)
         朝鮮式山城で
         白村江の戦い(663年)で、
         唐・新羅連合軍に敗北後
         倭の防衛のために築いた
         水城(664年)
         大野城(665年)
         基肄城
        (キイジョウ・キイのき・椽城・記夷城)
            ・・・キシ?
            椽=屋根板を支えるために
              棟木から軒桁に架け渡す長い材
              はえき・たりき
         などと、665年ころに
         同時期に築かれた
         八角形建物跡で、城自体が役所機能を有し
         大宰府と連動した軍事施設
         九州(倭国)防衛のための山城・・・
   にあった町
   由来は、町内を流れる
   合志川に
   鞍岳川、矢護川、若木川、小原川
   の4本の支流が合流することと
   1889 年(明治二十二年)
   前身の
   泗水村
   成立当時は
   合志郡であったことから、
   合志と孔子を
   掛け孔子生誕の地とされる
 ↓↑中国山東省泗水県に因んだ・・・
 ↓↑
 津の国=摂津(せっつ)の国=攝津國
     阪府北中部の大半と兵庫県南東部
     「なには・泣かず・来(こ)や・長らへ・見つ」
     などにかかる歌枕
     「いにしへの ながらの橋も
      津の国の なには朽ちせず
      なほ残りけり(新千載・雑下)」
 の「くま河・くまがわ・熊川」
 「巨麻川」は「狭山池西除川」
 「駒川」
 「御熊川」→「猫間川」
 ↓↑
 球磨川(くまがわ)・・・球=王+求
             磨=广+林+石
 熊本県南部の
 人吉盆地を貫流
 川辺川をはじめとする支流を併せ
 八代平野に至り
 八代海(不知火海)に注ぐ
 球磨川水系の本流で
 熊本県内最大の川
 ↓↑
 泗沘(しび・サビ)
 百済の古都
 忠清南道扶餘郡
 第二十六代
 聖王十六年(538年)
 国都の
 「熊津=ユウシン・ウンジン=忠清南道公州市
    =万葉仮名で「麻那利(くまなり・こむなり)」
           まなり
     百済語で「固麻那羅(コマナル)」
 から
 「泗沘(シヒ・シビ)=扶餘」に遷都
        「沘=氵+比=異体字は 㲺(氵+七)・水源」
 百済滅亡の660年までの国都
 「所夫里(ソフリ・三国史記、百済本紀の分註)」
 「所夫里・泗沘(新羅本紀の本文)」
 「地理志では
  本文に所夫里・・・夫(おっと)の里(さと)の所(ところ)
  分注に泗沘」・・・泗(泪・洟水
             なみだ・はなみず・氵+四=水+肆)
           の沘(水源・氵+上+七匕ヒ=比較)=熊津
              扶蘇山・扶餘県
           忠清南道西南部
           錦江(白馬江)流域に位置
           北は忠清南道青陽郡、公州市
           東は論山市
           南は錦江を隔てて
           全羅北道益山市と接する
           西は忠清南道保寧市と舒川郡
ーー↓↑ーー
 「泗沘(シヒ・シビ・サビ)・熊江=白馬江=錦江」
 か?
 「泗川(シセン・シガン・サガン)・熊川」
 か?
ーーーーーー

ーー↓↑ーー
 大韓民国
 慶尚南道の南部
 港湾都市
 「泗川」湾の入口に
 三千浦港
 「文禄・慶長の役」の
 「泗川(シセン)の戦」の場所
 1510年
 朝鮮の三浦で起きた日本人の反乱
 1426年
 日本船の朝鮮での停泊地は
 富山浦(釜山)
 薺浦(せいほ)=熊川
 塩浦(蔚山)
 の三浦
 薺徳洞(セイトクドウ)槐井里(カイイリ)
 15世紀初めに
 乃而浦倭館(薺浦倭館)が設置
 釜山浦とともに
 興利倭船(日本の商船)の入港が許可された
 2つの港(塩浦が追加され、三浦と呼ばれる)
 の一つとなり、日朝貿易の拠点
 薺浦は1494年には
 約2,500人もの
 日本人が居住する
 日本人居留地
 「恒居倭」と呼ばれた
 日本人居留民の活動は
 両国間の摩擦を引き起こし
 1510年
 三浦の乱になり
 三浦の乱後、日朝貿易が再開されると
 薺浦が唯一の開港地となった
 1544年
 蛇梁倭変
 によって国交が断絶
 1547年
 丁未約条により国交が回復
 対日交易港は
 釜山一港に限定
 薺浦での日朝貿易は行われなくなった
 中世、
 朝鮮の
 「熊川県」は
 陶器の産地として知られ
 日本での
 高麗茶碗の分類の一つに
 「熊川(こもがい)」
 と呼ばれる陶器がある
 文禄・慶長の役の際に
 熊川の陶工は
 松浦鎮信によって
 平戸に連行され、
 熊川での陶器生産は終焉
 熊川の陶工が
 平戸から
 佐世保に移って生産したものが
 三川内焼となった
 文禄の役の際に
 薺浦付近に
 「熊川倭城」を建設
  ↓↑
 「泗川の戦い」は
 「文禄・慶長の役」の合戦の一
 慶長三年
 (明の万暦二十六年九月・1598年10月)
 朝鮮半島の
 泗川で
 島津義弘
 率いる七千が
 明の武将
 董一元
 率いる数万の
 明・朝鮮連合軍と戦って
 撃退し
 劣勢な島津軍が勝利した
  ↓↑
 島津義弘は
 泗川新城を背に強固な陣を張り
 伏兵を配置
 明、朝鮮連合軍の攻撃に対し
 大量の鉄砲を使用し
 地雷などで対抗
 鉄片や鉄釘を
 砲弾の代わりに
 装填し
 大砲にも使用
 明将
 茅国器
 葉邦榮
 彭信古
 などは
 泗川新城の大手に
 郝三聘
 師道立
 馬呈文
 藍芳威
 などが左右に備え
 董一元
 が中軍として
 泗川新城に攻めた
 白と赤の
 2匹の狐が城中より
 明・朝鮮連合軍の方へ走って行った
 これを見た
 島津軍は
 稲荷大明神が
 勝戦の奇瑞を示すとして
 士気を高め戦った・・・
  ↓↑
 明・朝鮮連合軍の火薬庫爆発
 島津軍は城門を開き打って出
 島津義弘は伏兵を出動させ
 敵の隊列を寸断し混乱させ
 義弘本隊も攻勢に転じ
 義弘自ら4人斬り
 島津忠恒
 ↓↑・・島津家久、(第十八代)
     初代薩摩藩主・通称又八郎
     島津義弘の三男
    「絵本太閤記」は「島津亦七郎忠常」
     鹿児島湾の
     別名である
    「錦江湾」・・・・「錦江の湾」?
     という呼び名は、
     忠恒が詠んだ
    「浪のおり
     かくる錦は・・・隠る「ニシキ」?
     磯山の梢に
     さらす花の色かな」
     という歌に由来する・・・?
    「加治木・黒川岬の鳳山軒にて」で詠んだ・・・
    「錦江湾は汚れやすく、一度汚すと、
     きれいにすることが難しい海域
    (錦江湾・水の話
      フジクリーン工業株式会社のブログ)」
    「桜島=鹿児島」だった・・・由来説は
    「火山を意味するカグ
 ↓↑  多くの水夫(かこ)が住んでいた」
 も槍を受け負傷するも
 敵七人を斬って奮戦
 島津軍は南江の右岸まで追撃
 混乱し壊走する
 明、朝鮮連合軍は
 南江において無数の溺死者を出した
 十月一日夜
 島津軍は
 泗川の平原において
 勝鬨式を挙行し
 戦闘は幕を閉じた
 その後
 島津義弘は
 「鬼石蔓子(おにしまづ)」
 と恐れられた
 『朝鮮王朝実録』
 三路の戦い
 (第二次蔚山城の戦い
  泗川の戦い
  順天の戦い)
 で
 明・朝鮮軍は全ての攻撃で敗退
 三路に分かれ逃避の準備をした・・・
 ↓↑
 「釣り野伏せり・釣り野伏」戦法
 島津義弘は
 泗川の戦いに
 七匹の猫を連れていった
 猫の瞳孔の開き具合によって
 時を知ることができた・・・?
 島津義弘は七匹の猫を各陣営に置き
 瞳孔の大きさを見て
 時刻をはかり
 出撃の合図に使用した・・・
 鹿児島には
 「猫神神社」が存在する
 ↓↑
 「三千浦へそれる
 (サムチョンポロパジダ)?
  =話が脇道にそれる
   脱線する
   物事が予想外の方向へ進む」
 の意味であるらしい・・・
 「三千浦(サムチョンポ)」は、
 「韓国・南海岸にある漁港」・・・
 「泗川の戦い
  島津軍が
  1597年10月
  泗川に城を築き
  翌年九月
  明将軍・董一元
  と
  朝鮮将軍
  鄭起竜
  が率いる連合軍が
  島津家臣
  川上忠実の守る
  旧泗川城を陥落させ
  新泗川城に迫ったが
  反撃され潰滅」
 「露梁津の海戦」は
 「小西行長軍が
  1598年
  朝鮮から撤退する際
  順天で
  明将軍
  陳リン
  朝鮮将軍の
  李舜臣
  率いる朝鮮連合軍が追撃したが
  島津軍が
  李舜臣を戦死させ
  小西行長の軍を撤退させた」・・・
ーーーーー

 

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「クマ(熊)」は何処か?・・・「熊の毛」は何色か?

2017-10-26 19:18:52 | 古事記字源

 ・・・「クマ(熊)」は何処か?・・・熊の毛の色は何か?・・・「黒」 or 「褐色=ブラウン(brown)」、そして「白熊」が存在するから「白色」・・・パンダ(panda・猫熊≒熊猫・大熊猫・大猫熊)は「白黒」だが・・・パンダが発見される以前は「レッサーパンダ(小熊猫・小熊貓)=鼬(鼠+迪・いたち)科」の元々の名前だったらしい・・・猫=熊になったのは十二支上のネヅミとネコの北方位置の争いでネヅミ(鼠)がネコ(猫)を追いだしたコトになっているが「大猫熊」、「小熊貓」は北極星を周回する場所を得た、と云うコトか?・・・
 イイズナ(飯綱)=イタチ科=コエゾイタチ(小蝦夷鼬?)
 クズリ(貂熊・屈狸)=イタチ(鼬)科・・・スカンク・skunk?
 ラッコ(海獺・猟虎
    アイヌ語Rakko・英語Sea otter)
    =イタチ科
     カワウソ(川獺)亜科- ラッコ属
     イタチ科で水棲に進化したのが
     カワウソ(川獺)類(カワウソ亜科)
 ・・・カワウソ=川嘘・・・加話嘘・・・?
      川流=かわる=変わ留・・・
      河流=氵(水)+可+氵+㐬・・・
   「毓=毎+㐬=そだつ・そだつ・そだてる・はぐくむ」=育
        云(二ム・亠一ム)+川
        川=ノ+礀+乚=爪?
      ↓↑
 河(カ )=かわ・かは=流れる→変化する・化波=掛話
 川(セン)=かわ・かは=流れる→変化する・加波=掛話
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元(もと)の水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」
 は、何で「方丈記(はうぢやうき・ホウジョウキ)」のタイトルなんだか?・・・「題名は長明が日野山に一丈(約3m)四方の庵(いおり・アン)を造り住んだことによる」?・・・「方(かた・ホウ)の丈(たけ・ジョウ)の記(しるす・キ)」・・・「草庵=ソウアン=創案・草案・いほり=意織・伊織・衣織・居織・井折)」・・・
 「丈=尺貫法の長さの単位・1891年(明治二十四年)100メートルを三十三丈と定めた・10尺=1丈は、曲尺 (かねじゃく) で約3.03メートル・鯨尺で約3.79メートル・たけ・長さ・丈の短い反物」・・・「歌舞伎俳優の芸名、男性などの名に付けて、敬意を表す・・・○○丈→太郎丈」・・・
 「方丈記(建暦二年・1212年・三月成立・鴨長明・久寿二年(1155年)~建保四年閏六月十日(1216年7月26日)・法名は蓮胤・菊大夫」・・・「1922年(大正十一年)健康保険制定(企業雇用者の職域健康保険)」・・・
 「建保四年閏六月十日」って?「鴨長明=かものチョウメイ=カモの長命」・・・「健保・建保=ケンポ=憲保」を標的にしていたのカモ・・・公聴=コウチョウ=広聴・・・
  ↓↑
  1935年(昭和十年)
 農家・自営業者の地域保険
 埼玉県越ヶ谷町(越谷市)の
 一般住民を対象とした
 地域健康保険制度
 「越ヶ谷順正会」を発足
  ↓↑
 1938年(昭和十三年)
 政府レベルで
 国民健康保険法(旧法)が創設
  ↓↑
 越谷市は・・・・・・・・武蔵野・・・埼玉県南東部
 「越ヶ谷順正会」を
 「国民健康保険の発祥」
 国民健康保険法施行10周年を記念し
 1948年(昭和二十三年)
 「越ヶ谷順正会」を顕彰する
 「相扶共済の碑」が
 越谷市役所の敷地内に立てられた・・・
 「荒川(あらかわ)は、埼玉県および東京都を流れ東京湾に注ぐ河川・山形県および新潟県を流れる河川」だが、北海道から沖縄まで河川の名前で、およそ二十八も存在している「荒川」で、由来そのものが台風、豪雨で「洪水・氾濫」の繰り返しの河川だったんだろう・・・モチロン、九州にも「荒川」・・・
 ↓↑
 荒川 (佐賀県)=佐賀県
  武雄市を流れる
         松浦川水系
  川古川支流
 荒川 (熊本県)=熊本県
  天草市を流れる
         内野川水系
 荒川 (いちき串木野市)=鹿児島県
         いちき串木野市を流れる
         荒川川
 荒川 (屋久島)=鹿児島県
         熊毛郡
  屋久島町を流れる
         安房川水系
 ↓↑
 「猫=ねこ=貓=根子(コンシ・ねっこ)・根古(コンコ・ねふる)・根来(ねごろ・コンライ)」・・・
 「根子岳(北緯32度53分・東経131度08分」は熊本県阿蘇郡高森町にある山で阿蘇五岳の一で、宮町と宮地町の境をなす東峰、天狗峰、西峰から成る山だが・・・同名異山の「根子岳(北緯36度32分・東経138度23分)=四阿山カルデラの南東縁、四阿山山頂から北西」は、長野県上田市菅平高原と須坂市の境にある山である・・・
 「パンダ」の由来はネパール語で「ポンヤ=竹」、「パンジャ(panja)=手の平(五指を含む)」・・・
ーーーーー
 「白河法皇」が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いた・・・「賀茂河の水」とは、古来氾濫を繰り返す暴れ川・・・
 ↓↑
 白河天皇
 第七十二代天皇
 在位
 延久四年十二月八日(1073年1月18日)
  ~
 応徳三年十一月二十六日(1087年1月3日)
 諱を貞仁(さだひと)
 父は後三条天皇の第一皇子
 母は藤原公成の娘で
 藤原能信の養女、藤原茂子
 ↓↑
 後白河天皇
 第七十七代天皇
 大治二年九月十一日(1127年10月18日)
  ~
 建久三年三月十三日(1192年4月26日)
 在位
 久寿二年七月二十四日(1155年8月23日)
  ~
 保元三年八月十一日(1158年9月5日)
 父は鳥羽天皇の第四子
 母は藤原璋子
 諱は雅仁(まさひと)
 日本国第一之大天狗
ーー↓↑ーー
 ・・・白川・白河、結構、けダら毛、ネコ灰だらけ・・・
  ↓↑
 白川 (熊本県)=熊本県中北部を流れる本流河川
 白川 (渡島)=北海道茅部郡森町・尾白内川水系河川
 白川 (上川)=北海道上川郡・上川町・石狩川水系河川
        山形県山形市・最上川水系
        馬見ヶ崎川の別称
 最上白川=山形県最上郡最上町・最上川水系
      最上小国川支流
 置賜白川=山形県長井市・西置賜郡
      飯豊町最上川水系河川
 榛名白川=群馬県高崎市・北群馬郡
      榛東村・利根川水系
      烏川支流河川
 赤城白川=群馬県前橋市・利根川水系
      桃ノ木川支流河川
 白川=長野県木曽郡
    木曽町・木曽川水系
    西野川支流の河川
 白川=長野県・木曽郡王滝村
    木曽川水系
    王滝川支流河川
 白川=長野県・木曽郡王滝村
    木曽川水系
    濁沢川支流河川
 白川=長野県・諏訪郡・富士見町
    富士川水系河川
 白川=岐阜県・揖斐郡・揖斐川町
    木曽川水系
    坂内川支流河川
 白川=岐阜県・中津川市・加茂郡白川町・東白川村
    木曽川水系
    飛騨川支流河川
 白川=静岡県賀茂郡西伊豆町
    仁科川水系河川
 白川=愛知県豊川市を流れる
    音羽川水系河川
 白川=愛知県春日井市
    庄内川水系
    内津川支流河川
 白川=滋賀県大津市・京都府・京都市・左京区
    淀川水系
    鴨川支流河川
 白川=兵庫県・神戸市・須磨区
    明石川水系
    伊川支流河川
 白川=福岡県・京都郡・苅田町
    長峡川水系
    小波瀬川支流河川
 白川=宮崎県・えびの市
    川内川水系河川
 白川川=高知県・土佐市
     仁淀川水系
     波介川支流河川
 白川川=佐賀県・西松浦郡・有田町
     有田川水系河川
 白川川=長崎県・長崎市
     多以良川水系
     二股川支流河川
 白川川=鹿児島県・伊佐市・姶良郡・湧水町
     川内川水系河川
ーー↓↑ーー
 白川村
 白河村=茨城県・東茨城郡・白河村(小美玉市)
 白川=北海道札幌市南区にある地名
 白河の関=福島県白河市にあった関所
 白河・白川=福島県南部の地域
       白河市、東白川郡、西白河郡
 白川=群馬県高崎市箕郷町
 白河=東京都江東区
 白川町=岐阜県加茂郡の白川流域の町
 白川=岐阜県大野郡・白川村・白川郷
 白川=愛知県名古屋市中区
    旧栄区白川町・白川公園・白川出入口
 白河=白川=京都府京都市左京区
    北白川、
    岡崎周辺の旧地名
    平安時代後期に
    洛南の鳥羽と共に院政の中枢
    白河(洛外)
 白川通=京都府京都市の南北の通りの一
 白川・白川台=兵庫県神戸市須磨区
 白河区=台湾台南市の市轄区
 白河県=中国陝西省安康市の県・・・安の康
 白川町=台湾嘉義市
 白川郡=福島県にあった郡
 白河郡=福島県にあった郡
 白川郡 (黄海南道)=朝鮮国・黄海南道の郡
 白河鎮
 白河郷=(九寨溝県
    =中国四川省
     アバ・チベット族
     チャン族
     自治州
     九寨溝県の郷
 白河郷=屏辺ミャオ族自治県
     中国雲南省紅河
     ハニ族イ族
     自治州
     屏辺ミャオ族
     自治県の郷
 白河藩=陸奥国
     白河(福島県白河市)
     周辺を領有した藩
 白河の関は、
 鼠ヶ関(ねずがせき)=念珠関・・・鼠=子=了+一=終始
 越後国と出羽国の国境にあった関所
 古代には蝦夷地との境界地点
 都岐沙羅柵 (つきさらのき) が置 かれた
       トキサラサク
       解記(紀)沙良詐句・・・持統天皇(書紀)?
 勿来関(なこそのせき)=菊田関・・・記句多籍・規矩他昔
 「なこそ=な来そ」=「来るなかれ」
     「な~そ」=強意の禁止
 とともに、 奥州三関の一つ
  「六国史」
 白河の初出は
 718年(養老二年)五月二日
 陸奥国から
 「白河」など五郡を分割し
 石背国を設置・・・石背国(いわせのくに=云わ施の句似)
              セキハイコク
              施記葉意古句
 728年(神亀五年)四月十一日
 多賀城を
 陸奥国支配の本拠地とし
 白河軍団の新設を許可
 769年(神護景雲三年)三月十三日
 陸奥国
 大国造
 道嶋
 宿祢
 嶋足
 の申請によって
 功績者への賜姓付与
 白河郡では
 丈部某・・・・・・丈(たけ・ジョウ)部(べ・ブ)の
          某(なにがし・ボウ)=甘+木
 と
 大伴部某
 がそれぞれ
 阿部陸奥臣
 および
 阿部会津臣
 を授かった
 780年(宝亀十一年)十二月二十二日
 陸奥
 鎮守府
 副将軍
 百済王・・・・・・・・百済の王・・・敵は新羅だが?
 俊哲・・・・・・・・・俊(イム八夂)の哲(折口)
            俊(すぐれる)・唆(そそのかす)
 が賊に囲まれ
 「白河」の神など
 十一神に祈ったところ
 これを突破できたとして
 弊社に加えることを許可
  ↓↑
 源頼朝が・・・源氏は新羅を名前に有する者がいるのは
        清和天皇自体が
        新羅系の血統?・・・じゃなくても
         立場、思想上の親派(sympathizer)?
         シンパ・共鳴者・支持者・同情者・同調者
         賛同者・・・恩義を受けてもシンパになる?
        源義光(新羅三郎・館三郎)が
        新羅神社(新羅善神堂
             智証大師円珍の建立
             円珍は
             讃岐國
             金倉郷で誕生
             俗姓は和気(分・別)
             字は遠塵
             弘法大師空海(佐伯真魚)の甥
             仁寿三年(853年)
            「新羅商人」の船で入唐
             途中で暴風で台湾に漂着)
        で
        元服し「新羅三郎」と名乗った・・・?
        河内源氏の2代目棟梁の
        源頼義の三男
        源義光(新羅三郎・新羅神社)
        母は平直方の女・・・「平」の直方?
        兄に
        源義家(八幡太郎・宇佐神社)
        源義綱(賀茂次郎・加茂神社)
        武門の棟梁の祖?
        第五十六代・清和天皇
        嘉祥三年三月二十五日(850年5月10日)
        ~
        元慶四年十二月四日(881年1月7日)
        在位
        天安二年十一月七日(858年12月15日)
        貞観十八年十一月二十九日
       (876年12月18日)
        諱は惟仁(これひと)
        水尾天皇ともいう
        文徳天皇の第四皇子
        母は太政大臣の
        藤原良房(太政大臣・後に摂政)の娘、明子
        生後8か月で皇太子
        八歳で即位
        二十七歳で譲位
        第六皇子
        貞純親王の子の
        経基王の子孫、末裔が
        源頼朝・足利尊氏
  「将軍」とは?・・・征討侵攻駐留の
            軍事的支配権を有する司令官
            GHQ=連合国軍最高司令官総司令部
            General Headquarters
            進駐軍による軍事行政権力機関の
            最高司令官である
 「征夷大将軍」だが、
 大陸中国王朝に求め、
 もらった
 「将軍」の称号とは?
ーーー↓↑ーーー
  「421年・讃=安東将軍倭国王」
  「438年・珍=自称
         使持節都督
         倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓
         六国諸軍事、
         安東大将軍倭国王
         安東=
         宋の文帝、
         珍を
         安東将軍倭国王、とする
         珍はまた、
         倭隋ら十三人を
         平西・征虜・冠軍・輔国将軍
         の称号を求め、許される」
  「443年・済=宋の文帝、安東将軍倭国王」
  「451年・済=宋の文帝、
         使持節都督
         倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
         六国諸軍事を加号」
        「安東将軍」はもとのまま
         七月、
        「安東大将軍」に進号
  「462年・興=宋の孝武帝、
         済の世子の興を
         安東将軍倭国王」
  「477年・興=興没、弟の武立つ
         武は自ら
         使持節都督
         倭・百済・新羅・任那
         加羅・秦韓・慕韓
         七国諸軍事安東大将軍倭国王と称」
  「478年・武=自ら
         開府儀同三司
         と称し、叙正を求める
         順帝、
         使持節都督
         倭・新羅・任那
         加羅・秦韓・慕韓
         六国諸軍事
         安東大将軍倭王」
  「479年・武=南斉の高帝、王朝樹立に伴い、
         倭王の武を
         鎮東大将軍(征東将軍)に進号」
  「502年・武=四月、
         梁の武帝、王朝樹立に伴い、
         倭王武を
         征東大将軍に進号」
ーーー↓↑ーーー
 奥州藤原氏を滅ぼす
 奥州合戦の際に
 頼朝が
 白河に達した時に
 梶原景季に歌を詠むよう命じると
 「秋風に草木の露をば払わせて
  君が越ゆれば関守も無し」・・・訓を請えれば籍取も無し?
 と詠んだ
 「白河関」の廃止後、遺構は失われ
 位置も不明だったが
 1800年(寛政十二年)
 白河藩主
 松平定信
 が文献考証を行い
 白河神社の建つ場所が
 「白河の関」跡であると論じた・・・
     ↓↑
 「天武天皇の皇子高市親王の子孫で高階峯緒に連なる正四位下尾張守高階為遠の女が「白河院尾張」を号した」・・・「尾張」って?名古屋・・・
 「尾張の小子部 鉏鉤(ちいさこべ の さひち・生年不詳~天武天皇元年(672年7月or 8月)。姓は連・672年の壬申の乱で尾張国司守として大海人皇子(天武天皇)に味方したが、内乱終結後に自殺した人物」・・・この自殺も謎らしいが・・・ワナにハメられた・・・
  ↓↑
 「白川・白河」はあっても、
 「黒川・黒河・玄川」はどうか・・・石炭産業の勃興時からである、と思いキャ、それ以前から結構ワンサカあるな、もちろん、「熊本県阿蘇の黒川温泉(瓜を盗んだ男の身代地蔵の首から温泉)」をはじめ、「黒川=北海道・余市郡・余市町を流れる余市川水系準用河川」等々・・・
 「小熊秀雄(おぐま ひでお・1901年9月9日~1940年11月20日)=詩人・小説家・漫画原作者・画家・筆名、小熊 愁吉(おぐま しゅうきち)、黒珊瑚(くろさんご)、旭太郎(あさひ たろう)・旭太郎名義で原作を担当した漫画『火星探検(大城のぼる作画・1940年)』は、日本SF漫画の先駆」、「北海道小樽市稲穂町に生まれる・幼少期を稚内市・秋田・樺太で過ごし、泊居高等小学校を卒業」・・・なんか、ブログ記事に添付された彼の写真、トンデル・・・
 「大城のぼる」のマンガは幼稚園(保育園)の女の先生の家でボクが初めて見たマンガだった・・・
 ソウ云えば、名古屋に「黒川駅」があったけ、ナッ、名古屋市北区城見通3丁目・・・
 日本に築城された各々の城の色は「白黒」に分かれているいるようだが・・・
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 「熊の本」
 「肥後」=ヒゴ=蜚語・卑語・飛語
         蜚=あぶらむし(油虫)・とぶ・ヒ
           蜚蠊=ごきぶり・・・ムシに非ず?
              ごきかぶり(御器噛)
         鄙語=田舎びた言葉
         比護・庇護
         籤=くじ・かずとり・セン
           竹を細く割って削ったもの
           籠や提灯の骨などに使う竹ひご
      流言蜚語=事実とは異なる伝聞
           根拠のない噂(うわさ)
           デマ=ドイツ語 Demagogie
              英語 demarcation
                 fake news
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 「白川・坪井川」
     ・・・熊本にある川の地名由来
        白川=白川・白河
        白川(はくせん・ペチョン)
        白河(はくが)
        坪井川=熊本県熊本市を流れる河川
        改寄町付近に源を発し南流
        有明海の島原湾に注ぐ
       「あんたがたどこさ」の手鞠唄の
       「せんば川」は
        船場町を流れる坪井川のコト
        坪=十一平
        壺井栄って?「二十四の瞳」=12人?
 大改修以前
 熊本の
 白川と坪井川
 熊本市役所付近で
 合流し下通を貫いて
 白川に流れていた
 流路に変更したのは
 加藤清正
 熊本城築城の際、
 坪井川と
 阿蘇からの
 火山灰を含んだ
  ・・・白砂の火山灰=シラス(白砂・白州)
     九州南部一帯に厚い地層として
     分布する細粒の軽石や火山灰
     鮮新世~更新世の火山活動による噴出物
 白川
 が合流する様を見て
 流路を分け
 城に近い
 坪井川を内堀に
 遠い
 白川を外堀とする
 河川改修をした
 下流にある
 再合流地点に
 石塘を築き
 両河川を河口まで分流した
 下流の地域を
 氾濫から防ぐ設計だった
 熊本4大河川改修
 白川、坪井川の付替、
 緑川の鵜の瀬堰、
 球磨川の遥拝堰、
 菊池川に於ける
 各種改修の結果
 穀倉地帯が生まれた
 熊本平野・八代平野・玉名平野
 干拓と堤防の整備で
 海岸に近い地域にも
 畑作地域が生まれた
 白川水系の主に
 熊本平野への
 灌漑事業
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 文禄元年(1592年)
 文禄・慶長の役
 朝鮮出兵
 慶長二年(1597年)
 慶長の役で
 加藤清正は
 左軍の先鋒となった
 小西行長に対し
 右軍の先鋒となった
 再び朝鮮に
 渡海する際
 小西行長は
 明・朝鮮軍側に
 加藤清正の上陸予想地点を
 密かに知らせた・・・?
 李舜臣はこれを罠だとし出撃せず
 清正への攻撃はしなかった・・・
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 清正が
 肥後国を治めていたのは
 天正十五年(1587年)
  ~
 慶長十六年(1611年)
 朝鮮出兵等もあって
 熊本に居住していた期間は
 15年程度
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コメント
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