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コジキジゲン

球菜・キャベツ・cabbage・キャ-ベツ=「伽・脚・佉」-「別・捌・滅」

2015-01-31 22:14:02 | 古事記字源

 「限界集落株式会社・NHK・土曜ドラマ」
 生きている限りヤルことはあるサッ・・・「小ブル社会」・・・
 ・・・キャベツ・cabbage・球菜・・・「タマナ」・・・
 起業、倒産の「バランスリスク」は・・・「流通市場の価格」・・・
 「限界小ブル意識人間協同会社」・・・
 ・・・「ミウラ」ですか・・・「氷点」・・・「憑点」・・・
  ↓
 三浦 綾子(みうら あやこ)
 1922年(大正十一年)4月25日
  ~
 1999年(平成十一年)10月12日
 日本の女性作家、小説家、エッセイスト
 北海道旭川市出身
 旧姓堀田
 結核の闘病中に洗礼を受けた後、創作に専念
 ・・・ぃやぁ~ッ・・・文献を調べて視るだけでも大変・・・
 ・・・「みうら」さん・・・
ーーーーー
  ↓
 「ウイリアムアダムス」が
 「徳川家康」と出会い(1600年)、
 「三浦」一族の「氏姓」を得る以前的な流れは・・・?
  ↓
 家康とは何者・・・タヌキ・・・
 幼名は「竹千代」
  ↓↑
 「得川(えがわ→とくがわ)」、
 ・・・ナンで、「世良田(せらた・せらだ)」が出てくるんだか・・・?
  ↓
 松平 親氏(まつだいら ちかうじ)
 室町時代初期の
 三河国の武将
 江戸時代に作成された系譜において
 松平氏・徳川氏の始祖とされている人物
 「松平氏由緒書」では名を
 「信武」と記している
 系譜
 新田源氏
 「世良田」氏の末裔
 新田義重の四男
 義季が
 新田荘徳川に住して
 得川(えがわ→とくがわ)を称した
 義季の二男は
 「頼氏」といい、・・・「頼山陽」に関係するんだか?
 「世良田-弥四郎」と称し、
 三河守となった
 その二男を
 次郎教氏、
 その「教氏」の子が
 「又+二郎+家時」、
 家時の子が
 「弥次郎-満義」である
 満義のあとを
 政義、親季、有親と継いで
 有親の子が
 「世良田親氏=松平三郎親氏=松平次郎三郎親氏」という
  ↓↑
 この系譜は徳川家康が
 永禄九年(1566年)に
 叙任奏請をする際、
 世良田氏の系譜と
 自らの系譜をつなげた・・・
 (日本史学者、渡辺世祐の論証)
 ・・・学界では家康によって粉飾された系譜・・・
 家康の祖父
 清康がすでに
 世良田氏を称していて、家康はその影響を受けた・・・
 親氏は関東(or信濃国の浪合村)で
 鎌倉公方(or斯波氏)の軍勢に敗れ、
 足利氏の追捕を避けるために
 父の
 有親とともに
 相模国の
 時宗総本山
 清浄光寺に入って出家し、
 徳阿弥(とくあみ)と称した
 「乞食僧」、「一種の」・・・
 しかし、清浄光寺での落髪が語られるようになるのは
 「武徳大成記」成立後の
 元禄期以降であることが、
 煎本増夫により明らかにされており、
 後世になってから作られたもの・・・
 徳阿弥は部下の
 石川孫三郎を従えて諸国を流浪し、
 三河国
 加茂郡
 松平郷に流れ着き、
 在原氏 or 賀茂氏の血筋を引く
 同地の領主
 松平信重(太郎左衛門少尉)の客人となった
 信重は
 徳阿弥の
 和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子とした
 徳阿弥は還俗して
 松平三郎親氏(次郎三郎とも)と名乗った・・・
 「松平氏由緒書」では
 信重から先祖を尋ねられた親氏が、
 「わたくしと申しますのは
  東西を定めずに旅する
  浪々の者でありまして、
 恥ずかしく存じます」と返事をしたとする・・・素性不明
 松平郷の領主となった
 親氏は、
 郷敷城を築き、
 嫡子(兄弟説もある)とされる
 泰親と協力して
 「中山七名」と呼ばれる
 近隣の領主たちを滅ぼし、勢力を拡大して
 戦国大名松平氏の基礎を築いた・・・
 しかし、「松平氏由緒書」の記述から、
 実際には買得によって土地を獲得した・・・との説もある
 親氏は
 領内に菩提寺となる
 高月院を初めとして多くの神社仏閣を建立
 以上のような
 親氏の出自と事歴については、
 後世の松平氏・徳川氏の主張に拠っており、
 傍証となる同時代史料は無い・・・
 生没年
 親氏は「松平氏由緒書」によれば、
 急逝
 地元の松平町(豊田市)の伝承では
 明徳四年(1393年)頃に没した・・・
 親氏の没年月日の伝承は
 10通りある・・・
 康安元年(1361年)4月20日
 (「法蔵寺由緒」・「大樹寺記録」・「奥平家記録」)
 応永元年(1394年)4月20日(『三河海東記』)
 応永元年(1394年)4月24日(『高月院記』)
 応永二十年(1413年)(「信光明寺縁起」)
 応永二十一年(1414年)(「松平総系譜」)
 応永二十八年(1421年)(「参陽松平御伝記」)
 応永三十五年(1428年)(『東栄鑑・八)
 永享九年(1437年)(「瀧村万松寺系図」「梁山妙昌寺位牌」)
 康正二年(1456年)(『大三河志』)
 応仁元年(1467年)4月20日(『徳川歴代記』)
 生年には
 永仁六年(1298年)説(「大樹寺記録」)
 元弘二年/正慶元年(1332年)説(「高月院過去帳」)
 など・・・
 後に松平氏の重臣となる
 酒井氏の系譜によると、
 同氏の始祖広親は、
 親氏が松平氏を
 継ぐ以前に
 三河国
 碧海郡
 酒井村の領主の婿となって生んだ子である・・・
 この説に従えば
 酒井氏は松平氏の同族・・・
 他説
 松平信重の長女が
 坂井郷に嫁いだことによって生じたものであるとされる。
 いずれにしても
 松平、酒井両氏は縁戚にあたる・・・
  ↓↑
 「徳阿弥親氏」銘板碑
 享和元(1801)年
 境内の竹林から
 徳川将軍家の先祖をさす
 「世良田徳阿弥親氏、
  応永一四年四月廿日」銘の板碑が発見されたが、
 「応永十四年」を「応永一四年」と
 記載することは
 中世にはありえないことであるという。
 島津氏によって自らの先祖と主張する
 源頼朝の鎌倉の墳墓が整備されたり、
 毛利氏によって
 大江広元らの先祖の墓が整備された
 19世紀初頭頃の状況と酷似しており、
 先祖作りの創作の可能性が高いという
 (現在は非公開)
 ・・・??・・・
  ↓↑
 ・・・「太安万侶」の墓碑
 1979年(昭和54年)1月23日
 奈良県立橿原考古学研究所より、
 奈良県奈良市
 此瀬町の茶畑から
 安万侶の墓が発見され
 (北緯34度39分55.0秒東経135度54分25.0秒)、
 火葬された骨や真珠が納められた
 木櫃と墓誌が出土したと発表された。
 墓誌の銘文は2行41字。
 左京の四条四坊に居住したこと、
 位階と勲等は従四位下勲五等だったこと、
 養老7年7月6日に歿したことなど記載。
 墓誌銘全文引用は以下の通り。
  ↓↑
 左亰四條
 四坊
 従四位下勲五等
 太朝臣安萬侶
 以
 癸亥年七月六日
 卒之
 養老七年十二月十五日乙巳
 ・・・コレも、あやしい・・・のでは・・・
ーーーーー
  ↓↑
 徳川氏は、
 松平氏当主の徳川家康が創始した苗字で、
 松平氏の伝承によると、
 ルーツは三河国(愛知県)の
 庄屋である
 松平太郎左衛門信重に
 婿養子に入った、
 時宗の遊行僧と伝えられる
 徳阿弥である
 彼は
 清和源氏系
 河内源氏義国流
 得川氏
 (徳川氏、
  世良田氏)・・・世良田(せらた、せらだ)
          セリョウデン=芹生伝・施了傳
 の末裔
 浪人となり
 大浜称名寺
 で開かれた
 連歌会での出会いが
 信重の養子に入るきっかけと伝えられる
 (父祖の地
  上野国新田郡
  徳川郷の
  時宗寺院、
  徳川満徳寺は
  後に
  縁切寺とされた)
 還俗して
 松平親氏と名のった
  ↓
 三河国に興った松平氏は、
 松平清康のとき、世良田氏の後裔を称する。
 清康の孫である
 家康は、朝廷に働きかけて
 世良田氏=得川氏=新田氏=清和源氏の
 末裔であるとの公認を得ようと目論むが、
 世良田氏ではなく、
 世良田義季(得川義季)の末裔ではあるが、
 藤原氏支流と自称する徳川氏として、
 改姓の勅許を受けた
 のちに系譜を改めて整理し
 徳川氏は
 世良田氏直系の
 源姓で
 得川氏を復活した氏族であるということにされ、
 家康は征夷大将軍に就任した・・・
ーーーーー
  ↓
 三浦一族
 宝治合戦(ほうじかっせん)
 鎌倉幕府の内乱
 執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立
 宝治元年(1247年)6月5日
 鎌倉での武力衝突
 北条氏と
 外戚
 安達氏らによって
 三浦一族とその与党が滅ぼされた
 三浦氏の乱とも呼ばれる
 経過を記述する史料は、
 「吾妻鏡」のみ

 三浦氏(みうらし)
 平安時代の
 相模国の武家
 三浦党(みうらとう)とも呼ばれる
 三浦氏は古代から
 三浦半島に勢力を持った
 在地豪族
 相武国造の子孫の
 太田部直氏で、
 平姓
 三浦氏は、
 為通・為継・義継・義明・義澄・義村
 の
 6代に渡って一族を形成
 平良文の曾孫である
 平忠通(別説として忠光)の代に
 初めて三浦の苗字を名乗った
 浦為通は
 前九年の役
 源頼義から
 相模国三浦の領地を与えらた・・・
 実在を疑う説も・・・
 安西氏・宮沢氏
 為通の次男・為俊の息子である
 為景は安西氏を称した
 為俊の養子である
 公俊は宮沢氏の祖
  ↓
 三浦為継
 為継の三男・通継は平子氏を称し
 周防三浦氏の祖となり、
 四男・景継は
 安西氏の養子となった
  ↓
 三浦義継
 為継の子
 三浦義継(1067年-1159年)は
 相模国三浦郡を支配し、
 三浦荘司また三浦介を称した
 以降、三浦党は
 相模の有力在庁官人として相模介
 相模東半分と安房に勢力
 嫡男は
 三浦義明
 次男の義行は
 津久井氏と称した
 三男の
 為清は
 蘆名氏を称し
 孫の
 石田為久は
 木曾義仲を討ち取った
 四男の
 義実は
 岡崎氏を称し、
 その嫡子
 佐奈田義忠は
 石橋山の戦いで討ち死
 次男の
 義清は
 土屋氏の養子
  ↓
 三浦義明
 義継の嫡男
 三浦義明(1092年-1180年)は
 義澄とともに
 1156年の
 保元の乱
 1160年の
 平治の乱で
 源義朝に従う。
 平治の乱では義朝が敗れ、
 三浦一族は、京都から落ち延び帰国
 大番役の行き帰りに
 源頼朝の配所を訪ね、源氏との繋がりを保った
 義明は父にならい
 三浦介と号し、三浦荘(神奈川県横須賀市)
 の在庁官人を務める
 治承四年(1180年)
 頼朝の挙兵に応じて、三浦一族は挙兵
 石橋山の戦いで頼朝敗戦の報せを聞き、
 義明ら一族は引き返し、籠城戦、
 義明は一族を
 安房国に逃したあと、
 衣笠城合戦で戦死(享年89)
 義明の長男
 義宗は杉本氏を称するが39歳で没
 その息子
 義盛は和田氏を称した
 長男の義宗没後、
 家督は次男の
 義澄が継いだ
 三男の
 義久は
 大多和氏を称した・・・?
 四男の
 義春は
 多々良氏を称し、
 その息子
 家村は
 佐久間氏を称した
 五男の
 義季は
 長井氏を称した
 六男の
 義行は杜氏を称した
 十男の
 義連は
 佐原氏を称したが、
 宝治合戦で本家が滅んだ後は、
 この家系が嫡流となった
 また、
 猪苗代氏、北田氏、藤倉氏、蘆名氏、新宮氏、加納氏等、
 奥州で栄えた子孫もいる
  ↓
 三浦義澄(義澄流)
 家督を継いだ
 三浦義澄(1127年-1200年)は
 矢部次郎とも荒次郎とも号した
 義澄は
 千葉常胤・上総広常・土肥実平らと共に
 頼朝の宿老
 一族である
 和田義盛も侍所別当職
 三浦氏は頼朝に従い
 平氏追討・奥州合戦に参戦
 頼朝の死後は
 十三人の合議制のメンバー
 和田義盛も入り、
 三浦党は鎌倉幕府内で大きな権力を持った
 その後、
 北条氏により
 和田義盛は
 建暦三年(1213年)
 和田合戦で滅ぼされた
  ↓
 三浦義村(義村流)
 義澄の跡は長子の
 三浦義村(?-1239年)が継いだ
 義村の弟である
 有綱・重澄は、それぞれ山口氏、大河戸氏を称した
 義村は評定衆の宿老に就任
  ↓
 北条氏による滅亡
 義村の子には
 朝村、泰村、三浦長村、光村、三浦重村、家村、三浦資村、
 三浦胤村(のち親鸞の弟子)、
 三浦重時、三浦良賢らがいる
 義村の長男である
 朝村の末裔が
 今川氏の家臣である
 駿河三浦氏である・・・
 次男は
 三浦泰村(1184年-1247年)
 四男は
 三浦光村
 泰村と光村は権力を持ち
 北条氏を凌ぐほどになったため、
 宝治元年(1247年)の宝治合戦で
 北条氏と安達景盛らに滅亡させられた
 『吾妻鏡』は三浦氏を貶める為に曲筆がなされた・・・
 千葉胤綱が三浦義村の和田合戦での変節を
 「三浦の犬は友を食らうぞ」と非難したという
 『古今著聞集』のエピソードから、より口汚く
 「狂犬(マッドドッグ)」と評された
 三浦氏は鎌倉幕府内部において、
 評定衆として枢要な地位についていたが、
 その地位を『悪用』した
 滅亡後
 家村の末裔と言う
 正次が江戸時代に時の
 将軍
 徳川家光に仕えて若年寄となり
 下総矢作藩で大名に列し、
 明次の代に
 美作勝山藩に封じられ廃藩置県を迎えた
  ↓
 泰村の長男
 景村は
 若狭氏を、
 次男である
 景泰は
 沼田氏を称した
 三浦朝村の三男
 三浦員村は
 宝治合戦で惣領の泰村と共に自害したが、
 員村の次男
 三浦盛明は無事であり、
 その子
 三浦義継が
 石井氏を称した
 相模三浦氏による再興
 三浦氏は傍流の
 佐原氏の
 三浦盛時により再興
 盛時は宝治合戦前には既に
 北条時頼に懐柔・・・
 以降の三浦氏は御内人となって幕府内で活躍
 盛時の子の
 三浦頼盛は
 北条時輔の遺子を捕縛して幕府に引き渡している
 盛時によって再興された
 佐原流三浦氏は
 戦国大名の
 相模三浦氏
  ↓
 三浦氏の本拠があった
 横須賀市
 衣笠の
 衣笠商店街では「衣笠さくら祭り」で
 三浦氏に扮したパレードを
 毎年4月に見ることができる・・・?
 北条氏により滅ぼされた後、三浦氏の落人は各地に散った
 東北地方には地域の三浦姓の大本家として続く家が残っている
 宮城県
 本吉地方には、
 伝承として、
 三浦氏の落人たちが各地に散り散りになる時に約束したという、
 「その地に三浦氏の者が住む目印として、
  庭に
  三浦氏のシンボルである
  かやの木を植える」
 という風習・・・
 三浦氏の祭神である
 三浦大明神を祀っている家もある・・・?
  ↓
 大多和(おおたわ)氏・・・?
 桓武平氏三浦氏の一族
 三浦義明の子大多和義久が、
 領地(相模国三浦郡大多和村)の
 名前を名字として称したのが始まり
 義久の子
 義成は
 従兄の
 和田義盛の乱には、
 義盛に与せず北条氏について生き延び
 宝治合戦で一族の
 三浦泰村が謀反を起こしたときも、
 北条時頼に従っている
 1333年
 義久の5代目の子孫の
 大多和義勝(六左衛門尉義行)は
 新田義貞の
 鎌倉討伐に馳せ参じてその傘下に入り、
 戦功
ーーーーー
 ・・・

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天王のホシは保志・・・

2015-01-31 17:39:04 | 古事記字源

 「みうら→視裏」ならば、「三浦」を調べてミルか・・・その前に・・・みうら・・・「視る裏」・・・「御の裏」・・・「音の得等」・・・「音の理・恩の理・温の理」・・・「on の  back、behind」・・・「恩の背後」・・・」天王星・天上の・霊の=天文学上の(Uranus)」・・・「天体の(URANUS)」・・・「天(Uran)」・・・ウラン・・・うらみ・・・?
     ↓↑
 「徳川家康(松平元信→元康→家康)」は改名・・・
 通称は「次郎三郎」・・・
 この「通称名・通名」は
 一般的に使われる呼称の
 「通用名・仮名(けみょう)」ではないのではないか・・・
 「次郎-三郎」の連結は「次郎」でもあり、「三郎」でもある・・・
 「耳漏・痔瘻・自労」の「佐甫良・左文郎」・・・?
ーーーーーーーーーーーーーーーー
              ↓
 「里木 佐甫良(さとき さぶろう
  明治45年・1912年3月31日~1999年12月23日)は、
  山形県山形市八森出身の日本の俳優
  旧制山形県立山形中学校(山形県立山形東高等学校)を
  卒業
  1930年に上京
  1931年
  日本俳優学校
 (歌舞伎役者
  六代目尾上菊五郎が設立した四年制の学校)
  へ二期生として入学
  同期には
  山形勲、植村謙二郎、加藤嘉、三津田健
  その後は
  日本楽劇協会演劇研究所
     ↓↑
 (山田 耕筰が設立)・・・?・・・に在籍
     ↓↑
  「ペチカ・赤とんぼ」などの童謡の作曲
  1930年(昭和五年)
  耕作から耕筰へと改名
  1936年(昭和十一年)
  レジオンドヌール勲章受章
  1937年(昭和十二年)
  相愛女子専門学校(相愛大学)教授に就任
  1940年(昭和十五年)
  演奏家協会を発足させ、会長に就任
  同年11月にオペラ「黒船」(初の題名は「夜明け」)初演
  1941年(昭和十六年)
  情報局管轄下の「日本音楽文化協会」発足、副会長就任
  音楽挺身隊を結成し、占領地での音楽指導
  将官待遇となりしばしば軍服姿で行動
  1942年(昭和十七年)に帝国芸術院会員
  1944年(昭和十九年)に日本音楽文化協会会長
  ・・・終戦後、東京新聞で音楽評論家・山根銀二との間に
  「戦犯論争」・・・1948年(昭和二十三年)脳溢血で倒れる
  1950年(昭和二十五年)日本指揮者協会会長就任、放送文化賞を受賞
  1956年(昭和三十一年)文化勲章受章
  サインには
    「Koscak Yamada」と綴りを使用・・・
     ↓↑
  浜田 広介は、山形県高畠町出身の童話作家・・・
     ↓↑
  『赤い蝋燭と人魚』は、
  1921年(大正十年)に発表された
  小川未明の創作童話
  ・・・なるほど、「広介、耕作」の違いである・・・
    「未明」にも混乱・・・
     ↓↑
  濱田 耕作
 (はまだ こうさく
  もしくは浜田 青陵(はまだ せいりょう)
  1881年2月22日 - 1938年7月25日)
  日本の考古学者。
  京都大学名誉教授(京都帝国大学総長)。
  岸和田藩の上級藩士である
  濱田家の長男として
  大阪府岸和田市に生まれた。
  「青陵」は号。
  「日本近代考古学の父」と呼ばれる
ーーーーーーー
     ↓↑
  里木 佐甫良(さぶろう)
  1944年に陸軍移動演劇隊に入隊
  満州および北支・中支前線を慰問で廻った
  戦後は東宝劇団、劇団東京、
  二代目
  曾我廼家五郎劇団
  劇団東芸(設立参加)
  俳協などに所属
  昭和30年代からテレビドラマや映画で脇役として活躍
  晩年は
  伊丹十三監督作品の常連俳優
  デビュー当時の芸名は
 『里木三郎』
  1960年代中盤頃に
 『里木佐甫良(さぶろう)』に改名
  1998年12月23日、死去。87歳没」・・・
     ↓↑
 「二郎三郎」・・・
 コレをもっと、イジって遊んでみると・・・
 「二+三」が「五郎」
 「三-二」が「一郎」
 「二×三」が「六郎」
 「三÷二」が「1+(1/2)」・・・「1.5」で
 「二÷三」なら「2/3」・・・・・・「0.666・・・」で
 割り切れないナイなぁ~ッ、
 「レイのテン(コンマ)の後はロク出の連続」・・・
 
 文字通りの前代の親の名を「通す称」・・・連ねる名?
 ・・・・ナンで、「次郎+三郎」・・・かは、
         「次男の子供」の「三男」・・・?
 松平家の祖始・「世良田親氏」が
 「世良田親氏=松平三郎親氏=松平次郎三郎親氏」、
 松平次郎+三郎+親氏=松平三郎親氏→「次郎」が缺落?
 輩行名=兄弟順を表す名称・輩行は一族の同世代の者・通常は兄弟のこと
   「長男=太郎・次男=次郎・三男=三郎・・・」
 ・・・松平次郎(次男)の子供の三郎(三男)の親氏
      父祖の次男→親の三男→子供(本人)の親氏→孫
 源「九郎」義経は
 源義朝の「九男=九郎」・・・だが、
 「九郎冠者」・・・「冠者(かじゃ・カンジャ)=成人男子)」
           ・・・召使い・下僕
  苦労患者・黒鵜冠者=鵜飼い・・・間者→忍者
 「猿面冠者」は「太閤豊臣秀吉」 
 ・・・諱・字・号・諡・法号・戒名・輩行名・本籍・・・
 あだな=渾名・仇名・綽名
  ↓↑
 以下の原文は「輩行名とは - goo Wikipedia (ウィキペディア) 」
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E8%BC%A9%E8%A1%8C%E5%90%8D
  ↓↑
 嵯峨天皇が第一皇子以下に対して
 太郎、次郎、三郎といった幼名を授けたことに由来
 中国においては、実名(諱 -いみな)で呼びかけることは
 親や主君などのみに許され、
 それ以外の人間が呼ぶ時は
 「字(あざな)」と呼ばれる、本名とは別の名前を使った
 日本においても本名で呼ぶのを避け、
 代わりに
 「仮名(けみょう)」と呼ばれる通称を用いた
 この仮名として、輩行名が使われた
 時代が下った後も武士階級、町人階級問わず広く用いられた
 武士階級が「仮名」なのに対して、
 「諱(いみな)=実名」・・・忌名(いみな)
 を持たない町人の場合は
 「本名」として用いられた
 同姓同名が多くなり、
 1文字あるいは2文字を付け加える場合もあった
 源義家の八幡太郎、
 源義綱の賀茂二郎、
 源義光の新羅三郎
 などである
 必ずしも出生順と一致せず、
 宇喜多秀家は「次男」であるが「八郎」であったり、
 茶屋四郎次郎のように代々襲名される場合もあった
 (「四郎次郎」は「四郎の次男」の意味)
 仇討ちの曾我兄弟の場合は、
 兄の祐成が「十郎」、
 弟の時致が「五郎」
 先に生まれた側室の子を差し置いて
 正室の子が太郎を名乗る場合も多い
  ↓
 北条時頼・・・北条時氏の「次男」、通称は五郎
  の
 「次男」の
 北条時宗が
 「相模太郎」・・・?・・・正室(継室)の子
 「長男」の
 北条時輔が
 「相模二郎」・・・?・・・庶兄・側室の子
 を名乗っている
  ↓
 数字で
 「十一」以降は「郎」の字をつけない場合もあり、
 那須「与一」は
 「十一男」であり、
 「与一」は「十あまり一」の省略
 「三十郎」や「三四郎」は実在の人物で
 この輩行名を名乗った記録は無い・・・
ーーーーー
  ↓↑
 家康
 幼名は「竹千代」
 「得川(えがわ→とくがわ)」、
 ・・・ナンで、「世良田(せらた・せらだ)」が出てくるんだか・・・?

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日没・・・「数字」のない目安・・・

2015-01-30 16:29:46 | 古事記字源

 ・・・「新井白石」・・・「学問=知識の追求」の「目的」とはナンなのか・・・「文字」は「階級社会」の「使用価値」のあるモノとして「利用」されてきたのだ。歴史的時間の経過としての記録された既存の「文字」の「学習」と「習得」は「階級社会の出世」の「道具」である。階級社会の「出世での衣食住の確保」の「手段」であり、「科挙制度」も煎じ詰めれば、身を切った「宦官制度」と同類である。支配体制維持の「官僚」になれるかどうかの「条件」である。
 だが、単に「文字の記憶、諳誦」だけでは出世の保障はない。文字で記録された内容の理解力と、判断力、そして、それを駆使した現実的な人間諸関係の中での「状況分析」と、「実行力」である。
 階級社会での決定権は序列社会の上司である。
 「文武両道」と言うが、階級社会での出世は、「知識教養」、「武術技能」だけではそれを保障しない。
 縁故、血縁など、諸々の関係性の壁の高低が存在する。
 そして、「要領」の「善し悪し」・・・・「ヨウリョウの是非」とは微妙なコトバであるが。
 「人間」は時代的な「階級社会・階層社会」の枠内中で
 「感情的な感性(好き嫌い)」と
 「思想的な理屈(善し悪し)」の
 「選択判断」で蠢いている。
 その人間諸関係での
 「心理」は複雑で単純ではないが、
 ほとんどが
 「思想=信念・信条」では動かない。
 「感情=情念・心情」で動く・・・「喜怒哀楽」
 「自己保身」は「自己存在」の生理的原点で・・・相手に要求しても「原則は自分には当て嵌めない」の「倫理・道徳」は、これにプラスアルファである・・・
 「人間」を観察するには
 「歴史的な身上」と
 「学習した思想」と
 そして、現在的な
 状況、環境での
 「心理的」な
 「価値判断」の傾向性を知る必要があるだろう・・・ 
 「信念・信条」で命を「マットウ」するヒトはゴリッパであるかな・・・
 「武装テロリスト」と云えども同類である。
 しかも、奴等に「選択、決断」の「悪知恵」を提供してりるのは「TV・ラジヲ・新聞」等の彼らの次の「行動」の多様性の可能性を「推理・推断・憶断」して披露している、その「情報提供」の「愚かしさ」である。
 「テロ」にも「戦争」にも打ち勝つためには、これらの「情報」を一般公開の「ビジネス」として「敵対者」にも結果的に提供するのは愚かとしか言いようがない・・・「プチブル意識(出世・儲け)の国家幻想」では「個々人の命」をマモるコトを前提とはしてイナイ・・・「国家」は「国家支配体制=階級維持体制」のみを「国家の意志」としているのである・・・軍事参謀は「敵の状況把握の情報」は必要であれ、「味方の情報漏洩」は望むはずもない・・・この時期、「TV・ラジヲ・新聞」等の「情報統制」を切望するだろう・・・それでも、現在的な「情報」は「インターネット」で拡散されていく・・・「文章、文字の読解・誤解・曲解」もアルが・・・それらは織り込み済みである・・・
 「文字知識」
、文章の内容解読はモチロン、「記録の文章」の「個々の文字自体」の意味する内容の理解度はかなり、怪しいものである・・・「コトバの習得」は「文法の習得」からは始まらない・・・親子、兄弟姉妹、自は分自身の存在を支えてくれる環境とのコミュニケーションから始まり、「コトバの文法」は、その後からの「学習」による・・・
 発明された「抽象化(共通理解・一般理解・相互理解)された文字」で、文字の学習者、既知として知っている者を、その意味内容を「認識対象の本質」として唯一「事実」と理解させ、させしめるモノは
 「アラビア数字(0・1・2・3・4・5・6・7・8・9)」の
 「記号文字」である・・・・
 「象徴的意味」を有する場合もあるが、
 「数字記号」にはそれ自体以外の意味はない・・・・
 「10進法」として加減乗除の「計算としての約束事の結果の数字」も、
 その「数字の本質」を踏まえた共通結果の理解でも、
 答えは「異なった数字」とはならない・・・答えは「唯一」である。
 「1+1」=「2」であるコトは既に「文字・数字・数式」を知っている個々人、萬人の共通理解で、それ以外の「結果理解」はない・・・
 だが、個々の「数字」に「数でない意味」を付与した段階から事情が変化する。そして、「数式」をコトバで説明したら、「1に1を加えたら、答えは11」ともなってしまう可能性がある・・・「11」を「二」、あるいは「十一」と理解するかどうかは個々人の知識理解度のレベルによるが・・・
 「1+1=11」
 となり、これを踏まえた「漢数字」の
 「一+一」=「十一・壱壱・拾壱」、
 あるいは、
 記録された記号の「+」も「漢字」としたら
 「一+一」=「王」ともなる・・・
 ・・・「文字」は「階級社会」の支配階級の「官僚・陪臣」に「記憶の記録」と「利用」されてきたが、この階級社会で、「文字知識」は拡散されるのが必然であった。第一に「数字の本質理解」である。
 その理由は簡単で「階級社会」での「商売・交易・税金徴収」には「数字」と、その「計算結果の数字」には階級を超えた「共通理解・相互理解」が必要だった。
 そして、「建築・土木・河川工事」の「正確」さを保証するのは「数字」を前提とする「技能・技術」である。
 時代は、いずれ「農耕」、「工芸」、「造船」などの「技能・技術」の「共通理解」の正確さにも「数字」は必要とされた・・・当然のこと「戦争技術」にも、「政治技術」にも・・・「占いの数字、吉凶の数字は共同体存亡の知識、技術」であった・・・そして「骰子の数字」は「博奕」である・・・
 「数字」以外の他の対象認識を前提とした「具象文字」も、それらを前提にした観念的感情の「抽象文字」も、その理解度の解釈の巾は広い。そして「曖昧性」は必然である。
ーーーーー
 「三浦(釜山浦・薺浦・塩浦の総称)の乱(1510年)」
 の・・・前哨・・・
  ↓
 以下は例のごとく、参考、参照の原文は「ウイッキペデア」などから・・・
 「倭(やまと・ワ・イ・ヰ)」
  ↓
 「日本書紀」では「夜摩苔」
            夜の摩(高山)の苔
  ↓    遠望した夜の高い山の苔
               摩=广の木木の手
  ↓             苔=艸のムの口
  ↓             艸=くさかんむり
  ↓             ム=よこしま
  ↓             口=くち・くに 
 倭(わ、やまと、ワ、ヰ)である
   ウェイ(中国南方音)・・・
   ゥオー(中国北方音)・・・
 倭(やまと)・・・・・・・・・・人は禾の女
 日本の古名
 声符は委(説文解字)
 声符は委(イ)
 委は
 稲魂(いなだま)を?・・・当今・問う今
                唐献
           禾がナゼ、稲の「魂」?
 被(かぶ)って
 舞う女の形で
           女がナゼ、「舞う」?、
 その姿の
 低く
 しなやかなさまをいう・・・?・・・シナやか
 (字通)
 禾(カ)は
 しなやかに穂をたれた低い
 粟(アワ)の姿
 委(イ)は
 それに女を添え
 女性の
 なよなよした姿を示す
 倭は「人+委」で、
 しなやかで
 たけが低く
 背の曲がった
 小人をあらわす
 (漢字源)
  ↓
 字源
  ↓↑
 すなほ
 「順ふ貌・・・貌=かたち・ボウ(バウ)
            顔だち・容姿
            外貌・顔貌(ガンボウ)・形貌・相貌
            体貌・美貌・風貌・面貌・容貌
            物のすがた
            外観
            概貌・全貌
            おぼろげにつかめたありさま
            「万葉集・山上憶良の歌」に
            「朝皃(あさがお)之花」と表記
             「阿佐我保・阿佐加保」
            「牽牛子」・・・?・・・彦星の子
            「蕣花」
           「皃」は異体字
            人の頭と・・・・・・・「白」が「頭」
                       「人面の形」
            足を・・・・・・・・・・・「儿」が「足」
            象ったもので、
            獣や人の姿かたちを
  倭遲は
  囘りて
  遠き貌」
 やまと
 古、支那人が日本を呼ぶ稱
  ↑
 説文解字
  ↓↑
 「順(したが)ふ
  皃(かお)なり、
  人に従ひ、
  委を聲とす、
  詩に曰く、
  周道倭遅(いち)たり、と」
  ・・・
  「倭への周り道で、遅(遅し・遅れる)」・・・?
   ↓
  「寇(あた・あだ・コウ)」・・・・・・・・・・・・・・・仇・仇討
  㓂は、(五経文字)にある異体字
      「㓂」=「ワ+元+女」・・・倭は元は女
           倭は二の儿(ニン・ジン)のオンナ
  冦は、(増広字学挙隅)や
       漢語大字典・異体字表)にある異体字
  𡨥は、(康煕字典)にある俗字
  宼は、(正字通)にある俗字
      「宼」=「ウ+元+女」・・・鵜(鸕)は元は女
           兎(烏・卯)は二の儿(ニン・ジン)のオンナ
  𡯷は、(字彙補)にある異体字
  𢽉は、(説文長箋)にある異体字
  「寇」の類字は「冠(かんむり・カン)」
   ↓
  外から侵入して害を加える賊
  「外寇・元寇・倭寇」
  外から攻めこむ・あだする
  「侵寇・入寇・来寇」
  盗賊、掠め取る、損なう
  「春秋左氏伝・文公七年」
  に
  「內に亂を爲し、外に寇を爲す」
  とある
  外国から侵入する敵
ーーーーー
 倭寇(わこう・ワコウ)・・・
 13世紀から16世紀にかけて
 朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、
 及び
 東アジア諸地域において活動した
 海賊、私貿易、密貿易を行う
 貿易商人の事である。
 「和寇」、
 「海乱鬼(かいらぎ)」?・・・回覧記
 とも表記される
ーーーーー
  ↓
 前期倭寇と、
 過渡期を経た
 後期倭寇の二つに分けられる
 倭寇の構成員
 前期倭寇では
 主に
 日本人で
 一部が
 高麗人
 後期倭寇は
 中国人が多数派で
 一部に
 日本人をはじめ
 諸民族を含んでいたと
 推測されている・・・
  ↓
 倭寇
 「倭(日本)による侵略」という意味
 中国、朝鮮では
 日本人海賊
 5世紀の
 高句麗広開土王碑の条文
 にも見られるが、
 後世の意味とは異なる・・・?
 『倭、○○(地名)を寇す』
 という表現の漢文表記では
 『倭寇○○』のように
 「倭寇」の2字が連結しており、
 これが後に名詞として独立した・・・?
  ↓
 ・・・「倭が仇す」と、「倭を仇す」では
      「寇」の主語が異なる・・・
  ↓
 16世紀の豊臣秀吉の
 文禄・慶長の役
 日中戦争における日本軍も
 「倭寇」と呼ばれる
 朝鮮半島や中国において
 排日感情の表現として使用される
 侮蔑するときに用いており、
 「野蛮人」の意味・・・
ーーーーー
  ↓
 前期倭寇
 14世紀
 日本の南北朝時代から室町時代初期
 朝鮮の高麗から朝鮮王朝の初期
 北朝を奉じて
 室町幕府を開いた足利氏と、
 吉野へ逃れた
 南朝が全国規模で争っていた時代
  ↓↑
 前期倭寇と高麗
 『高麗史』によれば
 1350(庚寅)年2月
 「倭寇の侵すは此より始まる」という記事
 庚寅年以前にも多数の記事がある・・・
 最も古いのは
 『高麗史』の
 高宗10年(1223年)5月条
 「倭寇金州」とあるのが初出
 「高麗史」によれば、
 1375年の
 藤経光
 誘殺未遂によって
 倭寇が激怒し、
 高麗住民を無差別殺戮
 1370年代の
 前期倭寇の行動範囲
 朝鮮北部沿岸にも及び
 南部では内陸深くまで侵入
 高麗では
 1376年には
 崔瑩が
 鴻山で、
 1380年には
 李成桂が
 荒山、
 崔茂宣と
 羅世が
 鎮浦で
 1383年には
 鄭地らが
 南海島
 観音浦で、
 倭寇軍に大打撃を与え、
 1389年の
 朴葳による
 対馬国侵攻では、
 倭寇船300余隻を撃破し、
 捕虜を救出し、
 町を焼き討ちして帰還
  ↓
 『高麗史』によれば、
 高麗は宗主国である
 元国や明国に上奏し、
 元寇以降も
 さかんに軍艦を建造
 日本侵攻を繰り返す
 これは、
 対馬を拠点とする
 倭寇討伐や
 日本侵略を口実に
 元国や明国の大軍が
 再び自国に長期駐留して
 横暴を極めることをおそれた
 あまりの
 「先走り=軍艦建造」・・・
 倭寇討伐した
 李成桂は、
 1392年に
 高麗王朝を倒して
 李氏朝鮮を建国
  ↓
 高麗史にでてくる
 「倭国」を
 南朝(征西府)だと推定・・・
 ほかにも
 倭寇の首領が
 日本の精鋭部隊と同じ装備で、
 南北朝の争いによる統制の緩みに乗じて
 日本の
 正規の精鋭部隊が物資の略奪に参加した・・・
 南朝方の
 菊池氏や
 肥前の
 松浦党(松浦氏)が
 北朝との戦いのための
 物資獲得を目的に行った・・・
  ↓
 中国
 1368年に
 朱元璋が
 明王朝を建国
 倭寇討伐の
 要請をするために
 (日本)に使者を派遣
 九州では
 南朝の
 後醍醐天皇の皇子で
 征西将軍
 宮懐良親王が活動
 使者を迎えた
 懐良は
 九州制圧のための権威として
 明王朝から冊封を受け、
 「日本国王」と称した。
 その後幕府から派遣された
 今川貞世により
 九州の南朝勢力が駆逐、
 室町幕府将軍の
 足利義満が
 1392年に
 南北朝合一
 明国との貿易を望んだ
 義満は、
 明国に要請されて
 倭寇を鎮圧
 義満は明朝より新たに
 「日本国王」として
 冊封され、
 1404年
 (応永十一年)から
 勘合貿易の開始
  ↓
 「応永の外寇」
 1419年、
 朝鮮王朝の
 太宗は
 倭寇撃退を名目にした
 対馬侵攻を決定
 対馬の有力者が
 明などに渡航し不在である時期を狙って、
 同年6月、
 李従茂率いる
 227隻、17,285名の軍勢を
 対馬に侵攻
 朝鮮軍は敗退
 対馬や北九州の
 諸大名の取締りが厳しくなり、
 倭寇の帰化などの
 懐柔策を行った
 同1419年
 遼東半島の
 望海堝で
 倭寇は明軍に敗れた
 前期倭寇は、
 室町幕府や
 北九州の守護大名の
 日明貿易、
 対馬と朝鮮の間の交易再開
  ↓
 『世宗実録(世宗二十八(1446年)十月壬戌条)』の記述には
 「倭人、不過一二、而本国之民、仮著倭服、成党作乱」
    ↓↑
 「倭人は1、2割(1、2件)に過ぎず、
  本国(朝鮮)の民が、
  仮に
  倭服を着して党を成し乱を作す」 
  ↓
 後期倭寇
 日本では
 1523年に勘合を巡って
 細川氏と
 大内氏が
 それぞれ派遣した
 朝貢使節が
 浙江省寧波で争う
 「寧波の乱(寧波争貢事件)」
 が起り、
 勘合貿易が途絶すると
 倭寇を通じた密貿易が盛んになり、
 中央で起こった
 応仁の乱の為、再び倭寇の活動が活発化
 後期倭寇の
 中心は
 私貿易を行う
 中国人であったとされ、
 『明史』日本伝にも
 「真倭(本当の日本人)」は
 「10のうち3である」とも記述
 明王朝は海禁政策により私貿易を制限
 これに反対する
 中国(一説には朝鮮も)の商人たちは
 日本人の格好を真似て(偽倭)、
 浙江省の
 双嶼や
 福建省南部の
 月港を拠点とした
  ↓↑
 後期倭寇は沿岸部の
 有力な
 「郷紳」と・・・郷紳(きょうしん)
  ↓      1911年までの君主制下の
         中国の地方社会で、
         社会的・文化的地位を有する人を指す
         「紳士・士紳・縉紳」ともいう
         「一般的に
          科挙で得られる肩書き(生員以上)
  ↓       を持っている人」を指す
 結託し、
 後期には
 ポルトガルや
 イスパニア(スペイン)
 などのヨーロッパ人や、
 日本の
 博多商人とも
 密貿易を行っていた(大曲藤内『大曲記』)
 後期倭寇の
 頭目には、
 中国人の
 王直
 徐海
 李光頭
 許棟
 などがおり、
 王直は
 日本の
 五島列島などを拠点に
 種子島への
 鉄砲伝来にも関係
 鉄砲伝来後、
 日本では鉄砲が普及し、
 貿易記録の研究から、
 当時、
 世界一の銃の保有量を誇る・・・
  ↓
 1547年
 明の将軍である
 朱紈が派遣されるが鎮圧に失敗
 1553年
 嘉靖大倭寇
 と呼ばれる倭寇の大規模な活動
 明朝内部の官僚の中からも海禁の緩和
 胡宗憲が
 王直を懐柔するものの、中央の命により処刑
 戚継光が
 倭寇討伐に成功
 以後、
 明王朝はこの海禁を緩和する宥和策
 東南アジアの諸国やポルトガル等の貿易を認める
 日本に対してのみ
 倭寇への不信感から
 貿易を認めない態度を継続
 倭寇は
 1588年
 豊臣秀吉が
 倭寇取締令を発令するまで抬頭し続けた
  ↓
 倭寇の構成員
 初期~最盛期の前期倭寇の構成員は、
 「高麗史」に見える
 高麗末500回前後の倭寇関連記事の内、
 高麗人が加わっていたと
 明記されているのは3件
 一方、
 朝鮮王朝実録『世宗実録』によれば、
 1446年の記事として、
 「(この記事の当時から30年近く前の、太宗時代の末期に)
  真倭(倭人)は一割、二割にすぎず、
  残りは我が国の民である」と記述
 倭寇の本質は
 国籍や民族を超えた人間集団・・・海賊
 倭寇は、
 中国人が中心であり、
 『明史』には、
 日本人の倭寇は
 10人の内3人であり、
 残り7人は倭に従ったものである
 (「大抵真倭十之三、從倭者十之七。」)と記されている
 中国人倭寇が多かったために
 日本人倭寇と
 偽って成敗した将軍を
 朝鮮の
 明宗王は処罰
 朝鮮王朝による
 対馬侵攻(応永の外寇)も、
 倭寇根拠地の征伐が大義名分
  ↓↑
 倭寇の根拠地
 日本の
 対馬や壱岐・五島列島
 朝鮮の
 済州島
 中国の
 沿海諸島部
 台湾島や
 海南島
 に存在
 豊臣秀吉の海賊停止令
 東アジアの海上世界では
 林道乾
 林鳳(リマホン)、
 明国を奉じて
 清国に抵抗した
 鄭芝竜、
 鄭成功
 の鄭一族などが半商半海賊的な存在で、
 倭寇ではないが同時代の海上勢力
 後期倭寇に多く見られた
 中国南部(広東・福建・浙江・台湾など)出身者は
 日本(横浜・神戸・長崎の三大中華街)や
 東南アジアに多数渡り、
 現地で
 華僑を形成
  ↓
 八幡船
 日本の室町時代から江戸時代にかけての
 海賊船は
 通称して
 「八幡(やわた)船」と呼ばれた
 倭寇が
 「八幡(はちまん)大菩薩」の
 幟を好んで用いたのが語源・・・?野蛮だろう・・・
 「ばはん」には・・・・・・・・・場犯かも・・・
 海賊行為一般を指す・・・
ーーーーー
 以下、参照、参考の原文は「ウイッキペデア」
ーーーーー
 三浦の乱
  ↓
 1510年
 三浦の乱(サンポのらん・庚午三浦倭乱)
 1510年(中宗四年)
 朝鮮国慶尚道で起きた、
 対馬守護宗氏と
 恒居倭人(朝鮮居留日本人)による反乱
 朝鮮に鎮圧
 15世紀、
 朝鮮半島南部に
 三浦と呼ばれる日本人居留地が存在
 宗氏を始めとする
 西日本諸勢力は
 三浦を拠点に朝鮮に通交
 朝鮮はこの通交に制限を加えていった
 それに対し
 宗氏と朝鮮両者の間に確執
 また
 三浦居住の
 恒居倭の
 増加に伴い様々な問題が生じ、
 朝鮮は
 恒居倭に対し強硬姿勢でのぞみ
 三浦の乱が勃発
 結果、
 三浦居留地の廃止
 通交も大幅制限
  ↓
 前期倭寇
 朝鮮は討伐・懐柔
 室町幕府への鎮圧要請
 倭寇沈静化を図り、
 通交権をもって
 西日本諸勢力から
 倭寇禁圧の協力を取りつけ、
 また
 倭寇自体を
 平和的通交者へと懐柔し
 対馬は
 倭寇の一大拠点
 対馬守護であった
 宗氏にも協力要請
 李氏朝鮮建国当初
 入港場に制限はなく、
 通交者は
 随意の浦々に
 入港することが可能であった
 各地の防備の状況が
 倭寇に漏れるのを恐れ、
 交易統制のためもあり、
 1407年、
 朝鮮は
 興利倭船
 (米、魚、塩など日常品の交易をする船)
 の入港場を
 釜山浦
 薺浦(乃而浦とも、慶尚南道の昌原市)
 に制限
 1410年には
 使送船(使節による通交船)
 についても同様の措置
 1426年、
 対馬の有力者
 早田氏が
 慶尚道全域で
 任意に交易できるよう要求
 これを拒絶する代償として
 塩浦(蔚山広域市)を
 入港場に追加
  ↓
 釜山浦・薺浦・塩浦
 を総称して
 「三浦」と呼ぶ
  ↓
 中世の日朝交易
 通交使節による
 進上と回賜、
 朝鮮国による
 公貿易、
 日朝双方の商人による
 私貿易の
 三つの形態が組み合わさったもの
 朝鮮にとって
 公貿易は
 利益を産み出すものではなく
 国庫を圧迫する要因
 朝鮮国内における
 通交者の滞在費・交易品の輸送も
 朝鮮側が負担
 対馬は山がちで耕地が少なく
 土地を通じた
 領国支配は困難で
 宗氏は通交権益の
 知行化を通じて
 有力庶家の掌握や地侍の被官化を行い、
 領国支配を推し進めていた
 また主家である
 少弐氏の敗勢により
 九州北部の所領を喪失
 家臣に代替として
 通交権益を宛がう必要があり、
 通交の拡大を望んだ
 宗氏は様々な手段で通交の拡大を図り、
 朝鮮王朝と軋轢を引き起こすことになった。
 1443年
 嘉吉条約
 朝鮮は対馬から通交する
 歳遣船(毎年の使送船)の上限を
 年間50隻に定めた
 それに対し
 宗氏は
 特送船(緊急の用事で送る使送船)
 を歳遣船の
 定数外とし、
 島主歳遣船(宗氏本宗家名義の歳遣船)
 とは別に
 有力庶家名義の歳遣船を定約し、
 また島主歳遣船の
 上限を引き上げるよう要求したが、
 これは朝鮮から拒絶された。
 宗氏は対馬島外の
 勢力や実在しない
 勢力名を騙った新たな通交者の
 偽使を仕立て上げ、通交の拡大を図った。
 当時の日朝貿易における
 日本側の輸出品は
 胡椒・丹木・朱紅・銅・金等
 朝鮮側の輸出品は
 綿布
 朝鮮は
 綿布の
 国庫備蓄が底をつくことを恐れ、
 1488年に綿布の交換レートの引き上げを行い、
 1494年には金・朱紅の公貿易禁止、
 1498年には銅の公貿易も禁止
 それに対し宗氏は、
 特送船を使って、
 銅の輸出を図った。
 1500年に
 朝鮮に訪れた
 宗氏の使者は、
 11万5千斤の銅を持ち込むが、
 朝鮮は
 3分の1を買い取り、
 残りは持ち帰らせた。
 2年後、
 再度訪れた使者は
 残余の買い取りを迫ったが、
 朝鮮は
 綿布の交換レートを引き上げた上での
 3分の1の買い取りを提示し、
 交渉は物別れに終わった。
 翌々年、三度交渉するが不調
 1508年にもまた同様の交渉
 こうした大量の銅は、
 宗氏が新たに入手したものではなく、
 朝鮮が交易の制限を強化していく中、
 対馬・博多において
 大量に
 過剰在庫のモノ(銅)
 こうした
 交易の制限を巡る軋轢が繰返される中、
 宗氏は不満を募らせ、
 三浦の乱の一因となった
  ↓
 恒居倭の増加
  ↓
 交易従事者のみならず
 三浦に定住する
 日本人(恒居倭)
 は
 倭館の関限を超えて
 居住し、
 田地を購入して耕作
 朝鮮半島沿岸での
 漁業、密貿易など様々な活動
 朝鮮は、
 恒居倭の
 倭寇化を恐れ、
 検断権(警察・司法権)
 徴税権といった
 行政権を行使できず、
 日本人有力者による
 自治に任せるままであった
 朝鮮は恒居倭の増加を危惧し、
 宗氏に恒居倭を送還するよう度々要請
 宗氏は
 当初
 恒居倭を掌握しておらず、
 自身の支配下にある
 対馬へ送還
 1436年の送還により
 宗氏の支配下に
 ない者達が一掃され、・・・恒居倭?
 以降
 三浦は宗氏の派遣する
 三浦代官の支配するところとなった
 その結果、
 宗氏は送還に消極的になり、
 三浦人口は
 1436年の206人
 1466年には1650余人
 1494年には3105人まで急増
 恒居倭による
 漁場の占拠
 倭寇化
 密貿易の恒常化
 恒居倭と朝鮮人の癒着
 三浦周辺朝鮮人の納税回避
 朝鮮人水賊の活発化
 15世紀末
 朝鮮国は、
 恒居倭に対して
 辺将による納税の論告
 海賊行為者の逮捕と処刑
 検断権・徴税権行使
 1510年
 釣りに向かう薺浦の
 恒居倭人4名を、
 海賊と誤認した
 朝鮮役人が斬殺
 恒居倭人は
 この事態に憤慨し反撃
 4月4日
 対馬から
 宗盛順が率いる援軍
 約4500の兵力をもって
 三浦の乱
 を起こした
 倭軍は、
 釜山浦・薺浦の
 僉使営を陥落させ
 釜山浦では
 辺将を討取り、
 薺浦では生け捕りにした。
 さらに
 釜山浦から
 東萊城、
 薺浦から
 熊川城へ攻め進むが
 反撃に会い攻撃は頓挫
 4月9日頃
 倭軍は兵の一部を対馬へ撤退
 盛親は残りを薺浦へ集結させ
 講和交渉に臨もうとしたが、
 朝鮮は講和に応じず、
 4月19日
 朝鮮軍は薺浦へ攻撃
 薺浦は陥落
 倭軍は対馬へ撤退
 6月末
 倭軍は
 再度来攻するも
 撃退された
 日朝の国交は
 断絶状態
 宗氏以外の全ての
 受職人(朝鮮から官位を貰っている者)
 受図書人(通交許可を受けている者)
 に対しても同様
 1512年
 壬申約条により和解
 交易は再開され倭館も再び開かれた
 入港地は薺浦のみに制限
 歳遣船は半減、
 特送船の廃止、
 日本人の駐留の禁止、
 受職人・受図書人も再審査を受け
 通交は以前より制限
 その後、
 釜山浦も再び開港
 1544年
 蛇梁倭変が起こり、
 再び国交は断絶
 1547年
 丁未約条で
 交易が再開
 入港地は
 釜山浦一港に制限
 朝鮮と
 同格である
 日本国王(室町幕府)の
 使節の通交を
 制限するものではなかった
 宗氏は、
 日本国王使の
 偽使を仕立て上げ通交を行おうとした
 三浦の乱をきっかけに本格化することになった。
 偽の日本国王使派遣
 三浦の乱後の
 1511~1581年まで
 日本国王使は
 22回通交することになるが、
 本物の日本国王使は
 2回に過ぎず、
 20回は
 宗氏の仕立て上げた偽使であった
 日本国王使の派遣には
 朝鮮が室町幕府に発行する
 象牙符が必要であった。
 象牙符は
 大友氏と
 大内氏が所持するものであり、
 宗氏は
 両氏との関係の緊密化に腐心
 三浦の乱以前
 九州・中国地方の諸勢力も
 朝鮮から
 図書を受け通交
 三浦の乱を境に
 通交権は宗氏に集中
 日朝交易から締め出された勢力の一部は
 明人海商と結びつき、
 後期倭寇の一翼を担うようになる
 後期倭寇
 明国沿岸部で活動
 朝鮮半島沿岸部も活発に襲撃
 1588年
 豊臣秀吉の
 海賊停止令により
 倭寇が終息
ーーーーー
 ・・・階級社会の「国家エゴ・組織エゴ」は・・・つまり、「個人エゴ」・・・
 国家と「暴力団」の違い、国家と「テロ集団」の違いはナニか?・・・

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シぇラザードのハナシを聞いてくれッ!

2015-01-29 02:25:17 | 古事記字源

 ・・・「武器サン原則」解禁で、「日本の武器」をダレに売るつもりなのか・・・
 無償援助は難民のタメ・・・?
 食糧援助の「食糧の現物」は「最大の武器」にもなるが、
 「信用貨幣・紙幣・契約証書」の援助は「現物」ではない。
 「食えるモノ」ではない。
 「現物」でないモノは色々なモノに化ける・・・
 TV画面に映る黒装束の奴らが腕に抱える武器は
 「カラシニコフ自動小銃」
 「AK-47・カラシニコフ銃」
 ・・・「ウラジミール」なんて云う名前の奴もいた・・・
 Влади мир ・・・「世界を征服せよ!」
 「ヴラジーミル」・・・「秩序ある偉大さ」・・・?
 Владимир
      мир =「世界」
      мир =「平和」
 Владимир ウラジーミルの мирは
      東スラヴ語以外では
     mir で 「世界」 の意味はない
 「平和」 を意味する場合は мир
 「世界」 を意味する場合は мiр
 動詞 владеть (ヴら 'ヂェッチ)=「支配する・巧に、堪能にする」
 ・・・大量に武器を売ってモウケた奴はダレか・・・
 武器を買う人間はダレ・・・
 モラウって・・・
 買う以前に秩序が混乱した社会で大量に奪われた結果である・・・
 だが、
 「ナイフ」も」「ナタ」も「カタナ」も
 「拳銃・鉄砲・自動小銃・機関銃・大砲・ロケット・ミサイル」も
 時には、「素手」も「ペン」も
 「コトバ」も・・・
 殺人のタメの「武器」になってしまう・・・
 「日本国民の生命、財産」を護る、って・・・
 「いかなる事態においても
  国民の命と平和な暮らしを・・・・國民のダレの命と平和
  断固として守り抜くとともに、・・・守ってないし、マモレナイ
  国際協調主義に基づく
  積極的平和主義」の下、
  国際社会の
  平和と安定に
  これまで以上に
  積極的に貢献するためには、
  切れ目のない対応を可能とする
  国内法制を整備しなければならない」・・・
 「自衛隊と米軍が緊密に連携して
  切れ目のない対応をすることが」・・・
 「我が国に対する
  武力攻撃が発生した場合のみならず、
  我が国と
  密接な関係にある
  他国に対する武力攻撃が発生し、
  これにより
  我が国の存立が脅かされ、
  国民の生命、自由及び幸福追求の権利が
  根底から覆される・・・?
  明白な危険
  がある場合において、
  これを排除し、
  我が国の
  存立を全うし、
  国民を守るために
  他に適当な
  手段がないときに、
  必要最小限度の・・・・・・限度は状況次第
  実力を行使することは、
  従来の
  政府見解の
  基本的な論理に基づく
  自衛のための措置として、
  憲法上許容されると
  考えるべきであると判断するに至った。」・・・
 ・・・「國民」とは「個々人」の「個人」ではないらしい・・・
ーーーーー
  ↓ 
 ・・・「三浦の欄」・・・「三浦の乱」・・・
 家康は、
 ウイリアムアダムの
 難破船から
 銃、大砲、弾薬を没収して
 関ヶ原で使用した・・・
  ↓
 アダムスを
 250石取りの旗本に取り立て、
 帯刀を許し
 相模国
 逸見(へみ)に
 采地(領地。知行所)も与えた
  ↓
 三浦半島
 古代の律令制度では、
 東海道
 相模国に属する・・・相、模する国
 『日本書紀』には、
 「御浦」と記されている・・・ 「相模国・御浦郡」
 ・・・「みうら」・・・
  ↓
 桓武天皇の子孫で平の姓を賜った
 家系である
 平氏(桓武平氏)
 「良文」流が有名・・・・・?「良文」
 三浦一族の
 本
 拠地である
  ↓
 新井城・・・あらいシロ
 (油壺・・・・・・・・・・・・・1516年
               新井城に籠もった三浦一族は
               北条早雲の大軍を相手に
               3年間にわたって奮戦
               永正十五年(1518)に落城
               三浦義同(道寸)、将兵は討死
               残る者は油壺湾へ投身し、
               湾一面が血汐で染まり
               油を流したような状態になった
               後世
              「油壺」→あぶら=OIL・petroleum
                          灯油・石油                             
                    つぼ= jar ・pot・bottle・point
                      コ・・・壺中天
                         壺盧(ころ)
                         ふくべ=ウリ(瓜)
                              ひさご
                              夕顔の変種
                              瓢箪型の壺
               と言われるようになった
               それ以前は何と呼ばれたのか?
  マリンパークの辺り)
  ↓
 三浦一族は
 小田原を本拠とする
 北条早雲ひきいる
 北条一族と対立
 永正九年(1512年)
 平塚の
 岡崎城を奪われた事をきっかけに
 三浦半島まで追い詰められた三浦一族は、
 網代にあった
 新井城
 に立てこもり、最後の抵抗
 三浦一族
 最後の首領といわれる、
 三浦道寸義同(みうらどうすんよしあつ)と、
 道寸の子である
 三浦荒次郎義意(みうらあらじろうよしおき)
  ↓
 ミウラ(Miura )は、
 イタリアのランボルギーニが開発・製造した
 2シーターミッドシップスポーツカー
 伝説の闘牛牧場ミウラの名にちなんで命名
 ランボルギーニ・ミウラの「MIURA」
 スペインの牧場「Miura」
 ミウラ牛を作り出している牧場がミウラ牧場で、
 その牧場主がアントニオ・ミウラ氏
 ランボルギーニミウラの名前の由来は、
 9匹の闘牛を意味
  ↓ 
 相模国
 御浦郡(三浦郡)をルーツとする
 「御浦(みうら)」・・・・・・・・・・・・・おんうら・オンポ
                     ギョホ・ギョポ
 は
 浦賀海岸の先
 日本武尊が東征の際に、
 現在の
 横須賀市である
 走水(はしりみず)から海路で
 安房国に渡ったが、
 難破を避けようと祈願して、
 身代わりに妃の
 橘比売命が入水したという
 伝説に由来
ーーーーー
 ・・・「シェヘラザード -千夜一夜物語」・・・「1000の物語を王に語って聞かせたという王妃」・・・

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新井白石の知識の渇望・・・乱学の後・・・

2015-01-27 21:31:43 | 古事記字源

 「直接生産物」を生産する原材料費に付随する「間接的、媒介的」な「諸費用?」・・・「諸経費」・・・「諸経費」には「現場経費」・・・ 「現場の運営に必要な費用 人件費 、交通費、通信費、事務用品費、福利厚生費、労務管理費、雑用費、租税公課((契約書の印紙代や各申請手続き費など)や保険料(建築工事保険や賠償責任. 保険など、 労災保険料、建設工事保険 」など。「一般管理費」・・・会社の運営に必要な費用。「経営者や内勤者及び営業マンなどに係る費用、会社の社屋や備品、機械器具などの費用他」・・・「経費(事務所費用、減価償却費、調査研究費、宣伝、広告費など)」・・・「諸経費」は、通常、工事費の6~10%程度が多いらしいが、「本体工事費」、「本体生産費」でもない、「外交(公事?)」、その「+α」の「朝鮮通信使」に掛かった「諸経費」とは・・・「国家外交」には膨大な「経費」が掛かるが、その「目的成果」の是非は「不確実」で、結果は闇である・・・
 ・・・、「外交(公事?)」、その「+α」の「朝鮮通信使」に掛かった「諸経費」以前に当時の白石の「海外貿易」では「幕府のモウケ」がなかった・・・「貿易収支」は「赤字」だったのだ。
 当然である「鎖国」とは本質的に「自給自足の階級社会」である。海外貿易で「幕府財政の黒字」を望んでいないのである。だが、幕府の「大奥=女階級社会」は「海外ブランド」を望んだのである。いずれは掘削で枯渇する「金銀銅」が「海外貿易」での「支出の決済」である。「米」ではなかった。だが、「日本国内の国勢生産と流通の実質的な需給バランの目安」は「米高=石」である。
 白石は「米の封建社会」の常識から抜け出せなかった。当然である。「幕府財政の黒字」は「年貢米の生産量の増加と徴収」であった・・・基本的には「幕藩体制枠内での自給自足の農本主義者」であったのだ。
 日本の世界の窓口は「長崎・出島」であったが・・・当時の白石にあっては「鎖国体制維持枠の知識の範囲での政策」である・・・
 そして、新井白石が渇望、切望したの「書籍」と、それから得られる「知識」であった・・・しかも、「朝鮮通信使」からの・・・戦国時代は終わり、最大の武器である「鉄砲」、「大砲」に必要な「硝石」の輸入も必要とぜず、「兵農分離」も既に確立し、大型の帆船の軍艦も必要とせず、「吉利支丹(切支丹)」も、もはや存在していない「隠れキリシタン」の時代である。
 白石(1657年3月24日~1725年6月29日)にとって、「『読史余論三巻・天下九変五変」』上 または『公武治乱考』.」を将軍に侍講した知識はあれ、この時代的な制約はあれ、伊太利亜人のシドッチに遭遇するまでは「西洋の知識」には疎かった・・・彼の生きた時代は1600年の「関ヶ原」は遥か彼方の過去である・・・
 それにしても、不思議なことに白石には「三浦按針=ウイリアム・アダムス」の言及が見当たらない・・・あんなにも「知識」を追求し、「歴史」を追求していたのに「相模の國の幕臣」になった「三浦按針=ウイリアム・アダムス」の姿がみえない・・・白石の著述の何処かに彼、「三浦按針」の記述があるのかも・・・?・・・「三浦の乱」・・・は、日本での「西洋諸国(葡萄牙・西班牙・英吉利・阿蘭陀)」利権確執が重なる・・・?
ーーーーー
 以下は「新井白石」の続き
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/03edo.htm
  ↓↑
 「新井白石」の
  ↓↑
  E 琉球貿易
 この機会に、
 鎖国時代の今一つの貿易ルートであった
 薩摩藩による琉球貿易
 についても説明しておきましょう。
 鎖国というのは、わが国の場合、
 国交を持つ相手を制限する、
 ということであって、
 貿易量そのものを
 制限するものでなかったことは、
 第2章で説明しました。
 このため、
 薩摩藩による
 琉球貿易も、
 制限外として認められていました。
 琉球貿易は、
 琉球が
 独立国という建前の下に、
 中国などと貿易をし、他方、
 薩摩藩に対して
 琉球が
 朝貢貿易の形で
 船を派遣するという形で行われていました。
 銀貨が貿易の決済手段だったことは
 日朝貿易の場合と同じです。
 1715年に、
 白石は、従来認められていた
 銀1206貫の限度額を906貫に抑制しています。
 薩摩の方が対馬よりも制限が厳しいのは、
 小藩である対馬に対しては、
 外交費用相当の援助という要素があるためです。
 琉球貿易の詳細については、
 薩摩藩ははっきりした資料を今日に伝えていないので、
 確かなことは判りませんが、
 薩摩藩は、
 この禁令は余り守らなかったようです。
   ↓
 (3) 年貢増徴策
 貨幣の改鋳や長崎新令は、いずれも大事なものですが、これらは
 幕府財政を豊かにしてくれる力は持っていません。
 通貨改鋳策に至っては、
 経費分だけ
 幕府財政を締め付けることになるはずです。
 そこで、
 歳入の増加策が必要となるのですが、ここまできますと、
 天才白石といえども、
 封建社会の常識から
 抜け出すことはできませんでした。
 すなわち、
 年貢米をいかに増加させるか、
 という点を考えるしか、能がないのです。
 ここでも、白石のきわめて
 数理的な頭脳は、
 統計解析によって
 問題の所在を突き止めようとします。
 彼によると、
 幕府直轄領の
 税率は
 4公6民・・・・・・・・・・生産米の「四割」が収奪
 すなわち
 税率40%のはずです。
 それなのに、
 実際には
 28~29%程度で、
 30%を切っているといいます。
 その租税徴収率の低さが、
 幕府財政が苦しい原因だ、というのです。
 そこまでは正しい計算なのですが、
 白石は、江戸生まれの江戸育ちで、
 農村の生活に
 理解がありません。・・・?・・・「有理解」
 そこで、このように
 年貢徴収率が低いのは、
 幕府の
 代官やその手代が
 地元と結託して、
 賄賂を取るかわりに
 税率を下げる等の
 便宜を図っている
 に違いないという
 結論になります。
 これは当時の
 幕府の公式見解そのもので、
 御触書にも
 「近年は村々からの
  年貢収納量が段々と減少してきて、
  昔の半分ほどになっているのに
  村々は少しも豊かになっていない。
  それは
  村々が年貢を
  負けて貰うために
  代官諸役人に
  賄賂を贈っているからで、
  年貢量は減少するが、
  村々が支出する総領は、
  賄賂分を合わせると
  結局
  昔と同じになるからだ」
 ということが
 明記されていました
 (御触書寛保集成)。
 この当時の年貢の徴収は、
 検見取(けみどり)法というやり方でした。
 すなわち、
 代官以下の
 地方(じかた)役人が
 個々の村を回って、
 米の出来具合を個別に確認しては、
 村ごとの年貢総量を決定する、という方法です。
 そして、確かに、
 収穫高の査定に当たる地方役人が、
 村側の饗応の多少によって
 査定に手心を加えるということは
 かなり横行していたようです。
 余り接待しすぎたために、
 役人の方がつけあがって、
 家族親戚まで連れてきて
 饗応を楽しんだ、
 という話まで残っているほどです。
 白石は、先に
 荻原重秀が廃止した
 勘定吟味役を
 1712年に再度設置して
 勘定所自体の綱紀を引き締めるとともに、
 勘定所に命じて、
 綱吉時代にもまして
 厳しい地方検査を開始します。
 具体的には、
 全国を十の地域に分け、
 それぞれに
 3名で構成される
 巡察使を派遣して虱潰しに査察を実施したのです。
 3名の中には、彼として信頼できる
 甲府藩からの
 転籍者を必ず1名は入れていたといいます。
 この結果、彼が事実上の権力を握っていたわずかの期間に、
 処罰された
 代官は10名に達します。
 期間当たりの処罰数としては空前のもので、
 綱吉の
 元禄期以上に
 代官が厳しく取り締まられた時期ということができます。
 しかも実際には、
 事務処理が遅れて、
 処罰が
 享保以降にずれ込んだ例もかなりあるようですから、
 実質的処罰件数ははるかに多いと見るべきです。
 そして空席になった代官のポストに送り込むのもまた、
 甲府藩からの転籍組です。
 こうした締め付けの甲斐あって、
 1713年の
 年貢米徴収量は、
 前年に比べて
 43万3400俵も増加したと
 白石は自画自賛しています。
 この年、年貢米の量は、
 石数でいうと
 411万石あまりです。
 増加はその後も続いて、
 14年、15年といずれも
 412万石を突破しています。
 代官締め付け策は一応の効果はあったというべきなのでしょう。
 しかし、
 白石が
 見落としていた重大な点があります。
 それは、
 幕府代官
 諸経費に関する
 構造的な要因から、
 まともに代官が仕事をしていたら、
 必ず
 赤字になってしまうという点です。・・・???・・・根拠は?
 年貢の
 未収分の相当部分は、
 そうした
 代官の
 赤字補填のために
 流用されていたものだったのです。
 締め付けると、
 そうした分が増加するのです。
 しかし、
 現場の声が彼のところまでは上がってこなかったために、
 そこまではこの天才でも、
 洞察することはできなかったのです。
 したがって、この問題の真の解決は、
 享保の改革に譲られることになります。
   ↓
 (4) 朝鮮通信使待遇改訂
 白石の事績を紹介して、
 朝鮮通信使の
 待遇改訂問題を
 避けてとおるわけには行かないでしょう。
 ご存じのとおり、
 日朝関係は、
 秀吉の朝鮮出兵によって
 決定的に破壊されます。
 自家存立の必須の条件として
 日朝友好を熱望していた
 対馬の
 宗家は、
 徳川家康が
 日朝関係の復旧に意欲があるのを幸いに、
 日朝間にあって、懸命の工作を行いました。
 その結果、
 1607年に
 初めて朝鮮から使節がわが国を訪れ、
 1609年に、
 対馬と朝鮮の間で
 己酉条約が成立して、ようやく両国間に講和が成立しました。
 その後、
 1617年に
 朝鮮政府は、
 徳川幕府による
 日本統一の賀使を、
 1624年には
 家光の将軍位襲職の
 賀使をそれぞれ派遣してきたので、
 ようやく日朝修好の実が備わるようになってきます。
 そして、
 1636年に、
 通信使という名の使節の最初の者が送られてきます。
 以後、将軍の代替わりの都度、通信使が訪日することになります。
 通信使という名称を使うか否かは問題ではありませんから、以下、
 1607年以降のすべての訪日を、
 朝鮮からの使節として一律に論ずることにします。
 これら使節の訪日の趣旨そのものは、
 日朝友好ということで、全く結構なことです。しかし、これが
 幕府財政上の
 大問題に
 ならざるを得ないのは、
 ひとえに
 その規模のためです。
 1607年の第1回の来日の際には、
 秀吉の朝鮮出兵の後遺症が双方に色濃く残っているときでしたから、
 朝鮮側としては
 各分野のトップクラスの人間を多数送り込んで、
 徹底的に
 日本側の情報を収集することを目指したのだと思います。
 その結果、
 この時の使節団の総数は467人に達しました。
 この規模が、規模に関する先例を作ってしまったのです。
 江戸まで使節が来たことは全部で
 11回ありますが、それを見ると、
 1624年の
 第3回が300人と少ないのを例外にすれば、
 正使以下の一行の人数は、
 最大500人
 (これが実は新井白石の改革の時です。)、
 最小でも428人(第2回)、
 平均470人程度となっています。
 使節団は3艘の船に分乗し、
 これに3艘の副船が献上品その他の荷物を載せて従います。
 これが
 釜山から
 対馬、壱岐経由で下関に入り、
 瀬戸内海を抜けて
 大阪に上陸します。
 その後、
 船を管理する人間を100名程度残して、
 残り全員が陸路、江戸に入ります。
 だから使節団だけで
 3百数十名という規模です。
 これに、
 対馬藩から、
 使節側1名当たり、
 2名程度の割合で随行者がつきます。
 すなわち
 約700名です。したがって、
 行列の本体規模が
 大体1000人に達することになります。
 建前として、
 日朝双方は対等ということになっていますが、
 江戸幕府としては、
 朝鮮は入貢してきている
 というポーズを国内的に取っています。
 そこで、
 この入貢国を厚遇することにより、
 ひいては幕府の権威を高揚することができると考えているのですから、
 この大人数の、
 日本国内に入ってからの経費は
 すべて日本側の負担です。
 滞在期間は、建前としては半年ですが、
 悪天候その他の事情から行程はどうしても遅れがちになり、
 普通は
 大体1年近い期間が必要になります。
 海上にある間は、それでも大して手間も費用もかかりません。
 しかし、大阪に上陸して陸路を進み始めると、
 当然この1000人という
 大行列の荷物を運ぶ人足が必要となります。
 旅行用の荷物に加えて、
 進貢用の荷物、それに
 貿易用の物資ですから、
 決して少ない量ではありません。
 さらに、道案内として諸国の大名から人数がつきます。
 それやこれやで、
 行列は
 大体3000人くらいの規模に膨れ上がります。
 これが半年がかりでしずしずと進んでいく訳です。
 一行の威儀の盛大さ、道中における饗応、接待の手厚さは
 まさに人の目を驚かせるものがあったのです。
 しかも、
 娯楽の少ない時代のことですから、
 見物や交流のため、多くの人々がその道筋にやってきます。
 当時の街道は、東海道にしても中山道にしてもささやかなものですから、
 これほどの規模の行列にゆっくりと進まれては、
 機能が麻痺してしまいます。
 そのためと思うのですが、
 通信使が来る度に、
 幕府では
 「吉道」
 と呼ばれる特別の道を、通常の街道とは別に整備します。
 このように見てくると、
 通信使の応接に巨額の費用がかかり、
 そのため、幕府財政が傾く恐れがある、
 ということが判っていただけると思います。
 家宣が将軍に就いた時には、それを祝って
 1711年に
 第8回目の通信使が来ています。先に述べたとおり、
 空前絶後の規模の通信使です。
 その際に、
 新井白石は、
 末代までの語りぐさになるほどの努力を払って、
 極力この経費を切りつめました。
 しかし、
 記録に残っているのは、
 従来
 朝鮮側の国書の宛先を
 「大君」としていたのを、
 朝鮮と対等に
 「国王」に直したとか、
 使節が将軍に拝謁する際に
 御三家が同席していたのをしないことにした、
 というような形式面の話ばかりが多く、
 具体的にどこで
 どのような経費を削減したのかはよく判りません。
 朝鮮は、
 朱子学の大義名分論を大事にするので、
 大きな論争点になるのは、
 実質的な待遇の良し悪しよりも
 形式的な面に集中するためです。
 しかし、
 白石の方では、
 本当の狙いは
 幕府の
 財政難の救済にあったはずですから、
 できる節減は全部やったはずだ、
 ということだけは確かです。
 それでも、
 陸路に当たる
 兵庫=江戸間の、京、大阪を始めとする
 各地の道普請
 あるいは
 修復、人馬割り等々の入用は、
 総額
 金19万2301両、
 米5385石に達しています。
 また、この道中のために使用された人馬の数は、
 行きの場合には、
 通しで使った人足が310人、
 寄せ人足1万0691人、
 馬9754匹です。
 帰りの場合には、
 通しで使った人足は同じく310人ですが、
 寄せ人足は1万2707人、
 馬8161匹
 という膨大な数字に達しています。
 帰りの人足が若干多いのは、贈り物や土産で荷物が増えたためでしょうか。
 したがって、
 諸大名が負担した分も含めた
 全体の経費がどのくらいに達したのかは判りません。
 が、想像するだけでぞっとするような金額になるはずです。
 この数字が、
 その前回や、
 再び元に戻した次回に比べて
 どの程度の節減になっているのかはよく判りません。
 いつものことながら、
 幕府記録の喪失のためです。
 白石だけが
 こうした記録を
 後世に残してくれたわけです。
ーーーーー
 ・・・「三浦按針=ウイリアム・アダムス」の姿がみえない・・・白石の著述の何処かに彼、「三浦按針」の記述があるのかも・・・?・・・
 

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