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コジキジゲン

海ゆかば、山ゆかば・・・戦争の前に自然災害

2015-05-30 22:29:33 | 古事記字源

20時24分頃、小笠原諸島(母島・父島)、神奈川県で地震(M8.5)・・・勝手に解釈する「盤(地盤)揚州」・・・「萬葉集(万葉集)」・・・日本人の「心象(恐怖)原風景」を「かんじ」で得れるのか?・・・「大伴家持(おおとも の やかもち」・・・奈良時代の「貴族・歌人・大納言・祖父は大伴安麻呂、父は大伴旅人、母は丹比郎女、弟は大伴書持、妻は坂上大嬢(大伴宿奈麻呂の娘)、男子は大伴永主、大伴中主・官位は従三位・中納言・三十六歌仙の一人・小倉百人一首では中納言家持」・・・戦争をどのように「心象風景」として今現在生きている人々の心に喚起されるのか・・・「トラウマ」とは・・・
 かんじる・・・感じる・・・漢字留
            石原莞爾(かんじ)
            明治二十二年(1889年)一月十八日
           (戸籍の上では17日)
             ~
            昭和二十四年(1949年)八月十五日)
            陸軍軍人・陸軍中将
            従四位・ 勲三等・功三級
           「世界最終戦論」の軍事思想家?
 うるわし・・・潤(うる)わし・・・得る和史
        麗(うるわ)しい=美しい
       華麗な→豪華な(splendid)
           壮麗な(magnificent)
       華麗な舞踏会(a magnificent ball)
             (a gorgeous ball)
               ゴゥジャス
      「鹿鳴館」=明治十年代後半を
           「鹿鳴館(ロクメイカン)時代」
        英国人
        コンドル・・・禿げ鷹(たか・hawka falcon )
               禿げ鷲(わし・eagle)
                 鳶(とび・ kite)
        の設計
        明治十六年(1883)完成
        外務卿
        井上馨=井上聞多
        が、
        不平等条約改正交渉のために企図
        ↓↑
       「麗」=レイ・うるわ(しい)・リ
           つら(なる)・なら(ぶ)
           はな(れる)・うら(ら)
           うら(らか)
           「麗」=「丽+鹿」
        ↓↑    =「𪋘・麗・丽・𠧥・婯・𪋘」
        意味
        うるわしい、はなやか、美しい、
        くっつく、附ける、並ぶ、施す、
        繋げる、
        数、
       (儷と通じて)ペア、二つの、
       (欐と通じて)棟木
       (離と通じて)離れる、
        高句麗という国名の「麗」
       「説文解字・巻十」に
       「旅(なら)びて行くなり。
        鹿の性、食を見ること急なれば、
        則ち必ず旅び行く」
       「説文」に
       「禮、麗皮もて納聘す。葢し鹿皮なり」
        麗皮は二枚の鹿皮のこと
       「玉篇」に
       「偶なり、施なり、
        華綺なり、好なり、
        数なり」
        字形
        ↓↑
        鹿の象形で上の部分(丽)は鹿の角
        丽は麗の初形であり、
        一対の鹿の角の象形
        二つの鹿の皮の象形
        ↓↑
       「麗」
        の
        類字は「麓」=林+鹿(しか・ロク)
        麓(ふもと・ロク)=山裾(やますそ)
          府本、府下とも
          薩摩藩の地方支配の中心地
          薩摩藩では家臣団は
          身分的には武士であるが
          日常は農業に従事し,
          外城衆中と呼ぶ郷士が在村
          西郷隆盛・大久保利通
        ↓↑
       「麗装の美人」=「男装の麗人」
        川島芳子=愛新覺羅-顯㺭
             清朝
             第十代
             粛親王善耆の
             第十四王女
             字は東珍
             漢名は
             金璧輝
             俳名は和子
             他に芳麿、良輔
             養父は
            「川島浪速」=元信州松本藩士の子
             1911年は辛亥革命
             17歳で自殺未遂
        彼女の辞世の詩
        家あれども帰り得ず
        涙あれども語り得ず
        法あれども正しきを得ず
        冤あれども誰にか訴えん
        中国国民政府に銃殺刑・・・?
  ↓
 海行かば
 水漬(づく)屍(かばね)
 山行かば
 草生(むす)屍(かばね)
 大君の
 辺にこそ死なめ
 かへりみはせじ
 長閑(のど)には死なじ
  ↓
 ・・・以下の参照原文は「ウイッキペデア」や他の「ブログ記事」・・・
  ↓
ーーーーー
 大伴家持・・・・・ダイハンカジ
          大 半 化事(時)
 父の
 大伴旅人・・・・・ダイハンリョジン
          大 半 慮 訊 
 が
 大宰帥として
 大宰府に
 赴任・・・・・・・附任
 する際に
 母の
 丹比郎女・・・・・タンヒロウジョ
          譚 比労 序(女)
             いらつめ
             異覶(ラ)通目
 弟の・・・・・・・乙・音
 大伴書持・・・・・ダイハンショジ
          大 半 諸 事
 とともに
 任地に従った
 母の死後
 西下してきた
 叔母・・・・・・・おば・をば・シュク
 大伴・・・・・・・ダイハン
 坂上・・・・・・・ハンジョウ
          犯情・斑状・判状
 郎女・・・・・・・ロウジョ
 に育てられた
 ・・・以下は「年号・数字」に留意
 天平二年(730年)
 旅人とともに帰京
  ↓
 天平十年(738年)
 内舎人・・・・・・・ナイシャジン
           名意写 人
           拿異者 人(訊)
 天平十二年(740年)
 藤原広嗣の乱
 平定を祈願する
 聖武天皇の
 伊勢行幸に随行・・・・意施行考・隋(書)行
 天平十七年(745年)
 従五位下
 天平十八年(746年)三月
 宮内少輔
 六月
 越中守・・・・・・・・エッチュウ
            閲 注(註)
 天平勝宝三年(751年)
 まで赴任
 この間に223首の歌を詠む
  ↓
 少納言に任ぜられ帰京後、
 天平勝宝六年(754年)
 兵部少輔
 翌年
 難波で・・・・・・・なにわ・ナンパ
           浪速・浪花・納葉
 「防人」の
 検校に関わった
 天平宝字二年(758年)
 因幡守・・・・・・・インバンシュ
           印 版 種
 天平宝字三年(759年)正月
 因幡国の国府で
 『万葉集』の最後の歌を詠む
  ↓
 天平宝字元年(757年)
 橘奈良麻呂の乱
 藤原良継・・・・・・・トウゲンリョウケイ
 (宿奈麻呂)・・・・・すくなまろ
 石上宅嗣・・・・・セキジョウタクシ
          最古の図書館(藝亭=うんてい)
 佐伯今毛人・・・・サハクコンモウジン
          さえきいまけひと     
 などの
 三人と
 藤原仲麻呂暗殺計画を立案
 暗殺計画未遂
 天平宝字七年(763年)
 四人は逮捕
 藤原良継・・・・・
 一人が責任を負った
 大伴家持は罪に問われなかった
 天平宝字八年(764年)
 薩摩守・・・・・・
 への転任
 天平宝字八年(764年)
 九月
 藤原仲麻呂の乱
 藤原仲麻呂死去
  ↓
 神護景雲一年(767年)
 大宰少弐
 神護景雲四年(770年)
 称徳天皇が死没
 左中弁兼中務大輔
 正五位下に昇叙
 光仁朝では
 式部大輔
 左京大夫
 衛門督
 京師の要職や
 上総・伊勢
 と
 大国の守を歴任
 宝亀二年(772年)
 従四位下
 宝亀八年(777年)
 従四位上
 宝亀九年(778年)
 正四位下
 宝亀十一年(780年)
 参議・公卿に列
 宝亀十二年(781年)
 従三位
  ↓
 桓武朝
 天応二年(782年)正月
 氷上川継の乱・・・・・
 関与を疑われて
 解官され都を追放
 同年四月
 罪を赦され
 参議に復帰
 延暦二年(783年)
 中納言
 延暦四年(785年)
 兼任の
 陸奥・・・・・・リクオウ
 按察使・・・・・アナンサツシ
 持節・・・・・・ジセツ
 征東将軍の
 職務のために
 滞在していた
 陸奥国で没したという説・・・
 遙任の官として
 在京していたという説・・・・
 死没地には
 平城京説・・・・・
 と
 多賀城説・・・・・
 とがある・・・らしい
  ↓
 没直後
 藤原種継・・・・・タネ継ぐ?
          問う源、多田種子
 暗殺事件が
 造営中の
 長岡京で発生
 家持が関与していたとされて、
 追罰として、
 埋葬を許されず、
 官籍からも除名された・・・
  ↓↑
 「萬葉集」
 長歌・短歌など
 合計
 473首が
 「万葉集」に収められており、
 「万葉集」全体の1割を超えている
 家持が『万葉集』の編纂に拘わったと
 考えられている・・・
 『万葉集』卷十七~二十
 私家集の如し
 『万葉集』の最後は、
 天平宝字三年(759年)正月
 「新しき年の始の初春の
  今日降る雪の
  いや重け吉事(よごと)」
 (卷二十-4516)・・・
 従五位上
 因幡守
 大伴家持は
 四二歳
 正五位下になるのは、
 十一年後
 『百人一首』の歌
 「かささぎの・・・・笠詐欺之(古事記)
  渡せる橋に
  おく霜の
  白きを見れば
  夜ぞ
  更けにける」
 は、
 『万葉集』には入集していない・・・?
  ↓
 勅撰歌人
 『拾遺和歌集』(3首)
 「勅撰和歌集」に(60首)が採られている
  ↓
 「海ゆかば」(作曲:信時潔)
 の作詞者
  ↓↑
 妻は
 坂上大嬢(大伴宿奈麻呂の娘)
 男子は
 大伴永主
 大伴中主
  ↓↑
 百人一首の
 「六」番目」
 1 天智天皇
  2 持統天皇
  3 柿本人麻呂・・・書本
  4 山部赤人・・・・纂部
  5 猿丸大夫・・・・申・沙流・然
  ↓↑
  6 中納言家持・・・中に納る言(コトバ)
  ↓↑
  7 阿倍仲麻呂・・・仲満
           晁衡
           朝衡(ちょうこう)
           姓は朝臣
           筑紫大宰帥
           阿倍比羅夫の孫。
           中務大輔
           阿倍船守の長男
           弟は
           阿部帯麻呂
  ↓↑
  8 喜撰法師・・・・基線・記選
  9 小野小町・・・・小野妹子
           蘇因高
  10 蝉丸・・・・・・せみまろ・前元
           これやこの
           ゆくもかへるも
           わかれては
           しるもしらぬも
           あふさかのせき
           琵琶の名人
           浄瑠璃で
           女人の怨念で
           盲目となり
           最後に開眼(近松門左衛門)
          「坊主」の絵札は
           伴天連
  11 参議篁・・・・・纂魏
           小野篁(たかむら)・竹叢     

              延暦二十一年
           (802年)
            ~
           仁寿二年十二月二十二日
           (853年2月3日)
  12 僧正遍昭・・・・相称編章(照)
  13 陽成院・・・・・日成因(アトン神)
14 河原左大臣・・・(磚古事記)
15 光孝天皇・・・・公行(後項)転向
16 中納言行平・・・中に納る言の行は平
17 在原業平朝臣・・・財源業平
18 藤原敏行朝臣・・・桃源(凍原)年の行
19 伊勢・・・・・・・意施・異施
20 元良親王・・・・・原料秦王
21 素性法師・・・・・諏条(帖)褒詞
22 文屋康秀・・・・・文也講習(甲州・後周)
33 紀友則・・・・・・書紀の猷則
44 中納言朝忠・・・・中に納た言を調中
55 大納言公任・・・・公認・弘仁・後認
65 相模・・・・・・・差が観
66 大僧正行尊・・・・題想定の行のミコト
77 崇徳院・・・・・・数得解音・諏得匿因
88 皇嘉門院別当・・・効果文音、別に当
99 後鳥羽院・・・・・語賭場音
100 順徳院・・・・・・遵解音
 ・・・???・・・
  ↓↑
 755(天平勝宝七)年2月
 防人閲兵のため難波に赴き、
 防人の歌を蒐集
 自ら
 「防人の悲別の心を痛む歌(20/4331~4333)」
 「防人の悲別の情を陳ぶる歌(20/4408~4012)」
 五月
 自宅に
 大原今城(?)・・・母は大伴女郎
          「今城王之母也。今城王後賜大原真人氏也」
           大伴女郎は不詳
          (旅人の妻or大伴郎女と同一人
          or坂上郎女と同一人?)
           大原真人賜姓以前の名は
           今城王
           名は
           今木とも
           初め今城王を名乗るが、
           臣籍降下して
           大原真人姓となる
           敏達天皇の後裔
           衛門督
           大原高安
           の子とする系図がある・・・?
           今木→「今来」の帰化人?
 を招いて宴を開く(20/4442~4445)
 同月
 橘諸兄が子息
 橘奈良麻呂
 の宅で催した宴の歌に追作(20/4449~4451)
 八月
 「内南安殿」での
 肆宴に参席
 歌を詠むが奏上されず(20/4453)
 冬、
 橘諸兄
 は側近によって
 上皇誹謗と
 謀反で密告され、
 756(天平勝宝八)年2月
 致仕に追い込まれ
 三月
 聖武上皇
 の
 堀江行幸に従駕
 五月二日
 上皇は崩御
 道祖王が立太子
 六月
 淡海三船
 の
 讒言により
 出雲守・・・・・
 大伴古慈悲・・・・・コジヒ?・・・旧い時比
           旧約(聖書)の慈悲?
 が
 解任された事件に際し、
 病をおして
 「族(やから・ゾク)を
  喩(さと・ユ)す歌
  (20/4465~4467)」
 を作り、
 氏族に対し
 自重と
 名誉の
 保守を呼びかけ
 十一月八日
 讃岐守
 安宿王・・・・飛鳥・明日香・明日か
 らの宴で
 山背王・・・・サンハイオウ
 が詠んだ歌に対し
 追和する(20/4474)
 十一月二十三日
 式部
 少丞
 池主(?)・・・・・池田藩主?
 の宅の宴に
 兵部
 大丞
 大原今城・・・・・
 と臨席
 757(天平勝宝九)年1月
 前左大臣
 橘諸兄が薨去(74歳)
 四月
 道祖王・・・・・ドウソオウ
 に代り
 大炊王・・・・・ダイスイオウ
 が立太子
 六月十六日
 兵部大輔に昇進
 六月二十三日
 大監物・・・・・ダイカンブツ
 三形王・・・・・サンケイオウ
 の宅での宴に臨席
 「昔の人を思う歌」
 を詠む(20/4483)
 七月
 橘奈良麻呂らの謀反が発覚
 大伴・佐伯氏の多くが連座
 家持は何ら咎めを受けた形跡がなし
 「物色変化を悲しむ歌」・・・物の色の変化
 (20/4484)などを詠む
 十二月十八日
 三形王宅の宴に列席、
 歌を詠む(20/4488)
 右中弁
 十二月二十三日
 大原今城宅の宴でも作歌(20/4492)
  ↓↑
 762(天平宝字六)年
 一月九日
 信部(中務)大輔に遷任
 因幡より帰京
 九月三十日
 御史大夫
 石川年足・・・・・年足?
 が薨じ、
 佐伯今毛人・・・・蝦夷?
 と共に
 弔問派遣・・・・・チョウモンハケン
          聴  聞 葉見
          兆文・兆問・長文
  ↓↑
 763(天平宝字7)年
 三月or四4月頃
 藤原宿奈麻呂(良継)
 佐伯今毛人
 石上宅嗣
 らと共に
 恵美押勝
 暗殺計画に連座
 藤原宿奈麻呂一人罪を問われ、
 家持ほかは
 現職解任のうえ京外追放
 764(天平宝字八)年
 一月二十一日
 薩摩守に任じられる
 九月
 恵美押勝(藤原仲麻呂)
 は
 孝謙(阿部)上皇に対し謀反
 近江で斬殺
 十月
 藤原宿奈麻呂
 は
 正四位上
 大宰帥、
 石上宅嗣
 は
 正五位上
 常陸守に昇進
 家持は叙位無し
 十月九日
 孝謙(阿部)上皇は
 再祚し
 称徳天皇となり
 道鏡を重用
 765(天平神護一)年
 二月五日
 大宰少弐
 紀広純
 が
 薩摩守に左遷
 家持は薩摩守を解任
 二年後の
 神護景雲元年まで任官記事無し
 767(神護景雲一)年
 八月二十九日
 大宰少弐に任命
 ↓↑
 770(神護景雲四)年
 六月十六日
 民部少輔に遷任
 八月四日
 称徳天皇崩御
 道鏡は失脚
 志貴皇子
 の子
 白壁王
 が
 皇太子
 九月十六日
 家持は
 左中弁
 兼
 中務大輔
 に転任
 十月一日
 白壁王が即位し
 光仁天皇
 家持は
 正五位下に昇叙
 天平二十一年以来、
 二十一年ぶりの叙位
 十一月二十五日
 大嘗祭での奉仕により
 従四位下へ
 二階級特進
 772(宝亀三)年二月
 左中弁
 兼
 式部
 員外
 大輔に転任
 774(宝亀五)年
 三月五日
 相模守に遷任
 九月四日
 左京大夫
 兼
 上総守
 775(宝亀六)年
 十一月二十七日
 衛門督に転任
 宮廷守護の要職
 776(宝亀七)年
 三月六日
 衛門督を解かれ、
 伊勢守に遷任
  ↓↑
 777(宝亀八)年
 一月七日
 従四位上に昇叙
 778(宝亀九)年
 一月十六日
 正四位下
 779(宝亀十)年
 二月一日
 参議
 議政官の一員
 二月九日
 参議に
 右大弁を兼務
 781(天応一)年
 二月十七日
 能登内親王が薨去
 家持と
 刑部卿
 石川豊人
 等が派遣され、葬儀を司る
 四月三日
 光仁天皇は
 風病
 と
 老齢を理由に退位
 山部親王・・・・・纂分
 践祚(桓武天皇)
 四月四日
 桓武天皇の
 同母弟
 早良親王・・・・・
 が立太子
 四月十四日
 家持は
 右京大夫に
 春宮大夫を兼務
 四月十五日
 正四位上に昇進
 五月七日
 右京大夫から
 左大弁に転任
 春宮大夫は兼務留任
 この後、
 母の喪により
 官職を解任
 八月八日
 左大弁
 兼
 春宮大夫に復任
 十一月十五日
 大嘗祭後の宴で
 従三位に昇叙
 十二月二十三日
 光仁上皇崩御
 家持は
 吉備泉
 らと共に
 山作司(山陵を造作する官司)・・・・・
 に任じられる
 782(天応二)年
 閏一月
 氷上川継・・・・・
 の謀反が発覚
 家持は
 右衛士督
 坂上苅田麻呂・・・・・
 らと共に
 連座の罪で現任を解かれる
 (続紀薨伝によれば、この時
  家持は免官のうえ
  京外へ移されたというが
  わずか四か月後の
  五月には
  春宮大夫復任の記事)
 六月十七日
 春宮大夫に
 陸奥
 按察使
 鎮守将軍を兼務
 (続紀薨伝には
  「以本官出、為陸奥按察使」)
 陸奥に赴任
 多賀城へ向かう・・・
  ↓↑
 783(延暦二)年
 七月十九日
 陸奥駐在中、
 中納言に任じられる(春宮大夫留任)
 784(延暦三)年
 一月十七日
 持節征東将軍を兼務
 785(延暦4)年
 四月七日
 鎮守将軍家持が
 東北防衛について建言
 八月二十八日
 死去
 肩書を
 続紀は
 中納言従三位・・・・・
 『公卿補任』には
 「陸奥に在り」と記され、
 持節征東将軍として
 陸奥で死去した・・・
 死後20日余り後、
 大伴継人らの
 藤原種継暗殺事件
 に主謀者として
 家持が関与していたことが発覚
 生前に遡って
 除名処分を受ける
 子の
 永主
 らも連座して隠岐への流罪
 806(延暦二十五25・大同一)年
 三月十七日
 病床にあった
 桓武天皇は
 種継暗殺事件の連座者を
 本位に復す詔を発し、
 家持は
 従三位に復位される(『日本後紀』)
 家持の遺族も帰京を許された
  ↓↑
 家持は
 万葉集に473首(479首とも)の
 長短歌を残す
 「万葉集全体の1割」以上にあたる
 末四巻は家持による
 歌日記とも言える体裁をなしている。
 1159(平治一)年頃までに成立した
 藤原清輔の
 『袋草子』には、
 すでに万葉集について
 「撰者
  あるいは橘大臣と称し、
  あるいは家持と称す」
 とある
 江戸時代前期の国学者
 「契沖」は
 『萬葉集代匠記』で
 万葉集「家持私撰説」を初めてに主張
 なお
 914(延喜十四)年の
 三善清行「意見十二箇条」には
 家持の没官田についての記載があり、
 越前
 加賀郡100余町
 山城久世郡30余町
 河内茨田渋川両郡55町
 を有した・・・
 ↓↑
 天平勝宝一(749)年
 陸奥国からの産金を祝う歌中に
 「海行かば
  水漬く屍
  山行かば
  草生す屍」
 の詞を詠む(『万葉集』巻18)
 『万葉集』の編者とされ作歌は多いが,
 同集最後の
 天平宝字三(759)年の歌の後は
 歌わぬ人といわれる・・・
 作品は『万葉集』中
 長歌46、
 短歌425(合作1首を含む)、
 旋頭歌(せどうか)1首、
 合計472首
 ほかに
 漢詩1首、
 詩序形式の書簡文など
 のちに妻となった
 坂上大嬢・・・・・
 (さかのうえのおおいらつめ)
 笠女郎(かさのいらつめ)・・・・
 紀女郎(きのいらつめ)・・・・・
 らと女性関係も多
 ↓↑ 
 ふり放(さ)けて
 三日月見れば
 一目見し人の
 眉引(まよびき)
 思ほゆるかも
 ↓↑
 うらうらに
 照れる春日に
 雲雀(ひばり)あがり
 こころ悲しも
 独りし思へば
ーーーーー
 ・・・???・・・ヘンである・・・岩・異和・石・・・磐用衆・・・心象の原風景・・・

 

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口永良部島・沖永良部島・・・琉球列島・沖縄列島

2015-05-29 22:58:27 | 古事記字源

 ・・・「ひょうたん型」の「口永良部島(くちのえらぶじま・コウエイリョウブトウ?」・・・「考英領武闘・公営両部問う・後裔漁部当」の噴火?・・・島に住む人は怪我もなく避難できたらしい・・・屋久島の西方に位置する島。「火山島」で「1933年(昭和八年)~1934年 七釜集落は噴石により全滅、死者8名、負傷者26名」・・・「七釜集落の全滅」・・・「口永良部島」の呼称は「鹿児島県熊毛郡屋久島町の大字の口永良部島」・・・「口の選ぶ」・・・「口永良部」という地名は「江戸期」からで、当時は「口之永良部島村(くちのえらぶじま)・三国名勝図会,1843(天保十四年)」・・・琉球諸島からの船の停泊地で,馬の放牧も行われていた・・・「沖永良部島(おきのえらぶじま、おきえらぶじま)」は奄美群島の南西部に位置する島・・・「鹿児島県大島郡に属し、北緯 27度東経128度付近に位置し、「和泊町」と「知名町」の二町からなる。「隆起珊瑚礁の島」。「大山を中心とした知名町側の地域には、幾段かの段丘地形を呈し石灰岩が広く分布し、島には鍾乳洞が多い」・・・「西郷隆盛の流刑地」・・・「置きの選ぶ」・・・「1609年(慶長十四年)、薩摩藩の侵攻により薩摩の直轄領」、「1616年(元和二年)、徳之島に代官所が置かれ、沖永良部島と与論島を巡回して統治」・・・
 例の如く以上も以下も参照、参考の原文は「ウイッキペデア」や、他の「ブログ記事」・・・「妄想」個所はボクのオリジナル・・・


ーーーーー
 「ヒザマ」は、
 沖永良部島の伝説上の
 「魔鳥(HellHawk)」・・・・「hawk」=鷹(タカ)
                他人を食い物にする人
                強欲な人
                詐欺師
                タカ派の人
                強硬論者
                主戦論者
 家に憑いて火事を引き起こす
 姿は鶏(ニワトリ)に似て
 胡麻塩色の羽根を持ち、
 頬が赤い
 家に憑く際は
 「空(から)の
  瓶(ビン)や
  桶(おけ)」
 に宿る
 防ぐためには
 器(うつわ・キ)を
 伏せておくか、
 常に
 水で満たしておく
 沖永良部島では
 邪神
 ヒザマに似た
 鶏(ニワトリ)・・・隋書俀国
           「俀王
            姓
            阿毎
            字多利思北孤
            號
            阿輩(アワ?)→吾輩
               阿波
               安房
               粟→黍
               泡
               沫
               淡路島
               愍(ビン・ミン
                 あわ-れ
                 あわ-れむ
                 「愍笑・愍然
                  哀愍
                  憐愍(れんびん
                     れんみん)」
            雞彌(キミ?・ケミ)」
              ・・・・雞=鶏
               にわとり
             彌(ビ・ミ)=み・いよいよ
               わた-る
               ひさ-しい
           「王妻
            號
            雞彌・・・・雞=鶏
            後宮
            有
            女
            六七百人
            名
            太子
            爲
            利歌彌(リカミ?)
            多弗利(タフリ?)」
       「夷人
        不知里數但計以日
        其國境
        東西五月行
        南北三月行
        各至於海
        其地勢
        東高
        西下
        都
        於
        邪靡堆・・・・靡(なびく)
        則
        魏志
        所謂
        邪馬臺
  ↓     者也」
  ↓  流求=「隋書・帝紀・列伝
  ↓      貞観十年(636)
         魏徴の主編、
         志は顕慶元年(656)
         長孫無忌の監修」
         ↓↑
        「流求
         煬帝紀上(巻三・帝紀第三)
         大業三年三月癸丑条
         大業六年二月乙巳条)
         食貨志(巻二四・志第一九
             煬帝即位条)
         陳稜伝(巻六四・列伝第二九)
        「流求国伝(巻八一・列伝第四六
              東夷)」
         の
         四ヵ所に記録
         「隋書・流求国伝」
         「流求国は海島の中に居す
          建安郡の東に当り、
  ↓       水行五日にして至る」
  ↓        ↓↑
         「新約聖書の日本語訳」
         1847年~1855年の
  ↓      ベッテルハイムの日本語訳は
  ↓      琉球語   
 を飼うことを
 忌み嫌った
 「ヒザマ=火玉」という字が当てられ
 鳥ではなく
 読んで字の如く
 「火の玉」で、
 火事を引き起こすものとされている・・・
  ↓↑
 桃太郎
 「沖永良部」島では、
 「鬼が島」ではなく、
  ↓
 桃太郎は
 「ニラの島」へ行った・・・「ニラ」=似等?
              「ニ・ラ」の
              スベテの同音異字漢字
              似等
              螺・蠃・羅・覶・裸・・・
 龍宮である
 「ニラの島」で
 島民は
 鬼に食われていたが、
 唯一の生存者の老人の家に
 「羽釜」・・・・竃に架けるための
  ↓      鍔・鐔=「つば」があり
         それを羽根に例えて
         羽釜(はがま)と呼ぶ。
         蓋は木製
         釜は、
         茶の湯では
         湯を沸かす道具
         同音異字の「かま」
         鎌=草を刈る道具
         窯=ガラスや焼物などを作るのに使う
         竃=かまど・「釜」などの
           調理器具を乗せ、加熱設備
         罐=蒸気機関車などのボイラー
           電機、ディーゼル機関車を含め
  ↓        カマと呼ぶ
 があり、
 その蓋の裏に
 「鬼の島への道しるべ」が書かれており、
 その道しるべどおり
 地下の鬼の島へ行き、
 鬼退治した・・・
  ↓↑
 「もも太郎さん」の歌
 作詞者は不詳
 岡野貞一 作曲
  ↓↑
 岡野貞一
 1878年(明治十一年)
 二月十六日生
  ~
 1941年(昭和十六年)
 日本大学附属病院で死去
 63歳没
  ↓↑
 1892年(明治二十五年)
 キリスト教徒として
 鳥取教会(日本基督教団)で洗礼
 翌年、
 岡山の教会で
 宣教師からオルガンの演奏法を習った
 東京音楽学校(東京藝術大学)の
 第二代校長である
 同郷の
 村岡範為馳が
 1892年(明治二十五年)に
 鳥取で行った
 講演に影響され、
 1895年(明治二十八年)
 岡山の
 薇陽学院を中退
 上京して
 東京音楽学校に入学
 1900年(明治三十三年)
 卒業
 1924年(大正十三年)
 東京音楽学校(東京芸大)の教授
 「春が来た・水師営の会見
  春の小川・故郷(ふるさと)」
 などを作曲
  ↓↑
 「もも太郎さん」
 1911年(明治四十四年)五月
 『尋常小学唱歌(一)』
 歌詞

 桃太郎さん 桃太郎さん
 お腰につけた
 黍団子
 一つ
 わたしに
 下さいな
  ↓
 やりましょう やりましょう
 これから鬼の
 征伐に
 ついて行くなら
 やりましょう
  ↓
 行きましょう 行きましょう
 あなたについて
 何処までも
 家来になって
 行きましょう
  ↓
 そりゃ進め そりゃ進め
 一度に攻めて
 攻めやぶり
 つぶしてしまえ
 鬼が島
  ↓
 おもしろい おもしろい
 のこらず鬼を
 攻めふせて
 分捕物を
 えんやらや
  ↓
 ばんばんざい ばんばんざい
 お伴の犬や
 猿 雉は 
 勇んで車を
 えんやらや
  ↓↑
ーーーーー
 ヨシュア(Yehoshuʿa・Joshua)
 ヘブライ語
 イェホ(ー)シュア (Yehoshuʿa)
 英語
 ジョシュア (Joshua)
 スペイン語
 ホスエ (Josué)
 ポルトガル語ジョズエ (Josué)
 ドイツ語・オランダ語
 ヨ(ー)ズア (独: Josua・蘭: Jozua)
 ヨシアス (独: Josias)
 フランス語ジョジュエ (Josué)
 ↓↑
 アラブ語エッサ (Essa)
     イッサ (Issa)
 インドで
 「イエス」は「イッサ」・・・?
  ↓↑
 「エッサ」
  と
 「イッサ」
  と
 「一茶」
  を「発音」で「妄想」する・・・「与諏亜」・・・
「茶」=ちゃ・ダ・タ・チャ・サ(唐音)
 「荼」という字が
 「苦菜」ではなく現在の「茶」を指す最初の例
 「前漢の王褒」が記した
 「僮約」という文章
 「使用人(僮)」がしなければならない仕事に
 「荼を烹(に)る」、
 「武陽で荼を買う」
 という項がある
 茶の産地は武陽(彭山県、眉山茶の産地)
 で、苦菜ではなく茶である・・・
 この「僮約」には
 神爵三年(前59年)という日付
 紀元前1世紀には既に喫茶の風習があった・・・
 唐代
 茶の文化を初めて体系化したのは、
 唐の
 陸羽(? - 804年)
     「茶」→「木+茶」
     「茶」=サ(艸)+Λ+木
     「tea」=閩南語=中国南方方言
         (ミンナン・ビンナン)の
          茶の読み「tê・テ」が
          オランダ
          東インド会社経由で
          オランダ語
          「thee」として
          西ヨーロッパに広まった
          英語の
          「thee」は
          「汝(なんじ)・thy」
          「育つ」
          スコットランド語は
          「腿・太股・太腿」
      ↓↑
     「荼(ダ)=サ(艸)+余→Λ+禾」
      と
     「茶(チャ)=サ(艸)+ Λ+木」
      とは別字
      ↓↑
     「荼(ト)」
     「茗(メイ)」
     「荈(セン)」
     「檟(カ)」
      ↓↑
      といった文字が当てられていた
     「軍荼(ダ)利=クンダリンは水瓶
             とぐろを巻いた蛇
      曼荼(ダ)羅=聖域、仏の悟りの境地、
             世界観などを
             仏像、
             シンボル、文字、神々
             などを
             視覚的
             象徴的に表したもの
      鳩槃荼(ダ)」
  ↓↑
 小林      一 茶
 (こばやし   いっ さ
  ショウリン  イチチャ)
  ↓↑
 宝暦十三年五月五日
 (1763年6月15日)
   ~
 文政十年十一月十九日
 (1828年1月5日)
 江戸時代の俳諧師
 本名
 小林弥太郎
 別号
 圯橋・菊明・亜堂・雲外
 一茶坊・二六庵・俳諧寺
 など
  ↓↑
 宝暦十三年(1763年)
 信濃北部
 北国街道
 柏原宿(長野県上水内郡信濃町大字柏原)
 の中農の長男とし誕生
 3歳の時に生母を失い、
 8歳で継母を迎える
 継母に馴染めず、
 安永六年(1777年)
 14歳
 江戸へ奉公に出る
 25歳
 小林竹阿(二六庵竹阿)
 に師事して俳諧を学ぶ
 寛政三年(1791年)
 29歳
 故郷に帰り、
 翌年より36歳の年まで
 俳諧の修行のため
 近畿・四国・九州を歴遊
 享和元年(1801年)
 39歳
 帰省
 病気の父を看病したが1ヶ月ほど後に死去
 以後遺産相続の件で
 継母と
 12年間争う
 父の発病から死、
 初七日を迎えるまでの
 約1ヶ月を描いた
 『父の終焉日記』は、私小説の先駆け
 文化五年(1808年)末
 遺産の半分を貰う
 取り分は
 田4~6反、
 畑3反歩、
 山林3ヵ所、
 家屋敷半分、
 世帯道具一式
 文化五年以降
 柏原村の本百姓として登録
 文化六年
 弥太郎名義で年貢を納める
 文化九年(1812年)十一月半ば
 江戸を経ち郷里柏原村に向かった
 文化十年(1813年)
 弟との間に取り交わした
 熟談書付の事にある
 家屋敷分譲の実行と
 文化四年(1807年)以前の
 収入と利息を払えという中味で、
 遺産争い
  ↓↑
 文化九年(1812年)
 50歳
 信州柏原に帰り、
 2年後
 28歳の妻
 きく
 を娶り、
 3男1女をもうけるが
 何れも幼くして死亡
 きく
 も痛風がもとで37歳で死亡
 62歳で2番目の妻
 田中雪を迎えるが半年で離婚
 64歳で3番目の妻
 やを
 との間に
 1女
 やた
 をもうける
 やたは一茶の死後に出産
 文政十年閏六月一日(1827年7月24日)
 柏原宿大火で
 母屋を失い、
 焼け残った土蔵で生活
 十一月十九日
 64歳半で死亡
 法名は
 釈一茶不退位
  ↓
 俳号「一茶」の由来
 『寛政三年紀行』の巻頭で
 「西にうろたへ、
  東にさすらい
  住の狂人有。
  旦には上総に喰ひ、
  夕にハ武蔵にやどりて、
  しら波のよるべをしらず、
  たつ泡のきえやすき物から、
  名を
  一茶房といふ」
  と記述
  ↓↑
 代表的句
 雪とけて村いっぱいの子どもかな
 大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
 めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
 やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
 悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
 雀の子そこのけそこのけお馬が通る
 蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
 やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
 名月をとってくれろと泣く子かな
 これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
 うまさうな雪がふうはりふうはりと
 ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)
 我ときて遊べや親のない雀
  ↓↑
 一茶の作った句の数
 約22,000句
 平成に発見された一茶の句
 ちるひとつ咲のも一つ帰り花(2013年11月)
 けふもけふも霞はなしの榎かな(2011年4月)
 一株の芒をたのむ庵哉(2010年5月)
 稲妻のおつるところや五十貌(2010年5月)
 猫の子が手でおとす也耳の雪(2010年2月)
 菜の虫ハ化して飛けり朝の月(2009年4月)
 羽根生へてな虫ハとぶぞ引がへる(2009年4月)
 代表句集等
 生前の一茶の著書
 『旅拾遺』
 『さらば笠』
 『三韓人』
 などがあるが
 自身の俳書はない
 『一茶発句集』
 『おらが春』
 は没後に刊行
 「寛政三年紀行」
 「父の終焉日記」
 「我春集」
 「株番」
 「志多良」
 もいずれも遺稿
 「寛政句帖」
 「享和句帖」
 「文化句帖」
 「七番日記」
 「八番日記」
 「文政句帳」
 など克明な記録は、
 出版を意図して書かれたものではない
  ↓↑
 昭和十三年九月
 作詞者
 山上武夫は
 東京の
 大森の姉の嫁ぎ先で居候生活
 『お猿のかごや』の
 「小田原提灯」が縁となり、
 親しい関係にある
 小田原市から頼まれて書いた
  ↓
 「小田原提灯」
 折り畳んで懐中に入れる事ができる
 「懐中提灯」とも
 江戸時代、
 甚左ヱ門
 が作って売り出した
 雨にあたっても
 壊れにくく、
 材料に
 大雄山
 最乗寺の
 霊木を使って
 魔よけになると宣伝
 箱根の
 山越えをする旅人に重宝がられた
  ↓ 
 山上武夫は、
 作曲者の
 海沼實と
 同郷(長野市松代町)で
 後輩
 昭和十三年九月
 「お猿のかごや」
 九月中に作曲され、
 海沼が
 レコード会社へ持ち込み
 詩は、
 山上の自作発表
 童謡誌
 『ゆずの木』
 昭和十三年十二月号掲載
 昭和十四年秋
 レコード化
 ビクターから
 A面が「動物の大行進」
 B面が「お猿のかごや」
 として発売
 昭和十四年十二月に発売、
 昭和十五年正月新譜。
 歌手
 尾村まさ子
 大内至子
 山崎百代
 小林茂子
  ↓
 歌詞カードは
 カタカナと
 漢字書き
 山道を
 狐を乗せた
 お猿の
 かごやが駆け抜ける
 挿絵入り
 タイトルは
 「オ猿ノカゴヤ」
  ↓
 現在の歌詞
 海沼が
 作曲上の
 都合で改作・・・
 一番の一行目は、
 「エッサ ホイサ エッサ ホイサ」
 という
 「籠かき」のかけ声が、
 海沼が作曲する時、
 「エッサ エッサ エッサホイサッサ」
 に改めた。
 山上は反対したが
 海沼は自分の意見を通した
  ↓
 最後の「ホイ」を
 一つ減らして、
 「ホイ ホイ ホイ ホイサッサ」
 と四つにした
  ↓
 作曲家 
 海沼實の
 自筆楽譜(昭和二十一年)は
 「オダハラヂャウチン」
 長野市松代町の歌碑の
 楽譜(昭和六十三年建立)も
 「おだわらぢょうちん」
  ↓
 海沼は、
 二十四歳で東洋音楽学校入学
 バイオリンを専攻
 自筆楽譜(昭和二十一年)
  ↓
 戦後発売されたレコード
 童謡歌手
 大道真弓とゆりかご会
 「おだわらぢょうちん」
 録音
 昭和二十二年八月二十六日
 発売
 昭和二十三年三月(第十四回発売)
 踊の振り付け
 賀来琢磨
  ↓ 
 山上武夫
 昭和十三年(1938年)五月
 童謡誌『ゆずの木』
 (ゆずの木童謠社)の発行
 創刊号(昭和十三年五月十五日発行)
 同年九月
  ↓
 「お猿のかごや」を作詞
 海沼實が作曲
 同年十二月
 「お猿のかごや」を
 『ゆずの木』に発表
 昭和十四年(1939年)
 二十二歳、
 「お猿のかごや」を
 ビクターでレコード化
 昭和十五年(1940年)
 正月新譜発売の
 「お猿のかごや」がヒット
 その後も
 海沼とコンビを組んで
 『欲しがりません 勝つまでは』
 『見てござる』
 『農家の皆さん 今晩は』
 も作った
 松代で終戦
 故郷で
 書店を営みながら詩作
  ↓
 昭和四十四年(1969年)
 海沼とのコンビの曲
 『うまれたきょうだい十一人』が、
 「第十一回日本レコード大賞童謡賞」受賞
 昭和六十二年(1987年)十一月二日
 七十歳で死亡
  ↓
 海沼實
 明治四十二年(1909年)一月三十一日
 長野県埴科郡(長野市)
 松代町松代に生まれる
 昭和七年(1932年)
 音楽家を志望し上京
 昭和八年(1933年)
 東洋音楽学校(東京音楽大学)入学
 護国寺
 幼稚園に
 「音羽ゆりかご会」を開設
 「音羽ゆりかご会」の名前は
 「音羽」という地名と、
 海沼が師と仰ぐ
 草川 信 作曲
 北原白秋 作詞
 の
 『揺籠のうた』による
  ↓
 昭和十一年(1936年)
 東洋音楽学校卒業
 昭和十七年(1942年)
 川田正子(八歳)
 川田孝子(六歳)の姉妹が
 「音羽ゆりかご会」に入会
 昭和十八年(1943年)七月十日
 「音羽ゆりかご会」は
 『やさしいお母さま』を歌った
 大道真弓
 と
 『兵隊さんの汽車』を歌った
 川田正子
 が入会
 少女歌手
 川田正子、孝子の姉妹らと
 NHK専属になり、
 「東京放送児童合唱団」結成
 川田正子、孝子、美智子
 三姉妹
 ほかの童謡歌手を育て
 『みかんの花咲く丘』
 『お猿のかごや』
 『あの子はたあれ』
 など
 約三千曲を作曲
 昭和四十六年(1971年)六月十三日
 六十二歳で死亡
ーーーーー
 「お猿のかごや」
 山上武夫 作詞
 海沼 実 作曲

 エッサ
 エッサ
 エッサホイ
 サッサ
 お猿のかごやだ
 ホイサッサ
 日暮(ひぐれ)れの
 山道
 細い道
 小田原提灯
 (おだわらぢょうちん)
 ぶらさげて
 ソレ
 ヤットコ
 ドッコイ
 ホイサッサ
 ホーイ
 ホイホイ
 ホイサッサ
  ↓
 エッサ
 エッサ
 エッサホイ
 サッサ
 木(こ)の葉のわらじで
 ホイサッサ
 お客はおしゃれの
 こん狐(ぎつね)
 つんとすまして
 乗っている
 ソレ
 ヤットコ
 ドッコイ
 ホイサッサ
 ホーイ
 ホイホイ
 ホイサッサ
  ↓
 エッサ
 エッサ
 エッサホイ
 サッサ
 元気なかごやだ
 ホイサッサ
 すべっちゃいけない
 丸木橋
 そらそら小石だ
 つまずくな
 ソレ
 ヤットコ
 ドッコイ
 ホイサッサ
 ホーイ
 ホイホイ
 ホイサッサ
  ↓
 エッサ
 エッサ
 エッサホイ
 サッサ
 のぼって
 くだって
 ホイサッサ
 ちらちらあかりは
 見えるけど
 向うのお山は
 まだ遠い
 ソレ
 ヤットコ
 ドッコイ
 ホイサッサ
 ホーイ
 ホイホイ
 ホイサッサ
ーーーーー

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家族・親類・一族・隣人・・・村民・町民・国民・・・人間

2015-05-29 00:14:52 | 古事記字源

 ・・・17時、本日の国会中継が終わった・・・「首相」も「外相」も「ベトナム戦争」、「イラク戦争」を持ち出されては「真っ青」である・・・質問者は「日本政府」の提出法案である「集団的自衛権(アメリカとの軍事同盟)法案」も、「自衛隊PKO派遣法案」も「日本国憲法」を筋とした、あるいは「国連憲章、決議」を筋としたモノからイカに「理不尽」で、「不条理」なモノであるかを明らかにした・・・過去の日本政府に「主体性」は無かった・・・現今の「自民党」にも、「維新の会」にも「日本国憲法」を軸にした「独立日本国家」などは在り得ないのである・・・ 
 「国家存立の意思・意志」が「日本国憲法」にあるとしたならば、「国会議員屋」である「自民党」も「維新の党」も「国家反逆罪」の徒党で、尚且つ「国家司法屋」も「日本国憲法」を歪曲解釈し、その歪曲判断を公に告知する「国家反逆罪」の「不逞の輩」である。 
 当然、彼らを「選挙し、選出し、容認している国民」は「国家反逆罪」の同伴以上の「協働主犯格」である・・・ 
 「日本自民党」も「日本維新の党」も、勿論、「日本社会党・日本共産党」も「アメリカの属国・追従国」であることには「苦渋」しているのであるカナ・・・「日本」の「主体的判断」ですか・・・ 
 「日本国家の主体的判断」とはナニか? 
 彼らは「領域国家主義者」であり、その枠内の「国家エゴイスト(プチブル意識主義者)」であり、「日本国憲法」は「国家の対外暴力」を否定しているが、「地球人類の公平主義者」ではない。「領域階級国家の枠内の生活が最優先」なのである。 
 ・・・当然である・・・?・・・ 
 「日本国憲法」が「国家三原理の領域・主権・対外暴力行使」の「対外暴力行使」を否定しているが「プチブル私有財産自由選択主義者の階級妥協の民主国家」であるコトには変わりがない。 
 モチロン、どんな「外国国家」のイイナリになりたくないのは、コレも当然である・・・「自国の政治的判断で主体的に対外的にも暴力行使の自由選択をしたい独立国家」でありたいのだ・・・ナゼなのか? 
 「国家意思・意志=法」の「主体的判断」の基準とはナニか? 
 「階級社会の国家としての対外的な損得勘定貫徹の実力行使」である。そのほとんどの「実力(暴力)行使」は「領土、領海の領有権」である・・・ 
 例外は「国家の名誉棄損」や、「他国に存在する自国国籍民の生命の安全確保」での「実力行使」もあるらしいが・・・かっての「公明党の某大臣」は「外国渡航・在住」の不都合な自国国籍民に対しては「自己責任」であると公言していた・・・ 
 最近では「自己責任」での「外国渡航」は国家に不都合な人物と判断された人物のパスポートを取り上げている・・・ 
 兎に角、「国家の対外実力(暴力)行使」とは「戦争」である。 
 「日本独立国家」とはナニか?・・・ 
 国際的な対外諸関係での暴力抜きの「損得利害勘定の政治的な意思と、意志の追求」の「プチブル国家」である・・・ 
 そして、「過去の贖罪」を背負い、日本国家指導者は姑息な形であれ、「日本国居住民」を騙しつつ、励ましつつ、「理想、信念」を捨てきれずに、現実的に葛藤しながら「命の尊厳」を地球の重さと天秤に架け追求してきたのである・・・それが政治屋の損得勘定でのウソであっても痛みを現実的に知っている「戦中+戦後」の日本人世代の心情であった・・・ 
 「プチブル日本国家指導者」であっても、とってつけたような「過去の怨念の歴史」を声高でがなり、自己反省もせず、「信義」も護らず、自国国内問題を「日本国民」に振る厚顔無恥なイチャモン国家指導者とはレベルが異なるのだ・・・ 
 モチロン、中国であれ、アメリカであれ、アフリカ、アラブの諸国家であれ、国家組織にふんぞり返って政治屋のウソなどは人々には「百も承知」である・・・ 
 とは云え、情報乱舞の世界である・・・情報過剰の中で「百も承知」も「プチブル意識内」では右往左往の混乱状態である・・・「売れる情報は商品」である・・・カネになる・・・ 
 だが「日本国憲法」を基準に筋をたどれば、「百も承知の表裏」はもはや必要ではない。 
 しかしながら、現実の諸外国は「日本国憲法(戦争放棄)」の枠外に存在しているのだ・・・「国連」も国際信義を護らない「暴力大国」に翻弄され、あてにならない存在である・・・戦後七〇年間・・・「日本・独逸」は「国連加盟国」である。しかも「敵国」の記録は「国連」からは抹消されてはいない・・・ 


ーーーーー 
 旧約聖書 
 ヨシュア記 
 概略・・・参照原文は「ウイッキペデア」 
 ↓ 
 ヨシュア(Yehoshuʿa・Joshua) 
      ヘブライ語イェホ(ー)シュア (Yehoshuʿa) 
      英語ジョシュア (Joshua) 
      スペイン語ホスエ (Josué) 
      ポルトガル語ジョズエ (Josué) 
      ドイツ語・オランダ語 
      ヨ(ー)ズア (独: Josua・蘭: Jozua) 
      ヨシアス (独: Josias) 
      フランス語ジョジュエ (Josué) 
      アラブ語エッサ (Essa) 
          イッサ (Issa) 
      「イエス」はインドで「イッサ」・・・? 
                「一茶」の俳句 
 ↓    「やれ打つな、蠅が手をする、足をする」 
 ↓     ・・・ハエが殺さないでと懇願?・・・ 
 の指導の下、 
 イスラエル人が 
 カナンに住む 
 諸民族を武力で制圧し、 
 約束の地を征服 
 ユダヤ教においては 
 預言書に分類 
  ↓ 
 ヨシュアが記録し 
 (ヨシュア記24章26節) 
 彼の死後の記事を 
 アロン・・・・・・モーゼの兄 
 の 
 子 
 エルアザル・・・・獲(得・重)る 
          阿猿・・・漁る 
               吾申 
 と 
 エルアザル・・・・ 
 の 
 子 
 ピネハス・・・・・捻(ひね) 
          葉素(はす)・葉諏 
 が書いた 
 創世記~申命記の 
 モーセ五書に 
 ヨシュア記を加えて 
 「六書」 
 とする・・・リクショ=陸書 
   ↓   ↓ 
   ↓  日本の 
   ↓  「六国史」 
   ↓  明治維新後に 
   ↓  「六国史以降」を対象として、 
      史書編纂は計画されたが 
      実現せず、 
      代わりに 
      「大日本史料」が 
      編纂される・・・ 
   ↓   ↓ 
   ↓  「六国史(りっこくし)」 
      奈良~平安時代の 
      「修史事業」の完成結果 
      「日本書紀」 
      「続日本紀 (しょくにほん ぎ)」 
      「日本後紀」 
      「続日本後紀」 
      「日本文徳天皇実録」 
   ↓  「日本三代実録」 
   ↓  8世紀~10世紀の初頭 
      律令国家としての体制を整備した 
      天皇を中心とする 
      法典とあわせて、編纂した「六書」 
      六国史以前にも 
      「国記」 
      「天皇記」が編纂されたらしい記録 
   ↓  があるが現存せず 
   ↓  完成していたかどうかも不明・・・ 
   ↓ 
 1952~1957年 
 Kathleen M. Kenyon 
 らによって 
 考古学的発掘が行われた 
 エリコの城壁の崩壊は 
 紀元前3000年紀の出来事・・・ 
 ヨシュアたちが 
 エリコに来たときには、 
 エリコは 
 既(すで)に廃墟になっていた・・・ 
 したがって、 
 「ヨシュア記 
  6章」 
 に記されている 
 エリコ陥落物語は 
 歴史的事実ではない 
 原因譚として 
 後から 
 (2~7章の物語が)創作された・・・ 
 「10章」に記されている 
 「太陽と月の停止」は、 
 カナンの民間説話・・・ 
  ↓ 
 エジプト脱出時に 
 20歳を超えていた者のうち、 
 ヨルダン川を渡ることを許されたのは 
 ヨシュア 
 と 
 カレブ 
 の 
 二人だけ 
  ↓ 
 ルベン、 
 ガド、 
 マナセの半部族 
 は 
 ヨルダン川東岸に定住 
 同時に 
 ヨルダン川西岸に渡って 
 共に戦うと誓かわされた 
  ↓ 
 二人 
 の 
 斥候(セッコウ)・・・・斥侯・・・スパイ 
             間諜・偵察・・・京都祗園の 
                     芸鼓・芸子 
                     明石大佐 
                     マタ・ハリ 
                     ゾルゲ 
                     川島芳子 
                    (愛新覺羅顯㺭) 
                     007 
             石工・石膏 
             拙攻・拙稿 
 が 
 エリコに派遣 
 エリコの王は 
 斥候を捕らえようと 
 探索 
 ↓ 
 娼婦(ショウフ)・・・笑婦・遊女・夜鷹・廓女 
            章譜 
 ラハブ・・・・・・・・螺土生 
            蠃葉部 
            等葉分 
 は 
 斥候たちを 
 匿(かくま)う・・・・匿=匚(はこ)+若(わかい) 
                      もしく 
              和解・和歌意・倭甲斐 
              摸詞句・摸史句 
              匚=ホウ 
              若=ジャク・ニャク 
            隠匿(イントク) 
 ラハブ・・・・彼女は 
        斥候たちを 
        屋上の 
        亜麻の束の中に入れて隠した 
 は、 
 自分と親族の身の 
 安全を請願 
 斥候たちは 
 身を守る方法・・・窓に 
 ↓        赤い紐(ひも)が 
          結び付けてある 
          家を救うという約束 
          ↓↑ 
          赤の象徴 
          赤族(平家)皆殺しは 
          白族(源氏)の仕業 
          四面楚歌の 
          項羽、虞美人 
          騅=葦毛馬(烏鵻・小鳩) 
   力拔山兮氣蓋世(力は山を抜き気は世を蓋う) 
   時不利兮騅不逝(時利あらず騅逝かず) 
   騅不逝兮可奈何(騅逝かざるを奈何すべき) 
   虞兮虞兮奈若何(虞や虞や汝を奈何せん) 
        関羽の「赤菟馬」ならば 
 ↓      赤白だが?・・・赤目兎のような馬 
 を 
 ラハブ 
 に伝え、 
 ヨシュアの 
 元に帰って報告 
 三日目に、 
 ヨシュアは 
 ヨルダン川の 
 手前で宿営 
 その翌日、 
 ヨシュアは 
 契約 
 の 
 箱(はこ) 
 を 
 携えた 
 祭司たちを 
 ヨルダン川に入らせる 
 川の上流で 
 水が 
 堰き止められて・・・・・黒田官兵衛=黒田如水は 
             「旧約聖書」を読んだか? 
             「日本史」 
             ルイス・フロイス著には、 
             「カトリックを 
              受洗した者のうち」の 
             「シメオン=シオン」 
             清水宗治の 
             備中高松城の水攻めで 
             黒田官兵衛=如水=孝高は 
             船に土嚢を積んで 
             底に穴を開けて沈める作戦 
             竹中重治=竹中半兵衛は? 
 ヨルダン川が 
 干上がり、 
 その間に 
 全員が川を渡る 
 ルベン、 
 ガド、 
 マナセ 
 の半部族のうち、 
 四万人の戦士も 
 共に 
 ヨルダン川を渡る 
 神は 
 ギルガル・・・・魏留臥留←前225年(丙子) 
              秦王政二十二年 
              王翦の息子 
              王賁は魏を攻撃 
              魏は 
              大梁城を守り 
              これを 
              秦の 
              王賁は 
              水攻めにする作戦で 
              滅ぼした 
              ↓ 
              魏の曹操は 
              下邳城に籠城した 
              呂布を 
              水攻めによって 
              落城させ、 
              豫州東部と徐州を制圧 
              ↓ 
              于禁(ウキン)=文則 
              泰平郡巨平県五将軍の一人 
              魏の曹操に使えていたが 
              樊城の戦いで 
              関羽の水攻めにより降伏 
 に 
 記念碑の建立を命じ 
 ヨシュアは 
 ギルガル 
 と 
 ヨルダン川の 
 祭司たちが立っている場所に、 
 それぞれ記念碑を建立 
 ギルガルに宿営が張られる 
 神は 
 民に割礼を施すようヨシュアに命じる 
 ギルガルで 
 過越を祝う 
 翌日、 
 マナ 
 の 
 供給が終わる 
 ヨシュアは聖なる所へと 
 足を踏み入れてしまい、 
 サンダル 
 を 
 脱ぐよう 
 「主の軍の将軍」に命令 
 エリコの城壁が崩壊 
 エリコの住民と家畜は、 
 ラハブに属するものを除き、 
 すべて滅ぼされる 
 ヨシュアは 
 エリコに対する呪いの言葉を語る 
  ↓ 
 アカンは 
 エリコの戦利品を隠し持つ 
 ヨシュアは 
 アイに 
 三千の兵を差し向けるが、 
 派遣隊は敗北 
 神はヨシュアに、 
 エリコの 
 戦利品を隠し持つ者がいることを告げ 
 アカンが逮捕され、 
 彼の 
 家族、 
 および 
 彼の所有する家畜に至るまで 
 石打ちにされる 
 神はアイの再攻撃を命じ 
 都市の背後に伏兵を配置し 
 ヨシュアは 
 三万の兵を夜のうちに送り出し、 
 自らは敗走を装う兵を指揮 
 アイの兵は都市を出て 
 ヨシュア軍を追撃するが、 
 挟撃されて全滅 
 アイの王も 
 捕虜となり殺され、 
 住民も皆殺しにされる 
 アイは焼かれ、 
 ヨシュアたちは 
 アイの町の 
 家畜と分捕り品を 
 奪い取る 
 エバル山に 
 祭壇を築き、 
 犠牲を捧げる 
 ヨシュアはその祭壇に 
 モーセの律法の写しを記す 
 民は 
 エバル山 
 と 
 ゲリジム山 
 の前に集められ、 
 彼らの前で 
 律法の全ての言葉が朗読される 
 ↓ 
 ギブオン周辺に住む 
 ヒビ人たちは、 
 侵攻して来た 
 イスラエル人を欺いて 
 協定を結ばせ 
 殺されることを免れる 
 だが策略はすぐに発覚し、 
 彼らは祭壇の 
 「柴刈り 
  また 
  水汲(く)み」 
 をする者としてイスラエル人に仕える 
  ↓ 
 「アモリ人の五人の王」が 
 ギブオンを攻め、 
 ギブオン人は 
 ヨシュアに救援を求め 
 イスラエル人は 
 夜を徹して行軍し、 
 アモリ人を急襲 
 敗走するアモリ人を 
 雹が襲う 
 ヨシュアが 
 「太陽と月」に命令すると、 
 「太陽と月」は 
 「まる一日」静止 
 「五人の王」は捕虜となり処刑 
 ヨシュアは 
 ヨルダン川西岸の 
 都市ギルガルから 
 地中海沿岸の 
 都市ガザに至るまで、 
 また、 
 その 
 南方に広がる 
 荒野に至るまでの地域に点在する 
 諸都市を滅ぼし家畜などを奪っていく 
 ハツォル・・・ 
 の 
 王 
 ヤビン・・・・ 
 を 
 盟主とする大軍が 
 メロム・・・・ 
 の 
 水場に集結 
 ヨシュアはこれを急襲し、 
 敗走する敵を追撃して全滅させる 
 ヨシュアは 
 ハツォルを滅ぼして都市を燃やす 
 他の都市も滅ぼすが、 
 ハツォル以外の都市は燃やさなかった 
 北方は、 
 ヘルモン山の麓の都市、 
 バアル・ガド 
 に至るまでの 
 ヨルダン川沿いの地域を攻略 
  ↓↑ 
 神は 
 高齢となった 
 ヨシュアに、 
 未征服地を含んだ 
 ヨルダン川西岸の土地を、 
 九部族 
 と 
 マナセの半部族との間で 
 分配するよう命じ 
 ヨルダン川東岸の地を相続した 
 二部族と半部族、 
 および 
 レビ族が 
 相続地を持たないことについて 
 述べ 
 相続地を決めるために 
 「籤(くじ)」が 
 用いられる 
 カレブ・・・ 
 は 
 ヘブロンの相続を求め、許可され 
 ユダ族の相続地 
 カレブによる 
 ヘブロン攻略 
 マナセ族 
 と 
 エフライム族の相続地 
 相続地が 
 少ないことに対する 
 不満と、 
 それに対する 
 ヨシュアの助言 
 ヨシュアはまだ 
 相続地の決まっていない 
 七部族に対して 
 未征服地の調査を命じ、 
 その調査記録を基に土地を配分 
 ベニヤミン族の相続地 
 シメオン族の相続地 
 ゼブルン族の相続地 
 イサカル族の相続地 
 アシェル族の相続地 
 ナフタリ族の相続地 
 ダン族の相続地 
 ヨシュアは 
 ティムナト・セラ 
 を 
 相続地として受け取る 
  ↓ 
 神はヨシュアに 
 「逃れの町」を定めるよう命令 
 「六つの都市」が定められる 
 相続地のない 
 レビ族に対し、 
 各部族の相続地から 
 居住のための 
 都市が与えられる 
  ↓↑ 
 シケム契約(22-24章) 
 ヨシュアは 
 ルベン、 
 ガド、 
 マナセの半部族の戦士たちを 
 郷里へと帰らせるが、 
 彼らがヨルダン川のほとりに 
 大きな祭壇を築いたことが伝えられ、 
 ヨルダン川東岸の部族に対する 
 軍事行動が検討され 
 ピネハス・・・・ 
 らが派遣され、 
 彼らに 
 ヨルダン川西岸へと 
 移住するよう勧めるが、 
 彼らの説明する祭壇を築いた目的は 
 好ましいものであったため、 
 軍事行動は起こされなかった 
 ヨシュアは長老たちを呼び、 
 モーセの律法を 
 守り行うよう諭す 
 ヨシュアは 
 全イスラエルを 
 シケムに集め、 
 彼らに神の言葉を伝える 
 民は 
 ヤハヴェ・・・ 
 に 
 仕え続けることを誓い、 
 その証拠として 
 大きな石が立てられる 
 ヨシュアの死と埋葬 
 エジプトから運ばれてきた 
 ヨセフの骨は 
 シケムに埋葬 
 エレアザルの死と埋葬 
ーーーーー 
 ・・・

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「戦争」はスポーツでもゲームでも映画でもない

2015-05-27 19:11:00 | 古事記字源

 ・・・「木を観て森を観ざるが如し」・・・なるほで、「アブ」が「キ、モクをみないとは、森の本質の亜流だな」・・・「樹」をみず「森」ばかり見ているらしい・・・「記を視て摸理を視ざるが語渡詞」・・・「葉隠れ」・・・「葉の表を観て裏の虫を視ない」か・・・

 「満州事変、盧溝橋事変」で中央政府の主導を無視したのは現場の「関東軍」だったが・・・「226事件」は1936年(昭和十一年)二月二十六日~二月二十九日・・・青年将校、1483名の下士官、兵の「昭和維新断行・尊皇討奸」であった・・・残念だったろうナッ、「叛乱軍(反乱軍)」の「安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次」・・・ナゼ、「昭和維新・尊皇討奸」が「叛乱軍」になったのか・・・当然、「叛乱軍」≠「昭和維新・尊皇討奸」である。
 「尊皇討奸」の挫折の延長が「中国大陸・太平洋戦争・敗戦」だったのか?・・・「青年将校」には「維新後」の国家プランがなかった。あったのは「尊王」だけである。そして「天皇への信仰」だけだった。「天皇」が「日本資本主義」の「大財閥」であるコトには疎かったのである。オマケに「軍人」であることの「生活基盤」を支えている「国家予算の海軍、陸軍への配分」が何たるかも知らずに、「純真無垢」、「お人よし」であったのだ。
 本日の「国会討論会」が今、終わった。
 委員会の後方に座っている議員が笑い顔で隣に座っている議員に終始ハナし掛けていたが・・・共産党の質問には防衛大臣も首相も深刻で、悔しそうな顔をして聴いているようだったが・・・「武力行使」を出来ない「日本国自衛隊」の無念さの苦渋だろう・・・同胞が異国人に殺されても「臥薪嘗胆」が「日本国憲法」の枠では無意味である・・・「ヤラレッパナシでイイワケ」が無い。「国家主義者」としては悔しいのは当然である。市民社会でも当然な「心情」である・・・だが、討論会後の首相はワライ顔・・・ワライが悪いと云うワケではないが・・・
 「維新の会(憲法改正)」も、「共産党(憲法改正反対)」も問題にしたのは政府案の「後方支援」と「非戦闘地域」である・・・「非戦闘地域、そんなモノは何処かはワカリマセンョ、ッ」の武装解除の進まないイラク国家領域戦闘中の「自衛隊派遣」のコイズミは正直(?)だった・・・そもそも「サマワは戦争中のイラク国内」であったのだから・・・「Not Money,Show the flag」・・・
 兎に角、「維新の会(憲法改正)」も、「共産党(憲法改正反対)」も「後方支援」とは「兵站(軍事物資、兵員の輸送=戦争戦闘行為の本質)である」と「政府」を追求したコトである。
 理論、理屈の根幹が「日本国憲法」であるから「維新の会(憲法改正)」も、「共産党(憲法改正反対)」も「概念・範疇・本質・カテゴリ・コトバの内容規定」は正論である。
 「日本国憲法」を取っ払うことのできない「政府(日本国憲法維持の枠内)」での「(軍事的)後方支援=Military Logistics)=兵站」は無理なのは当然である。
 「9条」さえなければ、政府案の「後方支援」と「非戦闘地域」の論戦などは無用だから・・・「立法」も無用だから・・・
 だが「9条」さえあれば「国家間戦争は無い」と考える人間も「能天気」なのである。
 「9条」に「命」を掛け、日本地区居住民を護ってきたのが「日本国自衛隊員」なのである・・・「自衛隊」はそもそも「対外派兵、対外戦闘の軍隊」ではないのだから・・・「日本国自衛隊員」は「日本國憲法下の人間」に「命」を賭けているのだ・・・下痢の腹具合で義務を放棄するワケにはいかないのである・・・
ーーーーー
 木を数えて林を忘れる
 金を攫(掴・つか)む者は人を見ず
 鹿を追う者は山を見ず
 獣を逐う者は目に太山を見ず
 鹿を逐う者は兎を顧みず
ーーーーー
旧約聖書
申命記
第33章
33:1
神の人モーセは
死ぬ前にイスラエルの人々を祝福した。
祝福の言葉は次のとおりである。
33:2
「主は
 シナイからこられ、
 セイルから
 我々(われわれ・ガガ)に
 向かって登られ、
 パランの山から
 光を放たれ、
 千萬(ちよろず)
 の
 聖者の中から
 こられた。
 その
 右の手には
 燃える
 火があった。
33:3
 誠(まこと・真・允)に
 主はその民を愛される。
 すべて主に
 聖別(セイベツ・ひじりわけ)
 されたものは、
 御(み・オン)手のうちにある。
 彼らはあなたの
 足もとに座して、
 教をうける。
33:4
 モーセは
 我々(われわれ・ガガ)に
 律法を授けて、
 ヤコブの会衆の所有とさせた。
33:5
 民の頭目(かしら・トウモク)たちが集まり、
 イスラエルの部族がみな集まった時、
 主は
 エシュルン・・・ヘブル語(ヘブライ語)で
         「正しい者」
         「高潔な者」
 のうちに
 王・・・・・・「王」となったとは?・・・
 となられた」。
33:6
「ルベン
 は
 生きる、
 死にはしない。
 しかし、
 その人数は少なくなるであろう」。
33:7
ユダについては、こう言った、
「主よ、
 ユダの声を聞いて、
 彼をその民に導きかえしてください。
 み手をもって、
 彼のために戦ってください。
 彼を助けて、
 敵に当らせてください」。
33:8
レビについては言った、
「あなたの
 トンミム
 を
 レビに与えてください。
 ウリム
 を
 あなたに仕える人に与えてください。
 かつて
 あなたは
 マッサ
 で彼を試み、
 メリバ
 の
 水
 の
 畔(ほとり・辺)で彼と争われた。
33:9
 彼は
 その父、
 その母について言った、
 『私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
  彼らを
  顧みない』。
 彼は自分の兄弟をも認めず、
 自分の子供をも顧みなかった。
 彼らは
 あなたの言葉にしたがい、
 あなたの契約を守ったからである。
33:10
 彼らは
 あなたの
 掟(おきて・テ)
 を
 ヤコブに教え、
 あなたの
 律法
 を
 イスラエルに教え、
 薫香
 を
 あなたの前に供え、
 燔祭
 を
 祭壇の上にささげる。
33:11
 主よ、
 彼の力を祝福し、
 彼の手の
 伎(わざ・技・業)
 を
 喜び受けてください。
 彼に逆らう者と、
 彼を憎む者との
 腰を打ち砕いて、
 立ち上がることの
 できないようにしてください」。
33:12
ベニヤミンについては言った、
「主に愛される者、
 彼は安らかに主のそばにおり、
 主は終日、
 彼を守り、
 その
 肩の間に
 住(すま)い
 を
 営まれるであろう」。
33:13
ヨセフについては言った、
「どうぞ主が彼の地を祝福されるように。
 上なる
 天の賜物
 と
 露、
 下に横たわる
 淵
 の
 賜物、
33:14
 日によって産する尊い賜物、
 月によって生ずる尊い賜物、
33:15
 古(いにしえ)
 の
 山々
 の
 産する賜物、
 常(とこしえ・永久・長しえ)
 の
 丘
 の
 尊い賜物、
33:16
 地とそれに満ちる尊い賜物、
 柴(しば)
 の
 中に
 おられた者の恵みが、
 ヨセフの頭に臨み、
 その兄弟たちの
 君たる者の
 頭の頂にくだるように。
33:17
 彼の牛の
 初子(初児・ういご)は
 威厳があり、
 その角は野牛の角のよう、
 これをもって
 国々の民をことごとく突き倒し、
 地の果(は)てにまで及ぶ。
 このような者は
 エフライム
 に
 幾万とあり、
 また
 このような者は
 マナセ
 に
 幾千とある」。
33:18
ゼブルンについては言った、
「ゼブルンよ、
 あなたは外に出て楽しみを得よ。
 イッサカルよ、
 あなたは
 天幕にいて楽しみを得よ。
33:19
 彼らは
 国々の民を
 山に招き、
 その所で
 正しい犠牲をささげるであろう。
 彼らは
 海の富を吸い、
 砂に隠れた宝を
 取るからである」。
33:20
ガドについては言った、
「ガド
 を
 大きくする者は、
 誉(褒・ほむ)べきかな。
 ガドは、
 獅子(しし)のように伏し、
 腕や頭の頂を
 かき(掻き)裂くであろう。
33:21
 彼は
 初穂の地を
 自分のために選んだ。
 そこには
 将軍の分も取り置かれていた。
 彼は民の
 頭目(かしら・トウモク)たちと共にきて、
 イスラエルと共に
 主の
 正義
 と
 審判
 とを行った」。
33:22
ダンについては言った、
 「ダンは
  獅子(しし)の子であって、
  バシャン
  から
  おどりでる」。
33:23
ナフタリについては言った、
「ナフタリよ、
 あなたは恵みに満たされ、
 主の祝福に満ちて、
 湖と
 その南の地を所有する」。
33:24
アセルについては言った、
「アセルは
 他の子らに
 まさって祝福される。
 彼はその兄弟たちに愛せられ、
 その
 足を
 油に
 浸(ひた・漬)すことができるように。
33:25
 あなたの
 貫の木
 は
 鉄
 と
 青銅、
 あなたの力は
 あなたの年と共に続くであろう」。
33:26
「エシュルンよ、
 神に並ぶ者はほかにない。
 あなたを助けるために天に乗り、
 威光をもって
 空を通られる。
33:27
 永久(とこしえ・常・長)
 に
 います神はあなたの
 すみかであり、
 下には
 永遠の腕がある。
 敵を
 あなたの前から追い払って、
 『滅ぼせ』
 と言われた。
33:28
 イスラエルは
 安らかに住み、
 ヤコブの泉は
 穀物
 と
 葡萄(ぶどう)酒の地に、
 ひとり
 いるであろう。
 また
 天は
 露
 を
 くだすであろう。
33:29
 イスラエルよ、
 あなたは
 しあわせである。
 だれが
 あなたのように、
 主に救われた民があるであろうか。
 主は
 あなたを助ける盾(たて・ジュン)、
 あなたの威光の剣(つるぎ・ケン)、
 あなたの敵は
 あなたに諂(へつら)い
 服し、
 あなたは
 彼らの
 高き所を
 踏み進むであろう」。
第34章
34:1
モーセは
モアブ

平野から
ネボ山

登り、
エリコ

向かいの
ピスガ

頂へ行った。
そこで
主は彼に
ギレアデ

全地を
ダン
まで示し、
34:2
ナフタリの全部、
エフライム

マナセ


および
ユダ

全地を西の海まで示し、
34:3
ネゲブと低地、
すなわち、
棕櫚(しゅろ)の町
エリコ



ゾアル
まで示された。
34:4
そして主は彼に言われた、
「私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)が
 アブラハム、イサク、ヤコブに、
 これを
 あなたの子孫に
 与えると言って誓った地は
 これである。
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
 これを
 あなたの目に見せるが、
 あなたは
 そこへ渡って行くことはできない」。
34:5
こうして主の
僕(しもべ)モーセは
主の言葉のとおりに
モアブ・・・・・・・摸阿武・・・

地で死んだ。
34:6
主は彼を
ベテペオル
に対する
モアブ
の地の谷に葬られたが、
今日まで
その墓を知る人はない。・・・?「ラモーゼの墓」
34:7
モーセは死んだ時、
百二十歳
であったが、
目は霞(かすま)ず、
気力は衰えていなかった。
34:8
イスラエルの人々は
モアブの平野で
三十日の間
モーセのために泣いた。
そして
モーセのために
泣き悲しむ日は
ついに終った。
34:9
ヌン


ヨシュア

知恵の霊に満ちた人であった。
モーセが
彼の上に手を置いたからである。
イスラエルの人々は
彼に聞き従い、
主が
モーセに命じられたとおりにおこなった。
34:10
イスラエルには、
この後(のち・ゴ)
モーセのような預言者は起らなかった。
モーセは
主が
顔を
合わせて
知られた者
であった。
34:11
主は
エジプトの地で


パロ

そのすべての家来
および
その
全地につかわして、
もろもろの
しるし

不思議

行わせられた。
34:12
モーセは
イスラエルの
すべての人の前で
大いなる力をあらわし、
大いなる
恐るべき事

おこなった。
ーーーーー
 ・・・???・・・小心者で「神のコトバ」の命令には「ご辞退」を繰り返し、大衆の前では「演説・アジテーション(agitation)・ディベート(debate)」も出来ずに兄の「アロン」に負かせパナしだった「モーゼ」・・・
 「ディベト」・・・シンの荒野の地名・・・「エリムとシナイの間」にある荒野・・・「シンの荒野」はシナイ半島の南西部、カディムの西方にある「ディベト・エル・ラムレ」付近の荒野の地名・・・

コメント
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「木に縁りて魚を求む」

2015-05-26 20:45:26 | 古事記字源

 ・・・ 「木に縁りて魚を求む」・・・「記に選りて眞名(仮名)を求む」・・・ 年寄りで、老いぼれだから・・・そのうちにネッ・・・・「選る談(Jordan・ヨルダン・約旦)」・・・冗談も盡きる仮名・・・「120歳」にして「Jordan・ヨルダン・約旦)」には行けなかった・・・肉体的にも精神的にも強靭だったが「寿命」は如何ともしがたいであった・・・


ーーーーー・
 旧約聖書
 申命記
第31章
31:1
そこで
モーセは
続いてこの言葉を
イスラエルのすべての人に告げて、
31:2
彼らに言った、
「私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は、
 きょう(今日・本日)、
 すでに
 百二十歳になり・・・・・120
             百弐拾
             佰念
             珀念
 もはや
 出入り
 することはできない。
 また
 主は
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)に
 『おまえはこの
  ヨルダンを
  渡(わた)ることは
  できない』
 と言われた。
 ↓
31:7
モーセは
ヨシュア
を呼び、
イスラエルのすべての人の
目の前で彼に言った、
「あなたは
 この民と共に行き、
 主が彼らの先祖たちに
 与えると誓われた
 地に入るのであるから、
 あなたは
 強く、
 かつ
 勇ましく
 なければならない。
 あなたは彼らに
 それを
 獲させるであろう。
 ↓
 ・・・
31:10
そして
モーセは
彼らに命じて言った、
「七年・・・・・・・漆(うるし)→膝(ヒザ)
                   日座
                   肥坐 
 の
 終り
 ごとに、
 すなわち、
 ゆるし(許)の年
 の
 定め
 の
 時になり、
 かりいお(仮庵)の祭
 に、
31:11
 イスラエルのすべての人が
 あなたの神、
 主の前に出るため、
 主の
 選ばれる
 場所に
 来るとき、
 あなたは
 イスラエルのすべての人の前で
 この
 律法を読んで
 聞かせなければならない。
31:12
 すなわち
 男、女、子供
 および
 あなたの町のうちに
 寄留している
 他国人など民を集め、
 彼らにこれを聞かせ、
 かつ
 学ばせなければならない。
 そうすれば
 彼らは
 あなたがたの神、
 主を恐れて
 この
 律法の言葉を、
 ことごとく守り行うであろう。
31:13
 また
 彼らの子供たちで
 これを知らない者も聞いて、
 あなたがたの神、
 主を恐れることを学ぶであろう。
 あなたがたが
 ヨルダンを
 渡って行って取る地に
 ながらえる日のあいだ
 常にそうしなければならない」。
31:14
 主はまたモーセに言われた、
「あなたの死ぬ日が近づいている。
 ヨシュア
 を
 召して
 共に
 会見の幕屋・・・・・・・会見の陣営
 に
 立ちなさい。
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
 彼に
 務(つとめ)
 を
 命じるであろう」。
モーセとヨシュアが行って
会見の幕屋に立つと、
31:15
主は
幕屋で
雲の柱

うちに現れられた。
その
雲(くも・ウン)・・・・雲=雨+云

柱(はしら・チュウ)・・柱=木+主

幕屋の入口の
傍(かたわら)・・・・・傍=イ+旁

とどまった。
31:16
主はモーセに言われた、
「あなたは
 まもなく
 眠って
 先祖たちと
 一緒になるであろう。
 そのとき
 この民はたちあがり、
 はいって行く地の
 異なる神々を
 慕って
 姦淫
 を
 行い、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)を
 捨て、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)が
 彼らと
 結んだ
 契約
 を
 破るであろう。
31:17
その日には、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
 彼らにむかって
 怒りを発し、
 彼らを捨て、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)の
 顔を
 彼らに
 隠すゆえに、
 彼らは
 滅ぼし
 尽(つくさ・灰燼・灰塵)れ、
 多くの
 災(わざわい)
 と
 悩みが
 彼らに臨(のぞ)むであろう。
 そこでその日、
 彼らは言うであろう、
 『これらの
  災(わざわい)が
  我々(われわれ・ガガ)に臨むのは、
  我々(われわれ・ガガ)の神が
  我々(われわれ・ガガ)のうちに
  おられないからではないか』。
31:18
 しかも
 彼らが
 他(ほか・タ)の
 神々に帰して、
 もろもろの
 悪を行うゆえに、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
 その日には
 必ず
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)の
 顔(かお・ガン)
 を
 隠す
 であろう。
31:19
 それで
 あなたがたは
 今、
 この
 歌(うた・カ)・・・・・・和歌
 を
 書きしるし、
 イスラエルの人々に
 教えて
 その口に唱えさせ、
 この歌を
 イスラエルの人々に対する
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)の
 証(あかし)とならせなさい。
31:20
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)が
 彼らの先祖たちに誓った、
 乳
 と
 蜜
 の
 流れる地に
 彼らを導き入れる時、
 彼らは
 食べて
 飽(あ)き、
 肥(こ)え
 太(ふと)る
 に
 及んで、
 他(ほか)の神々に
 帰し、
 それに仕えて、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)を
 軽んじ、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)の
 契約を破るであろう。
31:21
 こうして
 多くの
 災と
 悩みとが
 彼らに臨む時、
 この歌は彼らに対して、
 あかし(証・アカシ)・・・明石・赤石・赤司
 と
 なるであろう。
(それはこの歌が
 彼らの子孫の口にあって、
 彼らはそれを
 忘れないからである。)
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)が
 誓った地に
 彼らを導き入れる前、
 すでに彼らが
 思いはかっている事を
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
 知っているからである」。
31:22
モーセはその日、
この歌を書いて
イスラエルの人々に教えた。
31:23
主は
ヌン・・・・・


ヨシュア・・・

命じて言われた、
「あなたは
 イスラエルの人々を
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)が
 彼らに誓った地に
 導き入れなければならない。
 それゆえ
 強く
 かつ
 勇ましく
 あれ。
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
 あなたと
 共にいるであろう」。
31:24
モーセが
この
律法

言葉
を、
ことごとく
書物に
書き終った時、
31:25
モーセは
主の
契約の箱を
かつぐ(担ぐ・カツグ)・・・だます
              騙・瞞・欺す
レビびと

命じて言った、
31:26
「この律法の書をとって、
 あなたがたの神、
 主の契約の箱の
 傍(かたわ)らに置き、
 その所で
 あなたに
 むかって
 あかし
 を
 するものとしなさい。
31:27
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
 あなたの
 背(そむ)くことと、・・・背叛
 頑(かたくな)な・・・・・頑固
 こととを知っている。
 きょう、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)が
 生きながらえて、
 あなたがたと
 一緒にいる間ですら、
 あなたがたは
 主に
 そむいた(背いた)。
 まして
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)が
 死んだ
 後(あと・ゴ)は
 どんなであろう。
31:28
 あなたがたの部族のすべての長老たちと、
 司(つかさ)たちを
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)の
 もとに集めなさい。
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
 これらの言葉を
 彼らに語り聞かせ、
 天と地とを呼んで
 彼らにむかって
 あかしさせよう。
31:29
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
 知っている。
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)が
 死んだのち、
 あなたがたは
 必ず悪い事をして、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)が
 命じた道を離れる。
 そして後の日に
 災が
 あなたがたに臨むであろう。
 これは主の
 悪と見られることを行い、
 あなたがたのすることをもって
 主を怒らせるからである」。
31:30
そして
モーセはイスラエルの全会衆に
次の歌の言葉を、
ことごとく語り聞かせた。
 ↓
第32章
32:1
「天よ、
 耳を傾けよ、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
 語る、
 地よ、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)の
 口の言葉を聞け。
32:2
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)の
 教は
 雨のように
 降り注(そそ)ぎ、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)の
 言葉は
 露のように
 滴(したた・澑・瀝)るであろう。・・・瀝=水+歴
 若草
 の
 上に
 降る
 小雨
 のように、
 青草の
 上に
 降(くだ)る
 夕立
 のように。
32:3
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
 主の名をのべよう、
 我々(われわれ・ガガ)
 の
 神に栄光を帰せよ。
32:4
 主は
 岩・・・・・・・磐・石
 で
 あって、
 その
 御技(みわざ)は
 全く、
 その
 道は
 みな正しい。
 主は
 真実なる神であって、
 偽りなく、
 義・・・・・・・・・
 であって、
 正・・・・・・・・・
 である。
32:5
 彼らは主にむかって
 悪を行い、
 その
 傷(きず)のゆえに、
 もはや 
 主の子らではなく、
 邪(よこしま)・・・・・
 で、
 曲った・・・・・・・・・曲=よこしま
 やから・・・・・・・・・輩・族
 である。
32:6
 愚かな
 知恵のない民よ、
 あなたがたは
 このようにして
 主に報いるのか。
 主は
 あなたを生み、
 あなたを造り、
 あなたを堅く立てられた
 あなたの
 父ではないか。
32:7
 古(いにしえ)の日を覚え、
 代々の年を思え。
 あなたの父に問え、
 彼は
 あなたに告げるであろう。
 長老たちに問え、
 彼らはあなたに語るであろう。
32:8
 いと
 高き者は
 人の子らを分け、
 諸国民に
 その嗣業を与えられたとき、
 イスラエルの子らの
 数に照して、
 もろもろの民の
 境を定められた。
32:9
 主の分は
 その民であって、
 ヤコブは
 その定められた嗣業である。
32:10
 主はこれを
 荒野の地で見いだし、
 獣のほえる
 荒れ地で会い、
 これを
 巡り囲んで
 労(いたわ)り、・・・・いたわり
             大分(おおいた)
 目(め・ま・モク)
 の
 瞳(ひとみ)
 の
 ように守られた。
32:11
 鷲(わし)・・・・・倭詞・話思・和史
 が
 その巣
 の
 雛(ひな)・・・・・ひな
           雛形
 を呼び起し、
 その
 子の上に
 舞いかけり、
 その羽(は・はね)を
 ひろげて
 彼らを
 乗(の)せ、
 その
 翼(つばさ)の上に
 これを負うように、
32:12
 主は
 ただひとりで
 彼を導かれて、
 ほかの神々は
 あずからなかった。
32:13
 主は
 彼に
 地の高き所を乗り通らせ、
 田畑の産物を
 食わせ、
 岩の中から・・・・・・・磐・石
 蜜を吸わせ・・・・・・・密
 堅い岩から・・・・・・・磐・石
 油を吸わせ、・・・・・・あぶら
32:14
 牛の凝乳、
 羊の乳、
 小羊と
 雄羊の脂肪、
 バシャン
 の
 牛と
 雄やぎ、
 小麦の良い物を
 食わせられた。
 また
 あなたは
 葡萄(ぶどう)
 の
 汁(しる)の
 泡(あわ)立つ
 酒を飲んだ。
32:15
 しかるに
 エシュルンは
 肥え太って、
 足でけった。
 あなたは
 肥え太って、
 つややかになり、
 自分を造った神を捨て、
 救(すくい)の
 岩
 を
 侮った。
32:16
 彼らは
 ほかの神々に仕えて、
 主の
 ねたみを起し、
 憎むべき
 おこないをもって
 主の
 怒りをひき起した。
32:17
 彼らは
 神でもない悪霊に犠牲をささげた。
 それは
 彼らが
 かつて知らなかった神々、
 近ごろ出た新しい神々、
 先祖たちの
 恐れることもしなかった者である。
32:18
 あなたは
 自分を生んだ
 岩を軽んじ、
 自分を造った
 神を忘れた。
32:19
 主はこれを見、
 その
 むすこ、
 娘を
 怒ってそれを捨てられた。
32:20
 そして言われた、
 『私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
  私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)の顔を
  彼らに隠そう。
  私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
  彼らの終りがどうなるかを見よう。
  彼らは
  そむき、
  もとるやから、
  真実のない
  子らである。
32:21
  彼らは神でもない者をもって、
  私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)に
  ねたみ
  を
  起させ、
  偶像をもって、
  私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)を
  怒らせた。
  それゆえ、
  私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
  民とも
  いえない者をもって、
  彼らに
  ねたみを起させ、
  愚かな民をもって、
  彼らを怒らせるであろう。
32:22
  私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)の怒りによって、
  火は燃えいで、
  陰府
  の
  深みにまで燃え行き、
  地
  と
  その産物
  とを
  焼きつくし、
  山々の木(基)を・・・
  燃やすであろう。
32:23
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
 彼らの上に
 災を積みかさね、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)の
 矢を彼らにむかって
 射つくすであろう。
32:24
 彼らは
 飢えて、
 やせ衰え、
 熱病と
 悪い疫病によって
 滅びるであろう。
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
 彼らを
 獣の歯に
 かからせ、
 地に這うものの
 毒に
 あたらせるであろう。
32:25
 外には
 つるぎ、
 内には
 恐れがあって、
 若き男も
 若き女も、
 乳のみ子も、
 白髪(しらが)の人も
 滅びるであろう。
32:26
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
 まさに言おうとした、
 「彼らを遠く散らし、
  彼らの事を
  人々が
  記憶しないようにしよう」。
32:27
 しかし、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
 敵が誇るのを恐れる。
 あだびとは
 まちがえて言うであろう、
 「我々(われわれ・ガガ)の手が
  勝ちをえたのだ。
  これは
  みな主が
  されたことではない」』。
32:28
 彼らは
 思慮の欠けた民、
 そのうちには
 知識がない。
32:29
 もし、
 彼らに知恵があれば、
 これをさとり、
 その身の終りを
 わきまえたであろうに。
32:30
 彼らの
 岩
 が
 彼らを売らず、
 主が彼らを
 わたされなかったならば、
 どうして、
 ひとりで
 千人を追い、
 ふたりで
 万人を敗ることができたであろう。
32:31
 彼らの
 岩は
 われらの岩に及ばない。
 われらの敵も
 これを認めている。
32:32
 彼らの
 ぶどうの木は、
 ソドムのぶどうの木から出たもの、
 また
 ゴモラの野から出たもの、
 その
 ぶどうは毒ぶどう、
 その
 ふさは苦い。
32:33
 その
 ぶどう酒は
 へびの毒のよう、
 まむしの
 恐ろしい
 毒のようである。
32:34
 これは
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)の
 もとに
 たくわえられ、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)の
 倉に
 封じ込められているではないか。
32:35
 彼らの
 足
 が
 すべるとき、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
 あだを返し、
 報いをするであろう。
 彼らの災の日は近く、
 彼らの破滅は、
 すみやかに来るであろう。
32:36
 主はついに
 その民を
 さばき、
 その
 しもべらに
 あわれみ
 を
 加えられるであろう。
 これは彼らの力が
 うせ去り、
 つながれた者も
 つながれない者も、
 もはや
 いなくなったのを、
 主が見られるからである。
32:37
 そのとき
 主は言われるであろう、
 『彼らの神々はどこにいるか、
  彼らの頼みとした
  岩
  は
  どこにあるか。
32:38
  彼らの
  犠牲の
  あぶらを食い、
  灌祭の
  酒を飲んだ者はどこにいるか。
  立ちあがって
  あなたがたを助けさせよ、
  あなたがたを守らせよ。
32:39
  今見よ、
  私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)こそは
  彼である。
  私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)の
  ほかに神はない。
  私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
  殺し、
  また
  生かし、
  傷つけ、
  また
  癒(いや)す。
  私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)の
  手から
  救い出しうるものはない。
32:40
  私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
  天にむかい
  手をあげて誓う、
 「私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
  永遠に生きる。
32:41
  私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)が
  きらめく
  つるぎ
 を
 とぎ、
 手に
 さばきを握るとき、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
 敵に
 あだを
 返し、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)を
 憎む者に
 報復するであろう。
32:42
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)の
 矢を血に酔わせ、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)の
 つるぎ
 に
 肉
 を
 食わせるであろう。
 殺された者と
 捕えられた者の
 血を飲ませ、
 敵の
 長髪の頭
 の
 肉
 を
 食わせるであろう」』。
32:43
 国々の民よ、
 主の民のために喜び歌え。
 主はその
 しもべの血のために
 報復し、
 その敵に
 あだを返し、
 その民の地の
 汚れを
 清められる
 からである」。
32:44
モーセ

ヌンの子
ヨシュア

共に行って、
この歌の言葉を、
ことごとく民に
読み聞かせた。
32:45
モーセはこの言葉を、
ことごとく
イスラエルのすべての人に
告げ終って、
32:46
彼らに言った、
「あなたがたは
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)が、
 きょう、
 あなたがたに
 命じる
 この
 すべての言葉を
 心におさめ、
 子供たちにも
 この律法の
 すべての言葉を
 守り行うことを
 命じなければならない。
32:47
 この言葉は
 あなたがたにとって、
 むなしい言葉ではない。
 これは
 あなたがたの
 いのち
 である。
 この言葉により、
 あなたがたは
 ヨルダンを
 渡って行って取る地で、
 長く命を
 保つことが
 できるであろう」。
32:48
この日、
主はモーセに言われた、
32:49
「あなたは
 エリコに対する
 モアブの地にある
 アバリム山
 すなわち
 ネボ山に登り、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)が
 イスラエルの人々に与えて獲させる
 カナンの地を見渡せ。
32:50
 あなたは
 登って行く
 その山で死に、
 あなたの民に
 連なるであろう。
 あなたの
 兄弟
 アロン
 が
 ホル山
 で
 死んで
 その民に
 連なったようになるであろう。
32:51
 これは
 あなたがたが
 チン
 の
 荒野にある
 メリバテ・カデシ
 の
 水のほとりで、
 イスラエルの人々のうちで
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)に
 そむき、
 イスラエルの人々のうちで
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)を
 聖なるものとして
 敬わなかったからである。
32:52
 それで
 あなたは
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)が
 イスラエルの人々に
 与える地を、
 目の前に見るであろう。
 しかし、
 その地に、
 入(はい)ることは
 できない」。
ーーーーー
 ・・・

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