20時24分頃、小笠原諸島(母島・父島)、神奈川県で地震(M8.5)・・・勝手に解釈する「盤(地盤)揚州」・・・「萬葉集(万葉集)」・・・日本人の「心象(恐怖)原風景」を「かんじ」で得れるのか?・・・「大伴家持(おおとも の やかもち」・・・奈良時代の「貴族・歌人・大納言・祖父は大伴安麻呂、父は大伴旅人、母は丹比郎女、弟は大伴書持、妻は坂上大嬢(大伴宿奈麻呂の娘)、男子は大伴永主、大伴中主・官位は従三位・中納言・三十六歌仙の一人・小倉百人一首では中納言家持」・・・戦争をどのように「心象風景」として今現在生きている人々の心に喚起されるのか・・・「トラウマ」とは・・・
かんじる・・・感じる・・・漢字留
石原莞爾(かんじ)
明治二十二年(1889年)一月十八日
(戸籍の上では17日)
~
昭和二十四年(1949年)八月十五日)
陸軍軍人・陸軍中将
従四位・ 勲三等・功三級
「世界最終戦論」の軍事思想家?
うるわし・・・潤(うる)わし・・・得る和史
麗(うるわ)しい=美しい
華麗な→豪華な(splendid)
壮麗な(magnificent)
華麗な舞踏会(a magnificent ball)
(a gorgeous ball)
ゴゥジャス
「鹿鳴館」=明治十年代後半を
「鹿鳴館(ロクメイカン)時代」
英国人
コンドル・・・禿げ鷹(たか・hawka falcon )
禿げ鷲(わし・eagle)
鳶(とび・ kite)
の設計
明治十六年(1883)完成
外務卿
井上馨=井上聞多
が、
不平等条約改正交渉のために企図
↓↑
「麗」=レイ・うるわ(しい)・リ
つら(なる)・なら(ぶ)
はな(れる)・うら(ら)
うら(らか)
「麗」=「丽+鹿」
↓↑ =「𪋘・麗・丽・𠧥・婯・𪋘」
意味
うるわしい、はなやか、美しい、
くっつく、附ける、並ぶ、施す、
繋げる、
数、
(儷と通じて)ペア、二つの、
(欐と通じて)棟木
(離と通じて)離れる、
高句麗という国名の「麗」
「説文解字・巻十」に
「旅(なら)びて行くなり。
鹿の性、食を見ること急なれば、
則ち必ず旅び行く」
「説文」に
「禮、麗皮もて納聘す。葢し鹿皮なり」
麗皮は二枚の鹿皮のこと
「玉篇」に
「偶なり、施なり、
華綺なり、好なり、
数なり」
字形
↓↑
鹿の象形で上の部分(丽)は鹿の角
丽は麗の初形であり、
一対の鹿の角の象形
二つの鹿の皮の象形
↓↑
「麗」
の
類字は「麓」=林+鹿(しか・ロク)
麓(ふもと・ロク)=山裾(やますそ)
府本、府下とも
薩摩藩の地方支配の中心地
薩摩藩では家臣団は
身分的には武士であるが
日常は農業に従事し,
外城衆中と呼ぶ郷士が在村
西郷隆盛・大久保利通
↓↑
「麗装の美人」=「男装の麗人」
川島芳子=愛新覺羅-顯㺭
清朝
第十代
粛親王善耆の
第十四王女
字は東珍
漢名は
金璧輝
俳名は和子
他に芳麿、良輔
養父は
「川島浪速」=元信州松本藩士の子
1911年は辛亥革命
17歳で自殺未遂
彼女の辞世の詩
家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず
法あれども正しきを得ず
冤あれども誰にか訴えん
中国国民政府に銃殺刑・・・?
↓
海行かば
水漬(づく)屍(かばね)
山行かば
草生(むす)屍(かばね)
大君の
辺にこそ死なめ
かへりみはせじ
長閑(のど)には死なじ
↓
・・・以下の参照原文は「ウイッキペデア」や他の「ブログ記事」・・・
↓
ーーーーー
大伴家持・・・・・ダイハンカジ
大 半 化事(時)
父の
大伴旅人・・・・・ダイハンリョジン
大 半 慮 訊
が
大宰帥として
大宰府に
赴任・・・・・・・附任
する際に
母の
丹比郎女・・・・・タンヒロウジョ
譚 比労 序(女)
いらつめ
異覶(ラ)通目
弟の・・・・・・・乙・音
大伴書持・・・・・ダイハンショジ
大 半 諸 事
とともに
任地に従った
母の死後
西下してきた
叔母・・・・・・・おば・をば・シュク
大伴・・・・・・・ダイハン
坂上・・・・・・・ハンジョウ
犯情・斑状・判状
郎女・・・・・・・ロウジョ
に育てられた
・・・以下は「年号・数字」に留意
天平二年(730年)
旅人とともに帰京
↓
天平十年(738年)
内舎人・・・・・・・ナイシャジン
名意写 人
拿異者 人(訊)
天平十二年(740年)
藤原広嗣の乱
平定を祈願する
聖武天皇の
伊勢行幸に随行・・・・意施行考・隋(書)行
天平十七年(745年)
従五位下
天平十八年(746年)三月
宮内少輔
六月
越中守・・・・・・・・エッチュウ
閲 注(註)
天平勝宝三年(751年)
まで赴任
この間に223首の歌を詠む
↓
少納言に任ぜられ帰京後、
天平勝宝六年(754年)
兵部少輔
翌年
難波で・・・・・・・なにわ・ナンパ
浪速・浪花・納葉
「防人」の
検校に関わった
天平宝字二年(758年)
因幡守・・・・・・・インバンシュ
印 版 種
天平宝字三年(759年)正月
因幡国の国府で
『万葉集』の最後の歌を詠む
↓
天平宝字元年(757年)
橘奈良麻呂の乱
藤原良継・・・・・・・トウゲンリョウケイ
(宿奈麻呂)・・・・・すくなまろ
石上宅嗣・・・・・セキジョウタクシ
最古の図書館(藝亭=うんてい)
佐伯今毛人・・・・サハクコンモウジン
さえきいまけひと
などの
三人と
藤原仲麻呂暗殺計画を立案
暗殺計画未遂
天平宝字七年(763年)
四人は逮捕
藤原良継・・・・・
一人が責任を負った
大伴家持は罪に問われなかった
天平宝字八年(764年)
薩摩守・・・・・・
への転任
天平宝字八年(764年)
九月
藤原仲麻呂の乱
藤原仲麻呂死去
↓
神護景雲一年(767年)
大宰少弐
神護景雲四年(770年)
称徳天皇が死没
左中弁兼中務大輔
正五位下に昇叙
光仁朝では
式部大輔
左京大夫
衛門督
京師の要職や
上総・伊勢
と
大国の守を歴任
宝亀二年(772年)
従四位下
宝亀八年(777年)
従四位上
宝亀九年(778年)
正四位下
宝亀十一年(780年)
参議・公卿に列
宝亀十二年(781年)
従三位
↓
桓武朝
天応二年(782年)正月
氷上川継の乱・・・・・
関与を疑われて
解官され都を追放
同年四月
罪を赦され
参議に復帰
延暦二年(783年)
中納言
延暦四年(785年)
兼任の
陸奥・・・・・・リクオウ
按察使・・・・・アナンサツシ
持節・・・・・・ジセツ
征東将軍の
職務のために
滞在していた
陸奥国で没したという説・・・
遙任の官として
在京していたという説・・・・
死没地には
平城京説・・・・・
と
多賀城説・・・・・
とがある・・・らしい
↓
没直後
藤原種継・・・・・タネ継ぐ?
問う源、多田種子
暗殺事件が
造営中の
長岡京で発生
家持が関与していたとされて、
追罰として、
埋葬を許されず、
官籍からも除名された・・・
↓↑
「萬葉集」
長歌・短歌など
合計
473首が
「万葉集」に収められており、
「万葉集」全体の1割を超えている
家持が『万葉集』の編纂に拘わったと
考えられている・・・
『万葉集』卷十七~二十
私家集の如し
『万葉集』の最後は、
天平宝字三年(759年)正月
「新しき年の始の初春の
今日降る雪の
いや重け吉事(よごと)」
(卷二十-4516)・・・
従五位上
因幡守
大伴家持は
四二歳
正五位下になるのは、
十一年後
『百人一首』の歌
「かささぎの・・・・笠詐欺之(古事記)
渡せる橋に
おく霜の
白きを見れば
夜ぞ
更けにける」
は、
『万葉集』には入集していない・・・?
↓
勅撰歌人
『拾遺和歌集』(3首)
「勅撰和歌集」に(60首)が採られている
↓
「海ゆかば」(作曲:信時潔)
の作詞者
↓↑
妻は
坂上大嬢(大伴宿奈麻呂の娘)
男子は
大伴永主
大伴中主
↓↑
百人一首の
「六」番目」
1 天智天皇
2 持統天皇
3 柿本人麻呂・・・書本
4 山部赤人・・・・纂部
5 猿丸大夫・・・・申・沙流・然
↓↑
6 中納言家持・・・中に納る言(コトバ)
↓↑
7 阿倍仲麻呂・・・仲満
晁衡
朝衡(ちょうこう)
姓は朝臣
筑紫大宰帥
阿倍比羅夫の孫。
中務大輔
阿倍船守の長男
弟は
阿部帯麻呂
↓↑
8 喜撰法師・・・・基線・記選
9 小野小町・・・・小野妹子
蘇因高
10 蝉丸・・・・・・せみまろ・前元
これやこの
ゆくもかへるも
わかれては
しるもしらぬも
あふさかのせき
琵琶の名人
浄瑠璃で
女人の怨念で
盲目となり
最後に開眼(近松門左衛門)
「坊主」の絵札は
伴天連
11 参議篁・・・・・纂魏
小野篁(たかむら)・竹叢
延暦二十一年
(802年)
~
仁寿二年十二月二十二日
(853年2月3日)
12 僧正遍昭・・・・相称編章(照)
13 陽成院・・・・・日成因(アトン神)
14 河原左大臣・・・(磚古事記)
15 光孝天皇・・・・公行(後項)転向
16 中納言行平・・・中に納る言の行は平
17 在原業平朝臣・・・財源業平
18 藤原敏行朝臣・・・桃源(凍原)年の行
19 伊勢・・・・・・・意施・異施
20 元良親王・・・・・原料秦王
21 素性法師・・・・・諏条(帖)褒詞
22 文屋康秀・・・・・文也講習(甲州・後周)
33 紀友則・・・・・・書紀の猷則
44 中納言朝忠・・・・中に納た言を調中
55 大納言公任・・・・公認・弘仁・後認
65 相模・・・・・・・差が観
66 大僧正行尊・・・・題想定の行のミコト
77 崇徳院・・・・・・数得解音・諏得匿因
88 皇嘉門院別当・・・効果文音、別に当
99 後鳥羽院・・・・・語賭場音
100 順徳院・・・・・・遵解音
・・・???・・・
↓↑
755(天平勝宝七)年2月
防人閲兵のため難波に赴き、
防人の歌を蒐集
自ら
「防人の悲別の心を痛む歌(20/4331~4333)」
「防人の悲別の情を陳ぶる歌(20/4408~4012)」
五月
自宅に
大原今城(?)・・・母は大伴女郎
「今城王之母也。今城王後賜大原真人氏也」
大伴女郎は不詳
(旅人の妻or大伴郎女と同一人
or坂上郎女と同一人?)
大原真人賜姓以前の名は
今城王
名は
今木とも
初め今城王を名乗るが、
臣籍降下して
大原真人姓となる
敏達天皇の後裔
衛門督
大原高安
の子とする系図がある・・・?
今木→「今来」の帰化人?
を招いて宴を開く(20/4442~4445)
同月
橘諸兄が子息
橘奈良麻呂
の宅で催した宴の歌に追作(20/4449~4451)
八月
「内南安殿」での
肆宴に参席
歌を詠むが奏上されず(20/4453)
冬、
橘諸兄
は側近によって
上皇誹謗と
謀反で密告され、
756(天平勝宝八)年2月
致仕に追い込まれ
三月
聖武上皇
の
堀江行幸に従駕
五月二日
上皇は崩御
道祖王が立太子
六月
淡海三船
の
讒言により
出雲守・・・・・
大伴古慈悲・・・・・コジヒ?・・・旧い時比
旧約(聖書)の慈悲?
が
解任された事件に際し、
病をおして
「族(やから・ゾク)を
喩(さと・ユ)す歌
(20/4465~4467)」
を作り、
氏族に対し
自重と
名誉の
保守を呼びかけ
十一月八日
讃岐守
安宿王・・・・飛鳥・明日香・明日か
らの宴で
山背王・・・・サンハイオウ
が詠んだ歌に対し
追和する(20/4474)
十一月二十三日
式部
少丞
池主(?)・・・・・池田藩主?
の宅の宴に
兵部
大丞
大原今城・・・・・
と臨席
757(天平勝宝九)年1月
前左大臣
橘諸兄が薨去(74歳)
四月
道祖王・・・・・ドウソオウ
に代り
大炊王・・・・・ダイスイオウ
が立太子
六月十六日
兵部大輔に昇進
六月二十三日
大監物・・・・・ダイカンブツ
三形王・・・・・サンケイオウ
の宅での宴に臨席
「昔の人を思う歌」
を詠む(20/4483)
七月
橘奈良麻呂らの謀反が発覚
大伴・佐伯氏の多くが連座
家持は何ら咎めを受けた形跡がなし
「物色変化を悲しむ歌」・・・物の色の変化
(20/4484)などを詠む
十二月十八日
三形王宅の宴に列席、
歌を詠む(20/4488)
右中弁
十二月二十三日
大原今城宅の宴でも作歌(20/4492)
↓↑
762(天平宝字六)年
一月九日
信部(中務)大輔に遷任
因幡より帰京
九月三十日
御史大夫
石川年足・・・・・年足?
が薨じ、
佐伯今毛人・・・・蝦夷?
と共に
弔問派遣・・・・・チョウモンハケン
聴 聞 葉見
兆文・兆問・長文
↓↑
763(天平宝字7)年
三月or四4月頃
藤原宿奈麻呂(良継)
佐伯今毛人
石上宅嗣
らと共に
恵美押勝
暗殺計画に連座
藤原宿奈麻呂一人罪を問われ、
家持ほかは
現職解任のうえ京外追放
764(天平宝字八)年
一月二十一日
薩摩守に任じられる
九月
恵美押勝(藤原仲麻呂)
は
孝謙(阿部)上皇に対し謀反
近江で斬殺
十月
藤原宿奈麻呂
は
正四位上
大宰帥、
石上宅嗣
は
正五位上
常陸守に昇進
家持は叙位無し
十月九日
孝謙(阿部)上皇は
再祚し
称徳天皇となり
道鏡を重用
765(天平神護一)年
二月五日
大宰少弐
紀広純
が
薩摩守に左遷
家持は薩摩守を解任
二年後の
神護景雲元年まで任官記事無し
767(神護景雲一)年
八月二十九日
大宰少弐に任命
↓↑
770(神護景雲四)年
六月十六日
民部少輔に遷任
八月四日
称徳天皇崩御
道鏡は失脚
志貴皇子
の子
白壁王
が
皇太子
九月十六日
家持は
左中弁
兼
中務大輔
に転任
十月一日
白壁王が即位し
光仁天皇
家持は
正五位下に昇叙
天平二十一年以来、
二十一年ぶりの叙位
十一月二十五日
大嘗祭での奉仕により
従四位下へ
二階級特進
772(宝亀三)年二月
左中弁
兼
式部
員外
大輔に転任
774(宝亀五)年
三月五日
相模守に遷任
九月四日
左京大夫
兼
上総守
775(宝亀六)年
十一月二十七日
衛門督に転任
宮廷守護の要職
776(宝亀七)年
三月六日
衛門督を解かれ、
伊勢守に遷任
↓↑
777(宝亀八)年
一月七日
従四位上に昇叙
778(宝亀九)年
一月十六日
正四位下
779(宝亀十)年
二月一日
参議
議政官の一員
二月九日
参議に
右大弁を兼務
781(天応一)年
二月十七日
能登内親王が薨去
家持と
刑部卿
石川豊人
等が派遣され、葬儀を司る
四月三日
光仁天皇は
風病
と
老齢を理由に退位
山部親王・・・・・纂分
践祚(桓武天皇)
四月四日
桓武天皇の
同母弟
早良親王・・・・・
が立太子
四月十四日
家持は
右京大夫に
春宮大夫を兼務
四月十五日
正四位上に昇進
五月七日
右京大夫から
左大弁に転任
春宮大夫は兼務留任
この後、
母の喪により
官職を解任
八月八日
左大弁
兼
春宮大夫に復任
十一月十五日
大嘗祭後の宴で
従三位に昇叙
十二月二十三日
光仁上皇崩御
家持は
吉備泉
らと共に
山作司(山陵を造作する官司)・・・・・
に任じられる
782(天応二)年
閏一月
氷上川継・・・・・
の謀反が発覚
家持は
右衛士督
坂上苅田麻呂・・・・・
らと共に
連座の罪で現任を解かれる
(続紀薨伝によれば、この時
家持は免官のうえ
京外へ移されたというが
わずか四か月後の
五月には
春宮大夫復任の記事)
六月十七日
春宮大夫に
陸奥
按察使
鎮守将軍を兼務
(続紀薨伝には
「以本官出、為陸奥按察使」)
陸奥に赴任
多賀城へ向かう・・・
↓↑
783(延暦二)年
七月十九日
陸奥駐在中、
中納言に任じられる(春宮大夫留任)
784(延暦三)年
一月十七日
持節征東将軍を兼務
785(延暦4)年
四月七日
鎮守将軍家持が
東北防衛について建言
八月二十八日
死去
肩書を
続紀は
中納言従三位・・・・・
『公卿補任』には
「陸奥に在り」と記され、
持節征東将軍として
陸奥で死去した・・・
死後20日余り後、
大伴継人らの
藤原種継暗殺事件
に主謀者として
家持が関与していたことが発覚
生前に遡って
除名処分を受ける
子の
永主
らも連座して隠岐への流罪
806(延暦二十五25・大同一)年
三月十七日
病床にあった
桓武天皇は
種継暗殺事件の連座者を
本位に復す詔を発し、
家持は
従三位に復位される(『日本後紀』)
家持の遺族も帰京を許された
↓↑
家持は
万葉集に473首(479首とも)の
長短歌を残す
「万葉集全体の1割」以上にあたる
末四巻は家持による
歌日記とも言える体裁をなしている。
1159(平治一)年頃までに成立した
藤原清輔の
『袋草子』には、
すでに万葉集について
「撰者
あるいは橘大臣と称し、
あるいは家持と称す」
とある
江戸時代前期の国学者
「契沖」は
『萬葉集代匠記』で
万葉集「家持私撰説」を初めてに主張
なお
914(延喜十四)年の
三善清行「意見十二箇条」には
家持の没官田についての記載があり、
越前
加賀郡100余町
山城久世郡30余町
河内茨田渋川両郡55町
を有した・・・
↓↑
天平勝宝一(749)年
陸奥国からの産金を祝う歌中に
「海行かば
水漬く屍
山行かば
草生す屍」
の詞を詠む(『万葉集』巻18)
『万葉集』の編者とされ作歌は多いが,
同集最後の
天平宝字三(759)年の歌の後は
歌わぬ人といわれる・・・
作品は『万葉集』中
長歌46、
短歌425(合作1首を含む)、
旋頭歌(せどうか)1首、
合計472首
ほかに
漢詩1首、
詩序形式の書簡文など
のちに妻となった
坂上大嬢・・・・・
(さかのうえのおおいらつめ)
笠女郎(かさのいらつめ)・・・・
紀女郎(きのいらつめ)・・・・・
らと女性関係も多
↓↑
ふり放(さ)けて
三日月見れば
一目見し人の
眉引(まよびき)
思ほゆるかも
↓↑
うらうらに
照れる春日に
雲雀(ひばり)あがり
こころ悲しも
独りし思へば
ーーーーー
・・・???・・・ヘンである・・・岩・異和・石・・・磐用衆・・・心象の原風景・・・