乾(板垣)退助」とは「ダレ」か・・・
・・・イタガキ死んでも自由は死なぬ・・・?
「乾(板垣)退助」とは「ダレ」か・・・
「戌亥=戍亥=乾=いぬい=北西」
「伊吹山の神=伊吹おろしの神=白猪の神」に
「ヤマトタケル=日本 武=倭 建=倭男具名」は敗北し
「足萎えて當藝(たぎ)當藝(たぎ)しく三重になった・・・?」
多義 他義 纂廿(拾・十・足・✖)
「ムムムムッ???」・・・「あぁ、アァ、アぁッ!」
↓↑
「彦=ひこ・びこ・ひご?=肥後・卑語・比護・庇護・飛語・比語」
比古・毘古・比後
彦=产+彡
立+ノ+彡
亠+丷+厂+彡
山彦=やまびこ=反響音・・・纂経(教・今日・匡)
彥=言+彥=諺(ゲン・ことわざ)=言技
言+文+厂+彡
・・・彦根藩=井伊直弼暗殺・・・「桜田門外の変」
安政七年三月三日(1860年3月24 )
水戸藩脱藩者 17名
「高橋多一郎」
「金子孫二郎」ら
薩摩藩士 在府組1名
「有村次左衛門」らは
双方の藩に仕えた
「日下部伊三治 (大獄により獄死)」
を介して合同
牡丹雪の中「井伊直弼」の血は誦弾で散った・・・
彦根藩士・「日下部三郎右衛門」は
水戸浪士・「森五六郎」に
面を割られ前のめりに突っ伏し
水戸浪士
「黒澤忠三郎」が
合図のピストルを直弼の駕籠に発射
「関鉄之介」らが多方面から一斉射撃
浪士本隊による全方向からの駕籠への抜刀襲撃・・・
↓↑
「直弼の駕籠」は・・・駕籠=かご=歌語・過誤・加護・加語?
桜田門外の
「杵築」藩邸の前で・・・杵=「木+午」=「十+八+𠂉+十」?
襲撃された
発射された弾丸には
「井伊直弼」が
修錬した「居合抜き」もできず
腰部(ヨウブ)・・・要部・洋舞
から
太腿(ダイタイ)・・・代替・大体?
にかけて銃創・・・・・・重曹・十三・重層?
駕籠は
雪の上に放置・・・・・雪=雨+ヨ?
彦根藩士たちの
刀の柄は雪を避けるため
柄袋をかけ
これと
鞘袋が・・・・・・・・・正体?
邪魔し・・・・・・・・・邪=牙+阝=よこしま?
抜刀できなく・・・・・罰等?
鞘のままで抵抗したり
素手で刀を掴んだりし
指や耳を切り落とされたが
彦根藩士も抵抗し
二刀流の剣豪
「河西忠左衛門」は
駕籠脇を守って
水戸浪士
「稲田重蔵」を倒し
駕籠脇の彦根藩士
「永田太郎兵衛正備」も
二刀流で大奮戦し
襲撃者に重傷を負わせたが
河西が斬られて倒れ
永田も銃創により戦闘不能
襲撃者側に戦闘不参加だった
「斎藤監物」も
途中から戦闘に参加
「井伊直弼」
の護衛無しの駕籠は
稲田が刀を真っ直ぐにして
一太刀
駕籠の扉に体当たりしながら
駕籠を刺し抜き
広岡、海後が続けざまに
駕籠を突き刺した
稲田は
「河西忠左衛門」
の反撃で討ち死にしたが
河西も斃れた
有村が駕籠の扉を開け放ち
虫の息の直弼の髷を掴み
駕籠から引きずり出し
「薬丸自顕流」の・・・「訳(譯)贋・約贋」+「示現流」?
「猿叫(「キャアーッ」という気合い)」・・・猿叫=申詐懸毘?
とともに
振り下ろした薩摩刀によって
直弼は斬首されたが
首は一撃では落ちず
三回、鞠(マリ)を蹴るような音で
斬り離された首は落ちた・・・
襲撃開始から直弼殺戮まで
僅か数分間・・・
有村は刀の切先に
直弼の首級を突き立て
「勝鬨の声」をあげ
彼らが現場を立ち去ろうとしたとき
斬られて昏倒していた目付助役の
彦根藩士
「小河原秀之丞」が
鬨の声を聞いて蘇生し
首を奪い返そうと
有村に追いすがり
米沢藩邸前辺りで
「有村」の後頭部に斬りつけた
水戸浪士
「広岡子之次郎」
らによって
「小河原」は斬り倒されたが
朦朧と一人で立ちあがった直後
数名の浪士らから滅多打ちに斬られた
「有村」は重傷で
歩行困難となりながら
直弼の首を引きずって逃走の後
若年寄
「遠藤胤統 (近江三上藩)」邸の
門前で自決し
「直弼の首」は
遠藤家に収容された
「小河原」は救助されたが即日絶命
↓↑
直弼の首は
三上藩邸に置かれ
井伊家の使者が返還を要請したが
遠藤家は
「幕府の検視が済まない内は渡せない」と
五度までも断り
使者を追い返し
井伊家、遠藤家、幕閣が協議の上
表向きは
闘死した藩士のうち年齢と体格が
「直弼」に似た
「加田九郎太の首」と偽り
「遠藤家は
負傷した直弼を
井伊家に引き渡す」
という体面で貰い受けた
事変同日の夕方ごろ
「直弼の首」
は井伊家へ送り届けられた
井伊家では
「主君は負傷し自宅療養中」
と幕閣へ提出
「直弼の首」は
彦根藩邸で
藩医
「岡島玄建」・・・岡の島の玄の建・・・?
により胴体と縫い合わされた・・・
↓↑
安政七年三月三日(1860年3月24日)
「稲田重蔵」は
彦根藩士の
「河西忠左衛門」から
戦闘中討ち死にし
他の襲撃者らは
「直弼の首級」を揚げたのを確認後
日比谷門へ向かった
薩摩藩士
「有村次左衛門」は
彦根藩士
「小河原秀之丞」に
背後から斬りつけられ
「広岡子之次郎」らは
助太刀に回って
「小河原」に止(とど)めを刺した
有村は
「直弼の首級」を手に
和田倉門を抜け
辰ノ口で
「遠藤胤統(遠藤但馬守)」邸前で自決
「広岡」は
辰ノ口を通り
姫路藩・酒井家の邸外まで辿り着き、自刃
「山口辰之介」
「鯉渕要人」
も彦根藩士による反撃で重傷
馬場先門と和田倉門の間の濠沿いにある
八代洲川岸で
増山河内守邸の角を右へ曲がり
「織田兵部少輔」邸の
塀際で
「鯉渕」が
「山口」を介錯し
鯉渕も自刃
↓↑
佐野竹之介・斎藤監物・黒澤忠三郎・蓮田一五郎
の4名は、戦闘により負傷しながらも連れ立って移動
和田倉門前の
老中
「脇坂安宅 (脇沢中務大輔)」邸へ
『斬奸趣意書』を提出し自訴
「佐野竹之介」は
重傷で当日の夕刻に絶命
4人は
熊本藩・細川家へ預けかえられた(佐野の死体も)
「斎藤監物」も
重傷で5日後の
三月八日に落命
「黒澤忠三郎」は
手当てにより命は取り留め
富山藩・前田家へ預け替えられた後
四月二十一日
三田藩・九鬼家へ移され
七月十二日
九鬼家で病死
「蓮田一五郎」は
細川家から、膳所藩・本多家へ預けかえられた
「蓮田」には絵を描く才能があり
細川邸にて事変の詳細を絵に描いた
文久元年(1861年)七月二十六日
伝馬町獄舎で
幕吏により斬首
↓↑
大関和七郎・森五六郎・杉山弥一郎・森山繁之介
の4名は
熊本藩主
「細川斉護」邸へ趣意書を提出し自訴
大関・森・杉山は負傷し
森山は戦闘に参加したが無傷
「大関和七郎」は
富山藩・前田家
続いて豊岡藩・京極家へ預け替えられた
「森五六郎」は
臼杵藩・稲葉家、
大和小泉藩・片桐家へ預け替えられた
森が稲葉家家臣らへ語った記録は
『森五六三郎物語』と呼ばれている
「杉山弥一郎」は
村松藩・堀家に預け替えられた
「森山繁之介」は
一関藩・田村家、足利藩・戸田家へ移された
大関・森・杉山・森山
の4名とも
文久元年(1861年)七月二十六日
伝馬町獄舎で幕吏により斬首
↓↑
襲撃参加者
16名のうち
1名が闘死、4名が自刃、8名が自訴
残る3名
広木松之介・増子金八・海後磋磯之介
は大きな負傷なく現場を脱し
戦闘不参加の
関鉄之介・岡部三十郎
や協力者とともに京を目指した
↓↑
襲撃計画の首謀者
水戸浪士
「金子孫二郎」は
薩摩浪士
「有村雄助」
水戸浪士
「佐藤鉄三郎」
らと共に京へ向かったが
3月9日
に伊勢・四日市の旅籠で
薩摩藩兵により捕縛
「金子孫二郎」
「佐藤鉄三郎」
は
伏見奉行所に引き渡されて
二十四日江戸へ護送
「金子」は
文久元年(1861年)七月二十六日
伝馬町獄舎で幕吏により斬首
「佐藤」は追放
「有村雄助」は
三月九日捕縛後
薩摩藩士の関与を隠したい藩の思惑のため
大坂の薩摩藩邸に移され、薩摩へ護送
三月二十四日
幕府の探索が薩摩に迫り藩命で自刃
水戸浪士
「高橋多一郎・庄左衛門」親子は
三月二十四日
大坂で幕吏の追捕を受け
四天王寺境内へ逃げ込み、その寺役人宅にて自刃
大坂で薩摩藩との連絡役
水戸浪士
「川崎孫四郎」
三月二十三日
探索に追い詰められ自刃、翌日死去
↓↑
襲撃者戦闘不参加、検視見届役の
「岡部三十郎」は
「関鉄之介」らと大坂へ向かったが
薩摩藩の率兵上京計画が不可能と知って水戸へ帰還
「久慈」郡袋田や
水戸城下辺りへ潜伏
再び江戸へ出たが
文久元年(1861年)二月
江戸吉原で束縛
文久元年(1861年)七月二十六日
自訴した面々や
「金子孫二郎」
とともに、伝馬町獄舎で幕吏により斬首
↓↑
「広木松之介」は
京へ向かうが一旦水戸に帰郷し
数日後再び京を目指して出発するが
能登国本住寺に潜伏した後
越後国佐渡島、越中国を経た
越後国新潟で
水戸藩士
「後藤哲之介」に助けられ旅費を得て逃亡
文久元年(1861年)
後藤は幕吏に束縛
所持品から広木の印が見つかり
「広木松之介」であると供述し
文久二年(1862年)五月
江戸へ送られ、伝馬町の監獄に繋がれたが
後藤へ尋問もなく
絶食し
文久二年(1862年)九月十三日死亡
「広木」は
相模国鎌倉・上行寺へ赴き剃髪し
襲撃から3年目の
文久二年(1862年)三月三日
上行寺の墓地で切腹
↓↑
現場総指揮者
「関鉄之介」は
三月五日に
江戸を出発して京へ向かい
中山道から大坂へ入り
以後、山陰、山陽
四国、九州と西国各地を転々とし
薩摩藩へも入ろうとしたが
「島津久光」の命で
薩摩の全関所が閉ざされ
薩摩入りできなかった
万延元年(1860年)七月
水戸藩
久慈郡
袋田村に入り
郷士格
「桜岡源次衛門」に匿われた
文久元年(1861年)七月
水戸の「高橋多一郎」の家を訪ね再び袋田へ向かったが
水戸から探索の足が着き
同年十月
水戸藩士によって
越後の湯沢温泉で捕縛され
十一月に水戸へ護送、城下の赤沼牢に投獄
文久二年(1862年)四月五日
江戸に護送され、小伝馬町の牢へ入った
五月十一日、関はこの小伝馬町の牢で斬首
↓↑
襲撃者のうち
「増子金八」
「海後磋磯之介」
は潜伏して明治時代まで生き延びた
「増子」は明治十四年(1881年)に病没
「海後」は元治元年(1864年)の「天狗党の乱」に
変名で参加、関宿藩に預けられたが脱出
明治維新後
旧水戸藩士身分に復帰
茨城県庁や警視庁等へ勤務
退職後
明治三十六年(1903年)自宅で死没
海後の遺稿に襲撃の一部始終を伝える
『春雪偉談』
『潜居中覚書』
がある
↓↑
彦根藩側
「直弼」以外に8名が死亡
即死者4名、重傷を負い数日中に死亡した者4名
他に5名が重軽傷
水戸藩に仇討ちとの声もあったが
家老・「岡本半介」が叱責して阻止
事変から2年後
文久二年(1862年)
「直弼」護衛の失敗で
生存者に対する処分が下された
「草刈鍬五郎」
など重傷者は減知の上
藩領だった
下野国佐野(栃木県佐野市)へ流され
揚屋に幽閉
軽傷者は全員切腹が命じられ
無疵の士卒は全員が斬首・家名断絶
本人のみならず親族に及び
江戸定府の家臣を国許が抑制
↓↑
老中・阿部正弘や
徳川斉昭
島津斉彬らが主導した
雄藩協調体制を否定
幕閣絶対主義を反対者の粛清により維持し
朝廷からの政治介入をも阻止する
「井伊直弼」の政策路線の破綻
御三家の水戸徳川家
と
譜代大名筆頭の井伊家
が反目
尊王攘夷運動が激化する端緒
慶応三年十月十四日(1867年11月9日)
第15代将軍
「徳川慶喜」によって
「大政奉還」
江戸開城
による明治維新
↓↑
老中
「安藤信正」
ら幕府首脳による配慮で
井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑に
直弼の没日が
「安政七年三月三日」(1860年3月24日)」
ではなく
「蔓延元年閏三月二十八日」(1860年5月18日)
と刻まれている
直弼の子
「愛麿(井伊直憲)」
による跡目相続
井伊家は取り潰しを免れた
約2か月間
幕府側は直弼の死を公表しなかった
↓↑
大老暗殺は江戸市中へ知れ渡り
天気の回復した事変当日の午後から夕方
見物人が桜田門付近のぬかるみの道に群れた
「井伊掃部頭(いいかもんのかみ)」
をもじって
「いい鴨を網でとらずに駕籠でとり」
などと市井に揶揄
「倹約で枕いらずの御病人」
「遺言は尻でなさるや御大病」
「人参で首をつげとの御沙汰かな」
などの川柳も相次ぎ事件直後の市中の状況をよみ上げた
「ちょぼくれやあほだら経」も採集されている
↓↑
「桜田門外の変」の襲撃者ら処分を見届けた薩摩藩は
文久二年(1862年)三月十六日
「島津久光」
が藩兵を率いて鹿児島城下を発し
四月十三日入京
勅使
「大原重徳」を擁して
六月七日
薩摩藩兵と共に江戸へ入り、幕政の刷新を要求
幕府は
御三卿・「一橋慶喜」を将軍後見職
前福井藩主・「松平春嶽」を政事総裁職に任命
春嶽の主導で
「直弼政権」の清算を図った(文久の改革)
幕閣をまとめた老中
「安藤信正」は、同年初めの
「坂下門外の変」では負傷で済んでいたが
この改革で
「久世広周」
と共に老中を罷免
彦根藩は幕府より石高を
30万石~20万石に減給
5万石の預地も没収
京都守護の家職を剥奪
会津藩主
「松平容保」
が代わりに京都守護職就任
彦根藩は直弼の腹心
彦根藩士
「長野主膳」
「宇津木景福」
斬首・打ち捨てに処した
↓↑
慶応二年(1866年)六月七日
第二次長州征伐
彦根藩士510名は
「赤備え」を着て幕府方で出陣したが
鎧が夜間でも目立ち
長州方の遊撃隊から狙撃大敗
慶応四(1868年)十一月三日~六日
「鳥羽・伏見の戦い」
で藩主
「井伊直憲」
率いる彦根藩は幕府軍の先鋒を務めていたが
翻って新政府軍に付き
彦根藩は薩摩藩兵と共に
東寺や大津を守備し
倒幕の姿勢を示した
↓↑
明治十七年(1884年)
華族令施行
旧藩主・井伊直憲は伯爵
彦根藩士は
流山で元新選組
「近藤勇」を逮捕して賞典禄2万石を新政府側から与えられていた
直憲は
有栖川宮家(斉昭正室の実家)から
「宜子」夫人を迎えた
↓↑
水戸藩・水戸徳川・・・「大日本史」
↓↑
『日本書紀』・『先代旧事本紀』
本の名 小碓尊(を=ヲ+うす の みこと)
小碓王(を=ヲ+うす の みこ)
亦の名 日本 童男(やまと をぐな)・・・道南・如何なん?
後の名 日本 武尊(やまと たけるのみこと)
ブソン=蕪村?
与謝蕪村=俳人・文人画家
姓 谷口 OR 谷
号 蕪村
名 信章
通称 寅
陶淵明の詩
『帰去来辞』に由来
俳号 宰鳥・夜半亭
画号 春星・謝寅など複数
蕪村=ブソン
=「侮・悔・撫・不・伏」?
+
「損・遜・孫・惨」?
後の名 日本 武皇子(やまとたけるのみこ)
↓↑
『古事記』
本の名 小碓命(をすのみこと)
亦の名 倭男具那命(やまとおぐなのみこと)
倭男具那王(やまとおぐなのみこ)
後の名 倭建命(やまとたけるのみこと)
倭建御子(やまとたけるのみこ)
↓↑
『日本書紀』
双子の兄弟
大碓命(おすのみこと)
小碓尊(をすのみこと))
として生まれ
景行天皇
が怪しんで臼(うす)に向かって叫んだことによる
「ヲグナ(童男=男具那)」=未婚の男子の意
「ヤマトタケル」の名称は
「川上 梟帥(たける)=熊曾 建(たける)」
梟=ふくろう=キョウ=梟=䲷=鴵=🦉・・・
副老・複廊・附句弄(漏・樓=楼・僂・婁)
「樓=楼」観・
婁=鞴=不意合
卑弥呼の楼観
楼ー木+米+女
梟首(キョウしゅ)
梟木(きょうぼく)
梟雄(きょうゆう)
梟悪(きょうあく)
梟将(きょうしょう)
梟する(きょうする)
蟂=虫+梟(䲷=鳥+木)・・・鳥居
鄡=梟+阝
=郻=L+目+巛+阝
鄡單(キョウタン)」
孔子の弟子
後漢の県名=中国河北省
嘄=叫(さけ)ぶ・絶叫(ゼッキョウ)
帥=帥升(スイショウ )
倭国内の各王の一人
西暦 107年
後漢 に朝貢
「後漢書東夷伝 師匠」・・・
初出の倭人の漢字記銘
↓↑
「ヤマトタケル」の名称は
「川上 梟帥(たける)=熊曾 建(たける)」
から捧げられた・・・九州の熊襲からナゼ捧げられた尊名なのか?
日本武尊⇔川上梟帥
↓↑
倭武命 『日本三代実録』
倭武尊 『古語拾遺』
倭建尊 『新撰姓氏録』
日本武命 『尾張国風土記』逸文
『古語拾遺』
倭武天皇 『常陸国風土記』
倭建天皇 『常陸国風土記』
倭健天皇命 『阿波国風土記』逸文
↓↑
父 第12代 景行天皇
号 大 足 彦 忍代別天皇
(おほたらしひこ おしろわけ
の
すめらみこと)
諱 大足彦尊
別称 大帯日子淤斯呂和氣天皇
帯方郡?
大足日足天皇
大帯日子天皇
大帯日古天皇
大帯比古天皇
父親 垂仁天皇
諡 活目入彦五十狭茅天皇
諱 活目尊
別称 活目入彦五十狭茅尊
伊久牟尼利比古大王
母親 日葉酢媛命
(開化天皇皇曾孫)
母 皇后 播 磨稲 日 大郎姫
(はりまのいなびの おほいらつめ
針間之伊那毘能大郎女
稲日稚郎姫
第7代孝霊天皇の皇孫)
若建吉備津日子
(吉備臣らの祖)の娘(古事記)
↓↑
『日本書紀』・『先代旧事本紀』では第二皇子
同母兄は大碓皇子のみで双子の兄
『古事記』では第三皇子
同母兄を
櫛角別王
大碓皇子(双子の記載なし)
同母弟を
倭根子命
神櫛王
↓↑
妻子
妃 両道 入姫 皇女
(ふたじいりびめのひめみこ
布多遅能伊理毘売命)
垂仁天皇皇女(古事記)
↓↑
稲 依別 王
(いなよりわけのみこ)
犬上君
武部君(建部君)の祖(記紀)
足仲彦天皇
(たらしなかつひこのすめらみこと
帯中津日子命)
第14代 仲哀天皇
↓↑
布 忍 入 姫 命
(ぬの し いりびめのみこと)
稚武王
(わかたけるのみこ)
近江建部君の祖
宮道君等の祖(旧事本紀)
↓↑
妃 吉備 穴戸 武 媛
(きびのあなとのたけひめ
大吉備建比売)
吉備 武彦 の娘(日本書紀)
吉備臣建日子の妹(古事記)
↓↑
武 卵 王
(たけかいごのみこ
建 貝児 王)
讃岐綾君の祖(記紀)
登袁之別・麻佐首・宮道之君らの祖(古事記)
↓↑
十 城別 王
(とお きわけのみこ)
伊予別君の祖(日本書紀)
↓↑
妃 弟 橘 媛
(おとたちばなひめ
弟橘比売命)
穂積氏の忍山宿禰の娘(日本書紀)
9男を生む(旧事本紀)
稚 武 彦 王
(わかたけひこのみこ・若建王)
須売伊呂大中日子の父
迦具漏比売(応神天皇の妃)の祖父
↓↑
妃 山代之玖々麻毛理比売
(やましろのくくまもりひめ、紀なし)
足鏡別王
(あしかがみわけのみこ・蘆髪蒲見別王=葦噉竈見別王)
鎌倉別・小津石代之別・漁田之別の祖(古事記)
↓↑
妃 布多遅比売(ふたじひめ、紀なし)
淡海安国造の祖の意富多牟和気の娘(古事記)
↓↑
稲依別王(いなよりわけのみこ・紀の母は別)
両道入姫皇女の所生とする紀とは異同
↓↑
一妻(古事記では名は不詳・旧事本紀では橘媛)
↓↑
息長田別王(おきながたわけのみ・日本書紀なし)
河派仲彦王の父
息長真若中比売(応神天皇の妃)の祖父
稚野毛二派皇子の曽祖父
忍坂大中姫・衣通姫の高祖父
阿波君らの祖(旧事本紀)
↓↑
宮簀媛(みやずひめ・美夜受比売)
系譜には記されず、物語にのみ記される配偶者
尾張氏の娘・子は無し
↓↑
『古事記』
倭建命の曾孫(ひまご)の
迦具漏比売命が
景行天皇の妃となって
大江王(彦人大兄)をもうけるとする・・・
景行天皇と「ヤマトタケル」の親子関係に
否定説。・・・
雄略天皇などと似た事績があり
数人のヤマトの英雄を統合した架空の人物・・・説
雄略天皇⇔倭王武
中国南朝の宋に送った
上表文(西暦478年)
「自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。
東征毛人五十五國
西服眾夷六十六國
渡平海北九十五國・・・」
四道将軍や倭建・・・説
↓↑
「古事記」
素手で
「伊吹の神」
「倭建命」の前に
牛ほどの大きさの「白い大猪」が現れ
「白い猪」は神の使者だろう
今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と
「言挙げ」するが
「大白猪は神そのもので正身」
で
神は大氷雨を降らし、命は失神
下山した倭建命は
居醒めの清水で正気を取り戻すが、病身
弱った体で大和を目指し
「當(当)芸(藝)=たぎ」
「杖衝坂」
「尾津」
「三重村(三重)」
と進み地名起源説話を織り交ぜて
倭建命の心情が描かれ
能煩野(のぼの・三重県亀山市)で
「倭建命」は
「倭は国のまほろば
たたなづく 青垣
山隠れる
倭し麗し」
「乙女の床のべに
我が置きし
剣の大刀
その大刀はや」
4首の国偲び歌を詠って亡くなった
↓↑
「日本書紀」
伊吹山の神の化身は「大蛇」で道を遮る
日本武尊は
「主神を殺すから、神の使いを相手にする必要はない」
と、大蛇をまたいで進む
神は雲を興し、氷雨を降らせ、峯に霧をかけ
谷を曇らせ」
「日本武尊」は意識が朦朧として下山
「居醒泉」で目醒めたが病身となり
「尾津」から
「能褒野」へ到り
伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し
天皇には
「吉備武彦」を遣わし
「自らの命は惜しくはありませんが
ただ御前に仕えられなくなる事のみが
無念です」と奏上し
「能褒野」の地で死亡・三十歳
「国偲び歌」は
父の景行天皇が
九州平定の途中で
日向で詠んだ・・・
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「古事記」
倭建命の死を聞いて
大和から訪れた后たちや御子たちは
陵墓を築いて周囲を這い回り
「なづきの田の
稲がらに
稲がらに
葡(は)ひ廻(もとほ)ろふ
野老蔓(ところづら=蔓草)」」
すると
「倭建命」は
「八尋白智鳥」
となって飛んでゆき
后や御子たちは
竹の切り株で足が傷つき痛めても
痛さも忘れて泣きながら、その後を追った
「浅小竹原(あさじのはら)
腰なづむ
空は行かず
足よ行くな」
と詠んだ
白鳥を追って海に入った時に
「海が行けば
腰なづむ
大河原の
植え草
海がは
いさよふ」
白鳥が磯伝いに飛び立った時は
「浜つ千鳥(ちどり)
浜よは行かず
磯づたふ」
4つの歌は
「大御葬歌(天皇の葬儀に歌われる歌)」
となった
↓↑
「日本書紀」
天皇は百官に命じて
「日本武尊」を能褒野陵に葬るが
「日本武尊」は
白鳥となって、大和を指して飛んだ
棺には衣だけが空しく残され
「屍骨(みかばね)」
はなかった
↓↑
「古事記」
白鳥は伊勢を出て
河内の国志幾に留まり
そこにも陵を造るが
やがて天に翔り、行ってしまう
↓↑
「日本書紀」
白鳥の飛行は
「能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)
→河内古市(大阪府羽曳野市)」
その3箇所に陵墓を造った
白鳥は天に昇った
後に天皇は
「武部(健部・建部)」
を
「日本武尊」の
「御名代」とした
「大和に飛来」・・・
↓↑
陵墓
日本武尊 能褒野墓
(三重県亀山市)
↓↑
日本武尊 (大和)白鳥陵
(奈良県御所市)
↓↑
日本武尊 (河内)白鳥陵
(大阪府羽曳野市)
↓↑
「日本書紀」
景行天皇四十年是歳条
「日本武尊」は
「能褒野」・・・褒=衣+保
亠+亻+呆+𧘇
亠+亻+口+木+𧘇
襃=衣+E+呆
亠+E+呆+𧘇
亠+E+口+木+𧘇
闁=門+門
ホウ
ほめる・ほめたたえる
大きい・広い・ゆったりとしている
すそやふところが広い衣
周代の国名
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で没し、景行天皇は
伊勢国の
「能褒野陵(のぼののみささぎ)」に埋葬させた
しかし
「日本武尊」は
「白鳥」となって飛び立ち
倭の「琴弾原(ことひきはら)」
河内の「旧市邑(ふるいちのむら、古市邑)」
に留まったのでその地に陵が造られた
これら3陵をして
「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」
と称し
これらには「日本武尊」の
「衣冠」が埋葬された・・・移換・遺憾・如何・移管・医官?
仁徳天皇六十年条に7
「白鳥陵」は「空(から)」で
天皇が白鳥陵の陵守廃止を思い止まった・・・
↓↑
「古事記」
景行天皇記
倭建命は伊勢の「能煩野」で没し
「倭建命」の后・子らが能煩野に下向して陵を造った
「倭建命」は
「白い千鳥」となって
伊勢国から飛び立ち
河内国の
「志幾(しき)」に留まったので
その地に「白鳥御陵(しらとりのみささぎ)」を造った
延喜式(延長五年(927年)成立)
諸陵寮(諸陵式)で
「能裒野墓」の名称で記載
伊勢国鈴鹿郡の所在で
兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟
遠墓に分類
伊勢国では唯一の陵墓だが
「白鳥陵」の記載はない
自其處發。
到當藝野上之時。・・・當藝(たぎ)=当う芸=問う解意
詔者。 詔=言+刀+口
吾心・・・・誤診・護身・語新
恆念
自虚翔行然。
今吾足不得歩。
成當藝斯玖。〈自當下六字以音〉・・・「たぎたぎしくなりぬ」
故號其地。・・・號=号+虎・・・虎=とら=寅=イン
謂當藝也。
杖衝坂
自其地。・・・自分=己=俺=我=私=ム=よこしま
佐生幸行。
因甚疲・・・因=囗+大(一+人)
疲=「疒+皮」=ヒ・ビ・つかれる
衝御杖。・・・衝=彳+重+亍(二+丁)・・・衝撃・笑劇
杖=木+丈(ナ+乀)
稍歩。・・・・・稍=禾+肖
ショウ・ソウ
すこし(少し)
ちいさい(小さい)
ふち(扶持)
やや(稍々)
ようやく(要約)
小さい・少ない・ささいな
わずかな(僅かな)・僅少
扶持・俸給
ようやく・次第に・だんだんと・少しずつ
逍遙・・・坪内逍遥
故號其地。
謂杖衝坂也。・・・つゑつきざかといふ
・・・謂=云う・言う
・・・謂=言+田+月(肉)
到坐
尾津前・・・・・・をづのさき・前=さき・まえ・ゼン
一松之許。・・・イッショウシキョ
先御食之時。 先=𠂉+亠+儿
先の音色の字・以色列?
所忘其地
御刀。・・・・・・・・・・・穏当・音問う・音当
不失猶有。・・・・・・・猶=猶太
爾
御歌曰。
袁波理邇・・・・・・・・・尾張に・終わりに
多陀邇牟迦幣流・・・ただに向へる
袁都能佐岐那流・・・音の讃岐に鳴る
比登都麻都・・・・・・・ひとつのマト
阿勢袁・・・・・・・・・・・あせを・おせを
比登都麻都
比登邇阿理勢婆
多知波氣麻斯袁
岐奴岐勢麻斯袁
比登都麻都
阿勢袁
自其地幸。
到三重村之時。
亦詔之。
吾足如
三重勾而
甚疲。
故號其地謂三重。・・・・かれその地をいつ参重・纂中
能煩野
自其幸行而。
到能煩野之時。
思國以
歌曰。・・・明日にツヅク・・・?
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(ユカリとオジさんの世迷い言・2)
古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)
http://web.archive.org/web/20080501061632/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/fanin/pura2/kojiki42.htm
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エメラルドブルーの謎 (碧き眼の人形伝説) 奈井江 五郎
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「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
+
(表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
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ボクの「古事記字源」の発端・・・
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干支歴
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追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
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モウ君の総合目次
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コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
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古事記と虎関師錬
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鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・