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コジキジゲン

「自由の根源」・・・ego・・・依吾・・・?

2023-11-30 15:07:46 | 古事記字源

 乾(板垣)退助」とは「ダレ」か・・・
 ・・・イタガキ死んでも自由は死なぬ・・・?

 「乾(板垣)退助」とは「ダレ」か・・・
 「戌亥=戍亥=乾=いぬい=北西」

 「伊吹山の神=伊吹おろしの神=白猪の神」に
 「ヤマトタケル=日本 武=倭 建=倭男具名」は敗北し
 「足萎えて當藝(たぎ)當藝(たぎ)しく三重になった・・・?」
     多義       他義 纂廿(拾・十・足・✖)
 「ムムムムッ???」・・・「あぁ、アァ、アぁッ!」
 ↓↑
 「彦=ひこ・びこ・ひご?=肥後・卑語・比護・庇護・飛語・比語」
   比古・毘古・比後
   彦=产+彡
     立+ノ+彡
     亠+丷+厂+彡
     山彦=やまびこ=反響音・・・纂経(教・今日・匡)
   彥=言+彥=諺(ゲン・ことわざ)=言技
     言+文+厂+彡
   ・・・彦根藩=井伊直弼暗殺・・・「桜田門外の変」
         安政七年三月三日(1860年3月24 )
         水戸藩脱藩者 17名
         「高橋多一郎」
         「金子孫二郎」ら
         薩摩藩士 在府組1名
         「有村次左衛門」らは
         双方の藩に仕えた
         「日下部伊三治 (大獄により獄死)」
         を介して合同
 牡丹雪の中「井伊直弼」の血は誦弾で散った・・・
 彦根藩士・「日下部三郎右衛門」は
 水戸浪士・「森五六郎」に
 面を割られ前のめりに突っ伏し
 水戸浪士
 「黒澤忠三郎」が
 合図のピストルを直弼の駕籠に発射
 「関鉄之介」らが多方面から一斉射撃
 浪士本隊による全方向からの駕籠への抜刀襲撃・・・
 ↓↑
 「直弼の駕籠」は・・・駕籠=かご=歌語・過誤・加護・加語?
 桜田門外の
 「杵築」藩邸の前で・・・杵=「木+午」=「十+八+𠂉+十」?
 襲撃された
 発射された弾丸には
 「井伊直弼」が
 修錬した「居合抜き」もできず
 腰部(ヨウブ)・・・要部・洋舞
 から
 太腿(ダイタイ)・・・代替・大体?
 にかけて銃創・・・・・・重曹・十三・重層?
 駕籠は
 雪の上に放置・・・・・雪=雨+ヨ?
 彦根藩士たちの
 刀の柄は雪を避けるため
 柄袋をかけ
 これと
 鞘袋が・・・・・・・・・正体?
 邪魔し・・・・・・・・・邪=牙+阝=よこしま?
 抜刀できなく・・・・・罰等?
 鞘のままで抵抗したり
 素手で刀を掴んだりし
 指や耳を切り落とされたが
 彦根藩士も抵抗し
 二刀流の剣豪
 「河西忠左衛門」は
 駕籠脇を守って
 水戸浪士
 「稲田重蔵」を倒し
 駕籠脇の彦根藩士
 「永田太郎兵衛正備」も
 二刀流で大奮戦し
 襲撃者に重傷を負わせたが
 河西が斬られて倒れ
 永田も銃創により戦闘不能
 襲撃者側に戦闘不参加だった
 「斎藤監物」も
 途中から戦闘に参加
 「井伊直弼」
 の護衛無しの駕籠は
 稲田が刀を真っ直ぐにして
 一太刀
 駕籠の扉に体当たりしながら
 駕籠を刺し抜き
 広岡、海後が続けざまに
 駕籠を突き刺した
 稲田は
 「河西忠左衛門」
 の反撃で討ち死にしたが
 河西も斃れた
 有村が駕籠の扉を開け放ち
 虫の息の直弼の髷を掴み
 駕籠から引きずり出し
 「薬丸自顕流」の・・・「訳(譯)贋・約贋」+「示現流」?
 「猿叫(「キャアーッ」という気合い)」・・・猿叫=申詐懸毘?
 とともに
 振り下ろした薩摩刀によって
 直弼は斬首されたが
 首は一撃では落ちず
 三回、鞠(マリ)を蹴るような音で
 斬り離された首は落ちた・・・
 襲撃開始から直弼殺戮まで
 僅か数分間・・・
 有村は刀の切先に
 直弼の首級を突き立て
 「勝鬨の声」をあげ
 彼らが現場を立ち去ろうとしたとき
 斬られて昏倒していた目付助役の
 彦根藩士
 「小河原秀之丞」が
 鬨の声を聞いて蘇生し
 首を奪い返そうと
 有村に追いすがり
 米沢藩邸前辺りで
 「有村」の後頭部に斬りつけた
 水戸浪士
 「広岡子之次郎」
 らによって
 「小河原」は斬り倒されたが
 朦朧と一人で立ちあがった直後
 数名の浪士らから滅多打ちに斬られた
 「有村」は重傷で
 歩行困難となりながら
 直弼の首を引きずって逃走の後
 若年寄
 「遠藤胤統 (近江三上藩)」邸の
 門前で自決し
 「直弼の首」は
 遠藤家に収容された
 「小河原」は救助されたが即日絶命
 ↓↑
 直弼の首は
 三上藩邸に置かれ
 井伊家の使者が返還を要請したが
 遠藤家は
 「幕府の検視が済まない内は渡せない」と
 五度までも断り
 使者を追い返し
 井伊家、遠藤家、幕閣が協議の上
 表向きは
 闘死した藩士のうち年齢と体格が
 「直弼」に似た
 「加田九郎太の首」と偽り
 「遠藤家は
  負傷した直弼を
   井伊家に引き渡す」
 という体面で貰い受けた
 事変同日の夕方ごろ
 「直弼の首」
 は井伊家へ送り届けられた
 井伊家では
 「主君は負傷し自宅療養中」
 と幕閣へ提出
 「直弼の首」は
 彦根藩邸で
 藩医
 「岡島玄建」・・・岡の島の玄の建・・・?
 により胴体と縫い合わされた・・・
 ↓↑
 安政七年三月三日(1860年3月24日)
 「稲田重蔵」は
 彦根藩士の
 「河西忠左衛門」から
 戦闘中討ち死にし
 他の襲撃者らは
 「直弼の首級」を揚げたのを確認後
 日比谷門へ向かった
 薩摩藩士
 「有村次左衛門」は
 彦根藩士
 「小河原秀之丞」に
 背後から斬りつけられ
 「広岡子之次郎」らは
 助太刀に回って
 「小河原」に止(とど)めを刺した
 有村は
 「直弼の首級」を手に
 和田倉門を抜け
 辰ノ口で
 「遠藤胤統(遠藤但馬守)」邸前で自決
 「広岡」は
 辰ノ口を通り
 姫路藩・酒井家の邸外まで辿り着き、自刃
 「山口辰之介」
 「鯉渕要人」
 も彦根藩士による反撃で重傷
 馬場先門と和田倉門の間の濠沿いにある
 八代洲川岸で
 増山河内守邸の角を右へ曲がり
 「織田兵部少輔」邸の
 塀際で
 「鯉渕」が
 「山口」を介錯し
 鯉渕も自刃
 ↓↑
 佐野竹之介・斎藤監物・黒澤忠三郎・蓮田一五郎
 の4名は、戦闘により負傷しながらも連れ立って移動
 和田倉門前の
 老中
 「脇坂安宅 (脇沢中務大輔)」邸へ
 『斬奸趣意書』を提出し自訴
 「佐野竹之介」は
 重傷で当日の夕刻に絶命
 4人は
 熊本藩・細川家へ預けかえられた(佐野の死体も)
 「斎藤監物」も
 重傷で5日後の
 三月八日に落命
 「黒澤忠三郎」は
 手当てにより命は取り留め
 富山藩・前田家へ預け替えられた後
 四月二十一日
 三田藩・九鬼家へ移され
 七月十二日
 九鬼家で病死
 「蓮田一五郎」は
 細川家から、膳所藩・本多家へ預けかえられた
 「蓮田」には絵を描く才能があり
 細川邸にて事変の詳細を絵に描いた
 文久元年(1861年)七月二十六日
 伝馬町獄舎で
 幕吏により斬首
 ↓↑
 大関和七郎・森五六郎・杉山弥一郎・森山繁之介
 の4名は
 熊本藩主
 「細川斉護」邸へ趣意書を提出し自訴
 大関・森・杉山は負傷し
 森山は戦闘に参加したが無傷
 「大関和七郎」は
 富山藩・前田家
 続いて豊岡藩・京極家へ預け替えられた
 「森五六郎」は
 臼杵藩・稲葉家、
 大和小泉藩・片桐家へ預け替えられた
 森が稲葉家家臣らへ語った記録は
 『森五六三郎物語』と呼ばれている
 「杉山弥一郎」は
 村松藩・堀家に預け替えられた
 「森山繁之介」は
 一関藩・田村家、足利藩・戸田家へ移された
 大関・森・杉山・森山
 の4名とも
 文久元年(1861年)七月二十六日
 伝馬町獄舎で幕吏により斬首
 ↓↑
 襲撃参加者
 16名のうち
 1名が闘死、4名が自刃、8名が自訴
 残る3名
 広木松之介・増子金八・海後磋磯之介
 は大きな負傷なく現場を脱し
 戦闘不参加の
 関鉄之介・岡部三十郎
 や協力者とともに京を目指した
 ↓↑
 襲撃計画の首謀者
 水戸浪士
 「金子孫二郎」は
 薩摩浪士
 「有村雄助」
 水戸浪士
 「佐藤鉄三郎」
 らと共に京へ向かったが
 3月9日
 に伊勢・四日市の旅籠で
 薩摩藩兵により捕縛
 「金子孫二郎」
 「佐藤鉄三郎」
 は
 伏見奉行所に引き渡されて
 二十四日江戸へ護送
 「金子」は
 文久元年(1861年)七月二十六日
 伝馬町獄舎で幕吏により斬首
 「佐藤」は追放
 「有村雄助」は
 三月九日捕縛後
 薩摩藩士の関与を隠したい藩の思惑のため
 大坂の薩摩藩邸に移され、薩摩へ護送
 三月二十四日
 幕府の探索が薩摩に迫り藩命で自刃
 水戸浪士
 「高橋多一郎・庄左衛門」親子は
 三月二十四日
 大坂で幕吏の追捕を受け
 四天王寺境内へ逃げ込み、その寺役人宅にて自刃
 大坂で薩摩藩との連絡役
 水戸浪士
 「川崎孫四郎」
 三月二十三日
 探索に追い詰められ自刃、翌日死去
 ↓↑
 襲撃者戦闘不参加、検視見届役の
 「岡部三十郎」は
 「関鉄之介」らと大坂へ向かったが
 薩摩藩の率兵上京計画が不可能と知って水戸へ帰還
 「久慈」郡袋田や
 水戸城下辺りへ潜伏
 再び江戸へ出たが
 文久元年(1861年)二月
 江戸吉原で束縛
 文久元年(1861年)七月二十六日
 自訴した面々や
 「金子孫二郎」
 とともに、伝馬町獄舎で幕吏により斬首
 ↓↑
 「広木松之介」は
 京へ向かうが一旦水戸に帰郷し
 数日後再び京を目指して出発するが
 能登国本住寺に潜伏した後
 越後国佐渡島、越中国を経た
 越後国新潟で
 水戸藩士
 「後藤哲之介」に助けられ旅費を得て逃亡
 文久元年(1861年)
 後藤は幕吏に束縛
 所持品から広木の印が見つかり
 「広木松之介」であると供述し
 文久二年(1862年)五月
 江戸へ送られ、伝馬町の監獄に繋がれたが
 後藤へ尋問もなく
 絶食し
 文久二年(1862年)九月十三日死亡
 「広木」は
 相模国鎌倉・上行寺へ赴き剃髪し
 襲撃から3年目の
 文久二年(1862年)三月三日
 上行寺の墓地で切腹
 ↓↑
 現場総指揮者
 「関鉄之介」は
 三月五日に
 江戸を出発して京へ向かい
 中山道から大坂へ入り
 以後、山陰、山陽
 四国、九州と西国各地を転々とし
 薩摩藩へも入ろうとしたが
 「島津久光」の命で
 薩摩の全関所が閉ざされ
 薩摩入りできなかった
 万延元年(1860年)七月
 水戸藩
 久慈郡
 袋田村に入り
 郷士格
 「桜岡源次衛門」に匿われた
 文久元年(1861年)七月
 水戸の「高橋多一郎」の家を訪ね再び袋田へ向かったが
 水戸から探索の足が着き
 同年十月
 水戸藩士によって
 越後の湯沢温泉で捕縛され
 十一月に水戸へ護送、城下の赤沼牢に投獄
 文久二年(1862年)四月五日
 江戸に護送され、小伝馬町の牢へ入った
 五月十一日、関はこの小伝馬町の牢で斬首
 ↓↑
 襲撃者のうち
 「増子金八」
 「海後磋磯之介」
 は潜伏して明治時代まで生き延びた
 「増子」は明治十四年(1881年)に病没
 「海後」は元治元年(1864年)の「天狗党の乱」に
 変名で参加、関宿藩に預けられたが脱出
 明治維新後
 旧水戸藩士身分に復帰
 茨城県庁や警視庁等へ勤務
 退職後
 明治三十六年(1903年)自宅で死没
 海後の遺稿に襲撃の一部始終を伝える
 『春雪偉談』
 『潜居中覚書』
 がある
 ↓↑
 彦根藩側
 「直弼」以外に8名が死亡
 即死者4名、重傷を負い数日中に死亡した者4名
 他に5名が重軽傷
 水戸藩に仇討ちとの声もあったが
 家老・「岡本半介」が叱責して阻止
 事変から2年後
 文久二年(1862年)
 「直弼」護衛の失敗で
 生存者に対する処分が下された
 「草刈鍬五郎」
 など重傷者は減知の上
 藩領だった
 下野国佐野(栃木県佐野市)へ流され
 揚屋に幽閉
 軽傷者は全員切腹が命じられ
 無疵の士卒は全員が斬首・家名断絶
 本人のみならず親族に及び
 江戸定府の家臣を国許が抑制
 ↓↑
 老中・阿部正弘や
 徳川斉昭
 島津斉彬らが主導した
 雄藩協調体制を否定
 幕閣絶対主義を反対者の粛清により維持し
 朝廷からの政治介入をも阻止する
 「井伊直弼」の政策路線の破綻
 御三家の水戸徳川家
 と
 譜代大名筆頭の井伊家
 が反目
 尊王攘夷運動が激化する端緒
 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)
 第15代将軍
 「徳川慶喜」によって
 「大政奉還」
 江戸開城
 による明治維新
 ↓↑
 老中
 「安藤信正」
 ら幕府首脳による配慮で
 井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑に
 直弼の没日が
 「安政七年三月三日」(1860年3月24日)」
 ではなく
 「蔓延元年閏三月二十八日」(1860年5月18日)
 と刻まれている
 直弼の子
 「愛麿(井伊直憲)」
 による跡目相続
 井伊家は取り潰しを免れた
 約2か月間
 幕府側は直弼の死を公表しなかった
 ↓↑
 大老暗殺は江戸市中へ知れ渡り
 天気の回復した事変当日の午後から夕方
 見物人が桜田門付近のぬかるみの道に群れた
 「井伊掃部頭(いいかもんのかみ)」
 をもじって
 「いい鴨を網でとらずに駕籠でとり」
 などと市井に揶揄
 「倹約で枕いらずの御病人」
 「遺言は尻でなさるや御大病」
 「人参で首をつげとの御沙汰かな」
 などの川柳も相次ぎ事件直後の市中の状況をよみ上げた
 「ちょぼくれやあほだら経」も採集されている
 ↓↑
 「桜田門外の変」の襲撃者ら処分を見届けた薩摩藩は
 文久二年(1862年)三月十六日
 「島津久光」
 が藩兵を率いて鹿児島城下を発し
 四月十三日入京
 勅使
 「大原重徳」を擁して
 六月七日
 薩摩藩兵と共に江戸へ入り、幕政の刷新を要求
 幕府は
 御三卿・「一橋慶喜」を将軍後見職
 前福井藩主・「松平春嶽」を政事総裁職に任命
 春嶽の主導で
 「直弼政権」の清算を図った(文久の改革)
 幕閣をまとめた老中
 「安藤信正」は、同年初めの
 「坂下門外の変」では負傷で済んでいたが
 この改革で
 「久世広周」
 と共に老中を罷免
 彦根藩は幕府より石高を
 30万石~20万石に減給
 5万石の預地も没収
 京都守護の家職を剥奪
 会津藩主
 「松平容保」
 が代わりに京都守護職就任
 彦根藩は直弼の腹心
 彦根藩士
 「長野主膳」
 「宇津木景福」
 斬首・打ち捨てに処した
 ↓↑
 慶応二年(1866年)六月七日
 第二次長州征伐
 彦根藩士510名は
 「赤備え」を着て幕府方で出陣したが
 鎧が夜間でも目立ち
 長州方の遊撃隊から狙撃大敗
 慶応四(1868年)十一月三日~六日
 「鳥羽・伏見の戦い」
 で藩主
 「井伊直憲」
 率いる彦根藩は幕府軍の先鋒を務めていたが
 翻って新政府軍に付き
 彦根藩は薩摩藩兵と共に
 東寺や大津を守備し
 倒幕の姿勢を示した
 ↓↑
 明治十七年(1884年)
 華族令施行
 旧藩主・井伊直憲は伯爵
 彦根藩士は
 流山で元新選組
 「近藤勇」を逮捕して賞典禄2万石を新政府側から与えられていた
 直憲は
 有栖川宮家(斉昭正室の実家)から
 「宜子」夫人を迎えた
 ↓↑
 水戸藩・水戸徳川・・・「大日本史」
 ↓↑
 『日本書紀』・『先代旧事本紀』
 本の名 小碓尊(を=ヲ+うす の みこと)
     小碓王(を=ヲ+うす の みこ)
 亦の名 日本 童男(やまと をぐな)・・・道南・如何なん?
 後の名 日本 武尊(やまと たけるのみこと)
        ブソン=蕪村?
         与謝蕪村=俳人・文人画家
         姓 谷口 OR 谷
         号  蕪村
         名  信章
         通称 寅
         陶淵明の詩
         『帰去来辞』に由来
         俳号 宰鳥・夜半亭
         画号 春星・謝寅など複数
         蕪村=ブソン
           =「侮・悔・撫・不・伏」?
             +
            「損・遜・孫・惨」?
 後の名 日本 武皇子(やまとたけるのみこ)
 ↓↑
 『古事記』
 本の名 小碓命(をすのみこと)
 亦の名 倭男具那命(やまとおぐなのみこと)
     倭男具那王(やまとおぐなのみこ)
 後の名 倭建命(やまとたけるのみこと)
     倭建御子(やまとたけるのみこ)
 ↓↑
 『日本書紀』
 双子の兄弟
 大碓命(おすのみこと)
 小碓尊(をすのみこと))
 として生まれ
 景行天皇
 が怪しんで臼(うす)に向かって叫んだことによる
 「ヲグナ(童男=男具那)」=未婚の男子の意
 「ヤマトタケル」の名称は
 「川上 梟帥(たける)=熊曾 建(たける)」
     梟=ふくろう=キョウ=梟=䲷=鴵=🦉・・・
       副老・複廊・附句弄(漏・樓=楼・僂・婁)
                  「樓=楼」観・
                  婁=鞴=不意合
                  卑弥呼の楼観
                  楼ー木+米+女
     梟首(キョウしゅ)
       梟木(きょうぼく)
       梟雄(きょうゆう)
       梟悪(きょうあく)
       梟将(きょうしょう)
       梟する(きょうする)
       蟂=虫+梟(䲷=鳥+木)・・・鳥居
       鄡=梟+阝
        =郻=L+目+巛+阝
         鄡單(キョウタン)」
         孔子の弟子
         後漢の県名=中国河北省
       嘄=叫(さけ)ぶ・絶叫(ゼッキョウ)
      帥=帥升(スイショウ )
        倭国内の各王の一人
        西暦 107年
        後漢 に朝貢
        「後漢書東夷伝 師匠」・・・
        初出の倭人の漢字記銘
 ↓↑
  「ヤマトタケル」の名称は
 「川上 梟帥(たける)=熊曾 建(たける)」
 から捧げられた・・・九州の熊襲からナゼ捧げられた尊名なのか?
 日本武尊⇔川上梟帥
 ↓↑
 倭武命   『日本三代実録』
 倭武尊   『古語拾遺』
 倭建尊   『新撰姓氏録』
 日本武命  『尾張国風土記』逸文
       『古語拾遺』
 倭武天皇  『常陸国風土記』
 倭建天皇  『常陸国風土記』
 倭健天皇命 『阿波国風土記』逸文
 ↓↑
 父 第12代 景行天皇
       号  大 足 彦 忍代別天皇
         (おほたらしひこ おしろわけ
                の
                すめらみこと)
       諱  大足彦尊
       別称 大帯日子淤斯呂和氣天皇
           帯方郡?
          大足日足天皇
          大帯日子天皇
          大帯日古天皇
          大帯比古天皇
       父親 垂仁天皇
          諡  活目入彦五十狭茅天皇
          諱  活目尊
          別称 活目入彦五十狭茅尊
             伊久牟尼利比古大王
       母親 日葉酢媛命
         (開化天皇皇曾孫)
 母 皇后  播 磨稲 日 大郎姫
      (はりまのいなびの おほいらつめ
       針間之伊那毘能大郎女
       稲日稚郎姫
       第7代孝霊天皇の皇孫)
       若建吉備津日子
       (吉備臣らの祖)の娘(古事記)
 ↓↑
 『日本書紀』・『先代旧事本紀』では第二皇子
 同母兄は大碓皇子のみで双子の兄
 『古事記』では第三皇子
 同母兄を
 櫛角別王
 大碓皇子(双子の記載なし)
 同母弟を
 倭根子命
 神櫛王
 ↓↑
 妻子
 妃 両道 入姫 皇女
  (ふたじいりびめのひめみこ
   布多遅能伊理毘売命)
    垂仁天皇皇女(古事記)
   ↓↑
   稲 依別  王
  (いなよりわけのみこ)
    犬上君
    武部君(建部君)の祖(記紀)
    足仲彦天皇
   (たらしなかつひこのすめらみこと
    帯中津日子命)
    第14代 仲哀天皇
   ↓↑
   布 忍 入 姫  命
  (ぬの し いりびめのみこと)
   稚武王
  (わかたけるのみこ)
    近江建部君の祖
    宮道君等の祖(旧事本紀)
 ↓↑
 妃 吉備 穴戸 武 媛
  (きびのあなとのたけひめ
   大吉備建比売)
    吉備 武彦 の娘(日本書紀)
    吉備臣建日子の妹(古事記)
   ↓↑
   武 卵  王
  (たけかいごのみこ
   建 貝児 王)
    讃岐綾君の祖(記紀)
    登袁之別・麻佐首・宮道之君らの祖(古事記)
   ↓↑
   十 城別  王
  (とお きわけのみこ)
    伊予別君の祖(日本書紀)
 ↓↑
 妃 弟 橘  媛
  (おとたちばなひめ
   弟橘比売命)
    穂積氏の忍山宿禰の娘(日本書紀)
    9男を生む(旧事本紀)
   稚 武 彦 王
  (わかたけひこのみこ・若建王)
    須売伊呂大中日子の父
    迦具漏比売(応神天皇の妃)の祖父
 ↓↑
 妃 山代之玖々麻毛理比売
  (やましろのくくまもりひめ、紀なし)
   足鏡別王
  (あしかがみわけのみこ・蘆髪蒲見別王=葦噉竈見別王)
    鎌倉別・小津石代之別・漁田之別の祖(古事記)
 ↓↑
 妃 布多遅比売(ふたじひめ、紀なし)
    淡海安国造の祖の意富多牟和気の娘(古事記)
    ↓↑
    稲依別王(いなよりわけのみこ・紀の母は別)
     両道入姫皇女の所生とする紀とは異同
    ↓↑
    一妻(古事記では名は不詳・旧事本紀では橘媛)
    ↓↑
    息長田別王(おきながたわけのみ・日本書紀なし)
     河派仲彦王の父
     息長真若中比売(応神天皇の妃)の祖父
     稚野毛二派皇子の曽祖父
     忍坂大中姫・衣通姫の高祖父
     阿波君らの祖(旧事本紀)
     ↓↑
     宮簀媛(みやずひめ・美夜受比売)
      系譜には記されず、物語にのみ記される配偶者
      尾張氏の娘・子は無し
     ↓↑
     『古事記』
     倭建命の曾孫(ひまご)の
     迦具漏比売命が
     景行天皇の妃となって
     大江王(彦人大兄)をもうけるとする・・・
     景行天皇と「ヤマトタケル」の親子関係に
     否定説。・・・
     雄略天皇などと似た事績があり
     数人のヤマトの英雄を統合した架空の人物・・・説
     雄略天皇⇔倭王武
     中国南朝の宋に送った
     上表文(西暦478年)
     「自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。
     東征毛人五十五國
     西服眾夷六十六國
     渡平海北九十五國・・・」
     四道将軍や倭建・・・説
 ↓↑
 「古事記」
 素手で
 「伊吹の神」
 「倭建命」の前に
 牛ほどの大きさの「白い大猪」が現れ
 「白い猪」は神の使者だろう
  今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と
 「言挙げ」するが
 「大白猪は神そのもので正身」
 で
 神は大氷雨を降らし、命は失神
 下山した倭建命は
 居醒めの清水で正気を取り戻すが、病身
 弱った体で大和を目指し
 「當(当)芸(藝)=たぎ」
 「杖衝坂」
 「尾津」
 「三重村(三重)」
 と進み地名起源説話を織り交ぜて
 倭建命の心情が描かれ
 能煩野(のぼの・三重県亀山市)で
 「倭建命」は
 「倭は国のまほろば
  たたなづく 青垣
   山隠れる
    倭し麗し」
 「乙女の床のべに
  我が置きし
   剣の大刀
    その大刀はや」
 4首の国偲び歌を詠って亡くなった
 ↓↑
 「日本書紀」
 伊吹山の神の化身は「大蛇」で道を遮る
 日本武尊は
 「主神を殺すから、神の使いを相手にする必要はない」
 と、大蛇をまたいで進む
 神は雲を興し、氷雨を降らせ、峯に霧をかけ
 谷を曇らせ」
 「日本武尊」は意識が朦朧として下山
 「居醒泉」で目醒めたが病身となり
 「尾津」から
 「能褒野」へ到り
 伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し
 天皇には
 「吉備武彦」を遣わし
 「自らの命は惜しくはありませんが
  ただ御前に仕えられなくなる事のみが
   無念です」と奏上し
 「能褒野」の地で死亡・三十歳
 「国偲び歌」は
 父の景行天皇が
 九州平定の途中で
 日向で詠んだ・・・
 ↓↑
 「古事記」
 倭建命の死を聞いて
 大和から訪れた后たちや御子たちは
 陵墓を築いて周囲を這い回り
 「なづきの田の
  稲がらに
  稲がらに
   葡(は)ひ廻(もとほ)ろふ
    野老蔓(ところづら=蔓草)」」
 すると
 「倭建命」は
 「八尋白智鳥」
 となって飛んでゆき
 后や御子たちは
 竹の切り株で足が傷つき痛めても
 痛さも忘れて泣きながら、その後を追った
 「浅小竹原(あさじのはら) 
  腰なづむ
   空は行かず
    足よ行くな」
 と詠んだ
 白鳥を追って海に入った時に
  「海が行けば
  腰なづむ
   大河原の
    植え草
     海がは
      いさよふ」
 白鳥が磯伝いに飛び立った時は
  「浜つ千鳥(ちどり)
  浜よは行かず
   磯づたふ」
 4つの歌は
 「大御葬歌(天皇の葬儀に歌われる歌)」
 となった
 ↓↑
 「日本書紀」
 天皇は百官に命じて
 「日本武尊」を能褒野陵に葬るが
 「日本武尊」は
 白鳥となって、大和を指して飛んだ
 棺には衣だけが空しく残され
 「屍骨(みかばね)」
 はなかった
 ↓↑
 「古事記」
 白鳥は伊勢を出て
 河内の国志幾に留まり
 そこにも陵を造るが
 やがて天に翔り、行ってしまう
 ↓↑
 「日本書紀」  
 白鳥の飛行は
 「能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)
      →河内古市(大阪府羽曳野市)」
 その3箇所に陵墓を造った
 白鳥は天に昇った
 後に天皇は
 「武部(健部・建部)」
 を
 「日本武尊」の
 「御名代」とした
 「大和に飛来」・・・
 ↓↑
 陵墓
 日本武尊 能褒野墓
 (三重県亀山市)
 ↓↑
 日本武尊 (大和)白鳥陵
 (奈良県御所市)
 ↓↑
 日本武尊 (河内)白鳥陵
 (大阪府羽曳野市)
 ↓↑
 「日本書紀」
 景行天皇四十年是歳条
 「日本武尊」は
 「能褒野」・・・褒=衣+保
         亠+亻+呆+𧘇
         亠+亻+口+木+𧘇
   襃=衣+E+呆
        亠+E+呆+𧘇
        亠+E+口+木+𧘇
       闁=門+門
        ホウ
        ほめる・ほめたたえる
        大きい・広い・ゆったりとしている
        すそやふところが広い衣
        周代の国名
 ↓↑
 で没し、景行天皇は
 伊勢国の
 「能褒野陵(のぼののみささぎ)」に埋葬させた
 しかし
 「日本武尊」は
 「白鳥」となって飛び立ち
 倭の「琴弾原(ことひきはら)」
 河内の「旧市邑(ふるいちのむら、古市邑)」
 に留まったのでその地に陵が造られた
 これら3陵をして
 「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」
 と称し
 これらには「日本武尊」の
 「衣冠」が埋葬された・・・移換・遺憾・如何・移管・医官?
 仁徳天皇六十年条に7
 「白鳥陵」は「空(から)」で
 天皇が白鳥陵の陵守廃止を思い止まった・・・
 ↓↑
 「古事記」
 景行天皇記
 倭建命は伊勢の「能煩野」で没し
 「倭建命」の后・子らが能煩野に下向して陵を造った
 「倭建命」は
 「白い千鳥」となって
 伊勢国から飛び立ち
 河内国の
 「志幾(しき)」に留まったので
 その地に「白鳥御陵(しらとりのみささぎ)」を造った
 延喜式(延長五年(927年)成立)
 諸陵寮(諸陵式)で
 「能裒野墓」の名称で記載
 伊勢国鈴鹿郡の所在で
 兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟
 遠墓に分類
 伊勢国では唯一の陵墓だが
 「白鳥陵」の記載はない

 自其處發。
 到當藝野上之時。・・・當藝(たぎ)=当う芸=問う解意
 詔者。 詔=言+刀+口     
 吾心・・・・誤診・護身・語新
 恆念
 自虚翔行然。
 今吾足不得歩。
 成當藝斯玖。〈自當下六字以音〉・・・「たぎたぎしくなりぬ」
 故號其地。・・・號=号+虎・・・虎=とら=寅=イン
 謂當藝也。
     
 杖衝坂     
 自其地。・・・自分=己=俺=我=私=ム=よこしま
 佐生幸行。
 因甚疲・・・因=囗+大(一+人)
      疲=「疒+皮」=ヒ・ビ・つかれる
衝御杖。・・・衝=彳+重+亍(二+丁)・・・衝撃・笑劇
      杖=木+丈(ナ+乀)
 稍歩。・・・・・稍=禾+肖
        ショウ・ソウ
        すこし(少し)
        ちいさい(小さい)
        ふち(扶持)
        やや(稍々)
        ようやく(要約)
        小さい・少ない・ささいな
        わずかな(僅かな)・僅少
        扶持・俸給
        ようやく・次第に・だんだんと・少しずつ
        逍遙・・・坪内逍遥
 故號其地。
 謂杖衝坂也。・・・つゑつきざかといふ
       ・・・謂=云う・言う
       ・・・謂=言+田+月(肉)
 到坐
 尾津前・・・・・・をづのさき・前=さき・まえ・ゼン
 一松之許。・・・イッショウシキョ
 先御食之時。 先=𠂉+亠+儿
         先の音色の字・以色列?
 所忘其地
 御刀。・・・・・・・・・・・穏当・音問う・音当
 不失猶有。・・・・・・・猶=猶太
 爾
 御歌曰。
     
 袁波理邇・・・・・・・・・尾張に・終わりに
 多陀邇牟迦幣流・・・ただに向へる
 袁都能佐岐那流・・・音の讃岐に鳴る
 比登都麻都・・・・・・・ひとつのマト
 阿勢袁・・・・・・・・・・・あせを・おせを
 比登都麻都
 比登邇阿理勢婆
 多知波氣麻斯袁
 岐奴岐勢麻斯袁
 比登都麻都
 阿勢袁

 自其地幸。
 到三重村之時。
 亦詔之。
 吾足如
 三重勾而
 甚疲。
     
 故號其地謂三重。・・・・かれその地をいつ参重・纂中

 能煩野
 自其幸行而。
 到能煩野之時。
 思國以
 歌曰。・・・明日にツヅク・・・?
ーー↓↑ーー

(ユカリとオジさんの世迷い言・2)
古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)
http://web.archive.org/web/20080501061632/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/fanin/pura2/kojiki42.htm

 ↓↑   ↓↑
エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑

 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
 ↓↑
 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

 ↓↑
 モウ君の総合目次
 ↓↑
  コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬
 ↓↑
鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・

オジタリアンと「鉄腕あとむ」の「ポ

コメント
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「自由の根源」・・・ego・・・依吾・・・?

2023-11-30 15:07:46 | 古事記字源

 乾(板垣)退助」とは「ダレ」か・・・
 ・・・イタガキ死んでも自由は死なぬ・・・?

 「乾(板垣)退助」とは「ダレ」か・・・
 「戌亥=戍亥=乾=いぬい=北西」

 「伊吹山の神=伊吹おろしの神=白猪の神」に
 「ヤマトタケル=日本 武=倭 建=倭男具名」は敗北し
 「足萎えて當藝(たぎ)當藝(たぎ)しく三重になった・・・?」
     多義       他義 纂廿(拾・十・足・✖)
 「ムムムムッ???」・・・「あぁ、アァ、アぁッ!」
 ↓↑
 「彦=ひこ・びこ・ひご?=肥後・卑語・比護・庇護・飛語・比語」
   比古・毘古・比後
   彦=产+彡
     立+ノ+彡
     亠+丷+厂+彡
     山彦=やまびこ=反響音・・・纂経(教・今日・匡)
   彥=言+彥=諺(ゲン・ことわざ)=言技
     言+文+厂+彡
   ・・・彦根藩=井伊直弼暗殺・・・「桜田門外の変」
         安政七年三月三日(1860年3月24 )
         水戸藩脱藩者 17名
         「高橋多一郎」
         「金子孫二郎」ら
         薩摩藩士 在府組1名
         「有村次左衛門」らは
         双方の藩に仕えた
         「日下部伊三治 (大獄により獄死)」
         を介して合同
 牡丹雪の中「井伊直弼」の血は誦弾で散った・・・
 彦根藩士・「日下部三郎右衛門」は
 水戸浪士・「森五六郎」に
 面を割られ前のめりに突っ伏し
 水戸浪士
 「黒澤忠三郎」が
 合図のピストルを直弼の駕籠に発射
 「関鉄之介」らが多方面から一斉射撃
 浪士本隊による全方向からの駕籠への抜刀襲撃・・・
 ↓↑
 「直弼の駕籠」は・・・駕籠=かご=歌語・過誤・加護・加語?
 桜田門外の
 「杵築」藩邸の前で・・・杵=「木+午」=「十+八+𠂉+十」?
 襲撃された
 発射された弾丸には
 「井伊直弼」が
 修錬した「居合抜き」もできず
 腰部(ヨウブ)・・・要部・洋舞
 から
 太腿(ダイタイ)・・・代替・大体?
 にかけて銃創・・・・・・重曹・十三・重層?
 駕籠は
 雪の上に放置・・・・・雪=雨+ヨ?
 彦根藩士たちの
 刀の柄は雪を避けるため
 柄袋をかけ
 これと
 鞘袋が・・・・・・・・・正体?
 邪魔し・・・・・・・・・邪=牙+阝=よこしま?
 抜刀できなく・・・・・罰等?
 鞘のままで抵抗したり
 素手で刀を掴んだりし
 指や耳を切り落とされたが
 彦根藩士も抵抗し
 二刀流の剣豪
 「河西忠左衛門」は
 駕籠脇を守って
 水戸浪士
 「稲田重蔵」を倒し
 駕籠脇の彦根藩士
 「永田太郎兵衛正備」も
 二刀流で大奮戦し
 襲撃者に重傷を負わせたが
 河西が斬られて倒れ
 永田も銃創により戦闘不能
 襲撃者側に戦闘不参加だった
 「斎藤監物」も
 途中から戦闘に参加
 「井伊直弼」
 の護衛無しの駕籠は
 稲田が刀を真っ直ぐにして
 一太刀
 駕籠の扉に体当たりしながら
 駕籠を刺し抜き
 広岡、海後が続けざまに
 駕籠を突き刺した
 稲田は
 「河西忠左衛門」
 の反撃で討ち死にしたが
 河西も斃れた
 有村が駕籠の扉を開け放ち
 虫の息の直弼の髷を掴み
 駕籠から引きずり出し
 「薬丸自顕流」の・・・「訳(譯)贋・約贋」+「示現流」?
 「猿叫(「キャアーッ」という気合い)」・・・猿叫=申詐懸毘?
 とともに
 振り下ろした薩摩刀によって
 直弼は斬首されたが
 首は一撃では落ちず
 三回、鞠(マリ)を蹴るような音で
 斬り離された首は落ちた・・・
 襲撃開始から直弼殺戮まで
 僅か数分間・・・
 有村は刀の切先に
 直弼の首級を突き立て
 「勝鬨の声」をあげ
 彼らが現場を立ち去ろうとしたとき
 斬られて昏倒していた目付助役の
 彦根藩士
 「小河原秀之丞」が
 鬨の声を聞いて蘇生し
 首を奪い返そうと
 有村に追いすがり
 米沢藩邸前辺りで
 「有村」の後頭部に斬りつけた
 水戸浪士
 「広岡子之次郎」
 らによって
 「小河原」は斬り倒されたが
 朦朧と一人で立ちあがった直後
 数名の浪士らから滅多打ちに斬られた
 「有村」は重傷で
 歩行困難となりながら
 直弼の首を引きずって逃走の後
 若年寄
 「遠藤胤統 (近江三上藩)」邸の
 門前で自決し
 「直弼の首」は
 遠藤家に収容された
 「小河原」は救助されたが即日絶命
 ↓↑
 直弼の首は
 三上藩邸に置かれ
 井伊家の使者が返還を要請したが
 遠藤家は
 「幕府の検視が済まない内は渡せない」と
 五度までも断り
 使者を追い返し
 井伊家、遠藤家、幕閣が協議の上
 表向きは
 闘死した藩士のうち年齢と体格が
 「直弼」に似た
 「加田九郎太の首」と偽り
 「遠藤家は
  負傷した直弼を
   井伊家に引き渡す」
 という体面で貰い受けた
 事変同日の夕方ごろ
 「直弼の首」
 は井伊家へ送り届けられた
 井伊家では
 「主君は負傷し自宅療養中」
 と幕閣へ提出
 「直弼の首」は
 彦根藩邸で
 藩医
 「岡島玄建」・・・岡の島の玄の建・・・?
 により胴体と縫い合わされた・・・
 ↓↑
 安政七年三月三日(1860年3月24日)
 「稲田重蔵」は
 彦根藩士の
 「河西忠左衛門」から
 戦闘中討ち死にし
 他の襲撃者らは
 「直弼の首級」を揚げたのを確認後
 日比谷門へ向かった
 薩摩藩士
 「有村次左衛門」は
 彦根藩士
 「小河原秀之丞」に
 背後から斬りつけられ
 「広岡子之次郎」らは
 助太刀に回って
 「小河原」に止(とど)めを刺した
 有村は
 「直弼の首級」を手に
 和田倉門を抜け
 辰ノ口で
 「遠藤胤統(遠藤但馬守)」邸前で自決
 「広岡」は
 辰ノ口を通り
 姫路藩・酒井家の邸外まで辿り着き、自刃
 「山口辰之介」
 「鯉渕要人」
 も彦根藩士による反撃で重傷
 馬場先門と和田倉門の間の濠沿いにある
 八代洲川岸で
 増山河内守邸の角を右へ曲がり
 「織田兵部少輔」邸の
 塀際で
 「鯉渕」が
 「山口」を介錯し
 鯉渕も自刃
 ↓↑
 佐野竹之介・斎藤監物・黒澤忠三郎・蓮田一五郎
 の4名は、戦闘により負傷しながらも連れ立って移動
 和田倉門前の
 老中
 「脇坂安宅 (脇沢中務大輔)」邸へ
 『斬奸趣意書』を提出し自訴
 「佐野竹之介」は
 重傷で当日の夕刻に絶命
 4人は
 熊本藩・細川家へ預けかえられた(佐野の死体も)
 「斎藤監物」も
 重傷で5日後の
 三月八日に落命
 「黒澤忠三郎」は
 手当てにより命は取り留め
 富山藩・前田家へ預け替えられた後
 四月二十一日
 三田藩・九鬼家へ移され
 七月十二日
 九鬼家で病死
 「蓮田一五郎」は
 細川家から、膳所藩・本多家へ預けかえられた
 「蓮田」には絵を描く才能があり
 細川邸にて事変の詳細を絵に描いた
 文久元年(1861年)七月二十六日
 伝馬町獄舎で
 幕吏により斬首
 ↓↑
 大関和七郎・森五六郎・杉山弥一郎・森山繁之介
 の4名は
 熊本藩主
 「細川斉護」邸へ趣意書を提出し自訴
 大関・森・杉山は負傷し
 森山は戦闘に参加したが無傷
 「大関和七郎」は
 富山藩・前田家
 続いて豊岡藩・京極家へ預け替えられた
 「森五六郎」は
 臼杵藩・稲葉家、
 大和小泉藩・片桐家へ預け替えられた
 森が稲葉家家臣らへ語った記録は
 『森五六三郎物語』と呼ばれている
 「杉山弥一郎」は
 村松藩・堀家に預け替えられた
 「森山繁之介」は
 一関藩・田村家、足利藩・戸田家へ移された
 大関・森・杉山・森山
 の4名とも
 文久元年(1861年)七月二十六日
 伝馬町獄舎で幕吏により斬首
 ↓↑
 襲撃参加者
 16名のうち
 1名が闘死、4名が自刃、8名が自訴
 残る3名
 広木松之介・増子金八・海後磋磯之介
 は大きな負傷なく現場を脱し
 戦闘不参加の
 関鉄之介・岡部三十郎
 や協力者とともに京を目指した
 ↓↑
 襲撃計画の首謀者
 水戸浪士
 「金子孫二郎」は
 薩摩浪士
 「有村雄助」
 水戸浪士
 「佐藤鉄三郎」
 らと共に京へ向かったが
 3月9日
 に伊勢・四日市の旅籠で
 薩摩藩兵により捕縛
 「金子孫二郎」
 「佐藤鉄三郎」
 は
 伏見奉行所に引き渡されて
 二十四日江戸へ護送
 「金子」は
 文久元年(1861年)七月二十六日
 伝馬町獄舎で幕吏により斬首
 「佐藤」は追放
 「有村雄助」は
 三月九日捕縛後
 薩摩藩士の関与を隠したい藩の思惑のため
 大坂の薩摩藩邸に移され、薩摩へ護送
 三月二十四日
 幕府の探索が薩摩に迫り藩命で自刃
 水戸浪士
 「高橋多一郎・庄左衛門」親子は
 三月二十四日
 大坂で幕吏の追捕を受け
 四天王寺境内へ逃げ込み、その寺役人宅にて自刃
 大坂で薩摩藩との連絡役
 水戸浪士
 「川崎孫四郎」
 三月二十三日
 探索に追い詰められ自刃、翌日死去
 ↓↑
 襲撃者戦闘不参加、検視見届役の
 「岡部三十郎」は
 「関鉄之介」らと大坂へ向かったが
 薩摩藩の率兵上京計画が不可能と知って水戸へ帰還
 「久慈」郡袋田や
 水戸城下辺りへ潜伏
 再び江戸へ出たが
 文久元年(1861年)二月
 江戸吉原で束縛
 文久元年(1861年)七月二十六日
 自訴した面々や
 「金子孫二郎」
 とともに、伝馬町獄舎で幕吏により斬首
 ↓↑
 「広木松之介」は
 京へ向かうが一旦水戸に帰郷し
 数日後再び京を目指して出発するが
 能登国本住寺に潜伏した後
 越後国佐渡島、越中国を経た
 越後国新潟で
 水戸藩士
 「後藤哲之介」に助けられ旅費を得て逃亡
 文久元年(1861年)
 後藤は幕吏に束縛
 所持品から広木の印が見つかり
 「広木松之介」であると供述し
 文久二年(1862年)五月
 江戸へ送られ、伝馬町の監獄に繋がれたが
 後藤へ尋問もなく
 絶食し
 文久二年(1862年)九月十三日死亡
 「広木」は
 相模国鎌倉・上行寺へ赴き剃髪し
 襲撃から3年目の
 文久二年(1862年)三月三日
 上行寺の墓地で切腹
 ↓↑
 現場総指揮者
 「関鉄之介」は
 三月五日に
 江戸を出発して京へ向かい
 中山道から大坂へ入り
 以後、山陰、山陽
 四国、九州と西国各地を転々とし
 薩摩藩へも入ろうとしたが
 「島津久光」の命で
 薩摩の全関所が閉ざされ
 薩摩入りできなかった
 万延元年(1860年)七月
 水戸藩
 久慈郡
 袋田村に入り
 郷士格
 「桜岡源次衛門」に匿われた
 文久元年(1861年)七月
 水戸の「高橋多一郎」の家を訪ね再び袋田へ向かったが
 水戸から探索の足が着き
 同年十月
 水戸藩士によって
 越後の湯沢温泉で捕縛され
 十一月に水戸へ護送、城下の赤沼牢に投獄
 文久二年(1862年)四月五日
 江戸に護送され、小伝馬町の牢へ入った
 五月十一日、関はこの小伝馬町の牢で斬首
 ↓↑
 襲撃者のうち
 「増子金八」
 「海後磋磯之介」
 は潜伏して明治時代まで生き延びた
 「増子」は明治十四年(1881年)に病没
 「海後」は元治元年(1864年)の「天狗党の乱」に
 変名で参加、関宿藩に預けられたが脱出
 明治維新後
 旧水戸藩士身分に復帰
 茨城県庁や警視庁等へ勤務
 退職後
 明治三十六年(1903年)自宅で死没
 海後の遺稿に襲撃の一部始終を伝える
 『春雪偉談』
 『潜居中覚書』
 がある
 ↓↑
 彦根藩側
 「直弼」以外に8名が死亡
 即死者4名、重傷を負い数日中に死亡した者4名
 他に5名が重軽傷
 水戸藩に仇討ちとの声もあったが
 家老・「岡本半介」が叱責して阻止
 事変から2年後
 文久二年(1862年)
 「直弼」護衛の失敗で
 生存者に対する処分が下された
 「草刈鍬五郎」
 など重傷者は減知の上
 藩領だった
 下野国佐野(栃木県佐野市)へ流され
 揚屋に幽閉
 軽傷者は全員切腹が命じられ
 無疵の士卒は全員が斬首・家名断絶
 本人のみならず親族に及び
 江戸定府の家臣を国許が抑制
 ↓↑
 老中・阿部正弘や
 徳川斉昭
 島津斉彬らが主導した
 雄藩協調体制を否定
 幕閣絶対主義を反対者の粛清により維持し
 朝廷からの政治介入をも阻止する
 「井伊直弼」の政策路線の破綻
 御三家の水戸徳川家
 と
 譜代大名筆頭の井伊家
 が反目
 尊王攘夷運動が激化する端緒
 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)
 第15代将軍
 「徳川慶喜」によって
 「大政奉還」
 江戸開城
 による明治維新
 ↓↑
 老中
 「安藤信正」
 ら幕府首脳による配慮で
 井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑に
 直弼の没日が
 「安政七年三月三日」(1860年3月24日)」
 ではなく
 「蔓延元年閏三月二十八日」(1860年5月18日)
 と刻まれている
 直弼の子
 「愛麿(井伊直憲)」
 による跡目相続
 井伊家は取り潰しを免れた
 約2か月間
 幕府側は直弼の死を公表しなかった
 ↓↑
 大老暗殺は江戸市中へ知れ渡り
 天気の回復した事変当日の午後から夕方
 見物人が桜田門付近のぬかるみの道に群れた
 「井伊掃部頭(いいかもんのかみ)」
 をもじって
 「いい鴨を網でとらずに駕籠でとり」
 などと市井に揶揄
 「倹約で枕いらずの御病人」
 「遺言は尻でなさるや御大病」
 「人参で首をつげとの御沙汰かな」
 などの川柳も相次ぎ事件直後の市中の状況をよみ上げた
 「ちょぼくれやあほだら経」も採集されている
 ↓↑
 「桜田門外の変」の襲撃者ら処分を見届けた薩摩藩は
 文久二年(1862年)三月十六日
 「島津久光」
 が藩兵を率いて鹿児島城下を発し
 四月十三日入京
 勅使
 「大原重徳」を擁して
 六月七日
 薩摩藩兵と共に江戸へ入り、幕政の刷新を要求
 幕府は
 御三卿・「一橋慶喜」を将軍後見職
 前福井藩主・「松平春嶽」を政事総裁職に任命
 春嶽の主導で
 「直弼政権」の清算を図った(文久の改革)
 幕閣をまとめた老中
 「安藤信正」は、同年初めの
 「坂下門外の変」では負傷で済んでいたが
 この改革で
 「久世広周」
 と共に老中を罷免
 彦根藩は幕府より石高を
 30万石~20万石に減給
 5万石の預地も没収
 京都守護の家職を剥奪
 会津藩主
 「松平容保」
 が代わりに京都守護職就任
 彦根藩は直弼の腹心
 彦根藩士
 「長野主膳」
 「宇津木景福」
 斬首・打ち捨てに処した
 ↓↑
 慶応二年(1866年)六月七日
 第二次長州征伐
 彦根藩士510名は
 「赤備え」を着て幕府方で出陣したが
 鎧が夜間でも目立ち
 長州方の遊撃隊から狙撃大敗
 慶応四(1868年)十一月三日~六日
 「鳥羽・伏見の戦い」
 で藩主
 「井伊直憲」
 率いる彦根藩は幕府軍の先鋒を務めていたが
 翻って新政府軍に付き
 彦根藩は薩摩藩兵と共に
 東寺や大津を守備し
 倒幕の姿勢を示した
 ↓↑
 明治十七年(1884年)
 華族令施行
 旧藩主・井伊直憲は伯爵
 彦根藩士は
 流山で元新選組
 「近藤勇」を逮捕して賞典禄2万石を新政府側から与えられていた
 直憲は
 有栖川宮家(斉昭正室の実家)から
 「宜子」夫人を迎えた
 ↓↑
 水戸藩・水戸徳川・・・「大日本史」
 ↓↑
 『日本書紀』・『先代旧事本紀』
 本の名 小碓尊(を=ヲ+うす の みこと)
     小碓王(を=ヲ+うす の みこ)
 亦の名 日本 童男(やまと をぐな)・・・道南・如何なん?
 後の名 日本 武尊(やまと たけるのみこと)
        ブソン=蕪村?
         与謝蕪村=俳人・文人画家
         姓 谷口 OR 谷
         号  蕪村
         名  信章
         通称 寅
         陶淵明の詩
         『帰去来辞』に由来
         俳号 宰鳥・夜半亭
         画号 春星・謝寅など複数
         蕪村=ブソン
           =「侮・悔・撫・不・伏」?
             +
            「損・遜・孫・惨」?
 後の名 日本 武皇子(やまとたけるのみこ)
 ↓↑
 『古事記』
 本の名 小碓命(をすのみこと)
 亦の名 倭男具那命(やまとおぐなのみこと)
     倭男具那王(やまとおぐなのみこ)
 後の名 倭建命(やまとたけるのみこと)
     倭建御子(やまとたけるのみこ)
 ↓↑
 『日本書紀』
 双子の兄弟
 大碓命(おすのみこと)
 小碓尊(をすのみこと))
 として生まれ
 景行天皇
 が怪しんで臼(うす)に向かって叫んだことによる
 「ヲグナ(童男=男具那)」=未婚の男子の意
 「ヤマトタケル」の名称は
 「川上 梟帥(たける)=熊曾 建(たける)」
     梟=ふくろう=キョウ=梟=䲷=鴵=🦉・・・
       副老・複廊・附句弄(漏・樓=楼・僂・婁)
                  「樓=楼」観・
                  婁=鞴=不意合
                  卑弥呼の楼観
                  楼ー木+米+女
     梟首(キョウしゅ)
       梟木(きょうぼく)
       梟雄(きょうゆう)
       梟悪(きょうあく)
       梟将(きょうしょう)
       梟する(きょうする)
       蟂=虫+梟(䲷=鳥+木)・・・鳥居
       鄡=梟+阝
        =郻=L+目+巛+阝
         鄡單(キョウタン)」
         孔子の弟子
         後漢の県名=中国河北省
       嘄=叫(さけ)ぶ・絶叫(ゼッキョウ)
      帥=帥升(スイショウ )
        倭国内の各王の一人
        西暦 107年
        後漢 に朝貢
        「後漢書東夷伝 師匠」・・・
        初出の倭人の漢字記銘
 ↓↑
  「ヤマトタケル」の名称は
 「川上 梟帥(たける)=熊曾 建(たける)」
 から捧げられた・・・九州の熊襲からナゼ捧げられた尊名なのか?
 日本武尊⇔川上梟帥
 ↓↑
 倭武命   『日本三代実録』
 倭武尊   『古語拾遺』
 倭建尊   『新撰姓氏録』
 日本武命  『尾張国風土記』逸文
       『古語拾遺』
 倭武天皇  『常陸国風土記』
 倭建天皇  『常陸国風土記』
 倭健天皇命 『阿波国風土記』逸文
 ↓↑
 父 第12代 景行天皇
       号  大 足 彦 忍代別天皇
         (おほたらしひこ おしろわけ
                の
                すめらみこと)
       諱  大足彦尊
       別称 大帯日子淤斯呂和氣天皇
           帯方郡?
          大足日足天皇
          大帯日子天皇
          大帯日古天皇
          大帯比古天皇
       父親 垂仁天皇
          諡  活目入彦五十狭茅天皇
          諱  活目尊
          別称 活目入彦五十狭茅尊
             伊久牟尼利比古大王
       母親 日葉酢媛命
         (開化天皇皇曾孫)
 母 皇后  播 磨稲 日 大郎姫
      (はりまのいなびの おほいらつめ
       針間之伊那毘能大郎女
       稲日稚郎姫
       第7代孝霊天皇の皇孫)
       若建吉備津日子
       (吉備臣らの祖)の娘(古事記)
 ↓↑
 『日本書紀』・『先代旧事本紀』では第二皇子
 同母兄は大碓皇子のみで双子の兄
 『古事記』では第三皇子
 同母兄を
 櫛角別王
 大碓皇子(双子の記載なし)
 同母弟を
 倭根子命
 神櫛王
 ↓↑
 妻子
 妃 両道 入姫 皇女
  (ふたじいりびめのひめみこ
   布多遅能伊理毘売命)
    垂仁天皇皇女(古事記)
   ↓↑
   稲 依別  王
  (いなよりわけのみこ)
    犬上君
    武部君(建部君)の祖(記紀)
    足仲彦天皇
   (たらしなかつひこのすめらみこと
    帯中津日子命)
    第14代 仲哀天皇
   ↓↑
   布 忍 入 姫  命
  (ぬの し いりびめのみこと)
   稚武王
  (わかたけるのみこ)
    近江建部君の祖
    宮道君等の祖(旧事本紀)
 ↓↑
 妃 吉備 穴戸 武 媛
  (きびのあなとのたけひめ
   大吉備建比売)
    吉備 武彦 の娘(日本書紀)
    吉備臣建日子の妹(古事記)
   ↓↑
   武 卵  王
  (たけかいごのみこ
   建 貝児 王)
    讃岐綾君の祖(記紀)
    登袁之別・麻佐首・宮道之君らの祖(古事記)
   ↓↑
   十 城別  王
  (とお きわけのみこ)
    伊予別君の祖(日本書紀)
 ↓↑
 妃 弟 橘  媛
  (おとたちばなひめ
   弟橘比売命)
    穂積氏の忍山宿禰の娘(日本書紀)
    9男を生む(旧事本紀)
   稚 武 彦 王
  (わかたけひこのみこ・若建王)
    須売伊呂大中日子の父
    迦具漏比売(応神天皇の妃)の祖父
 ↓↑
 妃 山代之玖々麻毛理比売
  (やましろのくくまもりひめ、紀なし)
   足鏡別王
  (あしかがみわけのみこ・蘆髪蒲見別王=葦噉竈見別王)
    鎌倉別・小津石代之別・漁田之別の祖(古事記)
 ↓↑
 妃 布多遅比売(ふたじひめ、紀なし)
    淡海安国造の祖の意富多牟和気の娘(古事記)
    ↓↑
    稲依別王(いなよりわけのみこ・紀の母は別)
     両道入姫皇女の所生とする紀とは異同
    ↓↑
    一妻(古事記では名は不詳・旧事本紀では橘媛)
    ↓↑
    息長田別王(おきながたわけのみ・日本書紀なし)
     河派仲彦王の父
     息長真若中比売(応神天皇の妃)の祖父
     稚野毛二派皇子の曽祖父
     忍坂大中姫・衣通姫の高祖父
     阿波君らの祖(旧事本紀)
     ↓↑
     宮簀媛(みやずひめ・美夜受比売)
      系譜には記されず、物語にのみ記される配偶者
      尾張氏の娘・子は無し
     ↓↑
     『古事記』
     倭建命の曾孫(ひまご)の
     迦具漏比売命が
     景行天皇の妃となって
     大江王(彦人大兄)をもうけるとする・・・
     景行天皇と「ヤマトタケル」の親子関係に
     否定説。・・・
     雄略天皇などと似た事績があり
     数人のヤマトの英雄を統合した架空の人物・・・説
     雄略天皇⇔倭王武
     中国南朝の宋に送った
     上表文(西暦478年)
     「自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。
     東征毛人五十五國
     西服眾夷六十六國
     渡平海北九十五國・・・」
     四道将軍や倭建・・・説
 ↓↑
 「古事記」
 素手で
 「伊吹の神」
 「倭建命」の前に
 牛ほどの大きさの「白い大猪」が現れ
 「白い猪」は神の使者だろう
  今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と
 「言挙げ」するが
 「大白猪は神そのもので正身」
 で
 神は大氷雨を降らし、命は失神
 下山した倭建命は
 居醒めの清水で正気を取り戻すが、病身
 弱った体で大和を目指し
 「當(当)芸(藝)=たぎ」
 「杖衝坂」
 「尾津」
 「三重村(三重)」
 と進み地名起源説話を織り交ぜて
 倭建命の心情が描かれ
 能煩野(のぼの・三重県亀山市)で
 「倭建命」は
 「倭は国のまほろば
  たたなづく 青垣
   山隠れる
    倭し麗し」
 「乙女の床のべに
  我が置きし
   剣の大刀
    その大刀はや」
 4首の国偲び歌を詠って亡くなった
 ↓↑
 「日本書紀」
 伊吹山の神の化身は「大蛇」で道を遮る
 日本武尊は
 「主神を殺すから、神の使いを相手にする必要はない」
 と、大蛇をまたいで進む
 神は雲を興し、氷雨を降らせ、峯に霧をかけ
 谷を曇らせ」
 「日本武尊」は意識が朦朧として下山
 「居醒泉」で目醒めたが病身となり
 「尾津」から
 「能褒野」へ到り
 伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し
 天皇には
 「吉備武彦」を遣わし
 「自らの命は惜しくはありませんが
  ただ御前に仕えられなくなる事のみが
   無念です」と奏上し
 「能褒野」の地で死亡・三十歳
 「国偲び歌」は
 父の景行天皇が
 九州平定の途中で
 日向で詠んだ・・・
 ↓↑
 「古事記」
 倭建命の死を聞いて
 大和から訪れた后たちや御子たちは
 陵墓を築いて周囲を這い回り
 「なづきの田の
  稲がらに
  稲がらに
   葡(は)ひ廻(もとほ)ろふ
    野老蔓(ところづら=蔓草)」」
 すると
 「倭建命」は
 「八尋白智鳥」
 となって飛んでゆき
 后や御子たちは
 竹の切り株で足が傷つき痛めても
 痛さも忘れて泣きながら、その後を追った
 「浅小竹原(あさじのはら) 
  腰なづむ
   空は行かず
    足よ行くな」
 と詠んだ
 白鳥を追って海に入った時に
  「海が行けば
  腰なづむ
   大河原の
    植え草
     海がは
      いさよふ」
 白鳥が磯伝いに飛び立った時は
  「浜つ千鳥(ちどり)
  浜よは行かず
   磯づたふ」
 4つの歌は
 「大御葬歌(天皇の葬儀に歌われる歌)」
 となった
 ↓↑
 「日本書紀」
 天皇は百官に命じて
 「日本武尊」を能褒野陵に葬るが
 「日本武尊」は
 白鳥となって、大和を指して飛んだ
 棺には衣だけが空しく残され
 「屍骨(みかばね)」
 はなかった
 ↓↑
 「古事記」
 白鳥は伊勢を出て
 河内の国志幾に留まり
 そこにも陵を造るが
 やがて天に翔り、行ってしまう
 ↓↑
 「日本書紀」  
 白鳥の飛行は
 「能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)
      →河内古市(大阪府羽曳野市)」
 その3箇所に陵墓を造った
 白鳥は天に昇った
 後に天皇は
 「武部(健部・建部)」
 を
 「日本武尊」の
 「御名代」とした
 「大和に飛来」・・・
 ↓↑
 陵墓
 日本武尊 能褒野墓
 (三重県亀山市)
 ↓↑
 日本武尊 (大和)白鳥陵
 (奈良県御所市)
 ↓↑
 日本武尊 (河内)白鳥陵
 (大阪府羽曳野市)
 ↓↑
 「日本書紀」
 景行天皇四十年是歳条
 「日本武尊」は
 「能褒野」・・・褒=衣+保
         亠+亻+呆+𧘇
         亠+亻+口+木+𧘇
   襃=衣+E+呆
        亠+E+呆+𧘇
        亠+E+口+木+𧘇
       闁=門+門
        ホウ
        ほめる・ほめたたえる
        大きい・広い・ゆったりとしている
        すそやふところが広い衣
        周代の国名
 ↓↑
 で没し、景行天皇は
 伊勢国の
 「能褒野陵(のぼののみささぎ)」に埋葬させた
 しかし
 「日本武尊」は
 「白鳥」となって飛び立ち
 倭の「琴弾原(ことひきはら)」
 河内の「旧市邑(ふるいちのむら、古市邑)」
 に留まったのでその地に陵が造られた
 これら3陵をして
 「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」
 と称し
 これらには「日本武尊」の
 「衣冠」が埋葬された・・・移換・遺憾・如何・移管・医官?
 仁徳天皇六十年条に7
 「白鳥陵」は「空(から)」で
 天皇が白鳥陵の陵守廃止を思い止まった・・・
 ↓↑
 「古事記」
 景行天皇記
 倭建命は伊勢の「能煩野」で没し
 「倭建命」の后・子らが能煩野に下向して陵を造った
 「倭建命」は
 「白い千鳥」となって
 伊勢国から飛び立ち
 河内国の
 「志幾(しき)」に留まったので
 その地に「白鳥御陵(しらとりのみささぎ)」を造った
 延喜式(延長五年(927年)成立)
 諸陵寮(諸陵式)で
 「能裒野墓」の名称で記載
 伊勢国鈴鹿郡の所在で
 兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟
 遠墓に分類
 伊勢国では唯一の陵墓だが
 「白鳥陵」の記載はない

 自其處發。
 到當藝野上之時。・・・當藝(たぎ)=当う芸=問う解意
 詔者。 詔=言+刀+口     
 吾心・・・・誤診・護身・語新
 恆念
 自虚翔行然。
 今吾足不得歩。
 成當藝斯玖。〈自當下六字以音〉・・・「たぎたぎしくなりぬ」
 故號其地。・・・號=号+虎・・・虎=とら=寅=イン
 謂當藝也。
     
 杖衝坂     
 自其地。・・・自分=己=俺=我=私=ム=よこしま
 佐生幸行。
 因甚疲・・・因=囗+大(一+人)
      疲=「疒+皮」=ヒ・ビ・つかれる
衝御杖。・・・衝=彳+重+亍(二+丁)・・・衝撃・笑劇
      杖=木+丈(ナ+乀)
 稍歩。・・・・・稍=禾+肖
        ショウ・ソウ
        すこし(少し)
        ちいさい(小さい)
        ふち(扶持)
        やや(稍々)
        ようやく(要約)
        小さい・少ない・ささいな
        わずかな(僅かな)・僅少
        扶持・俸給
        ようやく・次第に・だんだんと・少しずつ
        逍遙・・・坪内逍遥
 故號其地。
 謂杖衝坂也。・・・つゑつきざかといふ
       ・・・謂=云う・言う
       ・・・謂=言+田+月(肉)
 到坐
 尾津前・・・・・・をづのさき・前=さき・まえ・ゼン
 一松之許。・・・イッショウシキョ
 先御食之時。 先=𠂉+亠+儿
         先の音色の字・以色列?
 所忘其地
 御刀。・・・・・・・・・・・穏当・音問う・音当
 不失猶有。・・・・・・・猶=猶太
 爾
 御歌曰。
     
 袁波理邇・・・・・・・・・尾張に・終わりに
 多陀邇牟迦幣流・・・ただに向へる
 袁都能佐岐那流・・・音の讃岐に鳴る
 比登都麻都・・・・・・・ひとつのマト
 阿勢袁・・・・・・・・・・・あせを・おせを
 比登都麻都
 比登邇阿理勢婆
 多知波氣麻斯袁
 岐奴岐勢麻斯袁
 比登都麻都
 阿勢袁

 自其地幸。
 到三重村之時。
 亦詔之。
 吾足如
 三重勾而
 甚疲。
     
 故號其地謂三重。・・・・かれその地をいつ参重・纂中

 能煩野
 自其幸行而。
 到能煩野之時。
 思國以
 歌曰。
ーー↓↑ーー

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『冨嶽三十六景 凱風快晴』・・・重爆撃にはカイセイが条件

2023-11-28 22:14:37 | 古事記字源

 「葛飾 北斎」の画才の源泉・・・
 古代中国にもいた「葛飾北斎」・・・
 ナゼ、『冨嶽三十六景 凱風快晴』なのか?
 楯型「銅鏡」
 と
 最長「蛇行剣」の発掘
  ↓↑

  ↓↑
 「北斎」だから「斎王国」がご先祖の故地だったかも・・・

 前漢時代の社会や生活を映し出す彩絵銅鏡 中国陝西省西安市
 c 新華社
 前漢時代の彩絵人物車馬鏡。
 (8月25日撮影、北京=新華社記者/李賀)
 前漢時代の彩絵人物車馬鏡。
 (8月25日撮影、北京=新華社記者/王毓国)

 【新華社西安11月23日】
 中国古代の化粧道具、銅鏡は重要な芸術的・科学的価値を持ち、中でも彩絵銅鏡は貴重とされる。1963年に陝西省西安市紅廟坡村で出土した前漢時代の彩絵人物車馬鏡は、2千年以上の時を経てもなお、鮮やかな色彩と比類ない精妙な美しさを保っており、古代中国の代表的な彩絵銅鏡の一つとして、国家文物局の「第3次海外持ち出し展示禁止文化財目録」に選ばれた。
 新華社通信 on MSN21 時間

 彩絵人物車馬鏡の図案の一部「遠出」のスケッチ。
 (資料写真、北京=新華社配信)
 考古学者らは
 銅鏡が出土した場所や地層、銅鏡の材質や造形、装飾文様と図案、絵の題材、絵画技法などから、この銅鏡は前漢時代のものと判断している。
 専門家らは各地の関連考古学資料を参考に、
 所有者は前漢時代の権勢を誇った高官だったとみているが、
 具体的な人物はまだ特定されていない。

 ↓↑

 葛飾 北斎(かつしか ほくさい)
 宝暦10年9月23日
 1760年10月31日
 ~
 嘉永2年4月18日
 1849年5月10日午前4時
      大運1843年1月(82歳)乙未・劫財
 庚辰(乙癸戊)偏官・偏財 衰⇔己酉・正財・支合辛
  冲戊・偏財
 丙戌(辛丁戊)食神・偏財 養⇔己巳・正財
    透干支・丁=傷官
 甲子(壬 癸)  ・印綬沐浴⇔丙辰・食神・三合壬
 庚午(丙 丁)偏官・傷官 死⇔庚寅・偏官
  戌亥空亡
 ↓↑

 川村氏または
 幕府御用であった
 「鏡師」・・・鏡=銅鏡
 の
 「中島伊勢」・・・「中島知久平」立案『必勝防空計画』
           アメリカ合衆国本土を空襲した後
           ヨーロッパまで飛行し
           同盟国ナチス・ドイツ
           その占領地に着陸可能な
           大型長距離戦略爆撃機「Z飛行機」
           再び逆のコースでアメリカを再攻撃して
           帰還するか
           ソ連を爆撃しつつ世界を一周計画
          全長45 m(米軍4発戦略爆撃機ボーイングB-29の1.5倍)
           全幅65 m(B-29の1.5倍)
           爆弾搭載量20トン(B-29の2.2倍)
           航続距離は19,400 km(B-29の3倍)
           6発エンジン
       ・・・中島飛行機=「富嶽」=大型重爆撃機
          アメリカ 本土爆撃 を目的にした超大型 戦略爆撃機
          富士山 の別名にちなむ
          米本土爆撃計画 1942年( 昭和 17年)
          1943年(昭和18年)
          中島飛行機
          「三鷹」・・・鷹=广+イ+隹+鳥・・・「贋」作?
          研究所構内に工場の建設が開始
          1944年(昭和19年)4月28日
          日本軍は陸海軍当事者、軍需省、関係製作会社を集めて
          超重爆撃機「富嶽」の研究続行を検討
          日本陸軍の四式戦闘機(疾風)の943機減産
          海軍の陸上爆撃機銀河235機の減産を招く見通しとなり
          富嶽の研究は
          「中止」
          日本軍は1944年(昭和19年)6月下旬
          マリアナ沖海戦敗北
          7月6日サイパン陥落
          7月18日東條首相辞職
          本土防空戦のため
          戦闘機開発優先
          開発機種削減方針により
          「富嶽」開発中止
          アメリカ軍 による
          初の 日本本土空襲 ( ドーリットル空襲 )と
          日本軍による初の アメリカ本土空襲 が行われた
 ↓↑
 の子とされる場合や
 川村の子として生まれ
 4歳のころに
 「中島伊勢」の養子となった・・・説
 ↓↑
 母親
 小林平八郎を曾祖父に持つ家系・・・説
 出生地は
 式亭三馬が「本所の産」としていることから
 武蔵国本所割下水の傍(東京都墨田区)・・・説
 幼名
 複数の通説
 時太郎・時次郎・時二郎・鉄蔵など
 「飯島虚心」の『葛飾北斎伝』では
 幼名を時太郎、その後に鉄蔵を名乗った
 ↓↑
 少年期は貸本屋の小僧として働いていた・・・
 14、15歳から19歳ごろまでは木版画の版下彫りを生業
 石塚豊芥子が収集した
 雲中舎山蝶の
 『楽女格子』(1775年刊行)の識語に記録
 安永7年(1778年)
 勝川派の頭領
 浮世絵師
 「勝川春章」に師事し、絵師として活動を始めた・・・
 ↓↑
 処女作
 「春朗」時代の錦絵
 『四代目岩井半四郎 かしく』(1779年)
 春章に師事した翌年
 1779年から
 寛政六年(1794年)まで
 およそ15年間
 勝川派の絵師として活動
 この間に家庭を持ち子を設けた
 娘の
 「お栄(葛飾応為)」もこの時期に誕生・・・説
 北斎の処女作
 吉原細見の
 『金濃町』(鱗形屋版)に寄せた挿図
 細判役者絵
 『かしく岩井半四郎』
 を始めとした役者絵3点
 「勝川春朗」の名でこれらを描いた
 寛政五年(1793年)
 「叢春朗」に画姓改変
 役者似顔絵
 美人風俗
 日本と中国の子供
 動植物
 金太郎、信仰画、和漢武者、伝説古典、名所絵
 相撲などを題材とした
 浮世絵版画
 黄表紙、芝居絵本、洒落本
 咄本、談義本、句集、狂歌本の挿絵などを手掛けた
 天明四年(1784年)ごろまでは
 勝川派の様式だけでなく
 「北尾重政」
 「鳥居清長」
 らの影響が見られ
 他派のスタイルをも受容
 次の2年間は
 「黄表紙」の挿絵を中心に活動
 一時的に画号を
 「群馬亭」へと改号
 天明七年(1787年)
 ~
 寛政四年(1792年)
 までの期間は作品量が増加
 新たな独自画風を確立・・・
 春章が没した
 1793年以降
 画号を
 「叢春朗」に改号
 摺物や句集、狂歌本の挿絵などの分野への進出
 春朗の落款が押されている最後の作品
 1794年8月
 摺物『砧打図』
 ↓↑
 「宗理」時代
 『二美人図』(1806年~1813年ごろ)
 「宗理風」と呼ばれる「女性描写」を確立
 寛政七年(1795年)
 ~
 文化元年(1804年)頃
 9年間は「宗理時代」
 この間は
 百琳宗理
 北斎宗理
 宗理改北斎
 北斎時政
 不染居北斎
 画狂人北斎
 九々蜃北斎
 可候
 などの画号が用いられた・・・
 「改号」の心境とはナンだったんだか・・・
 ↓↑
 寛政六年(1794年)の秋から冬
 琳派の領袖
 「俵屋宗理」から
 「宗理」を襲名した・・・
 1795年
 この落款の使用
 「俵屋宗達」
 によって創始された「琳派」は
 「尾形光琳」
 「尾形乾山」
 以降、沈滞していたが・・・
 「俵屋宗理」らより、その勢いを復活
 「北斎」
 は2年ほど宗理の名で活動した後に独立
 寛政十年頃に
 「北斎」と改号
 宗理の号名は門人の
 「宗二」へと受け継がれたと
 「大田南畝」
 の『浮世絵類考』に記録
 ↓↑
 独立した
 寛政十年(1798年)以降
 黄表紙の挿絵
 浮世絵版画などの制作
 肉筆画に傾注した
 「画狂人北斎」
 を号した時期には夥しい数の肉筆画作品を描き上げた
 ↓↑
 作風
 楚々とした体躯で
 富士額に
 瓜実顔の画貌のある女性描写
 は「宗理型・宗理風」と呼ばれた
 注文にも即応し、複数の描法を混用させたて作品を発表
 寛政十年(1798年)ごろ
 ランダのカピタンが
 北斎の絵を求めたことで
 支払いを巡ってひと悶着
 文化元年(1804年)
 江戸の護国寺において
 百二十畳あまりの巨大な
 達磨半身像を揮毫
 「斎藤月岑」
 の『武江年表』や
 「大田南畝」の『一話一言』に記述
 ↓↑
 「葛飾北斎」時代
 「曲亭馬琴」の
 『椿説弓張月』(1807年)
 に挿絵
 文化二年(1805年)~文化六年(1809年)
 「葛飾北斎」と号した
 漢画の影響を強く受けた
 豪快で大胆な画風へと変化
 江戸の流行が
 狂歌から読本へと移り変わり
 その挿絵制作に注力し始めたため・・・
 北斎の携わった読本で最も古いものは
 1803年に刊行された
 「流霞窓広住」の
 『蜑捨草』だが
 本格的な読本制作の開始は
 1805年からで
 「曲亭馬琴」と提携して数多くの作品を作り上げた
 読本の挿絵は黄表紙の挿絵と異なり
 複雑な内容に対して
 墨と薄墨で適切な場面描写を行う必要があり
 北斎の発想力は他の絵師の追随を許さず
 読本の隆盛に大きく貢献した
 挿絵の内容で馬琴と口論となり
 両者の間で確執が生じた・・・
 名所絵
 東海道五十三次
 『風流東部八景』
 『新板近江八景』
 などの
 「鳥瞰」での景観描写を試みた作品などを発表
 『日本堤田中見之図』
 などの洋風風景版画と呼ばれる一連の作品は
 透視画法を用いて
 明暗を強く意識した西洋絵画を髣髴とさせる作り
 「鳥羽絵」や
 「組上絵」の制作にも携わっていた
 肉筆画の制作
 美人画の他、
 動植物
 古典を題材とした作品も増加
 文化五年(1808年)八月
 新宅を本所
 亀沢町に構えた
 翌年には
 両国の借家へと転居
 以降は終生借家、居候の生活・・・
 ↓↑
 「戴斗」時代
 文化七年(1810年)
 絵手本
 『北斎漫画』(1814年初編刊行)
 上梓
 初の木版絵手本
 『己痴羣夢多字画尽』に
 「戴斗」の号が使用
 以降
 文政二年(1819年)まで用いられた
 国内外に影響を与えた絵手本
 『北斎漫画』の初編が刊行さ
 文化9年(1812年)
 ごろに関西方面へ旅行
 秋ごろに名古屋の門人
 「牧墨僊宅」へ逗留し
 三百余図の版下絵を制作
 絵手本『北斎漫画』の初編は
 この時の版下絵が元となっている
 文化十四年(1817年)
 再度関西方面へ赴いき
 文化元年に行った催事同様
 西掛所境内(本願寺名古屋別院)で
 百二十畳の
 「大達磨揮毫」を行った
 「鳥瞰図」の制作
 「北尾政美」
 が制作する作品が大きな人気を博していたが
 『東海道名所一覧』
 『木曽路名所一覧』
 といった作品を発表
 肉筆画では西洋画法を追及した
 試行作品が数多く残されており
 線での表現を避けつつ
 面で質感を表現しようとした
 『なまこ図』
 輪郭線を排して明暗のみで表現した
 『生首図』など
 娘の
 「お栄=葛飾応為」
 とともに川柳に傾倒し
 『誹風柳多留』
 への投句や句選活動
 ↓↑
 「為一」時代
 文政三年(1820年)~天保四年(1833年)
 代表作
 『冨嶽三十六景』
 を始めとした風景版画を制作した時代
 「色紙判」と呼ばれる正方形の作品
 同一テーマで
 複数の画が描かれたものがセットで発表
 代表作品
 『元禄歌仙貝合』(全36図)
 『馬尽』(全30図)
 為一時代後期
 浮世絵版画に傾注した時期
 『冨嶽三十六景』
 『諸国瀧廻り』
 『諸国名橋奇覧』
 などの風景画
 『江戸八景』
 『景勝雪月花』
 などの名所絵
 古典画、花鳥図など
 多岐に渡る浮世絵版画が制作
 作品の多くは
 「西村屋与八」
 「森屋治兵衛」
 の版元から出版
 された
 ↓↑
 「柳川重信」と離縁した長女の
 「お美与」
 が連れ帰った
 「孫の悪行」に苦しめられた時代・・・
 孫の尻拭いに奔走し疲弊し苦悩していた
 「当春は、銭もなく、着物もなく、口を養うのみにて」
 とあり、肉体精神だけでなく
 生活も困窮していた・・・
  ↓↑
 『冨嶽三十六景 凱風快晴』・・・冨嶽=富岳=登美だけ
  富士山=(たけ)       嶽父=岳父・・・?
                 妻の父と母の呼称
                「嶽父・嶽母・嶽翁」
                 配偶者の父親のような
                 義理的な関係の上での
                 父親を指す
                 義父・舅、岳(嶽)翁
                 義理 上の 母親 は岳(嶽)母
                    ↓↑
                    饒速日命(ニギハヤヒ)
                    に関係する
                    嶽父=岳父・・・ダレ?
                    ?
                 別名 饒速日命=櫛玉饒速日命
                (にぎはやひのみこと=饒速日命)
                 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命
                 胆杵磯丹杵穂命・・・
                 ↓↑
                 の
                 配偶者 登美夜毘売・・・
                 別名
                 三炊屋媛、長髓媛、長髄媛
                 鳥見屋媛
                 登美夜毘賣・登美夜毘売
                 御炊屋媛・御炊屋姫
                 ↓↑
                 子 天香具山命
                   宇摩志麻遅命
                   熟穂屋姫命
                 ↓↑
                 兄は
                「長髄彦」
                 別名
                「登美能那賀須泥毘古」
                (とみのながすねびこ)
                「登美毘古」
                (とみびこ)
                 那賀須泥毘古
                「鳥見彦」・・・
                 の
                 主君は 「饒速日命」
                「饒速日命」の配偶者は
                「登美彦」の
                 妹   登美夜毘売
                 富 雄 丸山古墳から
                 登美彦=「楯型鏡・蛇行剣」の所有者
                 添下郡 鳥見郷
              (現生駒市北部・奈良市 富雄地方)
  ↓↑
 『冨嶽三十六景 駿州江尻』・・・冨嶽=富岳=登美だけ(たけ)
  富士山=不二         嶽父=岳父・・・登美彦?
  冨嶽=中島飛行機の大型重爆撃機
       「長髄彦」は
       「饒速日命(にぎはやひのみこと)に殺された?
       神武天皇が紀伊半島を迂回し
       長髄彦と再び対峙した頃には
       「饒速日命」既に死亡・・・?
       彼と「登美夜姫」の息子の
       「宇摩志麻遅命」が
       「登美彦」に対して
       神武天皇への
       帰順を諭しても聞かなかったため殺した
       「宇摩志麻遅命」が「登美彦」を殺した
              甥が 伯父 を殺した
       甥が「岳父」のような伯父の
                「登美彦」を殺した・・・
       「宇摩志麻遅命」は「饒速日命(ニギハヤヒ)」の子
       (うましまでのみこと)
       『先代旧事本紀』では
        味間見命
       (うましまみのみこと)
        ↓↑
       「可美真手命
       (うましまでのみこと)」
       「味間見命
       (うましまみのみこと)」
              富雄丸山古墳
              登美彦=「楯型鏡・蛇行剣」の所有者?
  ↓↑
 『冨嶽三十六景 尾州不二見原』・・・冨嶽=富岳=登美だけ(たけ)
  富士=不二             嶽父=岳父・・・登美彦
  冨嶽=中島飛行機の大型重爆撃機
                 饒速日命(ニギハヤヒ)の子
                「宇摩志麻遅命」が「登美彦」を殺した
                      甥 が 伯父 を殺した
                甥が「岳父」のような伯父の
                  「登美彦」を殺した・・・
              富雄丸山古墳
              登美彦=「楯型鏡・蛇行剣」の所有者?
 ↓↑

 ↓↑
 「画狂老人卍」時代
 『富嶽百景 鳥越の不二』
 天文方の観測施設
 浅草天文台を描いていた
 75歳
 天保五年(1834年)三月
 『富嶽百景』を上梓
 『富嶽百景』の巻末では
 「画狂老人卍」
 と号した初めて自跋を載せ
 これまでの半生とこれからの決意を語った
 「跋文発表」以降が北斎の最晩年・・・
 天保の大飢饉で
 休業状態となった版元たちを救済するため
 唐紙や半紙に絵を描き
 画帳にして販売することで
 糊口を凌いだ・・・
 『葛飾北斎伝』
 天保五年(1834年)冬ごろ~天保七七年
 相州浦賀に潜居
 「三浦屋八衛門」・・・三浦・・・「三浦按針」?
 を名乗って生活・・・
 実子が法を犯した可能性・・・説
 天保十年(1839年)
 火事によって当時暮らしていた
 達摩横丁の住居を焼け出され
 家財道具や商売道具のほとんどを失った
 徳利を打ち砕いて
 底を筆洗とし
 破片を絵皿として絵を描いた・・・
 『葛飾北斎伝』
 翌年には
 「房総」方面へ旅
 天保十五年(1844年)
 信州の門人
 「高井鴻山」
 に乞われて
 小布施へと向かい
 同地での
 天井絵制作に携わった
 最後の作品
 嘉永二年(1849年)
 『富士越龍図』
 絶筆とされる
 『富士越龍図』は
 他の北斎の絵に無い特徴を備え
 筆致や絵の画面配置などが
 娘の
 「葛飾応為」が描いた
 『夜桜美人図』に一致
 作品のほとんどを応為が手掛けた・・・
 嘉永二年(1849年)
 四月十八日
 暁七ツ時(午前4時ごろ)
 浅草聖天町遍照院の境内にあった長屋で身罷
 娘の
 「お栄=葛飾応為」
 によって葬儀、遺体は浅草の
 浄土宗
 誓教寺にて葬られた
 ↓↑

ー↓↑ーーーー
 葛飾 応為(かつしか おうい)・・・
    応=應=广+倠+心
  ↓↑
  應=応=广+心・・ 广+倠+心
  鷹(たか・ヨウ)=广+倠+鳥
           倠=亻+隹
           キ
          =みにくい・容姿が醜い
          鷹(オウ・ヨウ)≠贗(ガン・ゲン)
                  ≠譍(ヨウ)=噟
                   答える・応ずる
                   問いかけに対応する
          贗=厂+イ+鳥+貝
          鷹=厂+イ+隹+鳥
            ガン・雁=かり・・・贋=贋作
           =雁+鳥
            厂+イ+鳥
       異体字「鴈=厂+イ+鳥・鳫=厂+鳥」
       贗=鴈+貝=贋
           厂+亻+鳥+貝
         贋=雁+貝=贗
           厂+亻+隹+貝
 ↓↑
 葛飾北斎の三女
 応為 画号
 名  栄(えい)・お栄(阿栄・應栄)
    栄女(えいじょ)とも記録
 ↓↑
 葛飾応為 作品
 『月下砧打美人図』
 北斎には2人の息子
     3人の娘(一説に4人)
 3代目堤等琳の門人の
 「南沢等明」
 に嫁したが
 針仕事をほとんどせず
 父譲りの画才と性格から
 「等明」の描いた絵の
 稚拙さを笑ったため
 離縁された・・・
 出戻った応為は
 北斎の制作助手も務めた・・・
 「顎」・・・顎=あご=頤・頷・腮
     英虞(あご)⇔お栄(阿栄・應栄・・・?
 が出ていたため、北斎は「アゴ」と呼んだ
 80歳後半の北斎自筆の書簡でも
 「応為」を「腮の四角ナ女」と評した
 ↓↑
 初作
 文化七年(1810年)前後
 『狂歌国尽』の挿絵・・・
 美人画に優れ、北斎の肉筆美人画の代作をした
 北斎の春画においても
 彩色を担当・・・
 北斎は
 「美人画にかけては応為には敵わない
  彼女は妙々と描き
  よく画法に適っている」
 と語った・・・
 北斎に私淑していた
 「渓斎英泉」も、
 自著
 『旡名翁随筆』(天保四年(1833年)刊)
 の「葛飾為一系図」で
 「女子栄女、画を善す
  父に従いて今専ら絵師をなす
  名手なり」
 と評価
 応為は出戻って
 北斎晩年の20年近く同居・・・
 晩年は仏門に帰依
 安政二年~三年
 (1855年~1856年)
 加賀前田家に扶持されて
 金沢にて67歳で没した・・・or
 晩年北斎が招かれた
 小布施で亡くなった・・・
 「応為」の画号は
 北斎が娘を
 「オーイ」と呼んだので号としたとも
 北斎を
 「オーイ、オーイ親父ドノ」
 と大津絵節から取って呼んだから・・・説
 北斎の号の一つ「為一」にあやかり
 「為一に応ずる」の意を込めて
 「応為」と号したと・・・説
 性格
 男のような気質で任侠風を好んだ
 絵の他にも
 占いに凝ってみたり
 茯苓を飲んで
 女仙人になることに憧れてみたり
 小さな豆人形を作り売りだして
 小金を儲けるなどした
 北斎の弟子
 「露木為一」の証言では
 北斎に似ていたが
 煙草と酒を嗜んだ
 北斎の描いていた絵の上に
 吸っていた煙管から煙草の火種を落とし
 大変後悔して一旦禁煙したもの
 しばらくしてまた元に戻ってた・・・。
 ↓↑
 弟子
 商家や武家の娘などで
 家庭教師として訪問して絵を教えていた・・・
 露木が
 「先生に入門して長く画を書いているが
  まだうまく描けない」
 と嘆いていると、応為が笑って
 「おやじなんて
  子供の時から80幾つになるまで
  毎日描いているけれど
  この前なんか腕組みしたかと思うと
  猫一匹すら描けねえと
  涙ながして嘆いてるんだ。
  何事も自分が及ばないと
  いやになる時が上達する時なんだ」
 と言い、そばで聞いていた北斎も
 「まったくその通り、まったくその通り」
 と賛同・・・
  ↓↑
 「斎藤月岑」
 の日記によれば
 お栄は料理の支度をしたことがなく
 食事が終わると
 食器を片付けることなく放ったらかしにしている。
 この親子(北斎とお栄)は
 生魚をもらうと
 調理が面倒なため
 他者にあげてしまう、という。
 ↓↑

 ↓↑
 作品
 葛飾応為
 『月下砧打美人図』
 『吉原格子先之図』
 『三曲合奏図』
 誇張した明暗法と細密描写に優れた肉筆画が残る
 木版画
 弘化四年(1847年)刊行の絵本
 『絵入日用女重宝句』(高井蘭山作)
 嘉永元年(1848年)刊行
 『煎茶手引の種』(山本山主人作)
 所収の図のみ
 70歳近くまで生きた彼女の作品数が少なすぎることから
 「北斎作」とされる作品の中には
 応為の作もしくは北斎との共作が相当数ある・・・
 北斎80歳以降の落款をもつ肉筆画には
 彩色が若々しく、精緻に過ぎる作品がしばしば見られ
 こうした作品を
 「応為の代筆」とする意見もある・・・
 北斎筆とされる
 春画
 「絵本ついの雛形」
 を、応為の筆とする・・・説・・・
ーーーーー

(ユカリとオジさんの世迷い言・2)
古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)
http://web.archive.org/web/20080501061632/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/fanin/pura2/kojiki42.htm

 ↓↑   ↓↑
エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑

 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
 ↓↑
 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

 ↓↑
 モウ君の総合目次
 ↓↑
  コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬
 ↓↑
鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・

オジタリアンと「鉄腕あとむ」の「ポ

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ムスメの「ヨウボウ」がダレかに「ニテイル」・・・?

2023-11-27 12:32:56 | 古事記字源

 文字(言葉)の音訓発音と「多異義化の拡大」・・・
 11月22日水曜日・・・昨夜(癸亥)はK国ミサイル・・・
 日本大変、沖縄迷惑・・・天上界も迷惑至極・・・

 ↓↑  ↓↑
 2023 年 干支40 癸卯(甲・ ・乙)年・比肩
          三合乙
 11   月 干支60 癸亥(戊・甲・壬)月・比肩
          三合乙
 21   日 干支20癸未(丁・乙・己)日・比肩
 23  時 干支60癸亥(戊・甲・壬)時・比肩
 ↓↑  ↓↑
 2023 年 干支40 癸卯(甲・ ・乙)年・印綬
          三合乙
 11   月 干支60 癸亥(戊・甲・壬)月・印綬・偏印
          害
 22   日 干支21 甲申(己・壬・庚)日・比肩
 22  時 干支10 癸酉(庚・ ・辛)時・印綬
  ↓↑
 「文字(言葉)音訓の発音」
 と
 「意味」の「多異義化」の「拡大」
 と
 感染の「拡散」・・・?
 ↓↑
 見えない免疫物質
 サイトカイン (cytokine) ・・・
       サイトはカイン=アベル(Abel)の兄
        site=website・Cain・・・ site-Cain?
       アベル(Abel)の兄カイン(Cain)
       カインとアベルは
       アダムとイブが
       エデンの園を追われた後に
       生まれた兄弟
       カインは農耕
       アベルは羊の放牧
       を行う者となった
       神ヤハウェに
       カインは収穫物(穀物)
       アベルは肥えた羊の初子を
       捧げたが
       神はアベルを祝福(褒め)し
       カインの供物を無視した
       嫉妬した
       カインはアベルを殺した
      アベル=ヘブライ語
     「息吹」の意が
     「掴み所の無いもの」
     「儚(はかな)いもの」
      を意味するようになった
      カインは
      弟(おとうと・テイ)殺しの罪で
      エデンの東に追放され・・・鍛冶屋となった?
      カインの子孫・・・トバルカイン=鍛冶屋の始祖
      
 弟=弚+丿
   八+弔+丿
   丷+弔+丿
   八+弓+丨+丿
   丷+弓+丨+丿
   ダイ・デ・テイ
   おとうと
   兄弟の年が下の者
   でし・門人・ある師から教えを受ける人
   自分をへりくだって呼ぶことば
   順序・ついで=第
   ただ・それだけ
   ~のみ・限定の意
   したがう
   兄や目上の者に対して
   従順に仕える=悌
   弚=ハ+弔(とむらう)
     丷+弓+丨(棒)
     弔=タイ
     苦しむさま
     弔=チョウ・・・弔辞
       とむらう
       人の死を悲しみ
       遺族に悔みのことばを述べる
       あわれむ・同情する
       つるす・ぶら下げる=吊=つる
       さがる=下がる
   2015-10-16 23:10:27
   古事記字源
   「さがりぎ」・・・「佐賀(肥前)の理義」
   「佐賀等記」・・・
   「嵯峨の里の木」
   「性の理義」
   「作臥の裏義」・・・
   「さがら=相良・相楽・設樂」の「記」
   「下里義」・・・「懸けられる木」・・・
   「江藤新平」の無念
   相良(さがら・あいら)の木
   懸木(さがりぎ)
   乙訓の崖にさしかかり
   円野比売は崖から
   飛び降り自殺(垂仁天皇)
   丹波の王女四人が
   垂仁天皇に召され
   二人の姫は、
   みにくき故に帰された
   その一人の
   「円野姫」はそれを恥じて
   木の枝にかかって
   死のうとした
   その木を
   「さがりき」と言い
   地名を
   相楽(さがらか)とした(古事記)
   丹波の王女の
   「竹野姫」が容貌の醜さから
   帰されたことを恥じ
   荒神塚池で
   首をつろうとしたが死ねず
   平野で自殺
   平野の人々が姫を運び
   この地に葬ったので
   この地を
   姫子という
   荒神塚
   姫子橋
   竹野姫の自害した地を、
   「墜国(おちくに)」と名づけ、
   「弟国(おとくに)」となった
   地名の「乙訓」・・・
   ↓↑
   聖書(Bible)創世記
   カイン(兄)
   アベル (弟)
   セト (弟)
   ルルワ (双子の妹)
   アワン (妹)
   アズラ (妹)
   ↓↑
 トバルカイン(Tubal-cain)
 アダムより数えて
 7代目の子孫
 レメク・・・・・・・・・・・例每句?
 と
 「チラ=ツィラ」の子
 初めて
 鉄や銅の刃物を鍛えた鍛冶の始祖
 「チラ=ツィラ」・・・・・知覶=對羅(等)?
            對馬?
 トバルカインを生り・・・鳥羽留化音?
       三重・志摩(しま)伊勢
 トバルカインの妹を
 ナアマ・・・名海女(阿毎)
 ↓↑
 カインが嫉妬から
 弟アベルを殺して追放され
 エデンの東方
 ノドの地に住み
 妻を娶って子
 エノクをもうけた
 カインは邑を建て
 子供の名を取って「エノク」と名付けた
 カインの子孫が栄え
 六代を経て
 トバルカインは
 レメク
 と
 チラ
 の間に生れた
 ↓↑
 レメクは二人の妻を娶り
 一人目の
 アダとの間に・・・アダ=仇・婀娜・冦・寇
 兄ヤバル・・・・・耶馬留
 弟ユバル・・・・・湯原・遊馬留
 を生み
 二人目のチラとの間に
 兄トバルカイン・・・鳥羽留化音
 妹ナアマ・・・・・・名海女(尼)
 を生んだ
 三人は人間の技芸の祖
 ヤバルは初めて天幕に住み
 牧畜の祖先
 ユバルは琴と笛をとる
 音楽家、芸人の祖先
 トバルカインは刃物を鍛える
 鍛冶の祖先となった
 ↓↑
 カインを殺す者は七倍の復讐を受ける
 「レメク」はその妻たちに言った
 「アダとチラ(ツィラ)よ
  わたしの声を聞け
  レメクの妻たちよ
  わたしの言葉に耳を傾けよ
  わたしは受ける傷のために
  人を殺し
  受ける打ち傷のために
  わたしは若者を殺す
  カインのための復讐が
  七倍ならば
  レメクのための復讐は
  七十七倍」
 「カインのための復讐が七倍ならば
  レメクのための復讐は七十七倍」
 77÷7=11・?・・・1+1=2・・・二=爾・邇
 7x7=49・・?・・・4+9=13・・・壹拾參
 復讐(仇宗)を受ける
 七(漆)懸ける七(漆)=四拾九葉意の
 「復習・福州・附句収」・・・?
ーーーーー
 ・・・???・・・
 ボクには:論文解読理解は難しい・・・
 ↓↑
 細胞から分泌される
 低分子のタンパク(蛋白)質で
 生理活性物質の総称
 生理活性蛋白質とも呼ばれ
 細胞間相互作用に関与し
 周囲の細胞に影響を与える
 放出する細胞によって作用は変わるが
 詳細な働きは解明途中である・・・
 解明途中=詳細不明=中途半端な理解度・・・
 サイトカイン
 ケモカイン、インターフェロン、インターロイキン、リンホカイン
 腫瘍壊死因子が含まれ
 エリスロポエチンのように多少の用語上の重複があるものの
 一般的にはホルモンと成長因子は含まれない
 サイトカインは多様な細胞により産生され
 マクロファージ、Bリンパ球、Tリンパ球、肥満細胞
 といった免疫細胞のほかに
 内皮細胞、線維芽細胞、各種の間葉系細胞をも含む
 ある1つのサイトカインが
 多種類の細胞により産生されることがありうる・・・
 ↓↑
 「サイトカイン (cytokine)」 ≠「サイトカイニン (cytokinin) 」
 ↓↑
 サイトカイニン (cytokinin)
 植物ホルモンの一種
 一般に オーキシン存在下で細胞分裂
 シュート形成の誘導効果をもつ化合物一群の総称
 略称 「CK」・・・China & kooria・・・???
 ↓↑
 by フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 ↓↑
 体には
 感染に対するさまざまな防御機構
 病原体が体内に入ると働き始める
 時期の早いものから
 バリア障壁
 インターフェロン
 自然免疫
 獲得免疫
 免疫記憶
 ↓↑
 粘膜の
 上皮細胞
 皮膚の角化細胞が
 りシールされ、病原体を侵入を防ぎ
 粘膜組織は
 粘液を分泌して病原体を洗い流す
 痰(タン)
 唾液
 涙
 も、病原体を洗い流す
 嚏(くしゃみや・嚔)
 咳
 も
 肺に入りそうな
 病原体を吐き出す
 バリア障壁
 主に免疫細胞が出す
 「サイトカイン」
 というタンパク質によって制御
 サイトは「細胞」
 カインは「作用する物質」
 サイトカイン=細胞間情報伝達分子の総称
        免疫細胞が出すタンパク質
 ↓↑
 インターロイキン22
 IL-22
 細胞間のシールを強化
 細胞から抗菌作用のある分子を分泌
 インターロイキン13
 IL-13
 粘液を製造
 インター=「間」
 ロイキン=「白血球由来」
 「インターロイキン22=IL-22」
 に
 発見者がそれぞれに
 「生理機能」をもとに
 名前を付けたため混乱・・・コムランです・・・
 ↓↑
 インターロイキン6
 IL-6
 B細胞分化因子
 B細胞増殖因子
 インターフェロンβ2
 肝細胞刺激因子
 ・・・と多くの名前が付けられが
 すべて同じものである
 インターロイキン=多様な生理機能を持つ
 各「生理機能」
 が発見された順に数字を振って
 「インターロイキン-X」(Xは数字)とし
 40くらいまで整理されている
 ↓↑
 インターロイキン 
 インターは「間」
 ロイキンは「白血球由来」
 免疫細胞が産生する生理活性物質
 多様な生理機能を持つ
 「サイトカイン」のひとつで
 インターロイキン
 インターフェロン(IFN)
 赤血球をつくる
 エリスロポエチン(EPO)
 成長ホルモン
 細胞を呼び集める
 ケモカイン
 など、さまざまなものが含まれる
 ↓↑
 インターフェロンが
 ウイルスに負けない細胞をつくる
 バリア障壁でいくら侵入を阻止しても
 ウイルスが気道や肺の
 上皮細胞にくっついて
 細胞内に潜り込んでしまう
 最初の防御が
 サイトカインの一種
 「インターフェロン」
 ウイルスが細胞内に
 潜り込んだことを感知すると
 インターフェロン
 をつくって細胞の外に放出
 周りの細胞に警告
 インターフェロンは
 感染していない細胞に作用し
 細胞を「ウイルス抵抗状態」にする
 生物の遺伝情報は
 DNA上に書き込まれており
 DNAが複製することで
 子孫に遺伝情報を伝える
 DNAを鋳型にして
 RNAがつくられ(転写)
 RNAの情報をもとに
 タンパク質がつくられる(翻訳)
 生命現象が
 具現化される
 ↓↑
 コロナウイルス
 が細胞内に侵入すると
 ウイルスのRNAの複製が始まる
 RNAの情報をもとに
 ウイルスを構成する
 タンパク(蛋白)質がつくられる
 複製されたRNA
 と
 つくられたタンパク(蛋白)質が結合し
 新しいウイルスが次々と組み立てられ
 増殖したウイルスは
 細胞外に放出され
 別の細胞に侵入
 ↓↑
 ウイルスに感染すると
 感染細胞から放出された
 インターフェロンによって
 周りの細胞の中では
 RNAを分解する酵素や
 ウイルスを構成するタンパク質の合成を
 抑制する因子などが誘導され
 ウイルス抵抗状態の細胞に潜り込んでも
 ウイルスは増殖できず感染を抑える
 ↓↑
 インターフェロンは
 新型コロナウイルスに感染した場合に
 重症になるか軽症で済むかに
 関わる重要な因子で
 インターフェロン
 に関連する複数の遺伝子に違いがある
 ↓↑
 重症化と相関がある遺伝子
 ABO血液型を決める遺伝子
 O型の人は
 血液型の人より重症化しにくい
 ↓↑
 インターフェロンに対する抗体で重症化
 重症化した人では
 インターフェロン
 に対する抗体ができる例が多い
 自分自身の分子に対する抗体を
 「自己抗体」と呼ぶ
 ↓↑
 インターフェロン
 に対する自己抗体ができると
 インターフェロンの作用が
 阻害され
 重症化するリスクが高くなる
 インターフェロンは
 感染初期における防御として重要
 ↓↑
 インターフェロン=サイトカイン
 「ウイルス抑制因子」と命名
 イギリスの研究者が
 ウイルスの増殖に
 「干渉(Interference)」
 することから
 「インターフェロン」
 と名付けられ
 世界的に広まり定着
 ↓↑
 インターフェロンの遺伝子を
 世界に先駆けたのは
 「谷口 維紹(ただつぐ)」博士
 「長田 重一」博士
 らの成果をもとに
 遺伝子組み換え
 インターフェロンが実現し
 C型慢性肝炎の治療薬として使用
 ↓↑
 細胞がウイルスの侵入を感知し
 インターフェロン
 をつくらせる
 ウイルスセンサーとして働く
 RIG-1
 というタンパク質を発見したのは
 藤田尚志博士
 ↓↑
 インターフェロン
 ウイルスの増殖に
 「干渉(Interference)」
 することから
 「interferon」と名付けられた
 病原体(ウイルス)などの増殖を
 抑制する
 「サイトカイン」のひとつ
 ↓↑
 インターフェロン
 感染していない細胞を
 ウイルス抵抗状態にして防御し
 免疫系の多くの細胞に作用して
 さまざまな病気にも関係する
 自己免疫疾患で
 全身性エリテマトーデスなどで
 インターフェロンが
 慢性的に作用し続けることで
 悪化し
 インターフェロン
 の作用を阻害する
 モノクローナル抗体が
 治療に使われている
 ↓↑
 サイトカイン
 広い意味で
 インスリンなどの
 内分泌性ホルモンも含むが
 狭い意味では
 免疫応答に関与する
 インターフェロン(IFN)
 インターロイキン(IL)
 などを指し
 100個以上存在する
 ↓↑
 サイトカイン
 マクロファージ
 などの
 自然免疫系細胞から
 産生される
 炎症性サイトカイン
 ヘルパーT細胞
 などの獲得免疫系細胞から
 産生され
 T細胞サイトカインに分かれる
 加えて
 赤血球をつくる
 エリスロポエチン(EPO)
 白血球をつくる
 顆粒球コロニー刺激因子(G-CSF)
 など造血に関係する
 サイトカイン(造血因子)もある
 ↓↑
 T細胞サイトカイン
 排除すべき相手で
 1型ヘルパーT細胞(Th1細胞)
 2型ヘルパーT細胞(Th2細胞)
 17型ヘルパーT細胞(Th17細胞)
 が産生するサイトカインで
 それぞれ
 病原体の種類に応じた
 異なる免疫細胞を活性化し
 目的の病原体を排除する
 ↓↑
 炎症性サイトカインが
 過剰に分泌されると
 「がん(癌)・老化・脳機能」
 に影響作用する
 ↓↑
 原文は本日(2023/11/22)の
 インターネット・ニュース
 「現代ビジネス
  吉村 昭彦 の意見」
 からの検索記事から
 参考参照抜粋・・・でした・・・
ーーーーー

(ユカリとオジさんの世迷い言・2)
古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)
http://web.archive.org/web/20080501061632/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/fanin/pura2/kojiki42.htm

 ↓↑   ↓↑
エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑

 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
 ↓↑
 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

 ↓↑
 モウ君の総合目次
 ↓↑
  コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬
 ↓↑
鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・

オジタリアンと「鉄腕あとむ」の「ポ

コメント
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隅田銅鏡・・・隅=阝+禺・鏡背「48字」金石文?

2023-11-26 22:45:44 | 古事記字源

 オンナの敵は銅鏡の中
 白雪姫の義母は
 銅鏡の水銀(辰砂)の
 表に写る自分の顔を
 覗き込んでも
 裏の文字は読まない・・・?
 オトコの敵も己=私=ム
 ↓↑
 鏡の裏を視る女・・・「鏡の王女」・・・鎌足の正妻?
 ↓↑
 443年
 干支  癸未
 日本  允恭天皇32年
     皇紀1103年
 中国
 宋   元嘉20年
 北魏  太平真君4年
 北涼  承平元年
 朝鮮
 高句麗 長寿王31年
 百済  毗有王17年
 新羅  訥祇王27年
 ↓↑
 503年
 干支  癸未
 日本  武烈天皇5年
     皇紀1163年
 中国
 梁   天監2年
 北魏  景明4年
 朝鮮
 高句麗 文咨明王13年
 百済  武寧王3年
 新羅 智証王4年
 ↓↑
 563年
 干支  癸未
 日本  欽明天皇24年
     皇紀1223年
 中国
 陳   天嘉4年
 後梁  天保2年
 北斉  河清2年
 北周  保定3年
 朝鮮
 高句麗 平原王5年
 百済  威徳王10年
 新羅  真興王24年
     開国13年
 ↓↑
 623年
 干支  癸未
 日本  推古天皇31年
     皇紀1283年
 中国
 唐   武徳6年
 朝鮮
 高句麗 栄留王6年
 百済  武王24年
 新羅  真平王45年
     建福40年
 新羅が任那を討つ
 倭、軍を任那に遣わし、新羅を討つ
 誕生
 武則天、唐の高宗の皇后(~705年)
 文成公主、唐の皇女
 吐蕃のソンツェン・ガンポ王の第2皇后(~680年)
 死去
 3月31日(推古天皇31年2月22日)
 恵慈、飛鳥時代の高句麗からの渡来僧
 麴伯雅、高昌国の王
 吉蔵、中国の六朝時代、唐代の僧(549年~)
 徐円朗、隋、唐の民衆叛乱の指導者
 吉蔵、隋の政治家(542年~)
 平陽昭公主、唐の高祖李淵の三女
 劉黒闥、唐の民衆叛乱の指導者
 ↓↑
 683年
 干支 : 癸未
 日本
 天武天皇12年
 皇紀1343年
 中国
 唐 : 永淳2年、弘道元年
 3月4日(天武天皇12年2月1日)
 大津皇子、朝政を聴く
 4月3日(天武天皇12年3月2日)
 僧に関する制度を制定、僧正・僧都・律師の位が設けられる
 5月16日(天武天皇12年4月15日)
 銀銭を廃止し銅銭の使用を命じる(富本銭)
 5月19日(天武天皇12年4月18日)
 銀銭の使用を止めないよう命じる
 誕生
 一行、唐の僧、天文学者(~727年)
 キルデベルト3世、メロヴィング朝の第10代国王(~711年)
 文武天皇、第42代天皇(~707年)
 李重潤、唐の皇族(~701年)
 死去
 7月2日(天武天皇12年6月3日)
 大伴馬来田、飛鳥時代の人物
 7月5日(天武天皇12年6月6日)
 高坂王、飛鳥時代の皇族
 8月2日(天武天皇12年7月5日)
 癸未
 己未
 庚寅
 鏡王女、藤原鎌足の正妻、歌人・・・「鏡の王の女」
 9月1日(天武天皇12年8月5日)
 大伴吹負、飛鳥時代の人物
 12月27日(弘道元年12月4日)
 高宗、唐の第3代皇帝(628年~)
 薛仁貴、唐の軍人(614年~)
 ヤズィード1世、ウマイヤ朝の第2代カリフ(645年~)
 李謹行、靺鞨の首長(619年~)
 パカル大王、パレンケ王(603年~)
 ↓↑   ↓↑

 隅田銅鏡、鏡背「48字」金石文・・・?
  隅田銅鏡・・・隅=阝+禺
  ↓↑
  隅=阝+禺
   阝+甲+禸(ジュウ・獣の足跡)
   阝+甲+冂+ム
   グウ
   すみ
   かたすみ・かど
 ↓↑
 禺=禸部(ぐうのあし・じゅう・じゅうのあし)
   グ・グウ
   おながざる・獣の名
   わかち・区別・区域

 ↓↑
 隅=阝+禺・・・大隈重信・隅田川・墨東奇譚
 偶・・・偶数・土偶・偶然
 遇・・・遭遇
 寓・・・龍寓(宮)・龍宮城・乙姫様・浦島太郎・亀
 嵎=山+禺
 萬・・・太安萬(万)侶・古事記・乞食
 㥥=忄+禺
 喁=口+禺
 堣=土+禺
 媀=グウ・グ・ゴウ
   女性が男性に嫉妬
 庽=广+禺
 湡=氵+禺
 䦸=門+禺
 愚・・・愚連隊・愚図
 腢=月+禺
 㬂=日+禺
 㷒=火+禺
 㻦=王+禺
 禑=示+禺
 㼴=禺+瓦
 耦=耒+禺
 歶=此+禺
   止+匕+禺
   喪車(ソウシャ・霊柩車)を覆(おお)う布
 䚤=角+禺
 鍝=金+禺
 顒=禺+頁=ギョウ
   大きな頭・頭が大きいさま
   穏やか・温和なさま・落ち着いているさま。
   仰ぎ慕う・つつしみ敬う
 髃=骨+禺
 鰅=魚+禺
 齵=齒+禺
   止+凵+从+一+从+禺
   止+凵+人+一+禺
   グ・ゴウ
   歯が一度抜け落ちて再生すること
   八重歯(やえば)
   歯並みが揃っていない・歯並びが悪い
 ↓↑
 地名
 大隅(おおすみ)
 大隅町荒谷(おおすみちょうあらたに)
 大隅町荒谷荒谷(おおすみちょうあらたにあらたに)
 大隅町荒谷大迫(おおすみちょうあらたにおおさこ)
 大隅町荒谷中大迫(おおすみちょうあらたになかおおさこ)
 ↓↑
 名字
 阿隅=あすみ
 有隅=ありすみ=ありずみ
 石隅=いしすみ=いしずみ
 井隅=いすみ
 夷隅=いすみ
 ↓↑
 一隅(イチグウ)
 片隅(かたすみ)
 隅(すみ)
 隅隅(すみずみ)
 隅っこ(すみっこ)
 四隅(よすみ)
 隅一(すみいち)
 ↓↑
 小楊枝で重箱の隅をほじくる
 重箱の隅は杓子で払え
 重箱の隅を突つっつく
 重箱の隅を楊枝でほじくる
 隅から隅まで
 隅に置けない
 楊枝で重箱の隅をつつく
 楊枝で重箱の隅をほじくる
 ↓↑
 参照、参考原文は by「ウイッキペデア」・・・
 ↓↑

 隅田八幡神社人物画像鏡
 (すだはちまんじんじゃじんぶつがぞうきょう)
 和歌山県
 橋本市
  隅田八幡神社所蔵
  5世紀 ~ 6世紀 頃製作の 銅鏡
 鏡背に48字の 金石文
 ↓↑
 癸未年・・・西暦443年or503年
 八月
 日・・・・・・・曰(いわ)く
 十・・・・・・・十=たり=足=拾
 大王
 年
 男
 弟王・・・・・・弟=おと・・・男の弟王・・・大王=女?
 在意
 柴沙加(おしさか)宮・・・柴=しば・サイ・ゼ
 時
 斯麻・・・・・志摩・㠀・嶌・シマ・島・嶋・司馬
 念
 長寿
 遣
 開中費直(かわちのあたい)
  (河内直、『百済本記』云、加不至(カフチ))
   ・・・・開⇔歸・・・中費直?
       中
       費=ヒ・ついやす・ついえる
         かかり・ものいり
         さからう・もとる
         消費・費用
       弗=弓+ノ+丨
         フツ
         ホツ
         ず
         ドル=アメリカ貨幣単位
         「~ず」
         「~しない・~でない」
         と否定の意を表す
       直=ジキ・チョク・チ
         ただちに
         なおす
         なおる
         あたい
         じか
         すぐ
         ひた
         正しい・曲がっていない
         すなお・まっすぐ・なおい
         なおす・なおる・正す・のばす
         あたる・番にあたる・事にあたる
         ただ・ただちに・すぐに
         じかに・間に何もなく
         人や物を介さずに
         ね・あたい・値打ち・値段・価格
         あたいする・価値がある・値打ちがある
         なおす・なおる・元の状態になる
         ひた・ひたすら・ひたむき・ただ
 穢人(わいじん・濊人)
 今州利(コンスリ・錦州里)
 二人等
 取
 白上
 同二百旱
 作
 此竟(鏡)
 ↓↑
 443年説
 倭王済
 宋に使者派遣
 「安東将軍倭国王」称号
 大王=允恭天皇
 意柴沙加宮(おしさかのみや)
 皇后
 忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ、雄略天皇母)
 の宮処
 男弟王は不詳
 「日十大王=日下大王」
 と読み
 「大草香皇子(454年没)」
 万葉集の註に
 「日下」を「早」と書いた例がある
 「日十」を「早」の一文字・・・説
 「日十」は「草」の簡体字・・・説
 忍坂大中姫に
 意富富杼王(おおほどのおおきみ)
 の兄弟
 継体天皇の諱
 「乎富等、袁本杼(ヲホド)」
 「男弟(ヲオト)」とは一致しない

 ↓↑ 
 503年説
 「日十大王=ヲシ大王」と読み
 『書紀』がその名を
 「大石=大脚」とする
 仁賢天皇であるとし
 「孚弟王=フト王=ホド王」
 と訓じ
 「袁本杼(おほど)=彦太(びこふと)」
 とある継体天皇に比定・・・説
 諱に「斯麻」を持つ
 百済の武寧王(在位:502年~523年)
 鏡の作者「斯麻」を武寧王と推定
 1971年に発見された
 百済武寧王の墓誌にも
 「斯麻王」と確認
 男弟王を即位前の継体天皇と解釈・・・
 『日本書紀』
 「磐余玉穂宮」(526年遷宮)の前に
 「忍坂宮」のある大和国に入っていたこととなり
 記述と矛盾し
 即位後19年間
 大和に入れなかったとする説は成り立たなくなる
 即位前の継体天皇は
 大王の後継者として
 大和政権の中枢部におり
 大和忍坂に拠点をかまえて
 対百済外交を担当していた・・・
 雄略天皇没後
 顕宗、仁賢系の王統と
 継体系の王統(皇統)が並立・・・
 継体と手白香皇女
 安閑と春日山田皇女
 宣化と橘仲皇女の婚姻により
 両王統が統合を果たしていった・・・?
 ↓↑ 
 帰=リ+帚
   リ+彐+冖+巾
   キ
   かえす(帰す)
   かえる(帰る)
   おくる(贈る)
   とつぐ(嫁ぐ)
   かえる
   もどる(戻る)・もとの所にもどる
   かえす(返す)・もどす・もとの所にもどす
   物事が最終的に落ち着く・おさまる
   嫁にいく・女性が結婚する
   品物を贈る
   同音漢字
   かえる=蛙・孵・替・変・代・返・還・換
   異体字
   「歸=皈=㱕=归=䢜」
   帚(ほうき)=菷(ははき)
   α+帚
   掃=扌+帚=扫=はく・掃討・掃除・・・相似
     掃き溜めに鶴
     「掃」を含む四字熟語
     校書掃塵(コウショソウジン)
     灑(洒)掃応対(サイソウオウタイ)
     灑(洒)掃薪水(サイソウシンスイ)
     杜門却掃(トモンキャクソウ)
     斗量帚掃(トエヨウソウソウ)
   埽=土+帚=掃
   婦=女+帚=婦人
   㴆=氵+帚=水に浸(ひた)る・水に浸(つ)かる
        =浸・浸水
         𡩻・㴆・𥧲・𩅕
   㷌=火+帚=
   㫶=日+帚=シュウ・あきらか=明
   䢜=辶+帚=帰・歸・皈・㱕・归
   㱕=止+帚=帰
   㑴=イ+帚=侵略・侵入
   箒=竹+帚=ほうき・ソウ・シュウ
   濅=氵+宀+帚=𡩻・㴆・𥧲・𩅕
   薓=艹+氵+帚=箒・帚
   歸=𠂤+止+帚=帰
   鯞=魚+帚=シュウ
         鱖鯞(ケッシュウ)
         ばらたなご・コイ科の淡水魚
   蘬=艹+𠂤+止+帚=掃
   巋=山+𠂤+止+帚=キ・巋山=𡿢・岿
     山が高く大きいさま
     巋然(キゼン)一つだけ高く突き出ている山
     小さな山が連なっているさま
   㝲=宀+爿+艹+帚=寝=寢
     宀+爿+艹+罒+冖+彐+巾
     シン・ねる・ねかす・ねむる・横になる
     みたまや=祖先の霊をまつる建物=廟陵
     みにくい(醜い)・姿や態度などがよくない
     やめる
     とりやめる・中止する
     へや・奥座敷
 ↓↑   ↓↑
   草箒・草帚(くさぼうき)
   帚木・箒木(ははきぎ)
   帚・箒(ほうき)
   斗量帚掃(トリョウソウソウ)
   弊帚千金(ヘイソウセンキン)
 ↓↑ 
 蓋鹵=かすり・・・鹵=鹽=塩=しお・ロ・・・纃・綛
        淵蓋蘇文 (えん がいそぶん)
        ?~ 666年( 宝蔵王二十五年)
          663年=白村江の戦い
          天智二年八月(663年10月)
          朝鮮半島の白村江(錦江河口付近)・・・
          錦江・・・
        高句麗 末期の
        大莫離支(テマクリジ・宰相)・将軍
        淵蓋蘇文 (えん がいそぶん)
        泉蓋蘇文=泉蓋金
            =伊梨柯須彌(いりかすみ)
            =伊梨柯須弥(いりかすみ)
            = 蓋金  
        鹵獲(ロカク)・鹵簿(ロボ)
        鹵≠歯(は・シ)・・・歯医者・歯科・尚歯会
 相模=さがみ・・・佐賀美・相神・佐上
        模擬・模倣・・・摸・摸倣
 對馬=つしま・・・都万=つま=嬬・妻・・・吾妻・吾嬬
 群馬=くるま・・・久留米

 ↓↑ 
 曰理=わたり・・・・曰=いわくの理(リ・ことわり)・エツ⇔日
 邑曰=おほわち・・・曰=邑(ユウ・むら・みやこ)のいわく・エツ⇔日
 ↓↑   ↓↑
 白雉二年(651年)
 左大臣
 巨勢
 「徳陀子」が
 「中大兄皇子(天智天皇)」
 に新羅征討を進言したが、却下、不採用
 白雉四年(653年)・白雉五年(654年)
 遣唐使派遣
 ↓↑ 
 斉明天皇
 越国守
 「阿倍比羅夫」
 658年(斉明天皇四年)4月
 659年(斉明天皇五年)3月
 蝦夷討伐
 660年(斉明天皇六年)3月
 粛慎の討伐
 ↓↑ 
 660年
 百済が唐軍(新羅)に敗北、滅亡
 660年(斉明天皇六年)3月
 唐の
 「蘇定方」
 を神丘道行軍大総管に任命し
 「劉伯英」
 将軍に水陸13万の軍を率いさせ
 新羅軍も従軍し
 水陸二方面作戦でて百済へ侵攻
 ↓↑ 
 獄死した
 佐平の
 「成忠(セイチュウ)」は
 陸の
 炭峴(大田広域市西の峠)
 海の
 白村江の防衛を進言
 百済
 「義慈王」はこれを却下、不採用
 「古馬弥知(こまみち)」県に流刑されていた
 佐平の
 「興首(コウシュ)」
 も同様の作戦を進言していたが
 王や官僚はこれを流罪にされた恨みで
 誤った作戦を進言したとして
 唐軍が炭峴と白江を通過したのちに
 迎撃すべきと進言したが
 唐軍はすでに炭峴と白江を超えて侵入していた
  ↓↑ 
 「黄山の戦い」
 百済の将軍
 「階伯」
 の決死隊5000兵が3つの陣を構えて待ちぶせ
 新羅は太子
 「金法敏(文武王)」
 「金欽純(キンキンジュン)」将軍
 「金品日(キンヒンジツ)将軍
 らが黄山を突破しようとしたが、百済軍は防衛
 7月9日
 「黄山の戦い」で
 「階伯」ら
 百済軍は新羅軍をはばんだが戦死
 新羅軍にも多大な損害を受け
 唐との合流の約束期日
 7月10日に遅れ
 唐の蘇定方は
 新羅の
 「金文穎」
 を斬ろうとしたが
 咎を受けるのであれば唐と戦うと言い放ち
 「蘇定方」の部下が取り成し許された
 ↓↑ 
 唐軍は
 「熊津口」の防衛線を破り百済王都に迫った
 7月12日
 唐軍は王都を包囲
 7月13日
 「義慈王」は
 「熊津城」に逃亡
 太子
 「隆」が降伏
 7月18日
 「義慈王」が降伏
 ↓↑ 
 660年(斉明天皇六年)8月
 百済滅亡後
 唐は百済の旧領を
 「羈縻」支配の下に置き
 唐の
 「劉仁願」将軍は
 王都泗沘城を守備
 「王文度(オウブンタク)」
 を熊津都督として派遣
 戦勝記念碑
 「大唐平百済国碑銘」を建て
 滅亡百済を
 「外には直臣を棄て
  内には妖婦を信じ
  刑罰の及ぶところただ忠良にあり」
 と彫られた
 大唐平百済国碑銘
 (扶餘郡の定林寺の五重石塔)
 ↓↑ 
 唐の戦略
 高句麗征伐
 百済討伐はその障害要因の除去で
 唐軍は高句麗に侵攻
 百済遺民
 「鬼室福信」
 「黒歯常之」
 らによる百済復興運動
 8月2日
 百済残党が小規模の反撃
 8月26日
 新羅軍から
 任存(ニンゾン・忠南礼山郡大興面)を防衛
 9月3日
 唐の
 「劉仁願」将軍が
 泗沘城に駐屯
 百済残党が侵入を繰り返したが
 撃退され
 泗沘の南の山に
 4、5個の柵をつくり、駐屯し、侵入を繰り返した
 百済遺民に呼応し
 20余城が百済復興運動に応じた
 熊津都督
 「王文度」
 は着任後に急死
 ↓↑ 
 新羅軍が百済残党の掃討
 10月9日
 ニレ城を攻撃
 18日
 攻略すると
 百済の20余城は降伏
 10月30日
 泗沘の南の山の
 百済駐屯軍を殲滅し
 1500人を斬首
 百済遺臣
 西武恩卒
 「鬼室福信」
 「黒歯常之」
 「僧道琛
 らの任存城や
 達率
 「余自信」
 の周留城などが抵抗
 ↓↑ 
 百済の遺臣
 「鬼室福信」
 「黒歯常之」
 らが百済復興の兵をあげ
 倭国に滞在の百済王の太子
 「豊璋」を擁立し
 倭国に救援を要請
 ↓↑ 
 661年
 斉明天皇
 九州へ出兵するも
 「那の津」で急死
 「中大兄皇子」は
 「朴市秦造田来津(造船の責任者)」
 を司令官に任命して全面的に支援
 倭国軍は三派に分かれ
 朝鮮半島南部に上陸
 百済内部の混乱
 「道琛」は
 「鬼室福信」によって殺害され
 「鬼室福信」は豊璋によって殺害された

 ↓↑ 
 白村江の戦
 唐水軍 7,000名、170余隻
 指揮官 「劉仁軌」、「杜爽」
     元百済太子の
     「扶余隆」

 唐陸軍
 陸軍指揮官 「孫仁師」、「劉仁願」
       新羅王の
       「金法敏(文武王)」
 倭国軍
 第一派 1万余人、船舶170余隻
 指揮官 「安曇比羅夫」、「狭井檳榔」
     「朴市秦造田来津」
 第二派 2万7千人
 指揮官 「上毛野君稚子」、「巨勢神前臣譯語」
     「阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)」
 第三派 1万余人
 指揮官 「廬原君臣(いおはらのきみおみ)」
     (廬原国造の子孫
      静岡県静岡市清水区が本拠地)
 661年5月
 第一派 倭国軍出発
 指揮官 「安曇比羅夫」、「狭井檳榔」
     「朴市 秦造 田来津」
     「豊璋王」を護送する先遣隊
     船舶170余隻
     兵力1万余人
     10000÷170=58.8・・・
      一隻におよそ「59人」が乗れる船
 662年3月
 第二派 倭国軍出発
 指揮官 「上毛野君 稚子」
     「巨勢 神前 臣 譯語」・・・譯語(おさ)?
     「阿倍 比羅夫(阿倍 引田 比羅夫)」
 ↓↑ 
 663年(天智二年)
 「豊璋王」は
 「鬼室福信」と対立し
 「惨殺・塩漬け」
 倭国の援軍と百済復興軍は
 百済南部に侵入した新羅軍を駆逐
 ↓↑ 
 唐は
 「劉仁軌」率いる水軍7、000名を派遣
 陸上部隊 「孫仁師」、「劉仁願」
      新羅王「金法敏(文武王)」
 水軍   「劉仁軌」、「杜爽」
      元百済太子の「扶余隆」
      率いる170余隻
 「熊津江」に沿って下り
 「陸上部隊」と会合して倭国軍を挟撃
 ↓↑ 
 海戦
 倭国軍は三軍編成をとり4度攻撃
 火計、干潮の時間差などにより
 663年8月28日
 唐・新羅水軍に大敗
 ↓↑ 
 陸戦
 唐・新羅の軍は
 倭国・百済の軍を撃破
 ↓↑ 
 白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち
         400隻余りが炎上
 九州豪族
 筑紫君
 「薩夜麻」
 「土師富杼」
 「氷老」
 「大伴部博麻」
 が唐軍の捕虜となり
 8年間も唐に抑留され帰国
 倭国軍、百済遺民を船に乗せ帰国
 ↓↑ 
 豊璋は城兵らを見捨てて
 周留城から脱出し
 8月13日
 倭軍に合流したが
 敗色が濃くなると
 数人の従者と共に
 高句麗に亡命・・・
 ↓↑ 
ーーーーー

(ユカリとオジさんの世迷い言・2)
古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)
http://web.archive.org/web/20080501061632/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/fanin/pura2/kojiki42.htm

 ↓↑   ↓↑
エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
  ↓↑   ↓↑

 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・

 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
 ↓↑
 メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?

 ↓↑
 モウ君の総合目次
 ↓↑
  コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
 ↓↑
 古事記と虎関師錬
 ↓↑
鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・

オジタリアンと「鉄腕あとむ」の「ポ

 

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