Bow and arrow?
挙げよフライド椰子(flying Palm)? ピック. pique ・伊語で槍
パルマエ (Palmae) 、羅語 palma(パルマ・掌・シュロ)
↓↑ ↓↑
名も知らぬ遠き島より
流れよる椰子の実一つ
故郷の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月・・・島崎藤村 作詞 ・ 大中寅二 作曲

↓↑
ラグビーフットボールの形態
ポリネシア人が
椰子(ヤシ)の実を
ボール代わりにしていた
↓↑
1936年8月1日~8月16日・・・1+9+3+6+8+1=28・・・2+8=10・・・
まえはた・・・凄かった・・・
ベルリン-オリンピック
Games of the XI Olympiad
昭和十一年・・・・・・・・・十+一
第11回オリンピック・・・・11
ーーーーー

ラグビーフットボール (Rugby football)
凄かった!!・・・ラグビー(9/22)・・・集団格闘技・・・?
↓↑
アイルランドがスコットランドに27-3で快勝
(アイルランド)27 VS 3(スコットランド)
↓↑
スコットランド(Scotland)・・・須古通訳等務土?
↓↑ スコットランド民謡
蛍の光(Auld Lang Syne)
アンニーローリー
チャーリー
アフトン川
ロビンアデア
美しい牧場の堤
肩を並べて
わたしのボニー
100人の笛吹き
↓↑ ロック・ローモンド
グレートブリテン・・・愚例徒振理顛?
及び
北アイルランド連合王国(イギリス)
を構成する一
1707年の合同法によって
グレートブリテン王国が成立するまで
独立スコットランド王国

↓↑
スコットランド
グレートブリテン島の
北部3分の1を占め
本島と別に790以上の島嶼部から構成
南部でイングランド国境に接する
首都エディンバラ・・・絵出引話等?
ヨーロッパ最大の
金融センターの一
グラスゴーは・・・愚等素語卯(鵜・鸕・雨)?
人口の40%が集中
↓↑
紀元前10世紀頃
大陸よりケルト系の
ピクト人が到来・・・卑句人?
後
紀元前43年よりローマ帝国が侵入
スターリングに前線司令部を設置
ハドリアヌスの長城
アントニヌスの長城
ヴィンドランダ要塞
等が築かれた
ローマ軍は
ブリテン島支配
ピクト人との戦いにも勝利したが
(グラウピウス山の戦い)
全域支配には至らなかった
↓↑
中世
「レッジド王国」
「バーニシア王国」
「デイアラ王国」
「ゴドヅィン王国」
「ロージアン王国」
↓↑
407年
ローマ軍撤退後
ブリトン人等
諸民族が数波にわたり到来
隣のアイルランド島より
現在のスコットランド人の
直接祖先となる
ケルト系スコット人(ゲール族)が到来
スコットランド北西部を
スコット人(ダルリアダ王国)
北東部をピクト人(アルバ王国)
南部をブリトン人(ストラスクライド王国)
と
アングル人(ノーサンブリア王国)
が支配
12世紀頃まで諸民族による
勢力均衡・群雄割拠の時代が続いた
8世紀頃から
ヴァイキングが沿岸にたびたび襲来
↓↑
9世紀(843年)
ダルリアダ王国の
ケネス1世が
アルバ王国を征服・・・阿留話(婆)
スコットランド王国が成立
1071年
ブリテン島南部
イングランド王国を支配する
ウィリアム征服王が・・・William=ウィリアム=維廉
北部のスコットランド王国への侵攻
以降、両王家には
婚姻関係も生まれ
和議が図られるが
イングランド
と
スコットランドとの争いはやまず
13世紀~14世紀にかけ
スコットランド独立戦争
1314年に
ロバート・ブルースが
スコットランドの
大部分を再征服・・・維多利(ヴィクトリア)
(バノックバーンの戦い)
↓↑
近世
カロデンの戦い
1603年
ステュアート朝の
ジェームズ6世が
イングランド王
ジェームズ1世となり
イングランドと
同君連合を結ぶ・・・同訓連合?
スコットランドの
宗教改革
清教徒革命
(主教戦争
三王国戦争
(スコットランド内戦
イングランド内戦
アイルランド同盟戦争)・・・同名撰総?
(アイルランド革命・アイルランド侵略)・・・蛙(雅)意留等務土?
イングランド共和国の成立・・・寅具乱土享和語句?
イングランド王政復古
名誉革命
↓↑
1707年
イングランド王国・・・スカボロー・フェア(Scar-borough Fair )
バラ (borough) =国々の行政区画の一
バラ (borough) =自治制をもったタウンシップ
borough=「要塞化された地・要塞都市」
borough=「自治化された土地」
古英語の単語「burh」から派生
bury・brough
~バーグ・~ブルグ
~ベリー・~バラ
イングランド民謡
Are you going to Scarborough Fair?
守家母鸕鵜・符重鴉?7
と合同し
グレートブリテン王国
又は
グレートブリテン連合王国
となる
ーーーーー
アイルランド(Ireland)
アイルランド民謡
ダニーボーイ(Danny Boy)
フォギー デユゥ(FoggyFoggy DewDew)
サリーガーデン(the Salley Gardens)
グレイス・オマリー(Grace O Malley)
↓↑
アイルランド共和国
北大西洋の
アイルランド島の大部分を領土とする
立憲共和制国家
首都はダブリン・・・W臨?・・・拿武臨
島の北東部は
イギリスのカントリーの一つである
北アイルランドと接している
↓↑
独立前より
北アイルランドも自国の領土であると主張
イギリスとの対立と抗争を繰り返してきた
1998年
ベルファスト合意により
領有権を放棄した
↓↑
英語で「Ireland(アィアランド)」
国際連合や欧州連合で「Ireland」
1948年
アイルランド共和国法
(The Republic of Ireland)
日本語で「アイルランド」
「アイルランド共和国」
アイルランド語の「エール」
・・・yell(イェル)
エール=cheer(チァr)・root
shout・scream・yell・holler・cry
と呼(よ・叫)ぶこともある
漢字
「愛蘭土」で、「愛」と略す
↓↑
紀元前265年頃
ヨーロッパ大陸より
ケルト人・・・化留斗訊?
が渡来
5世紀頃
聖パトリック・・・葉鳥通句・・・PA-trick
PA=Public Addressの略
「大衆伝達・公衆報道のtrick」?
らによるキリスト教の布教
8世紀末頃
ノルマン人(ヴァイキング)の侵入
1014年
アイルランド上王 (High King)
ブライアン・ボル
(Brian Boru、ブリアン・ボルー)
が
クロンターフでヴァイキングを破り
以降ヴァイキングの侵入収束
1169年
ノルマン人の侵攻
1171年
諸豪族がイングランド王
ヘンリー2世の支配下
宗教改革と
プロテスタント支配の強化
・・・プロテスタント=protestant=pro・tes・tant
プロテスタント(Protestantism, Protestant)
反抗する者・抗議者
pro=professional
tests | testing | tested
important=im・por・tant
This is tit for tat to you!
フランス=tant pour tant
英語=so much for so much
オランダ=dit vor dat=英語でthis for that・・・?
古いラテン語=quid pro quo
タント=イタリア語(TANTO)=多く、沢山、大量、の意
タントおあがり
スペイン語=tanto=tan=同じの意
でぃれっtant(たんと)?・・・dilet-tante
「アイルランド王国」
「宗教改革」
「三十年戦争」
「大同盟戦争」
1541年
イングランド王
ヘンリー8世が
アイルランド王を自称
以降
イングランドからの入植者が増える
アイルランドの貴族はこれを認めず
ヘンリー8世と対立
清教徒革命
(主教戦争
三王国戦争(スコットランド内戦
イングランド内戦
アイルランド同盟戦争)
アイルランド革命
1652年
護国卿
オリバー・クロムウェル
・・・緖理話蛙・句賂務宇恵留?
による
アイルランド侵略
事実上の植民地化
以後正式な移民が始まる
イングランド共和国の成立
イングランド王政復古
名誉革命(1688年~1689年)
ウィリアマイト戦争・・・・「雨意理海人伊都」撰総?
↓↑
「あげよ日の丸」
2020年7月24日~8月9日
トゥキョゥ・オリンピック
Games of the ⅢXⅡ Olympiad
令和二年
第32回オリンピック
東京での五輪開催は
1964年(昭和39年)
以来
2回目
↓↑
・・・上下抜粋原文は
by Wikipedia
↓↑
ーーーーー
・・・???・・・尾(緖)理務比通句・・・
グラウピウス山の戦い
(羅語:Montis Graupii pugna
英語:Battle of Mons Graupius)
モンス・グラウピウスの戦い
↓↑
帝政ローマ期
83年 or 84年
↓↑ ・・83年
干支 癸未
景行天皇 十三年
後漢 建初 八年
高句麗 太祖王 三十一年
新羅 婆娑王 四年
百済 己婁王 七年
↓↑ ・・84年
干支 甲申
景行天皇 十四年
誕生 第十三代天皇 成務
武内宿禰
後漢 建初 九年、元和元年
朝鮮
高句麗 太祖王 十二年
新羅 婆娑王 五年
百済 己婁王 八年
↓↑
ブリタンニア北部で行われた
ローマ軍
と
カレドニア人(ピクト人)・・・化例土似蛙(雅)=卑句徒訊?
との間の戦い
カルガクス・・・珂瑠臥句素?
に率いられた
カレドニア人は
グナエウス・ユリウス・アグリコラ
↓↑ ↓↑ ↓↑
(具名重碓 ・由理碓 ・有具理胡羅)?
・・・小碓(ヲウス)命?
を
グラウピウス山の戦い
(具羅雨尾碓)
・・・うす=渦・宇須・宇都・宇受・有珠
で破った
↓↑
ブリタニアのカレドニア人の部族長
84年
グラウピウス山の戦いを指揮
ローマの将軍を
G.アグリコラ
に敗退
↓↑
ローマのブリタンニア総督
グナエウス・ユリウス・アグリコラは
78年より
カレドニア人追討の為に
ブリタンニア北部へと侵攻
カレドニア人を最北部へと追い詰め
カレドニア人の支配地(グラウピウス山)にまで
ブリタンニアの
アウクシリア(補助兵)を中心とした
軽装兵を進軍
↓↑
カレドニア人の食糧穀物庫を
ローマ軍が襲撃・占領
カレドニア人は
厳しい冬を食糧の乏しい中で迎え
餓死に追い込まれざるを得なく
カレドニア人は
ローマ軍との戦いに応じた
↓↑
カレドニア人は
カルガクス(en:Calgacus)
を指導者に選出
カルガクスは
「女に率いられた軍で
ローマ軍を打ち破ったことがある
が
我々は訓練され
文明にも毒されず
ローマ軍を破ることは不可能ではない
世界の収奪者たる
ローマ軍による圧政を打破する」
とカレドニア兵を鼓舞した
↓↑
カレドニア人側の指導者
カルガクス(羅語:Calgacus)・・・掛留雅句素?
「Calg-ac-os」
ケルト語で
「剣を持つ者」の意味
↓↑
戦闘
カレドニア軍は
3万の戦士およびその妻と子供が加わって
2万のローマ軍を上回る軍勢で対峙
ローマ軍はこれらを追討
↓↑
「グラウピウス山の戦い」
ローマ軍団自体は殆ど戦闘に参加することはなく
バタウィ族らより構成された
アウクシリア・・・蛙雨句史理雅?
の力が大きかった
タキトゥスによると
戦死者は
カレドニア人が約1万人
ローマ側は360人
ローマ軍の圧勝で
約2万人のカレドニア兵は逃亡
↓↑
戦いの勝利で
アグリコラが
ブリタンニアにいる
全ての部族を征服したと宣言
85年・・・85年
↓↑ 干支 乙酉
景行天皇 十五年
↓↑ 後漢 元和 二年
アグリコラは
ローマへと召還
後任のブリタンニア総督として
サルスティウス・ルクルス・・・サルスティウス
(en:Sallustius Lucullus) 猿 守定 碓?
が赴任
ダキア人がドナウ川流域の
ローマ属州へ度々侵入
86年
デケバルス率いる
ダキア軍によって
ローマ軍団が壊滅
ブリタンニアからの撤兵が必要となった・・・
・・・半島、島国からの米軍の撤兵・・・?
↓↑
アグリコラの征服完了宣言
ブリタンニア北部で
ローマに対する反乱が頻発
カレドニア人による
ローマ支配地への攻撃は続いた
タキトゥスの報告書は
「Perdomita Britannia et statim missa
(ブリタンニアは征服されたが
すぐに放棄された)」
と記した
↓↑
アグリコラ以降の
ブリタンニア属州総督らは
グレン・フォーツ(Glen Forts)
や
インチトゥヒル(Inchtuthil)
に迎撃用の要塞を設置
ハドリアヌス
や
アントニウス・ピウス
はブリタンニアへ城壁を築き
セプティミウス・セウェルス
は
カレドニア人征伐の為に
ブリタンニアへと親征した
↓↑
「グラウピウス山の戦い」の場所
スコットランド
ハイランド地方
更に
「ハイランドとローランド地方との境
アバディーンシャイアの
ケンプストンヒル(Kempstone Hill)
や
ベナーキー(Bennachie)の丘を含む一帯」
↓↑
キンカーディンシャー(Kincardineshire)
地区は
タキトゥスの
「アグリコラ」の記述に合致
ローマ関連の考古学的な遺物も発掘され
ローマ街道の1つ
「Elsick Mounth」にも程近い
↓↑
ワトリング街道の戦い
(Battle of Watling Street)
60年 or 61年頃
グレートブリテン島で
イケニ族の女王
ブーディカ
が率いる
ケルト人先住民の
ブリタンニア諸族同盟軍
と
ガイウス・スエトニウス・パウリヌス
が指揮するローマ軍団との戦い
↓↑
ローマ帝国側の兵士の数が
1対20
不利な状況であったが、勝利し
グレートブリテン島での影響力を維持
これにより
ローマの
ブリタンニア支配は
410年
終焉まで続いた
戦場は
ロンディニウム(ロンドン)
と
ウィロコニウム(シュロップシャー州・Wroxeter)
との間
ローマが築いた
ワトリング街道であった・・・ワトリング
話(倭・和・輪・把鳥 務具?
↓↑
「ワトリング」・・・倭の鳥の輪(林)の具?
の名は
後に
アングロサクソン人によってつけられた
この戦いの名称に用いるのは
本来時代錯誤・・・?
43年
ローマ帝国
小さな王国が多数並存していた
ブリタンニア南東部への遠征の途上にあった
軍事的に占領された王国
同盟を結び自治を維持していた国
も多数存在
↓↑
独立王国のひとつ
東ブリタンニアノーフォーク地域
を支配していた
イケニ族の王
プラスタグスは
自身の死後も独立を保とうと
王位継承権を持つ
二人の娘とともに
ローマ皇帝を
共同統治者とする遺言
彼が60~61年頃に亡くなると
彼の思惑は無視され
ローマ人は領地を奪い
彼の家族にも屈辱させた
彼の未亡人
ブーディカ
は鞭打たれ
二人の娘は辱められた
行政長官
デキアヌス・カトゥス
や
ローマの財政官たちは
債務の返済に充てるため
イケニ族の財産を没収し重税を課した・・・
ガイウス・スエトニウス・パウリヌス総督
率いる軍がウェールズで戦闘時
ブーディカ
が指導して
イケニ族は立ち上がり
故地カムロドゥヌム(コルチェスター)
を植民地として奪われていた
トリノヴァンテス族
など周辺部族と連合、反乱を起こした
最初の標的は
カムロドゥヌム
・・・カムロドゥヌム
神 盧同 努務?
神室(禿・禿童)同怒武?
咬む侶銅 塗武?
↓↑ ↓↑ ↓↑
和銅元年(708年)
和銅元年五月・・・・・ 和同開珎鋳造
和銅五年(712年)一月・太安万侶
↓↑ 古事記完成、撰上
和銅(わどう)
慶雲の後、霊亀の前
708年~715年までの期間
時代は女帝、元明天皇
↓↑
和銅五年九月二十八日・・出羽国を設置
和銅六年四月三日「丹後・美作・大隅」
国を設置
和銅六年五月・風土記の編纂の命
郡・郷名に好字を付与
和銅七年六月・首皇子、立太子
九月・元明天皇(阿閉皇女)譲位
氷高(日高)内親王(元正女帝)
が即位する
↓↑
持統(41)→草壁皇子
→文武(42・元正の弟)
→元明(43・草壁の嫁)
→元正(44・文武の姉)
↓↑ ↓↑
・・・慶雲
(大宝の後、和銅の前・704年~708年)
時代の天皇は文武天皇、元明女帝
慶雲=夕空に現れ瑞兆の雲
蚊柱(ユスリカ・揺蚊)
ハエ目(双翅目)・糸角亜目
ユスリカ科(Chironomidae)
に属する昆虫の総称
和名は幼虫が体を
揺するように動かすことに由来
幼虫はその体色から
アカムシ・アカボウフラ
成虫はカ(蚊)に似た大きさや姿
幼虫であるアカムシは
乾燥アカムシ
冷凍アカムシ
として
釣りエサや熱帯魚
観賞魚のエサとして利用
刺すことはない
カのような鱗粉も持たない
カと見誤って叩いても
黒っぽい粉のようなものが
肌に付くことはない
しばしば川や池の近くで
「蚊柱」を形成する
アフリカのマラウィの
「マラウィ湖の蚊柱」
は数十mの高さになる
アフリカの
「ヴィクトリア湖」沿岸で
大量発生したユスリカの一種を集め
ハンバーグのように
鉄板の上で焼いて食べる・・・
↓↑
瑞兆雲
蚊柱は
大宝二年(702年)
持統天皇崩御
葬儀などが済んだ
大宝四年(704年)
藤原京において現れ、改元
大宝年間に
律令の編纂や都城の完成
律令国家建設の諸改革
大宝の遣唐使が帰国
慶雲年間に
遣唐使の報告
律令を施行
政治改革(慶雲の改革)
平城遷都立案
慶雲四年(707年)
六月 文武天皇崩御(25)
七月 阿閉皇女(元正女帝)即位
文武天皇の姉
諱は氷高(ひだか)
第四十四代天皇
在位
715年10月3日
霊亀元年九月二日
~
724年3月3日
養老八年二月四日
↓↑ ↓↑
カムロドゥヌム
この町に
反乱軍は強い憎悪
ローマ軍退役軍人の町で
前ローマ皇帝
クラウディウスを祭った神殿は
トリノヴァンテス族
を搾取、財産と労働力で建設したもので
カムロドゥヌムを急襲した
ブーディカ軍は
逃げ遅れた人々を全て殺し
反乱勃発の元凶の一人
カトゥスは
ガリアに逃げた
↓↑
古代ローマ時代の
ブリタンニア
ワトリング街道
ブーディカ軍は
進軍先を
ロンディニウム(ロンドン)に定め
スエトニウス軍もそこへ向かったが
防衛には要員が足りないと判断し
ロンディニウムには入らず
この街も、逃亡者以外は全員殺害
↓↑
反乱軍が破壊に狂奔し
次に北の
ウェルラミウム(セント・オールバンズ)
に進む頃
スエトニウスも
ワトリング街道(ローマ街道)に沿って北上し
軍を補強
タキトゥスによると
スエトニウスが指揮する
第14軍団ゲミナに加え
第20軍団ウァレリア・ウィクトリクス
からの派遣隊、予備役兵らを傘下に納め
総勢10,000人の兵力を組織
エクセター近郊に展開していた
第2軍団アウグスタは加わらなかった
ブリタンニアに展開していた
クィントゥス・ペティリウス・ケリアリス
率いる
第9軍団ヒスパナは既に
カムロドゥヌム奪回戦で敗退していた
対する
ブーディカ軍は
約230,000人まで兵士の数を膨らませていた
↓↑
戦闘終結から50年頃
ローマの歴史家タキトゥスは
ブーディカの演説を
「ローマの思い上がりと傲慢さからは
何者も逃れられない
奴等は
聖なるものを見つけてはこれを壊し
清らかなるものを見つけてはこれを汚す
勝利を得るか、さもなければ滅ぶか
私は
ひとりの女として
この選択に挑む」
↓↑
ブリタンニア軍は
戦場の最後端に
幌馬車隊を三日月状に配し
そこから
戦士たちの妻や子供たちが戦局を見つめ
戦士は家族に
勇姿と圧倒的な勝利を見せるために奮闘
ゲルマン人を率いた2人の指導者
キンブリ族の
ボイオリクス(Boiorix)
と
スエビ族の
アリオウィストゥス
が
ガイウス・マリウス
や
ガイウス・ユリウス・カエサル
と戦った際にも見られた
↓↑
タキトゥスは
兵士たちを前にした
スエトニウスの語りを
「あの騒がしい蛮人どもなんか
恐れるに足らない
あいつらは
女の尻に敷かれた情けない連中なんだ
奴等は戦士なんかじゃ無い
証拠に、あの貧弱な武装を見てみろ
俺たちの武器と気概を見せ付けて
やっつけてしまおう」
「一団になるんだ
槍を投げて、前に進め
盾で奴等を撃ち、剣で止めを刺せ
略奪は忘れろ
勝って、もっとたくさんの戦利品を得よう」
と戦術を伝えた
↓↑
ピルムを投擲する
軍団兵
ブーディカと彼女の大軍は
草原を横切って前進し
大規模な正面攻撃を仕掛けて狭い地形へ殺到
進軍するにつれ
街道は押し合いへし合いの状態で
約40ヤードほど進んだところで
ローマ軍は
ピルムと呼ばれる槍の投擲を始め、戦局は一転
ピルムの穂は曲がりやすく
盾に刺さると容易には抜けなくなってしまう
ブリタンニア軍は
数千人が倒れ戦局は不利になった
反乱軍の混乱に乗じ
スエトニウスは兵卒や予備役に
ローマ軍伝統の
ファランクス陣形を
V字編隊(ウェッジ・フォーメーション)に改組
鋸の刃型状とした前線を前進
優秀なローマ兵は
ピルムを手にせずとも勇敢で
武器や鎧は敵に勝り
槍を振りかざした機動部隊が
側面から戦闘に加わり
ブリタンニア側の状況はさらに悪化
退却を試みたが
後方に配した幌馬車の列が邪魔となった
完全に包囲され、袋の鼠となった
ブーディカ軍
ローマ軍の攻撃は兵士に留まらず
女や子供、荷役用の動物にまで向けられた
↓↑
ローマ側の犠牲者400人程
ブリタンニアの死者は80,000
敗軍の将
ブーディカの末路は
服毒自殺を遂げた・・・
↓↑
戦いに加わらなかった
第2軍団
アウグスタを指揮していた司令官
ポエニウス・ポストゥムスは
戦勝の知らせに自殺
一度はブーディカ軍に敗れた
クィントゥス・ペティリウス・ケリアリス
71年
ブリタンニア長官に任命され
逃亡した
デキアヌス・カトゥス
については何の記録もない
↓↑
皇帝ネロは
反乱蜂起の知らせを受け動揺し
ブリタンニアからの全面撤退を考えた
ブーディカ軍鎮圧を知り
ブリタンニア遠征の継続を決めた
残党狩りの準備を進める強硬派の
スエトニウス
と穏健に転じた
ネロとの間には意志の齟齬が生じ
スエトニウスは解任され
ローマに呼び戻された
彼は
68~69年の内戦で
オト
に属し
クレモナの戦い
で敗れ、以後の履歴の記録が無い
↓↑
69年
ブリガンテス族
ヴェニュティウス王の反乱など
ブーディカの故事よりも深刻な打撃を
ローマに与える戦乱はその後も続いた・・・
↓↑
戦場
ワトリング街道の戦い
キングスクロスの
旧バトルブリッジ村
ウェスト・ミッドランズ州
ローマが築いた
ワトリング街道(A5ロード)に沿った
ロンディニウム
と
ウィロコニウム
との間のいずこ・・・
ーーーーー
・・・???・・・音愚留主(守・諏・種)・・・