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コジキジゲン

瓢箪から駒(馬・午・宇摩・甜・旨)→白いロバ・白驢

2016-10-31 01:16:57 | 古事記字源

 ・・・NHKスペシャル(16時50分~)「ある文民警察官の死~カンボジアPKO 23年目の告白~(2016年8月13日)」の再放送を観たが、当時の「政府」の「カンボジアUNTAC(文民警察官の派遣と事件?・1993年5月4日)」も、「イラク派兵の自衛隊(PKO)」、そして現在の「政府」の「南スーダンの自衛隊(PKO)の海外派兵」とは如何にイイ加減なものなのかが、ワカル・・・政治屋、コウノ、ミヤザワ、コイズミ、そしてアベも現場では「銃」を向けられない「安全地帯」に存在したし、存在して「他人事」のハナシをしているようだ・・・「自衛隊の国際貢献とは自国民の命」を消耗させるコトなのか・・・ダレのタメに・・・
 市民社会の「平和なスポーツイベントに歓喜」が、「戦争への下敷き」、「メクラマシ」にされてはいないか・・・「戦争と平和」は「恋愛小説」なんだか、ドウなんだか・・・「戦争=平和」ではないハズだが、この世の中、ダレかにとっては「戦争=平和」なんだろう・・・「日本一のFighters」の歓喜には文句はないけれど・・・
 プロも、アマの「アスリート」も「重労働者」・・・古代ローマなら「剣闘士(グラディエーター=Gladiator=グラディアトル、グラディアートル)」、そして「センチュリアン(ケントゥリオ=centurio・古代ローマ軍の百人隊)」、「遣唐使(遣隋使)」も命がけだが・・・
 前回、書き込んだ「黄幢」だが、「巾(きれ・はば・キン)」が「童(わらべ・ドウ)」と合体している形象とは・・・童の被る「頭巾」、あるいは「帽子」と云うことか・・・あるいは「児童の防災頭巾」の変形?・・・「童=目を辛(針・立=辛の省略形)でつき通した召使・僕)」、「童=立+里(田十一)」は里に立てる「巾=旗・幡」か・・・「童」とはナンだろう・・・「僮(僕)・罿(あみ・ショウ)・瞳(ひとみ)・眸(ひとみ・ボウ)・撞(つく・ドウ・シュ)・鐘(かね・ショウ)・憧(あこがれ・ドウ・ショウ)」・・・つり鐘を撞く木の棒を「撞木(シュモク・トウボク)」、撞着(ドウチャク・トウチャク)は矛盾・・・
 どうやら、「童」の「形象」は「禿げた丸山」の形状?
 「おろか(愚か)」
 「角のまだ生えない牛や羊」
 「はげる(禿げる)」
 「頭髪がなくなる」
 「山に草木がなくなる(禿山)・・・丸山・圓(円)山?
  はげる=接げる・矧げる・剥(剝)げる・禿げる
      ハゲル=葉解留?
 「罪によって僮(しもべ・奴隷)となった者
  男を童、女を妾(しょう)という」
 「男の辠(つみ・自+辛)有るを奴と曰ひ、
  奴を童と曰ひ、
  女を妾と曰ふ、
  䇂(ケン・刺青のハリ)に従ひ、重の省聲」
 ・・・まるで、「春琴抄(しゅんきんしょう)・谷崎潤一郎の小説・盲目の三味線奏者・春琴(薬種問屋の二番目の娘、美少女)に丁稚の佐助が献身的に仕えていくはなし」が、イメージされるが・・・「鵙屋春琴」・・・「鵙=モズ・もず=百舌」・・・「鵙=貝(目八)+鳥」・・・
 兎に角、「黄幢」は「臣従のシルシの旗」だが、「成敗、討伐の象徴の旗」・・・「黄=共+田」→「廾一田八」・・・「田」は「狩りの地」である・・・
ーーーーー
 「瓢箪から駒(馬・午・宇摩・甜・旨)→白いロバ・白驢」・・・
 「小説、東遊記
  張果、
  騎驢應召、
  常乗一白驢、
  毎倒騎之、
  日行数百里、
  休息之時、
  雖折畳之、
  其、
  厚如紙、
  蔵於
  箱巾中」
   ↓↑
  恒州中条山に隠居
  尭(ギョウ)の時世に生まれ
  白驢(白い驢馬)に乗り、
  一日に数万里を行き、
  休息する時は驢を畳んで
  腰の瓢(ひさご・瓢箪)に納め、・・・蔵於
                 箱巾中で
                 瓢ではない、匣=箱・・・
  乗る時はその水を噴くと、
  忽ち驢が現れた・・・
  玄宗(ゲンソウ)の信任を得、
  都に招かれ、死後
  棲霞観を建立し祀(まつ)られた・・・
   ↓↑
ーーーーー
 「中国では
  藎草(ジンソウ)が
  黄色を染める染料になる
  深江輔仁『本草和名』(ca.918)藎草に、
 「和名加伊奈、一名阿之為」
  源順『倭名類聚抄』(ca.934)
 黄草は「加伊奈、本朝式云う刈安草」
  藎草は「和名加木奈、一云う阿之井」
  小野蘭山『本草綱目啓蒙』12(1806)藎草に
  「カリヤス和名鈔
 カイナ同上
   コブナグサ京師 
 サゝモドキ江州
  カイナグサ播州筑前」
 枝葉から
 黄色の染料を採る
  中国では、
  この
  黄色で官服を染めに・・・・・・官服は黄色?
 人々を使ってこの草を集めさせた
  (『詩経』小雅・采緑)
  その莖・葉・花を薬用にする(『中国本草図録』?/4392)
  『爾雅』釋草に
  「菉(リョク・ロク,lu)、
   王芻(オウスウ,wangchu)」と、・・・王の芻(蒭=馬草)
                    反芻=繰り返し
  その
  郭璞の注に
  「菉、蓐(ジョク,ru)也。
   今呼、
   鴟脚莎(シキャククサ,qijiaosuo)」
  日本では
  カリヤスとともに
  黄色染料として用いられた
  八丈島では、
  ツバキ(椿)の灰を
  媒染剤として
  黄八丈(キハチジョウ)を染めるのに用い
  八丈刈安(ハチジョウ-カリヤス)
  の名がある・・・らしい・・・
   ↓↑
  日本では藎草と思い違いし
  コブナグサ(小鮒草)が
  染め草となった
   (中国では全草を
    咳止めなどに用いる
    葉の形を
    魚のフナ(鮒・舩)
    に見たてた・・・・・言葉のカタチを仮の案に見立てた?
    カリヤスとともに
    黄色の染料として、
    黄八丈を染める)
  名の誤認から物の誤認が生じ・・・
   (日本語別名=カイナグサ(腕草)
          アシイ(脚藺)
          ハチジョウカリヤス(八丈刈安)
          イモグサ(イモ草)
          漢名=藎草(ジンソウ)
             菉(ロク・lu)
             ?(リョク・ロク・lü)
ーーーーー
  ↓↑
  瓢箪から駒が出た(とは、このコトで)。
  染料植物でないものが
  染料植物に化けたのである・・・牧野富太郎」
  (牧野富太郎・・・雑草という草はない、と云った)
   ↓↑
 ・・・「雑草」は分類上の一般名詞で、特集個別ではないのは当然であるカナ・・・
   ↓↑
 「昭和天皇、
  『何を言っているんですか。
   雑草という草はないんですよ。
   どの草にも名前はあるんです。
   どの植物にも名前があって、
   それぞれ自分の好きな場所を選んで
   生を営んでいるんです。
   人間の一方的な考えで、
   これを切って掃除してはいけませんよ』
 とおっしゃった」とか・・・昭和天皇は「科学者」だったが、気が付くのが遅かった?・・・
 「雑魚も、雑民も、雑兵も」存在しない、と・・・
ーーーーー 
   ↓↑
 同類のコトワザは
 「灰吹きから蛇が出る
  灰吹きから竜が上る
  嘘から出た実(まこと)」
 「灰吹き=灰や吸い殻を入れる竹筒」
ーーーーー
 瓢箪から駒・・・「荒唐無稽」なのは・・・「中国大返し」?・・・「備中大返し」天正十年六月(1582年6月~7月)・・・
  ↓↑
 豊臣秀吉の「千成瓢箪(ヒョウタン)」
 小馬印=金の逆さ瓢箪に金の切裂
 大馬印=金の軍配に朱の吹き流し
 「千成瓢箪」は
 「馬印」ではなく、
 「船印」に使用された・・・
  ↓↑
 瓢箪は干瓢(かんぴょう)に加工
 馬印(うまじるし)は、
 戦国時代の戦場において、
 武将が己の所在を明示するため
 馬側や
 本陣で
 長柄の先に付けた印で
 馬標、馬験とも・・・
 信長は美濃の斎藤攻めで、
 稲葉山城の攻略
 木下藤吉郎(秀吉)が、
 城の背後からの奇襲
 城に火を放ち、信長本隊に
 槍(竹)の先に付けた瓢箪を合図に送った
 稲葉山城、陥落(1567年)
 信長は藤吉郎に
 瓢箪を
 馬印にすることを許した・・・
 秀吉は、
 馬飼いの足軽
 草履取り
 後、
 台所奉行
  ↓↑
 馬印
 武将が己の所在を明示するため
 馬側や本陣で長柄の先に付けた印
 馬標、馬験とも
 豊臣秀吉時代
 小馬印=金の逆さ瓢箪に金の切裂
 大馬印=金の軍配に朱の吹き流し


 ↓↑

 秀吉は
 堀尾茂助を道案内役とし
 瓢箪を棒の上に着けて
 後続の軍兵(ぐんぴょう)への目印として掲げ、
 城を攻め落とした
  ↓↑
 「瓢箪」の「瓢」は「竹で編んだ円形の器」
 「瓢」=飲み物の器
 「箪」はご飯などの食べ物を入れる容器=弁当
ーーーーー
 ・・・ハコ・・・

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イヨイヨ(壹與、意予)決戦の「黄幢」は、「め組の纏(まとい)」の凱旋の宴!

2016-10-29 22:51:57 | 古事記字源

 ・・・イヨイヨ(壹與、意予)決戦の時間帯に突入したが、「冬の陣」になるか、「夏の陣」になるかは・・・結果待(俟・ま)ちであるが、29日(甲申)18時30分・・・19時(癸酉)・・・ヤッタァ~西川、三塁打!・・・20時(甲戌)~・・・凄いコトになっているが、4-4・・・21時(乙亥)~22時、押し出し5-4、バース6-4、やったぁ~ッ!!レアード満塁ホームラン10-4・・・22時34分、決着、北海道へ凱旋~ッ・・・前回は「黄幢」の「幢」とは、ナニか?で以下の引用文を添付したが、「黄幢(?)」の「黄・黄色」がマッタク欠落している「遼陽北園墓の墓室には、騎従が持つ幢(?)が描かれいる」とあり、その形状が「幢形(?)」であるらしく、旗の色彩に関してはボクがコラージュして添付した絵の「黄色の飾り旗」と異なっている。スナワチ、「幢形のものが二つ重なり、上は黒、下は赤に塗られ、上のものは丸い傘状のものの下に短い垂れ下がりがあり、下の方は鳥の長い羽毛が垂れている図」・・・
ーーーーー
 「軍事指揮や
  儀仗行列に用いられる
  旌旗(せいき)の一種で、
  天子が部下に権限を付与した印しとして与えた
  遼陽北園墓の墓室には、
  騎従が持つ
  幢が描かれている。
  幢形のものが
  二つ重なり、
  上は黒、
  下は赤に塗られ、
  上のものは
  丸い傘状のものの下に
  短い垂れ下がりがあり、
  下の方は
  鳥の長い羽毛が垂れている図である」
ーーーーー 

 ではなく、

 となるのだが・・・?・・・コレは「黄(色)幢」なのか?・・・
 「気概」の「概=木+既(既・旣=白ヒ牙)=槪・槪・槩」は「概(おおむね・だいたい・おもむき・ガイ)」である。「木(き・モク・ボク)」の、「既(すでに・もはや・もとより・とっくに・つきる・ことごとく・キ・ケ)=旣・既」で、「概念」である・・・漢字構成からハヤシ先生の「升の米の表面を均す」とは思えないが・・・「木(偏)」は表面の米面(こめづら)を均す「升の棒」の表意?・・・
 「牙(きば・キ・ケ)=器に盛った食べ物を食べ尽くしてノドケル、詰まらせる、むせる、むせぶ、喰い過ぎでゲップ」で、「概」は満足して「木」に寄りかかっている姿であろう・・・
 類字は「慨然(ガイゼン)」の「慨(心+既=忄+既・旣=心白ヒ牙)」は「 いきどおる(激しく立腹)・なげく(歎く・嘆く・悲歎・悲嘆)」で、「心の白はヒ(ヒ七匕)の牙」で・・・「慨嘆・感慨・憤慨・慨世・慨然・慷慨(コウガイ)・憤慨」である・・・
 「牙」の類字の「无(なし・~するなかれ・ムブ)」は「無」と同意、同義であるが・・・「虚無=万物の根本」は道家の思想だが、「自然科学」としての「底存在するアルものはアル」で、「虚無」とは「人間認識の心の認識思惟能力」の「認識概念の限界」である・・・

 イヨイヨ(壹與、意予)決戦の「黄幢」は、「め組の纏(まとい)」・・・「火」消しの仕事は延焼の阻止の家屋の破壊と消火の放水の「水」・・・終わって、北海道で凱旋での宴会はタラフクの「白のヒ(ヒ七匕)」の「牙」である・・・

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幢、幢・・・ニワカなハタフリ・・・

2016-10-28 23:47:53 | 古事記字源

 ・・・昨夜は圧巻の野球ゲームだったが・・・俄か(にわか=似和歌?)旗振り・・・「天地玄黄=黄幢=黄龍旗」・・・「幢(ドウ)=巾+童」=「昔、儀式または軍隊の指揮などに用いた旗の一種・彩色した布で作り、竿の先につけたり、柱に懸けたりした・はたほこ・魔軍を制する仏、菩薩のしるし。また、仏堂の装飾とする垂れ布(たれぎぬ)・古代の儀式に用いる)吹き流し・旗・仏教の経文を刻んだ六角形または円形の石柱=経幢=石製は石幢(セキトウ)」・・・以下はスベテ「黄幢(コウドウ)」に関するブログ記事を参照、参考にして「引用添付」したものデス・・・ワタクシの「オリジナル」ではありません・・・少々改作してある部分と「・・・?」とした処だけが「ワタクシの部分」です・・・「引用」はインターネットの検索でスベテ検索できるモノですから、この「日記」をお読みになっている方は、「黄幢(コウドウ)」の原文は御自分で検索、御確認をお願いします・・・勝手な諸々の「黄幢(コウドウ)」に関する引用も、断りもなく、ご免なさい・・・
ーーーーー
 黄幢(コウドウ)
 黄幢とは、黄色い吹き流しのような 軍旗
 黄幢(コウドウ)(軍の指揮に用いる旗)
 黄幢(黄色いはた。 高官の象徴)
 黄幢(黄色い旗さし)
 黄幢(旗・幡・旛・将)=幡鉾
    はた=機・秦・羽田・葉多・波多・波田
       秦・畑・畠・傍・側・端・圃
 黄幢(黄色い旗ぼこ
        =戈・矛・戛・鉾・鋒→殳=ほこ・シュ・ズ)
 黄幢(コウドウ→憧は幢に修正・・・???)
          「紹煕本」では
          「百衲本」の「黄幢」を「黄憧」とする?
          「幟」は「のぼり」
          「幡」は「はた」・・・八幡(ヤハタ)
 黄竜旗=中国清朝の国旗・黄色地に竜を描いたもの
 黄龍=チベットの旗=九寨溝 黄龍


 四神相応=風水の地勢や地相
  ↓↑  四神に中央に
     「黄龍」、「麒麟」を加え「五神」
      背後に山、前方に海、湖沼、河川の水が配置されている
      背山臨水の地
      左右から砂(さ)と呼ばれる丘陵
      背後の山よりも低い山で囲むことで
      蔵風聚水(風を蓄え水を集める)の形態
      四神は、
      背後の山が玄武
      前方の水が朱雀
      玄武を背にして
      左側の砂が青龍
  ↓↑  右側が白虎 
 北は黒龍
 西は白龍
 南は赤龍
 東は青龍
 中央は黄龍
 四海竜王より上
 黄竜と合わせて「五竜」
 中国皇帝の旗
 中央を守る
  ↓↑
 四方を司る水の神
 西遊記や封神演義の物語に登場
  ↓↑
 封神演義では
 リナタ(李哪吒)=ナタク
 托塔天王(毘沙門天)の
 三男が龍神退治するハナシ
  ↓↑
 7歳(身長6尺)のとき、
 東海龍王敖光の巡海夜叉の
 李良と
 龍王の
 三太子敖丙を殺し
 敖丙の背筋を抜き
 父の怒りをうけ、
 罪をあがなうために
 自らの肉と骨を切り自害
 死後母親の夢に現れ、
 己の行宮を建てるよう頼んだ
 神像が
 3年間受香すれば再生できるはずだったが、
 事の次第が
 李靖(唐代の太宗に仕えた軍人・政治家)=李藥師
 に発覚し行宮を焼き払われたため、
 太乙真人は蓮の花に金丹を入れて肉体とし
 哪吒を復活させ、
 父とは
 燃灯道人がとりなし和解
 闡教の道士として父や兄と共に
 周陣営に参加し、
 以後
 商の仙人と闘う
 三面八臂の姿を得た
  ↓↑
 四海竜王
 唐の玄宗が、
 751年に四海の神を封じ
 広(廣)徳王(東海)、
 広(廣)利王(南海)、
 広(廣)潤王(西海)、
 広(廣)澤王(北海)
 の称号をそれぞれに授けた
  ↓↑
 孫悟空にもやられる龍神
  ↓↑
 長男、東海竜王傲廣
 次男、南海竜王敖欽
 三男、西海竜王敖閏
 末弟、北海竜王敖炎
  ↓↑
 龍宮(水晶宮)で
 エビ(海老・蝦・鰕・螧)や
 カニ(蟹)たちに守られ
 海を統治し、雲と雨を操り
 怒ると、都市を洪水にする
 東海竜王が最も大領土をもち
 それぞれ別名を有する
  ↓↑
 東海龍王=敖廣(ごうこう)=廣徳王
 南海龍王=敖欽(ごうきん)=敖紹=廣利王
 西海龍王=敖閏(ごうじゅん)=廣順王
 北海龍王=敖順(ごうじゅん)=敖炎=廣澤王
ーーーーー
 龍神か、蛇神か
 ・・・辰巳(龍蛇)は南東の「戊己=土」に位置


  ↓↑
 伏羲と女媧
  ↓↑
 伏羲=宓羲・包犠・庖犠・伏戯・伏義・伏儀
    三皇の一人
    姓は鳳(凤)姓・太皡庖犠氏は風姓?
    八卦をつくり
    人間に
    漁猟を教えた
 女媧(ジョカ・Nüwa)=女希氏・媧皇・女皇
 古代中国神話の土と縄で人類を創造したとされる女神
 笙簧の発明者
 縄の発明者、葛天氏と同じく伏羲の号に属
 三皇の一人に挙げる説・・・
 姿は蛇身人首
 姓は風
 伏羲とは兄妹で
 身は竜体=人首蛇身
 同じく竜体の伏羲と下体が相交わる神像
 「風俗通義(フウゾクツウギ(後漢末)」には、
 女が人間をつくった
 彼女は初め黄土を人の形にこねあげ、
 人間を丁寧に1人ずつつくっていたが、
 作業に骨が折れすぎて休むまもないのに
 業(ごう)を煮やし
 女は、ついに縄を泥中に浸してそれを引き上げた
 そのときに縄から飛び散った
 泥のしずくがすべて人間になった
 伝承の変化で、
 女は三皇の一人
 男性神の伏羲(ふくぎ)と夫婦となった・・・
 上半身は人間、
 下半身が蛇形に描かれ、
 女媧は右手に「ぶん回し(コンパス)」
 伏羲は左手に「物差し(定規・曲尺)」
 を掲げる
  ↓↑
 中国の黄河=黄竜・・・沙漠の竜巻・・・蜃気楼?
 琉球王朝の海人は、
 黄色旗や
 百足(ムカデ)旗を掲げ
 航海の無事を太陽神に祈った
 イルルヤンカシュ=ヒッタイトの竜
  ↓↑ 
 太極八卦旗
 太極四卦旗
 「五爪龍旗・四爪龍旗」
 朴泳孝が出発前に清朝政府に
 中国の
 五爪龍旗の使用を打診
 清朝は
 「潘属国は四爪龍旗の使用しか認められない」
 と拒否
 中国の使節
 馬建忠は
 中国伝統の
 大極八卦旗を国旗として使用することを勧め、
 朝鮮政府も受け入れた。朝鮮の太極旗の始まり
 清の国旗の竜は爪が5本
 藩属国は4本
 牙旗=中国で、旗ざおの先を
    象牙で飾り
    猛獣が牙(きば )で身を守る形とした
    天子または大将軍のいる所に立てる旗
    大将旗
    牙纛=呉の孫権が・・・・・・旗の色はナニ?
       中央軍につねにたてていた
       黄竜の牙旗・・・・・・龍は黄色だった?
                  黄幡=黄幢?は呉の幡
ーーーーー
 ・・・「幢=巾+童(立里)」の類字は「憧撞瞳童」・・・「魏志倭人伝」の著者(?)の漢字使用は周到であるカナ・・・帰化人の翻訳教養・・・サスガだが・・・妄想だが・・・
ーーーーー
  ↓↑
 「其の六(年?)... 同時期の遼陽の壁画(北薗壁画墓)に
  黄幢とみられるものが描かれていた」・・・?
  ↓↑
 其八年(西暦二四七年=247年)
 太守
 王祈
 到官
 倭女王
 卑彌呼
 與
 狗奴國
 男王
 卑彌弓呼・・・・卑彌弓、呼、素、不和・・・?
 素不和
 遣倭
 載斯烏越・・・・載、斯、烏を越る・・・?
 等詣
 郡説
 相攻撃状
 遣
 塞曹掾史
 張政
 等
 因斎
 詔書
 黄幢
 拝
 假
 難升米・・・・難升の米=米を升(はかる)のは難しい?
             飢饉だろう・・・
 爲
 檄
 告喩
 之
 卑彌呼
 以死・・・・・殺された・・・死を以て・・・自殺?
 大作冢
 徑百餘歩
 徇葬者
 百餘人
 更
 立
 男王・・・・・狗奴國の「卑彌弓呼」ではない?
 國中
 不服
 更
 相誅殺
 當時
 殺
 千餘人
 復立
 卑彌呼
 宗女
 壹与・・・・・・壹與、臺與
 年十三
 爲王
 國中
 遂定
 政・・・・・・・「張政」なのか、政(まつり)なのか?
 等
 以
 檄
 告喩
 壹与
 壹与
 遣
 倭大夫
 率善中郎将・・・・率善か、「率膳」の御膳立てなのか?
 掖邪狗・・・・・・掖邪狗(わきやく)なのか、
          ワ記の訳なのか?
 等二十人
 送
 政
 等
 還
 因
 詣
 臺
 献上
 男女生口三十人
 貢
 白珠
 五千孔
 青大句珠二枚
 異文
 雑錦二十匹
  ↓↑
 王頎は)塞曹掾史・張政(せんそうえんし・ちょうせい)等を遣わして、詔書・黄幢(こうどう )を(倭に)齎(もたら)し、難升米(なしめ)に拜假(はいか)し、檄(げき)を為して、之を告 喩(こくゆ)す。
  ↓↑
 其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。
 其八年、太守王[斤頁]到官
 倭女王卑彌呼 與狗奴國男王卑彌弓呼 素不和、
遣倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。
遣塞曹掾史張政 等因齎
詔書・黄幢、
拜假
難升米

檄告喩之。
  ↓↑
 倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。
 倭の載斯烏越等を遣わして 郡に詣り、相攻撃する状を説く。
 塞曹史張政等を遣わし、
 因って
 詔書・黄幢を齎し、
 難升米に拝仮せしめ、檄を爲してこれを告喩す。
  ↓↑
 黄幢(こうどう)である・・・
 黄幢の幢とは、軍事指揮や儀仗行列に用いられる
 旌旗(せいき)・・・?・・・旌=方+ノ一(髪挿し)+生
 の一種で、
 天子が部下に権限を付与した印しとして与えたものだった。
 遼陽北園墓の墓室には、
 騎従がもつ幢が描かれている。
 幢形のものが二つ重なって描かれている・・・?

  ↓↑
 率善中郎将
 中郎将とは交代で宿直して宮城を護衛する武官の長
 この職は、
 秦代に、始まり、
 宋代以後には廃止
 秩は比二千石
 中郎将は郎中令に属し、
 五官・左・右の
 三中郎将が常置
 必要に応じて種種の
 「雑中郎将」(匈奴中郎将・建義中郎将等々)が任命された
 率善中郎将も、 「雑中郎将」の類に属する
 率善の意味・・・帰義候・・・率善=帰義・・・?「率膳」?
 中郎将に任ぜられるのは原則として
 内臣に限られ
 「難升米」の場合はむしろ例外?・・・漢字は「難の升の米」である
 239年
 「難升米」は
 「率善中郎将の位」
 245年
 黄幢を賜った
  ↓↑
 奴国男王
 卑弥弓呼
 素
 不和
 遣倭
 載斯烏越・・・・・・載斯烏越=斯(これ・この・かく・シ)
                烏(カラス・ウ)
                を越えるコトを載せる・・・?
 等
 詣
 郡
 説
 相攻撃状
 遣
 塞曹掾史
 張政
 等因
 齎
 詔書
 黄幢
 拝假
 難升.
 (難升)米
 為
 激
 告喩
 之
 卑弥呼
 以
 死
 大冢径百余歩・・」
  ↓↑
 「幢」を、
 『後漢書』の
 班超伝
 にみえる
 李賢の注には
 「鼓吹・幢麾、皆大将所有」
 とあることを確認、
 諸橋『大漢和辞典』では、
 軍の指揮に用いる
 「はた」(はたぼこ=旗+矛)であるとしている・・・
 「幢」が「軍旗の一種」で、
 少なくとも唐代には、
 将軍・刺使の威儀を示した儀飾の一つであった・・・?
  ↓↑
 「一番古い軍旗としての幢の記録は、
  栗原の探したものでは、
  『漢書』の
  韓延寿伝という」
 漢の宣帝のとき、
 延寿が東郡太守として在任中、
 都試の際に
 「幟」を立ててこれに臨んだ・・・「幟」は「幢」か?
 自分が考案した
 「各種の儀飾り」が、反対派によって劾奏され、
 「棄市」という極刑に処せられてしまった
     ・・・棄市=公衆の面前で打ち首にして、
           その死体を市中に晒すこと
 「問われた罪が、幟を立てて都試に臨んだこと」
 だというのである・・・?「都試」って、「都の試験」?
 「幢」は、
 王権の権力行使や軍事権に関わる重要なシンボル・・・
 ・・・深く考えなくてもハタならば「重要なシンボル」であろう・・・
 「内臣以外の賜幢」の例としては、
 「泄帰泥」に与えられたものが一つだけある・・・「泄の帰の泥」・・・排泄物も泥も同じ?
 部族をひきいて、
 魏に帰属した
 「泄帰泥」にあたえたもの・・・
 「曲蓋・鼓吹を与えて、元通り住まわせ、
  鮮卑族に対抗させた」
 という記録である・・・らしい・・・研究、勉強家はスゴイねッ・・・
  ↓↑
 日本語訳は『三国志』
 魏書・烏丸鮮卑東夷伝
 『世界古典文学全集24B三国志?』筑摩書房
 (現在は筑摩文庫にも収録されている)291頁にある・・・らしい。
  ↓↑
 武田幸男の黄幢の見解
 中央公論社版
 『世界の歴史6隋唐帝国と古代朝鮮
  第2部朝鮮の古代から新羅・渤海へ』1997年
 (中公文庫版は2008年刊 332頁~336頁)
  ↓↑
 「魏は倭の難升米に黄幢授与することにした。
  「幢」というのは、
  袋状の軍旗であり、
  「黄」色陰陽五行説にいう五行の一つ、
  魏の土徳を意味していて、
  黄幢は魏の軍事力を象徴した。
  黄幢の授与を通じて、
  魏は軍事的連携をはかったのであろう。
  おりしも、
  魏の高句麗攻撃が最高潮にたっし、
  母丘倹が東方世界を制圧しかかっていたころである。
  帯方郡が
  黄幢を届けるまで
  三年かかったのも
  郡自体が作戦の展開中だったからである。
  難升米は魏が注目し、
  高く評価した人物であった。
  卑弥呼が男弟一人を頼りに
  神聖統治の宗教的な統括者として
  振る舞う中で、
  大夫の難升米は行政実績があり、
  すでに外交手腕も認められて、
  世俗面を代表する重鎮であった。
  魏は外交辞令だけで、
  率善中郎将に任じたのではなかった。
  今度は、
  外臣としての彼に、
  軍事的な指導性が期待された。
  女王国は、
  魏の東方戦略に組み込まれていたのである・・・
  ↓↑ 
 卑弥呼の軍団に
 外国人の軍事顧問がついたのである。
 黄幢の軍事的意味あいは、
 当面、
 卑弥弓呼の打倒に向けられていたはずである。
 結局、
 張政が
 翌248年に還ったところをみると、
 それが少しでも効いたのかも知れない」
  ↓↑
 ・・・「さすが、武田幸男」ですか?・・・
  ↓↑
 先の「栗原(論文)」の
 黄幢についての見解の紹介で
 脱落していた重要な指摘に、
 呉が、
 公孫淵に与えた詔書の件があった。
 三国志呉志の注で、
 「裴松之」は
 「江表伝」を引用しているところの記述である。
 呉王の孫権が
 公孫淵に送った詔書のことである。
 公孫淵を
 「燕王」とするとともに、
 「戎事あれば兵馬の
 「典蓋・麾幢」を与える」・・・麾(さしまねく・キ
                軍を指図する旗)の幢
                麾下の旗
                靡(なびく)に類字
 記されている・・・・そうである・・・
  ↓↑
 橿原日記
 平成20年9月14日
 黒塚古墳から出土した
 用途不明のU字形鉄製品
 原文記事は以下
  ↓↑
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_09_15.htm
  ↓↑
 用途不明のU字形鉄製品
 県立橿原考古学研究所(以下、橿考研)
 の発掘調査報告書によれば、
 大小2本のU字形に曲げられた鉄製品は、
 木棺の北小口の外側に置かれ、
 石室の北東の隅に立てかけてあった。
 2本の鉄棒の間にはV字形をとどめる鉄板製の管があり、
 大半は崩落していたが、
 U字形鉄棒の間をつないだ形を保つ部分だったと思われる。
 この製品の両側に接して、
 全長40cm前後の棒状鉄製品が立てた状態で5点、
 横にして移動した状態で9点出土したとのことだ。
 発掘当時、
 この大小2本のU字形に曲げた鉄製品が
 何であるか類推できなかった。
 そのため調査報告書でも
 「用途不明の鉄製品」と記されている。
 謎のU字形鉄製品は、
 両端がとがった長さ約70cmと57cmの
 鉄の棒をU字形に曲げ、
 その間に長さ5cmのパイプ(鉄板を丸めたもの)を
 V字形に並べパイプの中にひもを通して結びつけていたようだ。
 その後、X線撮影で調べてみると、
 リボンのような絹織物が巻き付けてあったことが判明した。
 そのため、
 一種の吹き流しのようなものではなかったかと想像された。
 だが、他に出土例がなく相変わらず
 その形状や使用目的は謎のままだった。
  ↓↑
 印綬を授かったのは、
 女王卑弥呼だけではない
 239年
 遣魏使節の
 大夫・難升米(なしめ)
 次使・都市牛利(つしぐり)・・・都も市の牛の利?
 もそれぞれ
 銀印青綬を受けている
 243年(正始四)に派遣された
 大夫・伊声耆(いえせき)・・・伊の声は
                耆(おいる・ギ・シ・ジ
                老人・六十歳or八十歳)
                伯耆国(ほうきのくに)は
                鳥取県
 掖耶狗(えきやく)
 ら8人もみな
 率善中朗将の印綬を受けている
  ↓↑ 
 邪馬台国の所在地を示す物的証拠
 黄幢(こうどう)である。
 黄幢の「幢」とは、
 軍事指揮や儀仗行列に用いられる
 旌旗(せいき)の一種で、
 天子が部下に権限を付与した印しとして与えた
 遼陽北園墓の墓室には、
 騎従が持つ
 幢が描かれている。
 幢形のものが
 二つ重なり、
 上は黒、
 下は赤に塗られ、
 上のものは
 丸い傘状のものの下に
 短い垂れ下がりがあり、
 下の方は
 鳥の長い羽毛が垂れている図である
  ↓↑
 三国志・魏書東夷伝
 245年(正始六)5月
 魏の
 母丘倹(かんきゅうけん)、高句麗に侵攻
 楽浪郡の軍隊とあわせる。
 詔して倭の難升米(なしめ)に黄幢を賜い、
 郡に付して假授せしむ。
 247年(正始八)
 太守王斤頁(おうき)、官に到る。
 倭の女王卑弥呼、 狗奴國の男王卑弥弓呼
 と素より和せず。
 倭の
 載斯(さいし)・烏越(うえつ)らを遣わし
 郡に詣り、
 相攻撃する状を説く。
 塞曹エン史
 張政
 らを遣わし、
 因って
 詔書
 黄幢
 をもたらし、
 難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す・・・
  ↓↑
 発掘中の黒塚古墳の石室内
 U字形鉄製品を見て、
 「黄幢」と直感した考古学者がいる。
 徳島大学の
 東潮教授である。
 そのとき、この鉄製品が
 難升米が貰った黄幢ならば、
 銀印があるかもしれないと、
 発掘調査員に話したという。
 しかし、棺外の北小口にあった
 画文帯神獣鏡付近や棺内から
 銀印は見つからなかったとのことだ・・・
  ↓↑
 中国の三国時代
 魏の曹氏
 蜀の劉氏
 呉の孫氏
 と
 公孫氏 が、
 燕
 という国を建てて遼東の地を支配
 燕と対峙した
 魏は、ひそかに
 黄海を越えて
 帯方郡と楽浪郡を掌握すると、
 燕王の退路を絶ってこれを攻めた。
 燕王公孫淵は敗死
 彼らが歴代にわたってきた支配領域は
 魏の支配する領域となった。
 西暦238年、
 魏の年号
 明帝の
 景初二年
  ↓↑
 239年(景初三)
 倭の女王・卑弥呼が 帯方郡を介して
 魏の都・洛陽に慶賀の使節を派遣した
 238年
 魏の
 司馬懿が
 公孫淵を討伐
 高句麗は
 燕に援軍を送ったが、燕は滅びた
  ↓↑
 242年(正始三)
 高句麗は西安平地区に侵入
 244年(正始五)
 魏の将軍
 母丘倹(かんきゅうけん)が
 高句麗に侵攻し、
 国内城を陥落させた
 245年(正始五) 楽浪郡太守
 劉茂
 と
 帯方郡太守
 弓遵
 は、遼東の
 濊(ワイ)=氵+歳
 が
 高句麗についたので、軍を派遣してこれを伐った
 同年の
 五月
 母丘倹は高句麗に侵攻し、
 楽浪郡からの援軍と合流して戦った
 246年(正始七)
 母丘倹は高句麗の領土に侵攻
 魏が倭の
 大夫
 難升米
 に
 黄幢(こうどう)
 を授けたのは、
 魏と高句麗が緊張状態にあった最中のこと・・・である・・・
  ↓↑
 東教授が
 黒塚古墳の石室の片隅で見つかった
 U字型鉄製品に注目された理由・・・
 この鉄製品が本当に
 難升米に仮授された
 黄幢ならば・・・
 倭が魏の
 冊封体制に組み込まれ、
 倭の軍隊が
 広開土王の軍と干戈を交える
 150年も前から
 高句麗を仮想敵国としていた・・・
  ↓↑
 ただし、この黄幢に関してはさまざまな疑問がある。
 まず、
 なぜ倭国の女王である
 卑弥呼に対してではなく、
 難升米に対して仮授したのか。
 また、
 「仮授」とは仮に貸し与えることで、
 永久に授与するという意味ではない。
 つまり、
 仮授された
 黄幢
 は戦争が終われば
 返還すべき性質の旌旗であるということだ。
 それが
 何故古墳に埋納できたのか?
ーーーーー
 ・・・いやぁ~、以上の考察は面白かったデス・・・
 ・・・ナゼですか?
 多分、「黄の幢」が巾の童で、「巾の立つ里」だったから・・・
 妄想デシタ・・・カナ・・・「天地玄黄=黄幢=黄龍旗」・・・ハタハタの漢字「鰰・鱩・雷魚・燭魚」・・・

 

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「メソポタミア(Mesopotamia)」・・・目(女)素補多視丫(ア・蛙)?

2016-10-27 23:32:47 | 古事記字源

 ・・・「三笠宮の訃報(102歳)」ですか・・・カラー(collar)映画、「メソポタミア」を学校鑑賞で観た「黄色のカラー映像風景」、タイトルの「メソポタミア(Mesopotamia)」とその時に出ていたのが発掘の「三笠宮様」の姿で、彼の名前だけが印象に残っている。雑誌の付録「世界の七不思議・3大文明(黒沼健)」の頁(page)は何度も開いてはみていたが、「三笠」の名前を記憶しているのは多分、同じころにオジ(母の姉の夫)さんに三笠市の桂沢ダム湖に連れて行ってもらい、「菊石=アンモナイト(ammonite)」見学と、昼時に現地の食堂で夏だったのにもかかわらず、「鍋焼きうどん」を食べたコトが重なっていたからだろう・・・ブログで調べてみると、この映画を観たと云う人のブログもあった・・・映画自体の記事は・・・劇場公開日が1957年10月15日とあった・・・
ーーーーー
 ・・・20時10分、大谷二塁打・・・38分、田中賢介、走ったッ、同点ッ!・・・21時30分、西川遥輝(はるき・1992年4月16日)の満塁ホームラン・・・マサに劇的、さよならッ!!・・・
 壬申(己壬庚)
 甲辰(乙癸戊)
 壬戌(辛丁戊)子丑
  ↓↑
 壬午(丙丁)27日
 辛亥(戊甲壬)21時
  ↓↑
 ルイス・アロンソ・メンドーサ・ロドリゲス
 (Luis Alonso Mendoza Rodríguez)もスゴカッた・・・
 1983年癸亥(戊甲壬)
  10月壬戌(辛丁戊)
  31日壬辰(乙癸戊)午未
ーーーーー
  ↓↑
 「メソポタミア」
 劇場公開日 1957年10月15日
 東京大学イラク・イラン遺跡調査団に随行した
 中村誠二キャメラマン
 (「カラコルム・ヒンズークシ学術探検記録カラコルム」)
 と
 桑野茂の両氏が
 メソポタミアを中心に撮影した
 日本初の大型記録映画。
 エジプトのピラミッドに始り、
 イラクの首都バグダード、
 北メソポタミアのテル・サラサート、ペルセポリス宮殿遺跡
 などを収録した。
 音楽は「智恵子抄(1957)」の
 團伊玖磨、・・・・・・歌曲集「五つの断章(北原白秋詩)
            オペラ「夕鶴」を作曲
            漢字の「團」は中国語で卑猥?で
            「團=団」の名前を嫌った?
            北京で
           「あなたの名刺は、
            女の人には見せられません」と云われ
            野間宏の
           「真空地帯」が
            中国で映画化された際も、
           「音楽 段伊玖磨」と直された
            ・・・(ウイッキペデアより)
 解説は
 小沢栄太郎。・・・・・悪役の名ワキ役で、嫌いだったが・・・
 色彩はイーストマンカラー
  ↓↑
 バグダードからティグリス河を遡り、
 北メソポタミア原野の西方に
 小丘テル・サラサートがある。
 一九五六年十月、
 東大イラク、イラン調査団が
 十年計画で発掘を開始、
 三笠宮を迎えて鍬入式を行い、
 六~七〇〇〇年前の・・・
 原題  Mesopotamia
 製作年 1957年
 製作国 日本
 配給  東宝
ーーーーー
 とあった・・・
ーーーーー
 メソポタミア
 (ギリシャ語=Μεσοποταμία
  ラテン文字転写=Mesopotamia
 ギリシャ語で
 「複数の河の間・河の間の土地」
 二つの
 チグリス川
 と
 ユーフラテス川
 の間の沖積平野
 イラクの一部
 ↓↑
 シュメール人 (Sumerian)
 世界最古の文明
 大河を利用した灌漑農業
 BC3500年頃~
 楔形文字
 青銅器が普及させた
 ↓↑
 BC3000年頃
 太陰暦
 楔形文字
 60進数法
 等を考え出した
 オリエント文明の中心地域
 シュメール人、
 セム系、
 インド=ヨーロッパ語系
 の民族が
 バビロニア、アッシリア、ペルシア帝国として興亡
 メソポタミアに生まれた複数の文明の総称
 地域
 北部がアッシリア、
 南部がバビロニアで、
 北部バビロニアが
 アッカド(ムロデ王国の四つの都市のひとつ)
 ヒッタイト、ミタンニ、エラム、
 古代ペルシャ人の国々、
 下流地域の
 南部バビロニアが
 シュメールとさらに分けられる
 ↓↑
 旧約聖書の始祖
 アブラハムはメソポタミアの都市ウルの出自
 エデンの園はメソポタミアの都市
 バベルの塔はジッグラト
 ノアの洪水は当地での大洪水・・・?
  ↓↑
 暦は太陰太陽暦
 1週間を7日(七曜)
 占星術(天文学)
 など
 「カルデア人の智恵(カルデアはメソポタミアの別名)」
 六十進記数法
 金属の鍛錬
 車輪の発明
 楔形文字
 の創始
 記録媒体は粘土板で
 楔形文字によって
 ハンムラビ法典が記録
 ミタンニのアッカド語は外交用語
 エジプト第18王朝の
 外交文書(アマルナ文書)
 に、その言葉で記録
  ↓↑
 交易範囲
 エジプト文明やインダス文明との交易
 シュメールやバビロニアでは
 食物、必需品を貯蔵し
 宮殿や都市の門において分配
 バザールで手工業品の販売
 タムカルムと呼ばれる身分型の交易者が存在
 仲買人、代理人、競売人、保管人、銀行家
 仲裁人、旅商人、奴隷取締官、徴税吏
 などを専門担当
 バビロニアにおいては
 対外市場は存在しなかった・・・
 キュロス2世は、
 ギリシア人の市場制度を理解せず、非難
 ハンムラビ法典には、
 損害賠償、負債取り消し、
 報酬、等価
 などの概念を記述
  ↓↑
 紀元前539年
 ペルシャ帝国(アケメネス朝)
 オリエント全域を支配
 紀元前5世紀初め、
 太陰太陽暦は
 天文学、数学の発達で
 メトン周期を計算
  ↓↑
 メソポタミアの神々
 多神教が
 時代の支配民族によって、
 最高神は変遷
  ↓↑
 アンシャル - 天国の父
 アヌ - 最も高い天国の神
 アプスー - 神々と地下世界の海の支配者
 アシュル - アッシリアの国神
 ダムキナ - 地球の母なる女神
 エア - 知恵の神
 エンリル - 天候と嵐の神
 エヌルタ - 戦争の神
 ハダド - 天候の神
 イシュタル - 愛の女神
 キングー - ティアマトの夫
 キシャル - 地を司る女神(アンシャルの妻にして妹)
 マルドゥク - バビロニア人の国神
 ムンム - 霧の神
 ナブー - 書記の守護神
 ニンツ - 全ての神々の母
 シャマシュ - 太陽と正義の神
 スィン - 月の神
 ティアマト - 原初の女神
 ラフム アプスーとティアマトの子
     ラハムの夫
     アンシャルとキシャルの父
 ラハム アプスーとティアマトの娘
     ラフムの妻
     アンシャルとキシャルの母。
  ↓↑
 車輪は最古の発明
 起源は紀元前5千年紀(ウバイド期)・・・
 星占術、暦法
 アッシリアの暦は
 ユダヤ暦の基礎
 ワインは支配階級
 ビールは一般市民
 が飲んでいた・・・
 ワインやビールのサービスや商売をするのは女性
 ハンムラビ法典では、
 酒の量をごまかしたら
 死刑・・・
ーーーーー
 ・・・酒の量をごま(誤魔化)したら「死刑」・・・でも、アルコールを飲むことは「禁酒・刑事罰」ではなかった・・・
ーーーーー
 三笠宮崇仁親王
 1915年(大正4年)12月2日
  ~
 2016 年(平成28年)10月27日)
 皇族
 歴史学者(古代オリエント史)
 陸軍軍人(最終階級は陸軍少佐)
 大正天皇と貞明皇后の第四皇男子
 昭和天皇の弟
 今上天皇の叔父
 称号は澄宮(すみのみや)
 身位は親王
 敬称は殿下
 勲等は大勲位
 称号は東京芸術大学名誉客員教授
 お印は若杉(わかすぎ)
  ↓↑
 1935年(昭和10年)12月2日
 「三笠宮」の宮号
 崇仁親王が成年式で賜ったもの
 奈良市の
 三笠山
 に因(ちな)んで命名
 阿倍仲麻呂の和歌
 「天の原 ふりさけみれば
  春日なる 三笠の山に いでし月かも」
 に出る
  ↓↑
 太平洋戦争=大東亜戦争
 開戦後
 陸軍大尉時代の
 1943年(昭和18年)1月~1944年(昭和19年)1月
 まで、
 コードネーム「若杉」
 として
 南京の支那派遣軍総司令部に勤務
 三笠宮は
 「軍は中国との戦争が長引き戦闘が泥沼状態になっており、
  軍紀が乱れている者が一部いる事を
  深く反省すべきである」
 と総司令官の対中政策に抑えた・・・
 若杉の正体は秘匿されていた
 支那派遣軍勤務中に
 中国語の通訳
 木村辰男から中国語と中国事情を学ぶ
 その後、
 大本営参謀に転出
  ↓↑
 帰国後、戦争終結を摸索
 同僚の
 津野田知重陸軍少佐らと共に
 東條内閣打倒のクーデター計画を立てる
 東條英機暗殺、
 主戦派数百名大量粛清
 などその過激な内容に躊躇し、
 自ら憲兵隊に通報・・・
 津野田らは逮捕
 クーデター計画は未遂
 (津野田事件)
  ↓↑
 事件への関与は明白ではあったが不問
 1944年(昭和19年)9月
 陸軍機甲本部付に異動
 津野田はじめ他の将校も軽い処分
 1945年(昭和20年)4月
 終戦時の階級
 陸軍少佐
 航空総軍参謀
 1945年(昭和20年)8月12日
 皇族会議が召集
 昭和天皇が終戦の決意
 三笠宮は
 「忠実に実行したい」と語った
 8月13日
 阿南惟幾陸軍大臣が
 昭和天皇に徹底抗戦に翻心させようと
 三笠宮に説得を願い出たが
 「陸軍は陛下の大御心に反する」
 と断り、阿南を叱責・・・
  ↓↑
 1947年(昭和22年)4月
 東京大学文学部の研究生
 歴史学を学ぶ(オリエント史)
 1955年(昭和30年)
 東京女子大学で講師
 青山学院大学、
 専修大学、
 天理大学、
 拓殖大学
 でも教壇に立った
 日本オリエント学会の会長
 1979年(昭和54年)
 出光佐三(出光興産創立者)
 の協力を得て
 東京都三鷹市に
 中近東文化センターを設立
 センター総裁
 2006年(平成18年)
 同センター図書室は
 「三笠宮記念図書館」と命名
 1991年(平成3年)
 フランスの
 「碑文・文芸アカデミー」
 の外国人会員に就任
 1994年(平成6年)6月
 ロンドン大学東洋アフリカ研究学院
 の名誉会員に就任
 1950年代後半
 神武天皇の即位は神話であり史実ではないと強く批判
 復活反対の論陣を張った
 このため「赤い宮様」とも・・・
 復活を推進する人々は
 三笠宮を激しく非難し、
 里見岸雄
 野依秀市
 は、
 三笠宮を「無責任・非常識・左翼」と罵倒
 皇族の身分を離れることを要求する著作を公表
  ↓↑
 90歳前後
 心臓の僧帽弁に異常発生
 僧帽弁閉鎖不全で入退院
  ↓↑
 2015年(平成27年)12月2日
 紀寿(満100歳)
 2016年(平成28年)10月27日8時34分
 東京都中央区の聖路加国際病院で薨去
 満100歳没(享年102)・・・
  ↓↑
 古代オリエント史、
 特に
 アナトリア考古学を専門とする歴史学者として知られ、
 長らく東京女子大学などで
 古代オリエント史の講義を担当
 語学にも堪能で、
 流暢な
 中国語
 ヘブライ語
 を操る
 「菊のカーテン」という言葉を最初に使った
ーーーーー
  ↓↑
 三笠市
 明治時代に存在した
 当時の「自由党」員が収監された
 空知集治監の建物の裏山が
 奈良の三笠山に見えたことから・・・
 皇族である三笠宮が軍人であった為、
 地政学的に対ソ連を視野に入れていた事から、
 験を担ぎ三笠という地名として改めて定めた・・・
 対ソ連に関する戦略的位置づけとした為に命名・・・
 三笠市は夕張郡であり、
 夕張には三笠宮家を含めた皇族と
 スキー関連で深い繋がりがある・・・
 三笠市
 空知地方南部に位置
 西以外の三方を山に囲まれた地形
 市東部には
 桂沢湖がある
 エゾミカサリュウ
 アンモナイト
 など、多くの化石を産出
  ↓↑
 三笠・・・・見歌作?・・・
 山々
 幾春別岳 (1068m)
 幌尻岳 (836m)
 達布山
 三笠山(観音山)
  ほか
  ↓↑
 1888年12月10日官営幌内鉄道延伸。郁春別駅開駅
 1889年5月28日郁春別駅が幾春別駅に改称
 1889年12月11日官営幌内鉄道が北海道炭礦鉄道に譲渡。
 1906年4月1日空知郡幌内村、幾春別村(いくしゅんべつ)
        市来知村(いちきしり)の一部が合併
        二級町村制
        空知郡三笠山村となる(三村合併)
 1906年10月1日北海道炭礦鉄道が国有化(日本国有鉄道)
 1909年10月12日国有鉄道線路名称が設定され、
        岩見沢~幌内間
        幌内太~幾春別間が
        幌内線となる
 1913年9月11日萱野駅開駅
 1923年4月1日一級町村制
 1929年12月15日唐松駅開駅
 1938年森林鉄道14.6km竣工
 1942年9月1日町制施行及び改称、空知郡三笠町
 1944年4月1日幌内太駅が三笠駅に改称
 1944年3大字を11字に再編
 幌内村 → 萱野、大里、三笠、幌内、唐松、弥生
 幾春別村 → 清住、弥生、幾春別、奔別、桂沢
 市来知村 → 岡山、三笠、清住
 炭鉱都市は
 1989年
 北炭幌内炭鉱が閉山で衰退
  ↓↑
 戦艦三笠
 イギリスのヴィッカースに発注され建造
 敷島型戦艦の四番艦
 奈良県にある三笠山(若草山)に因(ちなん)で命名
 1904年(明治三十七年)~
 日露戦争で
 連合艦隊旗艦
ーーーーー
 ・・・臥薪嘗胆・・・

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うまし-まじ-の-みごと・・・レアーズの寿司・・・

2016-10-26 23:09:14 | 古事記字源

 ・・・昼過ぎから突風と雷光、雷鳴、雷雨・・・それでも庭のシロコスモスの中で、バラの花、2輪がピンク色で耐えているが・・・「秋桜(ピンク色のコスモス・Cosmos・Cosmos bipinnatus Cav・キク(菊)科コスモス属の総称・オオハルシャギク(大春車菊、大波斯菊・Cosmos bipinnatus)」は漢字で一般的には「秋の桜」で、納得だが、「大-春-車菊」、「白色のコスモス」は、漢字では「?」であるなッ、サクラも色々であるから「秋の白桜」か?・・・「万葉仮名=漢字の音だけを借用した」とも思えないが・・・コスモスの花言葉は「乙女の純潔・乙女の真心・美麗・調和・謙虚」で、「白いコスモス(White Cosmos)」の花言葉は「優美」であるらしいが、調べてみたら「むくげ(木槿・モクキン)」にも似ているが、「むくげ」の花言葉は、
 「むくげの古学名はAlthaea frutex(低木タチアオイ)」
 「タチ-アオイは12世紀ごろに十字軍によって
  シリアから運ばれてきた
  花言葉は「十字軍の信念」かららしいが・・・「絶ち葵(徳川幕府)」?
 「しろ」は「やまとことば」・・・「物実=ものしろ・ブツジツ=真実の実=しろ・代用出来ないソノモノ=特殊個別的で独自であるモノ」・・・「代(しろ)→八代(?)」・・・「しろ=ハッキリ、はっきりしている色・白は色(colour・color)ではなく、色々のハッキリした色」と云うコトらしい。「明暗」で「其の物の色、形」が明確に判断出来る、と云うコトである・・・「大和コトバ」では「あか、くろ、あお、しろ」しかないらしい(?)が、宮廷コトバの「方言」である。では「黄色=黄(き・こ・オウ・コウ)」はどうなんだか、「黄紙・黄幡・黄威(きおどし)・黄緯(こうい)・黄衣(こうえ)・」・・・
 「黄紙(きがみ・オウシ)=江戸時代、奉行などが上司に差し出す伺い書に添付した黄色の紙片・経巻を書くのに用いた、黄蘖(きはだ)で染めた紙=黄麻紙(オウマシ)」とは「大麻→當麻・当麻」だろう、
 「黄幡=九曜の1つ、月日の光を覆って、食(日月食)を起こす羅睺(ラゴウ)の旗・葬儀用の黄色の旗・暦注の八将神の一」で、
 「ユリウス歴」ならば
 「西暦247年3月24日夕刻」、
 「西暦248年9月5日朝に皆既日食」があったらしい・・・
  ↓↑
  正始八年(247年3月24日夕刻)
  丁卯年癸卯月庚午日・水曜日・友引
  丁のウサギ(卯=兎)
  癸のウサギ(卯=兎)・・・鸕(鵜)野讃良=持統天皇
  庚のウマ(午=馬)・・・・邪馬台国・蘇我馬子
              「うましまじ=宇摩志麻遅
                     可美真手
                     味間見」は
                     物部氏の祖
                     穂積氏
  水曜日の友引
  ↓↑
  正始九年(248年9月5日朝)
  戊辰年庚申月辛酉日・火曜日・友引
  戊のタツ(辰=龍)・・・・・・劉
  庚のサル(申=猿)・・・・・・猿田毘古・猿女=宇受女
  辛のトリ(酉=鳥・禽・鶏・鷄)・・・「雞」=阿毎王朝
        「俀王姓阿毎、字多利思北孤、號―阿輩雞彌」
         「王妻-號-雞彌」
  火曜日の友引
  ↓↑
 「正始八年(247年)→3月24日夕刻
  帯方郡太守として
  王頎が着任
  倭国は帯方郡へ
  載斯烏越ら使者を派遣し、
  親魏倭王の女王
  卑彌呼と
  奴国の男王
  卑弥弓呼との紛争を
  王頎に報告
  太守は
  塞曹掾史の
  張政らを派遣し、
  詔書、
  黄幢(魏帝軍旗)を
  難升米(なしめ)に授けて和平を仲介・・・?
  ↓↑
  正始八年(247年)・丁卯年
  邪馬台国の卑弥呼が、
  狗奴国と卑弥弓呼との紛争で、
  卑弥呼が死去し、
  大塚がつくられ、100人が殉葬。
  後、
  男王が立ち、
  内戦、内乱で1000余人死亡。
  卑弥呼の宗女、
  十三歳の少女の
  壹(臺)與が擁立され、
  倭国に派遣された
  張政は
  黄幡
  と
  檄文をもって
  壹(臺)與を諭し、
  後、
  壹(臺)與は
  倭国の大夫率善中郎將の
  掖邪狗ら二十人を
  張政に随行させ
  魏に派遣し
  魏に代って成立した
  晋の皇帝(武帝)に朝貢(魏志倭人伝)」
ーーーーー
  ↓↑
 ・・・時系列は
 卑弥呼の死去
  ↓
 十三歳の乙女の壹(臺)與の擁立
  ↓
 張政の「黄幡=日食、葬儀の象徴」
 ではなく、
 「卑弥呼の死去
  ↓
 張政の黄幡=日食、葬儀の象徴=卑弥呼の死去(墓)と
  ↓             慰労の象徴
 十三歳の乙女の壹(臺)與の擁立」
 だろう・・・
ーーーーー
 2016年 干支33 丙申(己壬庚)年
  10月 干支35 戊戌(辛丁戊)月
  26日 干支18 辛巳(戊庚丙)日
ーーーーー
 ・・・19時30分からの「白黒の結果」は・・・北海道決戦の全段階・・・Fighters・・・
ーーーーー
 ブログニュース記事から抜粋し、少々、頭出しを改作添付・・・
  ↓↑
 ヒトと植物の細胞の融合に成功
 大阪大学などの研究チームが世界初
 2016年10月26日 10:25 
 約16億年の年月を経てヒトと植物の染色体が再会
 ――大阪大学大学院工学研究科などの研究チームは
 10月24日、
 ヒトと植物の部分的な細胞融合に世界で初めて成功したと発表
 ヒトの細胞環境下で
 植物の染色体が維持されることなどを確認・・・
 植物と動物は
 16億年前に共通の祖先から
 分岐したと考えられている。
 それぞれ、
 細胞には
 DNAや染色体など共通の構造もあるが、
 機能がどの程度保存されているかは不明だった。
 ヒトと植物双方の染色体を持つ融合細胞を作製する試みは
 過去にいくつか行われてきたが、
 増殖可能な融合細胞の作製に成功した報告はなかった・・・
 研究グループは今回、モデル植物である
 シロ-イヌ-ナズナ由来の細胞と
 ヒト細胞を融合する条件・方法を検討し、
 部分的だが融合細胞の獲得に成功・・・
 融合細胞は、ヒトの全染色体を維持しており、
 ヒトと同等の細胞環境と考えられるが、
 細胞内に、
 植物の染色体領域を持つ
 「ヒト/植物染色体」が観察された。
 この融合細胞を培養すると、
 「ヒト/植物染色体」の構造が変化し、
 植物染色体の部分だけが抜け出て
 独立した植物染色体を形成。
 ヒト細胞環境下で、
 植物由来の染色体が独立に維持されており、
 ヒト染色体を維持する仕組みが
 植物染色体にも働くことが分かった。
 研究成果は10月4日に
 米科学誌「ACS Synthetic Biology(オンライン)」に掲載
ーーーーー
 ・・・で、「黄-色」だが・・・あるねッ・・・
 「黄海」=コウカイ=「紅海」・・・
 浅黄(あさぎ )・黄牛(あめうし )・薄桜萌黄(うすざくら・もえぎ )・薄萌黄(うすもえぎ )・黄緯・黄衣・黄鉛・黄化・黄褐色・黄巻赤軸・黄牛・黄玉・黄経・黄血塩・黄犬契約・黄鉱・黄金・ 黄金葛(おうごんかづら)
 黄=き・こ・うい・れい・かつみ
   オウ(ワウ)・コウ(クワウ)
 「黄冊(こうさつ)・黄土(おうど)・黄幡(おうばん)・黄枇(わんぴ)・黄埃(こうあい)・黄檗(おうばく)・黄蘗(おうばく)・黄疸(おうだん)・黄耆(おうぎ)・黄袍(おうほう)・玄黄(げんこう)・蛋黄(たんこう)・硫黄(いおう)・姜黄(きょうおう)・黄濁(こうだく)・黄帝(こうてい)・黄桃(おうとう)・黄斑(おうはん)・黄膚(きはだ)・硫黄(ゆおう)・黄苑(きおん)・黄鶯(こうおう)・黄菅(きすげ)・黄鯛(きだい)・黄蝶(きちょう)・黄橡(きつるばみ)・韮黄(ジョウホワン)・黄櫨(はじ)・黄櫨(はぜ)・黄櫨(はぜのき)・黄櫨(こうろ)・黄櫨(はじのき)・黄櫨(はにし)」
  ↓↑
 「黄」の四字熟語
 「黄衣廩食(こういりんしょく)」
 「黄茅白葦(こうぼうはくい)」
 「黄金時代(おうごんじだい)」
 「黄絹幼婦(こうけんようふ)」
 「黄裳元吉(こうしょうげんきつ)」
 「黄塵万丈(こうじんばんじょう)」
 「黄中内潤(こうちゅうないじゅん)」
 「黄道吉日(こうどうきちにち)」
 「黄髪垂髫(こうはつすいちょう)」
 「黄髪番番(こうはつはは)」
 「黄霧四塞(こうむしそく)」
 「黄粱一炊(こうりょういっすい)」
 「口中雌黄(こうちゅうのしおう)」
 「青蓋黄旗(せいがいこうき)」
 「抽黄対白(ちゅうこうたいはく)」
 「天地玄黄(てんちげんこう)」
 「牝牡驪黄(ひんぼりこう)」
 「槁項黄馘(こうこうこうかく)」
 「黄」を含むことわざ
 「嘴が黄色い(くちばしがきいろい)」
 「黄泉の客(こうせんのきゃく)」
 「黄梁一炊の夢(こうりょういっすいのゆめ)」
ーーーーー
 21時40分・「辛巳(戊庚丙)日・己亥(戊甲壬)時」・・・
  ↓↑
 やったぁ~、レアード、2ラン・・・ウマシ、マジの「鮨・寿司」・・・
 ブランドン・J・レアード(Brandon J. Laird)
 1987年丁卯(甲乙)
   9月己酉(庚辛)
  11日癸亥(戊甲壬)・子丑
ーーーーー
 以下の四文字を変換したら・・・
  ↓↑
 黄金時代(オウゴンジダイ)
 黄衣廩食(コウインリンショク)
 黄花晩節(コウカバンセツ)
 黄絹幼婦(コウケンヨウフ)
 槁項黄馘(コウコウコウカク)
 稾項黄馘(コウコウコウカク)
 黄裳元吉(コウショウゲンキツ)
 黄塵万丈(コウジンバンジョウ)
 黄中内潤(コウチュウナイジュン)
 口中雌黄(コウチュウシオウ)
 黄道吉日(コウドウキチニチ)
 黄白青銭(コウハクセイセン)
 黄髪垂髫(コウハツスイチョウ)
 黄髪番番(コウハツハハ)
 黄茅白葦(コウボウハクイ)
 黄霧四塞(コウムシソク)
 黄粱一炊(コウリョウイッスイ)
 黄粱之夢(コウリョウのゆめ)
 数黒論黄(スイコクロンコウ)
 青蓋黄旗(セイガイコウキ)
 青苔黄葉(セイタイコウヨウ)
 抽黄対白(チュウコウタイハク)
 天地玄黄(テンチゲンコウ)
 牝牡驪黄(ヒンボウリコウ)
ーーーーー
 あめ-うし=黄牛=あめ-うじ
       飴色の毛色の牛
 おう=皇・黄=皇⇒コウ・黄⇒コウ
 オウ-エン=黄鉛
       クロム酸鉛を主成分とし
       黄色顔料
 オウ-カ=黄化
      植物がクロロフィルを欠き、
      緑色にならず黄色、白色化する
 オウ-カッ-ショク=黄褐色
          黄色みを帯びた茶色
 コウ-セン=黄泉
       死後の世界
 コウ-ヨウ=黄葉
       落葉樹の葉が黄に色づくこと
 あまさぎ=黄毛鷺・cattle egret
 き-だま=おう-ぎょく=黄玉・topaz
 オウゴンカイガン=黄金海岸
          アフリカ大西洋岸の国、ガーナ
ーーーーー
 黄泉国=黄泉比良坂(よもつひらさか)は、
     葦原中国の入り口
     「黄泉」=「陰府(よみ)・ハデス」
          ギリシャ語の「ゲヘンナ=地獄」
 「黄中内潤」=内面の才能、徳
        「黄中」=内面の中庸の美徳
             「黄」=五行の中央の色
ーーーーー
 ・・・トリアエズ・・・「寿の司」の一発の日・・・旨し、爻(まじ・交・厝・馬路・マジ)は「眞事(まジ)の眞字(まジ)」・・・

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