今日は、家族で瀬戸内市の長船刀剣博物館に行ってきました。
今まで刀というものにはあまり興味を持ったことがなかったのですが、名刀と呼ばれているものをあらためてよく観て、博物館の説明を聞いたり読んだりしていると、刀と言うものは、戦うための道具であるとともに、真の芸術品であるということもわかったような気がしてきました。
僕の愛読書の一つ、吉川英治の『宮本武蔵』には、刀に関して次のように書かれています。ちょっと長いですが、引用をしてみます。
由来、日本の刀は、人を斬り、人を害すために鍛えられてあるのではない。御代を鎮め、世を譲りたまわんが為に、悪を掃い、魔を追うところの降魔の剣であり―又、人の道を研き、人の上に立つ者が自ら誡め、自ら持するために、腰に帯びる侍のたましいであるから―それを研ぐ者もその心をもって研がねばならぬ
(吉川英治『宮本武蔵(四)』講談社文庫, 1977, p.406)
これは、物語に出てくる刀研ぎ師のセリフとして登場する部分です。この刀研ぎ師が店頭に「御たましい研所」という看板を掲げているのです。
また、宮本武蔵の描写として同書(p.408)には次のような部分もあります。
良い刀には、必然な魅力がある。武蔵が今、数本の中から握り取った刀には、鞘の上から握っただけでも、何かしら、それを鍛った刀鍛冶の魂が手にこたえてくるような気がした。(同上, p.408)
今日の美術館の展示にも刀の収集を趣味にしているのだろうというような多くの人がいました。
きっと、そのような人達は、刀を持った時のちょっとした緊張感と重量感の虜になっているのかななんて思いました。
今まで刀というものにはあまり興味を持ったことがなかったのですが、名刀と呼ばれているものをあらためてよく観て、博物館の説明を聞いたり読んだりしていると、刀と言うものは、戦うための道具であるとともに、真の芸術品であるということもわかったような気がしてきました。
僕の愛読書の一つ、吉川英治の『宮本武蔵』には、刀に関して次のように書かれています。ちょっと長いですが、引用をしてみます。
由来、日本の刀は、人を斬り、人を害すために鍛えられてあるのではない。御代を鎮め、世を譲りたまわんが為に、悪を掃い、魔を追うところの降魔の剣であり―又、人の道を研き、人の上に立つ者が自ら誡め、自ら持するために、腰に帯びる侍のたましいであるから―それを研ぐ者もその心をもって研がねばならぬ
(吉川英治『宮本武蔵(四)』講談社文庫, 1977, p.406)
これは、物語に出てくる刀研ぎ師のセリフとして登場する部分です。この刀研ぎ師が店頭に「御たましい研所」という看板を掲げているのです。
また、宮本武蔵の描写として同書(p.408)には次のような部分もあります。
良い刀には、必然な魅力がある。武蔵が今、数本の中から握り取った刀には、鞘の上から握っただけでも、何かしら、それを鍛った刀鍛冶の魂が手にこたえてくるような気がした。(同上, p.408)
今日の美術館の展示にも刀の収集を趣味にしているのだろうというような多くの人がいました。
きっと、そのような人達は、刀を持った時のちょっとした緊張感と重量感の虜になっているのかななんて思いました。