朝寝-昼酒-夜遊

日々感じたことを思いのままに書き散らすのみ。
※毎週土曜更新を目標にしています。

元禄忠臣蔵

2011年12月17日 06時20分57秒 | 歌舞伎・文楽
先週末は、後輩が出演する芝居を見に、東下り。
それだけのために交通費を払うのも勿体ないので、
ついでに国立劇場のチケットを予約した。



真山青果の「元禄忠臣蔵」からいくつか。
確か「御浜御殿」だけ見たことがあったかな、という程度。
今回は吉右衛門とその一座メインで、梅玉や魁春が参加するような顔ぶれ。

JRの四ツ谷から歩いたが、30分はかからない。
丁度良い距離。


「江戸城の刃傷」

梅玉の浅野内匠頭。
まあ正直、どうってことはない芝居。
幕臣たちの「助けたい」と思う人々の考えや、
内匠頭が従容と切腹の場に臨むあたりは
良い感じであったが、
歌舞伎として、別に見所のあるものでもないと思う。


「御浜御殿綱豊卿」

最初の御殿遊びの場面。
女連中のうだうだは、まあ普通。
芝雀の中臈と魁春の江島が絡むのだが、
どうも芝雀が遠慮気味に見える。役の上、というより役者同士の関係で。
後の助右衛門引き入れ後はそうでもなかったのだが。

吉右衛門の綱豊卿が入ってくる。
様子、酔いの内に憂いの籠もった調子は流石。
ただ、(この場面に限らず)全体にどうも台詞が入っていないようで、
微妙な語尾の延ばし方、間が気になった。

新井勘解由(白石)への綱豊卿の問いかけ。
梅玉の新井勘解由は、以前見た左團次に比べると
「師」の落ち着き・重みが感じられた。
それでも綱豊卿の方が大きく見えてしまうのは、
役の上でやむを得ないのかな。

浪士である富森助右衛門を呼び込み、綱豊卿とやり取り。
助右衛門は又五郎。
呼び込まれる際の掛け合い、やり取りの調子など、
一本気なこの浪士の調子・雰囲気が出ていた。
声・姿など、この役に合う役者だと思う。
また、上手く吉右衛門と絡んで
お互いに調子良く進めていたと思う。

能舞台にかかる場面はごく普通。
ここ、何となく蛇足と感じてしまうんだよなあ。


「大石最後の一日」

この部分は初めて見た。

大石には「初一念」を貫き通す、がベースにある。
そこから
「義士として扱われているが、調子に乗ってはいけない、
身を清めて、死を淡々と受け入れるべき」
と考え、例えば最初の義士の会話や
細川の殿様が入ってくる際の受け入れ方に出てくる。

そんな「義理」で動く大石が、
若い男女2人を会わせて良いか、を考え、
人情を受け入れて会わせる、といったあたりが、この芝居の軸なのだろう。

錦之助の磯貝は若々しく、
前髪のこの役によく合っていたと思う。
まあ、何がどうって役でもなかろうが。

芝雀のおみの。
最初の出は「男装している」設定なんだが、
どうも最初から女性に見えてしまった。
後はまあ、普通。
特に良い、とも思えなかったが違和感はなく。
大石を説得するところは、もう少し芯の強い感じを出した方が良いかな。
磯貝の気持ちを聞いた後で、自刃するだけの覚悟を持っている訳だし。

おみのを引き合わせる、おみのの父の友人(歌六?)が
真面目な様子をきっちり描かれていて良かった。

「切腹の申し渡し」や「切腹の場に渡っていく様子」などの処理が
難しい芝居だと思う。
最後のおみのの自刃や「初一念」を通すことへの拘りを見せるために
必要な場面だとは思うが、
バランスとしては少し重い感じがする。
まあ、それは私がこの芝居の重心を
「おみのと磯貝」の絡みに掛け過ぎているためかも知れないが。


20時20分頃終演。
バスで渋谷に出た。
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南座顔見世昼の部

2011年12月07日 10時33分05秒 | 歌舞伎・文楽


先週金曜は南座の顔見世に行ってきた。

社会人になって以降、顔見世は恐らく初めて。
学生時代、祖母とその友達に誘われて
(当時)孝夫+勘九郎の「九段目」等を見て以来だと思う。

今回は一番値段の安い、標高の高い席。
それでも5,500円、はちとキツいな。

ネットで見ていると夜の部の方がチケットを取りやすそうだったので、
とりあえず昼の部から見に行くことにした。


「寿曽我対面」

我當の工藤祐経、秀太郎の舞鶴、
孝太郎・愛之助の十郎・五郎。

まあ、何がどうってことはない祝祭劇。

愛之助の五郎が溌剌としており、
それを止める孝太郎の十郎も良い雰囲気。

我當の工藤祐経は、まあ普通。
特に大きさを感じる、という程ではないが、違和感は特になし。
高座へ着くあたり、少し歩き方が危なっかしかった。


「お江戸みやげ」

見たことはないし、
中身も全く知らない演目。
川口松太郎作で昭和36年初演らしい。

第一場は湯島天神の芝居茶屋。
娘と女方の役者が好き合っており、
娘の義母がそれに反対している、という設定。

何となく歌舞伎というより新派っぽい。
「娘の結婚に反対する」設定もだが、
「湯島天神」から「婦系図」を個人的に連想しているためかも知れない。
ここに主人公であるお辻・おゆうという2人の呉服商が出てくる。
三津五郎・翫雀がそれぞれの性格を、
やや誇張気味ではあるが、よく描いていたと思う。
お辻の転換は少し極端過ぎるかも知れないが、まあ、分かりやすい。

梅枝の娘は別にどうってことはない。
違和感もなく、お行儀良くやっている印象。
愛之助の役者は、少しなよなよし過ぎているかな、と感じた。

第二場は娘と役者の逢引から始まり、
芝居を見て感激したお辻が役者を座敷に呼ぶ。
娘の義母が娘と役者が逢引しているところに飛び込み、
「金を出せ」と言うのに対し、
酔って気の大きくなったお辻が一冬かけて稼いだ金で
立て替えてやる、という場面。

このあたり、お辻とおゆうの逆転や
お辻に引っ張られるおゆうの演技が面白い。

無茶なストーリーでもあるが、
酔った勢い、田舎の「所帯破れ」した女商人の感激、といったところが
きっちり設定されているので、
あまり不自然に感じずに済んだ。

第三場はその後、湯島天神の境内。
おゆうが気を利かせて、お辻と役者が2人きりになれるようにしてやる。
襦袢の片袖をお辻が受け取り、その後お辻とおゆうの対話で幕。

お辻と役者が喋っている場面で
おゆうの荷物が灯籠のところに残っているのが少し引っ掛かった。
2人きりになるように慌てて娘を引っ張っていくので、仕方がないのかも知れないが、
何か上手い処理の仕方はないかなあ。

この場面で、第一場で出た角兵衛獅子の兄弟が登場し、
「この季節だけの、江戸での出会い」を印象付け、
「お江戸みやげ」の科白の仕込みをする。
このあたり、上手く作られた脚本と感じる。

全体に、やはり歌舞伎らしくない
(声も掛け辛いし、実際掛かっていなかった)のだが、
分かりやすくとっつき易い作品だと思う。


「隅田川」

藤十郎の班女の前、翫雀の舟長。

班女の前の花道の出。
既に「気が狂うか狂わないか」のギリギリでここまで来ていると思うのだが、
半ば狂気の雰囲気が感じられなかった。
清元に乗っての足の運びなどは流石なのだが。

あと、笹?の動きが目に付くのだが、あまり快くない。
現実には音に乗ったりするものでもないのだが、
芝居としては班女の前の状況・「狂い」が表現されるように、
一度作られ、昇華された状態になっているべきではないか、と思う。

舟長の物語。
翫雀には特に期待していた訳でもなかったののだが、別に悪くもなかった。
きっちりやっており、それなりに情が出ていたように思う。

後の班女の前の狂いは美しく表現されていたと思うが、
正直、ちと眠かった。
昼食休みの後、この演目はキツい。

能でも一度見ておきたい演目ではあるな。


「与話情浮名横櫛」

木更津の「見染」とお馴染みの「源氏店」。

「見染」は初めて見た。
まあ、付けても悪くないが、
「源氏店」の仕込み、とすれば
(あるかどうか知らないが)もう少し密会の場面などを入れないと
分かりづらいかな。

この幕そのものは、別に大したものではない。
「見染」の場面のお富・与三郎、
特にその後の与三郎が「羽織が滑り落ちても気付かない」描写、
といったあたりの様式を楽しめば良いのだと思う。
時蔵のお富は声質からも元「深川芸者」らしい感じ。
仁左衛門の与三郎はトロンとした放蕩の雰囲気が出ており、
この場面の様式もこってりとして楽しめた。

「源氏店」は、
狂言回しの番頭との絡み。
番頭のお富を口説く科白は少ししつこく感じた。
後とのバランスではクサ目の方が良いのかも知れないが。

その後蝙蝠安と与三郎が入ってくる。
蝙蝠安は菊五郎。
個人的には、市井の垢染みた小悪党、だと思うのだが、
菊五郎のは若干水気が残っている感じ。
もう少し枯れている方が良いと思う。

仁左衛門の与三郎は、頬かむりをして、
石を蹴ったり門口で座ったりしている様子が綺麗。
「いやさお富、久し振りだなあ」からの名台詞も流石。
「百両百貫もらっても」や
「そりゃああんまりつれなかろうぜ」といったあたりは、
誰がやっても15代目羽左衛門の調子になるのかな。

お富を囲っている(色事は何もない、という)多左衛門は左團次。
やはりハラが薄い、と感じてしまう。

お富与三郎の様子や台詞の調子で、全体には満足。










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秀山祭昼の部

2011年09月27日 21時27分17秒 | 歌舞伎・文楽
歌舞伎座が閉じているので、
今年の秀山祭は新橋演舞場で公演されている。

【新橋演舞場】


幕見席がないのが辛いところだが、まあ、仕方がないか。
1階の後ろの方の席であり、2階席の下に位置するのだが、
割と天井が高く、あまり圧迫感もない。
今後も、無理に1階前の方の席を確保する必要はなさそう。
後ろの方の列はいくつか空席もあり。

当月は歌昇改め3代目又五郎、
種太郎改め4代目歌昇襲名披露興行。
夜の部には口上が付いていたが、
狂言を見て昼の部を選択。

【襲名口上の看板】


【菰樽】



「舌出三番叟」

染五郎の三番叟、歌昇の千歳。
まあ、どうってことはない祝祭の舞踊。

個人的には、染五郎の三番叟に少しムダな動きが多いのでは、という印象。
もっと枯れたイメージで、
無駄な衣装の動きもなく、さらっと踊る方が好み。


「新口村」

福助+藤十郎の梅川忠兵衛、
歌六の孫右衛門。

菰を外した時の福助・藤十郎の姿が雪に映える。
福助の動きは特に印象に残っていないが、
藤十郎の菰を落とす、歩むといった動きが
全て糸に乗っているところが素晴らしい。
特に女形をやるときに気に障る唾を吸う音も、
この日は特に気にならなかった。

「新口村」という狂言は、
孫右衛門の「会いたい、しかし養父母の手前会う訳にはいかない」葛藤、
ついには「自分の子」である人情が勝つ、といった感情のうねりが
義太夫の糸に乗って紡ぎ出される芝居だと思うのだが、
歌六の孫右衛門はどうにもクサみが鼻につくし、
糸に乗って盛り上がってくる雰囲気も弱かった。
最後の見送る場面も、どうにも没入し切れなかった。
それでも感動できる、良い芝居ではあるのだが。
もっと良い孫右衛門でまた見たいなあ。


「寺子屋」

これまた好きな狂言。
吉右衛門の松王丸、又五郎の源蔵、
魁春の千代、芝雀の戸浪、福助の園生の前。
歌昇がよだれくり。

「源蔵戻り」前がよだれくりの見せ場の一つだが、
ちとやり過ぎの印象。
悲劇の前のチャリ場ではあるにせよ、
基本的に義太夫狂言で太棹に乗ってナンボと思うのだが、
その枠を踏み外しているのでは、という印象。

源蔵戻りから「いずれを見ても山家育ち」、
小太郎を見て機嫌を直す流れだが、
又五郎の源蔵が世話掛かり過ぎていると思う。
道真公から筆法を伝授されたような人、をどこまで重視するのか、はあるが、
時代物の重みが不足している。
正直、時代物でも元気な奴などが持ち役である又五郎に合う役とは思えん。

その後子どもたちの迎えの後、
松王丸が机文庫の数が一つ多いと言い出すところで
横にいる春藤玄蕃に勘付かれないように戸浪にとりなす動きや、
(実際には自分の子が)首を討たれる際の動き、
クサくないレベルで、分かりやすく作られていた。

源蔵が切りかかるところなど、
やはりこの人のニンは世話物にあるのでは、と感じた。
リアルに傾いている気がする。

千代が「倅が役に立ったか」を聞き、
松王丸が入ってからは、吉右衛門の仕草・声とも満足。
やはりよく出来た芝居だ、と感じる。
ただ又五郎は、吉右衛門の相手役などで今後も共演する機会があるのだろうが、
もう少し時代物の雰囲気、糸に乗る動きが必要になってくると思う。


「勢獅子」

いくつかの舞踊が連続して演じられる。
獅子の動きは面白かったが、
何が何だかよく分からん。
梅玉には踊りでなく、
きちんとした芝居に出て欲しい、と勝手なことを思った。


【8枚の絵看板】


15時半頃終演。
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松竹座9月昼の部「若き日の信長」所感

2011年09月04日 08時18分41秒 | 歌舞伎・文楽
昨日は松竹座へ。
昼の部第2幕「若き日の信長」。

台風が来ているので空いているだろう、と思ったが、
幕見席は案外入っていた。
三等席は3分の1くらいの入りか。

「若き日の信長」を見るのは初めて。
11代目團十郎に宛てて書かれたもの、ということで、
海老蔵のも悪くないだろう、と思って行った。

結果的には、期待していた程ではなかった、というところ。

まず、海老蔵の声が聞き取りにくい。
父親の声の悪さと同様で、
声量はあるかも知れないが、口があまり動いていない感じ。
今まで古典の演目を聞いたときには感じなかったのだが、
昨日の「若き日の信長」ではそのあたりが引っ掛かった。

作品としても、あまり歌舞伎らしいものではないな。
テーマや演出にしても、普通に演劇として出来そうな感じ。
評定を城外で待っている侍たちの動きや、
結果を聞いて徐々に去っていき、最終的に平手の息子のみが残る場面など、
如何にも理屈っぽく、演劇くさい感じがする。

これは作品のせいか、海老蔵のせいかは分からないのだが、
平手が切腹した際の信長の科白に統一性ないように思う。
「何故自分を残して先に死んでしまったのか」と詰ったり、
「自分が考えていることが分からなかったのか」と言ったり、
様々な感情が噴き出てくる訳だが、
そのベースは「信長」という一つの人格であるはず。
勿論、平手の死による混乱もあるし、
それが青春だ、若者だ、と言うのかも知れないが、
基本的には感情や言葉が出てくる土台となる人格はあるはずだろう。
どうも、その土台が見えづらかった。

海老蔵の動きは若々しく、
口調の激しさも(聞き取りづらいところは多かったが)
この作品に合っていたとは思うが、
全体を通して見ると、個人的にはあまり満足できなかった。
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通し狂言「伊勢音頭恋寝刃」

2011年07月11日 04時58分17秒 | 歌舞伎・文楽
土曜は仕事の後、一度帰って松竹座へ。
「車引」は特に見る気もしなかったので、
幕見で「伊勢音頭恋寝刃」の序幕・第2幕分を購入。

「油屋」「奥庭」は見ているが、
序幕を見るのは初めて。
2月に「毛谷村」を見たときは、通し狂言にすることで分かることが多かったので、
さて今回はどうか、と楽しみにしていた。

見終わった結果、
確かに刀や折紙の経緯、
お家騒動が背景にあることは分かったのだが、
いろいろ分かりづらいところもあり、
「毛谷村」の時ほど「通し」で良い、とは思えなかった。

序幕は刀と折紙の奪い合いと、
その背景にある伊勢名物の紹介がメインになってくるのかな。
第1場の「相の山」で「お杉・お玉」が出てきたり、
バックで流れる「伊勢津」を聞くと
「東の旅」を思い浮かべてしまうのは、まあ仕方がないか。
その後第2場から第5場まで、
奴と敵の侍との間でだんまりがあったり、
いろいろ隠れて見せたり、と
遊びとしては面白いが、筋が進む感じはしない。
あまり出ない幕なので洗練されていないのだろう、と感じた。

それは人物造型でも同じことで、
貢の作り方が第2幕の「辛抱立役」とはかなり異なるように思う。
そのあたりの一貫性のなさは、
通しで見るとちと違和感があった。

秀太郎の万次郎は、上方のトロンとした若旦那の雰囲気で悪くない。
ただ、いくらなんでもぼうっとし過ぎでは、と感じた。
刀を騙し取った人間を見過ごすあたりとか。

第2場の宿屋で我當・秀太郎・仁左衛門の3兄弟と
愛之助の奴が並ぶ場面は壮観。
我當、足が悪いのかな。少し歩くところや座り方が怪しかった。
声に陰影のない人で好きでもないのだが、
この程度の役なら特に違和感もなく見られた。

第5場の二見ヶ浦の場面は、
如何にも伊勢の話らしく作られている。
単純だが、まあ面白い。

第2幕はまず万次郎がやって来て出て行き、
その後貢がやってくる。
ここで上がらずに、
あっさり万次郎に会いに行けばいいのに、と個人的には思ったのだが、
それでは芝居にならんわな。
まあ、お紺に一目会いたい、という心があるのだろう。

仁左衛門の貢は声も良いし、
怒りを堪えるところで空気を作るのも流石なのだが、
個人的には、序幕とのギャップで少し感情移入し切れなかった。

やはり秀太郎の万野に満腹。
色街の手練手管に長けた年増の空気が出てくる。
声やじゃらじゃらした会話の間と強弱が流石。
団扇の動きで押したり引いたり、
自分の感情を出したり相手をかわしたりするあたり、
上手く表現されていると感じた。

料理人喜助は三津五郎なのだが、
この役、もう少し年上の役柄だと思う。
そのあたりに丁度良い役者がいないから
若い(仁左衛門より年下の)三津五郎に回ってきてしまうのかなあ。
まあ、左團次に出来る役ではなさそうだから
仕方ないのかも知れないが。

時蔵はあまり好きではないのだが、
この日はまあ、悪くなかった。
腹に持ちつつ愛想尽かしを言うところ、
程良いバランスと感じた。

貢が鞘ごと万野を打った後で鞘が割れるところがゾッとする。
ただこの辺りからは、「大丸屋騒動」の方が見る側の想像に委ねる分、
個人的には恐ろしく感じる。
刀が本人の意思とは関係なく人を切っていくあたりや、
踊りの輪に入って踊り子を切っていく場面など。
「奥庭」では踊り子そのものは切られないので、
そのあたりは少し消化不良。
あと、踊りはもう少し合わせて欲しい。
後で輪が乱れるところで落差が小さく、
「乱入された」恐怖があまり伝わらなかった。

全体に、序幕と第2幕の落差が気になった。
荒唐無稽な味を多く残した歌舞伎らしい幕と、
多くの人に手掛けられ、磨かれた幕とをつなげるのは
やはり難しいと思う。
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文楽4月公演~源平布引滝・艶容女舞衣~

2011年04月13日 05時53分59秒 | 歌舞伎・文楽




先週土曜は文楽劇場へ。

5千円出すほどでもない、と思っていたら、
朝行って2等が取れたので、見てきた。
襲名披露ということもあり、1等席はほぼ埋まっていた。
個人的には綱大夫(新源大夫)って好きでないので、
彼が口上に並ぶだけで出演はしない、というのは丁度良い。


「源平布引滝」

「竹生島遊覧の段」

うつらうつらしながら見ていたこともあり、あまり覚えていない。
後に「小まんの腕」が鍵になってくるところ、
「物語」で小まんの子である太郎吉(手塚光盛)が
実盛を「親の敵」と呼ぶことにつながってくるので、
その辺りの仕込みとして
この段を出すのは有意義だろう。

次の「糸つむぎの段」の前に
襲名披露口上が入る。

落語や歌舞伎と異なり、
普段声を聞かせない商売の人間が喋るのが、
文楽の襲名披露の面白いところ。
清治がけっこう早口で、何となく意外だった。


「糸つむぎの段」

口上後少し時間が空いた。

この段は、矢橋仁惣太という九郎助の甥がならず者である、ということを
見せる段になってくるのだと思うが、
個人的には省いても良いかな、と思う。
「物語」の最後に討たれる前提として
「悪者」であるところを見せるのだろうが、
次の「詮議の段」で平家方の2人を見せることで充分ではないかと思う。


「瀬尾十郎詮議の段」

腕を拾ってきた、という前半と、
斉藤実盛、瀬尾十郎による詮議の後半。
「切られた腕」に若干のグロは感じるが、
よく出来た、あまり無理のないストーリーだと思う。

瀬尾が腕を見てけっこう驚くのは、
「物語」で小まんの父親であることが明かされることを考えると、
単に「腕」だから、ではない、
仕込みの意味もあるのでは、と感じた。

住大夫は流石。
語りの粒立ちが別格で、字幕を見なくても科白が分かる。
# 他の大夫だと、「たぶん「ば」だと思うけど」といった
 不安を感じて、字幕を見てしまうことがある。
瀬尾の科白の際の声の大きさも、素晴らしい。
一箇所詰まったところはあったが、それでも充分満足。


「実盛物語の段」

今回の襲名披露狂言。
但し源大夫休演で、代演は英大夫。

歌舞伎でも文楽でも、そこそこ有名な段だと思うのだが、
見るのは初めて。
後半の瀬尾の「モドリ」が如何にも芝居らしい。
個人的には、前提は無茶であるにせよ、
その「お約束」さえ認めれば、
瀬尾がわざと刺させるのもあまり無理のない設定だと思う。
最後の太郎吉が実盛を「親の敵」と言う流れや
「髪を黒く染めておく」とか言うのも、
後の段につなげる設定の仕方だな。
「篠原」とか、地名まで出すとさすがに無理だろう、と感じてしまうが。

新藤蔵は、意識して聞くのは初めてだが、
ちと声を掛け過ぎで耳障り。
弾き方にしても、派手で華麗な三味線、なのかも知れないが、
後で聞いた寛治の、動きは穏やかだが音の良い三味線に比べて、
何とも薄っぺらく感じた。
あと、2回糸を切っていたのは論外と思う。


「艶容女舞衣」

「酒屋の段」

クドキが有名な段だが、
全体通して見るのは初めてか。

最初の「丁稚が子どもを抱いている間に、母親がいなくなる」設定を
「お文さん」は取り入れているのかな。

個人的には、三勝半七やお園よりも、
宗岸や半兵衛といった父親世代に感情移入してしまった。
娘・不肖の息子に対する愛情といったあたり。
宗岸と半兵衛の相手のことを思いつつ、
一緒になることが逆に不幸になるから口では拒絶する、といった
二面性が好み。

お園は文雀。
少し右手を張っているようで、違和感があった。


「道行霜夜の千日」

詞章も会話も、あまり深みがあるように思えない。
「心中天網島」の「橋尽くし」くらいならばともかく、
別に道行を必ず出す必要はない、と個人的には感じる。
特に今回はやけに休憩時間が短かったので、
道行を切って休憩時間を延ばすほうが良いと思う。


「口上」の後時間が空いたこともあり、
15時40分頃終演。
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獨道中五十三驛@南座

2011年03月07日 21時20分46秒 | 歌舞伎・文楽

土曜日は南座へ。
右近が十五役早替わりをする、という「獨道中五十三驛」。

10時頃着き、昼の部の空席を見る。
3等ではあまり良い席も残っていなかったが、
2等を買う程の値打ちもないだろう、と考えて
後ろから2列目の席にした。
柱の側で、物を置けるスペースがあったりして
逆に悪くないな。

芝居は3幕構成。
敵討と家宝を取り返すために京都から東海道を下り、
道々スペクタクルがあったり、立ち回りがあったりする、というもの。
1幕目が岡崎で化け猫が宙乗りをするところまで、
2幕目は箱根の山中でお姫様が滝壺に身を投げ、
その功徳で仇討ちしようとする男の足が立つところまで、
3幕目は日本橋で敵討をするところまで。
心理描写がどう、という芝居ではなく、
単純に見て楽しんで笑えば良い、という代物。

最初芝居小屋の前の場面で、
右近が右近役で登場し、
「まゆまろ」なるキャラ
(「国民文化祭」とか云う胡散臭い京都のイベントの盛り上げ役らしい)と絡む。
愛知万博の頃に歌舞伎座で「膝栗毛」が掛かった時も
「モリゾー」だったかが登場したことを思い出した。
個人的には、元のイベントそのものが好きでないので、
それに引っ掛けたネタも好きになれんな。

「歌舞伎は現代に合わせてきた」とか、わざわざ言わんで良い。
猿之助歌舞伎を見ている人はそんなこと百も承知だろうし。
野暮ったいと思ってしまうなあ。

三条大橋の下で討たれ、そこから東海道を下っていく。
札の掲示が変わって宿場を下っていくのだが、
けっこう無理やりだなあ。
別に全宿場を出す必要もないと思うんだけど。
右近の若侍は別に悪くないが、
特に良いとも感じなかった。
まあ、別にそんなこと、どうでも良い芝居だと思うが。

岡崎の化け猫の場面。
少しグロに感じられるところもあり。
侍の嫁さん(鼠年ということで化け猫に食われたりおもちゃにされたりする)が
操られて跳んだり跳ねたりするが素晴らしい。
化け猫の宙乗りは流石。
これは2等、3等の方が迫ってくる感じで楽しめると思う。

「弥次喜多のおかみさん」という設定の女房2人が
この幕に限らず、舞台転換の合間に
説明したり客席を回って時間稼ぎをしたりする。
これはこれで、まあ、悪くない。
少しクドいかな、と感じるところもあったが。

静岡?の田舎家で少し早替わりをして見せるが、
「早替わり」がメインになっているのは3幕目。
「帯屋」を下敷きに10役くらい次々替わったり、元の役に戻ったり、
相手役に替わったりする。
だいたいタネは分かる(舞台で後ろ姿しか見せないことがあるのは、
他の役者がその間入れ替わっているからだろう)が、
早く着替えられるのはチームプレー故だろう。
上から見ていると、後ろを動いているところが時々見えることがあり、
そこは若干興醒め。

最後のカーテンコールもあまり違和感なく見られた。
全体的に、何も考えずに見て楽しめるものだった。
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松竹座夜の部「盟三五大切」

2011年02月25日 19時25分20秒 | 歌舞伎・文楽

今週土曜出勤することになったので、
その振替として、午後休を1日取れた。
どうせなら、と昨日の午後を休みにして、
松竹座へ行ってきた。

夜の部「盟三五大切」の通し。
昼の部の「彦山権現誓助剱」は先日既に見ているので、
結局今月は昼夜とも全て見ることになった。

今度は平日で、さすがにチケットも余っていたので、
3等席を確保。
それでもはっきり見える、良い小屋だ。

仁左衛門の「盟三五大切」は東京でも見ている。
その時の三五郎は、確か菊五郎だったかな。
今回は愛之助で、これも楽しみ。

序幕は第一場の舟の場面、第二場の源五兵衛の家の場面とも、まあ普通。
特に第二場で、愛之助の三五郎の動きが、少し大き過ぎるかな。
若々しさ、でもあるのだが、
腰があまり安定しない感じがする。

芝雀の小万はどうかな、と思っていたのだが、
存外悪くなかった。
雀右衛門とよく似た声だな。
若干聞き取りづらいところはあるが、動きは綺麗で良かった。

第二幕第一場の茶屋の場面。
源五兵衛が百両渡したところで、三五郎が小万の亭主であることを顕す。
このあたりの源五兵衛、三五郎、小万の絡みが良かった。
三五郎の動きも大きく、ぴったり決まっていた。
小万の申し訳なさそうな感じも悪くない。

源五兵衛が帰った後、三五郎が「お金をもらった」で頭を下げるのだが
(このあたり、「三五郎が根っからの悪人ではない」ことを明示するのだが)
これはあまり表に出さない方が良いのでは、と思う。
腹で感謝するのは良いが、
ある程度悪人の芯の強さのようなものを見せておいた方が、
源五兵衛の仇討ちが自然に感じられるように思う。

第二場は五人切の場面。

最初の小万三五郎、菊野伊之助のじゃらじゃらが、
以前に東京で見た時よりも薄いように感じた。
ここで南北らしい退廃的な、ねっとりした雰囲気が欲しい。

寝入ったところに源五兵衛が入ってくる。
月影に照らされる形は良い。
ただ切っていく場面は、以前よりも狂気が感じられなかった。
もっと触れるもの皆切る感じが出る方が好み。

大詰第一場は四谷鬼横町の場。

ここで民谷伊右衛門が裏の設定として出て来る訳なのだが、
やはりこの場面は知っていないとよく分からん話だな。

弥十郎の大家が、少し因業で一癖ある感じが出ており、良かった。
この場面での三五郎があまり映えないのは、仕方ないか。
松之助の了心は真面目な感じで悪くない。

八右衛門が源五兵衛の身替りとなって引かれていくところ、
よく分からない場面ではある。
主従というより、衆道の雰囲気が強い。

仁左衛門の源五兵衛、この場面は村正のような妖気が漂っていて良かった。
最初に酒を持って現れるところ、
後で切るところとも。
特に、小万の「五大力」が書き加えられて「三五大切」になっているのを見て
逆上するあたりの転換、
その後の斬り方が凄まじい。
最後花道を、掻き落とした首を抱えて入っていく訳だが、
拍手もできないような別世界の空気を作り出していた。

このあたりの小万、声はやはり聞き取りづらい。
動きはまあ、悪くなかったが、
反るところはイマイチ。

第二場が愛染院門前の場。

源五兵衛の動き、三五郎の述懐とも悪くなかった。
生首は少し、グロに感じられるところもあり。

こんな残虐な行為を繰り広げた源五兵衛(実は不破数右衛門)が
仇討ちに加えられることについて、以前は違和を持ったのだが、
昨日は特に不自然にも感じなかった。
自分が麻痺してきただけかも知れないが。

最後幕を引く前に出演者が並んで打ち出すのには違和感がある。
個人的には、幕を引くまで虚構の世界で徹底して欲しい。
私は幕を見ながら立ち上がり、
虚構の世界から現実の世界に自分のペースで戻るのが好みなのだが、
切腹していたはずの三五郎が着物を整え、
源五兵衛と並んで頭を下げる、というのは、
強制的に現実の世界に引きずり戻されるので嫌だ。
こんな流行、できれば止めて欲しい。
これがサービスだと思っているのかなあ。

ただそれを除けば、
少し無理して行った甲斐はあったかな。
満足。
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松竹座昼の部「彦山権現誓助剱」通し

2011年02月12日 20時21分18秒 | 歌舞伎・文楽

昨日は朝から松竹座へ。

昼の部の「彦山権現誓助剱」。
3等は売り切れており、2月は幕見席の設定なし、とのこと。
仕方なしに、初めて2等席を購入。
2階の後ろの数列で、最初は少し圧迫感があった。
舞台をずっと見ている分には気にならないが、
好き好んで買いたい席ではない。

この芝居、通しで見るのは当然初めて。
「毛谷村」が有名な場だが、それも一度しか見ていないと思う。

序幕は京極内匠という悪人が
剣術指南役の娘に横恋慕し、その剣術指南役と立ち合って負け、
その挙句に指南役を殺してしまう、という部分。

京極内匠は愛之助。
憎らしい役を楽しそうにやっていた。
これは好みの問題なのだが、もう少し微妙に愛嬌のようなものが出た方が、
凄みが引き立つかも知れない。

2幕目はその剣術指南役の屋敷。
お園はこの指南役の娘にあたるのだが、
その初登場の場面。
何故か酒に酔って現れる。
女性の酔っ払いって歌舞伎にしても落語にしても、あまり登場しない気がする。
敵討を志しているから、勘当されようと考えてわざと酒を飲んでいるのか、
あるいはお園の「男勝り」の面を出すための設定なのか、
そのあたりがよく分からなかった。

3幕目は京極内匠が病で足腰が立たなくなった、とやってくるがそれは偽りで、
結局お菊・弥三郎の夫婦を騙し討ちにする場面。

京極内匠はここでも楽しい役だな。
特に元々恋慕していたお菊を殺す場面での口説き方、
殺した挙句の少し死体を愛でるような変態的な動きなど。
松也のお菊、薪車の弥三郎は特に何ってことはない。
役としても単に美男美女というだけで特に見せ場もないから、
仕方がないだろう。

4幕目は第2場が「六助住家の場」だが、
その前に第1場として杉坂の場面を出す。
この場面は初めて見たのだが、
ここを出すことで、次の「六助住家の場」が腑に落ちやすくなったと思う。
微塵弾正の依頼内容が表現されているし、
それを受け入れた理由が「親孝行に感じ入った」ことや、
そもそも母の49日の間弔いをしている事実を明らかにすることで
六助の「親孝行」の設定が明確になった。
また、そこから微塵弾正(実は京極内匠)に剣術試合で騙されたことへの怒りや、
敵討に関わっていく必然性が伝わりやすくなったと思う。
そしてお菊と弥三郎の間の子どもを助けるのは、
後でお園が住家に入ってくるところに繋がっていく訳だし。

この場面をあまり出さないのは勿体ないなあ。
おそらく、山の作り物をするので、
その準備や片付けに時間がかかり、ダレるからだと想像するのだが、
「六助住家の場」の理解が格段に違ってくると思う。

六助は仁左衛門。
昼の部は、実はここで初めて登場する。
花道に出た時の拍手の大きさ、掛かる声、やはり花形役者。
以前に見た吉右衛門に比べて、
「田舎者」の朴訥さより
「親孝行」メインで作られている印象。
声やテンポの良さ、子どもをあやしたりする動きの楽しさは流石。

第2場が「六助住家の場」。
微塵弾正にわざと負け、挙句扇子の骨で額を割られても、
微塵弾正がそっくり返って歩いて去っていくのを見ても、
「親孝行できて喜んでいる」と解釈するあたり、
自分が母に死なれて親孝行できないから
親孝行する(と言っている)微塵弾正を
好意的に解釈していることがよく伝わる。
単に「田舎者の朴訥さ」ではない作り方。

その後殺された剣術指南役の後家が「親子になろう」と言ってくるのだが、
ここはよく分からなかった。
六助がお園の許婚、と知っているのかな。

その後お園が入ってくる。
最初は「敵」と言っていたのが許婚と分かってしおらしくなるところ、
見せ場ではあるのだが少し動きがオーバー過ぎるかなあ。
悪ウケをしてしまっていた印象。
何気なく臼を動かしてみせるあたりと、
それに対する六助の反応の仕方は面白い。

大詰は彦山権現の祭礼の場での敵討。
子どもが入ると、立ち回りも単純に楽しいな。
最後は目出度く敵を討ってハッピーエンド、で良かった。
討たれた敵も含めて皆で並んで打ち出し、はちと違和感があるのだが。

この芝居、元々は「京極内匠実は武智光秀の遺児」という設定らしいのだが、
久吉と光秀の因縁に関わる部分はカットされていた。
そのあたり、上手く
「重ね重ねの敵である京極内匠への敵討」に絞り込まれていたと思う。
ただ、少し単純化され過ぎているのかも知れないな。
そのあたりのバランスは難しいところ。
初めて通しで見るには、この日の脚本で良かったと思う。
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「坂東三津五郎 踊りの愉しみ」書感

2011年01月23日 18時35分06秒 | 歌舞伎・文楽
歌舞伎の舞踊って、よく分からない。

「船弁慶」の後シテの妖気、
「身替座禅」「高坏」「棒縛」といった
陽気な松羽目物の面白みは何となく感じ取っているつもりなのだが、
それとて深いレベルで理解しているかどうかは疑問。

「綺麗だな」などと思ってそれで満足するのも一つの手だろうが、
全く理解しようと努力せずに放置するのも癪に障る。

ということで、三津五郎の本を買ってみた。
「坂東三津五郎 踊りの愉しみ」。
※画像をクリックすると楽天のページに飛びます


大きく3つの章立て。
第1章「舞踊の本質」では
舞踊で如何に体を動かすのか、どのようなことを意識しているのか、を述べ、
第2章「私の踊りを作ってくれた人々」では
三津五郎に踊りを教えてくれた師匠や教え方などを挙げ、
第3章「踊りのさまざま」で
具体的にいくつかの舞踊について、
坂東流の演じ方、7代目三津五郎を始めとする昔の人の話などを紹介する。

歌舞伎の歴史や昔の名優、演題や用語などをある程度知っている私には、
初めて聞く話も多かったが、全く何のことやら分からない、ということはなく、
丁度良いレベルかな、と感じた。
舞踊に限らず、舞台で何かを表現し、見てもらう立場の人間にとって
役に立つ発想、考え方もいろいろ書かれていて有益。

殆ど歌舞伎に触れたことのない人には、少し難しいかも知れない。
ただ私も、もう少し舞踊の基礎的な部分を理解しておれば、
もっと多くの情報を得られるかも知れない、と思う。

この中で紹介されていた
7代目三津五郎の「舞踊藝話」、
2代目松緑「踊りの心」といったところは、
また読んでいこう。
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