僕はテレビを見ながらメモをする癖がある。というか、メモはいつでもするわけだが。
しかし考えてみると、この表現はあまり正しくない。メモするときに、その流れとして音声は聞きながら取るときと、一旦画面を止めて取るときがあるのだ。わかりにくいかもしれないが、要するに録画している訳だ。タイムリーでもニュースなど見ているが、それでも気になるとメモくらいはする。しかし画面は止められないので、時々内容を見失う。世の中の流れはスピードが速すぎてついていけない。まったく困ったことだ。
僕がテレビを見ているといっても、ほぼ9割以上、録画である。だから画面を止められるし、メモも楽ちんだ。メモのためにそうしている訳ではないのだが、わがままな性格には、これくらいの自由度がちょうどいいのかもしれない。しかしながら何事も、立ち止まって僕を待ってくれることなんてことは、むしろ少ない。僕は立ち止まるが、風景は動く。
それでも僕はメモを取り、いったん立ち止まらずにはいられない。それを書きとめなければ、過ぎ去った言葉が、そのまま流れて消え去るからだ。あとで落ち着いてネットだとか辞書だとか、そういうものをパラパラめくる。それでわかることもあるし、疑問が広がるものもある。なんで書きとめたのか不明のものも多いのだけれど、いちおう書いてあるんだから何かあったのだろう。しかしそれを知った後になんでこれが気になったのか、推理しても思い出せない。意味はつながらないまま宙に浮く。まあそれでも調べてみたんだからいいだろう。そのまま忘れてしまうかもしれないけれど。
そんな風にしてメモしたものが山になってくる。職場のテーブルの周りには、メモした紙が散乱している。場所によっては積み上がっている。あまりにたまって来ると、エイヤッと思って捨ててしまうが、一定の時間は、なんだか積まれている内容を見返すような時が来るような気がして、積んだままにしている。本も積み上がっていくが、ときどき段ボールに入れて、倉庫に運んで忘れる。メモもそうしていいかもしれないが、やはり棄てる方が無難だろう。何が無難かわからないが、誰かの連絡先だとか、気になって書きとめたことだとか、今となっては、その時どうしていたのかさえあいまいになって、僕自身もその意味がよく分からないものばかりだ。記憶というのは、基本的には自分の脳の中のどこかの引き出しに収まっていて、しかしそれを見つけられないだけで、そこにはあるにはあるらしい。何かのきっかけでニューロンが繋がり、思い出せることがあるのかもしれない。もっともそんな偶然に期待しても、めったにそういう事が起こらないような年頃になってしまったのだろう。若い時と記憶力は年をとっても変わることは無いのだという。人間の脳の機能は、生きている間は、よっぽど年を取らない限り変わらない。しかし記憶の蓄積は当然違って、たくさんメモのように散らばったものが溜まっていて、見つけ出せなくなるようなものなのかもしれない。そうしてまた、せっせとメモをためていく。つまり、終わりなんてものは無いのである。