カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

寒い季節を楽しむ

2025-02-11 | 散歩

 寒いのが好きだと思っている自分と、寒いとつらいと思っている自分は同一だ。それは散歩をしている時、暑いときは論外だけど、肌寒いときに歩いているのはあんがいに気持ちがいい。もう少しぶらぶらしてみようかなっていう気分にもなる。ああ、僕は寒いのが好きなんだな、と思っているのだ。ところが実際に寒すぎる日があって、そうして風が冷たくて、手袋しても手がかじかんでくるようなときに歩いていると、いったい俺は何をやってるんだろう? と疑問に感じる。こんな日に頑張って歩いているなんて、まるでバカみたいじゃないか。確かに馬鹿だとは自認するところはあるにせよ、やめたらいいのにやめない自分が嫌になるほど寒いのだ。やっぱり僕は南の人間で、本当の寒さなんて知らない。そんな甘ちゃんだから寒いのが好きだと言えるのだ。そんなことを思い知る。でも、そういう甘い考えの耐えられる寒い日になると、うきうきするくらい気持ちがいい。だから寒いのが好きだというのは本当なのだ。そうしてつらいというのも当たり前なのだ。
 そういう訳で、冬の散歩は基本的にはありがたい。断然夏より歩数が伸びるし、いつ外に出てもいいという開放感がある。雨降りは困るけれど(それは夏だって同じだ)、雨が降ってなくてついでにあんまり風が強く無いようだと、もっといい。いや三十分以上歩いて、なんだか体が暑く感じる時に、上着を脱いで冷たい風が吹くのも気持ちがいい。だから少しくらいは風があってもいいくらいだ。十度前後で、それより少し低くてもいい。本当に寒すぎて困るのは、おそらく4度以下くらいからで、急ぎ足でもなかなか体は暖かくならない。それは本格的に寒いからで、走ればそれは別だけど、やわに散歩くらいではどうにもならない。本格的に坂道などを取り交ぜて、気合を入れないと凍えそうになる。実際に凍えたことは無いんだけど、ともかくいつまでもやっているわけにはいかない。
 そうやって寒さを楽しんでいられるのも、実際にはそんなに長い間ではない。この地域の冬は短すぎる。すぐに春の気配が漂いだし、暖かい日の方が多くなる。春は嫌いではないし、確かに華やいだ気分にはなるのだけれど、なにか本当に辛抱して、やっとやってくる感動のものでは無いかもしれない。もう来てしまったかもしれない春に、そうして去って行ってしまう冬の季節に、切なさを覚えるのかもしれない。上着を脱いで身軽にはなれるが、軽くなった分、汗をかいてしまう。けっきょくのところ、汗をかきたくないだけの話なのだろうか。
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特殊能力は運命的だ   すずめの戸締り

2025-02-10 | 映画

すずめの戸締り/新海誠監督

 女子高生が自転車で登校中、このまちの廃墟が何処にあるか尋ねられ教える。イケメンだったので気になって学校に行かずに廃墟に向かうと、どこでもドアみたいなドアがあって、あけると何か星の輝く不思議な世界が見えるが、入ると通り抜けてしまう。そこにキツネの置物みたいなものが地面に刺さっていて、それを抜くと何かの動物(後で分かるがネコだった)になって逃げてしまう。何が何だか分からないが怖くなって学校に遅刻していくと、みんなには見えないようだが、山の斜面の先ほど行った廃墟からむくむくと黒煙が上がっていくのが見える。大変なことが起こっている予感がするので、また廃墟に向かっていくと、道を聞いたイケメンくんがドアを閉めようと奮闘していたのであった。
 なんとかドアを閉め、地震の起こるのを食い止めたらしいのだが、イケメン青年は怪我をしてしまったので、自宅に呼んで治療をすると、みすぼらしい猫が窓際に居ておりエサを与えると、元気になって青年を木の椅子に変えて逃げてしまう。逃げた猫は何かの神様の化身で、災いを封じ込める要石の役割をしていたのだという。逃げた先々でSNSに撮影されるのでどこにいるのか分かるが、追いかけたついでもあって、四国、関西、東京、東北と、いわゆるロードムービーが展開されていくことになる。
 最初のあらすじを読めばなんとなく混乱することと思うが、まじめに説明しても、かえって何のことなのか分かりにくい事とは思う。それがこのアニメの変なところかもしれないが、同時にこれはそれが魅力になっている。変なんだけど、そういう展開に身を任せることは可能で、奇妙だけど家出した女子高生なので、皆が助けて旅を続けられる。そうして地震という災いを防ぐ扉を閉じる能力に長けている。
 椅子にされた青年の運命も悲しげだが、それを救う女子高生の恋心のために、いわゆる命を懸けて救出する賭けに出る。そうして女子高生すずめの過去も、明らかにされていく。この映画は震災に対するレクイエムなのである。
 いちおうギャグが随所にちりばめてあって、笑うべきなのは分かるが、深刻なものとの絡みが微妙で、今一つピンとこない感じもしないではない。リアルだとおそらく笑えてないからだ。いろんな人々と出合うけれど、基本的には大変に世話になりながら、軽い。皆仕事を休んで経済的な負担も大きくなっているはずだが、そういうところの大変さが、子供視点なのか、あまり重要ではない。もちろんそういうアニメなんだから、ということに尽きるのかもしれない。しかしながら大きな話でもあるので、なるほど新海アニメなんだなあ、という感慨にはふけることができる。正直言って、映像が綺麗だし、なんだかおもしろいのである。僕はやっぱりファンになっているのかもしれない。
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絆は強めたり深めたりできる

2025-02-09 | ことば

 新聞読んでたら「絆」という字の語源のことが紹介してあった。もともとは絆というのは、牛や馬を繋ぎ留めておく綱のことを指すらしい。絆には「ほだし」という読み方もあって、ほだしというのは、自由を束縛するという意味がある。恋人が絆しとなる、という具合である。糸へんに半分と書いてあるが、この半分は、牛という字の変形とみるのが自然なのだそうだ。なんだか恐ろしい漢字なのだ。
 さらにそういう意味の漢字なので、「絆が深まる」というのは、意味が分からないもののはずなのだが、誤用として使われるものが自然となり、通用するようになっているようだ。少し前の世代の人であれば、絆は強めるの方が自然に感じられようが、現代だと圧倒的に深めるものに変化したのではないか。さらにおそらくこれは、馬や牛とのつながりを指しているのではなく、人と人との関係性を指しており、お互いの関係を深めることをあらわす言葉として、絆を使うようになっているはずだ。そもそもの意味がだいぶ逸脱したにもかかわらず、実感としては、この言葉のニュアンスは、既に市民権を得ているものだろう。
 どうしてそうなってしまったのかは、想像するよりないが、赤い糸伝説のようなものとも関連があるのではないか。本当は目に見えないものだけれど、赤い糸で結ばれるというのは、恋愛などでは普通に使われるものだ。糸と糸が半分ずつで結ばれるイメージそのものが絆にはあるのではないか。さらにキズナという音も、それなりに感じがいい。今や牛や馬などを飼っている家の方が少数派だから、そういう事との関連も、想像すらできなくなっている。誰が使いだしたかは知らないが、そういう本来の意味が分からなくなったからこそ、なんとなく新しげで使い勝手の良いこの言葉が選ばれたのであろう。そうして誤用の方が連鎖して使われるようになり、定着していったということなのだろう。
 そういう訳で、実はあんがいに新しい言葉なのだと思うが、これはそれなりにこれからも生き延びていきそうな感じもする。いわゆるこういうもののふさわしさのような感じは、きわめて現代的だからだ。それは裏返して考えると、絆というものを介しての人間関係が、求められている為である。そういうものがあるのであれば、人間(日本人)は生きやすいものを感じているのだろう。空気というものを読むのであれば、やはり便利な言葉なのであろう。
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歩いて奇跡が起こせるか   ハロルド・フライのまさかの旅立ち

2025-02-08 | 映画

ハロルド・フライのまさかの旅立ち/へティ・マクドナルド監督

 ハロルドのもとに元同僚の女性から手紙が届く。内容は末期がんに侵されホスピスにいるというもの。返事を書いて近所のポストに出しに行くのだが、せっかくだから郵便局で、などといろいろ考えていると、コンビニの店員との会話に心が動かされ、歩いて彼女のもとへ励ましに行こうと決心する。ただ問題は、800キロの道のりがあるということだった。
 何も持たずに家を出たにもかかわらず、その後余分なものを持たないという方針はさらに自分なりに厳しくなったりして、クレジットカードなども自宅に送り返してしまう。あまりに無謀な徒歩の旅になり、途中で倒れてしまったり、波乱万丈の冒険に変貌していく。もちろん助けてくれる人もいたり、あるきっかけで有名になって、一緒に歩いてくれる人や、犬も一緒になったりする。ハロルドには、この同僚に対する特殊な感謝の念と、自分の息子に対する後悔の念があって、この旅が、それらの特別な想いへの自分なりの答えになるような予感をも持っていたのかもしれない。
 突然夫が出て行ったまま帰らなくなってしまい、残された妻は大いに困惑し、怒りを隠せない。そもそも過去にある息子とのかかわりにおいて、夫婦の間にも、深い溝ができていたようだ。また、それをぶり返すように、ハロルドは無謀な旅を続けている。それも全国的なニュースにいつの間にかなっていて、そういう事にも、さらに混乱させられるのである。
 実際にはそんなに複雑な映画では無いのだが、単に徒歩で800キロの道のりを歩く、というだけの映画では当然違う。待っている元同僚は、ハロルドが来ることを心待ちにしているらしい。しかしながら距離が距離なので、実際には何週間も時間を要し、トラブル続きで、なかなか進めない時もあるのである。話題になることで、支援の手も伸びてくるが、同時にこれは、何かが違うとしっくりしなくなってしまう。
 何か奇跡が起こせるのではないかと、だんだんと自分の行動に対して、自分でも期待を寄せるところがある。そうして実際の話としては、無謀であるばかりか、そう簡単なものでは無い。そういうあたりも、ある意味で映画的にはシビアに捉えた演出にはなっている。人が付いたり離れたりするところは、なんとなく安直だったり、ハロルド自身は人に頼るところもありながら、必ずしも社交的でなかったりする。奇妙な人、ということもできるかもしれない。しかしながらそれは、ひとの無力さもあらわしての事だろう。後悔もあるが、あるがままの現実の受け入れもまた、それなりにむつかしいことなのだ。
 いい映画なのか変な映画なのか判然としないが、それはそれでいいのである。そんなに答えは明確では無いからである。そういうところは、英国的なのかもしれない。しかしながら行動したことで、何かが変わったはずである。それは確認してみてください。
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憧れてるけど目指さない存在

2025-02-07 | 音楽

 何しろ現役キャリアがちゃんと長く、ほぼ切れまなく続いているというだけで、ただでさえ化け物的な存在ではあるストーンズである。でもまあ若い頃と大人になってからのストーンズのとの距離感というのは、微妙に違うものがある。以前は自分もギターを弾いていたということもあると思うのだが、今は真似することもしないからかもしれない。ギターを弾きだしてキース・リチャーズのテクニックの高さには驚くことにはなるものの、しかしなんとなくそれらしく弾くというのは、いわゆるべビメタのような超絶的なことをしなくても、出来てしまうという魅力ある上手さなのだ。それは単に瞬間芸であったとしても、いちおうその曲の細部を弾けるという事でもあって、なかなかに楽しいことである。基本的には単純なコード展開が多くて(それでもこれだけ多彩なのが素晴らしいのだが)、自宅で勝手に弾く分にもいいし、一緒にライブで物まねのように弾いたとしても、ストーンズの曲は素晴らしいのである。すぐに高揚する感覚になるのだ。
 そんな風にしてそれなりに真似して弾いては居たのだけど、例えばクラプトンの真似をすると、多くの人はクラプトンだとわかるらしいが、キースだとそうだと言われたことが無い。これはなんとなく不思議で、キースっぽい人は何人も知っているんだけど、確かに僕もキースっぽいですね、とは言わない。サンタナとかデイブ・ギルモアだと、すぐに言いたくなるが、キースにはある種の普遍性のようなものがあって、もちろん個性の強い弾き方であるにもかかわらず、キースっぽいとは言わないのかもしれない。
 エフェクターのかけ方もあんまり凝ってないというか、そのままアンプに直結しているという噂もあった。ファズのかかっている曲もあると思うが、あんまりあえて凝っていないというか、そんなもん知らねえ(って言ってたかは知りません)、って雰囲気はある。しかしながらギター弾きの多くは、この音をどうするか問題に凝っている人の方がむしろ多い訳で、僕の知っているアマチュアのギタリストで、アンプに直結なんて人は見たことが無い(もちろんアコースティックギターは別ですよ)。少なくともディスト―ションくらいは持っているわけで、いろいろ連結させてその都度足で踏んずけて弾くのが何よりかっこよさげだし、練習の時も、そういう音色をどうするかというのは気にして音を確認していることが多くて、うまく弾くことよりも凝っていたりする(だから素人なんだけど)。そういう意味でもやっぱりキースっぽい感じにならない、ということになってしまうのかもしれない。せっかくエレキを弾いてるんだから、音が歪まなきゃしっくりこない。でぎればガシャーンといったくらい歪んでくれないと、自分のテクニックがバレるようで怖いのである。
 ということで、憧れているけれどそれらしくない存在というのは、やっぱり抜きん出た存在ゆえであるのかもしれない。
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絵をかく自分と情熱   ブルーピリオド

2025-02-06 | 映画

ブルーピリオド/萩原健太郎監督

 原作は漫画。漫画大賞を受賞するなどしているようだ。アニメ化もされているが、今度は実写化、という訳だ。
 ろくに勉強をしなくても成績優秀で、ふつうに国立の大学に行くものと漠然と考えていた高校生が、ちょっとしたきっかけで絵をかいてみることにして、親の財力の関係もあるので東京芸大に進もうと考える。しかし芸大というのは、実際の倍率から考えると東大に入るよりも狭き門であることから、猛烈に絵に打ち込んでいく物語。
 絵を含めた芸術の世界は、それを目指す才能も数多く、その競争は熾烈を極めるようだ。そういう一握りだけしか通れない門があり、しかしそれを目指すというのは、天才だけに許されたものでは無い、ということなのだろう。上には上がいることを実感しながらも、必死でもがきながら、絵自体にのめり込んでいく青春を描いている。芸大に行こうと考えている周辺の人間模様も交えて、その努力のありようを、その考え方をドラマとして描き出している。
 高校生なのに茶髪だし、ピアスは空けているし、言葉遣いなども、いわゆる今風である。自由というのはあるが、普通の高校生が実際どうなのか、というのは知らないのだけれど、いわゆる田舎の人間でもないし、東京という地方の、実に限られた環境の個体、という気がした。いってみれば、スーパーマンとは言わないまでも、かなり特殊な人間なのではなかろうか。しかしながらそれでも彼は不良ではないし、親のことも考えているし、平気で嘘をついて事を荒げることもしないし、時にはまともにやろうとしているのに、周りが平気でそれを妨害しようとしても、それなりに意地を出して乗り切ろうとする。そういう一途なところが、この主人公の魅力なのだろう。
 しかしながら、絵というものを描くというヒントは、それなりに非凡である。実際に絵をかいている漫画家が考えたものだろうが、絵というものに本気で向かい合ったことのある人間だからこそ導き出せただろうことが、ふんだんに描かれている。絵をかく前の自分が大事だし、向き合った対象についても、瞬時に深く考えなければならない。そうしてそれを絵として描き出せるスキルが必要なのだ。なるほど、絵をかくというのはそういう事だったのか、と改めて感じることが多かった。まったく考えたことが無かったわけではないが、うまい絵、とかすごい絵というのは、おそらくそういう思考を通したうえでの作業の結果なのだろう。売れた絵描きが、売ろうと思えば、なんでも売れる身分になっても、容易にその過去の絵を手放さない、という理由もなんとなくわかる気がする。自分の考える絵として、それがちゃんと絵になっていないものを、売ることなんてできないのだろう。
 ストレートな情熱ものだが、それなりに変でもある。そういうところが、いわゆるウケる作品なのだ、ということだろう。確かに不思議な魅力と力のあるものだったのではなかろうか。
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新しい書き手と、その面白さを求めて  これさえ知っておけば、小説は簡単に書けます。

2025-02-05 | 読書

これさえ知っておけば、小説は簡単に書けます。/中村航著(祥伝社新書)

 題名通り、小説の書き方のハウツー本。まあ、そういう本は数多くて、僕も興味本位に数多く読んできたのだけど、これはなかなか薄い本の割には、そのあたりの具体的な内容として、実に分かりやすいのである。他の本では、精神論というか、結局は自分の自慢話だったりすることの方が多いのだが、この著者は、実に王道的に書き方だけを具体的に著述していることに努めているようだ。そういう小説講座の経験もあるようで、実際にその生徒でプロの書き手になっている人もいるという。そうして書き続けている人もいるという。それだけでも凄いという感じがするし、もともとそういう人が受講するものであろうこともあるが、そういう気にさせる文章術を持っている、という感じもした。
 アイディアの出し方とか、その考え方とか構成の組み方とか文章術まで多岐にわたる。当然だが、書き出しや、書き進め方や、終わらせ方まで書いてある。なるほど、そういう事に対して惜しいプロの書き手も実際にいるということが、それによってわかる。そう考えているプロの書き手としての著者の姿勢も分かる。そうして、実際の小説の面白さというのは、そうやって書いているからこそ生み出されていくものだ、ということも分かるのである。
 こういうのは、おそらくなのだが、この著者が実践もしているだろうことだけれども、実際に小説講座をしてみて、その書き方を具体的に考え直してから、また編み出されて体系化されたものでは無いか、とも思われた。ひとに物事を伝えるというのは、その具体性において、もう一度再構築する必要があるのではないか。これですべてうまく行く、とは限らない問題ではあるが、少なくとも何かを書こうと思う人であれば、自分流があってもなお、それを見つめ直すことができるのではなかろうか。目から鱗、というような突飛なことでは無くて、それはあんがいに当たり前の事ではあるのだが、だからこそそれなりに地道に、ぜい肉をそぎ落として、シンプルにそのやり方に徹して教えてくれる。僕は小説は書かないのだが、小説以外のものを書いていることについても、改めてなるほどと思うことが多かった。ちょっと試してやってみると、簡単そうでもあるが、なかなか当てはまらないところもある。要するに試行錯誤は必要だけれど、それはやはりうまくのみ込めるまでの余地であって、しかしそれなりのヒントであったことも間違いなかった。人々が受けるであろう面白さの謎のようなものも、かなりしっかりわかるのである。まあ、僕は自分本位の書き手なので、反省することしきり、という事でもあるのだが。
 何しろ読みやすいので、新しい書き手がまた、これで生まれてくれるといいな、とも思う。もちろん僕も含めてそうなると、いいですね。
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怖いのは拷問、嘘つきが生き残る世界   崖上のスパイ

2025-02-04 | 映画

崖上のスパイ/チャン・イーモウ監督

 満州国時代。中国共産党の同志を、日本軍から国外に逃がすための作戦が展開される。選ばれた精鋭たちは、秘密裏に作戦遂行まで身を偽りながら行動しているが、内密者がいて、リーダーが捕らわれの身となり、激しい拷問を受けることになってしまうのだった。しかしながら共産党にも、日本軍の中にスパイがいて、敵も味方も欺きながら、過酷な任務を支えているのである。お互いに身元がバレると、激しい拷問の上に、なぶり殺しにされることは分かっている。ピリピリした緊張感が終始続き、胃が痛くなる思いがする。
 舞台が旧満州で、ハルピンなどの東北の寒いところが中心となっている。雪深く、コートをまとっている体にも、溶けずに雪が溜まっていくようなところだ。そういう場所で銃撃戦があり、カーチェイスがある。迷路のような古い洋館の街並みにあって、激しい殺し合いが展開される。日本軍が圧倒的に優位なのだが、精鋭たちも簡単には囚われない。鍛え抜かれているし、どう生き抜くか、各自よく分かっているのだ。
 最初からスパイ同士の情報戦があるので、誰を信用していいのか、よく分からない。観ている方も騙されているのかもしれない。スパイにも事情があって、当然過去の恨みとなるような、重要な秘密がある。その為に失敗するものもいるし、それを忘れずに果たそうとする者もいる。何度も拷問の場面が出てくるので、戦う相手の恐ろしさは重々伝わってくる。それでもやらねばならない任務があって、個人の戦いもあるのだ。
 チャン・イーモウの作品なのに、あんまり知らなかったな、と思ったら、抗日映画なのである。スパイサスペンスとしてそれなりの水準にある作品だが、日本の広報も、そのあたりの事情があるので難しい取り扱いになったのだろう。日本人が観るにはつらいものがある、という考えもよぎる。別段厳しい検閲があるとかは分からないが、こういう映画を通じて、中国共産党を賛美しているところがある。このような困難な時代を戦い続けてきた同志がいるからこそ、現代の共産党は偉大なのである。
 そういうところが最後にシラケるわけだが、アイドルのようなかわいい工作員もいるし、非情に拷問を受ける人間は気の毒だが、それでもその状況から抜け出すスリルなどもある。結局、真の主人公は心理戦に長けた人間だったのだが、今から考えると、中国で人気のある役者さんに違いない。自国のために映画を作ったとしても、それはそれで別段かまわないことだ。そういうあたりを理解して、サスペンス娯楽と思って観るべき作品なのではなかろうか。それにこういう事を繰り返し国民に思い出してもらわないと、中国の共産党は成り立たないのである。そういうお国事情も知っておくことも大切だろう。
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断捨離は楽しいか?

2025-02-03 | 境界線

 「断捨離」という言葉は市民権を得ているようだ。ふつうの人が使うようになり、説明不要で通じる。由来まで正確に知らなくとも、その言わんとする意味は、ちゃんと分かっているはずだ。要するにたまったものを捨ててしまう。掃除でそうすることよりもう少し上の段階の、おそらく終着のあるものを手放したり棄てたりできることだ。しかし厳密には恋愛対象などのことは言わない。言わないが、「推し」のものなら、そうでなくなったら断捨離に入るかもしれない。
 僕は断捨離とは基本的には無縁だ。必要性を感じるような時もあるが、やっぱりやめた、となる。捨てられないものには、なんとなくの意味があり、そうしてそれを考えなければならない。もう絶対に使わないし必要ないものが棚などにあるが、例えば父の書類などがあって、見てみると、僕の高校のころの学校の会議録のようなものがある。手書きで何かメモなんかがあって、たぶんそれで捨てられない。もう意識的には見返さないんだけど、そうだったな、と思ったら捨てられないのだ。
 時々雑誌のたぐいくらいは捨てているけど、なんとなく捨てられないシリーズもある。近年のものは捨てるが、古すぎて捨てられないのもある。分類は面倒だからやめるが、見返さなくていいのなら棄てられるな、とはときどき思う。そうして別の山を捨ててしまう。中身は知らないので、それでいいのだ。
 断捨離の本は持っていないが、なんかの断捨離関連本は読んだ覚えがある。コツとして覚えているのは、「それがなくなったら飛び上がるくらい困るもの」以外は捨てていい、という教えだった。なるほど面白いけど、しかしながら困るから残している訳ではない。執着があるから残しているのだ。実際いつも何か探していて困った毎日はちゃんと送っている。捨ててなくても困るのは困るのだ。
 結局後回しにしているとか、すっきりするとかいうが、僕は田舎暮らしなので、ため込もうと思えばそれなりにため込めるスペースがある。手に取れる範囲の片づけはやるけれど、いくらかは段ボールに詰めて、別の場所においておけば、僕の生きている間くらいは放置することくらいはできる。その後の世代はその価値などみじんも執着が無いだろうから捨ててくれたらいい。まあ、確かに先送りだが、ものというのはそういうものだ。
 自分のものでもそうだから、ひとのものなどとても捨てられないし、実際どうしようもない。職場では一定のルールはあるようで、ときどき大量に物が捨てられる。ためておくと業者が持っていくシステムで、あまりに大量になると、追加料金でも取られるのかもしれない。そういうのをトラックに詰めて運ばれていくのを眺めているのは、確かになんとなく楽しげなものではある。しかしそれは僕とは関係ないものが運ばれていくからそう思えるのであって、自分がやったものならそうでは無いだろう。やはり断捨離なんて楽しくは無いのである。
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古狸、少年と会う   オールドフォックス 11歳の選択

2025-02-02 | 映画

オールドフォックス 11歳の選択/シャオ・ヤーチェエン監督

 古狐、というのは、いわゆる陰口でいう人物評だ。狡猾でずるいというか、いわゆる悪賢さを表してもいる。しかしそれは、一般的には尊敬ではないかもしれない。この映画では、ある重要な人物を指して、そう呼んでいる。子供なのでうっかり本人に向かってそう言ってしまうのだが、そのいう態度が逆に気に入られて、このオヤジはこの子供にいろいろ変なことを教えてくれるのであった。
 母親はすでに亡くなっているようで、父と息子とで暮らしている。貯金をためて理髪店を開くことが夢だ。父親は今はレストランでウェイターをしていて、その客の関係で顔も広くなっている。一階が小さな店舗の連なる通りに面した二階に住んでいて、貯金をためるために倹約生活をしている。台湾では当時は少しばかり株に勢いのある時代のようで、料理屋のオヤジは、証券会社の人間に懇意にして財テクで小銭が増えていくのが楽しくてしょうがない、といった趣きだ。小学生くらいの息子は、そういう時代にあって、なんとなく父親がどんくさいような気がして仕方がない。まじめで優しく、非常にいい父親なのだが、時代とうまく立ち回れていないのだ。
 少年は、ある種の賢さは持っているが、大きな同級生などからはいじめられる対象のようだ。腕力ではとても太刀打ちできない。雨降りのある日、高級車の窓から呼ぶ、この辺りの地主のオヤジと知り合うようになり、このオヤジはこの少年が自分のようだと言って、特別に可愛がってくれる。そういう中で、自分中心に生きることで、人生の成功者になるヒントを、いろいろと授かるようになっていくのだった。
 いわゆる成長物語なのかもしれないが、不思議なダーク感と、さまざまな伏線のまぶしてある構成の物語になっている。実にうまい作りで、映画とはこういうものだ、という見本のような映画だ。人物もそれぞれにきめ細やかに造形してあるし、しかしその行動は、意外性もある。様々な事件が起こるが、その事件の中で上手く立ち回るキーマンとして、少年が頭角を現すようにもなるのだ。それは必ずしも気持ちのいいものでは無いのだが、そういうところが、実にうまく表現されている。父親は確かに負け組かもしれないが、だからこそ愛する肉親なのだ。父親には無い非情さを身に着けていくにつけ、少年は自分で人生を切り開くことと、人間的なやさしさの本質的なところとを、同時に理解していくのだ。まさにそれは古狸の教訓そのものかもしれない。
 基本的にはノスタルジックな物語なので、そういう時代に生きた後に現代の生き方のようなものがある。しかし確実に、今の時代の人間にも、過去の人間の血が流れているのであろう。
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