カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

断捨離は楽しいか?

2025-02-03 | 境界線

 「断捨離」という言葉は市民権を得ているようだ。ふつうの人が使うようになり、説明不要で通じる。由来まで正確に知らなくとも、その言わんとする意味は、ちゃんと分かっているはずだ。要するにたまったものを捨ててしまう。掃除でそうすることよりもう少し上の段階の、おそらく終着のあるものを手放したり棄てたりできることだ。しかし厳密には恋愛対象などのことは言わない。言わないが、「推し」のものなら、そうでなくなったら断捨離に入るかもしれない。
 僕は断捨離とは基本的には無縁だ。必要性を感じるような時もあるが、やっぱりやめた、となる。捨てられないものには、なんとなくの意味があり、そうしてそれを考えなければならない。もう絶対に使わないし必要ないものが棚などにあるが、例えば父の書類などがあって、見てみると、僕の高校のころの学校の会議録のようなものがある。手書きで何かメモなんかがあって、たぶんそれで捨てられない。もう意識的には見返さないんだけど、そうだったな、と思ったら捨てられないのだ。
 時々雑誌のたぐいくらいは捨てているけど、なんとなく捨てられないシリーズもある。近年のものは捨てるが、古すぎて捨てられないのもある。分類は面倒だからやめるが、見返さなくていいのなら棄てられるな、とはときどき思う。そうして別の山を捨ててしまう。中身は知らないので、それでいいのだ。
 断捨離の本は持っていないが、なんかの断捨離関連本は読んだ覚えがある。コツとして覚えているのは、「それがなくなったら飛び上がるくらい困るもの」以外は捨てていい、という教えだった。なるほど面白いけど、しかしながら困るから残している訳ではない。執着があるから残しているのだ。実際いつも何か探していて困った毎日はちゃんと送っている。捨ててなくても困るのは困るのだ。
 結局後回しにしているとか、すっきりするとかいうが、僕は田舎暮らしなので、ため込もうと思えばそれなりにため込めるスペースがある。手に取れる範囲の片づけはやるけれど、いくらかは段ボールに詰めて、別の場所においておけば、僕の生きている間くらいは放置することくらいはできる。その後の世代はその価値などみじんも執着が無いだろうから捨ててくれたらいい。まあ、確かに先送りだが、ものというのはそういうものだ。
 自分のものでもそうだから、ひとのものなどとても捨てられないし、実際どうしようもない。職場では一定のルールはあるようで、ときどき大量に物が捨てられる。ためておくと業者が持っていくシステムで、あまりに大量になると、追加料金でも取られるのかもしれない。そういうのをトラックに詰めて運ばれていくのを眺めているのは、確かになんとなく楽しげなものではある。しかしそれは僕とは関係ないものが運ばれていくからそう思えるのであって、自分がやったものならそうでは無いだろう。やはり断捨離なんて楽しくは無いのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする