愛にイナズマ/石井裕也監督
一本の繋がりのあるストーリーのはずだが、なんとなく前半と後半は別の話めいている。前半は、なんとなくグダグダの嫌な大人の世界の話、ということになる。物事には理由があり、それらしい常識的な組み立てられた世界観があって、それにはみ出さざるを得ない若い才能がある、ということかもしれない。しかしおとなの事情は受け入れがたく、そして常識的なものでさえない現実があって、完全に間違っているのである。
そうして後半は、家族の物語になり、建前で隠されたものらすべてが、さらし出されていくという仕組みである。子供だったきょうだいは、実際には家族のことなど何も知らなかった。知ってしまった後は、自分というものが表に素直に出るようになるのだった。
そういう話ではないのかもしれないが、後半のきょうだい喧嘩の熱量が、そのままコメディになっている仕組みだ。それは夢物語なのだが、そういう爆発する理由がある。前半のグダグダは、そういう熱量をため込むための試練のようなものだったのかもしれない。ちっとも面白くは無かったわけだが、ぷっつりと跡形もなく無くなってしまって、後半のコメディへと突き進んでいく。まとまりはあんまり無いが、そういうカタルシスのようなものが、奇妙な映画の感慨を生んでいる。
物事の正当な理由のようなものは、あんがいに不可解で、そこまで明確なものなのではないのかもしれない。しかし掘り下げて考えていくと、きっかけにならざるを得ない、些細とはいえない引っかかりが、その人にはあったということは言えることがある。そういうものは説明が不能とまでは言えないまでも、本人であっても説明しかねるものがある。または、ちゃんと向き合って語りたくないものかもしれない。廻りの人間は、それを察して考えていかなくてはならない。気分として、肉親として、分かり得るものはある。そういうところから紐解いていって、納得するよりないのである。そういう紐解きをする作業は、時に大変な苦痛を伴う。しかし、そういう機会を得たきょうだいは、実際には幸福だったのではあるまいか。
彼らは不必要に暴力的だし、話している理屈や言い回しも独特なもので、必ずしも一般的なものでは無い。家族の過去に隠された秘密も、やはりそれは普通ではない。それが分かった後の処理に仕方にも、いちいち問題がある。法的にも、そうならないものばかりだ。しかしながらそうであっても、それは現代の諸問題に通じる寓話なのである。そういうもやもやに対して、僕らはちゃんと向き合っていない場合があるのかもしれない。愚直でも、そうしなければ納得できない個人がいる。基本的にはそういう話だったのだろうと、考えているところである。