週刊文春に司馬遼太郎を原作とする「竜馬がゆく」の漫画連載がある。もう100回を超えていて、それなりに好評で続いているのではないかと思われる。僕も最初のころはパラパラ読んでいたはずだが、いつの間にか飛ばすようになってしまった。それでも時々は読むことはあるようだが、やっぱりそれは時々だ。司馬の書いた竜馬は高校生くらいの時に読んでひどく感動し、すっかりファンになった。まるで武田鉄矢である。そういう人は当時の日本にはかなりいて、しかしそれなりに静かにしていた。何しろあの小説はめっぽう面白いので、竜馬を好きにならざるを得ないのである。なので当時から、龍馬をいわゆる神格化するような土台は、すでにあったと思われる。高知は龍馬の出身地だというのは、それなりに伝播されていた。
しかしながらまだ、幕末の志士と言えば当然のように上位に位置するのは、西郷隆盛や大久保利通、高杉晋作、木戸孝允であり、その後に坂本龍馬の記述があるのが普通であった。周辺の人物ではあるのは間違いなさそうだが、明治維新を成し遂げたのは坂本龍馬ではない。そんなことは明治から続く常識として、僕らの先輩方はちゃんと知っていたのである。坂本龍馬という人もいるんだよ、というのは明治末に奥さんだったお龍さんが語ったのがヒットして、小説にもなり話題をさらった。司馬はそれをもとに別の資料を紐解いて再構築したと言われる。だから「龍馬」ではなく「竜馬」の漢字をあえて使い、創作であることを示したといわれる。また、実際の龍馬は資料に乏しいところもあって、創作を挟みやすいところもあったのかもしれない。
しかしながらその影響力は尋常では無かった。徐々に神格化された龍馬は、明治維新の第一の立役者まで躍進することになる。現代ではそれが歴史の常識になったように思われる。また、ドラマなどの世界のことだから、学術的にどうという事とは関係が無い。清水の次郎長は実在の人物であるが、演劇の世界で「寿司食いねえ」と言ったところで、それを史実ではどうだという人などいない。おんなじことなのである。
おそらく僕が感じている今の坂本龍馬は、そういう意味で少しかけ離れたヒーローになってしまったのかもしれない。若い頃に純粋に感動して好きだった龍馬は、多くのドラマのイメージから、なんとなくいけ好かない人物へと変貌していった。もっと自由で普通のところがあって意外性のあるすっきりした青年像が、なにかとデカい事ばかり考えて人々を扇動する超人になってしまった。本当に残念である。
まあ、実のところ、龍馬自身には罪はない。現代人が求める龍馬像には問題があるということである。そのような偶像でなければならない現代の人々の欲求には、より優れた龍馬像こそ日本人にあって欲しい資質なのかもしれない。それにこたえるだけの資質があったからこそ、龍馬は巨大な人物になれたのだろう。