カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

踊りたくなる気持ちまでは分からないが

2023-11-14 | 

 見つけたら踊りたくなる(程嬉しい)ことからその名がついたともいわれる「マイタケ」であるが、実際天然もののマイタケというのは、見つけるのがかなり難しい希少なものなのだそうだ。九州にもあったのかもしれないが、僕が子供のころには、マイタケが食卓に並ぶようなことは、まったくなかった。小学生のころに何かの本を読んでいて、マイタケの入った味噌汁が何より好物だという文章があって、母にマイタケを食べたいと言ったら「それは何?」と聞き返された記憶がある。それとなく八百屋などで探してみたが見つけることは出来なくて、かなり残念な気持ちになったものである。そうしてしばらくは忘れていたのだが、高校生くらいの時に忽然と奇妙な塊のこのキノコが現れて、「ああっ」と思い出した。栽培技術が向上して人工栽培のものが九州でも出回るようになったためだった。さっそく買ってもらって食べたのだが、期待が大きすぎたのか、そんなにまでうまいものだとは感じなかった。俺はシイタケの方が好きだな、と思ったことだった。
 しかしながらおそらくだが、調理によっても違うのではなかっただろうか。さらに何年も経過して、何かの料理と共に、バターか何かでソテーしたマイタケを食べる機会があって、なかなかの旨さにちょっと興味を抱いたことがある。なるほど、みそ汁などで食べるよりよっぽどうまいじゃないか。いったいあの文章を書いた人は誰だったのだろう? まあ、好みの問題であるから書くのは自由であるが、幻のマイタケを食べたという単なる自慢の文章だったのかもしれない。だいたい小説やエッセイなどで書かれたものの味なんてものはわかり得るはずが無いので、少年の心をつかんでおきながら長い間期待を抱かせた書き方に、問題があるのである。
 しかしながらこのマイタケというのは、実は縄文時代から食べられていたということが、分かっているそうだ。いったい誰が調べたのだろう? わりあい日本独自のものらしく、他の国ではあまり知られていない。そもそも諸外国で食べるキノコというのは、あんがいに限られた品種のみのようで、マッシュルームのようなものは食べるが、多様なキノコをいろいろと食べる国は、そんなに無いのかもしれない。僕が中国に留学していた短い期間のことを思い起こしても、あちらでもキノコのたぐいはそれなりに食べていたけれど、キクラゲのようなものはあちこちで見かけるが、マイタケは確かになかった。今は日本食も食べるようになっているというから、ひょっとすると事情は変わっているかもしれないが。
 そういう訳で外国人が日本に来て、マイタケが料理に出てくると、それなりに驚く人がいるという。なんとなく気持ち悪い形でもあるし、あちらの人はひどく毒キノコを怖がる傾向があって(日本人だって怖いとは思っているが)、なかなか口にしないのだという。しかしながらある程度日本になれてきた人たちがこれを食べて、そのおいしさに、やはり驚くのだという。そうして、なんとなく日本風だとも感じるのだという。そんなところに日本風というものがあるなんて、思ってもみなかった。
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タッチパネルで注文する

2023-11-06 | 

 最近のチェーン店というのは、基本的にタッチパネルで注文するところばかりになっている。個人の店でもそういうところは増えているし、事情があってこれを取り入れているところがほとんどといっていいかもしれない。QRコードはあるものの、そもそもアプリをダウンロードしないことには注文さえできない店も増えている。客にリテラシーが無ければ、どうにもなりませんよ、というサインでもあるのだろう。
 先日もそういう店に入ってしまって、まあ仕方ないな、という感じで注文したのだが、一緒に居るご年配の方が、しばらくして店を変わろう、と言い出した。口に合いませんか? と聞くと、こういう感じで食事をするだけで、なんだか損したような気分になる、というのである。言わんとするところはなんとなくわからないでは無いが、損をするという感覚というのは初めて聞いた。それで店を変えて飲み直したのだが、まあそれで事なきを得て良かったと言えばよかった。
 しかしながら若い人がいると、これはこれで注文がすぐ済んで、おかわりもすぐである。タッチパネルの良いようなところは、一方通行だから、まず店員さんを呼んで、という手間が無く次に料理が来る。皿が溜まる傾向にはあるものの、料理を持ってきたついでに何か持っていく場合もあるので、そこまで気にする必要は無いかもしれない。
 ファミレスなどは、料理もロボットが持ってきてくれるようになった。目新しさもあるし、とりあえずこれでいいのだな、というのはだいたいデザインの感じで分かる。しかしながらこれも、ある種の角度のようなものがあるようで、ボックスではなく椅子席が続くテーブルの中間で、いつまでも客が自分の食べ物が運ばれてきたことが分からずに、数分停まっている場面も見たことがある。僕らはそれを見ていたので、つれの人が知らせに行ってやっと気づいてくれた。ロボット君は律義ではあるが、その辺のサインのようなものが、今一つ分かりにくい場合があるのかもしれない。
 人件費等の問題もあるし、サービス業は人余りでもあるらしいし、さらに他の業種は人不足である。限られた人的資源は、うまくマッチングしない限りいきわたらない時代に入ったと言われている。省力化できるところは頑張ってもらって、さらに価格もお手頃のまま維持できるように、ということのようだ。それは消費者の利便性を兼ねている、と考える必要があるのだろう。人がサービスすることの贅沢さという、飲食業の差別化が進んでいくのかもしれない。
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納豆を食べている

2023-09-28 | 

 朝から納豆を食べている。以前にも書いたが、つれあいは納豆が苦手なようで、結婚当初は納豆が食卓に並ぶことは不可能だった。だから出張などの折に、ごくたまに食べるものと長年なっていた。きっかけがどうだったのか正確には忘れたが、僕の体調管理によいという理解が得られ、朝から納豆が出るようになったのだと思う。僕は腸内細菌に偏りがあるように思われ、ひどく下痢が続くことが多かった。実際の話今もそういうことに変わりはないものではあるが、通勤時にひどく苦しむようなことは少なくなった。それは一つに納豆があるだろうし、ヨーグルトがあるだろうし、そうして晩酌に必ず飲んでいた日本酒も控えるようになっている。たまに飲む分には問題なさそうだが、連日呑むとひどくお腹が痛くなる場合があると感じるようになり、そうしてこれらの連動する組み合わせの甲斐あってか、かなりの改善を見ることとなった。それでも午前中いっぱいは相変わらず苦労は残っているとはいえ、それでも以前よりましなのだ。
 ということで納豆を食べているのだが、朝から納豆を食べるということになって、僕は朝は割り箸を使うようになった。納豆が付いた箸を洗ってもらう訳にはいかないからである。納豆が苦手というのは、そういう事もあるようだ。そうであるから、納豆をご飯にかけて食べることも基本的にやらない。ごはん茶碗に納豆がついてしまうと、これを洗わせることになるからだ。納豆の入っているプラスチックのケースの中で、ぐるぐるかき回してそのまま食べる。納豆と御飯の相性はいいのは分かっているが、どうしても一緒に食べなくてはならない道理はない。それに直接納豆を食べたからと言って、ちょっと箸を伸ばしてご飯を食べることが不可能なのではない。しかし納豆を直接食べているとそれなりに苦闘している感じになって、あんまり余裕はなくなる。納豆に集中しているという雰囲気になっていく。もうあれこれ考えることすらできなくなって、いったん口の中の納豆の消失の後になって、口をティッシュやウェット・ティッシュなどでよく拭いてから、別のものを食べるということになる。基本的に僕はガツガツと落ち着きなく一気に食事をするというスタイルなのだが、このように納豆が最初に入ることで、一連の流れに時間的な区切りができて、ちょっと朝食だけは、時間がかかるようになっている。塩昆布と沢庵と梅干があってご飯を食べ、焼き魚や卵料理などが別に並ぶことが多い。温めた豆乳が付く場合もあるし、みそ汁だったりスープだったりもある。そういう一連のものを食べた後にヨーグルトを食べて、各種薬を飲んで、血圧を測る。それらのルーティンが完了するのが、朝の日課ということなのである。それらのスタートが、必ず納豆であるということなのであった。ありがとうございました。
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卵料理を食べましょう

2023-08-13 | 

 卵の値段が上がっている。日本で卵と言えばほぼ鶏卵のことだが、卵の値段は物価の優等生と言われづけてきた。理由は60年間くらいほとんど値段が変わらなかったからだ。インフレがあって他のものの値段は相対的に上がり続けているので、むしろ卵一個にかかる様々な経費が、何らかの作用で抑えられ続けているということである。それは生産現場における合理化がすすめられ続けてきた結果だし、おそらくそれほど合理的に大規模化したところでないと、日本での卵の生産は事実上できないということでもありそうである。実情は知らないが、何万羽と飼育している生産工場化している鶏卵場が、日本の食を支え続けてきた歴史があるのだろう。
 ところがここにきて、卵の値段が上がったままなかなか下がらない現状がある。原因とされるのは単純化して主に二つ。一つは鳥インフルエンザによる鶏卵場の殺処分がふえたからである。日本の鶏卵の約1割の鶏が殺処分されてしまったという。その分卵は希少になるので値段も上がって当然である。さらにこれが原因で廃業する業者も少なからずいるのだという。それではこれから飼育し直すにも時間と労力がかかる訳で、価格が戻る(下がる)には容易でないということは明らかだ。
 もう一つは、鶏が食べる飼料の高騰がある。鶏が食べている穀物のほとんどが輸入に頼っている。日本で飼料を作るには、コストの面で問題があり太刀打ちできない。しかしその為に国産は壊滅的で、すでに飼料を作る農家はほとんどないのが現状だ。そういう中で国際価格が上がると、選択肢が無いのでそのまま高騰した飼料を使う以外にない訳だ。価格を上げない限り生産が不可能になっているということだろう。価格高騰の原因の一つに、ウクライナ問題がある。ウクライナの穀物はおもにヨーロッパ向けだと思われるが、それにこれまで頼っていた国々が、日本の必要とする穀物にも選択を広げているために、国際価格が上がっているのだろうと思われる。日本が第一の顧客で無くなれば、今後は売ってもくれなくなるかもしれない。
 以上のような原因を打開するには、大規模化の生産を見直す必要がある。大規模化した養鶏場に一羽でも鳥インフルエンザが見つかると、すべて殺処分されることの見直しが必要かもしれない。さらに鳥インフルエンザが蔓延する原因も究明が必要だが、一つの仮説として、鳥インフルエンザが弱毒化して、これまで飛来する渡り鳥が感染していてもほとんど途中で死んでしまっていたので確率的に蔓延に至らなかった可能性もあるらしく、むしろ弱毒化したインフルエンザだから、多くの鳥が感染したまま日本に至っているともいわれている。そうであるならば、考え方を変える必要もありそうである。
 また、国内生産に対しても何らかの取り組みが必要とも思われる。後押しするのは助成金かもしれないが、安定供給のために助成金を出しているのは、おそらく海外も同じである。安易に輸入にだけ頼る政策では、このような危機に対応はできないということだろう。
 いずれにしても、今の状況を鑑みると、もう卵の値段は下がりそうにないことが分かる。ある程度は揺れ動くことはあろうと思うが、一定の水準で高いままになるだろう。むしろ卵を買い支えることで、安定供給を守ることにもなるかもしれない。消費者が卵から離れることは、今後のさらなる高騰を招く引き金になるかもしれない。
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僕はつぼ焼きが好きです

2023-07-28 | 

 サザエは、日本では1万年くらい前から食べられていたとされる。どういう訳か朝鮮半島や日本列島などの東アジアにしか生息していないようで、主に日本の食材として海外では有名なようだ。というか、そういう事情もあって、よその国ではあまり食べられない珍しい食材なのかもしれない。
 もっとも日本のサザエの特徴であるトゲのあるものが珍しいようだ。日本ではトゲのあるものとないものは、長らく環境によって違うのであろうと考えられてきた。荒い磯にあるものは流されてもトゲがあるので、どこかに引っかかるなどしてトゲが発達した、といわれていた。しかし実際にトゲのあるものとないものは混在していて、雌雄によって多少の味の違いはあるものの、トゲのあるなしで味が違うとは考えられていなかった。ということと、環境説と遺伝説が混在して、サザエとはそういうものだ、ということになっているのかもしれない。
 ところが実際にはトゲの無いサザエは中国よりも南海などには居るようで、品種がちょっと違う。瀬戸内とか波の少ない内海に多いとされるトゲの無いサザエは、そのような南海サザエと遺伝的に近い可能性は無いのだろうか。品種が違うと考えている人は他にもいるようで、ヒメザザエとして別に売ってある場合もある。百科事典などで調べてみたが、そこのあたりはあまりはっきりしない。やはり同じ磯に混在している為であろう。
 サザエは比較的高級食材の一つだが、長らく食べられてきた大きな理由は、たくさん取れるからである。千葉などの地方では、サザエがふんだんに取れ、以前は肉の方が貴重だったから、サザエカレーが名物になったともされる。取れすぎるので、いろいろ工夫して食べられているということだ。また、硬い食感と相まってかすかな苦みと甘みが混在した独特の風味が、長らく愛される日本の味ともいえるのかもしれない。
 刺身でも美味しいと思うが、やはりサザエはつぼ焼きにして食べるのが一番だろう。考えてみるとかなり残酷な食べ方だが、サザエの方も一度漁協などの水槽で休ませて、獲ったばかりのストレスを取って元気にしたものを食材にしているものが多いのだそうだ。さらに残酷なことだが、結局人間はそのようにして自分の欲望のために、生き物をいじめぬいて美味しく頂いているのだろう。合掌。
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ゴーヤーは新しい食べ物

2023-07-02 | 

 夏になるとゴーヤーが目に付く。苦みがかえってさっぱりして、暑さにバテ気味な体に効くような感じがある。苦いままサラダに入っていてもアクセントになって食べられるし、おそらく品種があって、近年はそんなに苦くないものがあるようにも感じられる。もちろん主たる料理は、ゴーヤーチャンプルー(またはそれ風でよい)で、豆腐と卵とまぶした炒め物が最適である。シンプルだけど、食が進むのである。
 子供のころにはこれは、実はあんまり見なかった。中学生だったか高校生だったか忘れてしまったが、そのころに初めて食べて、その苦さに驚いた。母は何故このようなものを僕に食べさせるのだろう。しかしすぐに慣れて、これと御飯をかき込むとたくさん食べられることを知った。当時はチャンプルーでは無くて、味噌と豚肉をまぶした炒め物が多かったような記憶がある。みそと絡めると、その苦さが気にならなくなるのだろう。
 ゴーヤーはもちろん沖縄では古くから食べられていた食材のようだが、戦後しばらくの間は、本土には移送制限がなされていた時期があるのだという。何でもゴーヤーには、沖縄特有の害虫であるハエが寄生する場合があったらしく、農作物に深刻な被害をもたらすものだった。後に駆除する方法が見いだされ、やっと70年代に解禁に至ったのだという。それから出回るようになるまで、時間がかかったものらしい。
 なるほどそれで、本当に小さいことには食べた記憶が無かったのだろう。母が何でゴーヤーを調理するようになったのかはわかり得ないが、当時はニガウリと言っていたことは確かだ。ゴーヤーと言い出したのは、僕が大人になってからのことのようにも感じる。チャンプルーってなんだろう?って思ったことがあるが、結局はよく分からなかった。後にごちゃ混ぜって意味だよ、と教わったが、そうすると、なるほど「ちゃんぽん」って意味なんだろう。長崎人には、ちょっと違うけど親近感ある言い方かもしれない。
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恐ろしいところにはまだ行けない

2023-04-29 | 

 田舎暮らしなので外食して恐ろしいことはめったに起きないが、それでも寿司屋というところはやっぱり恐ろし気なところが無い訳ではない。そんなに大きな面構えでないところに限って、それなりに立派ということがある。だからと言って銀座のように10万を超えるということは無いのだろうけど、1万ということはあり得る。それでも安い、という人もいるけど、通うところではないだろう。
 寿司屋が高いというのは、確かにそういうところだからという理由は分からないではない場合もある。本当にそういう高い素材を惜しげもなく使い、腕もあるならそうなってしまうしかないのかもしれない。また値段の高さは人を選んでいる場合もある。客が選ばれているからいい店を担保できるともいえる。選ばれた客だからこそ味も分かる訳で、そこはある程度の勝負もかねて、値段設定は考えられているに違いない。もちろんそれで成り立つような評判を保ち続ける必要もあろうから、田舎であるほど、生き残りは大変かもしれない。
 たまにはそういうところに行きたいと思わないではない。ちょっとした贅沢を味わうという意味でも、やはり行ってはみたい。あそこは良かったよ、という話を聞くと、そういうものかな、とも思う。しかしやはりそんなに近所でない場合が多く、そこまでして、と躊躇する。予約というのも面倒である。先の予定は他にもあるし、それが増えるのは嫌なのである。
 たまの贅沢だから、今風に言うと何か自分へのご褒美のようなものにもしたい。しかし自分だけのご褒美を自分で設けるのは気が引ける。今では無い将来のことだが、確かにそういうものを自分で決める場合であるとか、立場にない気がする。
 寿司は好きなのだが、酒を飲んでいる場合は、ずっとつまんでいるというのも嫌なのかもしれない。ああいうのは江戸前だと、パパッとつまんで帰るというのが粋というのだろう。そうするとせっかくの機会なのにせわしない。貧乏性なのでそういうカッコつけはどうもいけない。しかし無粋なのは恥ずかしい気もする。
 料理屋としての寿司屋には行く。それは自分一人ではない。そうすると何かくれという。もしくはつれの人が何かを頼む。料理屋というのは受け身の方が良くて、なんでもいいから客の顔を見て作ってくれるような店がいいと思う。そうすると通う必要があって、しかし通い方によっても、当たりはずれができてしまう。まあ、そういうものではあるのだが、結局は自分のその時の都合が相手に簡単に分かるはずは無かろう。要するに自分の側に許容が必要だ。それには修行も必要で、早い話がまだ僕には早すぎるのであろう。
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梅干しの種を割る

2023-04-27 | 

 本当に好きなのかどうかもよく分からないで食べているのは、梅干しである。子供がまだ小さいときには、僕が食べているだけで嫌がったので、しばらくの時期は食べていなかった。近年どういう訳か朝の食卓に梅干しが出されるようになって、ほぼ毎日食べている。納豆を食べてごはんに何かおかずがあって、それは焼き魚だったり目玉焼きに温野菜だったり昨日の残り物だったりもするが、そういうものと黄色いたくあんと塩昆布のようなものだったり高菜漬けだったりする。つくづく朝のごはんがおいしいものである。子供のころには知らなかったことだが、白いご飯は本当に甘みがあって素晴らしいものである。それに温かい豆乳とかみそ汁のようなものをときどき吸いこむ。もうご飯が無くなるな、という頃合いを見計らって一つつまむのが梅干しなのである。実はもうご飯を食べてしまった後の時もあるのだが、要するに最後に一つ食べる。食べる前に酸っぱさに身構えて、そうして実際酸っぱいのでその酸味に身もだえするようになりながら咀嚼して、タネをしばらく口の中で転がして遊んでいる。
 梅干しには種類があるのか、これがなかなか割れない。割れる時にはなんなく割れる日もあるのだが、しばらくがりがり葛藤してかみ砕く。そういえばこれを子供のころにやっていると、母から歯が悪くなるからやめなさい、とたしなめられたものである。今は母は僕より遅く起きてきて食事するので、そういうことは言われない。考えてみると父が梅干しの種を割って食べていたように思う。そうすると、僕も真似をして食べるようになったのだろうか。
 昼の弁当についているような小さいのではなく、大きな梅干しの芯の大きな種でなければならない。梅自体は、あんまり酸っぱくないものとかいろいろあるのだが、基本的には酸っぱいものの芯の方が望ましい。この芯の種のことを仁ということも何かで知ったが、しかし特にそういう習わしに倣うことなく、タネは種である。正確には種を割った中身の種であるが……。
 これも実際のところうまくて食べているのかよく分からないのだが、きれいに割れて食べることができると満足感がある。少しだけ酸っぱさが残った種の実は、ほんのり苦みのようなものが残っている。これを健康のために食べているわけでは無いし、歯が痛むリスクを抱えながら食べているわけで、ちょっと馬鹿っぽいところがあるような気もするが、やはり気になるので食べなければならない。せっかく酸っぱさに耐えながらたどり着いた芯である。一種のご褒美のようなものなのではなかろうか。

追伸:その後やはり歯が悪くなるような不安に駆られ、くるみ割りのプライヤーに似た形をした道具を買いました。殻が飛び散る場合があって、必ずしも使い勝手がよくない気もするけど、とりあえず歯で割ることはしなくなったのであります。
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大食いは特殊すぎる

2023-03-17 | 

 民放を見なくなって久しいので、現在の状況は知らないのだが、今でも大食いタレントさんというのは活躍しているのだろうか。以前はたくさんいたので、今もおそらく需要があるだろうことは想像できるわけだが、やはりあれは奇人変人を見るのが楽しいというのがあるのだろうし、しかしやはり無理のあることをやっているには違いないとも思う訳で、ずっと変わらずに大食いをやり続けている人というのは、どれくらいいるものなのだろうか。
 普段はつい食べ過ぎて困る、というような思いをしているにもかかわらず、それはほかならぬ太るからであるが、実際のところ、限界まで食べているわけでは決してない。食べ過ぎて苦しくなるというようなことはほとんど無い訳だし、そういう臨界点に達するような場面はほとんどなくなった。正月に大勢で食べてまだ食べ物があるし、もう少し、というのはあるが、あれでも限界を超えるような食べ方ではない。それこそ若い頃にちょっと行き過ぎて食べ過ぎたというのはあるが、ほとんど冗談でやっている悪ふざけであり、あれも極限限界だったのか、よく分からない。記憶が定かでは無いが、鍋か何かを囲んでいて、ものすごく厳格で恐ろし気な年長者がいて、〆の麺を大量に注文して残さず食べろというミッションを課されたことがあって、死にそうな気分になりながら皆で必死に食べたことがあった。苦しくて拷問だったが、あんなことをさせて何が楽しいのか理解に苦しむだけのことで、もうそのような集まりに行くようなことは無くなったのだった。彼らももうだいぶん死んだことだろうし、平和になって良かった。
 ところで、そのように苦しいはずの大食いなのだが、実際それができる上に、さらにその上限を超えるような量を食べられるのが、大食いタレントである。何キロという単位の食べ物を、本当に食べきっているように見える。テレビなので、本当にトリックが無いのかは知らないのだが、仮に完全にそのようなことが無いというのであれば、やはりそれは尋常ではないことは確かだ。大食いの人は世の中に確かにいるが、僕の知っている人に、やはりあの全国レベルの人が存在するとも思えない。体を鍛えるように食べられるようになるものなのかどうかも知らないけれど、そのような次元の違う生き方をされている人たちなのではなかろうか。
 そのようにレベルの高いところで食べている人が、体質的に素直に太らないと言われていたりするが、やはり彼らも人間であることを考えると、それは人間性の否定になるのではなかろうか。というか、本当に毎日あの量を食べているのであれば、必ず太らなければ何かがおかしいような気がする。鍛えて量を食べられる人であることと、状態として太らないから体というのは、矛盾なくあり得ることなのだろうか。そもそも食べても消化しないとか、原理的にあり得るのだろうか。
 噂では、食べた後にすぐに出る人であるとか、そもそも吐くのだというのもある。それはおそらくありそうで、それなら少しは納得がいく。わざわざ手の内を明かすことは無いとは思うが、食べてしまったことと太らないことの矛盾には至らない。
 また大食いの人は、大会に向けて食べ方を鍛えてその日に臨み、それをピークにしていて、普段は穏やかにそんなに食べないというメリハリをつけているという話も聞いたことがある。逆にやはり普段からずっと食べ続けている人もいるとも聞く。いったいどっちが本当なんだろうと思う訳だが、それは自分が太ることとの関連性で、信用したりしたくなかったりするだけのことなのかもしれない。ただでさえ信じられない現実を目にし、さらに人間離れした体質であるなんてことに、疑いを持ってしまうだけなのかもしれない。
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日本の食材は面白い

2023-02-07 | 

 これはドキュメンタリーの欄で紹介していい話なのかもしれないが、一応食べ物話題なので。
 NHKで「おいしい東京」という、元は外国人向けに日本の食べ物を紹介する番組だったものが、日本向けに外国人が日本の食材を紹介するものへ変化した番組がある(※1)。僕はこれをセッセと録画して観ているのだが、ふと、なんでこれを好んで見ているのかな、と思った訳だ。確かに別にクールジャパン(※2)という外国人から見た日本文化紹介の番組も見ているが、それよりもかなりフラットな視点で日本の食材を取り上げているのが面白いのである。漬物やコメとか酒ももちろんだが、時にはチョコレートやキャベツなども取り上げられる。そういうものが日本の食材として世界的に見て特殊だったなんて、実に驚きである。そうして、日本に来た外国人が、おそらくそういうものに接して驚いたり面白がったりしているというのを眺めるのが、なんだか不思議でもある。
 こういう番組を見ている日本人というのは、おそらくだが、自尊心のようなものがくすぐられるのが第一にはあるのだろうとは思う。日本を褒めてもらうのは、日本人である自分まで褒められているようで気持ちがいい。あまり露骨だと嫌だが、彼らが素直にそう思ってくれるのならば、もっと日本を好きになって欲しい、と正直に思う訳だ。
 それともう一つあるのが、このレポートをしてくれている外国人が、実に巧みに日本語を使って紹介してくれるのも、いいのである。彼・彼女らは、純粋にタレントで食べているというようなプロという人ばかりじゃないようで、他にも何か仕事をしているのではないかと推察するのだが、おそらく日本で生まれ育ったわけでもなく、日本語を勉強して、それなりに高いレベルの日本語を駆使して、食材のおいしさを表現してくれる。必ずしも語彙が豊富でないにもかかわらず、その表現が実に豊かなのだ。日本人のタレントだと、大げさに「おいしい(とかなんとか)」と言って顔を作っているだけのようにしか見えないが、外国人の人たちは、そのおいしさがどのようなものか、例えば甘みの感覚の伝わり方であるとかいうことを、必死で表現しようとする。必ずしもソムリエのような訓練を積んだ人ではないように思うが、自分が食べている感動のようなものを、なんとか画面で表現しようとする。食材の生産者などはそれを見て嬉しくなって、顔の表情が豊かになっている感じまで伝わる。食べてもらって、心から嬉しくなるようなのだ。そのようなものを見て、こちらも嬉しくなるような感覚がある。それでまた次にも、見てみたくなるのではなかろうか。
 それにしても、この番組がいいのは、紹介の仕方がいいというのが最初にあるとは思うが、日本のご当地の食べ物紹介の番組というのは、他にもたくさんあることだろう中にあって、実にストレートに掘り下げてくれることにもあると思う。生産者から、その食材を生かした料理人まで。また時には、伝統料理を紹介するお宅にも、お邪魔する。他の番組の多くは、その意外性やひねりのようなものを強調したがるきらいがあるのだが、そもそも外国人に紹介する趣旨だから、そういう大きなひねりの必要が無い。そういう純粋性がかえって、それを知っているはずの日本人の僕に、むしろそのものがもっている意外性のようなものを教えてくれるのだ。
 ただこういう番組の困るところは、とても手の届かない高級なものに至ったり、とても行けそうにない場所へのいざないになったりすることである。だからテレビでいいのかもしれないが、欲求を鎮めるのに苦労するのである。でもまた見てしまう訳で、罪深いのであった。

※1 たぶんそういう経緯だったのではないかと、勝手な推測だが。それというのも、以前はこれの英語アナウンス版があったような記憶があるからだ。Trails to oishii Tokyo. というのが原題のようだし。さらにそういう別の英語番組は存在するようで、主に日本文化などを紹介しているようだ。
※2 これもかなり長寿番組になっていてネタ切れ気味になって強引なトピックも増えたが、外国人が日本のことを褒めることも多いので、ときどきどうなのか? という気分にはなる。アナウンスも日本称賛風が多い。そういう鼻につくところはあるが、ときどき驚きの視点があるのも確かである。
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グルメの人は近寄らないでください

2023-01-16 | 

 僕はいわゆるグルメな人ではないし、食べ物に関してはおおらかな人間だと思うが、だからと言っておいしいものを食べたくないわけではないし、不味いものに平気なわけではない。そんなことは考えなくても当たり前のことだと思うのだが、どうしてもおいしいものを食べたい欲の強い人には、なかなかそういうことは伝わりにくい感触がある。確かに食べ歩きなんかだと当たりはずれはあるものかもしれないが、まあそうだったね、というだけの話であり、その場で何か話をすることの方が重要である場合が多くて、なかなか食がメインでないのかな、ということなのかもしれない。もっとも何かのセレモニーを兼ねていて、特別なしつらえがしてあるのであれば、あれは良かったなと思い出しはすると思うけれど、そういうことのみをいつも求めているわけではない。僕は皇帝のような存在ではないし、だからそれが残念なことでもないので、毎日超豪華な食べ物に囲まれて暮らすようなことに、みじんも憧れを抱けない。普段地味でも、ときどき豪華だったりするから、ある種の感動が生まれることも大きい訳で、そりゃあ毎日時間やお金の制約が厳しくて、インスタント食品のようなのばかりでは苦しくなるのかもしれないが、実際の暮らしではありがたいことにそうではない訳なので、食に対する不満はほとんどないのである。
 だからだけれど、どんなものを食べておいしいかと感じるのは、実のところポテトサラダだったり、赤いソーセージだったりするのであって、実に身近にというか、しかし作ってくれることに、心底感謝している。本当に旨いし、ありがたい。
 料理というのは確かに不思議なところがあって、ポテトサラダが好きだからと言って、どこで食べてもこのポテトサラダが最高に旨いと感じるわけではない。出張などで朝食にポテトサラダがあって嬉しい時もあるが、食べてみるとなんだか違うな、というがっかり感がある場合がある。そういうこともすぐに忘れてしまうとはいえ、なんでこうも違うものかな、とはふと思う。具材の処理が気に食わないのか、調味料の加減が違うのかもしれない。ひょっとして少し古くなっている場合だってあるかもしれない。さらに自分の体調が思わしくない場合だってあって、好きだとはいえ、食べるのをあきらめたりする。卵焼きのようなものでも、食べるのがつらい場合があるので、そういうのは、僕自身にも問題があるのだろう。何事も相対的な関係性が重要なので、そのうえではじめて「おいしい」というのは成立する。高い店で著名だからと言って、自分には合わない料理があるとしても、それは自分の舌が崇高だからであるということとはほとんど違って、自分の期待感などの感覚などと相まって、きわめて矮小な自分の感覚が左右させる結果に過ぎないのである。要するに「旨い」という感覚は、研ぎ澄まして鍛えられたものではなく、きわめて偶然の出会いが作用する運のようなものなのではないか。自分の運をどうにかできるのであれば、まあ、頑張ってやってみればいい。できればそういうのに付き合わされるのは、ごめんだけれど。
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ケーキを数えず買いたい

2022-11-23 | 

 そこのケーキ屋のケーキはみな小ぶりで、よく見ると小さな細工がいろいろと施してある。それは薄い板状のチョコレートだったり、飴細工だったり、ナッツや木の実のようなものかもしれない。クリームの盛り付けや、ハーブの葉っぱのようなものもある。午前中から寄ったからかもしれないが、種類は多いが、個数は必ずしも多くない。売り切れて列に空白もできているようだ。大きいままのホールケーキは見当たらず、注文品限定なんだろうか。ショーケース以外にも、焼き菓子が別の棚にあるようだ。
「お店は一人でやってらっしゃるんですか?」と聞くと、
「いえ、時間帯でバイトがもう一人」という。
「いや、作るのは……、とにかく、手が込んでるなと思って」
「ああ、割に合わないんですけどね」と言って店主らしき人は、笑った。
 確かに値段は一個400円台の後半が多いし、なかには600円台のものもある。ふつうのショートケーキよりさらに小ぶりなので、割高で高級感のあるものなのかもしれない。いくつか買えば、すぐにいい金額になるだろう。
 僕はケーキなどを買わない訳ではないが、それは自分が食べるためということでは、ほとんど違う。おみやげであり、贈答品である。時には自分でも食べるが、それは誰かから出された時だし、このようなお店で選んだものを食べようと思って買ったことというのは、ちょっと思いつかない。今回はつれあいが買うので付き合っているわけだが、今回もちょっとしたお祝いがあるので、ケーキも、ということなのだろう。他のプレゼントもたぶんありそうだ。
 そういえば、子供のころには、外が暗くなってから、ケーキを買いに行った記憶がある。父が仕事から帰ってきて、それからケーキを買いに行ったのだ。たぶん誰かの誕生日とか、お祝いの為だったのかどうか。きょうだい連れだって、喫茶店兼ケーキが当時はあって、そこのショーケースに並んでいるショートケーキを、選んで買ってよかった。一人一つか二つか忘れたけど、とにかく好きに選んでいい。選ばなければ、父が並んでいる種類に適当に指さして買ってしまう。数学が得意だったと自慢していたけれど、数を数えている風では無かった。そうやってたくさんのケーキを買うこと自体が、父にとっては楽しかったのだ(たぶん)。
 僕もできることなら、数を数えずにケーキを買ってみたいな。今ならそれが、たまにだったらできるのではないか。しかしながら、ケーキを選んでいるのはつれあいの方である。僕はそれを眺めているだけなのである。
 まあ、それでも楽しんでいるかもしれない。その選ばれているケーキの一つは、今日のお祝いの時に、僕の一つにもなるのかもしれない。いったい何を、僕は食べることになるんだろうか。
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ガチ中華が日本で増えている?

2022-11-01 | 

 近頃は、ガチ中華の店が増えているのだという。事情は中国の主に若者が日本にやってきて、そのまま住み続けるケースが増えているというのが第一である。これは、そのまま聞くと、おそらく年配の人は誤解するものだろうから解説が必要だが、それは中国に帰って第一線の競争社会に戻るのが嫌だという若者が増えたせいであって、日本だと競争がゆるいうえに、やたらあくせくしなくても、そんなに贅沢を望まなければ、そこそこ暮らせる社会だから、トップクラスではないがそれなりの学力の人が、日本に残って仕事をしてくれているケースが増えた、ということになる。どうです? 分かりますかね、今の日本の状況が。
 と言う実際問題はあるにせよ、ガチ中華が流行るのは、やはり中国人は本格中華でないと、しっくりこないということなのである。日本にも中華料理店はたくさんあるはずだが、それは日本という社会にある程度カスタマイズされた中華であって、それなりに本格の中華もあるにはあるにせよ、やはりちょっと違うということでもある。さらに今は日本の中の昔からある町中華というものが注目されてもいて、それは大衆の中の日本だけの中華であって、実は中国のものとはかけ離れた料理である、ということもある。それと対比した形で、あえてガチ中華という新たな呼称を用いていると考えられる。
 そうしてこれは好みや慣れの問題だとは思うが、このガチ中華を日本人がふつうに美味しく食べられるのか、というのは、それなりにむつかしいのではないか、とも思う。何故かというと、やはりこれは日本の中華とは別のものであり、特に初めて食べる人には、はっきり言って衝撃的であろう。それほど日本の中の日本の味というのは、実はかなり個別のもので、局地的なものだということを知るのではないか。中国が変わっているのではなく、日本の食文化というのが、それなりに変わっている所為なのである。
 でもまあ僕は田舎に住んでいるので、日本にいる間にガチ中華の店に出会える機会は、そんなにないのだろうとも思う。中国人が働いて満足できる環境でさえないからだ。それは悲しむべきことかもしれないが、むしろ中国に遊びに行く機会にふつうにできることでもあるわけで、そういうことを待つよりない。それにガチ中華を食べていた時期というのが、実に遥か昔のことになってしまった。あの頃のようにおいしく食べていた自分を取り戻せるのかどうかさえ、もう自信がないのである。
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ミルメークとソフトめん

2022-09-21 | 

 「おいしい給食」という短いドラマのようなものがあって面白いのだが(これはたぶんいつかドラマの欄で紹介すると思う。映画になったりシーズン2があったりする人気作のようだから、すでに皆さんご存じだろうけれど)、給食の風景そのものに、僕の時代からするとかなり違和感のあるものが多いのに驚いている。撮影風景が、おそらく埼玉あたりだろうことはクレジットから読み取れるが、その田舎の風景が、まずは九州とはかなり違う。河原が広いし、自然が多い。その割に生徒が多い。まあそのあたりはどうでもいいか。
 そうそう、問題の給食なのである。設定が中学なので、今は地元の市でも中学の給食があるらしいことくらいは知っているけれど、かなり違和感はある。僕らの時代には無かったことだし、しかし中学生で給食を食べている風景を見ると、なんだか中学生がずいぶん幼い感じになる。先生たちは横柄だが(これは僕らの時代の方が凄かった)、妙に皆聞き分けがいい。見た目が不良っぽい生徒もいるが、この子だって聞き分けがいい。僕らの時代なら先生の車に瑕がついていたりしたはずだが(先生にこんなことを言われて黙っている不良などいない)、そういう心配もなさそうだ。いわゆる中学生風景として、ずいぶん嘘っぽい。ああ、また脱線してしまった……。
 給食に給仕がおわったあと、この学校では食事を前にして校歌を歌う。食べ物を前にして歌を歌うなんて、コロナ禍の前でもちょっと考えにくい。僕らだったらぜったいにふざけていたか、歌なんか無視するに決まっている。その上に衛生面で……。おっと、前に進まなくては。
 で、みんなで「いただきます」なんてことをする。小学生低学年ならするかもしれないが、高学年の小学生でも、もうそんなことはしなかっただろう。先生が音頭を取っても、皆無視したはずだ。さらにテーブルをグループごとに集めたりするのだが、これもするところとしないところに分かれていたように思う。僕らの時代は生徒数が多かったので、机を移動させる余裕がほどんどなかった。机の横のフックに何かひっかけていると、机の間の通路を歩くのも難しかった。だから基本的に食べるときに動かすと、他の机との接触が面倒である。食べているときにはふざけている生徒がたくさんいるので、出来る限り早く食べて退散するに限る。食べ物に何か入れられたり、牛乳を撒かれたりするので、給食なんてものをまじめに食べるなんて時間ではありえなかった。何を食べたかなんてことは考えることもせずに、さっさとボールをもって校庭に逃げてしまうことしか考えていなかった(と思う)。
 ちっとも内容にたどり着かないが、牛乳が瓶なのである。これもちょっと記憶にない。瓶の牛乳なんてものは、当時だってほとんど残っていなかった銭湯などに行かなければ見ることは無かったし、中学生になって新聞配達を始めたころに、配達先で牛乳瓶を玄関先に出している家があることで、配達の牛乳を飲んでいるお宅があるんだと知ったくらいのもので、すでに当時もノスタルジックだった。今もあるだろうことは想像くらいはできるが、僕の日常に存在するものではない。田舎の生活とは、牛乳瓶とは無縁のことを言うのだ(もちろん偏見だと思うが)。
 さらにこの牛乳に、ときどき給食でミルメークという粉末の味付けのものが付くことがあるという。そんなものは見たことが無いし、まったく知らない。関東地方の習慣かもしれないが(ググるとかなり地方でばらつきのあるものらしい)、牛乳でも人によっては抵抗を感じている年頃(僕は成長過渡期で呑めなくなった。消化酵素が無くなるタイプの人間だったのだろう。味は好きだが、あとの生活を考えると怖くて困るのである)なのに、こういう粉末を入れて飲もうとする人間は九州にはほとんどいないだろう(偏見だとは思うが)。
さらにもっと驚いたのは、「ソフトめん」という存在だ。給食の具とは別に袋に入ったまま出されて、それを自分で開けてソースというか具に混ぜて食べるのだという。まさに驚異の食事で、そんなものが出されたら、長崎県の子供なら窓から投げ捨てるなどして掃除が大変なことになるだろう(偏見だと思うが)。ふつうにスパゲティのミートソースでも、麺との混ざり具合で苦労して食に集中できない人間としては、こんなものが中学生のころに出たとしたら、困惑して食事どころでは無かっただろう。ましてやカッターシャツなどを着ている人がこれを食べようなんてことは不可能に近く、親からも学校に苦情の嵐が来たに違いない。長崎県では普通の中学生が食べるなんて不可能な食材なのだ。
 というところまで書いて、あとはたぶん続きます。ドラマ未だ全部見てないので。ドラマの面白いところは、こういう食材と僕との違和感とは別のところにあるので、悪しからずご了承のほどを。
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甘いもの、嫌いじゃないはずだが……

2022-09-10 | 

 沢村貞子さんの料理の番組は欠かさず見ているのだが、必ずしもその料理が食べたいから見ている訳ではなさそうだ。特におやつのたぐいなどは、見ていて楽しいのはあるけれど、まるで食指が動かない。貞子さんは甘いものに目が無かったらしいく、自分で小豆も茹でてあんこをこしらえたりしている。銀座のモナカの名店にも足しげく通ったようだ。
 特に餡子というのに興味が無いのか、とずっと思っていた。しかし赤福はおいしく食べているのである。数年に一度くらいだが。回転焼きは食べないし、たい焼きも自分で買って食べたりはしない。しかし食べられはするのである。美味しいというのも分かりはする。だんだん飽きてきて、お茶と一緒に流し込むこともあるけれど、基本的にはなるほど甘いな、という思いと、不味い訳ではないかもな、という感想は持つ。ごくたまに、赤福のように、旨いかもな、とも思う。
 子供のころには、ふつうに甘いものは好きだったはずなのである。そんなに記憶には無いが、和菓子もケーキも食べてはいた。食べては喜んでもいた。親を喜ばせるために演技をしていたわけではないと思う。
 しかしいつの間にか好んで食べなくなったのだが、それがいつ頃のことなのか、あまり意識が無い。しかし小学生のころには既に、あまり甘いものは好きではないと言っていた可能性がある。男としてのかっこつけだったのかもしれないし、特に食べなくてもいいと、確かに考えていたこともある。食べろと言われると食べはしたかもしれないが、食べ続けることはあまりしなかった。友人たちが集まっておやつを食べるというのはあったかもしれないが、チョコレートよりもかっぱえびせんやせんべいの方を食べていた。チョコレートは食べすぎて具合が悪くなったことがあったようで、大人になってから、また食べられるようになった。そのような過激なことがあって食べなくなったのだろうか。
 母から芋の入った蒸しパンを作ってもらうことがあり、それは好物だった。ほのかに甘いものだが、それは結構食べられた気がする。たくさん食べてしあわせだった。
 そのような、甘いものへのしあわせさというのは、確かにあったかもしれない。ケーキでもそう思ったような気もする。しかしやはり、そんなに食べたりはしない気もする。遠慮があったのか、どうなのか。十代の後半などは、何年も食べなかったかもしれない。二十代後半にも何年も食べなかったかもしれない。長い間食べないと、食べ慣れなくなっていって、足が遠のくような感じになってしまうのだろうか。
 今も好んでは食べないが、本当は嫌いなわけではない気もする。美味しく食べられるかすかな自信のようなものだってある。でも食べたいな、という気持ちは不思議とわかない。それはいったい男としての教育の所為だったのか、本当にそんなに好きではないということなのか、まったく定かではないのである。
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