いじめは人間における関係性だけに発生する。
人間という相手がいなければ「苛め」は成立しない。
動物へのいじめ・虐待は、動物を人間に仮象とした倒錯でしかない。
苛められることを受け入れる相手という「対象」の存在がいること。
それは敵対関係で生れるわけでもない。まして権力闘争でもない。
苛めは、自分の「存在」を「対象」に確認させる、或いは確認してもらう手段である。
「存在」というより「実存」というべきか。
自分の「実存」を承認してもらうことは、人間にとって根源的な欲望である。
その「承認」をどういうカタチで実現するかは、その人の全人生にかかっているともいえる。
言いかえればアイデンティティであり、政治家として承認される人も、官僚として承認される人も、名もない市井の人として承認される場合も、まれに世捨て人として承認される場合もある。自分がそのように承認される道筋を選択し、納得しているからこそ現在のアイデンティティをもつことができる。
親に虐待される子供は、その実存を「承認」されたいと願っている。
虐待される子供がなぜ親から離れないのか。
周囲の部外者から惜しみない親切や好意、はたまた助言を与えられても、子供は親の殴打を好む。
その苦痛をともなう殴打は「承認」なのだ。
だから、死の寸前になって辛うじて救出されるか、最悪の結果は殺人事件として顕現する。
親がどうして自分の子供を虐待するのか。親も子供から承認されたいのだ。
愛してもいない異性との間に生れた自分の子供からの承認が欲しいのだ。
父と母は世俗的な利害関係かセックス処理だけの関係性で同居しているに過ぎない。(対幻想ということばは使うまい)
他者に対する欲望が、結果として「虐め乃至苛め」となることを銘記しよう。
「リビドーが何よりも求めているのは、快感ではなく対象である」という定説もある。
欲望が求めているのは快感ではなく「関係」そのものだ。
精神も肉体も未熟な子供同士の「いじめ」は厄介だ。
彼ら相互のアイデンティティが確立していないので、苛める方と苛められ方の関係が簡単に成立してしまう。また、苛めが相互の対象の承認であることを子供ながらに薄々感じていながら、それが知覚できないから、終息点が見つからない。だから苛めがだらだら継続してしまうようだ。
苛めの動機は他愛ない。日本人の特性としては「見掛け」の判断である。
外見での見てくれが判断の基準となるのは、日本人の大いなる欠点といえる。
この戒めは格言などで多々あるが改まらない。自分の外見に100パーセント自信を持つ人はいるのだろうか。自信なんて、自己満足の過剰な心理であろう。
ともあれ、自分の子供時代を想起する。
太っている子に「デブ」だと言うと、それが苛める側の「事実」であるのに、苛められる側は傷つけられたという認識をもつ。私たちの世代では、すかさず同じように相手の身体的特長なり弱点を言い返すのが普通だった。「のっぽ」「ちび」エトセトラ。
言い返すことができない子は、「大人しい子」として一時的に疎外されたが、そのうちそういうコミュニケーションスキルを覚えて仲間に入ってきた。
また、苛めの現象が解消されない場合、遊び仲間のリーダーシップをとる上級者が、どういう方法かは忘れたが、「喧嘩両成敗」というような超法規的に近い解決法を用いた気がする。
どちらにも「過誤」「非」があるということだったか。
「引きこもる」という現象は、テレビをみることやゲームの発達と相関するように思われる。
それと「好き、嫌い」という感性が極端に重視される時代にもなったこともある。
ポストモダンといわれる現代は、人間が「動物化」するという言説がある。
動物化すると、好き嫌いなどの感覚的、感性的な面だけが研ぎ澄まされる。
脳でいう脳かんの部分つまり本能だけで生きる。つまりホッブズで言うところの自然状態に近くなるので、子供たちは自我をもつようになると、いきなり闘争状態の只中に放り込まれる。
それを敏感に察知し、闘争に類似した掛け合いに明け暮れる共同生活を忌諱する子供は「引きこも」ざるをえない。
彼らはそういう意味では、「対象」という実存をつねに意識する優れた子供だし、極めて感受性の強い子供だといえる。
引きこもりは閉塞された状態ではなく、自己による自己の承認である。
他者の承認を欲望するのに、他者の言葉や視線を受け入れることができない。
親がいる場合は、最悪となる。親は特別な他者であるのに、赤の他人のような存在となる。
引きこもりが長く続くのは、親の独占欲が強いからだ。
そういう親はつねに子供を承認し、励ます。子供の「実存」の承認を他人にさせまいとする。
独占欲が強いから子供のあらゆる社会的欲求を、親だけで満足させようとする。それが引きこもりを長期化させる。
いじめとは何か。いじめはなくなるのか。
もう少し考えてみたい。