声はその人の身体のイメージ、心理の全体を伝達する。 R.バルト『第三の意味』
自分の顔についてあれこれ言われたことはない。ただ、声についていえば、いい声だと誉められたことがある、複数の女性から。落ち着いていて、高からず低からず、発声の艶(つや)のようなものが、わたしの特徴を端的に表しているのだと。もちろん、世辞であったろう。
自慢話をしたいわけではない。冒頭にあるバルトの言葉通り、わたしの声にはある種の「肌理(きめ)」があったのだろうか。
バルトの言葉を借りれば、「それは息ではない。喉という、音声の金属が硬化して、輪郭が形成られる場から現れる身体の物質性である」。その声によって、その空間性は無限のものとなり「声に対する関係は、すべて愛の関係になる」という。そして、彼はシャルル・パンゼラという歌手の声の「肌理」について褒めちぎるのだ。母音の純粋さや、たとえば「a」の音の率直で壊れやすい美しさ。鼻音のかすれた、ざらざらした音は「辛味」のようだとさえいう。
Charles Panzéra sings "Les berceaux"
声はそれほどその人の身体性、感触や匂いまでも伝えることができる。もちろん電話を通して聴く声は、空間を媒介していないから相手の「肌理」のようなものを感じない。ただ、メッセージのシニフィアン(意味)だけがストレートに耳のなかで振動する。「母さん、俺だよ」と。
だから高齢者宅では、つねに留守番電話にしておくのが一番だという。まず、詐欺をはたらくものは、録音されていると思うだけで気後れし、たぶん切るだろう。それでも話し続けるものがいても、そのままスピーカー越しに相手の声が聞こえるので、冷静に身内の声であるか判断できるそうである。また、脱線してしまった。
要するに、声は身体の一部であり、声帯が奏でる音なのだ。
わたしの声はもう、息も絶えだえに弱くか細いものになってしまった。人とのコミュニケーションが極端に減ってきたからだ。声を張って話す状況が失われたので、声帯が機能しなくなったのかもしれない。単なる老化で、しかるべきヴォイス・トレーニングをすれば、往年の肌理のある、艶のある声が取りもどすことができるだろうか。音痴でもいい、朗々と歌えることができたら、と願う今日この頃である。
そうだ、人間の声は、楽器そのものだという歌手を紹介したかったのだ。
ちょっと古いけど、ボビー・マクファーラン。彼の声は、その音域は驚異的で、いかなるアドリブでも自由に、まさしく無限に音を奏でる。