1968年、受験に挫折し、浪人生活を始めた年である。夜中の3時に起き、自転車で15分かけて日経新聞の販売所まで行く。自分で折込チラシを入れ、それから250軒ほどのお宅に配達したのである(半年ばかりの短期間だったけど・・)。親に申しわけないという思いから、自らが申し出たのだが、いま思うとよく出来たなと驚く。
この年は、世界中が騒擾としていて、パリはじめ外国の諸都市で大学生たちが社会に反旗をひるがえしていた。日本でも全国の大学で紛争があり、東大はじめ入学試験を中止した。その余波というか、受験の難関度も上がり不合格になった、ということにしておこう。
毎日が暗い気分で勉強のみに勤しんでいたわけではない。唯一の楽しみは、山下洋輔トリオのフリージャズを聴くために都内のジャズ喫茶に出かけることだった。バイトをやることで、小遣いにも余裕ができレコードも買うことができた。(追記:当時はサイタマに在住し、新宿など繁華街にいくことが、あたかも小さな冒険のように心躍る事柄であった)。
浪人生は好きなだけレコードを買うことはできない。FMラジオのジャズ番組を聴いて、これはと思うレコードを厳選するのである。そのほとんどがジョン・コルトレーンだった。他にはエリック・ドルフィー、ドン・チェリー、ケニー・ダーハム、ホレス・シルヴァーなど黒人のジャズなどがメイン。
(追記:ふりかえれば、同時にビートルズとか武満徹、ロックやフォーク、さらにシャンソンなぞも聴いていたのに、買うレコードはジャズだけだった、自分の狭量というか、太っ腹のなさというのが思い知らされる。いや、後悔するのではなく、若さは貧乏を旨とすることにしておこう)
ある日、油井正一の番組を聴いていて、新人の凄いピアニストが現れたという触れ込みでチック・コリアが紹介された。トリオのバンドでベースがミロスラフ・ヴィトウス、確かチェコスロバキアの出身だったかと思う。黒人ではないベーシストだが、野太いビート感に加えてメロディアスな弾き方は一発で気に入った。
ドラムはロイ・ヘインズで、この人は黒人だ。コルトレーンの『セルフレスネス』というレコードのなかに名曲「マイ・フェイバリット・シングス」がある。そこではロイ・ヘインズがエルビン・ジョンーズに代わって客演した。ロイ・ヘインズの粘着ある演奏がなぜか耳にこびりついた。
特長のあるバタバタしたドラミングなので毛嫌いした人が多かったが、コルトレーンの凄まじいソプラノサックスが炸裂する名演奏が繰り広げられる。自分としては当時1,2位を競うほどの、忘れられない愛聴盤となった。(追記:新聞を配達していた時、これらのジャズを頭のなかでまるごと再現し、つらい何かを紛らすのが快感だった。とうぜん、中上健次を読むようになる。懐かしい昭和の黄昏どきだ)。
脱線した。新人のチック・コリアの『ナウ・ヒー・ソングス、ナウ・ヒー・ソブス』が流れてきたとき、白人でも黒人でもない新たなジャズを体感。そのときには衝撃に近い何かを感じた。それまでのジャズにはない、リリシズムのようなものを感じた。
何という瑞々しいピアノ演奏だろう。当時、白人ピアニストとしてはビル・エバンスが有名で、その繊細で流麗なピアノタッチは1968年当時は、どうも軟弱に聞こえたものだ。チック・コリアのそれは、白人っぽい洗練さもあれば黒人風のビートとスピード感もある。弾き方は実に端正だがグルーブ感が深い。縦横で自由なアドリブにも好印象をもった。
このアルバムを発表してまもなく、チック・コリアはマイルス・デイヴィスに引き抜かれた。黒人のハービー・ハンコックに替わっての正ピアニストに起用され、チックはその後エレキトリック・ピアノを弾くようになる。
独立してから、「リターン・トゥ・フォエバー」というフュージョン的バンドを結成し、一世を風靡するようになるのは70年代以降だ。あらたなチック・コリアとなってからは、残念ながら小生はなぜか心離れてしまった・・。
嗚呼、チック・コリアは79歳でこの世を去っていった。
1968年という激動の年、彼は27歳だったのだなあ! 今はもう聴かなくなった『ナウ・ヒー・ソングス、ナウ・ヒー・ソブス』に耳を傾け、彼を偲ぶことにしよう。
「Now He Sings,Now He Sobs」は、「彼は唄う、そして、すすり泣く」というぐらいの意味だ。新聞配達もした、18歳の純真な自分がいたことを想い出させてくれた。ありがとう、チック!
▲鈴木晶さんのFBから転用させていただく。『リターン・トゥ・フォーエバー』は聖書みたいだ、とあった。チックのいつ頃の写真であろうか・・。
Chick Corea - Now He Sings,Now He Sobs
追記:この日はバレンタインデーだった。義理ではあろうがチョコいただきました。こんな糞爺でも見捨てられていないという思いを強くもちました。ありがとう。この場を借りて、感謝の意をあらわしたいと存じます。
(追記は他に、文中にも数か所加えました。さらに、表記ミス、誤字など多々あり、訂正しました。2.15)
追記2:YouTubeでは、たぶんAIだろうが視聴者の嗜好に合うお薦め動画をピックアップしてくれる。それが以下の動画「チックコリアがコルトレーンから学んだフレーズ」で、そのなかにロイ・ヘインズの孫もいるようだ(2021・3・31記)。
そこで歌っていたのがしばたはつみでした。
汗まみれのぼくたちのところに来て、「お仕事、ご苦労さまです」と声をかけてくれたことを思い出します。
それからすこし経ってから、彼女の訃報を知りました。
JAZZね、今夜は聴きながら眠ることにしましょう。
「ママ」は世代が上の、ちょっと敷居の高いジャズ喫茶という噂があり、行ったことはありませんでした。
「DIG」は、ピットインの近くでライブの後に利用。「DUG」もよかったです。「スイング」は、2,3回ほどですが、そのときはシンガーがいたか記憶にありません。
ほんとに、ジャズを聴く機会は少なくなりましたね。往年のプレイヤーが天に召された時は、青春時代のあの熱狂、それを賜った恩に感謝したいものです。
惜しくも亡くなられたピアニストの佐山雅弘さんもジャズバーで耳にしたキースジャレットのスペインにインスパイアされて似た曲を作った(でも違うメロディだからオリジナルになった)と番組で話されていたことがあります。
私はTones for Johan's bonesが好きで、他のプレイヤーも良い演奏を沢山している事からも名曲だと思っています。ヨハンの死を悼む鐘の音という意味なのか良く分からないのですが、明るい曲ですね。
キースジャレットも脳卒中で再起が危ぶまれているという情報もあり、ジャズの名匠たちが先立たれてしまうのは惜しい事です。
チック・コリアの急逝により、彼を悼む記事を書いたことで、望外のコメントをいただきました。チック・コリアの偉大さや、影響力の素晴らしさをあらためて感じ入った次第です。
佐山雅弘さんというピアニストは存じ上げていました。残念ながら、生の演奏を愚生は聴いておりません。デビューは遅かったようですね。
なので、確認しようと検索したら去年ですか、お亡くなりになったそうで・・。愚生より3歳下なのに、YouTubeで拝見したら、どこかで聴いたこともあり、グルーブ感のある演奏に好印象をもったこともある、そんな記憶が甦ってきました。
愚生は、80年代以降はジャズシーンから疎遠になりましたが、佐山雅弘さんのドキュメンタリー番組を観たことはあり、いま再びYouTubeで確認したところです。
チック、キース、さらに愚生の好きだったマッコイ、そう、さらにビルの繊細さも持っている。
山下洋輔とおなじ国立音大作曲学科出身のジャズピアニスト。残念至極です、彼がもはやこの世にいないのは! 彼は20年代前半に、どんなことをやっていたのか、なんか気になります。
さて、チックの「Tones for Johan's bones」はあまり印象になかったのですが、YouTubeで聴いたものでは
ベースがSteve Swallow 、ドラムが Joe Chambers でした。「 Now He Sings Now He Sobs」とおなじように、ベースが白人(つまりクラシックの素養をもつ)そしてドラムが黒人(ビートとブルース)というトリオ編成の演奏。
「Tones for Joan's Bones」というタイトルも意味深ですね。
小説の題名でもおかしくないほど宗教的かつ知性的だし、こんなタイトル、それまでのジャズマンの発想では思い浮かばないとおもいます。
こう考えると、チックコリアはアメリカが、経済や国際政治の斜陽に向かう頃に、ある種の洗練さというか国体的マッチョを脱するための、遅れてきた移民(=チックのような白人)のための方策のような、つまりエポックメイキングなジャズを志向していたのではと、愚生は考える次第ですが、どうでしょう。
いやー、思いがけなく色々とイマジネーションをかき立てられました。本当にありがとうございます。
A child is bornとかAna Mariaとか宗教的な雰囲気があるけどすごく良い曲ってありますよね。チックコリアの演奏はとてもエレガント(マッコイタイナーもエレガントだと思いますが)な印象があって、On green dolphin streetとか好きでした。