小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

「今日」を忘れないために

2018年08月15日 | 日記

 きょうは先人、体験者の話に耳を傾ける日だ。

元海軍士官、建築家の池田武邦氏(94)のインタビューが2面にわたって掲載されていた。日本設計を創業し、霞が関ビル、新宿三井ビルなど超高層ビルやハウステンボスの設計に携わった、戦後を代表する建築家のひとりである。


太平洋戦争では、マリアナ沖、レイテ沖、沖縄海上特攻の三つの海戦を生き抜いてきた。沖縄では巡洋艦「やはぎ」に乗船したが、戦艦「大和」ともども撃沈。重油まみれの海上に投げ出され、5時間浮遊後、駆逐艦「冬月」に救助された。爆撃で鼓膜は破れ、顔に大火傷を負うものの、奇跡的な回復を遂げた。

それから5か月後、8月6日には広島・大竹の潜水学校で教官の任務についていた。爆心地から30キロ離れていて被爆は免れた。「遺体が瀬戸内海にいっぱい浮かんだ光景は忘れられない。戦場よりひどい、地獄でした」と。

戦前を回想して、戦争回避への途を模索する軍人を、大衆も新聞も『弱腰』となじったという。その世論が戦争への途を後押ししたことは確かだ。メディアの力は大きい。正確な「情報」を幅広く知る大切さを痛感し、戦後につくった会社「日本設計」では、「情報」が最重要事項になったことはいうまでもない。

三つの海戦に赴き、生還を果たした軍人は池田武邦氏ただ一人だという。戦争の犠牲になった人々に心から向き合い、深く弔うことを、ないがしろにしてきたこの国を慨嘆する。「地球規模の戦争はもうできない。自衛隊も何も必要ないくらいの社会を、本気で築いていかないといけない時代だ」と、インタビュー記事は結ばれていた。

そのほか、印象にのこった証言。

海軍士官となり、死ぬことは前提であったから、「切腹」ができるか悩んだという。兵学校2年のとき、小刀を腹の前で横に動かした。「ああ、できるな」と、死ぬ覚悟は決まったらしい。

広島の潜水学校で特攻希望を尋ねる紙に「否」と答えた生徒が3人いた。あの時代に「ノー」と書くのは相当な覚悟で、「彼らは顔が歪むほど教官に殴られたけど、見上げたもんだと僕はおもった」と、記事には書かれてあった。池田氏は教官であったわけで、その鉄拳制裁についてもっと精細な、当事者にしか聞けない話を引きだして欲しかった。


 
戦争中でも反戦詩をかいていた詩人は唯一人。この日になると、なぜか金子光晴を思い出す。長男の徴兵を忌避して、家族三人で山中湖畔に隠れ住んでいた。「非国民」となじられても構わない。見つかって逮捕されたらそれまでのことだ。
「蛾」という生きものになぞらえて、必死の相剋を詩にしたような一篇から、そのほんの一部分。
 

蛾よ。なにごとのいのちぞ。うまれでるよりはやく疲れはて、
かしらには、鬼符、からだには粉黛(ふんたい)時のおもたさを背にのせてあへぎ、
しばらくいつては憩ふ、かひないつばさうち。

 「蛾」より「蛾3」から(昭和20年7月)

もうひとつ、脳裏にこびりつくような言葉を紡いだ詩から。

 

このくには倖せになるどころか
じぶんの不幸をさえ見失った。

顔色ばかりみる癖がついても
このくにの人をせめてはならない。

一人の正しい判断があっても、
このくにのものはおしながされて
新しい歯車にまきこまれては、世界の砂利場にすてられるのだ。

金子光晴 「歯朶」(昭和40年)より

 

▲在りし日の光晴


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