きょうは先人、体験者の話に耳を傾ける日だ。
元海軍士官、建築家の池田武邦氏(94)のインタビューが2面にわたって掲載されていた。日本設計を創業し、霞が関ビル、新宿三井ビルなど超高層ビルやハウステンボスの設計に携わった、戦後を代表する建築家のひとりである。
太平洋戦争では、マリアナ沖、レイテ沖、沖縄海上特攻の三つの海戦を生き抜いてきた。沖縄では巡洋艦「やはぎ」に乗船したが、戦艦「大和」ともども撃沈。重油まみれの海上に投げ出され、5時間浮遊後、駆逐艦「冬月」に救助された。爆撃で鼓膜は破れ、顔に大火傷を負うものの、奇跡的な回復を遂げた。
それから5か月後、8月6日には広島・大竹の潜水学校で教官の任務についていた。爆心地から30キロ離れていて被爆は免れた。「遺体が瀬戸内海にいっぱい浮かんだ光景は忘れられない。戦場よりひどい、地獄でした」と。
戦前を回想して、戦争回避への途を模索する軍人を、大衆も新聞も『弱腰』となじったという。その世論が戦争への途を後押ししたことは確かだ。メディアの力は大きい。正確な「情報」を幅広く知る大切さを痛感し、戦後につくった会社「日本設計」では、「情報」が最重要事項になったことはいうまでもない。
三つの海戦に赴き、生還を果たした軍人は池田武邦氏ただ一人だという。戦争の犠牲になった人々に心から向き合い、深く弔うことを、ないがしろにしてきたこの国を慨嘆する。「地球規模の戦争はもうできない。自衛隊も何も必要ないくらいの社会を、本気で築いていかないといけない時代だ」と、インタビュー記事は結ばれていた。
そのほか、印象にのこった証言。
海軍士官となり、死ぬことは前提であったから、「切腹」ができるか悩んだという。兵学校2年のとき、小刀を腹の前で横に動かした。「ああ、できるな」と、死ぬ覚悟は決まったらしい。
広島の潜水学校で特攻希望を尋ねる紙に「否」と答えた生徒が3人いた。あの時代に「ノー」と書くのは相当な覚悟で、「彼らは顔が歪むほど教官に殴られたけど、見上げたもんだと僕はおもった」と、記事には書かれてあった。池田氏は教官であったわけで、その鉄拳制裁についてもっと精細な、当事者にしか聞けない話を引きだして欲しかった。
蛾よ。なにごとのいのちぞ。うまれでるよりはやく疲れはて、
かしらには、鬼符、からだには粉黛(ふんたい)時のおもたさを背にのせてあへぎ、
しばらくいつては憩ふ、かひないつばさうち。
「蛾」より「蛾3」から(昭和20年7月)
もうひとつ、脳裏にこびりつくような言葉を紡いだ詩から。
このくには倖せになるどころか
じぶんの不幸をさえ見失った。
顔色ばかりみる癖がついても
このくにの人をせめてはならない。
一人の正しい判断があっても、
このくにのものはおしながされて
新しい歯車にまきこまれては、世界の砂利場にすてられるのだ。
金子光晴 「歯朶」(昭和40年)より
▲在りし日の光晴