小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

『この世界の片隅に』のエロス的問題・その後

2018年08月13日 | エッセイ・コラム

 

『この世界の片隅に』がTBSでドラマ化され、反響を呼んでいるらしい。妻も熱心に観ているようだが、TBSのことだから、人間模様を重点的に描き直すだろうと私は予測し、観たいのはヤマヤマだが観るのは止した。だが、心の底では渇望していたのか、先週そのダイジェスト(パイロット?)版が放映され、観たい誘惑に負けてしまった。

こうの史代の原作の漫画では、主人公すずは「ぼーっ」とした性格でおっとりした女性。だから、彼女の心理描写においては曖昧さと鈍感、「どこか上の空」な面も描かれる。他の作品でもそうだが、断定するような描き方を避け「含みのある」人物表現が秀逸だ。こうの史代の漫画の特長のひとつは、解釈に幅をもたせて読者に提示することにある。


原作の初っ端、第一話には、10歳頃のすずが自家製の海苔を問屋に届ける場面がある。その途中で、いつのまにか動物を擬人化したような「ひとさらい」の駕籠の中にいることに気づく。どうしたものか、そこには若いころ頃の夫、北条周作がいるのである。(このとき、周作はすずを見初め、「ももひきの裾」に書いてあった「浦野すず」の名前まで読み取ってしまう)

宮崎駿を彷彿とさせるファンタジーのようだった。この場面をとってみても作者こうの史代は、『この世界の片隅に』を単なるリアルな戦争漫画ではなく、漫画らしい幻想もきっちり描きます、という示唆(宣言)をしているのだ。

原作の「含みのある」描写では、周作の姉・黒村径子には晴海だけでなく「久夫」という子どもがいることが示される。すずは周作から事実の一端を知らされるが、「いつか知ることになる」として「久夫」の存在を、背丈を計った「柱のキズ」で示しただけだった。晴海もそういえば、兄のことを具体的に語ることはなかった、不思議だが・・。

TVドラマではなんと、「久夫」が登場して「自分は長男だから黒村家を継ぐ身なのでお別れをするために来た」と子どもらしからぬ挨拶をする場面があった。拡大解釈とは言えないが、こうの史代の原作にずいぶんと浸食してドラマ化しているなと思った。

しかし、ここは家族離散のはなしと時世の影響とやらが絡みあい「複雑に哀しい」、涙誘われるシーンとして描かれていた。さすがTBS?

わたしはこれまでに『この世界の片隅に』に関するブログを4本も書いている。これで5本目だが、この「含みのある」原作のおかげで、何回も愉しんできたといえよう。

「この世界の片隅に」を見て」 真夏の夜の河原の水が 「呉に行ったこと」 「『この世界の片隅に』のエロス的問題

 ドラマのダイジェストでは、夫周作と遊郭の白木リンとの関係が明確に描かれていたので驚いた。

原作では、すずが白木リンと出会い、互いに自己紹介するところで、リンが周作と馴染みのあるような「含みのある」描き方をしている。原作でも、男が簡単に浮気できる「遊郭」があり、そこに「居場所」を見つけるしかない「女リン」をしっかり描いている。

白木リンは、「ほうじょう」という苗字を見て、「すずさん!」と名前を当てる。ここにおいて読者は、夫周作と白木リンとの関係を疑うことができる。でも、それは結婚前なのか、結婚後の「浮気」なのか、周作ではなくて周作の父が相手なのか、茫漠とした読み方しかできない。

その後にすず自身が疑心暗鬼ながら確認できるエピソードがあったと思うが、いずれも「含みのある」表現であり、その確たる証拠としてきっちりと原作には描かれていない。それゆえに、ドラマ化した場合には、TBSはそれらの点を「膨らませて」ドラマ化するであろう、たぶん。

作者こうの史代の許諾はもちろん、アニメ映画の監督・片渕 須直の著作権についても、TBSはクリアしているはずだ。今回、ダイジェスト版を観て、男と女のエロス的関係や男尊女卑の激しい戦前の慣習に、より重きをおく人間ドラマづくりをしているなと感じた。

原作にはそれだけ「含みのある」大きな漫画だから構わないと思う。

ただ、私は女性を視点にした「戦争」を題材に、たくましく生き抜き、非常事態にあっても「生活の智恵」を駆使する日本女性を描いた傑作だと思っている。以上の思いがあるため、ドラマをみるつもりはない、今のところ・・。


▲双葉社の編集部に問合せて、ブログ掲載の諒承をえた最後の見開きカラー頁。また再び! 「ひとさらい」は最後の方にも出てきたのだ、見逃していた。

 

追記:8月15日がやってくる。なんでも日本の敗戦を象徴的に見えてくるのは齢のせいか。昨夜、女子ソフトボール世界大会決勝戦をみた。前々回のオリンピックだったのか、宿敵アメリカに勝ち金メダルを獲得。女子ソフトボールがこんなにも面白いものかと熱中した。昨夜は、その再現であり、日米決戦はその後も続いていたらしい。日本の上野投手はその時代からのエースで、35,6歳になるもチームを引っ張ってきたという。リードしては追いつかれ、逆転される劇的展開。延長線になって、アナウンサーは上野選手の投球数のみを連呼するようになった。力投を超えるほどの球数だという。片やアメリカ側は、ルールに則りピッチャーを状況に応じてどんどん変えてくる。投手が豊富にそろっていて、戦前のアメリカ軍の戦略、物量作戦をみるような思いになった。上野投手は孤軍奮闘というか、もはや時代遅れの戦艦「大和」にさえ思えてくる始末。試合結果は知れているから書かない。
それにしても、日本のスポーツ界はなんで、旧日本軍の「失敗の本質」を継承するかのような旧態依然の組織、メンタリティをもちつづけているだろうか・・。スポーツ界だけではないかな・・。


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