小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

日本人の、社会的超自我  

2016年05月10日 | 国際・政治

 

 老いてからの自問自答ー② 柄谷行人の「憲法の無意識」を読みながら

 ①国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として現在及び将来の国民に与へられる。  

 ②この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 5月4日の東京新聞に「永久に守られる人権」というタイトルのもと、日本国憲法の第11条についての記事があった。①はその11条の全文であり、基本的人権の尊重が主題である。いわゆる国民主権、平和主義に並ぶ憲法の三原則の一つ。

②は参考までに97条の全文を記載したが、内容は11条と同じであり念押しみたいなもの。それだけ基本的人権というものが繰りかえされ、「永久に」と強調されるほど重要な条文とされている。但し、「自由獲得の努力の成果」に関して日本人が主体的に取り組んできた歴史があるといえるか・・。それよりもこの憲法の草案を作ったとされる、30歳にも満たないアメリカの作成委員たちの理想や理念が、憲法の文脈に色濃く出ているとおもう。

私はあらためて11条を読んで「享有」という言葉に括目した。「享有」の意味は「生まれながらに持っている」ということ。「享」の字を常用字解で繙くと祖先を「まつる」、またはその祭祀を「うける」ことを表す。「享年」は「天から受けた寿命」であり、死んだときの年齢を云うように、「享」の字義は、「天」はともかくとして、「生まれながらに授かる」という意味に集約される。

基本的人権とは「人種・性別・身分などによって差別されないこと、思想・信教の自由、集会・結社・表現の自由など」で、人間が生きていく上での根幹となるもの。いわゆる「人権」そのものは実定、制定法ではなく「自然権」であり、人間として自由に生きてゆける根本の権利。憲法を作成する以前の、大前提、核心みたいなものだ。調べてはいないが、「享有」という深遠な漢語は、大日本帝国憲法から継承されているのだろうか。自然権としての人権を適確に位置づけるものとして、この「享有」という難解な言葉を選んだ背景も一考したい。


ご存じのとおり、日本国憲法は第1章が「天皇」、第2章「戦争の放棄」(9条のみ)、第3章「国民の権利と義務」、第4章「国会」、内閣、司法等に続いてゆき、全体で11章の構成となっている。

第3章の「国民の権利と義務」は、10条から40条まであり、第10条の「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」に続き、第11条が法のもとに人権を永久に保障するいわばプラットフォームみたいな条文といえる。

なによりも「天皇」を(※)いちばん最初に、次に「不戦=平和」を憲法で規定した。これはもちろんアメリカ側の思惑、敗戦後の統治のための天皇制護持と加害国日本への懲罰という意味合いを端的に物語っている。ここが凄いところなのだ。そう、基本的な人権、法の下にはだれもが平等な権利をもっているという峻厳なる事実より、「戦争を放棄させられた」国民であることを、「第9条」で強く肝に銘じられているともいえる。但し、それを「抱きしめて」70年間も守りつづけ、「永遠平和」を実践し、さらに自衛隊という名の軍隊の存在という大矛盾もまた抱きしめながら、戦後の平和を「享受」してきた。ここで胆力のない日本人は「改憲」を訴え、無自覚なものはアメリカの「核の傘」を無視する。いずれも人権を保障したアメリカ様(宮武外骨)への従属に疑問の余地はない。

▲トクサが好きだ。見かけると必ずワンショット。その群生のなかに小さな青い花をみつけた。好きなトクサに負けずに愛おしい。

 

戦争を放棄することによって不安を感じる人は多い。万が一のことを想定するからだ。ここに憲法の改正を訴える根拠をもとめ、自衛隊が存在する法的根拠の瑕疵が指摘されたり、状況適合の自己都合解釈が生まれたりもする。

ここで唐突だが、カントの「永遠平和のため」を想起する。この著作はヨーロッパではどこかしら戦争があった時代、フランス革命、ナポレオンが民兵(志願兵)を組織した軍隊でヨーロッパを席巻した時代にあって、カントが71歳のとき1795年に書いたもの。

この時代には、「平和」そのものは独立した概念ではなく、戦争と戦争の間のニッチ(隙間・休み)、いわば平和の暫定期間のようなもので、人々が安心して辛うじて暮らしてゆける戦間期のことだった。

カントは、この束の間の戦間期を恒久的な平和状態へと近づけたいがために、「世界市民法」と「自由な国家の連合」を構想した。発表当時はほとんど注目されることはなかったが、その思想は第1次世界大戦後の国際連盟、今日の国際連合に受け継がれている。

惜しむらくは、カントの永遠平和構想はいまだに実現していない。それよりも、現代になってから科学的進歩により「核」が発明され、「核抑止力」という戦争を抑止する目的の、大国だけが専占する歪な平和戦略が生まれてしまった。それがために、「永遠平和」のリアリティは薄まった。

最近、連休前に出版された柄谷公人の「憲法の無意識」を読んだ。

柄谷は、カントの平和思想と倫理、マルクスの資本世界認識を連環させる哲学を多文化的に研究している。少なくとも私はそう理解している。

岩波からでたこの新著は、4つの講演(テーマ)を元に編集したもので、私にはたいへん示唆に富むものだった。「日本精神分析」という著書もそうだったが、日本人の共同体意識をフロイトの精神分析を援用して思索したもの。今回は「戦争(=平和)」に対する日本人の社会意識を論じ、第9条の意義と改憲論の浅薄さを糾したものといえる。詳しくはここではふれない。ここまで書いてきたことが、「憲法の無意識」を読んで自分なりの感想の端緒だと思っていただきたい。(独り言:佐伯啓思は、反応するか。これまで柄谷にふれたことはあったか・・。NAMのときはどうだったか)

この本の「あとがき」に、本著を要約するような箇所があるので引用する。

一方、憲法9条に関してえば、戦後の日本人は占領軍の押しつけに抵抗したわけではありません。にもかかわらず、占領軍を要請したとき、それを拒んだ。9条はいつのまにか「自発的」なものになっていたのです。第1章で、私はそれを、フロイトの超自我という「概念から説明しました。超自我は、社会的規範が内面化されたようなものとは違って、「死の欲動」いいかえれば「内部」から来るものです。それは外的な強制とは別です。・・・自らの内からくる強迫的な衝動に根ざすものです。したがって、日本で憲法9条が存続してきたのは、人々が意識的にそれを維持してきたからではなく、意識的な操作ではどうにもならない、「無意識」(超自我)があったからです。

 憲法9条は非現実的であるといわれます。だから、リアリスティックに対処する必要があるということがいつも強調される。しかしもっともリアリスティックなやり方は、憲法9条を掲げ、かつ、それを実行しようとすることです。9条を実行することは、おそらく日本人ができる唯一の普遍的かつ「強力」な行為です。

 

 私なりの結論めいたものを言いたいのだが、憲法9条を盾にして日本は堂々(あるいは粛々とでもいい)と世界に平和戦略を打ちだせることについて、その評価は若干危いところもありとしたい。なぜなら、日本がイニシャティブをとれる国際政治環境や立場が確立されていない、というのが一点。次に、9条の無意識、超自我の解釈部分で、日本が侵略・加害者としての面しか共同体意識に組み込まれていない。もちろん正統な見解であるが、共同体の無意識ならば何か漏れてはいないか・・。

日本人はいまだに広島・長崎の原爆投下、関東では東京大空襲及び地方都市の無差別爆撃等、被害者としての無意識も抱えているとおもう。つまり、被害意識と加害意識者としてのダブルバインド状態にある。いわゆる民間人を大量虐殺したアメリカの国際法違反、これをも分析の対象に含めないと、世界に向けてのメッセージ性としては十分ではない、と私は思う。それを主張するにしても、隣国の中国、韓国、北朝鮮、フィリッピンへの真の説得にはならないだろう。

ともあれ、私みたいなものがこういった問題に口をはさむことは「知」の越権行為に近い。だが、耄碌する前にいうべきこと、よく生きるためプレ・ダイイングメッセージとして受け止めて頂きたい。

▲私は柄谷行人のいい読者ではない。「日本精神分析」「隠喩としての建築」がない。散逸したか、ひとにあげたか。柄谷行人は、中上健次の兄貴分という印象が強い。二十歳頃から中上健次を読んでいて、「岬」で芥川賞を取ってから、柄谷行人の存在を知った。当時、「近文起源」を読んだが、最期まで読み通せなかった。


大日本帝国憲法にしても第1章は「天皇」で始まるが、これはドイツ・プロイセンの憲法に准じたもので、君主という絶対権威のもとでの法治国家を理想とし、ガバナンスを盤石のものにしたかったからだ。

備考:レオ・シュトラウスは、20世紀のファシズムによってもたらされた悲惨な結果、その一要因に自然権の否定があったとした。ヘーゲルが「法の哲学」でカントの「国際連盟」を批判した理由。国際法が機能するには、規約に違反した国を処罰する実力を持った国家がなければならない。ゆえに力がなければ、平和はありえない。こうしたリアリズムを踏まえたうえで、世界平和を考察しなければならない。私はアメリカへの従属を潔しよしとしない。それゆえ、現段階では重武装中立の自立国を理想とする。但し、第9条は護持して大矛盾を抱きしめながら、非武装非戦の平和国家をめざす。他国からの侵略があった場合、ガンジーの非暴力抵抗主義と武士道精神を併せ持って、侵略者に対してゲリラ的に命を賭して抗う。

 

 

 

 

 

 

 


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