Pの、Pによる、PのためのPとは、言わずと知れたプーチンである。来たる5月9日の「戦勝記念日」には、ウクライナ東部制圧の「軍事的オペレーション」の成功、勝利をぶち上げる予定だったという。
(ウクライナへの侵攻は、ひとえにプーチンの一存である。アメリカの軍産複合体の陰謀があろうがなかろうが、他のいかなる要因はない。プーチン自身の内的要請から個人決定した、ウクライナへの侵略である。日本においては、このような個人による軍事行動は発動しない。事なかれ的な合議、例の「空気」による了解のもとに発動される。そのとき、誰かが責任を取るという決定者はいない。)
ウクライナへの侵攻、その成就はプーチンの思惑に反して、半ばとん挫したと言っていいだろう。それゆえ、5月9日は、勝利に向けてさらなる作戦の継続を図るため、国民に対して総力の結集を働きかけるものと観測されている。勝つまでは決して諦めない、どんな困難の情況にあっても、長期戦になればロシアの本領が発揮される。そんなロシア魂を訴えるのか。かつての日本人のメンタリティと大差ないのか・・。
ロシア学の故木村汎によれば、国民の生命よりも、国家の権威・機密を優先させる、それが「プーチン主義」だという。そして、常に強いリーダーシップを求め、困難の中にあっても不屈の忍耐強さで専制君主を支える、それがロシア人の誇りなのだそうだ。
しかしながら、今回のプーチンによる戦争は、戦略の根本からその脆弱性を指摘された。当初から多くの犠牲を出し、ただただ兵力を消耗する戦争を無限定に行っている。しかも、際限のない経済制裁をうけながらジリ貧となり、国際的にも孤立する道を進んでいる。
極めて非合理的な選択であるが、ロシアの戦争の歴史をみると、その繰り返しが多く、ふつうに疑問が湧いてくる。プーチンのそれも、国民の支持、理解を得られているのは不思議だ。我々の常識的感覚では、到底理解できるものではない。
さて、『戦争論』を著わしたクラウゼヴィッツ(19世紀のひと)は、戦争を政治的行為であり、政治の道具だと規定した。政治の目標が国民の幸福や社会的平等をめざすものと定義するなら、それを実現するための戦争ならば、その勝利へ向けての行為は充分に政治的行為であり、国民の支持を得るものとなる。力を持つならば、国益を得るために、それを行使することは理に適うものといえる。
これは今、プーチンがいうところの「ナチス」とまったく同じ考え方だ。国家の財政的困難、国内的社会問題を隣国・他国との戦争行為によって解決していくという構想をもったヒットラーと、ほぼ同じ思考回路といえる。ロシア人至上主義なのか、ウクライナとロシアの深い歴史的なつながりを無視している。
プーチンは自分の着手した戦争が、ヒットラー的な目標と手段の行使であることを自認している。だからこそ、ウクライナに対して「ナチス」呼ばわりすることで、国民の賛同を誘導している。また、プーチンの根底にある大ロシア主義も、ウクライナはじめ近接する諸民族を都合よく包摂する思想というが、単なる領土拡張主義の裏返しにすぎない。狙いは「ナチス」と変わりない。
(ロシア側=プーチンには選民思想が垣間見えるように、ウクライナ側にも反ロシアの選民思想があるという説がある。但し、歴史的にはウクライナの方が古く、文化や芸術、さらに東方正教においても伝統的かつ正統派といえるものが多い。選民思想というより、ウクライナ人は眠っていたナショナリズムを覚醒させたのである。)
「ナチス」を殊更に言い立てる理由はまだ他にもある。プーチンを支持する国民の多く(中高年層)が、ナチスを相手に戦い抜き、勝利したという歴史的記憶を共有できるからだ。
独ソ戦は、民間人ふくめ2000万人以上の戦死者をだしたが、実質的には負け戦だと見なすこともできる。ナチスはアメリカ主体の連合軍で敗北したが、ロシアはナチスに打ち克ったという事実を捻じ曲げて、都合のいい歴史認識としてしまった。犠牲や戦禍は美化され、従軍者はナラティブな英雄譚をつくり、それらは戦後の国民教育にも敷衍されたのである。
さて、プーチンとは何者か。2019年に鬼籍に入られた木村汎は、今世紀に入ってから、専門とするロシア学をほとんどプーチン研究に捧げたと言っていい(※別記)。ベルリンの壁崩壊のとき、KGB所属の大佐プーチンは東ドイツに勤めていた。その後、ソ連は解体し、プーチンは紆余曲折があるものの、KGBの承継機関FSB(連邦保安庁)に所属。約5年ほどの短期間で当時の大統領エリツィンのナンバー2にあれよあれよという間に昇進した。
プーチンがなぜ昇り龍の勢いで出世できたのか。木村汎の著書によれば、KGB由来の謀略、諜報、その他の工作活動を駆使し、権力中枢に取り入れられた。この辺りのプーチン分析は、木村自身のものというより、主としてアメリカ政府やシンクタンク系のインテリジェンスに負うところが大きい。
簡単に纏めると、以下のことがロシア、プーチン通のエビデンスとして評価されている。
●ソ連解体後の資源産業体はじめインフラ、生産設備等の民間への払い下げにおいて、「誰が、何を、幾らで、どのように」の詳細なプロセスを諜報活動によって把握した。オリガルヒ(新興財閥)やエリツィン・ファミリーに有利となるようにも画策した。それらの秘密を徹底秘匿することで彼らの信用も獲得した。(プーチンはその後、自身のファミリーもオリガルヒと親戚関係になるなど、強い影響力をもつが、詳しいことは現在も外部にもれていない)
●基幹産業の資産、運営権をタダ同然の価値で、見知った関係者に払い下げしたエリツィンを告訴する動きのあった検事総長がいた。(プーチンらの)スパイ活動によって、検事総長の醜聞となる行為を逆探知(娼婦2人と同宿)。それを裏づける証拠映像(ディープフェイク)もつくって脅迫、追放した。これら陰謀的な工作活動により、「汚職と犯罪の一掃」を謳いながら、政敵、反対勢力を次々と追い払った。
●ソ連解体後に周辺共和国などが分離・独立したが、チェチェンに関しては安全保障上、独立を阻止した。民族独立をめざした彼らの攻撃的行動を泳がせながら、プーチンはモスクワの民間アパートの爆破テロ事件を工作したとされる。直接の証拠は発見できなかったものの(自作自演だから)、KGBの工作による状況証拠(物的証拠も含む)、証言の数々がでてきたが有耶無耶にされた。海外のインテリジェンス機関は実地検証し、プーチンが企図し差配したものと認めている。この民間マンションの爆破テロ事件により、チェチェンへの無差別爆撃を契機に、(強いロシアの復活を待望する国民の)プーチンの支持は絶大となった。
●エリツィン在任中は、経済的混乱と貧富差拡大、汚職と縁故優先、ギャングの跋扈と治安の不安定などで、国民の多くがカオスとアナーキーの中にいた。プーチンは無名であったが、それらの問題を力づくでも一挙に断罪する頼もしいイメージを抱かせた。それはチェチェン戦争で実証され、「自信喪失と屈辱感に落ち込んでいた多くのロシア人たちにとって胸のすくような快挙」をもたらしたという。「小さな戦争で勝利に導く」ことで、ソ連時代の領土を回復するパターンが認知される。(追記:ソ連時代を中高年層がなぜ懐かしむのか。国民全員が公務員待遇であり、教育費、医療費が無料だったことが大きい。この制度は、プーチンの時代になっても継続されている。庶民にとって格別の安心感、信頼感を得られる。少なくとも、日米では得られないものだ。2022・5・5)
●以前にも書いたが、2000年プーチンが新大統領に就任し、9,11以降のブッシュ新大統領に会見。プーチンはそのとき、「キリスト教信者ですから、母譲りの十字架は肌身離さずつけてます」と言った。その一言でブッシュはメロメロになり、プーチンを人間としても信用しはじめたという。お互いの情報が少ないなか、KGB由来の諜報活動で、ブッシュの宗教上の個人的な悩みを見透かしていたと言われる。なお、現ロシア正教会のキリル総主教はKGBの出身である(最近知った)。当然のごとくプーチンとは親しい。立場上、「民間の犠牲者への悼み、心からの深い祈り」を表明するも、「ロシアとウクライナの歴史的な一体性に言及しつつ、停戦を直接呼び掛けることはしていない」という。
以上、プーチン執政のもとで、ぐじゃぐじゃのロシアが「旧ソ連」なるものに再編されてゆく過程をみて、木村汎はプーチンの本質と凄さを見通したのだと思う。それ以降の彼のロシア学は、政治から歴史・文化など一切がプーチンという一人の男に収斂されていく。揺るぎない独裁のプーチン帝国か、それともプーチン・ファシズムを見据えたのか? 「自由」とはプーチンにとって、「飴と鞭」の飴ていどのものでしかないことを心しよう。
木村の処女作は『ソ連とロシア人』(1980出版)と題し、上梓された。30年後でもその基本的文脈はほとんど変わらず、主語をプーチンに変換すれば充分に通用する著述だと確信したという。それが『プーチンとロシア人』(2017)である。小生もこれを読み、さらに2000年出版の『プーチン主義とは何か』を読んで、プーチンは「手段を選ばない男、実質的には負けていても決して根をあげない男」だと、今日のウクライナ戦争に踏み切った、プーチンの内的必然性を理解できた。
今回のブログは、自分にとって必須の覚書として残すためにも、木村汎の著書を参考にして書き留めた。もちろん、雑文の領域をでず、権勢者・為政者としてのプーチンの精神性は、さらに奥深く、暗黒に包まれているといえる。今年70歳を迎えたプーチンは、増々モンスター度をグレードアップしたんだろうか。2024年には大統領の継続を宣言するための布石が今だったら、ウクライナ人よりも、ロシア人に「いま立つんだ!」と云いたい。
去る3月18日に、多くの市民を集めてクリミア併合の官製祝祭イベントを敢行した。たぶん、キーウ(キエフ)陥落を祝いたかったはずだし、3月18日が来たるべき「大統領選挙の日」の法制化を国民に銘記させるために、2年後の大統領継続をアピールしたかったはずだ。プーチンの目論見は果たせず、ウクライナ戦争は終結は先が見えない。さらにNATOを刺激し、フィンランド・スウェーデンの加盟も促してしまった。
5月9日の戦勝記念日に、プーチンは何を語り、何をやらかすのだろうか。ウクライナのどこかの都市の広場に、レーニン像を再び建立したというニュースがあった。「大ロシア主義=ソ連時代の栄光はいまだ不滅です」と高らかに宣言しても、得るものは何もない。プーチンよ、あなたは何処に行くのか。
▲地元の古書店木菟(みみずく)でもとむ。まだ、「内政的考察」はあるはずだが。
(※別記)京大における、戦後の保守防衛・政治思想といえば猪木正道。木村汎は猪木の薫陶をうけ、さらに推挙されて、当時のソ連クレムリン周辺で2年間の研究生活をおくることができた。そのときは、アメリカはじめ多くの研究者と共に、公共機関等で数々の調査分析、人脈づくりをしたと回想している。冷戦時代とはいえ、学徒の交換留学ができたのは、敵同士でスパイ養成を認める暗黙の了解があったのであろうか。
木村汎は自国にもどってから、当時の研究者仲間であるアメリカ人が次々と質の高い論考を発表したことに驚き、ソ連での留学体験は無為無策であったと反省した。その後、本格的なロシア学研究をめざし、ソ連はもちろん米国・英国の一級研究者の著書・論文をもらさず渉猟した。それはソ連という社会主義国家のそれに限定されない、大ロシアの歴史、文化全般の領域に及んだ。しかし、2000年以降、木村汎の研究対象はプーチンだけに絞られた、といっていいであろう。
余談だが、彼の実姉はサスペンス作家の山村美沙である。小生は広告文案家だったとき、京都に住む山村美沙氏を取材するため、ご自宅に伺ったことがある。氏は当時、マツダクーペが愛車だったのだ。
[追記]:「戦争」を善悪の次元で語ることはできない。相対的なフェーズでしか語れないし、その「戦争」の終結方法、その結果・プロセスを見、判断することは、本来的にも軽々に語ることはできないと思っている。歴史的には、勝者は善であり敗者は悪として語られる。東京裁判やニュルンベルクでもそうした善悪の二元論で断罪された。その方がシンプルだし、戦争を忌避することのアクティブな選択を促すからであろう。
しかしながら、戦争が利害関係当事国の間で勃発するのは、善悪、損得、優劣、強弱など単純な二元論で割り切れない、いわゆる諸事情と複雑さがあることは確かだ。
さいきん、南米の先住民であるヤノマミやイゾラドの部族間抗争の物語や、ドキュメンタリーにふれる機会があり、一見単純そうにみえる彼らの闘いは、種を超える生命の営みの一環である。あるいは宇宙の生成から地球の現在にいたるまでの、深遠で普遍的な法則のなにかしらと連関してはいないか、と考えるようになってきた。むろん、年齢的なものが影響しているかもしれない。
人間文明が何かがまったく無知のイゾラドの酋長に、立花隆が直截に問い質したことがある。「人間は何のために生きているんでしょうか?」、その酋長は「死ぬために生きているんじゃ」と。
だいぶん前に、池波正太郎に傾倒していたことがあった。彼がよく口にしたフレーズがある。 「人間はみんな死に向かって生きている」。
日本の大衆作家・池波正太郎も、南米秘境のイゾラドの酋長も、大した違いはないんだなあと、一人ほくそ笑む深夜の時間帯である。破顔でもない、苦笑でもない。(2022.05.04)
そうですが納得。私のダラケて締まりない文章を、目が覚めるほど要約して頂いた時から、とんでもなく纏め力(頭悪い私にはムリ!)の方だなと思うてました。おそらくは俳人としての資質かと思ってました。
山村美紗氏に会ってらっしゃるんだ。スゲー!
それで、プーチンなのですが、この人となりについては、メロンぱんち様の所で長々と彼の方とやってるので、ご覧になったかと思います。
ので、ここでは「小寄道様のロシア挫折」の見解の正しさについて。
あのロシアって護りは強いが攻めは弱い。これは日露戦争の時の縦深陣の置き方とか、司馬遼太郎よむと感じます。でも原因は別なのでは。
ぶっちゃけて言いますと旧日本軍と同じ悪癖だから!です。
国内を武力で押さえつける専制ですよね。だから軍部とかは強い。
もともとオリガルヒやマフィアを、軍とKGB出身のシロビキで抑えつけて天下取った政権です。という事はプーチンに近い軍などの幹部は糾弾する勢力がない。アメリカは大統領の一言で将軍だろうとクビ飛びます!
でも大統領は専制君主ではない国民投票の産物ですね。
そういう専制的な国家の暴力装置は必ず腐敗する。それは政権に近ければ、汚職しようが戦争犯罪しようが咎められないから。自分の個人的利益、その為の汚職や横流しを糾弾できない。すると、個人的都合で、
大本営発表したり、個人的利益に基づく作戦を立てる。
それは負けますって(笑)
だってあるべき所に銃弾も医薬品も食糧も燃料もないのだもの。前線は混乱しますよ。指揮は乱れ士気は下がる。
さらに部隊レベルでの作戦遂行が硬直化する。米軍は任務だけ部隊に与えて、その運用は現場に任せます。その代わり、ソンミ村とかそうでさが、イラクでも何でも、監察が厳しくて、そこに引っかかると佐官や将官でも軍法会議にかけられます。だからプラグマチックで緊張感がある。
実はこの辺りの弱点、中国の人民解放軍も同じですね。あれは軍閥的な地域ごとの軍団の集合体で、だから軍区制度を戦区制度に習近平は変えたのだしょうが、習派の軍人は同じことをするから、全く意味がない。胡錦濤なんか閲兵式で軍艦の砲撃を受けてますし(笑)
それでも中露どちらも、「政権の犬な軍閥」なので、上記の理由から、
最新兵器そなえた強面でも、運用が全くダメなんですね。
だから中露の軍隊は実戦に弱い!
1920年代の中国の軍閥と、基本的に上層部の体質が変わらないので、
それはハイブリッド戦を試みても失敗しますよ。
でも、その体質はプーチンには理解できんでしょうね。彼は日陰者であるスパイの出身で、諜報機関の出ですよね。つまり秘密主義の権化。
最終階級は大佐でしたが、正規の軍人ではない。近代的軍隊という組織が、ある程度の風通し良さがないと、組織が腐敗して、実務(戦闘)に支障が来るという事を理解できないと思うのですね。スパイあがりが内政を統括するのは、混乱期の国内では有用ですが、戦争指導者としてはダメでしょう。英国のSISや米国のCIA出身の元帥っていないでないですか。軍のトップで諜報活動やった経験者って、イスラエルのダヤン将軍くらいではないですかね? でもダヤンはイスラエル建国闘争の時からの
人だったからで、プーチンとはまた訳が違う。
戦闘レベルではともかく、戦争の指導者となると、やはり日陰者(スパイ)は向かないでしょうね。と、私は推察しております。
コメントありがとうございます。
戦争ほど無駄で駄目なものはありません。勝敗という結果は、いちおう根をあげた方が負けを宣言して終結する。
根をあげなければいつまでも戦争は終わらない。どちらも多くの死傷者が出、インフラなど物的損失ははかり知れない。
独ソ戦では、2500万人ほどの犠牲者が出たにもかかわらずソ連は勝利を祝い、それを戦勝記念日として今も記念行事にしている。
日本のそれは350万人でしたっけ? いや死者数の多寡で比較したくないのですが、ソ連の場合はなんでそんなに死者を出しながら、それを勝利と歓ぶのか・・。
プーチンは日陰者ですが、実は手強いですよ。戦い方が、まず人民への無差別攻撃で、相手の戦意を挫くという卑劣さがある。
彼なりに自国の支持を持続させる方法論があります。
今後、経済的制裁で強烈な縛りをうけるはずですが、ロシアの人々はなんとか食つなぐ用意もする。
ともかく、プーチンとプーシキンと比較を通じて、とりあえず自分なりの考察を深めたい、今日この頃なんです。