内田樹のブログの「愛国的リバタリアン」という記事がそもそもの発端で、「植松聖とナマポ」を書いた。しばらくたって、リバタリアンが何なのか記述していないことに気づいた。内田樹のブログを読んでいただければ済む話だが、自分でも一言書いておかないと気が済まない性質なので、書き記しておく。
リバタリアンとはストレートに言えば「最小政府主義者」だ。アナーキストとは決定的に違う。
平たく言えば、政府が個人に干渉することは大きなお世話だと主張する考え方、人。
「自分のことは自分で落とし前をつけるから、納税は勘弁してくれ」というホンネがあるやなしや。自己決定、自己責任による行動原理を貫き、国の世話になんかならない、と堂々と言えること。
ただし、こんな元気で威勢のいいことを言えるのは若い時ぐらいだろう。病気になったり、年老いて動けなくなったら誰かの世話を受けなくてはならない。保険や年金など社会保障制度がなかったら、野垂れ死にを甘んじて受け入れるしかない。不本意であっても、定められた税金を納めた方が、無難に越したことはない。
熟慮すれば経済合理性の観点からも、国「政府」の存在を認めた方がよい。個人の自由を最大限に認めてもらい、民主主義の政治のもと公正な選挙が行われ、自分たちの代表による国家運営を任せようと・・。この思考経路が人文科学的にブラッシュアップされてリベラリズムとなる。
今はもうリバタリアンなる人は、自己中心的かつ絶対自由主義の極端な人たちだと言われ、ほとんど見かけない。ここまで書けば、植松がなぜ「愛国的リバタリアン」なのか了解していただけるだろう。
話はそれるが、アメリカ建国の歴史の中で、自分の身は自分で守るという伝統文化は、銃をもつという慣習に引き継がれている。銃規制がなかなか実現しないのは、リバタリアン気質の人たちが多いことも事実だからだ。
彼らの多くが、トランプを大統領に押し上げた支持者でアメリカ中西部に多い。すなわち現在ここは「ラストベルト」と言われ、自動車はじめアメリカの誇るべき重厚長大の産業エリアだった。ご存じであろうが、プアホワイトと呼ばれる人が多く暮らしている。
東欧系の遅れて移民してきた白人が多く、自分たちの言葉や慣習を捨て、そして心機一転、英語を学び、アメリカン・デモクラシーを体現してきた。英語を話さない中南米系移民とは一線を画す矜持をもっているという。
排他的な白人至上主義者、プアホワイトと呼ばれようと、彼らがトランプを支えるのは、彼の暴言や本音が事実に裏打ちされているからだろう。
おぞましいまでにアメリカ社会は分断され、産業や人々の構成が激変したとしか思えない。その骨格の亀裂こそ、アメリカの金融政策偏重が生みだしたイデオロギー・グローバリズムがもたらしたもので、その直下の犠牲がプアホワイトではないだろうか。オバマが何をしてくれたのか? 彼の自信たっぷりの言葉と強く黒い皮膚は、彼らに自己を憐憫させるを情を知らしめただけだ・・。
そこまで追い込まれると、どんな良質のリベラリズムでも変質し、毒気のあるリバタリアニズムとして胎動しているような気がしてならない。
さてさて。日本においては無政府主義の伝統はあっても、リバタリアニズムを掲げたひとは皆無だ。
80年代後半だったろうか、「オバタリアン」という4コマ漫画がヒットした。このネーミングに関して、同時期にゾンビ・ホラー映画でヒットした『バタリアン』の方が先行していたかどうか失念した。バタリアン(Battalion)とは、英語で「大隊」や「大群」の意があり、スペースホラーかつゾンビ映画ということでかなり人気になったかと思う。たぶん、それにあやかっての「オバタリアン」の名称だったかもしれない。
▲原作は読んでいない。アニメも見ていない。しかし同様のバラエティ番組は雨後の竹の子のように出ていた。