Kuniのウィンディ・シティへの手紙

シカゴ駐在生活を振り返りながら、帰国子女動向、日本の教育、アート、音楽、芸能、社会問題、日常生活等の情報を発信。

井口選手パドレスからフィリーズへ!~「タグチとイグチの違いをわかって!」田口選手の願い

2008-09-07 | メジャーリーグ
今週の始め、アメリカの邦人にとって衝撃的なニュースが走った!「井口選手がパドレスから戦力外通告を受けた」というのだ。その一文が朝日のオンラインに流れたのを見た瞬間、私は「ナニー!!」とあまりのショックで、手が止まってしまった。その日は、家事も手につかず、オロオロ・・・(もともと家事は手抜きだけど)その夜は、主人と井口選手のビデオを見ながら、井口談義で夜がふけた。

私たち家族は、井口選手が、ホワイトソックスにいる頃からの大々ファンで、ずっと応援してきた。息子たちは、2年前、シカゴ日本人学校で井口選手の野球教室を受け、同じ時期に主人の所属する日本人ソフトボールチーム、マリン・ジェッツは井口選手のチーム、ゴールデン・ソックスとダブルヘッダーで対戦してもらっている。私たちのアメリカ生活の最大の思い出=井口選手。よって、私たちにとって、井口選手は日本人メジャーリーガーの中で特別な存在なのだ。絶対にアメリカにいてもらって、活躍し続けてもらわないといけない!

今季1年契約でフィリーズからパドレスへ移籍した井口選手は、せっかく調子がでてきたとき、6月5日のメッツ戦の右肩鎖骨負傷で2ヶ月も戦列を離脱、その後調子がもどらず、パドレスも最下位に低迷しているため、こういう結果になったと報道されている。

何処の球団に行くのか、日本にもどってしまうのか、私たちファンはとてもやきもきした。私はとくに井口選手のご家族のことが一番心配だった。現在9月だから、新学期が始まったばかりで、井口選手には小学校に通う娘さんがいる。シカゴから引っ越して、井口選手の奥さんとともにサンディエゴの環境に慣れてきた頃だろう。こういうことがあるから、メジャーリーガーの奥さんは精神的にさぞや大変だろう。

しかし、昨日のニュースで、フィリーズが井口選手の獲得を発表したとある。井口選手の公式サイトにもすぐに報告があり、「フィリーズと契約をして明日から合流することになり、荷物をまとめてこれからNYに行ってきます。昨年も7月の終わりにフィリーズにトレードとなり、最後にメッツ追い抜き地区優勝したので、今年も同様に優勝できるように何か貢献できればと思います。」との強い決意が書かれていた。



私たちもそれを読んで、ほっとした。やれやれ。よかった、よかった。その前の井口選手の公式サイトの戦力外通告の報告では、なんとなく無念さがただよっていたが、さすが井口選手、すぐに気持ちを切り替えて、前進あるのみという感じ。サンディエゴからすぐにニューヨークへ飛び、もしかすると別のポジションを守るかもしれないという過酷な仕事に挑戦する。真のメジャーリーガーとは、かくあるべきか。井口選手は、一日本人メジャーリーガーとして特別視されず、メジャーリーガーの一人という感じだ。

井口選手は、去年7月急遽ホワイトソックスからフィリーズへトレードされたが、見事に故障した2塁手アットリーの代役を果し、逆転地区優勝に貢献した。今年もフィリーズ優勝のために、井口選手がどうしても必要とされたのだろう。フィリーズのMLBの5日付けのニュースサイトにもマニエル監督の井口選手に対する大きな期待が報道されている。

そして、私たち日本人にとって楽しみなのは、井口選手と田口選手が同じチームでプレーする姿を見れることだろう。田口選手は、早速自分の公式サイトの9月5日付けの日記にその喜びをこう書いている。

初の日本人チームメイトです。
ああ、これでやっと、クラブハウスで日本語が話せる。
合流は明日。今から楽しみに再会を待っています。

しかし、これで名前を間違えられるのはもう決定的。
ただでさえこのチームにやってきた時から、
「イグチー!」とファンに声をかけられてきたのです。
子供たちは親しみを込めて、僕に「タダヒトー!」と呼びかけます。
俺は、タグチ、やねん。しかも名前は、これ以上簡単にできないくらい
簡単。「タダヒト」が覚えられるのに、なぜ「ソウ」が覚えられない?

フィリーズファンにとって、井口選手は去年、チェイス(アトリー・二塁手)の
怪我という窮状を救ったヒーローです。明日からますます「イグチ」に
間違えられそうな予感。
せめてどちらかがしょうゆ顔だったらまだよかったのに・・・。

ペンシルベニア州フィラデルフィアにて 田口壮 (田口壮オフィシャルサイトより)

田口選手がそんなに名前のことを気にしていたなんて知らなかった。井口選手の公式サイトの2006年11月26日の投稿に、田口選手のユニフォームを製造会社が間違えて、「TA]を「I」にしてしまい、「IGUCHI 99」になったカーディナルスのユニフォームを紹介していた。井口選手がお茶目にユニフォームを着ている写真がかわいい!こういうこともあったからだろうか。

著書「タグバナ」でその底抜けに明るい性格をだしている田口選手。MLBのニュースサイトで、似ている名前で混乱することを心配しながらも、「大丈夫だろう」「だって僕達は二人共グッドルッキング(イケメン)だから!」とのたまったのだ。ウーン、まじめな野球専門ニュースであるMLBにこんなコメントを英語で放ち、(田口選手は英語が堪能)それがそのまま報道されるとは?!

きわめつけは、最後のマニエル監督のコメント「もう1人アジアの選手からほしい」「僕は(日本のホームラン王である)サダハル・オーがほしい!」だってさ。


追伸 井口選手の公式サイトの写真は、今までの所属のバドレスのユニフォームを着ていない。それまでは、ホワイトソックス、フィリーズとユニフォーム姿で写っていた。まるで、あたかも今回のような非常事態に備えたかのようだ。

上のベースボールカードは、最近ディックスで手に入れたもの。今年入った選手のカードはなかなか手にはいらない。よって、去年のものになってしまう。私が手に入れたのは去年のフィリーズのときの井口選手のカードだったが、とてもかっこよかったので、「うちの宝にしよう!」と思っていたら、こういう結果になって、本当にうれしい!井口選手、フィリーズで田口選手と共に大活躍を祈ってます!


井口資仁公式サイト http://sports.nifty.com/tadahito-iguchi/

田口壮オフィシャルサイト http://www.taguchiso.com/index.htm


シカゴ・ホワイトソックス戦で、タンパベイ・レイズ、岩村選手の活躍を見る!

2008-08-25 | メジャーリーグ
先週末は、USセルラーフィールドにて、ホワイトソックス対タンパベイというアメリカンリーグにとっては、各地区のトップチーム対決という見逃せないカード。そして、タンパベイには、日本人メジャーリーガーの岩村選手がいる。リードオフマンとして、今やタンパベイにはなくてはならない存在となった岩村明憲選手を見ておこうと、第2戦の土曜日にセルラーへ繰り出した。2戦目か3戦目かどちらにするか迷う。2戦目のタンパベイのピッチャーはスコット・カズミア(日本語表記キャズミア)、3戦目は、ホワイトソックスがマーク・バーリーの予想。上の息子は、メジャー屈指のピッチャー、カズミアが見たいというので、前日夜ピッチャーが発表されるやいなや、主人が素早くチケットを取る。

さて、前回ホワイトソックス対レッドソックス戦の異常な混みようと打って変わって、道路状況はすいていた。1時間以上前にセルラーに着き、余裕で選手たちの練習風景も見学できた。



私は、どうしても帰国前に1900年初頭のシューレスジョーたちがかぶっていたホワイトソックスの古びた昔の帽子がほしい。先日露天の店で見かけたので、必死でさがすが、今回はどこにも売ってなく、がっかり!ファンたちは、帽子にも凝る。球場の中の大きなお店では、さまざまな帽子が売られていて、そのデザインがなかなかいい。みんなかぶって、お互い「これはどう?」とじっくり選んでいる。ハーパーカレッジの「アメリカ野球の歴史」をとっていた熱狂的なホワイトソックスファンの感じのいい男子学生の1人は、いつもさまざまな間新しげなホワイトソックスの帽子をとっかえひっかえして、かぶっていた。勿論、古びた私がほしい帽子もかぶってきていたし、最新の黒と白のカッコいいデザインで、SOXの部分が浮き出ているのもかぶっていた。

ティーシャツもみんな凝っている。ベテランズディだったか、ホワイトソックスの選手たちが1回だけ着ていたアーミー系のデザインのティーシャツを着ている人も見かけた。ざっと周りを見たところ、一番人気のティーシャツは、センターとファーストを守る今年トレードできたニック・スウイッシャーのティーシャツ。そんなに打率が高いわけではないのになぜこんなに人気なのだろう?不思議だ。なんとなく、愛嬌のある感じの顔で、コマーシャルなどで見せるひょうきんさもある選手。長髪にしていたかと思うといきなり坊主にして驚かせる。ただこれは、抗がん治療で頭髪が抜けた女性にカツラを無償でプレゼントする団体に寄付するためなのだそうだ。そんな誠実な人柄も人気の秘密なのかもしれない。

私は、ティーシャツはどれにしようかと迷って、結局「カネルコ」ティーシャツ。生え抜きのホワイトソックスの4番だったのに、今季は打撃不振で最近ベンチ入りしている。頑張れ、カネルコ!(3戦目は代打タイムリーで活躍)上の息子は、今一番旬の現在36本とアメリカンリーグホームランダービートップの、若きスラッガー、「クエンティン」のティーシャツ。下の息子は、誠実なベテランDHホームランバッター「トーミィ」のティーシャツ。主人は、何もないシンプルなグレーのホワイトソックスジャージーをはおる。主人の帽子は、勿論2005年ホワイトソックスがワールドチャンピオンのときのやつ。私の帽子は、お気に入りの白の2005年地区優勝のときのやつ。この白の帽子は、なかなか見かけないが、女の人がかぶってもソフトなのでいける。

さて、前置きが長くなったが、話を肝心の試合にもどそう。


試合前のナショナル・アンサムのときの選手たち、なぜか右端のクウンティンだけが、両手を後ろに回していて、妙にじじくさい格好、左端の丸坊主がスイッシャー

ホワイトソックスの先発ピッチャーは、7年連続2ケタ勝利をあげている右腕バスケスで、なんと5回ぐらいまで、完璧なピッチングを見せ、完全試合。この試合もしかして・・・と思わせるほど、制球が良く、ストライクも先攻。岩村選手も苦戦している。


岩村選手対バスケス

左腕カズミヤも、ゆったりとしたフォームで、打たれながらもなんとか得点をおさえる。しかし、ホワイトソックスの4番、ジャーメイン・ダイの2本連続の鋭いホームランを打たれる。ダイのホームランは、2本とも外野席に一瞬で突き刺さるような見事な当たりだ。2本とも同じ用な場所に飛び、飛距離も368フィートと365フィートだった。しかし、このホームランの前にランナーがでていなかったのが、ホワイトソックスにとって大きかった。




2対0とホワイトソックスがリードした6回表に、岩村選手がねばってフォアボールとなり、それがきっかけで1点返す。これで、バスケスの完全試合もなくなり、試合の流れが変わる。そして、8回表、ノーアウト満塁で、岩村選手がヒットを放ち、同点にし、そのあとヒットも続き、岩村選手がホームを踏み、ホワイトソックスは逆転された。その回4点も入ったため、ダイの2本目のホームランもランナーがでていなかったため、及ばず、5対3でホワイトソックスは負けた。頼みのトーミィが4連続三振ではねえ・・・この日は、クエンティンも打てなかった。

次の日は、ホワイトソックスは、10回裏見事な逆転サヨナラ勝ちをおさめたので、タンパベイにスイープされず、私たちホワイトソックスファンとしては、ほっとした。2位のツインズがせまってきているため、3戦目は絶対に落とせなかったからだ。

しかし、2戦、3戦と岩村選手はいつもいい所で打つ。2戦目の粘りに粘ったフォアボールなどリードオフマンとして、絶対に塁にでてやるという気迫がみなぎっているような感じだ。ホワイトソックスが2戦目負けてしまったが、岩村選手の見事な活躍が見られて、私たちは日本人としてとてもうれしく、誇らしかった。守備も華麗なフィールディングで楽しませてくれた。スクリーンに岩村選手の顔写真の横に、大きく、去年の守備率9割7分5厘と3塁手でメジャートップと紹介されていた。今季は、コンバートして2塁手だが、守備がますます光っている。



タンパベイは今まで地味な球団で目立たなかったが、今季は若い選手の台等で勢いがある強いチーム。その中で、岩村選手がチームを引っ張っている。打率も2割7分台で健闘している。カブス、福留選手がメジャーの壁にぶち当たってスランプ気味(昨日は代打ホームランを打つ)だが、コンスタントにメジャーで活躍することは、大変な努力がいるのだろう。日本人メジャーリーガー頑張れ!

さて、次のうちの狙いは、ミルウオーキー戦。メジャー屈指の最高ピッチャー、巨漢のサバシアを息子は見たいという。再来週は私も大好きな場所、ミルウオーキーへ!(今日の投稿の写真は少しづつアップしていきますので、また見てください。)







ロイヤルズ、ヒルマン監督の敬虔なキリスト教伝道師としての姿をシカゴで見る

2008-08-14 | メジャーリーグ
昨日は、朝からデスプレインのルーメニアン・バプティスト教会に息子2人を連れて出かけた。8月旅行から帰ってきて、少しでものんびりと1日を過ごし、休みなので朝がとても弱い私達3人。でも、学校に行くときと同じように子供たちをたたき起こし、行ったことのない知らない場所へ車を走らせた。

2006年、日本で、日本ハムファイターズの監督として、なんと44年ぶりにチームを日本一に導き、2007年もリーグ優勝させた立役者、トレイ・ヒルマン監督が、この教会に講演しにくるというのだ。ヒルマン監督は、今年から自分の国アメリカにもどり、カンザスシティ・ロイヤルズの監督をやっている。日本に来る前は、アメリカのマイナーリーグの監督を11年もやっていたというから、たたき上げで、出世していき、メジャーリーグの監督という輝かしい地位を獲得したといえる。

テキサス出身で、テキサス大学卒業後、メジャー選手になることを夢見ながら、クリーブランド・インディアンズのマイナーで3年間プレーしたが、夢かなわず、インディアンズのプロ野球史上最も若いスカウトマンを2年し、27歳からヤンキースのマイナーリーグの監督になった。持ち前のリーダーシップを発揮して、チームを優勝に導くが、支配者になることに疑問を感じ、「軌道修正をする必要性を強く感じた。」(ヒルマン監督の著書「ターニングポイント トレイ・ヒルマンが強い理由」新生宣教団発行より)「祈りの中で、野心や自己実現の追及より、神様が私の周囲に置いてくださった人たちに、神様が喜んでくださるような態度で接していくことが大事なのかと思い始めたのだ。」と同書の中で語る。



ヒルマン監督の人柄を知らず、チームを優勝させた監督という事実だけだと、なんだか「凄腕の切れ者」というイメージがわく。しかし、ホワイトソックス対ロイヤルズ戦の試合前に大きく映し出されたヒルマン監督は、控えめで、誠実そうな雰囲気がただよっていた。メジャーリーグの監督は1年目で、新人というわけだからか、敬虔なクリスチャンとして自然にそういう態度が備わってしまうものなのか。ウーン、この目で確かめてみたい!その有名人、トレイ・ヒルマン監督の講演が、ここシカゴ郊外の教会であるというのだ。ウイキペディアに書かれているヒルマン監督は、やはり「熱心なクリスチャンで宣教師でもある」とあり、講演の目的は明らかであった。

無宗教の私たちにとって、教会での話を聞くという経験はほとんどない。せいぜい下の息子が小さな頃、教会内のプリスクールで行われた季節ごとのイベントでキリスト教の一端を垣間見るぐらいだ。しかし、私と息子たちは、プロ野球のベテラン監督としてのヒルマン氏の素顔を一目見ようと、信者さんたちに混じってずうずうしく聞きに行った。この講演は、ヒルマン監督の横に日本語の通訳もつき、インターナショナル・VIP・クラブ・シカゴとシカゴ日系人キリスト教会協議会が主催していて、多くのボランティアの方々の努力で行われたという。


ちょっとだけ、ケビン・コスナーを思わせる面差し、声のトーンも喋り方も少し似ているかも、日米の表舞台で活躍し、人並みはずれたリーダーシップを発揮できる独特のオーラがただよう

息子たちは、ロイヤルズのブルーのティーシャツにブルーの帽子をかぶり、にわかロイヤルズファンの目立つ格好。上の息子が小学4年生のとき、リトルリーグのチームはロイヤルズだったので、主人もティーシャツと帽子、私は帽子だけを買い、しっかり2人分のティーシャツと帽子がそろっていた。シカゴアンでロイヤルズグッズを買う人はまずいない。私がその当時ロイヤルズの帽子をかぶって、大学のクラスに行ったら、クリーブランド出身で熱狂的なインディアンズファンで、バリバリのシカゴアンのウイルソン教授が、「(弱い)ロイヤルズの帽子なんかかぶりやがって!」とやたら馬鹿にされた。その当時ロイヤルズが万年最下位で、限りなく弱いチームだと知らなかったのだ。



しかしだなあ、普通、メジャーリーグ関係者の講演だと、その人のチームの帽子やティーシャツを着ていくのが野球ファンの礼儀ってもんだろ。このシカゴの地で、敬愛する日本人メジャーリーガー、井口選手や田口選手の講演に出かけたとき、私達は、そうすることがファンとしてのせめてもの務めだと学び、当然のように昨日も子供たちにその格好にさせたのだが・・・まったく1人として野球の格好をしている人がいなかった!派手な青いユニフォームを着た息子たちはやたら目立ち、かなり、場違いの服装であった。あーあ!ヒルマン監督にどう映ったのだろうか。「ああ、そこにロイヤルズファンがいる!」と少しでも喜んでくれただろうか。普通なら、日本人学校を訪問した井口選手のように、ホワイトソックスのティーシャツを着ている子をさっとチェックするであろう。

しかし、ヒルマン監督は、「まったくそういうことは関係ない」というような雰囲気で、教会に来ている多くの信者さんたちに熱心に語りかけていた。落ち着いて穏やかな雰囲気がただよいながらも、ときどき大きなアクションやユーモアを交えながら話す。



勿論、話は、一貫して、「神様の導きで今の自分がある」ということに終始していた。選手をやめて、スカウトになったときも、日本で監督をやることになったときも、すべて神様のお導きだと言う。「神、キリスト、聖書、愛、信じる」などの言葉を何度も言いながら、修行をしてきた神の子のキリストのような雰囲気だ。何回も日本やアメリカで講演して慣れているのか、言葉が次から次へと溢れるように出てくる。まさに伝道師!うーん、これが、日本でペナント中「しんじられな~い!」を連発していた人なのか?!

講演は、1時間で終わり、ヒルマン監督のサイン入りボールや当日のロイヤルズ対ホワイトソックス戦が行われるUSセルラーフィールドへのチケットが、ラッフルで当たった人に手渡された。せめて、サインボールでも当たらないかなあ!とここで私たちは、ヒルマンさんが言うように神にひたすら祈るが、だめだった。「ヒルマン監督が私たちファンが持ってきたボールにサインぐらいしてくれるだろう」と大きな期待をして、(井口選手や田口選手が丁寧に1人1人してくれたように)息子たちは2個もボールとペンを用意していったが、無駄だった。試合があるということで、あっけにとられている私たちを残して、ヒルマン監督さっさと退場。


律儀にお辞儀をしながら、このイベントに尽力した教会関係者、関口氏から記念品を受け取るヒルマン監督

野球の技術的な質問をしたかった上の息子は、「ヒルマン監督、もう少しメジャーのことや野球の技術的なこと話してくれればなあ・・・」とがっくり!「日本のプロ野球を経験して、本場に帰ってきてとまどいなどないか?」などという野球に関する硬派な質問を真剣に考えてきた私も同感。でも、あのハンサムな笑顔と誠実な人柄にふれられたかたから、良しとしよう。おみやげに、「パワー・フォー・リビング」(ジェイミー・バッキンガム著)を教会関係者からもらい、聖書の内容に詳しくふれる機会をもらった。中に、シカゴキリスト教会協議会教会リストが入っていて、6つの教会と5人の日本人牧師たちの名前が書かれていた。シカゴでも日本人の牧師さんたちがキリスト教の布教に頑張っているんだなと感じる。プロテスタントで大阪で教会に通う義母に、今日のイベントは伝えよう。

おとといの第1戦と同じように、昨日もホワイトソックスがロイヤルズをシャットアウト勝利。ロイヤルズ打てない!試合の途中に映し出されたヒルマン監督は、朝の講演のときと打って変わって、かなり厳しい表情であった。しかし、きっとヒルマン監督は、「これも忍耐、神のお導きだ!」と自分に言い聞かし、再起を誓っているに違いない。ホワイトソックスファンの私だが、ヒルマン監督、ロイヤルズがんばれ!と言いたい。


追伸

ヒルマン監督の本のはじめのカラー写真の中に、幸せそうな家族写真が載っているが、14歳のハンサムな息子さんは、なんとホワイトソックスの帽子をかぶっている。なんだあ、私たちと同じソックスファンじゃん!


シカゴキリスト教会協議会教会リスト

シカゴ・ミッション日本人教会  小針勇吾牧師 847-323-3090

デボン教会            佐藤敬牧師  773-338-5687・
                            381-0074   
                 John Carlini 847-212-5953

グレンビュー福音自由教会    蛭沼寛行牧師 847-729-1185

シカゴ・レークサイド教会    鈴木光夫牧師 847-763-9724
                 Stan Wiedeman牧師


ノースショア・バプテスト教会  Carol McVetty牧師 773-728-4200

ウイネットカ日本人教会      安納義人牧師 847-853-1739






USセルラーフィールドで、松坂選手、ホワイトソックスの破壊打線を粉砕!クエンティン大人気?!

2008-08-11 | メジャーリーグ
8月9日、注目のホワイトソックス対レッドソックス第2戦にて、USセルラー・フィールドに初めて登板した松坂選手。



過去中4日か5日で、土曜日か日曜日かの登板予想をしていた私たち。シカゴ在住の日本人は、みんなこの週末のレッドソックス戦狙いだろう。2日間チケットを買っていた人もいるかもしれない。この機会をのがしては、シカゴにいた甲斐がないとばかり、前日夜に登板が発表されると同時に、主人は時間をかけてオンラインでチケットをゲット!1塁側の一番最上席しかとれなかったが、(それでも1人40ドル、普通に買えば、10数ドルか?!)シカゴでの滞在が残り少なくなると、何事も根性でやるしかない。

私たちのアメリカ駐在生活で、松坂選手を見るのは2度目。去年のカンザスシティ、カウスマンスタジアムでの貴重なデビュー戦を観に行って以来。上の息子は、日本で2度観ていて、アメリカで青い西武ライオンズの松坂選手のジャージとライオンズの帽子を誇らしげにまとい、アメリカ人の友達に見せびらかすほどの熱狂的な松坂ファン、ライオンズファンだ。

しかし、根はホワイトソックスの息子。でもって、Matsuzakaティーシャツを着ながら、ホワイトソックスの2005年のワールドチャンピオンの記念帽子をかぶるという奇妙な格好。シカゴアンたちには、相手にされないであろう。

そして、下の息子は、家にあるさまざまなホワイトソックスのティーシャツのうちに、やはりIguchiティーシャツを選ぶ。主人いわく、「前いた選手のティーシャツ着てる人いるから。」たしかに、ポドセニックなど、すでにいない選手のティーシャツを着ているファンはいる。そう、それに井口選手は、いまだにシカゴのみんなに人気があるから、堂々と誇らしげに着ていいじゃん。うちは、なんたって、井口選手がトレードされた時に、近所のダウンタウンに勤めるトリヤマさんから、再び真新しいホワイトソックスの井口ティーシャツを2枚ゲットしてもらったほどの大井口ファンなのだ。


右の上の息子はリックをはおっているため、背番号18が見えない

大ファンの私は、今日久し振りにベースボールカードをディックスで買って、なんと念願の井口選手が正面から写っているカードを手に入れた。カードの袋の裏にIguchiという文字がでていたので、思わず「やった、イグチ!!」と大声を上げてしまい、まわりのアメリカ人がぎょっとしていた。これはフィリーズ時代の井口選手だが、かなりカッコよく、大満足です。話が松坂からそれてしまったが・・・

高速の出口でセルラーフィールドに着く前は、いつもよりもかなり渋滞していて、家をかなり前にでたのに、試合開始の直前に着いたので、レッドソックス戦の人気のほどがうかがえた。気がつくと、周りはレッドソックスファンだらけ。目の前にMatsuzakaティーシャツを着ているアメリカ人の男の子発見。思わず握手したくなる瞬間!



それにしても、セルラーがとても広く感じる。このところリグレーに3回続けていっていたので、よけいに奥行きを感じる。試合開始直前、大げさな音楽とともに、名物のスクリーンに次から次へとホワイトソックスの選手たちのクライマックスシーンが映し出される。ああ、あの2005年の興奮を再び!という感じ。こういう派手な演出も2大強ソックス対決に似合っている。



ホワイトソックスは、コントレラスがピッチャー。最近、ぱっとしないコントレラス。息子の話題にものぼらないほど、調子が悪いのか。


席が遠いので、小さくしか写真にとれず、コントレラス対オーティス

なんと2回表で、1塁ベースカバーに入ったときに、足を負傷してしまい、立ち上がれない。エエーッまだ、写真もよくとってないのに・・・降板かよ、つまんねえ!後でわかったことだが、この怪我で、コントレラス今季絶望。ウソみたい。でも、ホワイトソックスにとっては、お荷物がなくなっていいかも・・・

さて、松坂選手は、いつものように美しいフォームで、淡々と投げる。フォアボールをだしながらも、のらりくらりとのりきって、得点を許さない。レッドソックスが、ペドロイヤのタイムリーやオーティスの2塁打で先攻したので、安心してみることにする。

オーティスの大きな2塁打の時は、1塁側はものすごい歓声が上がった。「レッツ・ゴー、レッドソックス!」という掛け声が何回も沸き起こる。この時点で、シカゴにもやはりレッドソックスファンが多いということが正しかったことに気付く。下の息子のチームのメンバーのお父さんが熱狂的なレッドソックスファンで、「フェンウエイのチケットならまかせておけ!」と言って、エージェントを紹介してくれたほど。なんとか、帰国前にボストンに行って、フェンウエイパークに行きたいという上の息子の言い分。私もあのグリーンモンスターを見たい!

さて、松坂選手は、後半素晴らしいピッチングで、ホワイトソックスの強打線、トーミィ、クエンティン、ペルジンスキー(前回松坂打たれている)を押さえて、8回まで、1点止まり。「代わりにしょう兵にやられた。」と息子弁。



今年は、最初から若いレフト、カルロス・クエンティンの活躍が目立っていて、ホームランダービーのトップを行く。私は、カブスのテリオとともに若くてパワーのあるクエンティンに今季は注目していたが、この日はさすがに松坂選手も警戒していたのだろう。さっぱり打てず。クエンティンのホームランは見れなかった。クエンティンの体型を見ると、なんとなく井口選手を思い出す。構えは違うのだけど、クエンティンの振り切った瞬間もなぜか井口選手のふりに似ているような気がする。





さて、9回の裏、点差が開いていたので、お客さんも帰りだした。ピッチャーも松坂選手から交代。クエンティンの後、ホームランバッターで人柄のいいジム・トーミィ。なんとなくホームランを打つような気がしたので、カメラを構えて、シャッターチャンスを狙った。狙いはドンピシャ。見事なホームラン!





しかし、その後打線は続かず、6対2でレッドソックスの勝利。勿論松坂選手勝利投手。これで、防御率も上がるね。



よかった、今日は松坂選手の好投を見れて、トーミィのホームランも見れて。私の大好きなカネルコとクリーディがでていなかったのが、とても残念だったが。クリーディはこのところ調子が悪く、ベンチで、代わりに3塁はユリベのようだ。ユリベは守備も安定しているし、このところバッティングの調子もいいようなので、しかたがないが。やはり、あの豆タンクのようなユリベ(ごめんよ、ユリベ)よりもクリーディの華麗な守備を見たかった。なんだか、試合の説明というよりも、個人的な趣味で終わってしまったセルラーリポートでした。

ところで、試合の後、上の息子は、クエンティンのティーシャツを買おうとしたら、セルラーの売店は閉店。球場外の屋台3店を見たが、アダルトMは売り切れ。今日もディックスでさがしたが、全部売り切れ。しかたがなく、ユースのXLを買った。クエンティン大人気のよう。今日の3戦目は32号のホームランを打っているし。この分では、新人王間違いなし!皆さま、注目!

追伸

セルラーの各ゲートの入り口の壁に、時代ごとに往年ホワイトソックスで活躍した選手たちはチームの大きな写真が時代の変換とともに順を追って張られている。これも楽しめる。1910年代のシューレス・ジョー・ジャクソンが大きく2枚も出ていて、またまた会えてうれしかった。球場に入る前にも大きくでていたし、シューレスは本当にみんなから愛され続けている。



今日は写真が多くて、アップするのに疲れたよ!

















クーパーズタウンの野球殿堂博物館を訪れる~人気のベーブ・ルースギャラリー~旅行記その3

2008-08-09 | メジャーリーグ
クーパーズタウンの野球殿堂博物館は、野球殿堂入りした選手たちの偉大なる軌跡をたどりながら、ナショナル・パスタイム(国民的娯楽)と呼ばれ、アメリカの誇る文化としての野球の歴史を学ぶ貴重な場所だ。他の国に比べて、歴史の浅いアメリカという国の人々にとっての心の故郷、歴史とともに歩んできた人々の心の置き所となるのが野球なのだろう。

「野球発祥の地」と言われたダブルディ・フィールドのあるクーパーズタウンに野球殿堂博物館を作ったのは、自然のなりゆきだったろうし、その博物館に敬意を表して、年間約35万人もの人々が世界中から訪れる。「野球の聖地」と呼ばれる意味が分かるような気がする。

1階から3階まで、すべてをまわり切れないほどのおびただしいほどの野球にまつわる展示物。19世紀初頭の選手たちが使っていたグローブは、シンプルで、こげ茶の大きな手袋のようで、なんだかあまりピンとこない。




その時代に活躍した野球史に残るピッチャー、サイ・ヤング、クリスティ・マシューソン、ウオルター・ジョンソンたちが使っていたバットやグローブが、ガラス越しに静かに息づいている。各選手たちの残した記録に精通している人は、じっと真剣に見入って微動だにしない。私もこの夏に「アメリカ野球の歴史」のクラスをとって、ざっと野球史を勉強したすぐ後に来たので、写真をとりながら、「あっ、あのときの選手!」と感嘆の声を思わず上げていた。


近代メジャー史上初の完全試合を達成し、1910年に通算500勝を上げた最強ピッチャー、サイ・ヤングのコーナー

そして、しばらくその場にたたずんでしまったのは、シューレス・ジョー・ジャクソンの展示物。シューレスが着ていた1910年代の古い時代のホワイトソックスのユニフォーム。前の投稿で紹介したブラックソックススキャンダルで、無念にも野球界を永久追放された、私たちの永遠の悲劇のヒーロー、シューレス・ジョー・ジャクソン。


シューレスは、八百長をしようとするチームの他の選手たちの態度ににとまどいながらも、このグローブで、スキャンダルが起こった1919年のレッズとのワールドシリーズで、エラー1つせずにいい守備を見せたのだろう。これらの物をジーンとした気持ちで見ながら、いつの日にか、シューレスがこの野球殿堂に入れることを心から願う。

さて、この博物館におけるハイライトは、やはり、この階にある「ベーブ・ルースギャラリー」だろう。殿堂入りした選手やそうでない偉大な選手たちの各コーナーは、大きくても一角なのだが、ルースだけは、格が違う。1つの部屋になっていて、野球がらみのものだけではなく、プライベートな写真や物まで紹介されている。入り口に掲げてある写真のルースは、金遣いが荒かった時代の毛皮の襟のついたコート姿で写っている。この部屋に入るのに、しばらく待つほどの列。人がひけるのを待って、他を一通り回った後で入らなければならないほど混んでいた。それほどルースは、野球界で一番人気だということだろう。


ルースギャラリーの入り口にて、やっぱり、ルースの前では、敬意を表して、ヤンキースのティーシャツで一緒に写らないと!上の息子が、「クーパーズタウンへの旅では、カブスのティーシャツを持っていくのは言語道断で、ヤンキースでないとダメだ!」と言い張ったが、正解だった。


これが、ルースの重くて長いバット。

ルースの偉業を振り返るビデオまで映し出されていて、アメリカ野球の神様としてみんなから崇拝されるヒーローの素顔が見られる貴重な部屋だ。

~この項続く~

クーパーズタウンの野球殿堂博物館を訪れる~旅行記その2

2008-08-08 | メジャーリーグ
ロチェスターから車で2時間半ぐらい、ファームなどが点在する高原地を走る。「こんなド田舎に世界中から人々が訪れる野球殿堂博物館が存在するのか?!」という大きな疑問が頭をよぎる。ヤンキースとメッツという2大人気のメジャーチームをかかえる大都会、ニューヨークから車で5、6時間もかかるというから、ますます不思議な場所に存在する。


車から見えた表示。海抜1262フィートに位置するとある。

そこそこ感じのいい避暑地風の湖を抜けると、可愛らしい町、野球少年憧れのクーパーズタウンに到着。駐車場は、野球発祥の地とよく言われる(これは、正確には間違い)「ダブルディ・フィールド」(博物館から歩いて数分)にあるが、野球殿堂博物館の目の前の道沿いに駐車できた。

そこかしこに野球がらみのお店が並び、野球が発展してきたアメリカの古きよき時代を感じさせる美しいこじんまりとした町並み。アメリカ人の憧れの野球の聖地として君臨するクーパーズタウン。いったいどこに大きな博物館があるのだろう。

「あった、あった、こんなとこに!」世に知られる野球殿堂博物館は、味わいのあるレンガ作りの大きなお屋敷風。どこに博物館があるのかわからないほどさりげない建物。道路をはさんで、少し進むと、反対側は、美しい湖。高原と湖に囲まれた素晴らしい環境に位置する。


正面玄関の上に「NATIONAL BASEBALL HALL OF FAME AND MUSEUM」と大きく文字がでている


正面玄関の横に、今年殿堂入りしたメンバーの写真の旗がかけられていた。監督やオーナーなど。一番大きく紹介しないといけないピッチャー、グース・ゴサージの写真をだしていないのが、残念!ホワイトソックスやカブスでも活躍した。


胸を躍らせながら、ドアを押すと、泣く子も黙る野球の神様、ベーブ・ルースと1939年から1960年までレッドソックスでプレーした最後の4割打者、テッド・ウイリアムスが目の前に出迎える。人物大の彫刻の人形がバッティングしている。アーモンド・ラモンタンというアーティストが博物館に寄付した作品。主人がチケットを買っている間、息子たちは、早速並んで憧れのルースと写真撮影。



私のお気に入りのテッド・ウイリアムスは、ちょっと似てないなあ。写真では、もっと細いイメージで、ハンサムだぞ!ウイリアムスが、1941年に4割6厘を打って以来、メジャーには4割以上を打った選手はでていない。よくイチローが4割を打てるかが焦点となるが、それほど大変な偉業だということだ。

先月、私がとっていたハーパー・カレッジの「アメリカ野球の歴史」のクラスで、テッド・ウイリアムスが1941年に4割達成したときの映像を見た。ディパルマ教授の話だと、シーズン終了前のダブルヘッダーで、3割9分9厘5毛と4割をきっていたので、回りから休むように勧められたというが、ウイリアムスは果敢に4割に挑戦したという。そして、見事8打数6安打で、4割にのせる。想像を絶するプレッシャーをはねのけて、偉業を達成したウイリアムス。ウイキペディアのテッド・ウイリアムスの項によるとなかなか頑固で、メディアとも折り合いがよくなかったという。しかし、映像のウイリアムスは、誠実で優しそうな雰囲気がただよっていた。気難しいという印象を与えるぐらいでないと打率4割というとてつもないことは、達成できないのかもしれない。



2階の「Cooperstown Room」で、博物館の設立の経緯や当時の試合の模様、使われていた道具などを見る。そして、係の人に促されて、191人収容の小さな映画館の部屋へ入る。



USセルラーフィールドを模したミニチュア版の球場の座席。この写真の部分が、スクリーンになる。天井には、ベーブ・ルースやジャッキー・ロビンソンらの歴代活躍した選手たちの顔写真が映し出される。「The Baseball Experience」というタイトルで13分間という駆け足でアメリカ野球の醍醐味を味わう。ときおり日本のプロ野球も垣間見たりして、(息子が「福本だ!」と叫んでいた。)なかなか面白かった。

~この項続く~また、この投稿にも情報や写真を追加しますので、みてみてください。

ハーパー・カレッジ「アメリカ野球の歴史」のクラス終了!

2008-07-31 | メジャーリーグ
今日は、ハーパー・カレッジの「アメリカ野球の歴史」のクラスの最後の授業だった。2ヶ月間、1回の授業が2時間半で、週2回というハイペースで、歴史の専門家として、ハーパーで一番定評のあるトーマス・ディパルマ教授が、ときおり、アメリカ史とからめながら、密度の濃い内容のアメリカの野球の歴史を駆け足でたどった。

最初にアサインメントにだしたベストなチームの分析と今までの選手を振り返りながら、ベスト6の選手をディパルマ教授が選ぶ。以下彼が列記した順位と教授のコメント。

6位は現役のアレックス・ロドリゲス
5位、ジョー・ディマジオで、「オールラウンドプレイヤー」と呼んでいた。
4位、ハンク・アーロン
3位、ジャッキー・ロビンソン、野球という次元を超えた大きな影響をアメリカ社会に及ぼしたという意味もあり、昔の選手だが、現代野球の選手としても立派に通用する。
2位、ウイリー・メイ
1位は、野球の神様、ベーブ・ルース、誰も文句のつけようなし。「バスケットのマイケル・ジョーダンのような存在」と言っていた。

学生たちが、口々に自分たちの野球ヒーローを叫ぶ。「カル・リプケン・ジュニア!」「ケン・グリフィー・ジュニア!」「ピート・ローズ!」
女学生のモリンダは「ルー・ゲーリック!」熱狂的なカブスファンの彼女は私と同じ趣味のようで、カブスのテリオとフォンテノーのファンだった。その他、高校を卒業してすぐで高校野球を経験したデビットは、初期の頃活躍した「ホーナス・ワグナー!」を選んだ。ハイパワーを合わせ持つベストヒッターの「テッド・ウイリアムス」忘れちゃいけない「シューレス・ジョー・ジャクソン」

そして、スーパーな守備で印象に残っている選手たちをみんなが言い合う。「オジー・スミス」「ゲーリー・マシュー」「ケビン・ミッチェル」素手でボールを捕ったという。

ここで、カブスファンのジャスティンが、「イグチが、ベース際で捕って、体全体をカーブして投げてアウトにしたすごいプレーを覚えている。」と言う。みんなが「そうそう、あれはすごかった!」と口々に言う。「(ホワイトソックスがワールドチャンピオンになった)2005年の出来事か?」と聞くと、熱狂的なホワイトソックスファンのブライアンが「2006年」と答えてくれた。みんな好きなチームの試合は最初から最後まで見ているというわけか。このクラスをとった学生たちは、野球を心底愛しているようだ。

毎回、授業が始まるとすぐ、ディパルマ教授が休みの間のメジャーリーグに起こった突起だった出来事をみんなに聞くと、みんな目を輝かして、さまざまなプレーや各チームの分析を言い合う。カブスかホワイトソックス、あるいは日本人メジャーリーガーがでているチームの試合を見るぐらいしか時間のない私にとって、みんながあらゆるチームの選手たちのプレーがちんぷんかんぷんだった。ディパルマ教授が、「このクラスはカジュアルだ。」と言っていたが、みんな好きな分野なので積極的にフランクに発言していた。

授業が早めに終わったので、ディパルマ教授になぜこのようなユニークなクラスを作ったのか聞いた。「野球は、アメリカ社会の市民権運動などの大きな歴史的な出来事を反映している。野球というレンズを通して、アメリカの歴史をつかんでみたかった。私は、フットボールやボクシングなども含めてスポーツが好きだが、野球が一番好きなスポーツで、両親、兄弟たちの影響も大きい。」とディパルマ教授は、うれしそうに語る。このクラスをとった学生たちが、授業を楽しみながら、きちんとアサインされた本をすべて読み、ジャーナルも詳しく書き続けたので、とても満足そうだった。みんな最後は、口々にディパルマ教授に握手しながら、お礼を言っていた。こんな最後の授業の光景はめずらしい。写真におさまったクラスのみんなは、とてもうれしそうだ。



ディパルマ教授は、このクラスを3年間かかって熟考し、ハーパーのマーケティング部と共に「スポーツ史」のクレディットのクラスとして、他の大学にもトランスファーできるように設定したという。勿論、ディパルマ教授もこのようなクラスは初めて教えるのだとういう。息子の野球チームのお父さんコーチやお母さんたちにこのクラスのことを言ったら、みんな目を輝かせて、「そんなクラスがあるのかい?」「受けたい!」「僕が教えてみたい!」と言いながら、昔のメジャーリーガーの話で盛り上がっていた。アメリカ人にとって、野球というのは、みんなの心のふる里なのかもしれない。

ディパルマ教授は、エバンストンで生まれて、シカゴ界隈で育ち、小さな頃は、イーストコーストから移り住んだお父さんの影響で、ジャイアンツの大ファンだったという。14歳ごろからジャイアンツとカブスの両方のファンになり、大人になって、熱狂的なカブスファンになったという。



なんと1965年に、お父さんに連れられていったリグレー・フィールドで、ジャイアンツ対カブス戦で、日本人初のメジャーリーガー、村上雅則のピッチングを見たという。ジャイアンツがリードしていて、リリーフで2番手ぐらいにでてきて、見事なピッチングをしたらしい。そのときに一緒にプレーしていたアウトフィールダーが、ウイリー・メイズで、(全盛期だったという)またまたすごいキャッチをして、カブスのロン・サントが土をけるほどくやしがったのを克明に覚えているという。村上は、2年しかメジャーでプレーしなかったから、その村上のプレーを見たという人はめったにいないのではないか!と息子と言っていた。

ディパルマ教授は、7歳ぐらいに読んだ最初の本が、「市民戦争」のような歴史物と「野球」に関する本で、それ以来この2つの分野をずっとリサーチして、追い続けてきたという。この2つに、いつも共通する何かを感じていたようだ。歴史のあるスポーツ、野球から、19世紀のアメリカの歴史をとても感じるのだという。アメリカの歴史自体も他の国に比べて古くない。アメリカの歴史と共に、アメリカ人の心に野球が常に存在したというわけだろう。選手は7回失敗しても3回成功したらよく、試合も込み入っていて、かなりアップアンドダウンのある、スポーツ、いわば私達の悲哀のある人生を反映しているような感じだとつくづく言っていた。

まずは、第1回目の「アメリカ野球の歴史」のクラスが大成功に終わって、よかったと思う。先生になるためにマスターをとろうとしているモリンダは、この夏は、このクラスだけ取っていたという。とても楽しかったという。野球史を学びながら、アメリカ史を理解することの醍醐味にみんなが共感していた。ブロードウエイで、俳優をしながら、世界中を回っていたスティーブも毎回熱心にノートをとり、ジャーナルを詳しく書いていた。スティーブは転職し、先生をめざしているという。さまざまな分野を通して、歴史を学ぶことの楽しさをみんなディパルマ教授から教えてもらった。今後もこのクラスを受ける学生たちは、ラッキーだ。ありがとう!ディパルマ教授!

まだまだこのクラスの内容を書いていない部分があるので、また投稿しますので、読んでください。






1970年代のメジャーリーグ<その1>~ルースのホームラン記録714号を破ったハンク・アーロン

2008-07-30 | メジャーリーグ
今週のハーパー・カレッジの「アメリカ野球の歴史」のクラスは、1970年代のメジャーリーグで活躍した選手たちやチームをDVDで紹介しながら、ディパルマ教授が分析した。

ディパルマ教授の「1970年代」という分析プリントによると、教授が選んだオールスターチームのメンバーの中に、よく名前を聞く選手がでてきた。ジョニー・ベンチ、マイク・シュミット、バリー・ボンズの父、ボビイ・ボンズ、レジー・ジャクソン、そしてピート・ローズなど。ピッチャーの中に先週クラスにきて、講演をしてくれたビル・キャンベルの名前もあったので、感激!ビルは、地元パラタインに住んでいるから、また会えるかな。

この分析プリントにあった、1970年代のベスト5項目、ワースト5項目という部分が面白い。ワーストは、選手とマネジメントとの闘争、環境の悪い球場の出現、引き続く人種差別、ファンの暴飲、暴力など。

ベストの筆頭は、ハンク・アーロンが不滅と言われたベーブ・ルースの714本のホームラン記録を塗り替えたことだ。アトランタ・ブレーブスにいたアーロンがルースの記録にあと1本とせまったオフのとき、1日に3000通ものほとんど名前のない手紙が届き、マスコミからの重圧もあり、苦悩の日々を送ったという。白人である偉大なルースの偉業を黒人であるアーロンが抜くことに対する脅迫状も多かったという。アーロンは苦しみながら、「ルースを忘れて欲しいのではない。ただ、みんなに私のことを覚えていてほしいだけだ。」と謙虚に語った。

DVDで見たのは、1974年のシンシナッティでの開幕戦の第1打席で通算714号を放ち、ルースの記録に並んだときの貴重な映像。そして、4日後の4月8日、本拠地アトランタで、高めの球を見事ホームランに持っていき、715号という数字が電光掲示板に輝く。ホームに飛び込み、みんなの祝福を受けながら、両親と抱き合うアーロン。母親としばらく抱き合って、興奮をわかちあう。「Move over Babe. Here comes Henry」という事実そのままの歌も当時ヒットしたという。

アーロンは、通算本塁打755号を打ち、1977年9月3日に、756号のホームランを打った日本が誇る王貞治にその偉大な記録を抜かれた。私は、このときの王のホームランを目撃したという熱狂的な興奮を覚えている。755号を王が打ったとき、そして756号を打ったとき、そのときの各打席のラジオ中継を克明にテープに録音し続けた。まだ、ビデオが自宅になかった時代だ。それほど、世界の王の決定的な瞬間を記録したかったほどの大ファンだった。流れるような独特の1本足打法から打ち出される、高々としたホームランのアーチは、いつもすごかった。王が1本足打法を荒川コーチと生み出すまでのすさまじい練習の映像もまざまざと覚えている。たしか畳が擦り切れるほど素振りをして、刀でわらを切ったり、刀で1本足打法をしていた。なぜ刀だったのだろうか。フォアボールのときも王は、表情1つ変えず、淡々と1塁にでていたのを尊敬のまなざしで見た。アーロンと王はホームラン競争をし、アーロンが1本差で勝った。

私が日本で一番野球を真剣に見ていた時代。勿論、長嶋のプレーに感嘆の声を上げていたが・・・大昔、巨人全盛だった頃の「鉄のカーテン、川上野球」の時代だ。毎週テレビ漫画の「巨人の星」を試合と同時進行で、(やや漫画は遅れながら)楽しみにして見ていた。しかし、大人になると、忙しくなり、なかなか1試合フルで観れなくなり、自然に野球から遠のいた。

明日で、6月から駆け足でアメリカ野球の歴史を振り返ったこのクラスもいよいよ最後。月曜日にハンク・アーロンの映像を見たので、王の姿もアメリカ人の学生たちに見てほしいので、ユーチューブで見るのを教授に提案してみよう。

また、今日の投稿に写真等追加するかもしれないので、チェックしてみてください。1970年代の選手たちの紹介はまだまだあります。    ~この項続く

シャンバーグ・フライヤーズの試合はピクニック気分!

2008-07-28 | メジャーリーグ
昨日は、ノーザン・リーグという独立リーグに所属する地元のプロ野球チーム、シャンバーグ・フライヤーズの試合をアレクシアン・フィールドという小ぶりの親しみやすい球場で、のんびり観戦した。ローンシートという芝生席のチケットを1人6ドルで買い、ローンチェアや毛布をかついでいく。



大規模なメジャーリーグの球場と違って、7000人ぐらい収容の球場なので、かなり小さく、座席とダイヤモンドが妙に近く、目線の先に選手がいるという感じだ。ファーストベース先のがらりとしたローンシートのセクションは、ところどころはげた芝生。なだらかな坂になっているので、一番前か一番てっぺんでないと、ローンチェアは置けない。下の息子は、毛布をひいたら、早速ころがっている。



目の前で選手たちが練習をしている。見渡すと、フィールド全体が自分の視界にすっぽりと収まるという印象で、なんだか昔ながらの球場にきたような郷愁を誘う。すべてが小ぶりで、おもちゃの球場のような感じだ。でも、あまりにフィールドに近くて、ファウルが飛んできたら、体に当てそうでこわい!先日息子の試合で、おなかにボールが直撃し、かなり痛く、青あざになってしまったので。

球場がとても低いので、青空にすっぽりと包まれて気持ちがいい。フライヤーズの帽子をかぶっているファンはまばらで、各自それぞれメジャーリーグのお気に入りの帽子やティーシャツを着ている。ウーン、うちもさすがにフライヤーズの帽子を買うほどではないかな。

しばらくして、20番の背番号をつけた若い選手にファンが集まってきて、サインをし始めた。みんなが気付いて次から次へとサインをねだるが、その選手はまったくいやな顔をせず、黙々としゃべりながら、サインをしている。ロースターで背番号を調べると、その選手はジャスティン・ジョーダンというピッチャー。フライヤーズのエースなのだろうか?


サインをひたすらするカッコいい選手、ジャスティン。

この日のフライヤーズのピッチャーは、背番号25番のスティーブ・シッペイ。ホームページのロースターの写真より実物は太っている。


左側のユニフォーム姿の選手が、この日の先発ピッチャー、スティーブ。

みんなサインを気軽にしたり、友達のようにファンと気軽にしゃべっている。なんて、感じのいいチーム。ファンをとても大事にしているのがわかる。

他の選手たちもベテランでもう若くないのか、ずんぐりむっくりの体型の選手もいた。逆に筋肉隆々の若いメジャーリーガーの卵のような感じの選手、背番号16番、ロブ・フィッシャーという選手がいた。また、メジャーリーグの黒人スラッガーのようないかにもパワーヒッターという雰囲気の打順4番のDHで背番号40番のカルビン・ピッカーリングなどなど個性的だ。

シャーンバーグ・フライヤーズは、1998年に元ホワイトソックスのスラッガー、ロン・キトルが監督に就任して、設立したまだ歴史の浅い球団。現在は、今年2年目の37歳のスティーブ・マドックが監督。マドックは、建築家もしながら、2002年、セントラルリーグという独立リーグのサンアンジェロ・コルツの監督でチームを優勝に導いている。8年間も独立リーグで監督やコーチの経験がある。きっと給料が安いので、コーチや選手たちも各自さまざまな職業をかけもちしながら、愛する野球をし続けているのだろう。

マドックは、今年の2月、息子たちの通っているベースボール・アカデミーに他の2人の選手たちときて、フリーのクリニックをしてくれた。このように、シャンバーグ・フライヤーズは、地元と密着してさまざまな活動をしているようだ。

2月のフライヤーズのベースボールクリニックの私の投稿は、
http://blog.goo.ne.jp/kuniwindycity/e/37f5a761c86895099499f05e5568493eを参照。

試合開始前の選手紹介では、リトルリーグのチームの子供たちと一緒に選手たちがでてきて、交流しながら、ナショナルアンサムが流れる。これは、「ベースボール・バディ」というキッズプログラムの1つ。友達のチームもチームパーティーで利用したと言っていたから、これはなかなか人気のプログラムなのかもしれない。

また、フライヤーズ・ダンスチームというチアガールがいて、試合前の雰囲気を盛り上げる。まるでなんだかバスケットボールのブルズの試合のようなのりだ。係りの人が何かグッズをスタンドに向けて投げたり、野球とバスケットをたして2で割ったような演出だ。

さて試合が始まったが、いきなり相手チーム、カンザスシティ・ティーボーンズに初回に立て続けにヒットを打たれ、点数が入る。1回表に2ランホームランもでて、一方的な試合に、なーんだ、つまらないなあ。と思っていたら、フライヤーズもすぐに反撃。両チームともエラーもでて、あまりしまりのない試合展開だ。独立リーグ、守備はあまりうまくないようだ。

面白いのは、得点ボードなどは人が立ってボードを付け替えること。掲示板自体が低く、とても小さいので、こんなことができる。なんともいえないほど味わいのある球場だ。私は、いっぺんでこのアレクシアン・フィールドが気に入ってしまった。





もう1つ面白いのは、私たちが観ていたまん前のピッチャーがウオーミングアップする後ろにいくつかイスがあり、4、5人の選手が試合中も座っていたことだ。控えのピッチャーなのだろうか?それにしても多い。相手チームの方も同じように座っている。



試合は、フライヤーズもホームランがでて、打撃戦となり、フライヤーズがかなりリードしたので、試合途中8時過ぎに私たちは帰った。結果は、16対13でフライヤーズの勝ち。この日は、夜遅くまでいたら、イベントで花火が見れたようだ。

地域密着型の球団、シャンバーグ・フライヤーズは、「みんなが応援する我が村の球団」という感じで、きっと今後もみんなから愛されていくであろう。アメリカ人の地元の友達アイリーンが、「私たちのチームという感じで、心の底から野球を楽しめるから、野球が好きなら、フライヤーズやケーンカウンティ・クルーガーズ(マイナーリーグ)の試合は行くべきよ!」と言っていた。日本人の選手もフライヤーズには、去年はいたというから、今後も日本人の選手は入ってくるかもしれないから、その動向がみのがせない。

Alexian Field
1999 S. Springinsguth Rd. Schaumburg, IL 60193

847-891-2255
http://www.flyersbaseball.com



元メジャーリーガー3人が「野球の歴史」のクラスで講演!~カブス、ランディ・ハンドレイら

2008-07-23 | メジャーリーグ


じゃじゃーん!この人たちは誰でしょう?そうです。元メジャーリーガー3人衆!
昨日、メジャーリーグで活躍した3人の元選手たちが、ハーパー・カレッジの「アメリカ野球の歴史」のクラスに来て、白熱した話をしてくれた。

私が、クラスに着くと、いきなり年配の大柄の2人のアメリカ人が立っている。とても優しそうな笑みをたたえた背がひゃろりと高い人が、1973年から87年までプレーした、元レッドソックスのリリーフピッチャー、ビル・キャンベル。1977年にオールスターメンバーにも選ばれている。



もう1人の饒舌なユーモア溢れる熱血漢のアメリカ人は、1971年から80年までプレーした元ホワイト・ソックスの3塁手、エリック・ソダーホルム。ツインズ、ホワイトソックス、ヤンキースと渡り歩いている。

遅れて入ってきたアメリカ人は、カブスで有名なキャッチャー、ランディ・ハンドレイ。そんなに背は高くないが、元メジャーリーガーのオーラがでていて、なかなか貫禄がある。1964年にジャイアンツでデビューし、カブスには、1966年から73年と1976年から77年までいた。キャッチャーとして片手でキャッチングすることを父から教わり、60年代後半のカブスをささえた名キャッチャー。昔からのカブスファンなら、「ああ、ランディ・・」と知っているようだ。



なんせ、60年代から80年代のメジャーの話なので、残念ながら説明したくても、私にはちんぷんかんぷん。わかった部分だけをリポートすると・・・

冒頭で、球団オーナーの選手たちに対する横暴な年棒の決め方に、とくにランディが、「オーナーが、フェアなマーケットの価値を壊している!」と何回も訴えていた。フリーエージェントになったとたん、年棒7万5000ドルが50万ドルに跳ね上がった選手がいたという。とにかく、「Greedy(強欲)だ!」を連発していた。長年メジャーリーグでプレーしてきて、トレードも何回も味わうと、表も裏も見てしまうと、そういう思いも強くなるのだろう。

一番タフな相手は誰だったか?という学生からの質問では、エリックが、「ノーラン・ライアンだ!」ときっぱり。そのすさまじいスピードの速さが怖く、変化球のストンと落ちる長さがすごかったという。5714という奪三振記録を持つ「ライアン特急」と呼ばれて、みんなから恐れられた速球王だ。そうか、ノーラン・ライアンと対戦した人が話しているのか。となんだか不思議な感覚に襲われた。息子の話では、時速170キロ以上をだしていたというから、超人か。そんなピッチャーはもう2度と現れないだろう。

メジャーでは、精神的なプレッシャーと戦い、いかにいつも平常心をキープしていくかが成功の鍵だという。エリックが、1978年に2割4厘しか打てず、スランプにおちいった時、イリノイの病院で、白血病にかかっている子供たちとバスケットをしたときの話をしてくれた。「こんなことしていちゃいけないって、神様からおこられているじゃないかと思ったほどだよ。」それから、次の試合では、3安打を放ち、その年は2割5分8分まで打率を引き上げたという。



バリー・ボンズのステロイド問題にも話は及んだが、ランディは、「ボンズは1日5、6時間練習をするピュアな打者だ。」「ホームランを見たい!というファンの気持ちや球界全体の体質こそ考えたほうがいい。」と問題提起していた。

ランディは、メジャーを引退して、1983年からアリゾナで大人用の「ランディ・ハンドレイのオフィシャル・ビッグリーグベースボールキャンプ」を毎年行っている。さまざまな職業につく野球狂の大人たちが各地から集まってきて、メジャーリーガーのようなプレーをめざして、全力で野球を楽しむという。

最後に、元ピッチャーの優しそうなビルは、前もってサインをした自分のベースボールカードを一枚一枚私たち学生に配ってくれた。若き日のレッドソックス時代のちょっと古びたカードだ。1973年から76年までツインズでプレーし、その後80年までレッドソックスと裏に書かれている。防御率は3.32で、その当時の8年間で通算59勝39敗95セーブを上げている。

元メジャーリーガーは、ファンに配るため、昔の自分のベースボールカードを大量に持っているのだろうか。メジャーリーガーとは、引退してもその栄光のために、一生カードがみんなに喜ばれるという幸運な職業だ。息子が何年か前に一度受けたピッチングクリニックで、ジム・メッシーナという元マリーンズにいたピッチャーも自分のカードにサインをして配っていた。


右側で立っている人が、このクラスを教えているデパルマ教授。この日は、地元の新聞デイリー・ヘラルドも取材にきて、講演の後、デパルマ教授は取材を受けていた。

少年から年配の大人まで、幅広い年齢層の心をとらえてはなさない野球の魅力。私は、ほんの少しだけかじっている程度でもこんなにも心が踊る。だから、自分でプレーをして、その魔力にひきつけられたら最後一生プレーをし続けるのだろうなあ。ああ、野球、されど野球なり!