新年の挨拶と共に、友人達に「ミケランジェロ・デッサン展の感想」をお送りしたところ、早々に橋本宙八(はしもと ちゅうや)さんから読後の感想文が届いた。橋本さんは美術の専門家ではないが、ここで語られた深く核心を突いている芸術観には感動した。
橋本宙八さんはおよそ40年の経験を持つ、桜沢如一玄米菜食・マクロビオチックの現在第一人者であり、指導者である。
1986年4月の末、チェルノブイリの原発事故があった年、僕はそれまでの不養生がたたって身体の調子が悪く、このままやっていてまともに人生が送れるだろうかと、不安を持ちながら毎日を過ごしていた。同年の夏、パリ観光を兼ねて訪れた友人が、「新しき世界」という雑誌を置いていってくれた。その日、僕ら夫婦は一気に読んだ。
一般常識と正反対の視野に立つこの世界に驚嘆し、深く納得し、早速翌日から玄米菜食・マクロビオチックの実行となった。環境、食べ物、人生観、東洋思想の陰陽理論。そして何よりも、デッサンをしている中で出会っていた長谷川等伯の「松林図屏風」が一体となって、ぐるぐると物凄いエネルギーを持って渦巻き始めたのだ。僕の絵画人生はこれを実践しなければ、求める「松林図屏風」のような世界に到達出来ないだろうと思えた。
その後、マクロビオチック関係の本を手当たり次第に読んで勉強した。
橋本宙八さんはすでに先達として活躍しておられて、書かれた彼の記事を読んで、凄い人がいるものだと感心した。特に、現在、自宅兼仕事場(マクロビアン・半断食セミナー)にしているいわき山中の建物は、山奥の手付かずの原野を夫婦二人だけで伐採、開墾し、自力で建てられたものであり、奥さんのちあきさんはその自宅で、助産師さんの介助なしで自力出産、5人のお子さんを出産され、自然丸ごとの子育てをされたという、恐るべき逞しさに心底圧倒された。
1992年に、橋本さん夫妻が「チェルノブイリの放射能被爆者の子供達の保養滞在を受け入れる」という記事を読んで、感激した結子さん(早川氏の奥様)が支援カンパしたことと、その後AS会員でもある俵谷さん夫妻が、橋本さん主催の半断食セミナーに参加したことがご縁で、以来、親しくお付き合いをして頂けるようになった。
橋本宙八さん、ちあきさん夫妻の実践、行動を拝見していると、人生そのものが感動的な生きた芸術なのだ。
この紙面をお借りして、橋本宙八さんの感想文を紹介させて頂くことをお許し願いたい。
2011年2月 早川俊二
早川俊二様
ミケランジェロ展の感想文、お送りいただきありがとうございました。
絵に関して素人の私が絵画展に行っていつも気になることは、絵をどのように楽しめばいいのか?という、じつに素朴な疑問です。
何かを感じれば、とか、楽しめば、とか言われますが、ルーヴル美術館で絵を見た時に最も興味が湧いたのは、有名な画家たちが、どのような目的や気持ちで絵を描いているのだろうか?というものでした。描かれている世界が、一体何を表しているものなのか?にもっぱら強く興味を惹かれたのです。
そんなこともあって、早川さんが他人の絵をどのような視点で見ているのかは、とても興味のあることでした。その意味で、今回のミケランジェロ展の感想は、なるほど、早川さんはそんな気持ちで絵を見ていたのか?ということが分かり、とても面白かったです。ありがとうございました。
その感想の中で「芸術とは何か?」について考えたと言われていますが、これは、早川さんの真摯な、そして、自分のされていることの原点を忘れないようにという姿勢が出ている、とても素晴らしい自問だと思いました。ミケランジェロのデッサンが驚くほど「自然」であった、という感想にも「なぜ早川さんはそう感じたのだろう?」と、とても興味を持ちました。
私事ですが、昨年の暮れに大学時代の恩師である北沢方邦氏(文化人類学者=信州大学名誉教授)が80歳にして数ある著書の中で初めて詩集を出し、それを贈ってもらった際、お礼に書いた一文を思い出しました。
氏は、ピアノもフランス語も英語も数学も、すべて独学で身につけたという、驚くべき才能の持ち主で、構造主義やインディアン文化をいち早く日本に紹介した人でもあり、知的な文明論者として、日本の知者30人の指に入ると言われている人です。
そんな北沢先生がつい先頃上梓した詩集は、「目に見えない世界のきざし」。そのテーマは、「見える文明から見えない文明へ・・・」。いわば、現代文明が、その行き詰った壁を打破するためには、物質的、経済的、見える世界を中心に展開している西洋文明一辺倒の世界から、より精神的、文化的、見えない世界をも包含してある東洋の文明への転換に移行していかなければならないという、新しき文明論を高らかに謳った詩集です。
その詩集を読んで、なぜ先生が、人生の集大成の時期に当たる今頃、得意の知的、論理的表現の文明論ではなく、詩という芸術によるものだったのか?という疑問を感じました。そこで、私なりに、「見えない世界の重要性を提言し続けていた先生にとって、言語や論理での表現方法は、当初からもっとも大きなジレンマであり、それを超えた世界で表現したかったのではないのでしょうか?」そのためにも、「自然や宇宙、その本質のリアリティーをそのままに、先生のいのち丸ごと表現するためには、芸術という形でしかそれを表すことが出来なかったのではないのでしょうか?」という感想を書かせてもらいました。これは、思いがけず先生にも喜んでいただきましたが、じつは、これが「芸術とは何か?」に対する私なりの見解だと思っています。
これを書きながら、5年ほど前、パリ訪問の際、早川さんに現代絵画のギャラリーに連れて行ってもらった時のことを思い出しました。その時、とても印象に残っているのは、現代アートのインスタレーションを見た後で、「作品に神を感じられないものは、ただのガラクタだと思うな」という早川さんの一言でした。
これは、一緒にルーヴル美術館に行き、多くの優れた古典の作品を見た後であっただけに、「まさにその通り!」と思う一言でした。「神を感じさせるもの」に、「芸術とは何か?」の深遠な早川流の解釈が見事に言い尽くされているように感じました。もちろん、特別な宗教者ではない早川さんですから、この神という意味が、世間でいうところの、キリストやブッタやモハメッドであるはずがありません。それは、宗教を包含してあるところの宇宙の実在、真理、究極のリアリティーといったものでしょう。恩師の北沢方邦氏が、言語や論理で語りつくせなかった文明論を、詩の世界で表したいと思った意味もまたここにあるように思います。
ミケランジェロのデッサンが思いのほかさりげない「自然」であった。という感想もまた素敵でした。ミケランジェロについてはごく一般的な知識しかない私にとって、早川さんのこの一言で、コロリと、「ああ、やっぱりミケランジェロって偉大な芸術家だったんだ!」と認識を新たにさせられました。(笑)
なぜそう思ったかと言えば、じつは、初めてのルーヴル美術館で、何時間もかけて作品を見終った時、私が感じた率直な感想は「少々うんざりした」だったからです。
というのは、数ある作品のどれもが人間の姿に具人化されたものばかりで、これでもかというほどに色を使い、脂ぎっていて、饒舌で、写実的過ぎて、絵画に素人の私にとって、見えない世界を見ようとする、微かな感性を邪魔するものばかりに思えたからです。言うなら、その時の私にとっては、神を描いてあるはずの作品に、少しも神を感じることが出来なかったからでした。これは、私の力量の無さであることは言うまでもありません。
勿論、そこにあった作品が、見えない世界を色でリアルに描こうとする西洋人の手になる作品ばかりであることは重々承知の上でしたが、現実にそれを目の当たりにして見ると、それらが、私の想像や感性をはるかに超えて強烈なものであったからだと思います。その意味で、ミケランジェロの作品にはそうしたものとは異なった、驚くほどさりげない「自然」、つまり、神や宇宙のリアリティーを感じた。という早川さんの感想に、やはり偉大な芸術家は、西洋、東洋の区別無く、手法の区別なく、モノや現実を超えた世界を描けているんだなと知り、とても嬉しい気持ちになったのです。
偉大な芸術とは、論理や言語を超えて、宇宙(神、仏)のリアリティーを作品の上に、この、今という消えゆく一瞬の内に、作者や見る側のすべての感性、世界観、いのちも環境も丸ごと包含して存在するもの、まさに自然のように、空気のようにさりげなく、そこになくてはならずアラワレテ在るもの・・・なのかも知れませんね。
西洋の油絵と東洋の墨絵の手法は、180度その目指すところが異なっていると思います。見える世界をことごとく描こうとすれば、七色を存分につかって描く世界となるでしょうし、色であって色でない黒と白しか使わない墨絵の世界は、いわば、色を極力使わずに色の世界をどれだけ存分に心の中にアラワレさせることが出来るか?という世界ではないかと思います。これは、どちらがいいとか悪いとかいうものではなく、まさに国や民族の感性の違いであり、共に優れた芸術の異なる方法だと思います。
その意味で、早川さんの絵についての私見を述べれば、早川さんは、見える世界を描き出すのに便利な西欧的絵画の手法(油)によって、色を使わない東洋的な墨絵の世界、つまり、見えない世界を徹底的に描きたいと思っているのではないのでしょうか?
これは描く側にとっても、色によって色を消すという、大変矛盾した行為でもあると思いますが、その困難な世界に挑戦しているのが早川さんの絵ではないかという気がします。
大好きな友人を思い切り褒めるとすれば、「パリという、欧州の“見える世界”の本拠地に長年どっぷりと住みながら、遠い“見えない世界”の日本の心をいつも想い、だからこそ余計に、私たち以上にそのことをいつも強く想い、身体を張って、絵によって西洋文明と東洋文明の架け橋になろうという芸術の新境地に果敢に挑戦しているすごい画家!」ということになります。そして、その難しい課題をすでにかなりなまでに具体的に成功させている人、それが画家、早川俊二ではないだろうか?とそう思っています。
まさにこれは、私の恩師が言語と論理の壁を感じながら、詩という芸術によって新しい文明論を伝えようとしているのと同じことではないか?と思いました。
的外れな感想であったらご容赦!
閑話休題ですが、かつて地元福島の造り酒屋の蔵元を訪ね、そこの杜氏さんと話をした時、私の、「どんな酒を造りたいですか?」と言う質問に、彼は間髪入れずに、「水のような酒を造りたいですね」と言いました。それを聴いた時、「これこそ究極の酒だ、この人はすごい!」とその杜氏さんの酒というものに対する深い理解を感じたことがありましたが、この心は、どこか早川さんの絵に賭ける思いに通ずるところがあるのではと思っています。
水は酒と違い、いつでもどこでも、死ぬまで飲み続けなければならないものですからね。これもまた的外れのコメントでしたらゴメンナサイ。
以上、嬉しかった早川さんの感想文に対する私見です。早川さんには、今後もぜひ芸術の王道を究めていただきたいと心からそう願っています。
今年もまた、作品作りにとって良い一年でありますように・・・・。
2011年1月7日 橋本 宙八
写真は2009年3月アスクエア神田ギャラリーにて開催された早川俊二大作展の中の作品
「まどろむAmely-1(2008)」
橋本宙八さんはおよそ40年の経験を持つ、桜沢如一玄米菜食・マクロビオチックの現在第一人者であり、指導者である。
1986年4月の末、チェルノブイリの原発事故があった年、僕はそれまでの不養生がたたって身体の調子が悪く、このままやっていてまともに人生が送れるだろうかと、不安を持ちながら毎日を過ごしていた。同年の夏、パリ観光を兼ねて訪れた友人が、「新しき世界」という雑誌を置いていってくれた。その日、僕ら夫婦は一気に読んだ。
一般常識と正反対の視野に立つこの世界に驚嘆し、深く納得し、早速翌日から玄米菜食・マクロビオチックの実行となった。環境、食べ物、人生観、東洋思想の陰陽理論。そして何よりも、デッサンをしている中で出会っていた長谷川等伯の「松林図屏風」が一体となって、ぐるぐると物凄いエネルギーを持って渦巻き始めたのだ。僕の絵画人生はこれを実践しなければ、求める「松林図屏風」のような世界に到達出来ないだろうと思えた。
その後、マクロビオチック関係の本を手当たり次第に読んで勉強した。
橋本宙八さんはすでに先達として活躍しておられて、書かれた彼の記事を読んで、凄い人がいるものだと感心した。特に、現在、自宅兼仕事場(マクロビアン・半断食セミナー)にしているいわき山中の建物は、山奥の手付かずの原野を夫婦二人だけで伐採、開墾し、自力で建てられたものであり、奥さんのちあきさんはその自宅で、助産師さんの介助なしで自力出産、5人のお子さんを出産され、自然丸ごとの子育てをされたという、恐るべき逞しさに心底圧倒された。
1992年に、橋本さん夫妻が「チェルノブイリの放射能被爆者の子供達の保養滞在を受け入れる」という記事を読んで、感激した結子さん(早川氏の奥様)が支援カンパしたことと、その後AS会員でもある俵谷さん夫妻が、橋本さん主催の半断食セミナーに参加したことがご縁で、以来、親しくお付き合いをして頂けるようになった。
橋本宙八さん、ちあきさん夫妻の実践、行動を拝見していると、人生そのものが感動的な生きた芸術なのだ。
この紙面をお借りして、橋本宙八さんの感想文を紹介させて頂くことをお許し願いたい。
2011年2月 早川俊二
早川俊二様
ミケランジェロ展の感想文、お送りいただきありがとうございました。
絵に関して素人の私が絵画展に行っていつも気になることは、絵をどのように楽しめばいいのか?という、じつに素朴な疑問です。
何かを感じれば、とか、楽しめば、とか言われますが、ルーヴル美術館で絵を見た時に最も興味が湧いたのは、有名な画家たちが、どのような目的や気持ちで絵を描いているのだろうか?というものでした。描かれている世界が、一体何を表しているものなのか?にもっぱら強く興味を惹かれたのです。
そんなこともあって、早川さんが他人の絵をどのような視点で見ているのかは、とても興味のあることでした。その意味で、今回のミケランジェロ展の感想は、なるほど、早川さんはそんな気持ちで絵を見ていたのか?ということが分かり、とても面白かったです。ありがとうございました。
その感想の中で「芸術とは何か?」について考えたと言われていますが、これは、早川さんの真摯な、そして、自分のされていることの原点を忘れないようにという姿勢が出ている、とても素晴らしい自問だと思いました。ミケランジェロのデッサンが驚くほど「自然」であった、という感想にも「なぜ早川さんはそう感じたのだろう?」と、とても興味を持ちました。
私事ですが、昨年の暮れに大学時代の恩師である北沢方邦氏(文化人類学者=信州大学名誉教授)が80歳にして数ある著書の中で初めて詩集を出し、それを贈ってもらった際、お礼に書いた一文を思い出しました。
氏は、ピアノもフランス語も英語も数学も、すべて独学で身につけたという、驚くべき才能の持ち主で、構造主義やインディアン文化をいち早く日本に紹介した人でもあり、知的な文明論者として、日本の知者30人の指に入ると言われている人です。
そんな北沢先生がつい先頃上梓した詩集は、「目に見えない世界のきざし」。そのテーマは、「見える文明から見えない文明へ・・・」。いわば、現代文明が、その行き詰った壁を打破するためには、物質的、経済的、見える世界を中心に展開している西洋文明一辺倒の世界から、より精神的、文化的、見えない世界をも包含してある東洋の文明への転換に移行していかなければならないという、新しき文明論を高らかに謳った詩集です。
その詩集を読んで、なぜ先生が、人生の集大成の時期に当たる今頃、得意の知的、論理的表現の文明論ではなく、詩という芸術によるものだったのか?という疑問を感じました。そこで、私なりに、「見えない世界の重要性を提言し続けていた先生にとって、言語や論理での表現方法は、当初からもっとも大きなジレンマであり、それを超えた世界で表現したかったのではないのでしょうか?」そのためにも、「自然や宇宙、その本質のリアリティーをそのままに、先生のいのち丸ごと表現するためには、芸術という形でしかそれを表すことが出来なかったのではないのでしょうか?」という感想を書かせてもらいました。これは、思いがけず先生にも喜んでいただきましたが、じつは、これが「芸術とは何か?」に対する私なりの見解だと思っています。
これを書きながら、5年ほど前、パリ訪問の際、早川さんに現代絵画のギャラリーに連れて行ってもらった時のことを思い出しました。その時、とても印象に残っているのは、現代アートのインスタレーションを見た後で、「作品に神を感じられないものは、ただのガラクタだと思うな」という早川さんの一言でした。
これは、一緒にルーヴル美術館に行き、多くの優れた古典の作品を見た後であっただけに、「まさにその通り!」と思う一言でした。「神を感じさせるもの」に、「芸術とは何か?」の深遠な早川流の解釈が見事に言い尽くされているように感じました。もちろん、特別な宗教者ではない早川さんですから、この神という意味が、世間でいうところの、キリストやブッタやモハメッドであるはずがありません。それは、宗教を包含してあるところの宇宙の実在、真理、究極のリアリティーといったものでしょう。恩師の北沢方邦氏が、言語や論理で語りつくせなかった文明論を、詩の世界で表したいと思った意味もまたここにあるように思います。
ミケランジェロのデッサンが思いのほかさりげない「自然」であった。という感想もまた素敵でした。ミケランジェロについてはごく一般的な知識しかない私にとって、早川さんのこの一言で、コロリと、「ああ、やっぱりミケランジェロって偉大な芸術家だったんだ!」と認識を新たにさせられました。(笑)
なぜそう思ったかと言えば、じつは、初めてのルーヴル美術館で、何時間もかけて作品を見終った時、私が感じた率直な感想は「少々うんざりした」だったからです。
というのは、数ある作品のどれもが人間の姿に具人化されたものばかりで、これでもかというほどに色を使い、脂ぎっていて、饒舌で、写実的過ぎて、絵画に素人の私にとって、見えない世界を見ようとする、微かな感性を邪魔するものばかりに思えたからです。言うなら、その時の私にとっては、神を描いてあるはずの作品に、少しも神を感じることが出来なかったからでした。これは、私の力量の無さであることは言うまでもありません。
勿論、そこにあった作品が、見えない世界を色でリアルに描こうとする西洋人の手になる作品ばかりであることは重々承知の上でしたが、現実にそれを目の当たりにして見ると、それらが、私の想像や感性をはるかに超えて強烈なものであったからだと思います。その意味で、ミケランジェロの作品にはそうしたものとは異なった、驚くほどさりげない「自然」、つまり、神や宇宙のリアリティーを感じた。という早川さんの感想に、やはり偉大な芸術家は、西洋、東洋の区別無く、手法の区別なく、モノや現実を超えた世界を描けているんだなと知り、とても嬉しい気持ちになったのです。
偉大な芸術とは、論理や言語を超えて、宇宙(神、仏)のリアリティーを作品の上に、この、今という消えゆく一瞬の内に、作者や見る側のすべての感性、世界観、いのちも環境も丸ごと包含して存在するもの、まさに自然のように、空気のようにさりげなく、そこになくてはならずアラワレテ在るもの・・・なのかも知れませんね。
西洋の油絵と東洋の墨絵の手法は、180度その目指すところが異なっていると思います。見える世界をことごとく描こうとすれば、七色を存分につかって描く世界となるでしょうし、色であって色でない黒と白しか使わない墨絵の世界は、いわば、色を極力使わずに色の世界をどれだけ存分に心の中にアラワレさせることが出来るか?という世界ではないかと思います。これは、どちらがいいとか悪いとかいうものではなく、まさに国や民族の感性の違いであり、共に優れた芸術の異なる方法だと思います。
その意味で、早川さんの絵についての私見を述べれば、早川さんは、見える世界を描き出すのに便利な西欧的絵画の手法(油)によって、色を使わない東洋的な墨絵の世界、つまり、見えない世界を徹底的に描きたいと思っているのではないのでしょうか?
これは描く側にとっても、色によって色を消すという、大変矛盾した行為でもあると思いますが、その困難な世界に挑戦しているのが早川さんの絵ではないかという気がします。
大好きな友人を思い切り褒めるとすれば、「パリという、欧州の“見える世界”の本拠地に長年どっぷりと住みながら、遠い“見えない世界”の日本の心をいつも想い、だからこそ余計に、私たち以上にそのことをいつも強く想い、身体を張って、絵によって西洋文明と東洋文明の架け橋になろうという芸術の新境地に果敢に挑戦しているすごい画家!」ということになります。そして、その難しい課題をすでにかなりなまでに具体的に成功させている人、それが画家、早川俊二ではないだろうか?とそう思っています。
まさにこれは、私の恩師が言語と論理の壁を感じながら、詩という芸術によって新しい文明論を伝えようとしているのと同じことではないか?と思いました。
的外れな感想であったらご容赦!
閑話休題ですが、かつて地元福島の造り酒屋の蔵元を訪ね、そこの杜氏さんと話をした時、私の、「どんな酒を造りたいですか?」と言う質問に、彼は間髪入れずに、「水のような酒を造りたいですね」と言いました。それを聴いた時、「これこそ究極の酒だ、この人はすごい!」とその杜氏さんの酒というものに対する深い理解を感じたことがありましたが、この心は、どこか早川さんの絵に賭ける思いに通ずるところがあるのではと思っています。
水は酒と違い、いつでもどこでも、死ぬまで飲み続けなければならないものですからね。これもまた的外れのコメントでしたらゴメンナサイ。
以上、嬉しかった早川さんの感想文に対する私見です。早川さんには、今後もぜひ芸術の王道を究めていただきたいと心からそう願っています。
今年もまた、作品作りにとって良い一年でありますように・・・・。
2011年1月7日 橋本 宙八
写真は2009年3月アスクエア神田ギャラリーにて開催された早川俊二大作展の中の作品
「まどろむAmely-1(2008)」