今度は、この神社へ来ました。ここ堀兼神社は、創建年代等は不詳ながら、丘陵地にある貴重な井戸(堀兼の井)とかかわるものと考えられ、平安末期には既に「堀兼の井」が広く知られていたことから、平安時代以前に祭られたのではないかと思われます。慶安3年(1650)には、川越城主松平伊豆守信綱が長谷川源右衛門に命じて社殿を建立、承応年間(1652-1655)より始まった当地開発により、延宝3年(1675)に堀金村が成立、浅間社と称して祀られていました。明治5年に村社に列格、明治40年から明治42年にかけて地内の神社十二社を合祀、堀兼神社と改称しています。堀兼神社が建つ地は、古の井戸「ほりかね井」の所在地の一つと伝えられていましたが、江戸時代にはその井戸はほとんど埋まっており、水も湧いていない状態でした。これを知った川越町奉行の長谷川源右衛門は、慶安3年(1650)に新田として開発された堀金(兼)村の誕生に合わせ、井戸を掘り返して再び水が湧くようにし、さらに自ら主となって浅間宮を建立しました。境内社には、小御嶽神社、下浅間神社、八坂神社、井上稲荷神社、日枝神社、金毘羅神社、天満宮などがあります。と、このような説明でした。
これは、狭山市の指定文化財にもなっている髄新門です。中を覗くと
このような神像が左右に入っています。堀兼神社の随身門は単層入母屋造りの八脚門で、桁行は6.85メートル、梁間は4.12メートルです。朱塗りの門の両側には彩色を施した神像が安置されていますが、向かって左側が豊磐間戸命(とよいわどのみこと)、右側が奇磐間戸命(くしいわまどのみこと)で、俗に矢大神・左大神と呼ばれています。髄新門は神社の外側にある門のことで、寺院でいう仁王門に該当します。市内唯一のこの門は、万延元年(1860)に両神像の塗り替えをしたとの記録が残っているので、江戸時代後期には創建されていたと推定されています。
段上にある拝殿は、何と質素なものでした。それでは境内を歩いて見ます。
ありました、井戸の跡です。
ところで、この井戸についての説明ですが、堀兼之井は、堀兼神社の境内にあります。直径7.2メートル、深さ1.9メートルの井戸の中央には石組の井桁がありますが、現在は大部分が埋まっており、その姿がかつてどのようであったかは不明です。この井戸は北入曽にある七曲井と同様に、いわゆる「ほりかねの井」の一つと考えられていますが、これを事実とすると、掘られた年代は平安時代までさかのぼることができます。井戸のかたわらに2基の石碑がありますが、左奥にあるのは宝永5年(1708)3月に川越藩主の秋元喬知(あきもとたかとも)が、家臣の岩田彦助に命じて建てさせたものです。そこには、長らく不明であった「ほりかねの井」の所在をこの凹形の地としたこと、堀兼は掘り難かったという意味であることなどが刻まれています。しかし、その最後の部分を見ると、これらは俗耳にしたがったまでで、確信に基づくものではないともあります。手前にある石碑は、天保13年(1842)に堀金(兼)村名主の宮沢氏が建てたもので、清原宜明の漢詩が刻まれています。
それでは、都の貴人や高僧に詠まれた「ほりかねの井」は、ここにある井戸を指すのでしょうか。神社の前を通る道が鎌倉街道の枝道であったことを考えると、旅人の便を図るために掘られたと思われますが、このことはすでに江戸時代から盛んに議論が交わされていたようで、江戸後期に編さんされた『新編武蔵風土記』を見ても「ほりかねの井」と称する井戸跡は各地に残っており、どれを実跡とするかは定めがたいとあります。堀兼之井が後世の文人にもてはやされるようになったのは、秋元喬知が宝永5年に石碑を建ててから以後のことと考えられます。
これはモミの木の記念碑です。
ケヤキの大木もあります、これはやはりご神木なんでしょうか?
この根元をよ~く見てください。かくれんぼでもしているのかな?上と下から何かが見合っているようでしょう。
それでは、また
つづく