相当古い創業年代でありながら、この新しい建物は何なんだろう?
立て札が立っていました。「店蔵 絹甚」とあります。
実際の建物は、その隣にあるこの古い瓦屋根の建物です。中に入って見ることにします。
古民家とも言える中はこの様でした。さらに奥へ行くと、正に古民家の空き家でした。もっと調べて行くと、明治30年代後半に建てられた土蔵造りの店舗で、ほとんど改変を受けておらず、建築当初の様子を良く残しています。
「店蔵 絹甚」がある飯能大通り商店街は、古くから「縄市」と呼ばれた六斎市が開かれていた。明治初頭になると、常設店舗が軒を連ねるようになり、現在の街並みの原型が形づくられる。「絹甚」が建てられたのは、明治37年(1904年)。火災への備えという目的もあったが、当時流行っていた江戸の風情を感じさせる土蔵造りを採り入れたのである。「絹甚」は、篠原甚蔵、長三親子によって建てられたもので、「絹甚」という名称の由来もここから来ている。篠原家は、江戸時代から当地にて商いを営み、明治期になると、絹関連の品物を取り扱うようになった。商品構成は幅広く、絹織物や太物(綿や麻の織物)の小売りをしながら、周辺の関連業者向けに生糸、繭、蚕種(蚕の卵)などの売り買いを行っていた。 明治37年といえば、日露戦争がはじまった年。列強諸国に対抗するために日本が国力増強を図っていた頃であり、養蚕や生糸の製造は基幹産業に位置付けられていた。こうした時代背景のなか、昔からの養蚕地であった飯能は、その立地条件を活かしながら近代化への道を辿ろうとしていたと考えられる。「絹甚」がある大通りは、当時、商業地としてかなりの一等地であったことが想像され、ここへの出店は商人たちにとって誇らしいことであったに違いない。との説明も見られました。やはり、飯能市を代表する産業であった絹関連の買継商を営んだ建物であり、市の歴史を考えるうえで貴重な文化財ですね。
つづく