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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

このお寺には、いろいろありました

2021-12-01 10:42:17 | 日記

もっと奥へ行って見ます。

梵鐘堂ですね。

言い伝えによると、正福寺は何度か火災にあっているそうで、江戸期になって再度の復興が行われたのは月山禅師の代であった。「建長寺史」では寛文4年(1664)に晋山して、宝永3年(1706・「野口村金剛山正福禅寺世代記」)に示寂するまでの間に諸堂宇とともに山門も建てたので、中興とされている。天明4年(1784)の「野口村絵図」には、本堂、庫裡、地蔵堂、鐘楼等とともに、山門が描かれている。昭和48年に行われた解体修理の際、親柱柄から「元禄十四辛巳年無神月吉祥日建□ (者)也、此時住寺号月山(以下略)」の銘文が発見されたことから、建立年代も元禄14年(1701)、月山の代に建立されたものであることが確定し、この山門の建築形式は、四脚門で、切妻、昭和48年の修理の際に茅葺から茅葺形銅板葺に改修された。柱、桁、冠木、束等に朱の痕跡が見られることから、かつては全体が朱で塗装されていたものとみられる。禅宗寺院では、伽藍の中門は正式には三解脱門、略して三門と呼んでいるが、正福寺の門は、単独であり、かつて複数であった痕跡も今のところ認められないので、山門としている。もうひとつ、見ることはできませんでしたが板碑です。この板碑は都内最大の板碑といわれ、高さ285cm(地上部分247cm)、幅は中央部分で55cmもあります。碑面は釈迦種子に月輪、蓮座を配し、光明真言を刻し、銘は「貞和五年己丑卯月八日、帰源逆修」とあり西暦1349年のものです。この板碑はかつては前川の橋として使われ、経文橋または念仏橋ともよばれていました。江戸時代からこの橋を動かすと疫病が起きると伝えられ、昭和2年5月に改修のため板碑を撤去したところ付近に赤痢が発生したのでこれらを板碑のたたりとし、同年8月に橋畔で法要を営み、板碑をここ正福寺境内に移建したものです。これは、千手観音菩薩坐像(本尊)でしょうね。

ところで、臨済宗建長寺派寺院の正福寺は、金剛山と号します。創建年代は不詳ですが、心月禅師(文永年中1264-1274示寂)を請じて、北条時頼(或いは北条時宗)が開基となり創建したと伝えられます。仏殿(地蔵堂)は、北条時宗が罹病した際に夢中で地蔵菩薩より貰った丸薬により快癒したことから、時宗の寄進により建立したといわれ、国宝に指定されているほか、仏殿(地蔵堂)本尊、千体地蔵尊など数多くの文化財を所蔵しています。狭山三十三観音霊場の13番です。正福寺所蔵の文化財:正福寺千体地蔵堂(国宝)正福寺千体地蔵堂本尊(東村山市指定有形文化財)正福寺千体小地蔵尊像(東村山市指定有形文化財)貞和の板碑(東村山市指定有形文化財)正福寺山門(東村山市指定有形文化財)千手観音菩薩坐像(本尊)阿弥陀如来坐像 柄鏡(鏡台付)北条時宗之位牌 天蓋供養塔之碑 地蔵堂修覆供養塔 など数多くの文化財もあり、大したお寺でした。

それでは、また