楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

それでは、次へ参りましょう

2022-01-14 11:37:37 | 日記

歩いていたら、こんなところに来ていました。

いろいろな石仏、庚申塔などがまとまって置かれているようです。その中の一つに、良弁塚というのがありました。

これは、何なんでしょう? この良辨塚は、南蔵院の中興第一世良辨僧都が延文2年(1357)3月21日に造立した塚で、造立当時は銅製の経筒が埋納されていましたが、江戸時代に塚を改修した際に経筒が取り出され南蔵院に保管、その後近くに祀られていた庚申塔や道標などの石造物が当地に移され、その中の「石幢七面六観音勢至道しるべ」は練馬区文化財に指定されています。良辨僧都は、南北朝時代の僧侶で、ここから五百メートルほど東にある南蔵院の中興第一世です。良辨は、日本各地の霊場を巡拝し、数百部にのぼる法華経(妙法蓮華経)を書き写して奉納して廻りましたが、最後にたどり着いたこの中村の南蔵院に滞留し、周辺の人々を教化したと伝えられています。この塚は、碑文によると延文二年(一三五七)三月二十一日に建立されています。南蔵院は真言宗の寺院ですので、開祖である弘法大師(空海)が高野山で入定した承和二年(八三五)三月二十一日の月日に合わせて建てられたと考えられます。建立時に経筒(直径三センチ、高さ十センチで銅製の筒)が埋納され、江戸時代に塚を改修した後は南蔵院に保管されています。建立当時この場所は、鎌倉街道の一つに面しており、街道から南蔵院に入る角に経塚を築いて供養し、人々の幸せを願ったのでしょう。なお、『新編武蔵風土記稿』に良辨僧都を永正年間の人と記しているのは誤りです。また奈良時代に東大寺の大仏造立に尽力した別当良辨僧正とは別人です。敷地内にある庚申塔や道標などの石造物は、後にこの地に移されたものと考えられます。

今度は、こんな神社に来ました。

この水屋にある水盤は、刻まれたのは「文政13年(1830)11月吉日」で、正面に大きく卍印をつけ、神仏混清時代の名残りをとどめています。

ところで、中村八幡神社は、創建年代等は不詳ながら、正保年間(一六四四-八)以前の創建と伝えられ当地中村の鎮守社となっていたといい、明治7年には村社に列格していました。境内にある石造物で古い銘は、水屋にある水盤の 「文政13年(1830)11月吉日」で、正面に大きく卍印をつけ、神仏混清時代の名残りをとどめています。社殿は覆屋の中の本殿が安永2年(1773)の再建、拝殿が慶応2年(1866)改築と言われています。 神楽殿は昭和47年(1972)の新築です。なお三社神社前には文政10年(1827)12月吉日銘の狛犬があります。 大正6年(1917)に祭典用地を中新井村・堀之内村・中村の有志三名が寄付しているものです。現社地約358坪中の215坪である。氏子の信仰の深さと氏子範囲の広さを示している(祭典用地奉納記念碑)。また日露戦役紀念碑(明治39年)等の前には陰刻のある6個の力石があります。この八幡神社は旧中村の村社で、祭神は応神天皇です。「新編武蔵風土記稿」に「村ノ鎮守ナリ、南蔵院持」とあります。南蔵院はここから東方約400mにある真言宗の古刹で、江戸時代は当社の別当寺でした。本殿は、社伝によると、江戸時代前半のものといわれ、練馬区内でも屈指の古建築物です。

                              つづく