ちょっと足を伸ばして、埼玉方面へと行きましょう。
降り立った駅はここです。以前にも行ったことはありましたが、しばらくの間に駅前はすごい変わり方をしていて驚きました。
東へ向かって少し歩いて行くと、前方に大きな観音像が見えました。
福徳院というお寺のお堂です。この福徳院不動尊は綿貫家代々の守本尊とされていました。二代目孫兵衛は不動明王尊を篤く信仰しており、年数回も成田山へ来詣し、成田山に金燈篭や多額の浄財の寄進を行うほどでした。これを聞いて、成田山新勝寺は彼の篤信に感銘を受け、大護摩を厳修してその浄灰をもって不動明王の尊像を謹製し、開眼の上、綿貫家に授与したと伝えられています。その後、本尊は明治8年徳林寺に17世賢光師が在住の時に寺へ寄贈され、明治30年には入間郡柏原村の小山保が所有していた御堂が寄進されることになり、諸信者の協賛を得て現在の場所に移転されました。昭和年間に入る頃、宝殿が著しく腐朽してしまいましたが、昭和11年に世話人27人の発願により改修工事が行われました。平成20年には、狭山市駅西口開発のため、綿貫家の墓所が駅前より福徳院不動尊に移転され、現在にいたります。
こんな可愛いお地蔵様が、「いらっしゃいませ」とお出迎えしてくれました。
綿貫家一門の墓所とあります。ところで、この綿貫家とは市の資料によると、むかしのお話です。入間川の綿貫家といえば、東北の本間家、大阪の鴻池家とともに、唄にうたわれたほどのお大尽だったそうです。あるとき、井戸の水をわけてもらいにきた人がおったそうです。すると番頭さんがでてきて『あー、それはおやすいご用です。わたしの方には四つの井戸がありますが、どの井戸をつかいますか』その井戸といいますのは、一つめは隠居場のあったところで、現在の図書館の下あたり、二つめは狭山市駅前の八百屋あたり、三つめは綿貫家の墓地(現在は移転しました)のあたり、四つめは徳林寺のあたりだったといわれております。いまさらながら、そのスケールの大きさにはおどろかされたということです。また、ぶっこし一揆があったとき、綿貫家では、四つの井戸の中に金銀を隠しておき、家財道具は天岑寺に預けて無事だったことから、お礼にと『軍酒山門に入るを許さず』という石碑を奉納しました。今も参道の入り口にたっています。とありました。
つづく