雑木林の中を進むと、
前方に大きな山門をひかえた立派なお寺へ到着しました。
勝光禅寺という石柱の入り口から前へ進むと、先客がいました。それにしても、立派な年代を経た供養塔ですね。
六地蔵も整然と並んでいます。
どこかで似たような山門を見ました。楼門づくりというそうですが、平林寺や上富の多福寺でも見られるそうです。この山門は元禄七年より堂々たる楼門で、市内における唐様の白眉ともいえる美しい建築です。粽(ちまき)を有する太い円柱、花頭窓、組子入りの桟唐戸など年輪の美しさに酔うばかりで、十六羅漢を奉安している楼上より望む狭山丘陵の風光は心を洗うながめです。所沢市の指定文化財にもなっているそうです。
境内の一角に、観世音菩薩像も建っています。
これは梵鐘堂ですが、前にある木は百日紅かな?
この鐘楼は享保十六年(一七三一)の建立だそうです。
本堂の案内板には、勝光寺本堂は、「京都龍安寺の塔頭の方丈を延宝五年(一六七七年)に移築、行田の宮大工が建築した」との伝承をもちます。現在、本堂は入母屋造の桟瓦葺ですが、この形式は昭和三十四年(一九五九年)に改められたもので、それ以前は、寄棟造の茅葺でした。平面構成は、ともに両側に脇間を備えた内陣、外陣からなる六間取り形式をとっており、外陣の南側には広縁が設けられています。また、意匠的特徴としては、内陣の全面に仏壇を設け、丸柱や組物を用いない簡素なつくりであり、外陣とその両脇の三室全体を一つ天井で覆い、天井が浮遊するように見える蟻壁を設けています。このような建築形式や意匠や、江戸時代初期における京都の臨済宗系寺院の方丈建築の特色をよくあらわし、京都からの移築の可能性をうかがわせます。しかし、建物調査によると、柱間は京間の寸法基準とは異なり、江戸時代の関東間の寸法基準ととっています。また、製作時期が異なると思われるヒノキ柱とケヤキ柱が混在し、ヒノキ柱の多くに新しい材で継ぎ足した根継ぎが見られました。以上の調査結果から推測すると、この建物は、京都で解体され運び込まれた前身建物の部材を用い、行田の宮大工が関東間として建築したものと考えられます。関東地方では、稀な建築形式を受け継ぐ建造物として大変貴重です。とありました。勿論、こちらも所沢市の指定文化財になっています。
このお寺、瑞幡山と号して鎌倉の建長寺の第一世石門和尚が弘安4年に開山し、北条時宗を開基として創建したものとされます。狭山三十三観音霊場の五番目のお寺だそうです。
つづく
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