さらに広い境内を回って観ると、細長い境内を歩いて道路に出る手前に小さいお堂がありました。鬼子母神堂といい、インドの訶梨帝母は近隣の幼児をとって食べるので恐れ憎まれたが、お釈迦様に帰依し安産・子の神となることを誓い尊崇されるようになったのが鬼子母神だそうです。
これは子育入子地蔵尊の祠ですね。
芭蕉の句碑です。本堂の方へ戻ると見過ごしていたお地蔵の足元に「お砂場」とあります。何なんでしょう?
1200年以上の歴史がある四国八十八ヶ所霊場巡りですが、昔は今のように交通の便も発達しておらず、遍路の旅を願いながらも様々な事情で叶える事ができない方が大勢いました。そこで約400年前に考えられたのが「お砂踏み」だそうです。各霊場のご本尊様の写し仏をお祀りし、持ち帰った八十八ヶ所霊場のお砂を踏みながら礼拝することで、お四国を巡ったことと同じ功徳をいただけると考えられてきました。この「お砂踏み」を用いた「写し霊場」は盛んに日本各地に設けられ、今でもお遍路に出掛けられない人々を迎えています。という説明でした。
これは、水原秋櫻子の句碑です。さて、ここを後にして先へ行くと
飯能の中央公民館へぶつかりました。また先へ行くと
こじんまりした神社へ来ました。久下稲荷神社と言うそうです。
こちらが本殿だそうですよ。飯能市稲荷町にある神社です。久下稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、寛永13年(1636)創建と伝えられ、江戸期には久下分村の鎮守社だったといいます。明治5年には村社に列格、明治41年に字川端村社秋葉神社、字真行坂無格社稲荷神社、字柳渕無格社稲荷神社、字打出無格社稲荷神社を合祀しました。
それでは、この辺りには失礼して先へ行くことにします。
つづく