楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

周りには、こんなものもあった

2021-10-09 20:40:19 | 日記

さらに広い境内を回って観ると、細長い境内を歩いて道路に出る手前に小さいお堂がありました。鬼子母神堂といい、インドの訶梨帝母は近隣の幼児をとって食べるので恐れ憎まれたが、お釈迦様に帰依し安産・子の神となることを誓い尊崇されるようになったのが鬼子母神だそうです。

これは子育入子地蔵尊の祠ですね。

芭蕉の句碑です。本堂の方へ戻ると見過ごしていたお地蔵の足元に「お砂場」とあります。何なんでしょう?

1200年以上の歴史がある四国八十八ヶ所霊場巡りですが、昔は今のように交通の便も発達しておらず、遍路の旅を願いながらも様々な事情で叶える事ができない方が大勢いました。そこで約400年前に考えられたのが「お砂踏み」だそうです。各霊場のご本尊様の写し仏をお祀りし、持ち帰った八十八ヶ所霊場のお砂を踏みながら礼拝することで、お四国を巡ったことと同じ功徳をいただけると考えられてきました。この「お砂踏み」を用いた「写し霊場」は盛んに日本各地に設けられ、今でもお遍路に出掛けられない人々を迎えています。という説明でした。

これは、水原秋櫻子の句碑です。さて、ここを後にして先へ行くと

飯能の中央公民館へぶつかりました。また先へ行くと

こじんまりした神社へ来ました。久下稲荷神社と言うそうです。

こちらが本殿だそうですよ。飯能市稲荷町にある神社です。久下稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、寛永13年(1636)創建と伝えられ、江戸期には久下分村の鎮守社だったといいます。明治5年には村社に列格、明治41年に字川端村社秋葉神社、字真行坂無格社稲荷神社、字柳渕無格社稲荷神社、字打出無格社稲荷神社を合祀しました。

それでは、この辺りには失礼して先へ行くことにします。

                             つづく


このお寺には珍しいものが

2021-10-08 10:59:18 | 日記

しばらく行くと、

遠くにお寺らしきものが見えました。

行って見ましょう。

わぁ、びっくりした。何だこれは? 白い象の置物みたいです。

観音寺というお寺でしたが、創建年代は不詳で、江戸期には、慶安年中(1648-1651)に観音堂領として3石5斗の朱印状を拝領しています。本尊の如意輪観世音は弘法大師作と伝えられ、武蔵野三十三観音霊場24番、高麗郡三十三ヶ所霊場10番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所64番、武州八十八所霊場83番となっている他、数多くの仏像を所蔵しており、寿老人は武蔵野七福神の一つとなっています。真言宗智山派寺院の観音寺は、般若山長寿院と号します。地元の有志によるお話に、こういうものがありました。紹介すると、

飯能鬼子母神が、ゆかりの地「真言宗智山派観音寺」に建立され、同住職服部融亮導師により新しく開眼披露されたのは平成19年11月23日のことです。吉祥果ザクロを手に持ち、胸に子を抱く鬼子母神は、古来より安産・子育て・蓄財・吉祥の仏として人々の信仰を集めて参りました。この鬼子母神堂は観音寺宗祖弘法大師が遣唐使として学んだ長安(中華人民共和国西安市)青龍寺の土が御堂下に埋められておりザクロの街、西安「青龍寺」とザクロの郷、飯能「観音寺」との友好のシンボルでもあります。また飯能鬼子母神は、ザクロの里飯能の象徴として、飯能商工会議所青年部が創立間もなく進めてきた飯能名物づくり事業の一環でもあり、尊像は、飯能在住の彫刻家、佐藤敏明氏の手により、地元西川材の檜から創出され、御堂は現代の名工、吉澤良男氏をはじめ地元建設関連企業の熱意と裏面に連名の多くの寄進による浄財で完成を見ました。周辺の飯能河原・天覧山と共に飯能観光拠点のひとつにもなっています。

 

ひと通り周りを見て、次へと行くことにします。

                              つづく                           

 


古い建物はこれだった

2021-10-07 12:12:34 | 日記

相当古い創業年代でありながら、この新しい建物は何なんだろう?

立て札が立っていました。「店蔵 絹甚」とあります。

実際の建物は、その隣にあるこの古い瓦屋根の建物です。中に入って見ることにします。

古民家とも言える中はこの様でした。さらに奥へ行くと、正に古民家の空き家でした。もっと調べて行くと、明治30年代後半に建てられた土蔵造りの店舗で、ほとんど改変を受けておらず、建築当初の様子を良く残しています。

「店蔵 絹甚」がある飯能大通り商店街は、古くから「縄市」と呼ばれた六斎市が開かれていた。明治初頭になると、常設店舗が軒を連ねるようになり、現在の街並みの原型が形づくられる。「絹甚」が建てられたのは、明治37年(1904年)。火災への備えという目的もあったが、当時流行っていた江戸の風情を感じさせる土蔵造りを採り入れたのである。「絹甚」は、篠原甚蔵、長三親子によって建てられたもので、「絹甚」という名称の由来もここから来ている。篠原家は、江戸時代から当地にて商いを営み、明治期になると、絹関連の品物を取り扱うようになった。商品構成は幅広く、絹織物や太物(綿や麻の織物)の小売りをしながら、周辺の関連業者向けに生糸、繭、蚕種(蚕の卵)などの売り買いを行っていた。 明治37年といえば、日露戦争がはじまった年。列強諸国に対抗するために日本が国力増強を図っていた頃であり、養蚕や生糸の製造は基幹産業に位置付けられていた。こうした時代背景のなか、昔からの養蚕地であった飯能は、その立地条件を活かしながら近代化への道を辿ろうとしていたと考えられる。「絹甚」がある大通りは、当時、商業地としてかなりの一等地であったことが想像され、ここへの出店は商人たちにとって誇らしいことであったに違いない。との説明も見られました。やはり、飯能市を代表する産業であった絹関連の買継商を営んだ建物であり、市の歴史を考えるうえで貴重な文化財ですね。

                             つづく  

 


今日は飯能にやって来た

2021-10-06 20:05:03 | 日記

なかなかモダンな駅ですね。さぁ、街へ繰り出そう。

街中には、古い情緒も残っていていいですね。

やって来たところは、ここ飯能織物協同組合の事務所でした。ここ「旧飯能織物協同組合事務所」は1922年(大正11年)の建築物で、飯能市が養蚕や織物産業で栄えた頃の面影を残す建物です。全体的に洋風の建物なのですが、よく見ると屋根にシャチホコが載っかっているのが分かりますか?日本瓦を使っており和洋折衷様式になっています。国指定の有形文化財です。

さらに進むと、次に現れたのは

双木利一先生という方の銅像です。「双木利一(なみきりいち)先生」は昭和初期に町営水道や学校事業などにより市の発展に貢献した街の偉人ですね。双木(なみき)利一氏(1878~1939)は現飯能市の生まれ。小学校長、銀行支店長、消防連合会長、飯能町長、県会議員など多方面で活躍し、公職中には昔から飲料水の乏しい飯能地域に上水道建設を考え推進するなど市の発展に多大な貢献をされた方です。という偉い方の銅像でした。次には、どんな出会いがあるのでしょうか?

                            つづく