楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

南蔵院とはどんなお寺なのか

2022-01-20 20:09:35 | 日記

さぁ、中へ入って見ましょう。

先ず目に入ったのは、この大きな燈籠です。

どこのお寺でもよく目にする弘法大師像ですね。

慈母観音像も立ってました。

何だか古そうな宝篋印塔です。近くを見ると、これはお見事な彫り物があるではありませんか。

何に見えますか? 見事な龍の彫り物ですね。

少し進むと、今度はこんな愛嬌のある狸の像がありました。さらに奥へと進むと、

ところで、この門は何なんでしょう? 江戸時代中期に建てられたとされている鐘楼門で、練馬区の指定文化財にもなっているそうです。

真言宗豊山派寺院の南蔵院は、瑠璃光山医王寺と号し、創建年代等は不詳ながら、良弁僧都が延文年間(1356-1361年)に中興したといいます。江戸期には12石8斗の御朱印領を拝領、西光寺(廃寺、中村八幡神社境内にあった)、大日堂(廃寺)を末寺に擁していました。古くから、万病にきく白龍丸を頒布し「南蔵院の投げ込み」として全国に広まっていました。御府内八十八ヶ所霊場15番札所、豊島八十八ヶ所霊場15番札所です。また、明治9年(1876)11月に本堂を使って豊玉小学校が設置され、この場所で小学校の教育が行われました。

                                つづく

 

 

 


それでは、次へと参ろう

2022-01-19 12:20:12 | 日記

イチョウの葉がいっぱい落ちている参道へ、その先には何が?

お稲荷さんの置物が「お前さんは何者じゃ」という顔で迎えてくれました。

その傍には、もっと怖い顔をした番猫がいるではありませんか。こちらを睨んでもいるようです。

ここは、田中稲荷神社といい、練馬区中村南にある稲荷神社です。田中稲荷神社は、寛政10年(1798)12月、京都伏見稲荷より神霊を奉祀、社殿を建築したと伝えられています。境内で一番古い有造物は明治9年(1876)銘の水盤です。境内樹木のほとんどがイチョウで、かなりの大樹もあるようです。それでは、ここは退散して、先ほど見た南蔵院へと向かいましょう。

門の前へやって来ました。

案内書きには、このようにあります。さぁ、中へと向かいます。次回にいろいろご紹介しますね。

                              つづく

 


それでは、次へ参りましょう

2022-01-14 11:37:37 | 日記

歩いていたら、こんなところに来ていました。

いろいろな石仏、庚申塔などがまとまって置かれているようです。その中の一つに、良弁塚というのがありました。

これは、何なんでしょう? この良辨塚は、南蔵院の中興第一世良辨僧都が延文2年(1357)3月21日に造立した塚で、造立当時は銅製の経筒が埋納されていましたが、江戸時代に塚を改修した際に経筒が取り出され南蔵院に保管、その後近くに祀られていた庚申塔や道標などの石造物が当地に移され、その中の「石幢七面六観音勢至道しるべ」は練馬区文化財に指定されています。良辨僧都は、南北朝時代の僧侶で、ここから五百メートルほど東にある南蔵院の中興第一世です。良辨は、日本各地の霊場を巡拝し、数百部にのぼる法華経(妙法蓮華経)を書き写して奉納して廻りましたが、最後にたどり着いたこの中村の南蔵院に滞留し、周辺の人々を教化したと伝えられています。この塚は、碑文によると延文二年(一三五七)三月二十一日に建立されています。南蔵院は真言宗の寺院ですので、開祖である弘法大師(空海)が高野山で入定した承和二年(八三五)三月二十一日の月日に合わせて建てられたと考えられます。建立時に経筒(直径三センチ、高さ十センチで銅製の筒)が埋納され、江戸時代に塚を改修した後は南蔵院に保管されています。建立当時この場所は、鎌倉街道の一つに面しており、街道から南蔵院に入る角に経塚を築いて供養し、人々の幸せを願ったのでしょう。なお、『新編武蔵風土記稿』に良辨僧都を永正年間の人と記しているのは誤りです。また奈良時代に東大寺の大仏造立に尽力した別当良辨僧正とは別人です。敷地内にある庚申塔や道標などの石造物は、後にこの地に移されたものと考えられます。

今度は、こんな神社に来ました。

この水屋にある水盤は、刻まれたのは「文政13年(1830)11月吉日」で、正面に大きく卍印をつけ、神仏混清時代の名残りをとどめています。

ところで、中村八幡神社は、創建年代等は不詳ながら、正保年間(一六四四-八)以前の創建と伝えられ当地中村の鎮守社となっていたといい、明治7年には村社に列格していました。境内にある石造物で古い銘は、水屋にある水盤の 「文政13年(1830)11月吉日」で、正面に大きく卍印をつけ、神仏混清時代の名残りをとどめています。社殿は覆屋の中の本殿が安永2年(1773)の再建、拝殿が慶応2年(1866)改築と言われています。 神楽殿は昭和47年(1972)の新築です。なお三社神社前には文政10年(1827)12月吉日銘の狛犬があります。 大正6年(1917)に祭典用地を中新井村・堀之内村・中村の有志三名が寄付しているものです。現社地約358坪中の215坪である。氏子の信仰の深さと氏子範囲の広さを示している(祭典用地奉納記念碑)。また日露戦役紀念碑(明治39年)等の前には陰刻のある6個の力石があります。この八幡神社は旧中村の村社で、祭神は応神天皇です。「新編武蔵風土記稿」に「村ノ鎮守ナリ、南蔵院持」とあります。南蔵院はここから東方約400mにある真言宗の古刹で、江戸時代は当社の別当寺でした。本殿は、社伝によると、江戸時代前半のものといわれ、練馬区内でも屈指の古建築物です。

                              つづく                       


今日は、ここから出発だ

2022-01-09 10:43:44 | 日記

ここの駅、何線だかわかりますか? 西武池袋線中村橋駅なんです。こちらから、千川通りを歩きます。

ぐるっと回って出たら、北口へ出たのかな? これは芸術の森緑地という場所だそうです。駅の目の前です。

ここが千川通りです、東へと進みます。

九頭竜弁財天という祠で、千川通りの真ん中に安置されています。もう少し行って見ましょう。

またまた、似たような祠がありました。これは、中を覗いて見ましょう。

不動明王像が安置されています。近くには、こんな由緒標柱もあります。

ここは、戦前までは千川上水が流れていたそうです。このお堂は、中村橋商工会の管理委員会が管理していて平成21年3月1日に成田山新勝寺において開眼法要を行い「成田山新勝寺中村不動尊」として、正式に承認され、家内安全・交通安全・商売繁盛・開運成就のお不動様として安置したものだそうです。成田山新勝寺といえば、毎年、餅まきで有名で有名力士や有名歌舞伎俳優が登場します。総本山は京都の知積院、大本山は3カ所あって、千葉の成田山新勝寺、川崎大師平間寺、そして高尾山薬王院だそうです。それでは、次へと進みます。

今度やって来たのは、ここ御嶽神社です。一般には、みたけ神社という人が多いのですが、ここはおんたけ神社と言うそうです。

ここ中村の御嶽神社は、幕末期に谷原村の増島大博によって創建されたと伝えられています。大博は、行者一山の門人としてすでに谷原村に一山講社を結び、御嶽神社(現富士見三丁目稲荷神社)を興し、近隣への布教にも励んでいました。中村では字中内を中心に御嶽山一山信衍講が結ばれ、大傳を開山として、二代先 ※信衍講=しんえんこう達内田清心(初太郎)、三代先達神田明照(市五郎)と続き現在に至り、奉齋神は天御中主神・高皇産神・神皇産神・天神地祇・国常立尊・大巳貴命・少彦名命です。 現在の社殿は昭和五十二年に新築されました。本殿西側には稲荷社があり、初代大博はこの祠で祈禱を行っていたといわれています。 その他境内には御嶽山一山講社の講祖一山霊神をはじめ当社先達たちの慰霊碑があります。また明治初年以降の古文書や絵馬が多数保存されています。

                                つづく