今年は終戦70年、数々の本が出版されましたし、
メディアにも取り上げられました。
この本もその一貫ですが、お友達から頂きました。

その友人は私より少しだけ年長、博識、記憶力もよく、尊敬しています。
詩人の茨木のり子さんのような信念の人、強い人です。
会えばいつも刺激を受けています。
名古屋はこの中島飛行機はじめ三菱航空機など航空機生産の中心地でしたから
学徒も全国から動員され(男女で1万人位)犠牲者も多くでました。
この友人も間一髪で命拾いしたそうです。本の中で証言もしています。
動員学徒の年齢は主にS2年~S6年なので、S6年生まれの私はぎりぎりで動員されたわけです。
私は神戸製鋼名古屋工場へ動員され、飛行機の部品作りに励みました。
鋳物工程の「中子取り作業」でしたが、急ごしらえの「工員」ですから多分歩留まりはよくなかったでしょう。
↓ 左から2人目が私です。食料不足の時代にしては丸い顔しています。
父の関係で新聞社の取材を受け当時の新聞に載りました。
私も知っているカメラマンでした。
女学生も工場で・・・と言うような見出しだったかもしれません。
左隣に座るsigekoさんは空襲警報が出て退避の途中、
焼夷弾の破片で足を怪我しましたが、命に別状はありませんでした。


当時の中島飛行機の技術陣には、かの宇宙開発の父と言われる糸川英夫さんはじめ東大技術の英知が集まっていた。
小惑星探査機「はやぶさ」は中島飛行機の誇る戦闘機「隼」からの命名です。
また小惑星「イトカワ」も糸川氏に因んで命名されたこともよく知られています。
終戦の混乱時、先ず学徒を父母の元に帰し、半島からの徴用工にも旅費など与え帰したりと
列車もいつ動くかわからない混乱の中で想像を絶する大変さだったでしょう。
中島飛行機の職員たち自身明日もわからぬ身の中でよく戦後処理に当ったと感動した。
なかにはどさくさにまぎれ、自己中心の行動に出た人もいただろうが
全般にはさすが日本人の誠実さがなければできなかったと思う。
後数年で歴史の証人もいなくなる時代、よい本が出版されたと思いました。
メディアにも取り上げられました。
この本もその一貫ですが、お友達から頂きました。

その友人は私より少しだけ年長、博識、記憶力もよく、尊敬しています。
詩人の茨木のり子さんのような信念の人、強い人です。
会えばいつも刺激を受けています。
名古屋はこの中島飛行機はじめ三菱航空機など航空機生産の中心地でしたから
学徒も全国から動員され(男女で1万人位)犠牲者も多くでました。
この友人も間一髪で命拾いしたそうです。本の中で証言もしています。
動員学徒の年齢は主にS2年~S6年なので、S6年生まれの私はぎりぎりで動員されたわけです。
私は神戸製鋼名古屋工場へ動員され、飛行機の部品作りに励みました。
鋳物工程の「中子取り作業」でしたが、急ごしらえの「工員」ですから多分歩留まりはよくなかったでしょう。
↓ 左から2人目が私です。食料不足の時代にしては丸い顔しています。
父の関係で新聞社の取材を受け当時の新聞に載りました。
私も知っているカメラマンでした。
女学生も工場で・・・と言うような見出しだったかもしれません。
左隣に座るsigekoさんは空襲警報が出て退避の途中、
焼夷弾の破片で足を怪我しましたが、命に別状はありませんでした。


当時の中島飛行機の技術陣には、かの宇宙開発の父と言われる糸川英夫さんはじめ東大技術の英知が集まっていた。
小惑星探査機「はやぶさ」は中島飛行機の誇る戦闘機「隼」からの命名です。
また小惑星「イトカワ」も糸川氏に因んで命名されたこともよく知られています。
終戦の混乱時、先ず学徒を父母の元に帰し、半島からの徴用工にも旅費など与え帰したりと
列車もいつ動くかわからない混乱の中で想像を絶する大変さだったでしょう。
中島飛行機の職員たち自身明日もわからぬ身の中でよく戦後処理に当ったと感動した。
なかにはどさくさにまぎれ、自己中心の行動に出た人もいただろうが
全般にはさすが日本人の誠実さがなければできなかったと思う。
後数年で歴史の証人もいなくなる時代、よい本が出版されたと思いました。