個人的に、安倍首相を叩き潰したい気持ちは解らないではない。
大物政治家になると、ありとあらゆる黒い噂が流れ、それらにも柔軟にかつ毅然に対応しなければならない。晋三スキャンダルの暴露は、露呈する度に謀った様に着実に潰される。
先日2回に渡り、”岸信介の実像”(Click)を暴いた後は、いよいよ心臓部である、安倍一族の陰謀と真実にメスを入れていきたいと思います。安倍晋三は一体何者か?安倍一族とは?
これも長くなりますので、2回に分けます。以下、松田賢弥「絶頂の一族」からの紹介です。 多少?ですが、主観入ります。悪しからずです。
”絶頂の一族”と陰謀の始まり
”すべては偉大なる岸信介の血を残す為に……。安倍晋三の母•洋子の執念は、この華麗なる政治家一族の姿を歪なものにしている。養子縁組を繰り返し、家を守る事によって何が生まれたか?
安倍晋三にとって、祖父•岸信介の宿願を達成する事こそ、唯一、母に認められる術になる”
幻想の安倍家三代を丹念に取材し、幻影に追い回された”安倍晋三”なるものの正体に迫った衝撃の書「絶頂の一族〜プリンス•安倍晋三と六人のファミリー」
「毎日グラフ」(1956年12月号)に載った一枚のスナップ写真。
男の子は4歳の安倍寛信と2歳の弟の晋三、初老の男は発足したばかりの自民党の幹事長•岸信介だ。勿論、2人の男の子は岸の娘•洋子が産んだ孫だ。この時、岸は既に60歳だった。
写真の中では、指をしゃぶる晋三が兄の寛信に仲睦じく寄り添う。
”いちばん目に好きなおじいちゃん。だって、いつもいいものをくれるんだもん”
父•晋太郎は毎日新聞社を辞め、外務大臣の岸の秘書官に転身。さらに58年には衆議院選に出馬し、初当選。晋三の弟•三男の信夫が生まれたのは翌59年の事だ。
晋太郎と岸の長女•洋子が結婚する際、”3人目が男なら岸家の養子とする”との、約束事が交わされていた。岸の長男である信和と仲子夫妻には子供がいないからだ。
実は、岸信介の息子である岸信和は家系から消されてた。3歳の時、小児麻痺を患い、子供が出来る見込みがなかった。劣性遺伝を家系から外すのは政界の鉄則なのだろう。
そこで、信夫が生まれてすぐ、晋太郎夫妻と信和夫妻に、岸の弟の佐藤栄作(後の総理)が加わり、話し合いがもたれた。
佐藤が、”晋太郎!本当に出していいんだな!”と強く念を押した。また、岸も”洋子、無理をしなくてもいいんだ”と言い、洋子も最初は我が子を手放すのを躊躇った。
岸信介は、自分が中学卒業と同時に養子に出された身だけに、殊のほか孫の信夫を可愛いがった。養子に出された事情を知りながら、寛信と晋三の兄弟は決して口に出さなかった。
因みに、安倍信夫が養子である事を知ったのは大学進学の時だった。
この様に、名門の血脈を守り、絶やさない為に養子縁組に依存するこの奇怪なファミリーに育った晋三とは一体何者だろうか?
安倍晋三と奇怪なファミリー
これまで繰り返されたのは、佐藤と岸両家の血が入り混じる事だった。その先に、安倍晋太郎が加わる事で、安倍家の奇怪な血脈が生まれた。
更に、三男•信夫を岸家の養子に迎える事で、岸家にすれば、血の”逆輸入”により血族が保たれたのだ。
ただ洋子は、わが子の信夫を養子に出した事を悔いた。後に信夫が政治家になる時、育ての母•岸仲子の悲劇(離婚)を生む事になるからだ。
南平台の自宅は岸の首相公邸としても使われ、60年の戦後最大の騒擾と、今もって語り継がれる”安保改定阻止闘争”の1つの舞台にもなった。
父•岸信介の身を案じる娘の洋子と、寛信と晋三の2人の孫は、連日の様に社旗を立てた新聞社の車に乗せられ、裏道から邸宅に入り込んだ。洋子は岸と孫らの情景をこう記した。
”私が子供たちを連れて訪れますと、デモ隊がとり巻いている家の中で、父は孫たちと鬼ごっこに興じるのです。また子供たちも、デモ騒ぎのマネ事をして「アンポ、ハンタイ!」と座敷を駆け回るのを、父はただ愉快そうに笑って見てるばかりでした”
南平台の邸宅の窓から、デモ隊と機動隊の群衆が揉み合う光景に、50年余りを経て総理の座についた安倍晋三が6歳の眼で見たものとはいったい?
両親不在の奇妙な家庭
安倍晋三は両親不在の家庭に育った。安保闘争が終息しても、変わる事はなかった。
晋三にも、普通の家庭への憧れはあった。”ウチの家に父は全然いないし、母も選挙区へ帰る事が多かった。父がたまに家にいたりすると、何かギクシャクした感じがした”
母•洋子は、これを”我が家は独立国家の共同体の様なものでした”と表現した。
晋三は、洋子の愛情を母親の温もりを、人一倍求めていた。母への思慕は、祖父•岸信介への思いに繋がっていく。
”おじいちゃんを褒めればお母さんが喜ぶ”という幼少の記憶は、心と頭の中にずっと残り、安倍晋三の人生をも支配していく。
全然家に帰らない父•晋太郎よりも、祖父の岸信介の方が晋三の精神形成の上でも、”父親”の役割を果たしてたのかもしれない。
岸は60年安保を成立させ、総理を退いた後、南平台から渋谷区富ケ谷に転居。その後、岸の終の棲家となる静岡県御殿場に居を移した。当時、晋三は成蹊学園の高校生だった。
岸が世田谷の晋三の家を訪ねると、決まった様に真っ先に、晋三が飛び出す。その岸は、当時の晋三の事を、嬉しそうに洋子に語っていた。
”きっと政治の世界に興味があるんだ。あれは政治家になる”
”戦犯の孫”と60年安保
晋三が多感な高校生時代に、安保の自動延長を巡る70年安保闘争が起こった。
反安保統一行動には、全国で77万人が参加。また、東大安田講堂の封鎖解除に機動隊が出動した(69年)。ベトナム反戦運動と相俟り、学生運動も広がった。
作家の三島由紀夫は東京市ヶ谷の自衛隊駐屯地内で決起を呼びかけた後、割腹自殺(享年45歳)を遂げるなど、70年の世情は騒然としていた。
こんな状況の中で、安倍晋三は何を考えていたのだろうか?晋三は激した様に吐露した。
”日米安保を堅持しようとする保守の自民党が悪玉で、安保破棄を主張する革新勢力が善玉という図式だ。
マスコミも意図的にそう演出していた。打倒する相手は、自民党の政治家だった私の父や祖父である。特に祖父は、国論を二分した60年の安保騒動の時の首相であり、安保を改定した張本人だったから。彼らにとっては、悪玉どころか極悪人である”
60年安保の時、祖父の岸や母の洋子には、ある悲愴感すら漂っていた。大量の警官を国会に導入し、新安保(改定安保)を自民党単独で可決した瞬間、国会に向けた全国の安保阻止闘争は臨界点に達した。
新安保の強行採決を巡り岸は、”手続きが異常である事は、誰の指摘を待つまでもなく、全員承知の上で、踏み切らざるを得なかったのである。いわば選択の余地は他になかった”と、異常な採決だった事を述懐してる。
聞いてて少し腸が煮え返りくります。超悪いと解りきっていて強引に可決した。まるで”天安門事件”の日本版ですね。
”超A級戦犯を逃れるには選択の余地はなかった”と、はっきりと言うべきだった。故にこの時点で、岸一族は既に終わってたのだろう。
岸信介が、自分で自らの責任を全うする勇気さえあれば、それまでのそしてこれからの現代の悲劇も避けられた筈。
しかし、岸信介は別の道を選択した。昭和の妖怪と化した岸の血を安倍一族に注ぎ込み、ゾンビ化させ、生き延びたのだ。
安倍一族の不幸な船出
一方、母の洋子は、東京大学4年生の樺美智子(22歳)が圧死した報に接し、”突然、鉛のオモリを呑まされた様な目眩と吐き気を覚え、恐ろしくなりました。
もう安保なんか放り出してほしい。岸がたった1人でそこまで国の責任を背負ういわれはない、と叫びたい思いでした”と生々しく語ってる。
つまり、60年安保はと安倍一族は、この時点から不幸な出発をしたと思わざるを得ない。でも洋子さんには悪いんですが、アンタの親父は一人でそこまでの事を成し得たのだ。親も親なら娘も娘とも言える。
しかし、晋三の視点は、あの時代をくぐり抜けた岸や洋子とは微妙に異なる。
”祖父は、幼い頃から私の目には、国の将来をどうすべきか?そればかり考えていた真摯な政治家としか映っていない。それどころか、世間の轟々たる非難を向こうに回し、その泰然とした態度には、身内ながら誇らしく思う様になっていった。
間違ってるのは安保反対を叫ぶ彼らの方だ。長じるに従い、私はそう思う様になった”
全くアホもここまで来ると・・・安倍が無能だと私が思うのは、こういう所なんですよ。そう、安倍晋三の原点はここにある!
幼い目で、南平台の岸邸の窓から見た「岸打倒•安保反対」に拳を振り上げる群衆の中から、岸信介が”A級戦犯の容疑者”とか”安保反動の権化”とか”政界の黒幕”と呼ばれる事に反発しながら、不幸にも”負の要素”を背負い政治の道に入ったのだ。
安倍晋三が靖国神社を参拝する背景には、”一国の指導者がその国の為に殉じた人々に対し、尊崇の念を表するのはどこの国でも行う行為である”との考えがあるからだ。
そこには、”A級戦犯容疑者”として獄に繋がれた祖父•岸の汚名を晴らそうとする”戦犯の孫”の意志がハッキリと見てとれる。
安倍晋三にとって、岸は政界の”案内人”であり、岸がなし得なかった”憲法改正”の宿題を、孫の晋三がなし遂げようとする意志が見え隠れする。
しかも、見過ごす事ができないのは、晋三が政権の座にあるという事が、岸の娘•洋子が岸家の”伝道師”(ゴッドマザー)として、晋三の陰に君臨してるという事だ。
晋三の母•安倍洋子とは?
総理の小泉純一郎が、49歳の晋三を自民党幹事長に抜擢したのは、03年9月の第二次改造内閣の時だ。
これにより、洋子の父•岸信介は結成されたばかりの自民党の初代幹事長(55年11月)、夫•安倍晋太郎が竹下登内閣の幹事長(87年10月)と、そして洋子の息子の晋三と、三代続いて幹事長が生まれた。これは前代未聞の事だった。
三代の陰でそれを見続けた洋子は、昂奮した面持ちで雑誌のインタビューに応じた。
”次から次へと電話が掛ってきて、何事かと思ったけど、晋三は何も言わない。
前に、中曽根裁定で次期総理が夫(晋太郎)に決まったと時事通信が打った時、最後の最後でひっくり返ったんです。政治というのは土壇場で何が起こるかわからない。正式に決定するまで、誰にも言っては駄目なんです”
戦後最大の政治闘争を生きた岸の娘として、そして息子•晋三の司令塔として生きている覚悟を窺わせる言葉だ。
”政治の道の跡継ぎとしての晋三は、主人(晋太郎)が安倍寛(父)と岸信介(妻の父)の信念に生きる芯の強さを見てきた様に、安保の時の岸信介の様子も子供ながらに見ております。
安倍寛の血といい、岸信介の血といい、何かの時には命がけで事に当たるという厳しさは、身近な空気として体得してます。その覚悟ができて、政治の世界に飛び込むのですから、私に異存はございません”
でも、晋三がやってる事は命懸けには程遠く、大金をばら撒いて逃げ捲ってるだけの愚劣な政治家と言えなくもない。アンタのおやじだって、満州とアヘンで巨利を稼いた超A級戦犯じゃないのか?とも言いたくなる。
混ぜるな危険!岸と安倍(追記)
この本は、岸信介の娘で安倍首相の母の岸洋子さんの手記が中核となってますが、本当の事を言える筈もないので、少しフィクションぽく映りました。
今は安倍政権なので、本当の事を書ける筈もないんですが、人間だから奇怪な安倍一族には、温情も湧いてきますね。
洋子さんも”安倍一族の闇と陰謀”の全ては知ってると思います。しかし、ここまで巨大にグロテスクに成り果てた安倍一族の中で、本音を叫ぶ事すらもできなくなりました。
安倍一族の”ゴッドマザー”とも称される彼女もある意味、悲しい運命かもです。
因みに、晋三の祖父で晋太郎の父の安倍寛は、大政党の金権腐敗を糾弾するなど、清廉潔白な人格者として知られ、地元で”大津聖人”と呼ばれ人気が高かった、”反戦”の政治家で苦労人でもある。しかし、晋三には混ざった血が悪過ぎた。
この安倍寛に関しても、後でブログ立てようと思います。
長くなり過ぎたので、前半はここで終了です。以上、”gendai is media”からでした。
次回”その2”(Click)では、安倍一族の苦悩と黒い栄光への道のりに焦点を当てたいと思います。
転んだサンも用意周到ですねえ。
でも血を無理やり混ぜこねた結果がこれですか?
華麗なる一族というよりは、既に絶望の一族ですよ。
挙げ句の果に、安倍晋三という突然変異型総理大臣を生んでくれたんですから。
血が近すぎると、突然変異が起きるのはよく知られてる事で、安倍晋三もその一人ですか。父方の祖父が人格者で反戦派だったんで、非常に惜しい事しましたね。
今、安倍晋太郎の父•安倍寛(阿部寛ではないですよ)の記事を書いてます。これはとても興味深いです。
安倍晋三に関する本は沢山出てると思いますが。どれもイマイチ安倍晋三の本質を付き切れていないと思います。お陰でデマや偽スキャンダルが数多く出回ってる状態です。
でもこういう陳腐なデマが目立つ度に安倍首相の支持率はアップします。正攻法で安倍晋三の本質を探るべきだと私も思います。
この本は、晋三の母洋子さんの回顧録が多く含まれてますが。本音からは程遠いような気もします。それに、岸信介の本音も殆ど伺えません。転んださんが苛つくのもそのせいでしょうが。逆を言えば、それだけ岸一家の血が混じった安倍一族が化けの皮で覆われてるという裏付けでもあると思います。
時効と言ったらそれまでですが、東京裁判(戦争犯罪の裁判)をもう一度やり直すべきですかね。自民党内の最大派閥である安倍派の核が岸信介であるという事実は、日本の政界を歪んだままにしてますもの。
こうなるの典型だね
これこそが混ぜるな危険
いや”混ぜるな岸と安倍”ッテとこ
でも一番美味しい思いをしたのが
晋三の母の岸洋子なんだよ
女はいつの世も強しってことか
世界の中心で叫びたかったですね(^^)
この本は岸信介の娘で安倍首相の母の岸洋子さんの手記が中核となってますが、本当の事を言う筈もないので、少しフィクションぽいです。
今は安倍政権なので、本当の事を書ける筈もないですが、私達素人が安倍一族の本性を暴くべきだと思うんですが。
どうも温情が湧いてきますね。
洋子さんも全ては知ってると思います。しかしここまで巨大になった安倍一族の中で本絵を叫ぶ事もできなくなりました。
ある意味、悲しい運命かもです。