フォロワーの記事に「善人ほど悪い奴はいない」(中島義道 著)の紹介がなされてた。
弱者は自分が弱い所(無教養・無能・無知など)を認めつつ、敢えて開き直り、自分では何もしない(いや出来ない)。そのくせ、全身でその無力さを正当化する。
逆に、強者がその事を指摘すると、弱者は慄き怯え、行き場とやり場を失う。やがて強者への憎悪や怒りは沸点に達し、集団で強者を血祭りに上げる。
つまり、現代社会ではあり得ない様な事が、ニーチェがいた古代ギリシャの時代には、平然と行われてたのだろうか。それとも、ニーチェの本音は違う所にあるのだろうか。
善人も束になれば悪人となる?
勿論、強者を血祭りに上げる弱者とは、我ら大衆の事である。
確かに、暴力性を秘めた善人の偽善・欺瞞・嘘・・・という視点で言えば、善人は悪人となる。
特に偽善で言えば、”誰も傷つけない信念”や”その社会や時代にて支配的な信念”に迎合する事は最も最悪なる偽善となる。だが、”他人からの苦痛に耐え、他人に苦痛を与えても守るべき信念や美学”こそが真の善と説く著書の言葉は崇高でもある。
故に、”善く生きる”とは本当に難しい事なのだろう。
一方で(本当の)ニーチェは、強者との対立を避け、規範から逸脱する勇気もなく、ルサンチマン(弱者は善で強者は悪)という”価値の転倒”を内面に抱き、空想上の復讐に満ちた人生を送ったとされる。
因みに(哲学者としての)ニーチェは、キリスト教の起源を(ユダヤの)支配者ローマ人に対するルサンチマンにあるとし、キリスト教の本質は歪んだ価値評価にあるとした。が故に、逆説的には”超人による強者の思想を開花させた”とも言える。
まるで”この世は幼稚で愚鈍な善人(大衆)で溢れ返っている。特にお前!”と名指しで批判されそうだが、こうした著者の深い洞察力に満ちた痛烈なご指摘は、我ら凡民には耳が痛いが、そこには著者の思いやりや優しさも見え隠れする。
一方で、哲学的には正しい筈の善人の生き方が軋轢を生む現実も隠す所なく紹介され、”炎上”という”善人による魔女狩り”を恐れ、警鐘を鳴らす著者の言葉には、我ら現代人も耳を傾ける必要がある。
つまり、”善も束になれば悪となる”という怖い現実は無視できない。言い換えれば、”炎上”を恐れていては、何も言えないし、善人は悪人のまま死に絶えるしかないのであろう。
例えば、朝のTVワイドショーでは無学のタレントらがコメンテーターとして能弁を垂れる。が、ほぼ全員が(ニーチェが嘆く)愚鈍で無知な善人に過ぎないし、炎上しない為に(いや腫れ物を触る様に)、当り前の事しか言わない。これを”ステルス的言論統制”と呼ぶらしいが、善人もここまで堕ちると批判する気にもなれない。
言い換えれば、一般論しか言わないで、不特定多数の大衆(善人)との対立を避けようとする。強者(権力者)に媚を売り、弱者(大衆)の顔色を伺う。つまり、ニーチャが一番嫌がる”弱者=善人”の本質がそこには存在する。
最後に〜善か?悪か?
「人生を半分降りる」以来の中島氏の著書だが、脳の裏側を突かれたみたいで目を開かされた。”良薬は耳に痛すぎる”とは、まさにこの事であろう。
確かに、人間は社会的動物である。動物であり、かつ社会的であるからこそ1人では生きていけない。故に、ルールを設け、道徳を説き、宗教に権威をもたせてきた。
だが、時代を超えても愛される英雄と言えば聞こえは良いが、強者という生き物は社会的ではなく動物であり、エゴイズムの塊でもある。こうした強者(英雄)の登場に道徳やルーツに従う弱者は、悲しいかな権力に平伏すしかない。
一方で権力は、束になった弱者が悪を行使しない様に、更に強いルールで縛り上げる。そのルールが矛盾していようが、不条理であろうが、集団悪(テロ行為)を防ぐ為には、権力者のエゴイストも正義に思えてしまう。
が、やがてその正義は偽善という悪に飲み込まれ、プーチンやネタニヤフの演説すらも真っ当に思えてくるから不思議である。が、彼ら独裁者は(ニーチェが思い描く)”超人”ではなく、大量殺戮者という盲目の”狂人”に過ぎない。
”善と悪の歪な連鎖”とも言えるが、これも無視できない(矛盾しない)現実でもある。
ここに、ニーチェの本音があり、それは真理であり、そして悪魔的となる。そういう意味で言えば、”真のエゴイズムは純粋無垢な魂に属する”という結論に達する。
故に、善と悪のどちらが本当の悪かと言えば、哲学的で難しい問題になり得るが、数学的に言えばだが”善と悪は同じ直線上に存在し、同義である”とみなせば、善と悪とは互いに危いバランスを取り合って存在し続けるとも言える。
つまり、ニーチェは哲学者の立場から”善人は悪人だ”と説き、1人の人間としては真正直な善人として生きた。だが、心の中では悪や善を超えた”超人”を夢見ていたのである。
哲学者の思想、いや妄想とはそういうものなのだろうか。
久し振りに考えさせられる著に出会った気がした。
多分だが、この人は東大出てなかったら、単なる嫌われ者の変人扱いだったろうね。
結構な苦労人で、が故に性格も人間性も歪んでんだけど、かと言って優しい所もある。
大衆は変人や嫌われ者に見え隠れする優しさや弱さに惹かれる所があるのだろう。
転んだ君もそういう所に惹かれたのかな。
書いてる事はガチの哲学論だろうけど、逆にこんな変人や奇人が10人もいたら、世の中は”怒り”や”嫌い”ばかりになるね。
古代ギリシャの哲学者は数学者も兼ねていたから学も知能も高かったけど、今の哲学者は文系に偏りすぎて、厭な意味で理屈っぽくなる傾向にある。
オレ的に言えば、嫌いなら相手にしなけりゃいいのに、その嫌いな(或いは嫌われる)理由を一々掘り下げる。勿論それが人気の原因でもあるけど
<それが哲学だ>と言われればそれまでだけど周りの全てを<嫌い>だけで分析するのも人間として悲しすぎる。
確かに・・・
「人生を半分降りる」の頃は、まだまともだった様な気もしますが、それ以降はインテリ哲学者にはありがちな典型の嫌悪論に傾斜したみたいで・・・
そんな中、起死回生的に登場したのが、今回記事にした”善人=悪人”説ですが
正直言うと・・読んではいないんですよ(笑)。
昨今の哲学書は苦手で、レビューを参考に推論だけで書いたんですが、”哲学ってこんなもんだろ”ってナメた所もあったし、レヴューを見る限り、賛否両論なのかなって思いました。
言われる通り
哲学者が数学者を兼ねてた時代は、”超人”的な所がありましたから、庶民は哲学者を崇拝し、ある種の哲学信仰が生まれました。
数学が神学を凌駕し、哲学が宗教と同様に腐敗すると、哲学は人類社会の闇の部分に埋もれていくんですかね。
鋭い指摘どうもです。
”和を持って尊しとなる”ですが
ヨーロッパと日本では、善悪に関する価値観も異なるのかもです。
コメントどうもです。