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プロ野球史上最高の投手とは?と言えば、まっ先に誰を思い出すだろうか。
メジャーでの数字で言えば、511勝のMLB記録(316敗も最多)を持つサイ・ヤングか?
いや、”史上最高の左投手”とされたレフティ・グローブか?”人間機関車”と恐れられた歴代2位の417勝を挙げたウォルター・ジョンソンか?
いやいや、”火の玉投手”のボブ・フェラーか?速球王のノーラン・ライアンか?いや精密機械と謳われたグレグ・マダックスか?
確かに、ランディー・ジョンソンやペドロ・マルチネスらの躍動も未だに記憶に新しいし、チャップマン(NYY)の169キロの豪速球も凄かったが、デグレム(NYM)の浮き上がる100マイルも見逃せない。
数字やパフォーマンスだけでは語れないが、もし彼らを大きく上回る傑出した投手がいたとしたら?
170キロではなく180キロの超のつく快速球を投げ、500勝ではなく2000勝を挙げた投手がもしいたとしたら?
そんな異次元の投手がかつて地球上にいたとしたら?
史上最高の投手はオレだ
しかし、”サチェル”・ペイジ(1906−1982、本名リロイ・ロバート・ペイジ)という男の伝説を知ってしまったら、誰が史上最高の投手か?は議論するだけ無駄である事が理解できるであろう。
ニグロリーグ時代に約2500試合に登板し、2000勝以上をあげ、うち完封勝利は350以上。ノーヒットノーラン55試合など。
かつて”火の玉”と恐れられた速球王ボブ・フェラーが、”サチェルの投げるボールがファストボールなら、俺の投げるボールはチェンジアップだよ”と発言したのは有名な話だ。
事実、フェラーの速球を知る全ての関係者が170km/hを超えていたと口を揃えた。また、ペイジとノーラン・ライアン両者の球を受けた捕手は、”179km/h位ではないか”とコメントしている。
因みに、190センチを超える長身から投げ下ろす豪速球に加え、制球力も抜群で、ホームベース上に置いた煙草の箱の上をボールが通過する程に、コントロールにも優れていた。
12人兄弟の7番目に生まれ、非常に貧しい家庭に育ち、少年時代は荷物運びの仕事をしてた為に、”サチェル”(ハンガー)とあだ名された。
生来の万引癖が抜けず、12歳で教護院に入れられ、そこでピッチングを学ぶ。
17歳(1924)の時、黒人セミプロチームに入り、30勝1敗の成績を挙げ、19歳で黒人プロチームに入団。
23歳で初めてMLB選抜相手に投げ、強打のジミー・フォックスを3打席3三振に抑える。
1930年(24歳)には、MLB選抜相手に22奪三振完封勝利を記録。”黒いルース”と称され、黒人最高の打者とされるジョシュ・ギブソンとペイジの2人が揃えば、MLB選抜でも殆ど刃が立たなかったとされる。
しかし、”野球の神様”ベーブ・ルースとの対戦の機会はなく、ペイジは晩年になっても残念がっていたという。
因みに、ベンチからペイジの投球を見たルースの顔が青ざめてたとの証言が複数残っている。これはギブソンの場合も同じで、彼の打撃を見たルースが途端に無口になったという逸話もある。
記録がはっきりしてる1934年(28歳)は、”105試合で104勝を挙げた”とされるが、この年はギブソンがいたピッツバーグに所属していた。それに、MLB選抜に延長13回1−0で勝利し、更にワールドシリーズの優勝カージナルスを相手に投げ、9試合で2勝しか許さなかった。
事実、二人の存在は当時のMLBのスーパースターたちと比較しても、その能力やスキルそれにパフォーマンスの桁違いさは、ファンの目から見ても明らかだった。
特に、二人が活躍した時代のニグロリーグは第二期黄金時代と言われ、特にサチェル・ペイジは性格も奔放で大の人気者でもあり、(メジャーリーガーでも持てない)チャーター機を所有しては巡業に出掛け、1日2、3試合を投げてたという。
故に、内野手間でローテを回し、選手層の薄いニグロリーグの選手たちは、二刀流や三刀流は当り前の様に行われていたのだ。
彼ら二人だけでなく、黒人のスター選手の能力はMLBのスター選手のそれを上回っていたにも拘らず、人種差別の大きな壁に悩まされ、メジャーからお呼びが掛かる事はなかった。
32歳の時、流石の豪腕ペイジも連投疲労により肩を痛めるも、1年ほどで復活。インディアンからもらったヘビの油のお陰とされる。
この1938年からカンザスシティ・モナクスに所属(~1947)し、1942年までの連続優勝の立役者となる。
39歳の時、エキシビジョンでボブ・フェラーと投げ合い、冒頭で述べた”サチェルに比べれば、俺の投げるボールはチェンジアップさ”と言わしめた。
運命の日、メジャー入団
1947年、ブルックリン・ドジャースがジャッキー・ロビンソンと契約し、メジャーリーグの”カラーライン”が破られた時、ペイジは40歳に達していた。
”待っても待っても、そんな日は永久にやって来ないと思っていた。しかしその日は突然訪れた。だが、それは私にではなかった”と語っている。
しかし翌1948年、シーズン途中にクリーブランド・インディアンスに入団。42歳の史上最高齢新人投手として6勝(1敗、防御率2.48)をあげ、リーグ優勝に貢献する。
MLB通算では28勝31敗、防御率3.29だが、1952年には46歳で12勝(10敗)を挙げ、1952年と53年には連続してMLBオールスターにも出場した。因みに、最後のメジャーでの登板は何と59歳であった。
一方で、”メジャーに最も近い”と前々から噂されてたギブソンには、最後まで声が掛かる事はなかった。ロビンソンだけなくペイジにも先を越され、34歳のギブソンは酒浸りになり、”ペイジから180mの大アーチを放ったのは誰だ?”と嘆いたという。
ギブソンは35歳で(過度の飲酒による脳卒中により)急死するが、ロビンソンがMLBデビューする3か月ほど前の事だったのは、運命に皮肉としか言いようがない。
ペイジは1971年に野球殿堂入りを果たすも、大リーグでの経験10年という基準を満たさないが故の”特別枠”であった。しかし、1981年にようやく正規の資格者として”黒人としては”ではなく、”黒人リーグから初めての”野球殿堂入りを果たす。
この1年後の1982年、75歳で死去。
最後に
以上、佐山和夫氏の「史上最高の投手はだれか」や「大リーグを超えた草野球」やウィキを参考にまとめましたが、どんなに書いても書き足りないくらいの悲しくも誇らしい物語でもありますね。
黒人野球に関しては、ペイジやギブソンやロビンソンだけじゃなく、もっといろんな個性溢れる凄い選手が沢山いました。
しかし、彼らの超人的な資質と卓越した能力を持ってしても、人種の壁は壊せませんでした。今の時代に彼らが生まれてたら、大谷の活躍を見る度にそういう思いが強くなる。
本来なら黒人野球の全てを紹介したいんですが、とても書ききれない。
もし興味ある人には、「黒き優しきジャイアンツ」や「黒人野球のヒーローたち」を強くオススメします。
因みに「黒き優しきジャイアンツ」では、”象が跳んだ”でレヴューを書いてますんで、良かったら宜しくです。
但し、この本は中古でも3万円を超える貴重本なので、図書館で借りるかしない限り、読む事は出来ないかもです。
目からウロコの様な情報が満載なので、日本のプロ野球の原点を知りたい方は、ぜひとも読んで頂きたく思います。
今は160キロでも投げれば大騒ぎですが
100年前の昔はこんな投手がいたんですよね。
夢の180キロどころか
現実にあり得た180キロ
ベーブルースが青ざめるのも理解できます。
多分手を抜いても160キロは出せたでしょうから1日に2勝や3勝することも可能だったでしょう。
超人伝説って作られるものじゃなく、存在するものですよね。
言われる通り、現実に起きただろう180キロですよね。
タイムマシンがあったら、飛んでいってこの目で確かめたいほどです。
超人的な黒人野球選手の物語も面白いですが、「さらば優しきジャイアンツ」みたいに、日本のプロ野球に大きく寄与した黒人選手たちの心優しき物語もとても興味び掛かったです。
こういう微笑ましい歴史があったんですね。
日本のプロ野球はMLBオールスターを招待した読売新聞の功績かと思ってましたが
こうした心優しき黒人選手の影響がとても大きかったとは、目に鱗とはこのことです。
”遠慮することのないパワーの展示”
”洗練さの極地”
”唸りを生ずる峻烈なスィング”
日本のメディアもメジャーを凌ぐ彼らのパフォーマンスと礼儀正しさに興奮しっぱなしだったでしょうか。
転んだサンが佐山和夫さんに惚れ込むのも理解できる。
読売新聞が試みた北米遠征は評価しますが、MLBオールスターの招待は単なるイベントであり、今の日米野球と余り変わらないんですよね。
沢村やスタルヒンを輩した北米遠征もアマに近いセミプロとは互角だったらしいですが、マイナーですら敵わんかったらしいです。
心優しき黒人選手たちが手を抜いてくれなかったら、自信喪失に陥り、プロ野球の道は閉ざされてたかもですね。