私は昔の人間ながら、よくモノを捨てるし、よく物を失くす。それも貴重なものを平気で捨てるし、平気で失くす。それでも不思議と後悔した事がない。それかと言ってスッキリした気分になる訳でもない。
モノに執着がないと言えばそれまでだが、私という人種には最初からモノは必要ないのかもしれない。いや、モノにとって私は必要ないのかもしれない。
いま、時分の部屋にあるモノを眺めてる、私を含めて9割は要らないものだ(笑)。そう考えると、はたしてヒトにモノは必要なのだろうか?って事に行き着く。逆を言えば、モノにヒトは必要なのかって事になる。
もっと拡張すれば、自然界に存在するものだけで人は生きる事は出来ないのか?
もし戦争がヒトが故意に作るモノだとしたら?我々サピエンスはモノによって絶滅するのか?
”断捨離は本当に必要か”というブロ友の記事を読んだ。
断捨離とは、”不要な物を断ち捨てる事で物への執着から離れ、自ら作り出した重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れる事が可能である。単なる片付けとは一線を画す”とされる。
とても恥ずかしい話だが、初めて聞く単語だ。それでいて、非常に興味深く響いた。
しかし、これは”供給過多”と言われるデフレ現象に似てやしないか?
”何故アメリカは戦争をしたがるのか”(要クリック)でも書いた様に、最近の戦争の形態は”豊作貧乏”から脱却する為に行われる”リフレ型”戦争が多いとされる。
供給過多を減らす為の”リフレ型”戦争とよく似てる。つまり、作り過ぎたモノと繁殖しすぎたヒトを壊す為の戦争。ヒトもモノも増えすぎると、戦争の大義名分になりうるのだ。
昔はモノがなかったから、戦争の形態の殆どが凶作貧乏から脱却する為に行われた”ディスインフレ型”戦争だった。つまり、ヒトもモノもなくなってしまえば、再び戦争が起きる。
勿論、断捨離の延長上に戦争がある筈もないが、結果的には同じ所に終着するであろうか。
我ら貧乏な大衆は、持ってるモノを減らすという行為にはやはり慣れてはいない。モノがなかった時代に育った私達は、物を大切にする様にしつこく言われて育った。
作り過ぎたモノや生み過ぎたヒトが原因で戦争が起きる今の時代。物も人も不要なものは切り捨てる事で、シンプルで質素な生活体系に戻るのか。はたしてそんな単純な事だろうか?
話は古くなるが、昨年6月末に行われた大阪G20サミットは、何だか中途半端な形で閉幕した。”失敗だ”とする海外メディアも多く、”会議は踊る、されど進まずと酷評された1814年のウィーン会議のようだ”と揶揄する声もあった。
確かに、各国首脳は皆が皆、最初から不貞腐れた様な雰囲気だった。たこ焼きや伝統芸能を見せつけられた時は、吐き気がしただろうね。”やるだけ無駄”と当事者を含め誰もが痛感しただろう、”腐れ”サミットに映った。
結局、G20の主要な議題も増えすぎた”人”と”物”と”自由”が起因する問題の様に思えてならない。いやそのものズバリかもしれない。
しかし、G20大阪は”陳腐なナショナリズム”に起因する思想や考えを断捨離するキッカケと考えれば、悪くはない”老いぼれ族の寄り合い”でもあったか。
先進国とか資本主義とかグローバリズムとかナショナリズムとか、こういう”腐ったモノ”こそが一番の不要な生ゴミでもあろうか。不法難民以上に新型ウィルス以上に厄介なモノでもあろうか。
分解して隔離して、消滅&死滅するものでもないし、燃やす事もできない。勿論、処分して廃棄&整理する事も出来ない。
やはり戦争と夫婦喧嘩と災難は起きるべくして起きるのか?
本来の意味的には、余計なモノを捨てるというより、雑念を取り払うという意味が強いと思います。
数学も余計な公式や定理を知らない方が難題の本質に近道で到達する事もあるらしいです。
昨年でしたか、転象さんに教えてもらって買った宅配ボックスの鍵も引き出しに入れてあったのを捨てられていて、ボックスに宅急便の荷物は入っているのだけれど、取り出せないで困りました。鍵なんて場所をとるわけでもないのに、どうして捨ててしまうんでしょうね。しかし、その代わり、片付けるのは得意です。私が片付けるのが不得手なのと反対に・・・。私は物を捨てられない性分です。物だけなく、気持ちも切り替えができないほうです。
私は、どっちがよくて、どっちが悪いとは簡単に決められないと思います。
そういう意味では、断捨離が必ずしもいいとも思わないし・・・。
これから貴重かもしれません。
モノを大切にする事は無駄買いを防ぐ一番の方策ですか。
喧嘩と断捨離は無関係ですかね。
しかし、「‥入場券・宝くじ券・店での金券・その他」を
使い忘れる事があります。
喧嘩は、人様のブログを読んでから、段々しなくなりました。