先日行われた衆院選の結果だが、自公民の惨敗よりも、数理モデルにより100%近い的中率で予測できる様になった事が私には嬉しかった。つまり、政治家は嘘をつくが数学は嘘をつかない事が実証されたのだから・・
近い将来、議会政治にもAIが駆使されるだろうから、税金の無駄に過ぎなかった無学で無能な汚職・世襲・アイドル議員らに代り、数理モデルで高度にプログラムされた”AI議員”が多くの議席を獲得する事だろう。
例え、AI議員がミスったとしても、修復回路が自動的に作動し、致命的失策には及ばないし、国民とその懐にはずっと優しい筈だ。
仮に、数学が民主政治の全てを牛耳る様な時代になったら、我らの生活はどうなるのだろうか?
AI議員は議会で過半数を獲得し、人類を奴隷化し、終いには排除しようとするかもしれない。逆を言えば、数学を野放しにすると、人類は不要な時代が来るのだろうか。
数学がこの世に存在しなかったら・・
自分で数学のコラムを散々書いておいて、”もしこの世に数学が存在しなかったら?いや、数学なんて存在しない方がずっと優雅に豊かに暮らせるのでは?”と思う時がある。
それになぜ、人は難しい学問を競ってやりたがるのだろうか?特に、数学者と言われる連中はなぜ、好き好んで数学を職業にするのだろうか?それに未解決の難問を解き明かした所で何を得るのだろう。
(大谷の年俸の1/50に過ぎない)僅か2億円の現金か?数学界でのみ知れ渡る名声か?それとも単なる自己満足か・・・
そういう私も一時は数学者を志した事もあったが、今に思うと、数学者に(”ならなくて”ではなく)”なれなくて”良かったと神に感謝する程である。
”証明や理解なんて数学者にやらせとけ、数学なんて仕立て屋にやらせとけ”と、負け惜しみ気味に言い放ったアインシュタインだが、その気持ちは(今になって)よーく理解できる。
事実、絶対数学の権威でもある黒川信重氏は”数学者の中で数学者になった事を後悔してない者は(多分だが)一人もいない”という様な事を語っておられた。
実に説得力のある重たい言葉ではある。
「算数と数学の違い」でも書いたが、”算数”は実用的な計算で正確な答えを導き出す事が目的で、”数学”は日常の様々に存在する問題解決の為に数字や記号を用い、論理的に説明する事が目的となる。言い換えれば、数学は問題解決の方法と能力を養う為に、物事を論理的に解釈する事を可能とする。
論理的に考える事は数学に限った事でもないが、数学は物事を論理的に解決する為に最も最短距離に位置する学問とも言える。
因みに、数学が苦手な人は算数と数学の違いを理解出来ないが故に、”計算=数学”と勘違いし、その殆どが計算とは無縁な三角関数が登場した時点で失速する。
つまり、計算とは日常の行為そのものであり、数学は論理的に物事を解釈し、解決策を導くツールとなる。少なくとも、三角関数を論理と結びつける事が出来なければ、数学の分厚い扉をこじ開ける事は不可能となる。
だが数学が出来なくても、論理的に物事を考える事は出来る。ただ、数学を理解してた方が高度な論理的思考を使える可能性が高いのだ。
しかし、我ら身の回りの物事は全てが論理的に動いてる訳でもなく、むしろ情けとか倫理とか、数学で割り切れない様な、非論理的な要素で動いてるものが多い。
或いは、人類の存在を地球の存続を視点として捉えれば、人類は死滅した方が地球にとっては優しいし、人類以外の動物にとっても同様だろう。そこで人類を数学に置き換えれば、地球にとって”数学は必要ない”とも言える。
一方で、人類存続の視点で言えば、数学は不可欠であり、もし数学が無かったら、現代のコンピューターやスマホは全てが使えない。物理や科学には数学が基盤となるから、化学製品や薬や電気もテレビも冷蔵庫も存在しない。また現代医学は数学に依存するから、医者は病気を直せなくなる。
車や電車や飛行機は存在せず、人はみな徒歩での移動となる。それにガスやIHもないから、料理は直火のみで毎日が野外でBBQ状態だ。更に、大量生産される食品もなくなり、昔ながらの手作り小規模生産に変わる。人工衛星のデータに頼る天気予報は不可能となり、農作物の生産量は急落し食料不足となる。故に、自給自足の狩猟民族みたいな原始人(又は猿人)の暮らしに舞い戻る。
つまり、現代人の様な暮らしは100%不可能となる。
数学は理屈に過ぎない?
数学とは論理と理論の世界でのみ成立する学問であり、論理と理論は実際の自然現象や社会現象が発端となって生まれてきた。例えば、三角関数や対数関数は測量や天体観測から必然的に生まれた。また、”対数”とはその名の通り、”数に対する”概念であり、大きな数の掛け算や割り算を楽にする為に生まれた。
事実、log(xy)=log(x)+log(y)、log(x/y)=log(x)−log(y)という対数関数の基本公式は、大きな”数”に”対”抗する為の有効な手段となる。
今は文系でも数学が必要とされる時代であり、更に、政治学・哲学・歴史学・社会学・心理学・医学など、文系寄りの分野も現代数学を頼りとする。むしろ、数学がないと発展すらしない。
更に、経済学や統計学では数学は道具の様に使われ、物理学では自身の手足や五感と同じ位に数学が必要となる。また、地震もその解析には数学が必要で、”log(E)=4.8+1.5M”の漸化式はマグニチュードMから地震波エネルギーEを推定する時に頻繁に使われる。但し、天気予報に円周率πの計算が深く関係する事を知ってる人はそういない筈だ。
従って、理系の分野でも、物理学・化学・経済学・心理学・医療工学・気象学・地震学などの分野は、数学なしには存在できない。つまり、大衆の便利で快適な生活があるのは、数学のお陰である。
つまり、高校までは受験の1科目にすぎない数学だが、大学レベル以上になると現代人が生き延びる為の不可欠な思考やツールとなる。
一方で、数式が高度になる程に日常生活と数学はかけ離れる。実際、ごく普通に生きていく為には簡単な算数だけで十分である。だが、数学がこの世に存在する理由は”数学は必然”だからだ。言い換えれば、数学は発明でもあり発見でもある。
つまり、数学は人類にとっては理屈抜きに必要な学問であり、数字が存在しなければ、人類社会自体が成り立たないと言える。
事実、戦争だって、その勝ち負けは死者や負傷者という犠牲や損耗の数や比率などで判断される。
勿論、人類が数学の上を飛ぶ事が出来るのなら、数学は必要ないし、数学的思考をオンオフするだけで、より効率的で豊かな暮らしが送れる筈だ。つまり、数学そのものではなく数学的思考が必要なのだろう。
言い換えれば、論理的思考と非論理的思考を自在に切り替える。そうやって、難しいだけの数学に頼る現代のシステムからは脱却した方がお利口な生き方かもしれない。
補足〜役に立たない学科ランキング
小中学校の9年間の義務教育期間の子供たちを”Z世代”と呼ぶそうだ。
そこで、このZ世代の子供達”将来役に立たないと思う教科”について、Simejiがアンケートを取った所、”なる程!?”と思う様な結果となった。
まず1位は音楽で、”好きだけど仕事では使わない”との声が多い。私も音楽は洋曲を聴くのは好きだったが、授業は全く関心がなかった。2位は図面工作で、”単にモノを作るのが苦手”という声には意外だったが、私は子供の頃は工作が大好きだった。創意工夫を最大限に活かせるし、アイデアや想像力を鍛えるには格好の科目であろう。
3位は理科で、これも好きな科目だったが、”日常生活ではまず使わない”というのが主な理由だ。科学に直結する科目だけにこれも少し意外だった。
4位は社会(歴史)で、”変えようがない過去を知った所で何になる”という声には少し驚かされた。これも私が好きな科目で”温故知新”との諺に深く感心した頃でもある。
以下、5位美術、6位保健体育、7位総合教育、8位道徳と続き、9位に英語、10位に国語(古典)となるが、古典はもっと上位でと思うが、英語は少し意外に思えた。
”外国に行く気もないし、スマホの翻訳機能で何とかなる”との声には流石はドライな世代ではある。
以上、”役に立たない学科”ランキングの上位に、工作・理科・歴史・美術と、小学校の頃の私が大好きな科目が独占する結果となった。
勿論、好きな科目が将来の役に立てばこんなに楽な人生はない訳で、この歳になって趣味が実益になる事はあり得ない事を実感してる私にしては、人生を豊かに送ろうと思えば、好きな科目を増やし、生涯続けられる趣味を持つ事はとても大切な事である。
因みに今の私の趣味は、晩酌と読書とドラマ観賞だけである。数学も思考と精神を安定させる為にやってるに過ぎない。故に、少しでも苦痛になれば距離を置く。
仮に、数学が世の中から亡くなっても、我ら大衆の暮らしが不便になり、混乱するだけで、人類以外の生物にとっては、何ら困る事はない。
つまり、地球レベルでは論理や理屈が死滅し、動物天国になるのかもしれない。言い換えれば、難しいだけの厄介な数学は邪魔モノとなる。
”数字は発見で、数学が発明だ”とされるのは、そういう所から来るのだろう。
数学は本当に人類にとって必要なのだろうか?その解答は地球だけが知ってるのかもしれない。
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